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2018年5月24日 (木)

【規格名は】東海第二は不採用の難燃性ケーブル、同時契約の福島6号機は採用【IEEE 383】

1975年3月のブラウンズフェリー1号機火災事故の時点で、難燃性ケーブルの米国規格であるIEEE Std 383-1974が制定されており、米国の電線メーカーが製品化していたことは前のブログ記事で紹介した。これを東海第二の建設時に採用することは出来なかったのだろうか。

今回は東海第二建設時のいきさつを再検証してみた。

結論はシンプルで、「技術的にもコスト的にも工程的にも難燃性ケーブルの採用は可能で、内部告発による社会への警鐘もされていたが、不採用にした」という、どうしようもない失敗であることが分かった。

その時布設したケーブルが経年を迎えているのに、一部しか交換しないと主張しているのが日本原電という企業である。

【同時に計画した福島第一6号機では採用(しかも国産)】

私がこの事に気付いたのは、難燃ケーブルの採用状況を調べるために、ケーブルメーカー各社の社史を確認したためだ。

また、不勉強を痛感して日本の原発技術史を見直していたことも役に立った。言い方を変えると、推進派にせよ反対派にせよ、過去の話に関しては結構雑に書いているからである。特に概説本、啓蒙本は個別のプラントの来歴を調べる際、あまり役に立たない。

その一方、各プラント固有のリスクは、プラントを問わず共通に存在するリスクと共に、ある。

東海第二原発が福島第一と同じ沸騰水型(BWR)であることはよく知られている。だが、東海第二と福島第一の6号機については、それ以上の共通点がある。BWRも開発された年代によって幾つかに分類出来るのだが、この2基はその詳細な形式も同じで、BWR-5というタイプに属している。

BWR-5はロングセラーで、新しいものでは2005年の東北電東通1号機がある。ロングセラーの飛行機や艦船がそうであるように、初期に建設したものと最後に建設されたものでは、マイナーチェンジの範疇に括って良いか疑問に思われるほどの変更があるのが常だ。しかし、東海第二と福島第一6号機を比べると完全な同世代である。

その理由は、東海第二を建設する際、導入コストを安価にするため、日本原電が東電に共同での導入を持ちかけたからである。そのあたりの経緯は東電から日本原電社長に転じた白澤富一郎の証言(例えば『さだめに棹さして : 電力六十年回顧録』)に詳しい。

『原子力委員会月報』だけでは雰囲気は分からないが、設置許可申請も下記のような感じである。

昭和46年12月17日、電源開発調整審議会において東海第二発電所は、東電福島原子力発電所6号機増設とともに建設計画が決定され、これに基き同年12月21日両発電所は、内閣総理大臣あてに設置許可申請書を提出しました。

内閣総理大臣から諮問をうけた原子力委員会は下部機関である安全審査会に審査を委託し、昭和47年1月10日第98回原子炉安全専門審査会で、東海第二発電所を第84部会、福島6号機を第85部会で検討するとともに、両発電所は同型の原子炉であるため、炉関係については合同で審査をすることが決定されました。また両部会は通商産業省原子力発電顧問会と合同で審査を行なうことも決定されました。

(中略)11月7日第107回原子力安全専門審査会において福島6号機、伊方原子力発電所(四国電力)とならんで東海第二発電所の最終報告書がまとめられ「安全は十分確保される」との結論が出されました。

(中略)昭和47年12月23日正式に東海第二発電所の設置許可がおりました。

東海第二発電所設置許可おりる 」『日本原子力発電社報』1973年1月

だが、福島第一6号機は難燃性ケーブルを採用していた。実は、この事自体は311後、最初にケーブル問題を報じた新聞記事(「原発10基超 防火に不備」『毎日新聞』2013年1月1日)を確認しても分かることだった。この記事には「可燃性ケーブルを使った原発一覧表」が載っているが、福島第一6号機は含まれていないのだ(小川仙月氏講演PDFの49枚目にも転載)。

しかし、導入時の事情を知っていなければ、その意味に気付くことは困難だ。また、毎日新聞の問合せと同時期に公表された経済産業省の資料では、区分けの仕方が違っていることも誤読に拍車をかけた(虹屋弦巻さんが収録しているこちらの表。浜岡1,2号機は廃炉で除外されているが、福島第一1-4号機は爆発後も残ったまま。また、1977年の安全設計審査指針から着色している)。

というわけで、今回はそのいきさつを確認していく。

後述するIEEE 383-1974制定の前の、基本設計段階でのことだが、GETSCO極東支配人モーリス・D・ルート、日本GE社支配人コス・スフィカスは座談会で設計体制を次のように述べているのは興味深い(余談だが読者諸氏にとっても、GE関係者が仕事としてコメントしている姿を目にするのは非常に珍しいであろう)。仕様でも両者の差異が生じる余地は確かにあったと分かる。

ルート 今回、東海第二と福島6号の2つ注文をいただいて、まず第一に標準化という点で、エバスコやGEのデザインワークで、たとえばコントロールスケマティック(注:制御の電気回路図。システム図面的色彩が濃い)とか、ワイヤリングデザイン(注:スケマティクより下流工程の、実体的な電気配線図。使用するケーブルは通常この段階までには決まる。)については十分経済性が得られたと思うのです。しかし、ハードウェアについては、多少問題がありました。またこの2基を別々のサイトにおいたということで、必ずしも2基同時発注のメリットを完全に発揮できなかったということもあります。

ハードウェア標準化の問題につきましては、日本の場合アメリカと情況が違って、エバスコとGEが1人ずつのエンジニアを東芝のためにも、日立のためにも割り当てなければならなかったという問題もあります。今後総合的な経済性の追求については、やはり売り手も買い手も使用者も、どうやったら一番アドバンテージが得られるかと、一層検討してみる必要があるんではないかと思います。

(中略)今回のデザインワーク関係につきましては、エバスコ、GEではまず完全な一つのデザインを設計して、もう一つについてはそれをフォローしてつくるという方法をとったので、いわゆるエデュケーションという意味で、メリットがあったのではないかと思っています。ただしこれは金銭的なものでなく時間的なものですが。

(中略)

スフィカス
 別に、原電さんと東電さんが一緒になってやったことで、問題がたくさんあったとは思いません。原電さんはいくつかの点について、東電さんと違った意見をもっておられましたが、それほどの問題ではありませんでした。

一方、原電さん東電さんGEと三者の意見が違ったときは、どうしても三者が合意しなければなりませんでしたが、原電さんがいろいろ有効なサジェスチョンをしてくださって、原電さんと東電さんが最終的に意見が一致するということもありました。そういった面では、原電さんはGEをむしろHELPしてくださったと思っています。

新春座談会 東海第二発電所着工にあたって 」『日本原子力発電社報』1973年1月

福島第一6号機はGEが設計を請け負ったが、日本国内で出来る仕事は東芝が請け負った。よって、東芝グループ系の電線メーカー、昭和電線がケーブル納入の主体となった。社史には次のように書かれている。

一方、1965年(昭和40年)、アメリカのピーチボトム原子力発電所建設中に起こったケーブル火災事例から、アメリカのメーカは難燃性ケーブルの開発及びその評価方法の提示を行うとともにその使用を推進した。このような背景のもとに、東京電力(株)福島第一原子力発電所6号機用ケーブルでは、アメリカのプラントメーカであるGE社から、IEEE383,323規格(いずれも1974年制定)に規定されているような、従来と異なる耐環境性と難燃性をもった信頼性の高いケーブルの開発が要求された。当社は東京芝浦電気(株)の協力により、約40種類の各種原子力用ケーブルを開発し、東京電力(株)の型式試験に合格して49年から53年(注:1974年から78年)の間に約1500kmのケーブルを納入した。

これらのケーブルに対する要求性能としては、ケーブルが燃焼源となり火災の伝播をしないことおよび機器の腐食と人命の危険防止などを考え有毒ガスまたは煙の発生が少ないことなどであった。また、ケーブルの構造上の特徴は、ケーブルを構成する絶縁体(EPゴム、架橋ポリエチレン)およびシース(クロロブレン、ビニル)のみならず、ジュート介在およびゴム引布抑えテープなどを難燃化し、さらにシース用ビニルは燃焼時の腐食性塩化水素ガス発生量を一般用ビニルの約3分の1としたノンコローシブルビニルとしたことなどである。これらのケーブルは、プラントの設計寿命40年間における通常運転時の性能と設計想定事故(冷却材喪失事故LOCA条件)に対する性能および万一の火災時にケーブルが延焼しない難燃性能を有する非常に高度なもので、BWR型、PWR型の両型式の原子力発電所において想定されるいかなる条件下においても、充分に性能を維持することが可能となり、現在の原子力発電所用ケーブルの基礎となっている。

この福島6号機の成果は、その後のBWR型のみならず、PWR型原子力発電所向けのケーブル納入実績となって結実し、さらに、これら原子力プラント用ケーブルの技術は一般のケーブル技術の向上にも役立ち、その応用は多岐にわたっている。たとえば、難燃化技術を応用して、火力発電所や製鉄所などの一般プラント用の低圧から高電圧に至る各種の難燃性ケーブルを開発し、数多くの使用例があるのを考えてみても、その意義は非常に大きい。

「第8章4 原子力・防災用ケーブルの開発」『昭和電線電纜50年史』1986年5月 P202

前回記事で紹介したように、東海第二のケーブル総延長は大体1500㎞と伝えられている。したがって、昭和電線は東海第二と構成の同じプラントに対して1社でほぼ全てのケーブルを納入したことになる。そして、後述のように福島第一6号機にケーブルを納入していたのは昭和電線だけではなかった。

なお、東京電力は福島第一6号機を建設した際、BWR-5を自社の標準化プラントにすると決めていた(『電気新聞』1979年10月25日1面)。実際、この後BWR-5は柏崎刈羽原発5号機まで10基に渡って建設され続けた。

【IEEE Std 383-1974制定と日本の規制への取り込み】

今更だが、原子力の世界でいう「難燃性ケーブル」とは何だろうか。

ネットで「難燃性ケーブル」を検索すると様々な製品のカタログがヒットするが、実際は鉄道用とか、消防法に基づく一般防災用(「耐火ケーブル」と言ってるのは大抵これだ)など、業界ごとに法規制があり、売られているケーブルも用途が決まっている。

原子力発電所で使用する難燃性ケーブルの定義は『発電用原子力設備に関する技術基準を定める省令の解釈について』という経済産業省の文書があり、311までは既設プラントは「延焼防止剤を塗布したケーブルがIEEE 383 (国内ではIEEE 383の国内版である電気学会技術報告(II部)第139号の垂直トレイ試験に合格していること)と書かれていた。

IEEE Std 383は歴史的には1974年版が有名である。内容を簡単に説明すると、試験対象のケーブルを何条か垂直に立てたトレイに布設した状態で下の方をバーナーであぶり、上の方に燃え広がっていく様子を一定の時間観察する。基本的にはトレイのケーブルが全焼しないで火が消えていれば難燃性と認められる。なお、現在は2015年版が発行されている。

この規格はその他にもLOCA条件という基準があり、炉心溶融時の原発内部を模擬して高温の蒸気に一定の時間晒しても通電可能な性能を維持していることが要求される(この条件は、今回の記事では余り関わらない)。

以下、「原子力発電所用ケーブル開発の現状」(『日本原子力学会誌』1978年1月)も参考にしつつ、IEEE Std 383-1974制定から80年代頃までに日本の規制へ取り込みが完了するまでの時系列を示す。

  • 1974年4月:IEEE 323および383-1974が制定される
  • 1975年3月:ブラウンズフェリー1号機火災事故
  • 1975年12月:「発電所用原子炉施設に関する技術基準を定める省令」を改正し、原  子炉施設内でのケーブルの延焼防止のため不燃または耐熱材料の使用を定める。
  • 1977年:安全設計審査指針の指針6に明記
  • 1978年11月:東海第二発電所運開
  • 1979年10月:福島第一6号機運開
  • 1980年:原子力安全委員会「発電用軽水型原子炉施設の火災防護に関する審査指針」を決定
  • 1986年:日本電気協会JEAG4607「火災防護指針」策定

一つ補足すると、上記原子力学会論文では、東京電力は福島第一3,4,5号機にてケーブル類の技術仕様書はIEEE Std 383-1974に準拠と記されているが、難燃性ケーブルを大量に用いているという意味ではないだろう。これらのプラントは『昭和電線電纜50年史』他の記述によれば、非難燃ケーブルを布設して完成している。実際には東海第二と同じく、1977年秋の5号機を皮切りに、延焼防止剤の塗布と一部ケーブルの難燃性への更新が実施された。

なお、延焼防止剤は1972年頃から一般に普及が始まったとされている(「有・無機の延焼防止塗料 住友電工」『電気新聞』1975年6月4日5面 に経緯記載)。

海外で最初に運転を開始したBWR-5は1984年の米ラサール原発1号機である。新設プラントへの難燃ケーブル適用はアメリカでも当たり前となっていた時期だ。

つまり、東海第二はBWR-5の中で唯一非難燃性ケーブルが大量に布設されたプラントと考えられる。

【元々、東海第二と福島第一の建設スケジュールは同時期だった】

上記のような事実に対して、少し事情に詳しい読者は次のような疑問を抱くと思う。

東海第二の運転開始は1978年11月に対して、福島第一6号機の運転開始は1979年10月である。従って1年後に建設された福島第一6号機が難燃性ケーブルを採用出来、東海第二が採用出来なかったのは、寸手の差ではあっても、自然なのではないか。

私もそうだった。だから、この記事は最初、「何故火災問題の深刻さを受け止めず、東電とおなじ1979年まで延期しなかったのか」と問題提起するつもりだった(後でこの問題も扱うが)。

しかし、原発のような土木工事が常に予定通りに進行するものだろうか。

そういった観点から、当初の工程を見直すと、非常に興味深い事実が明らかになる。

まず、計画段階では東海第二と福島第一6号機は同時期の着工、運転開始を想定していた。

具体的に言うと、着工の前までの工程は完全に同一だった。原発は着工の前に基本設計を国(原子力委員会)に提出して設置許可を得なければならなかった。この設置許可は1971年12月に揃って提出された。その後、国側も設計に共通点が多いことから審査を同時に進め、1972年12月に揃って設置許可を答申した。

日本原電が設置許可を得た1972年12月に作成した社内文書『東海第二発電所設備概要』「1.序」によると、この時点で着工は1972年、運転開始は1976年末を予定していた。

一方、福島第一6号機の場合、運転開始は1976年秋ごろを予定しており、東海第二よりも早期の運転開始を計画していた(「東電、GEと調印 福島原発主要機器の建設で」『日刊工業新聞』1972年12月16日11面)。

実際は設計遅延からどちらも着工が1973年春に遅れたが、その差は東海第二が4月、福島第一6号機が5月と僅か1ヶ月だったことが、両社のウェブサイトにある概要の情報からも分かる。

更に、初期には東海第二の工程の方が後になるように計画されていたとの証言もある。

東電は1990年代に部長~取締役級でリタイアした幹部達の回顧談をまとめた『東電自分史』というシリーズを刊行している(当時『電気情報』誌でPRするなど力を入れていたのだが、311後もライターや研究者からは、内容が些末だと思われたのか知らないがずっと無視され続けた)。

6号タービンはすでにSITEに納入されて長期保管の状態にありましたが、その後GEで設計変更により、最終段翼(L-0)最終段1段前の翼(L-1)を植え替える事になり新製品を送ってきまして、東芝の工場で植え替え工事を実施することになりました。

東海2号のタービンも条件は同じでしたが、東海2号の建設工程は最初F-6より半年遅れであったため、GEの工場ですでに植え替えが終わった後日本に送られてきていましたので、この件は解決済みでした。

中村良市「原子力発電開発の道程(2)」『東電自分史第V集』P65

なお契約について補足しておくと、電力各社とプラントメーカーが結んだ契約は、設計変更・追加(即ち仕様の変更・追加でもある)、見積価格条件などの細部を変更するため、数度に渡り変更されている。その中には東電が先行して変更契約した内容を、原電が参照して後追いの形で変更していたパターンもある(「第2章第3節 工事契約」『東海発電所の建設』日本原子力発電 1984年3月)。

【東電は6号機着工後に開発された難燃ケーブルを採用した】

このようにして両プラントは工事に入ったが、興味深いのは、IEEE 383-1974が発行されて間もない時期に、東電が福島第一6号機に採用を決め、昭和電線もその意向を受けてケーブル開発を進めていた事実が同社の技報で報告されていることだ(「原子力プラント用難燃ケーブルの開発」『昭和電線電纜レビュー』1974年12月 No3 P51)。

一般に、この時代の設置許可申請ではケーブルの仕様について細かく記載はしていない。設置許可申請は基本設計に相当し、詳細設計の作業は工事が開始されてからも続く。よって、ケーブル仕様は詳細設計段階で規定する内容だったのだろう。だから1974年にIEEE規格が発行された時点を以って、東電は難燃ケーブルの採用を決めることが出来たのだ。

一般に原子力機器というと、有名な平井憲夫氏の講演禄にあるような、枯れた技術ばかり採用し、新技術が入らないという批判が存在する。推進側も「実績と信頼性」をPRしたい時には枯れていることを売りにする。だが、福島第一6号機のケーブルについてはそうしたイメージに反していた。昭和電線が自主開発出来た理由は、74年中に規格が要求する試験設備(いわゆる垂直トレイ燃焼試験の設備)を工場に設けていたことも大きいだろう。

なお、日本の電線メーカーは難燃ケーブルの製品化で遅れていたことを前回記事で説明したが、ケーブルメーカー各社の社史には、米英の電線メーカーから技術を吸収する段階に過ぎなかったことが詳しく書かれている。

東電の方も難燃化には比較的積極性を見せ、1975年に社内基準を定めている。国が火災に関して最初の基準を設けるのは1975年12月のことである(「電線路の難燃防火対策と動向」『電気学会研究会資料』_電線・ケーブル研究会 1991年3月P6)。後年の津波問題で見せた問題先送りの姿勢とはかなり違った印象を受ける。

コラム
福島第一6号機がケーブルの変更を柔軟に対応出来た理由はその外形的性質にもあると考える。

  • 地上建築物に使用するので、長さ当たりの質量が変わっても、航空機などに比べるとデリケートな管理が不要である
  • 難燃化とは材質を難燃性に変える事を意味しており、特に布設されるケーブルの主力である制御・計装ケーブルにとっては電流容量が多少変化したところで、元々mAオーダーの電流しか流しておらず、ケーブルの仕様の100分の1以下であることも珍しくはないため、設計条件が極端に厳しいということが無い
  • 仕上外径(被覆を含めた見かけの太さ)も殆ど変らない

なお、東海第二の日本側サブコントラクターだった日立も、日立電線が1974年中に試験設備を設け、難燃ケーブルの製品開発に着手している(『日高工場史』 日立電線 1979年)。

だが、発注者の日本原電にはこのような動きの形跡が全く見られない。

【6号機の難燃ケーブルを採用後、両プラントの建設工程が引き伸ばされた】

更に不思議なのは、1975年初頭に決定した建設工程の大幅な引き伸ばしである。両プラント共、この時の運転開始延期が最も大きく響いている。

工程延期の理由は主としてオイルショック以降の総需要抑制策による急激な景況の悪化、電力需要の伸びの鈍化にあったが、東電・原電共に詳細設計の修正個所を大量に抱え、工事も当初の予定に比べて大きく後れを出し、輸入機器などの納入も遅延していた。

かなり端折った形になるが、その様子を引用してみよう。

東海第二発電所建設工事における前半のヤマ場は、75年2月、原電日立のトップ会談による工程更改に対する合意であったと考えている。オイルショック、EBASCO設計の大幅遅延等目標工程の遂行が不可能視され始めた74年春から約1年間、工程問題は揺れ続けた。

(中略)

我々がEBASCOの配管計画および応力解析の遅延を知らされたのは、73年9月28日のEBASCOエンジニアリング工程会議の席上であった。(中略)EBASCOオリジナルスケジュールに対し5.5~9.5ヶ月、原電の要求に対しても3.5~7.5ヶ月遅れるという状態で(中略)原電側もことの重大性を認め、直ちに、EBASCOに工程改善の要求を出し、10月5日その結果の説明があった。すなわちEBASCOに対しては、次のような要請を行った。
(1)人を米国内で集めて増強すること
(2)必要なら日本から応援を出す
(3)残業をすること
これに対して(1)はすでに遅すぎるとして(2)の必要はないが、(3)に対しては直ちに実行すると言ってきた。また、原電最高幹部からGEの最高幹部に働きかけるとともに、福島6号より実質的に東海第二を先行させるよう要請し、さらに原電から人を出し常駐させて督促する等の具体策を実行することにした。

(中略)

(74年)12月に入り(中略)東電の福島4号の運開14ヶ月繰り延べの正式申し入れがあった。

(中略)75年2月19日、原電吉岡常務(当時)と日立綿森常務(当時)のトップ会談が行われることになり、この機会を逃しては当分工程変更の突破口はないと考え(中略)打ち合わせにのぞんだ。以下、2月19日の会談内容を要約すれば資料のとおりである

資料

吉岡常務より
NT-2の運開は77年5月15日を目標で努力してきたが(注:この時点で当初計画の76年末より半年遅延している)困難となった。(中略)原電としては納期を遅らせないことが絶対条件であり社運を賭している。

(中略)
日立側(ワ)より
日立としてギリギリは78.6.1運開の線である。しかしこれではあまりにも遅れすぎて原電の意志に沿わないと思われるので、さらに努力してみたい。一応の目標として77年末運開とし、これに向かっていかにしたら達成できるかよく検討してみたい。

「第3章 工程の更改」『東海第二発電所建設記録 第3編 建設工事総論』1978年11月

結局、日立の要求は受け入れられ、この時点で77年末運開が目標となった。しかし実際にはさらに一年ほど遅れることとなった。

東海第二の建設記録から分かることは、73年秋には東海第二を優先することがGEに要請されたこと、ケーブルの発注遅延は問題ではなかったことである。なお、GEからの回答はこの部分の記述に無い。中村良市氏が書いていた半年遅れからの挽回となると、随分な急変振りだ。

東電についても再び中村良市氏を引用しよう。

②工期の延長
需給の落ち込みにより、電源建設工事は軒並み工期を繰り延べる事になりました。忘れもしませんが正月15日(昭和50年1月15日)突然電源計画課長から呼び出しがあり5、4および6号を1年ないし1.5年工期を延長してもらいたいという事を通告され、その理由をるる説明されました。工程表を明日までに提出せよということになりその晩は徹夜で工程表を作る羽目になりました。その時決めた運開日がその後実際に運開した日であります。

(中略)6号機はPCVの据付が完了した段階ですが、大部分の機器は現場に到着しており、また、タービンなどGEよりの輸入機器も多く1年以上どうやって完璧な状態にして保管するか大問題になりました。

6号機建屋の近くに大々的な保管倉庫を作りGEの指導のもとに綿密な保管体制にはいりました。

工期延長はいろいろな事態を起こしましたが、一方、この頃から発生したSCCに対する対策、改造を実施することができた事など、良い面も多々ありました。また6号機は設計の遅れを取り戻すことができ、(中略)その後の安定運転に寄与することが出来たとおもっております。

中村良市「原子力発電開発の道程(2)」『東電自分史第V集』P63

東電は原電よりも更に工程を遅らせ、75年1月時点で79年の運開を予定していたことが分かる。

当時新製品だった難燃ケーブルの採用という観点から見ても、この延期は都合が良かった筈である。プラントメーカーはケーブルリストの作成を腰を落ち着けて行うことが出来るようになるし、ケーブルメーカーはその間に量産体制を整えれば良いからだ。

なお、工期は引き延ばされたものの、日立の残した建設記録によれば、GEが東海第二の工事を優先すると決められたのは、この頃であった。だが、ここまで時系列を比較すれば分かるように、福島第一6号機より早期に運転開始を計画していたとしても、難燃ケーブルを購入出来ない当ては無かったとは言えないだろう。

311後に起こされた東海第二訴訟の準備書面(50)「東海第二原発のケーブルの老朽化問題について」では次のような説明をしている。

論文「原子力発電所用のケーブル開発」(「日立評論」1976年3月号)では、「近年、アメリカではプラント火災の経験から、グループとしてのケーブルの難燃性、特に火災を伝搬させないことについての要求が高まってきた」、「原子力発電所の設計上想定される事故の一つとしての冷却材喪失事故に対しても安全確保上の重要項目にケーブルが取り上げられ、品質認定の基準化の検討が行われてきた」としながらも、「我が国では、この新しい規格に従い、確実に試験を実施した例はまだない」としていた。

私は原告には入っていないが、興味深い点に注目していると思う。日立電線の言う「確実に試験をした例」とは、自社の試験設備ではなく、米国の認定機関での試験を指している。その証拠に、日立評論の記事から半年後、日立電線は原研と共同開発した制御系ケーブルを、米フランクリン研究所に送って火災・LOCA時の試験を依頼し合格した。価格は高価になるが今後は本ケーブルが使用されるものと期待していると当時の記事は結んでいる(「冷却材喪失事故時試験 米民間試験に合格 日立電線 原発用600Vケーブル」『電気新聞』1976年10月13日5面)。

にも拘らず、原電の建設誌にも、日立の建設記録にも難燃性ケーブルに変更したという記録は見つからない。

恐らく6号機の事例からすると、『日立評論』の言い分は別の理由で東海第二に採用できなかった事実を誤魔化すための、方便だったように思われる。昭和電線の難燃性ケーブルは日立電線の後に米国での認定試験を受けたと思われるが、採用には影響しておらず、IEEE規格準拠品と見なされているからだ。

また、『日高工場史』によれば、日立は東海第二と同年に運転を開始した浜岡2号機にも(全面的にではないが)IEEE 383-1974準拠の難燃性ケーブルを供給していた。1975年12月なのでかなり早い。

よって、国内メーカーの開発力不足が不採用の原因ではなかったと結論できるのだ。仮に日立電線に量産技術が不足していたとしても(それを伺わせるある事件が日立の建設記録には記されている)、原電なりGEが鶴の一声で海外を含めた他社製のケーブルを買わせればよかっただけである。

実際、藤倉電線の社史を読むと、1976年に東電の形式認定を受け、福島第一6号機用に難燃ケーブルを納入している(『フジクラ100年の歩み』1987年P145-146)。東芝系だから昭和電線しか使わない、ということではなかったのだ。また、『フジクラ100年の歩み』を読む限り、米国の認定機関の試験にパスするよりも、東電の認定を受けることの方が大事であったようにも読める。

このような工程変更を経て、1975年12月、東海第二はいよいよケーブル布設の準備を完了した。

【日本原電が難燃ケーブルを採用しなかった理由】

次のような理由が候補になる。

  1. メーカーに電線の開発能力が無かった。
  2. 工期が延びる可能性があった。
  3. コストアップを嫌った。
  4. 火災対策にかける信念が東電より不足していた。

以下、検討してみる。

【1】

これまで述べた理由から否定出来る。

ただし、日立電線については、生産技術に難があった可能性は否定出来ない。『東海第二発電所建設記録 第3編』「第13章 電気計装」によると、次のような製造不良があったからである。

1976年11月初旬ごろCCNケープル(架橋ポリエチレン絶縁クロロプレンシース制御ケープル) の一部に、心線の絶縁体同士が粘着を生じているものがあると判明、その後の調査で, 絶縁厚などに規格外れのものが発見きれるなどがあったため最終的には粘着の発生したケープルは全数交換した。

原因はCCNケーブルの製造法にあり、PCV内に使用するケーブルについては,型式テストおよびLOCA時のテストを行うこととなっており その条件は低温加硫(100℃x 8時間加硫)方式でこれらのテストを行い承認されていた。ところが実際の製造では、低温加硫で8時間も行うより中混加硫なら160℃X5分で済むとの判断から無断で中温加硫としてしまい、粘着を生じた。

このような事故を起こしているにも拘らず、翌年『電気工事』1977年8月号では懇意にしている大学教授を日高工場に招聘し、その技術のみ専門誌読者にPRした。日立電線自身が編纂した『日高工場史』にも当事故は記載がない。

【2】

これまでに述べた内容で否定出来る。

なお、東海第二にて、延焼防止剤の塗布は1977年7月~11月に施工されている。ただし、難燃ケーブルを布設していた場合は、塗布が必要な範囲は大幅に減少し、5ヶ月も要さなかったと思われる。つまり、ケーブルリスト(CCL)の更新と手配に時間を要したとしても、延焼防止剤塗布の工程が短縮されることで、ある程度は取り返せた筈だ。

コラム
産業用のケーブルを(海外)調達した経験から述べると、まとめ買いで半年かかることは今でも珍しくない。当時の技術書には布設の3ヶ月前には発注すべきと書かれている(徳光岩夫『原子力発電所の計画設計・建設工事』 電気書院 1979年P520)。

逆に、余り前に発注して保管することも好ましくない。10年以上前の話になるが、ある通信ケーブルを買い置きして3年後に使用していいか聞いたところ、先輩の技術者に「腐って特性が悪くなっているからダメだ」と言われたことがある。そういう意味からすると、建屋がほぼ出来上がってきた段階でケーブルを発注すればいいのだから、それまでに製品化出来れば良いということになる。

【3】

次の記述から否定出来る。

難燃性ケーブルとしては、従来よりシリコンゴムやその他フッ素系樹脂を用いたケーブルなどがあるが、これらは耐熱性であり、かつ難燃性が高い反面、経済的には高価であることから所内ケーブルすべてに対して採用するには適していない。このことからわれわれは絶縁体としてUL規格、CSA規格の難燃性試験に合格する難燃架橋PEおよび難燃EPゴムを用い、シース材料としては燃焼時に発生するHCLを少なくし、かつ難燃性を高めたノンコローシブPVCを使用したケーブルを開発し、各種難燃性試験を行ない良い結果を得た。

(中略)この種の電線は経済性の点でも特に不利益がないことから難燃性を要求する一般分野の利用にも最適なものである。

「原子力プラント用難燃ケーブルの開発」『昭和電線電纜レビュー』1974年12月 No3 P62

昭和電線は1974年時点で新開発した難燃ケーブルはコストで問題が無い旨を述べている。

ただし、一般論として、日本原電がコストを非常に気にしていたことは当時の社報からも読み取れる。そのような思考(気分)から安全性について大した考慮もせずに不採用にした可能性は否定しない。

原子力発電所の建設についてお金の面でもう一つ重要なことは建設期間が長いということです。「金は天下の廻りもの」といわれるとおり、回転してくれないことにはどうにもなりません。この点原子力発電所の建設は資金を寝かせるということでも右総代といえるでしょう。具体的な一例を東海第二についてあげてみましょう。

東海第二の工事費1880億円のうち1460億円はこれ全て借金です。仮に運開が一ヵ月遅れるとしますと、その頃は全ての支払がほぼ終わっていますから、年利8%で計算しても1460億円X8%X1/12で約10億の金利が余計にかかります。しかもここで大切なことはその分に見合う電気料金がその時に入ってこないということです。逆に運開していれば、運開直後ということで利用率50%としても1100MWX97%X24HX30日X50%で月4億KWHの電気を売ることが出来ます。5円/KWHとしても20億円です。金利との出入りだけでも差引一ヵ月30億円もの違いが生じてきます。ですから建設期間を「一日でも短くしてほしい」というのが私達資金調達に携わる者の願望です。

経理部経理課「東海第二発電所工事資金調達にあたって 」『日本原子力発電社報』1975年9月P6

また、日立電線が供給できない場合、他社製ケーブルを調達するといった手段は、供給出来ないメーカーにとっては失注である。その意味では、日立に対する発注維持が難燃化より優先された可能性は否定出来ない。

その仮説を補強する証拠として、オイルショック以降は総需要抑制により、原発メーカーも電線メーカーも青息吐息であったことが挙げられる。前者の事情は「苦難の原発メーカー 運開延期で操業悪化」(『電気新聞』1975年5月23日4面)、後者の事情は「切実さ増す電線業界 不況脱出、秋か来春」(『電気新聞』1975年6月23日3面)といった記事や各社の社史で確認出来る。

なお、当ブログ記事「初期BWRターンキー契約の本当の問題点~原電敦賀1号契約を中心に~(2)」で触れた通り、ケーブル難燃化が焦眉となる10年前の1967年に和訳された『米国における電力設備の建設工事』では「他の製造者からの構成部品がターンキー契約によって製造され、購買されたものよりも望ましいことがある。」と予見されている。東海第二はターンキー契約ではないが、以前のプラント建設での契約文の特徴を随所に引き継いでいることは原電自身が認めている。

つまり、企業系列に拘り過ぎることの弊害は、とっくに指摘されていた。

【4】

これについては疑いなく断定できる。本物の熱意があれば、まだ上流工程段階だった1974年中にケーブルの変更を決断すれば良いだけだ。また、その結果として仮に工期が延びてしまうとしても、本物の熱意とは毎月10億円の追い銭よりも、例えば武谷三男が『原子力発電』(岩波新書、1976年2月)で白日の下に晒した『大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算』(国家予算に匹敵するオーダー)を天秤にかけるような態度を指す。

【小括-40年後にふり返って-】

建設から40年近い時が過ぎ、日本原電は東海第二の再稼動に当たって、コストの増加を嫌ってケーブルその他で様々な対策費を削っている。その度合いは外部電源などにも見られるように、同業他社に比べても激しい内容である。原発を維持したいと考える人達も、「延焼防止剤や防火シートがあるから大丈夫」などと奇妙な屁理屈(それで大丈夫なら難燃性ケーブルの開発自体がそもそも不要になる)を振り回したりしないで、原電が40年前と同じ愚行を繰り返そうとしている事実を直視してはどうだろうか。

【一般社会からの批判も無視】

なお、日本原電は1976年頃、国内のインシデントと一般社会からの警告も無視している。

今では原発批判の古典となった『原子力戦争』とこれまでの出来事を比べることでそれは見えてくる。

「『展望』連載のドキュメント・ノベル、面白く拝見いたしました。ところで、(注:1976年)四月上旬の夕刻、東京電力福島第一原子力発電所二号炉で起きた火災事故のことをご存知でしょうか。正確に申し上げますと、初旬とは、二日、午後七時半頃。場所は、二号炉建屋内の(中略)メタクラと呼んでいる電気室。メタクラには何本もの太い電気ケーブルがあるのですが、燃えたのは直径10センチのケーブル三本で、中に約一五百本の導線が走っているのです。この火災は五十本の消火器で消しとめられ、その後、三交替による二十四時間突貫作業での修理がおこなわれ、終了するまでに四日間かかっています。もちろん会社は火災事故のことは秘密裏に処理し、消防署への連絡も禁じました。

この処理の方法は、”公開”の原則に反するのはもちろん、日本の原子力産業の発展のためにもはなはだ感心できません。何でも秘密にしてしまう姿勢が、国民の疑惑をなおのことエスカレートさせ、原発開発をいっそう遅滞させる原因になるに違いないからです。それ以上に、私がこの事故を看過できないのは、去年、一九七五年三月二十二日に、世界最大の規模を誇るアメリカのブラウンズ・フェリーの原子力発電所で、やはりケーブル火災が起こり、(中略)防火対策がまるでなされていないことを露呈したものでした。」

「美浜一号炉燃料棒事故の疑惑 田原総一朗の報告」『原子力戦争』ちくま文庫版 P310

このくだりは小説仕立てではなく、完全なドキュメントとして書かれている。田原氏に告発の手紙が届いたのは4月21日だったが、5月12日には毎日新聞その他で「ボヤだった」として(渋々)公表されている。

『原子力戦争』を読んだことがある人は分かると思うが、原発批判の他に、味方陣営同士・告発者とジャーナリズム間での疑心暗鬼が随所に描かれている。田原氏もこの事故よりも題名の通り、美浜の事故の方に関心を向けてしまい、その評価は軽いものだった。

40年経って東海第二に関する記録と時系列を合わせることで、この告発の価値が浮かび上がる。『原子力戦争』は1976年6月に刊行されたが、例え東電が同業他社に情報隠しをしていたとしても、この事故が世間一般レベルでも問題視されたことを原電も日立もGEの日本支社も皆、知り得たということだ。何故なら反対運動の動向を監視する目的もあり、こういった原発批判本は会社として(総務・企画部が)必ず購入するものだからである。新聞報道のスクラップも同様だ(普通はファイルするし、私は、東電がスクラップしたファイルの現物を目にしたこともある)。個人的に関心を持って購入した社員達もいるだろう。

にもかかわらず、原電は東電に追従すらせず、東海第二のケーブル仕様を変更しなかった。理由は『東海第二発電所建設記録』「第4編第13章電気計装」に掲載の工程と比較すればはっきりしている。1975年12月からの電気室・6.9kV受電関係を皮切りに既に布設工事に入っていたからである。特に1976年8月以降、1年余りの間、全系統で布設の華僑を迎えていた。今更世論を気にして線種を変更・再手配する余裕は無かった、といったところだろう。

このチャンスをフイにしたことが、告発者の警告通り、その後の原電の隠蔽体質・ケーブル問題に大きく影響していることは2018年の今、改めて指摘すべきことだろう。古い資料を活用したければ、このように工夫を加えれば良い。

【採られるべきだった対策とは】

とは言え、当時の電力業界が原電だけを攻めれば済むという訳でもない。

【共同研究する】
電力会社は1970年代より重要な技術課題は会社の枠を超えて関連メーカーにも呼びかけ、『電力共通研究』(略称:共研)として取り組む習慣があった。過去に実施された共研のリストはネットで公開されていないようだが、年に1つか2つしか取り上げない、という類のものではなかったと記憶している。

しかし、現状で1970年代にケーブルの難燃化が共研にリストアップされたという情報は入手していない。あれば、電力の建設記録や電線メーカー各社の社史に記述される筈だが、規格対応は各社ばらばらに動いている。後に電気学会が研究会を作ったが、報告が発表されるようになったのは1970年代末で、そこでの知見が福島第一6号機向けケーブルに間に合ったかすら怪しい。

この様なやり方は資本主義的には正しいのだろうが、重大な事故に直結する安全技術の導入には不適当な手法である。もし共研の対象にしていれば、メーカーは原子力特有の開発コスト増大を避けることが出来、業界全体でも二重三重の開発コスト負担を避けることが出来たと考える。各社の社史を読んでいると分かるのだが、同じ電力でも配電部門などでは共同研究を行ってから製品化する方法は一定の定着をみており、国鉄や電電公社で新規技術を導入する場合も、似たような事情を抱えていたことが読み取れる。

『財界地獄耳』(東京スポーツ新聞社 1981年3月)では日立製作所の苦境について、『週刊東洋経済』1980年新春特大号を参考にしながら解説している。それによると、日立・東芝共原子力部門の収益は長らく赤字で、1980年頃に漸く期間損益で黒字に転換したのだという(勿論、本書が出る前からメーカーの損益に関する情報は業界紙でも断片的には示されていた)。私は原子力部門ではないとは言え、メーカー側技術者であることを断った上で書くが、収益が長らく赤字だった理由の一つは、電力が負担すべき開発コストから逃げていたのではないかという疑問も沸く。

【国策なら、安全投資は国で助成する】
また、国費による支援の貧弱さについても当時から指摘されていた。一般向けの代表例は田原総一郎『生存への契約』(文藝春秋)で、難燃ケーブルの開発完了後の1981年に出版されている。同書では技術開発に手厚い支援を行った西ドイツの事例を提示していた。恐らく、原産協会の誰かが、「このままでは日本の原子力技術の自立・優位性獲得に支障する」と危機感を持ち、田原に取材協力したのではないだろうか。

一般向けが1981年とするなら、業界向けの刊行物での問題提起は当然それより速かった。特に、傍流系統のメディアを読み返すと意外な程の的確さに驚かされる。

例えば『原子力界』というB5版で毎号20頁程度しか無い刊行物があるが、第8号(1976年8月)には、「日本の工業技術開発力は高くない」というタブーの存在や、原発推進と称して電力会社を煽動しながら寄生し、集金活動を行う児玉誉士夫的な人物が批判的に言及されている。まるでアゴラ系を想起させる内容だが、それが出来なかった事例に東海第二のケーブル問題も連なったということだ。

【規制は、経過措置を安易に認めないようにする】
規制の姿勢については確言出来る材料は持っていない。前回のブラウンズフェリーの記事で述べた通り、1970年代はアメリカでも難燃ケーブル採用を規制化した時点で建設中のプラントは、その対象外とされていた。その点では「アメリカの規制の方が優れていた」とは言えなさそうである。ただし、BWR-5のラサール1号機が1984年の運開である事実と照らすと、経過措置の運用は厳しかった可能性もある。日米ともに言えるのは、最初が肝心であり、経過措置を無闇に認めるべきではなかったろうということだ。

【参考】

本文に記載した以外を含め、下記を参考にした。

  • 「原子力プラント用難燃ケーブルの開発」『昭和電線電纜レビュー』1974年12月 No3
  • 「第8章4 原子力・防災用ケーブルの開発」『昭和電線電纜50年史』1986年5月
  • 「第2章」「第5章第1節 絶縁線(その1)」『日高工場史』1979年9月
  • 「ケーブル配線の防火区画貫通部の防火措置工法」『電気と工事』1977年5月
  • 「「電線・ケーブル製造工場」見学記」『電気と工事』1977年8月
  • 「II 3. 原子力分野への展開」『フジクラ100年の歩み』1987年12月
  • 「第2章 新事業部の分離独立」『住友電工百年史』1999年2月
  • 「1.序」『東海第二発電所設備概要』1972年12月
  • 「東海第二発電所設置許可おりる」『日本原子力発電社報』1973年1月
  • 「新春座談会 東海第二発電所着工にあたって」『日本原子力発電社報』1973年1月
  • 「東海第二発電所工事資金調達にあたって」『日本原子力発電社報』1975年9月
  • 「第3章 工程の更改」「第13章 電気計装」『東海第二発電所建設記録 第3編 建設工事総論』1978年11月
  • 「第2章第3節 工事契約」『東海発電所の建設』日本原子力発電 1984年3月
  • 中村良市「原子力発電開発の道程(2)」『東電自分史第V集』1995年11月
  • 「原子力発電所用ケーブル開発の現状」『日本原子力学会誌』1978年1月
  • 「美浜一号炉燃料棒事故の疑惑 田原総一朗の報告」『原子力戦争』ちくま文庫版(原著1976年6月)
  • 「日立製作所」『財界地獄耳』1981年3月
  • 福島第一原子力発電所の沿革(東京電力)
  • 東海第二発電所(日本原子力発電)
  • 燃え上がる可能性のある原発が10数機・・毎日新聞のお年玉 [原子力規制委員会、指針・基準]」『畑のたより、環境・核篇』2013年1月6日
  • 東海第二原発のケーブルの老朽化問題について」『東海第二訴訟準備書面(50)』2017年7月

2018年5月 6日 (日)

その後のブラウンズフェリー原発1号機~再稼働への道程~

東海第二のような非難燃性ケーブルで施工された1970年代の原発の規制を考えるにあたって、ブラウンズフェリー原発1号機の事例は注意を払う価値があるように思われる。

既に様々な資料で紹介されている通り、1975年3月22日、稼働2年目の新鋭機だったブラウンズフェリー1号機で、蝋燭の火を発火源とするケーブル室の火災事故が起き、原子力発電所の防火対策を大幅に見直される契機となった。

だが、その後のブラウンズフェリー1号機の顛末については、日本では断片的なニュースの継ぎ接ぎであり、よく知られていないと言って良い。彼等は何をどこまで教訓化していったのだろうか。

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ブラウンズフェリー1~3号機(TIMES FREE PRESS

実は、1号機は22年の運転休止を経て2007年に再稼働を果たした。2017年、国会でも参考としてその名前が挙がっている。以下、私が収集した資料の中からそれぞれの時代の同機の状況、およびNRCや所有者であるTVA等の動向について、時系列順に書き下してみた。

また、当時の難燃ケーブル製品化状況を踏まえ、東海第二問題を考えるための教訓を抽出したい。

【着工から火災事故修理まで】

TVA(日本で言えば電源開発のような、元は水力中心の国策会社)が本機の炉形選定、見積徴収などの検討を始めたのは1965年のことだ。その後10ヶ月の審査を経た後1967年5月に建設許可発行され、87ヶ月の建設期間を経て1974年に運転開始した(「軽水炉原子力発電所のコスト解析(米国)」『海外電力』1979年3月号P47)。東海第二に比べると4年程古いプラントで、時期的には福島第一2号機とほぼ同じである。そして翌1975年に火災事故を起こして運転を停止した。

1970年代末の電設関係専門誌には、ブラウンズフェリー事故を意識している例が少なからず見られる。

それは、1973年11月の大洋デパート火災などに代表されるように、国内においては高度成長によるビル建築の急速な普及の反面、一般防災対策においても防火対策の不備が問題視され、海外先進国でも似たような事情があったからである。そのため、ケーブルの延焼防止策、電気機器の不燃化を法改正等で規定する流れは、原子力発電所に限ったことではなかったのだ。

この火災の後でNRCは事故の究明と対策に立ち上がった。その結果、改善勧告および火災復旧計画が作られた。改善勧告には火災の直接原因と経過およびその遠因となった工事の不備と設計の欠陥を詳しく調べ、改善対策に参考になる事項を説明している。これらによると両方の文書に延焼防止塗料としてフレイムマスチックを使用することを指定した。これらからわかるとおり海外では自由諸国および共産圏を含めて電線ケーブル延焼防止塗料が広く使われている。

加藤義正「延焼を防ぐ屋内電路のレイアウトと改造」『電気計算』1979年6月P200

※大成建設 建築設計部

このように、事故直後に提示された防火対策はアスベストを含有するフレイムマスチックという延焼防止剤をケーブルトレイに塗布することであった。

NRCは本機事故以降、火災防護の基本的考え方として、火災を発生させないこと、発生した火災を速やかに検知し消火すること、火災による損傷の規模を最小限に抑えることという、深層防護の考え方が取り入れた。各要件はNRCの主管部署の技術見解書(Branch Technical  Position  APCSB9.5-1)として1976年5月1日に発行され、その後に正式な規制(10CFR50.48及び10CFR  Appendix  R)として1981年2月17日に施行された。1号機は下記のように1976年9月24日に系統に復帰(運転再開)した(『平成27年度発電用原子炉等利用環境調査(原子力発電所の継続的な安全性向上のための動向調査)』日本エネルギー経済研究所 2016年3月P27-28)。

当時の原子力技術専門誌が注目したのはRegulatory Guide 1.20,Fire Protection Guidelines for Nuclear Power Plants(June 1977)の発行であった。この中で、既設プラントは延焼防止剤を塗布する旨定められていた。難燃ケーブルの使用するように明記したのは新設プラントに限定された(「原子力発電所におけるケーブルの延焼防止対策」『FAPIG』1979年7月号)。

一方、本機の修理については、IEA(Institute for analysis)がEPRI(米電力中央研究所)の委託により実施した、「原発長寿命化における技術的可能性の調査」に載っている。概要を和訳した『海外電力』記事から引用しよう。

電気ケーブルの劣化はケーブルメーカー、基準制定機関(例えばIEEE,NRC,ANSI)およびEPRIや国立研究所のような研究機関を含む多くの機関にとって、興味のあるテーマである。原子力級のケーブルはほとんどの場合、加速劣化後のLOCA時においても、十分な性能を保てることが試験によって確かめられており、またこの性能が40年の運転期間中にわたり十分維持されるとされている。しかし加速試験の根拠となるアルへニスの理論(引用者注:アレニウス?)は非常に疑問視されており、このことは現在のEPRIの電気ケーブルに関する研究の大きな動機となっている。EPRIの計画では原子炉建屋に置いたケーブルの試験片を、定期的に取り出し人工的に加速劣化させた試験片と比較することにしている。

必ずしも典型的な例とはいえないが、アラバマ州TVAのブラウンズフェリー原子力発電所でおこったケーブルトレイの火災では、大規模なケーブルの取り替えを必要とし、ユニット(注:号機に相当する表現)全体のケーブルの約30%を交換した。このケーブルの取り替えには約18か月の期間と約1億ドルの費用を要した。

原子力発電プラントで使用するケーブルの耐用期間は、加速劣化試験をベースにして約40年である。しかし、これより長い寿命を持つケーブルを開発しようという動きは現在のところほとんどないため、より長い寿命をもつケーブルの商業ベースの開発、試験、および現存するケーブルが40年以上の寿命をもっていることの立証等は、原子力産業界で対応しなければならない状況にある。このため新しいプラントの設計に当たっては、特に温度が高く、高放射線下でもケーブルの交換が簡単にでき、また魔モニターおよび試験のためのケーブルの設置も容易にできるような設備側の配慮がなされるべきである。

「原子力プラントの長寿命化への展望(アメリカ)」『海外電力』1986年5月P33-34

なお、連邦動力委員会(FPC)に提出されたデータによれば1号機の建設費は1976年換算で1065[MWe]X421.63[ドル/kWe]X1000=449,035,950ドル=4.5億ドルである(「軽水炉原子力発電所のコスト解析(米国)」『海外電力』1979年3月号P47)。この計算からは、当時の1億ドルは建設費の5分の1近い相当な額であると見込まれる。もっとも『エネルギーレビュー』1991年7月号P48には1号機は建設費10億ドルとの情報も書かれている(初号機特有の、付帯施設込みの価格だろうか)。

ただし、上記の記事だけでは具体的な延長は分からない。難燃か非難燃かも不明だ。ただし、火災が起きた事情や焼損区域は配線工事のやり直しという点で新設みたいなものであるから、難燃ケーブルが使われたのではないかと推測する。

米国メーカーは事故前に難燃ケーブルを製品化か】

なお、1970年代中盤時点で難燃ケーブルは製品化されていた。

その理由は、1975年の本機事故以前より、小規模なケーブル火災は米国の原発でもたびたび発生していたから。後述の『昭和電線電纜レビュー』記事によると、特に1965年のビーチボトム原発での火災が開発促進の契機になり、原子力発電所用ケーブルの規格としてIEEE Std 383-1974の制定がなされた。それに合格することで難燃性を保証することが可能になった。なお、規格上の寿命は40年と、一般的な原子力プラント寿命に整合している。勿論、こうした規格は重複する内容で別の団体が制定するのが日常茶判事で、当時もANSIやJISなどで類似の動きはあった。また、それぞれの規格改訂もあるので、今の目で見て難燃性と言えるかは保証の限りではないが、何の考慮もしていないケーブルに比べれば大違いであろうことは、誰でも分かる。

原子力用難燃ケーブルを、最初に製品化したのは米国メーカーであった。初期の報道で確認したのは「原発用ケーブルを試作 日立電線原研高崎 今後、対米輸出に期待」(『電気新聞』1975年2月5日5面)。アナコンダ(Anaconda Wire and Cable Company)、オコナルト(Okonite Company)、セロ、レイケム等は日本メーカーに先立ってIEEE Std 383-1974に合格していると考えられていたという。セロは確認できなかったが、残り3社は(当然かもしれないが)米国メーカーであった。各社は電気協会に電線カタログを送ったのだろう。

日本では米国に続く形で昭和電線、古河電工、続いて日立電線などが実用化し1970年代後半積極的に論文を投稿していた。技報で最初期のものは「原子力プラント用難燃ケ-ブルの開発」(『昭和電線電纜レビュ-』1974年12月)。他に「米国型原子力発電所(BWR,PWR)用ケーブルの燃焼性」『FAPIG』1976年8月号では同規格での燃焼試験をパスした製品のラインナップを目的としている。「難燃ケーブル「ダンフレーム」」『古河電工時報』1977年1月も同趣旨の記事である。両誌でのケーブル火災対策に関する技術紹介はこの後数年間高頻度で続いている。

住友や藤倉は殆ど調べ切れていないが多少の時期の違いを除けば大同小異であろう。

ここでは本機の来歴に係わる所を述べるため、日本メーカーのケーブル難燃化対応が遅れた経緯などは別に記事を設けて述べたい。

【ケーブル交換範囲が3割に留まった背景】

上述のように、最初の再稼働に当たって、本機のケーブル交換範囲は3割に限定された。直接的な要因を書いた文献は未発見だが、背景要因としてはTVA、NRCの双方に理由があったと思われる。

原子力発電所の設計と建設は、以前に比較して大幅に複雑化している。すなわち、設計に必要な種々の解析が複雑化し、政府等へ提出する資料等も大幅に増えると共に、解析等の精度の向上が要求され、更にもっとも厄介な問題として規則等の頻繁な変更等がある。そのため、原子力発電所の設計に要するマンパワーは増える一方で、石炭炊き火力発電所と比較しても相当多くのマンパワーが必要になっている。

すなわち、1973/1974年(運開時点)で、原子力は石炭火力の倍のマンパワーが設計に必要であったが、これがセコイヤ(注:1981年)、ベルフォンテと進むにつれ、さらに増えている。

(中略)ここで当然「このようなコスト高を導くような、規則等の増加は、コスト的に正当化されるのだろうか」という単純な質問にぶつかる。例えばセコイヤ原子力発電所をとってみても、その設計と建設に必要なマンパワーの予測は、予測を行なう毎に増加しており、特にTMI事故後の増加は異常とさえ言えよう。

「TVA原子力発電所-建設の現状と提言-」『アトム』1982年4月P47

他にも資本費のかかるプラントを建設しているということは、一般論として財務体質の悪化は避けられない。こういう状況では現状復旧的な計画とせざるを得なかったと思う。

もう一つの理由は、NRCが発足から10年程の間、バックフィット規制の厳格な運用を怠っていたからである。

最近、90年代までのNRCの実情を記したレポートをいくつか入手した。作成者が明記されていないが、東電や電事連はワシントンに事務所を持っていることが知られている。恐らくそのスタッフが現地情報を要約したかレポートを翻訳した物であろう。

1970年代にNRCは10CFR50.109「バックフィッティング」を承認した。この趣旨は原子力発電プラントの新しい要件を国民の安全を十分に高めたもの(リスク重点規制)に制限することだった。「バックフィット」とは電力会社により要件の増加をもたらすような既存規制を新しくまたは修正した規制、あるいはその新解釈をさす。

NRCは何年もかけ、リスクの重点の姿勢にバックフィッティングを重ね補う方針や手順をいろいろと制定してきた。しかし1985年のNRC調査で、実際にはNRCはバックフィット規則を基本的に無視してきたことが結論づけられた。バックフィット規則はその後さらに明確にされるため改訂された。

「合衆国原子力発電所におけるリスク・ベース規制」1995年4月 P6

その後TMI事故が1979年に発生し、その際にも被水や熱影響等で機能しなかったケーブルがあったことが問題視されたが、本機は停止されなかった。この時期は、非難燃ケーブルを多用した防火対策の不十分な原発でも運転を許可していた。日本の規制当局と同じく、鈍かったのである。

【運転休止】

しかし、1985年3月に本機は3号機と共に運転休止に追い込まれた。後年、運転再開を報じた原産新聞の記事によると、1984~85年にかけて、格納容器漏洩率試験の不合格、原子炉水位計装に関する問題など、安全上の問題が次々に指摘されたことが決め手であったという。2号機は先年の8月に停止していたから、以降本所の全号機は数年に渡り稼働しなかった。

【閑話休題-NRCと産業界の対立-】

経産省が実施している動向調査などを読んでいても、NRCと産業界の安全とコストを巡っての駆け引きに関する記述は結構書かれているものである。

先の『アトム』記事でTVAは航空産業に品質管理手法を学ぶと主張していたが1988年にフォード・米国日産出身のラニヨン総裁が就任すると、2000年代の電力需要の伸びを期待し、原子力推進の姿勢を前面に出し、NRC対応の許認可対応の他、PAも重点施策となった(「米TVAラニヨン総裁は強調する」『エネルギーレビュー』1991年6月)。

この間、本所は6年かけて13億ドルを投じて改修を続けた。2号機は1991年に運転再開を認められたが、反対派からはNRCは火災防止基準を免除するための甘い解釈をしたなどと批判されていた。なおこの時点で3号機は1995年の再開予定であり、実際とさほどの違いは無かったが、1号機は1999年と実際に比較しかなり楽観的な工程が建てられていることも特徴である(「ブラウンズフェリー原発の操業再開へ」『エネルギーレビュー』1991年7月)。

米国の原子力界が最も落ち込んでいたこの時期、TVAは同国唯一の原発推進事業者として(助成こそ受けていないものの)国策の一端を担うことを自負していた。TVAは本機に限らずセコイヤやワッツバーでも長期の運転停止・建設中止からの再開に漕ぎ着けることになるが、このタイムスケールの感覚は、日本のダム業界関係者にも通じる執拗さを見て取ることが出来る。

運転休止から10年後の話だが、次の実例も入手したので紹介しよう。

『停止時及び低出力運転リスク 米国産業並びに規制サイドの見解』(1995年4月)には停止中の安全余裕を増加させるためNRCが規則化を図った際、米原子力産業界が反対したことが記されている。ここで言う安全余裕とは、停止している際でも2台ある非常用発電機を同時に分解点検してはいけませんよ、1台は生かしておくようにとか、溶接作業を伴なう場合は定められた養生や仮囲いをせよといったものをイメージして貰えればよい。中には恒久的な設備を求められることもあるが、この場合は点検の段取りの変更などで済む物ばかりで、NRCも追加のコストは少ないかゼロと主張していたが、産業界は古いデータに基づく規則化であり、定検期間が伸びるなどコストがかかると反対した。

提案規則の番号まで載っていたが、NRCのHPで10CFRをチェック(※)すると当該番号には全く別の規定が書かれていた。バックフィットの件とは異なり、結局NRCが押し切られたようだ。

※NRC Library > Document Collections > NRC Regulations (10 CFR) > Part 50—Domestic Licensing of Production and Utilization Facilities

表面的な米原子力業界擁護を国内に持ち込む論調には注意すべきだろう。特にNRCが産業界に押し切られているケースについてはもっと掘り起こしが求められる。

【大規模改修と再稼働】

転機は拡大基調を続けた電力需要と、原子力ルネッサンスの到来であった。TVAは1号機の運転再開スケジュールおよびコスト評価を実施。2002年5月、1号機の運転再開を決定し、18億ドルを投じて、同機の大規模な改修工事に着手した。当時のレートを単純に1ドル100円とすれば、1800億円の巨費を投じたわけだ。原産新聞も「規模としては新規建設にも匹敵するもの」と伝えており、エンジニアリングおよび技術サービスをベクテル・パワー社が、改修作業をストーン&ウェブスター社等が担当した。

2006年5月には1号機の2033年8月までの運転期間延長(20年延長)が、2007年3月には115万5,000kWへの出力増強(5万7,000kW増)が、NRCより認可された。出力増強はこればかりではなく、2004年6月、1~3号機の128万kWへの出力増強(各12万5,000kW増)を申請した。

そして2007年5月に再稼動したのである。

原産新聞だけでは情報が少なすぎるので更に調べた。ケーブル関係は機械学会の報告によれば次のようになっている。

内容は難燃性ケーブルの採用、ケーブル貫通部への防火シールの施工の他、延焼防止塗料の塗布も採用されている。安全に関係するところは、50%以上、EQ(Environmental Qualification,耐環境性能検証。NRCによる解説リンク)は全て、Paper Work(品質管理文書)が無いものは全て交換し、ケーブルの分離(トレイン毎)も行っている。

機械学会報告では交換したケーブルの延長は100万フィートとなっている。これは海外の専門メディアNEIの記事にある200マイルとほぼ合致する。メートル法では320㎞となる。ただしべクテル社のプレスリリースでは150マイルと若干少なめの値となっている(べクテル分担分と解するべきだろう)。

海外の文献を見ても、ケーブルを難燃化した背景は専ら防火対策との絡みと思われるが、経年劣化対策の先取りとして更新した面もあると思われる。

高経年化に当たって劣化予測を研究していた1990年代、海外でも概略次のような問題が知られていた。

原子力発電所の寿命延長を阻害する可能性があるために解決されなければならない技術問題として次の5つが特定され、これらの問題を解決するための研究活動が各国あるいは国際協力の下で推し進められている。

(1)原子炉圧力容器の照射脆化問題
(2)炉内構造物の粒界応力腐食割れ(IGSCC)
(3)クラス1配管の疲労問題
(4)電気ケーブルの環境性能検定(EQ)問題
(5)格納容器の接近不可能な個所の腐食問題およびコンクリート構造物の劣化問題

(中略)(3)、(4)および(5)の問題の対象である配管、電気機器(電気ケーブル)および格納容器は構造的にパッシブなものであることから、多くの場合、総合的な検査が行えず補正補修に頼っている状況にある。疲労による金属材料劣化は電気機器の経年劣化に比べはるかに研究の進んでいる分野である(中略)一方、電気機器に関しては、性能検定試験で用いられた人口劣化手法の不確実性や異なるメーカーによって製造された製品の違いのために性能検定そのものに問題のあることが指摘されている。

矢川元基「原子力プラントの高経年化対策‐格納容器を中心に‐」『第28回原子力発電に関する特別セミナー』1997年2月 原子力安全研究協会 P68-6
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1990年代当時、劣化予測技術が金属材料に比べて遅れており、製品仕様によって異なることもネックだったのであれば、予防交換してしまうのが手っ取り早く安全を確保出来るのは簡単に予想出来ることだ。

【その他の改修】

勿論、本機に加えられた改修はそれだけではない。2000年代前半までに実施された各種の安全強化策が本機にも適用されたようだ。18億ドルという改修費はそれらを織り込んでのものである。

311後NEIが公表した資料によると、主な改修として同型のBWRには下記が施されていたという。

Major Modifications and Upgrades to U.S.Boiling Water Reactors with Mark I Containment Systems.

1.  Added spare diesel generat or and portable water pump – 2002
  (予備ディーゼル発電機および可搬式ポンプの追加)
  ※『アメリカから見た福島原発事故―原因追究』 ETV特集 2011年8月14日によれば
ディーゼル発電機は水密化されている。
2.  Added containment vent – 1992
  (格納容器ベント)
  ※:米国でも規制要求ではなく、311後追加するか議論が紛糾している(『海外電力』2013年5月)。
3.  More batteries in event of station blackout – 1988
  (全電源喪失時に備えた蓄電池の追加)
4.  Strengthened torus – 1980
  (圧力抑制プールトーラスの強化)
5.  Control room reconfiguration – 1980
  (制御室の再構成) 
6.  Back‐up safety systems separated – 1979
  (予備の安全系の分離)

”U.S. Nuclear Power Plants Reconfirming Safety, Response Programs in Light of Japan Situation”NEI April 2011 P3

この内、311前に東電が実施していた事項は1の内ディーゼル発電機増設、2、4、5である。6はちょっと分かりかねる。東海第二の場合はHPCS用ディーゼル発電機を予備としてカウントしたため1は無い。

1については『諸外国における規制制度改善に係わる動向調査・分析』(日本エヌ・ユー・エス,2012年)P2.1-8によれば追加されたディーゼル発電機による全電源喪失耐久時間は最も長いプラントでも8時間とのことであり(本機は不明)、現在の日本の設備構成と比較すると不安の残る時間であった。もっとも、当時の米原発は事前に予想が可能な気象災害の場合、可搬型の非常用発電機をレンタルしていた。可搬型であることはともかく、地震津波に備えるためのレンタルは予知が不可能である以上、非現実的である。

5の制御室の再構成はTMI事故のヒューマンエラー対策だろう。東電の場合も30年史に記載している。画像で比較してみよう。

まず、UCSのブログに載っている1970年代の1号機制御室を示す。

1970s_bfn1_ctrroom
Dave Lochbaum, director, Nuclear Safety Project ”Fission Stories #16: Candle in the Wind”UCS October 19, 2010

次に、再稼働の際、ブッシュ大統領が訪問した時の写真がホワイトハウスのウェブサイトに載っていたので示す。

2007062112_bfn1_ctrroom
President George W. Bush tours the control room at Browns Ferry Nuclear Plant Thursday, June 21, 2007, in Athens, Ala. White House photo by Chris Greenberg

中央に原子炉操作盤を配し、その両脇に弓状に補機盤を置く配置はこの世代のGE系BWRに共通するものだが、福島第一で見たような、第一世代制御盤のコア表示を撤去しモニタに置き換えたものに比べると趣は異なる。コアは撤去されていないが、チャートレコーダ (記録計)に代わって計測用途と思われる小型モニタを使用したペーパーレス記録計が横一列に配され(保守性は良さそうだ)、別途モニタも増設、第二世代制御盤に近づいた印象を受ける。補機盤のスイッチ類も統一された規格に沿ってるのか、綺麗に色分けされている。一時期地震対策として東北電で自慢の種に喧伝された、取手も追加されている。日本のBWRで実施された改修よりは規模が大きいかも知れない。

いずれにせよ、311前に国内BWRで改修されていた内容+増設蓄電池、可搬式ポンプ、ディーゼル発電機室水密化工事が加わっている。ただし、これまで収集した資料では電源室や建屋全体にわたる水密化なのかは分からない。2011年の竜巻報道の際のコメントを読む限りでは、敷地高を超える洪水に建屋ごと水密化しているとも解せる(第46回「米国でも福島第一1号機と同型炉で「外部電源喪失」事象-巨大竜巻が送電線を破壊」『ベンチャーエンタープライズセンター』2011年5月2日)。

このような曖昧さが残っているのは、現地記者や日本側インタビュアーの能力に原因がある。公表されたリリースを鵜呑みにする人がいるが、それは間違いだろう。

逆に、ブラウンズフェリーで行っていないが東海第二で検討を要する事項は耐震補強、津波対策、航空機衝突対策等である。ブラウンズフェリーはプレート境界に位置しておらず、この差は仕方ない。しかし、建設時は近隣に旅客機や空軍機の飛行場も見当たらないので仕方なかったにせよ、その後、自ら世界中に敵を生み出し、911を経験した国の航空機衝突対策が殆どなされていないように見えるのは奇異である。なお、建屋の上部に青く塗装された膨らみが見えるが、ansnuclearcafeの沿革に載っている古い写真から、元からあるものと分かる(もし何がしかのハード的改造を実施しているなら、是非改修見積もりの参考にすべきだろう)。

【固有の設計欠陥】

上述の改修によっても除去出来ない固有の設計欠陥がこの発電所にはある。建物としては3機の原子炉を一体の建物に収めていることだ。誰か指摘しなかったのだろうか。

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Browns Ferry Nuclear Plant” National archives at Atlanta

オイスタークリーク計画発表後の第二次原子力ブームにて、GEはマークI型の格納容器を使用した原発を大量に受注したが、一部にこういった二コイチみたいなプラントがある。代表的なケースはインドのタラプール原発で、日本とは福島第一1号機の試験時、GEが同所の当直長を指導者として派遣した縁がある(『共生と共進-地域とともに-福島第一原子力発電所45年のあゆみ』P134)。

本所の場合、格納容器まで半一体化しているタラプールよりはマシだが、建屋への水素漏洩時に3機まとめて吹き飛ばされるリスクや、1機が爆発した際に隣接機が近すぎて巻き添えになるリスクを負っており、本質安全上とても危険であると思う。

なお、空撮から判定しただけではあるが、米国内にはツインプラントで一体化した建屋に収納されていると思われるプラントとして下記があり、全てBWRである。

  • ドレスデン2,3
  • クアド・シティーズ1,2
  • ラサール1,2
  • サスケハナ1,2

なお、3機で一体収納されているのはブラウンズフェリーのみ。なお日本国内では廃炉になった浜岡1,2が比較的近接していたが建屋としては別個であり、二次格納容器たる外壁は共用していない(米リムリック1,2は浜岡1,2を渡り用の建物で連結したような姿である)。

どの原発も二次格納容器たる外壁を共用しているのか、それぞれ別個に仕切っているかは興味のあるところだ。ブラウンズフェリーの建屋平面図は見つけられなかったが、上の写真からは共用しているように見える。

当時競争相手だった火力発電所の本館設計で、このようにボイラを並べる配置に見覚えがある。設計スタッフも足りなかったろうから、火力から横滑りしたのかも知れない。

また、冒頭の写真に写っている、京都タワーの根元と似た形状の、排気筒らしき建築物も共用設計だろう。福島第一4号機で起こった逆流対策も良く検討しないとまずいということだ。武井満夫『原子力発電の経済』(東洋経済新報社,1967年)他、本所を資本費の安価な例として挙げる文献は幾つか見たが、そのからくりの一端はこの構造にある。

土地が幾らでも確保出来る北米の田舎で、このような設計を許容してしまったGE,TVA,AECの見識は大いに疑問だ。例え徹底した空調分離が図られていても、余りに近すぎるため、爆発した際の隣接号機への被害は福島第一とは比べ物にならなくなることを想定しなければならない。

推進派視点から一番予防的な解決策は爆発した場合両端の号機に影響する2号機を閉鎖し、系統除染後、圧力抑制プール、安全系ポンプ等を、残りの2機のバックアップにすることだったと思う。それをしないで他の点でNRCが「規制に厳しく」当たり、米国でPRAが多用される背景は、こうした欠陥設計(特にGE-BWR)の救済策なのではないか。

【避難計画の成立性】

5層の深層防護を事業者に求める米国らしさを感じたのは、TVAのウェブサイトに避難ルートが載っているところである。日本では避難計画は電力会社の責任ではなく、自治体に任されている。

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Browns Ferry Emergency Planning Zone Sectors”TVA(Website)

発電所から15㎞程北東にアセンズというライムストーン郡庁の街があり、テネシー川を挟んで南東に10㎞弱のところにディケーターというモーガン郡庁の街がある。北側のライムストーン郡は2010年国勢調査82782人、モーガン群は111064人である。その他はGoogleMAPを見る限り、日本のUPZに相当する半径30km内は農地となっている。本機が建設中だった1970年の国勢調査ではライムストーン郡41699人、モーガン群77306人であった。想定事故の規模にもよるが、福島第一と同レベルの事態を前提とした場合、双葉郡と同程度を考えておけばよく、避難計画の成立性については東海第二と比べ物にならないと思われる。

なお、風土の差は原発事故の前では些細な事だと認識しておくべきだろう。例えばアーニー・ガンダーセン氏は著書で、アメリカなら車に荷物を積んで逃げたら終わりだと謙遜していた。確かに家具は家に付随する習慣があるようだが、思い出の品や収集物はあろうし、人間関係のリセットが何も影響しない訳が無いからである。

【東海第二のケーブル布設状況】

ここからは東海第二との比較を中心に見ていこう。なお、原電は100ページ以上の詳細資料を提示しているが、TVAの相当資料は見つけられなかったので、比較は概略レベルに限られ、それも不完全なことをお断りしておく。

『茨城新聞』2017年7月21日によれば、「安全機能を持つ設備につながるケーブルは長さが約400キロあり、約80キロは既に難燃ケーブルを使用。残り約320キロのうち新たに約120キロを難燃ケーブルに交換し、残り約200キロは防火シート工法での対応を想定している」という。

なお、建設当時の情報だが、ケーブル延長は下記のような内訳となっており、大半が制御計測ケーブルとなっている。材質による区分は分からないが、当時は全て非難燃性ケーブルであったと思われる。

岩越(※注)-最後に、余談かも知れませんが、従来どんな記録にもないような数字を披露しておきます。

原子炉建屋の総重量は、機器配管 水なども含めて28万t。タービン建屋の総重量が16万t。機器別の重量として、原子炉圧力容器が、約800t、原子炉格納容器が1500t、タービン発電機が3600t、復水器が1200t。配管関係が全部で5000t、これを口径100㎜の管に換算すると長さが260km、それからバルブの数が計装用の小型バルブを除いて、6000個、配線関係で動力ケーブルが200㎞、制御計測ケーブルが1300㎞、主なモーターの台数が6500台という記録になります。

本社-誠に珍しい記録ですね。本日は試運転中のお忙しい中を、長時間にわたりまして、大変貴重な話を頂き、ありがとうございました。

注:岩越米助。東海建設所副所長

「座談会 BWR-MRKII-5 1,100,000kW 世界最新・最大容量 東海第2発電所で」『電気現場技術』1978年5月P35

東海第二の4年前に運転開始したブラウンズフェリー1号機のケーブル総延長は、情報を得ることができなかったが、「原子力発電所用ケーブルの開発」(『日立評論』1976年3月号)によると、一般論として1000㎞とありこれ以下とは思われない。逆に最大長は東海第二を超えることは無いと推測する。時代が下るにしたがって原発のシステムは複雑化する傾向にあるためだ。

【ケーブル取替延長はブラウンズフェリーより短い】

2002年から2007年の改修工事と、東海第二の新規制基準対応のための審査資料を比較すると、難燃性ケーブル取替延長はブラウンズフェリー1号機の320㎞に対して東海第二は120㎞に過ぎないことが分かる。既に難燃化済みの80㎞を加えても200㎞。これに対してブラウンズフェリーはケーブル室のやり直しを中心に事故直後に布設し直した分が全て非難燃性とすると、重複が無ければ320㎞+総延長の3割が難燃化済と推定される。

原電は、相当に甘い基準で東海第二のケーブル取替を計画していることが伺える。非難燃で残っている安全系ケーブル320㎞は、偶然にもブラウンズフェリーで取替たケーブルの総延長と等しい。同じ規模の工事を計画すれば全て難燃ケーブル化を達成できる。また、そのような工事が技術的に可能であることもブラウンズフェリーの事例は示唆している。

なお、原電も内部的にはブラウンズフェリーの事例を詳細調査したものと思われる。

【出力向上も織り込み済みだったブラウンズフェリー】

ケーブル問題から外れるのでこれまで触れていなかった出力増強だが、東海第二でも2007年度から5%向上させるための工事を順次実施してきており、その根拠には高経年化対策として設備保全・更新によって発電所の一層の安全性・信頼性向上を行なってきたことが根拠として挙げられていた(「当社東海第二発電所 出力向上計画に関する報道について」日本原子力発電 2008年12月1日)。

ただし、先行例のブラウンズフェリーの場合、WH社との受注競争およびTVAでの検討などを経て、出力向上の可能性を織り込んで計画されたという事実を踏まえておく必要がある。『原子力発電の経済』P35には「GE側は、BWRの設計出力から10%高い1098MWを保証定格出力とすることからはじめて、バルブの全開でこれより5%方高い1152MWを示し、さらに給水加熱器の一部をバイパスさせることで8%方高い1188MWが期待できると提案してきた」、またP37に「TVAは(中略)実際運転を通じて、BWRの出力がさらに5~10%の幅で拡張されるものと期待している」と記述されている。

灰色文献を含めて様々な資料を見てきたが、東海第二でそのような出力向上が計画時から織り込まれていたという情報は読んだことが無い。311前の時点で追加投資額が巨費が見込まれたことから、原電は電力各社の先陣を切る形で、投資額の捻出をしたかったものと考えられる。

出力向上の際に問題になるのはプラントの各部位にかかる熱的負荷。計算を全てやり直し、裕度や容量が不足する機械部品は交換する計画だったのだろう。一方、経理的視点からは、期待出来る増加収入に応じ、ケーブル等の更新範囲を策定していたのではないだろうか。もしそうであるとするならば、原電は相当以前からケーブル劣化や弱点についての詳細情報も把握していたことが予想できる。

脱原発側の視点からは、格納容器の内容積や圧力抑制プールの水量を変えられるわけではないので、後藤政志氏などが格納容器の本質安全性を示す指標として挙げている、出力当たりの容積や水量は減少するし、熱的負荷もこれまでよりきつくなる。当然潜在的危険性は増すので、老朽プラントに採って良い施策とは思われない。

ブラウンズフェリーの場合、特別な事情がある事に加え、米国がそういうリスクも許容する国であることは良く認識しておかなければならない。

【ケーブル問題で望ましい規制対応の姿】

ブラウンズフェリー1号機も、全てのケーブルを難燃化しているわけではない。そこには、日本の規制庁と同方向の甘さがあるのだろう。他の件も合わせると、NRCの有り様は過剰評価されてると感じる。

原子力プラント設計の基本的考え方や配管・圧力容器の強度については、日本の旧通産省の基準を満たすだけではなく、NRCの前身であるAECが発行した原発の設計基準(GDC)やASMEなどの基準を満たすことも求められた。このような考え方を防火対策にも適用すべきであると考える。つまり、米NRCの火災基準を最低限遵守すべき原則とし、規制庁が保安院・JNES時代の知見を踏まえて更に付け加えるべき基準や引き上げるべき閾値などの知見を有していれば、それらを規制対象に加えるスタイルが望ましい。「世界最高の安全」を達成するには少なくともNRCよりは厳しくなければならず、原理的にもそういった制度運用しかあり得ないだろう。

東海第二の場合その他にも下記の課題

  • 電源室(スイッチギヤ室)および非常用ディーゼル発電機室の配置設計の不備
  • 電源盤(メタクラ、パワーセンタ、モーターコントロールセンタ等)の耐震要求レベルの引き上げ

の問題も抱えており、これらを一括して解決するには、大胆なリレイアウトしか方策は無く、その際にケーブル類を一括して再布設すれば、1990年代以降のBWRと比較しても遜色の無い難燃化を達成出来ると思われる。どうせケーブルを変えてしまうならこの際、制御室も東通1に準じた第2・第3世代形に更新した方が、運転員への負担も軽減でき、長年の宿題となっていたTMI事故対策を完全な形で取ることも可能だ。第一世代制御盤に施されたTMI対策(ヒューマンエラー対策)は以後の世代に比較すれば不完全なものなのである。

まずは、そのような条件の元にプラント改修した場合のコスト見積もりを徴収し、経理的基礎について審議すべきではないだろうか。勿論、見積もり条件には地震津波テロ等でのバックフィットも取り入れるものとする。大都市近接、自然災害リスクは、ブラウンズフェリーとは比べ物にならないからである。それだけやって、初めてまともな審査が成立するものと考える。

311の教訓を反映して日本の原発は特定重大事故等対処施設を設けることになったが、5年の猶予期間が与えられ、その間は無くても再稼動が可能な制度となっている。だが、ブラウンズフェリー1号機が22年ぶりに再稼動した際、安全対策に関して、そのような猶予措置があったという記述は見当たらない。その点も教訓となり得るだろう。

また、TVAの事例から国策色が色濃い東電や原電は、10年越しレベルの再稼動であっても、政権が変わらない限り相当執着してくると、(厳しい)展望を持っておく必要がある。

【参考リンク】

次の資料を参考にした。他に、文中にのみ明記した資料もある。

以下は本記事に直接参照していないが、参考として挙げる。

別の観点から研究することになった際には、活用して欲しい。

2018年4月29日 (日)

女川原発安全神話を守るため嘘をつく東北電力、再稼働の資格はあるのか

2014年8月に「-東北電力の企業文化は特別か-日本海中部地震津波では能代火力造成地で多数の犠牲者」という記事を書いた。

ネットで反反原発と揶揄されている、只の原発推進な方々が飛びつきまくり、ある種の界隈では飽きるほど流されているにもかかわらず、さも「マスコミには流れない真実の話」として、次のようなものがある。

東電福島原発が想定外の津波で事故を起こしたからと言って、原発そのものを全否定するべきだろうか。お隣の東北電力は女川原発を建設する時に、平井弥之助という重鎮が、古代から津波災害の伝承が被災地の神社に残っていることを知っており、言い伝えを元に敷地の高さを15mにするよう主張した。そのため東日本大震災で津波が襲った時も、間一髪で女川原発は助かった。平井弥之助のような精神が息づく東北電力のような企業文化なら、原発を再稼働しても良いのではないだろうか。

いい話だとは思うが、寓話臭が強く、その前提は正しいのか疑問を持っていた。そこで先のブログ記事で過去の事実を色々並べてみた訳だが、企業文化ではなく、平井氏個人のリーダーシップによるところが大きいと結論した。

それから4年近くの月日が流れ、勝俣恒久ら事故前の経営幹部3名を相手取って行われている刑事裁判で、驚くべき資料と証言が飛び出した。

福島事故前に、女川原発を対象に東北電力が行った津波シミュレーションには、同原発を水没させる15m以上の大津波を起こすとの計算結果が含まれていたのである。ここ数日、各社のトーンは異なるが、マスコミでもニュースで流れ始めたので、ご存知の方もいるかも知れない。以下、裁判を傍聴した添田氏のツイートから、当記事に関連する部分のみ抜粋する。

(中略。なお耐震BCとは耐震バックチェックの略。古い原発を後の知見で見直すこと)

しかし、そこは結果を出した東北電力のこと。脱原発派でも、「事故前にそんなシミュレーションをしているなんて誰も思いもしなかったのだし、聞かれなかったら東北電力だって答えないでしょ。今更裁判の証言で分かったからといって、責めることは出来ないよね」と思われる方もいるだろうと思う。

甘い。そういう忖度は止めよう。女川原発の神話を聞かされた時点で、完全に術中に嵌ってる。特に一般的なジャーナリズム関係者。すぐ脊髄反射的に話題逸らししたり、だから駄目なのだ。

【ただの情報隠しではなく、嘘】

この件は東北電力に取り、単なる情報隠しではない。嘘である。提示した資料が改ざんでされているのでなければ。

そこまで書くのは、2014年4月に下記の質問の回答を東北電力から得ていたからである。以下、本件に関する分抜粋する。回答文の着色部に注目して欲しい。

日付: 2014年4月10日 18:41
件名: 【東北電力】弊社HPへのお問い合わせへのご回答について

岩見 浩造 さま

3/16(日)にいただきました岩見さまからのご質問につきまして,それぞれ下記のとおりご回答いたします。

【問】東京電力は東日本大震災前に津波に対する社内外からの厳しい想定を複数回指摘されていたにも関わらず,様々な理由により津波対策を遅らせ事故に至った旨,各方面より指摘されています。御社において類似の経緯で不採用とした津波想定・対策がありましたらご回答願います。

※老婆心から申し上げますが,再稼動を目標とする立場から見たとしても,類似例があれば早期に公表して膿を出すことが,危機回避には有効かと思います。

⇒ 当社においては,類似の経緯で不採用とした津波想定・対策はございません。
以下のとおり,適宜,最新知見を反映した津波評価及び必要な対策を採用してきております。
・ 当社原子力発電所では,建設時に既往津波に関する文献調査,学識経験者の議論等を踏まえ,十分な敷地高さに発電所施設を設置するとともに,その時点での最新知見を踏まえ,都度,津波に対する安全性を確認しております。
・ 例えば,女川においては,1号機設置許可申請(1970年代)時に津波高さ3m(文献と聞き取り調査)としていた評価を,2・3号設置許可申請(1980年代ならびに1990年代)には津波高9.1m(数値シミュレーション)とし,津波への耐性を高めるため法面防護工を設置しております。
・  また,2002年に出版された土木学会手法により津波高さを13.6mと評価し,その後,潮位計にバックアップ装置を設置しておりますが,これにより,東北地方太平洋沖地震でも潮位を観測できております。津波監視に対する面でも対策が生かされたものと考えております。
・ これら検討,対策により,女川,東通原子力発電所ともに,東北地方太平洋沖地震により発生した津波においても,津波高さは,重要施設が設定された敷地高さ(女川:沈下後13.8m,東通:13.0m)を超えず,発電所※は安全に停止し,過酷事故の回避に繋がったものと考えております。
※東通原子力発電所については,地震発生時は第4回定期検査中だったため,運転を停止しておりました。
・  なお,東北地方太平洋沖地震後も,津波に対する更なる安全性対策として,防潮堤,防潮壁を設置しております。
・  以上,これまでの津波評価と対策の経緯をご説明しましたが,今後も最新知見を取り入れた評価,対策を実施し,発電所の安全に万全を期す所存であります。

【問】東日本大震災前後,再稼動に向け海抜29mまで防潮堤を作るそうですが,想定津波を大きくした理由を回答願います。

⇒当社はこれまでも(中略)回答に示しますとおり,その時点での最新知見を踏まえ,都度,津波に対する安全性を確認してきております。
・東北地方太平洋沖地震後も同様に検討を進め,東北地方太平洋沖地震等の最新の科学的・技術的知見や新規制基準に対する議論の動向を踏まえながら,安全最優先の観点から極めて厳しい条件(※)の下で津波高さを評価したところ,防潮堤に到達する津波の最大遡上水位が23mとなったものです。
・この評価により現在の防潮堤を上回ることとなりましたので,発電所の安全性をより一層高め,地域のみなさまにご安心いただくため,防潮堤の更なるかさ上げ工事を実施しているところであります。

・なお,現時点において,万が一,この規模の津波が発生したとしても,東北地方太平洋沖地震後に実施した緊急安全対策により発電所の安全性を損なうものではないと評価しております。
※東日本大震災などの知見をふまえ,複数の地震津波を想定し,局所的な大きな滑りがいずれの場所でも発生すると仮定するなど,極めて厳しい条件のもとで複数の数値シミュレーションを実施しています。

【問】質問というより要望となりますが,今後の事故対策リリースでは対策に際して不採用の提案を比較表を交え掲載頂きたく御願いします(そのようなリリースを実施済みであればご紹介下さい)。

⇒東京電力福島第一原子力発電所の事故につきましては,福島にお住まいのお客さまをはじめ,多方面に大きな影響を与えることとなり,当社といたしましても,同じ電気事業者として極めて深刻な事態と受け止めております。
今後の原子力発電の活用にあたりましては,これまで以上に安全確保を徹底していくことが,なによりも重要であるとの考えのもと,安全対策に取り組んでおります。
事故対策については,これまでもご説明してまいりましたとおり,新規制基準への対応など世界最高水準の安全を目指し,さまざまな対策を実施・検討しております。
対策の内容や実施状況については,地域のみなさまにわかりやすい情報提供が必要と考えており,ホームページでも公開しております。
こちらについては,発電所ごとに一覧表の形でお知らせをしております。


参考:女川原子力発電所安全対策実施状況
http://www.tohoku-epco.co.jp/electr/genshi/safety/safety/plan_onagawa.html


岩見さまからいただいた件につきましては,貴重なご意見として承り,
社内の関係各所で共有化させていただきたいと考えております。


以上

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東北電力株式会社
広報・地域交流部

「当社においては,類似の経緯で不採用とした津波想定・対策はございません。」と東北電力は嘘をついた。私がこういう質問をしているのは、メディアがしないからである。今まで女川について書かれた記事を、全てではないがそれなりに見てきたけれども、このような質問の形跡があったものは、記憶にない。

なお、18m,22mといった計算結果は専門誌『電力土木』2012年11月号「女川原子力発電所における津波の評価および対策」などにおいても(当然だが)一言も触れられていなかった。

それどころか震災を乗り切ったことで、次のような文言さえみられた。

女川原子力発電所では、1号機計画時から、津波に対する安全性について種々検討し、余裕のある敷地高さとするなどの対策を講じ、2号機以降においても、時々の最新の知見を反映した調査・検討や必要な対策を講じてきた。

菅野剛(※1),大内一男(※2),平田一穂(※3)「女川原子力発電所における津波の評価および対策」『電力土木』2012年11月P20
※1:東北電力土木建築部 火力原子力土木グループ
※2:日本原燃(前 東北電力土木建築部 火力原子力土木グループ)
※3:東北電力土木建築部 副長

もう一つ挙げる。

女川原子力発電所が冷温停止に至った主な原因としては、第一に、敷地が津波最大高さよりも高かったこと、第二に、非常用ディーゼル発電機(DG)と外部電源が使用可能であったことである。前記に加え、適切な準備(例えば、耐震裕度向上工事、津波高さ予測評価の適宜実施、および火災や外部電源喪失に対する継続的な訓練等)が功を奏したと考えている。

渡部孝男(※1),小保内秋芳(※2)「地震・津波被災を乗り越えた女川原子力発電所」『エネルギーレビュー』2013年1月P7
※1:東北電力株式会社取締役原子力部長(前女川原子力発電所長)
※2:東北電力株式会社原子力部副部長(前女川原子力発電所 原子炉主任技術者)

これらの文章はいずれも、最新の知見を反映して対策をしたとなっている。だが18mや22mの津波では、敷地高を超える津波への対策が必要となるが、それをしていない。だから嘘だということになる。それも上は原発所長経験のある取締役から下は広報部社員まで一丸となっての所業である。

これだけ原発と大津波が問題になっている中でついて良い「些細な嘘」とは到底言えない。誰なのか、東北電力は嘘をつくように指示した責任者の名を明らかにする義務がある。

【敷地高を超えたら、海水ポンプは全滅し、非常用発電機は止まっていた】

実際は回答文の通り、対策をして安全が確保されたと認めたのは震災後であった。震災前、水密扉などの浸水対策は一部にしか行われていなかった。だからこそ、主要建屋の水密化工事が対策目標となったのである(『エネルギーレビュー』2013年1月号P8~9等)。

なお、上記とは別の機会に実施した質問への回答で、海水ポンプ類もまた、浸水対策をしていなかったことを知った。

日付: 2014年2月24日 21:48
件名: 【東北電力】弊社HPへのお問い合わせへのご回答について

岩見 浩造さま

東北電力でございます。

弊社ホームページにお問い合わせいただきましたご質問について,
添付しております資料により,ご回答させていただきます。
(データ容量の関係上,PDFにて送付いたします。)

弊社からの返信がこのような遅い時間となってしまい,申し訳ございませんでした。

(中略)

【問】「女川1号機運開後~東日本大震災発生」の間において、追加した津波対策があれば御教示下さい。例えば2000年代に原子力発電所の津波評価を見直し、想定津波は13.6mに引き上げられています。敷地高以下とは言え、標高高でのマージンは削られる結果となった筈です。

⇒(中略)

■海水ポンプ室のピット化
 女川原子力発電所では、除熱に用いる海水をくみ上げるポンプを、海面に近い港湾部に設置するのではなく、14.8mの敷地に海水ポンプ室(1,2号機)あるいは海水熱交換器建屋(3号機)と呼ばれる構造物を構築しており、
津波が敷地高を乗り越えないと水が入り込まない構造にしています。このため、東日本大震災では、13mの津波が来襲しましたが、敷地高を乗り越えて海水ポンプが冠水することはありませんでした。(後略)

以上

---------------
東北電力株式会社
広報・地域交流部

つまり、津波が敷地高を乗り越えると水が入り込む構造だった。

原発推進派によれば、平井弥之助は防災上の結果責任を重視し、そのためには法で規定された以上の対策を厭わない信念があったとされている。それが事実であるとしても、現代の東北電力に継承する者はいないということが、問い合わせ回答からも良く分かる。

常々指摘されているように、原発事故のリスクは津波だけではない。航空機衝突のように震災後も放置されたままの課題もある。対応可能なリスクでさえも対応しない行動パターンは反原発運動からよく指摘されるが、その信ぴょう性はいよいよ高まったと言える。

東北電力のような会社が原子力発電所を再稼働する資格があるのか?、とてもあるとは言えないだろう。私の差し伸べた手すら払うような人達なのだから。

【新たな疑問:平井氏は本当に最もリスクを高く見ていたのか】

今回の事態を受けて思い至ったことがある。平井氏自身はどこまで信用出来るのだろうか。会社組織として同じパターンで行動してきたならば、15mと決まった時点でそれ以上の高さの案は隠す筈だからである。工事誌の類が存在していても、不誠実な者が書けばその部分は省略される。

勿論彼は東電福島第一の敷地高を決めた小林健三郎などよりは信頼のおける人物である。しかし、小林氏の論文(過去記事参照)を見れば分かるが、15m程度の敷地高は70年当時循環水ポンプの経済設計が可能だった限界の高さでもあり、製作限界に合わせ込んで決定しているようにも見える。小林論文以外にも当時のポンプ関係の文献はかなり調査したが、ほぼ同様の感触を抱いた。

女川1号機は、原子力としても、専用港湾の建設としても当社初であった。また、敷地高さについては、社内での比較検討で15m程度を最適と考えていたが、発電所が立地する三陸沿岸は、古くから大きな津波による被害を受けてきた地域であることから、津波に対する安全性等について専門家の意見が必要であると考え「海岸施設研究委員会」を設置した。委員会の構成は、本間仁東洋大学教授・東京大学名誉教授を委員長として、土木工学や地球物理学等の専門家により構成(計9名)した(設置期間:1968.7~1980.8)。「明治三陸津波や昭和三陸津波よりも震源が南にある地震、例えば貞観や慶長等の地震による津波の波高はもっと大きくなることもあろう」といった議論のほか、当時の津波高さの経験式や、当時の研究論文などについても議論された結果、「敷地高によって津波対策とする」こと、「敷地高さは15m程度でよい」と集約され、この結果を踏まえ、主要建屋1階の高さと屋外重要土木構造物の地上高さを15.0m、敷地高さを14.8mと社内決定した。

菅野剛,大内一男,平田一穂「女川原子力発電所における津波の評価および対策」『電力土木』2012年11月P16

上記の文言は「集約」となっている。15mより低い値もあれば、より高い値を提示した者がいたのではないだろうか。

当然と言うべきか、この種の社内委員会の議事資料を東北電力は公開していない。町田徹『電力と震災』P251には、広報・地域交流部長相澤敏也の応対を受けた際、「議事録など確かな資料は残っていない」と書かれている。官界を上回る原子力業界の文書への執着を知る私にとって、その説明自体が非常に疑わしいが。

なお町田氏は平井氏について「処遇は恵まれなかった」と書いているが、すぐに裏は取れなかったそうである。当たり前だろう。部長止まりで関連会社に出向ならともかく、平井氏は只見川開発および新潟火力建設で多大な貢献が認められ、副社長として退任した人物である。町田氏は無意識に社長や経団連の重鎮クラスに収まる事を「処遇」の最低ラインに引いているのだろうが、成功者と見做すのが普通の感覚である。社内での技術論では、大きな権威を持っていたと考える方が自然なのだ。

むしろ、ここから見えてくる彼の隠れた欠陥は「大事なことを文書に残さない傾向にある人」、と言う姿だ。これは同じ種類の仕事を担当して失敗した小林健三郎が、文書を残すという点については別格に高く評価出来ることとの対比で明瞭になる。勿論、平井氏の後進が文書隠しに走ったために、そう見えている影響は考えなければならないが。

もし平井氏の主張、15mより厳しい津波を想定した人物がいたとすれば、それは社内の非主流派に属していたり、社外の識者なのだろう。今後検証が待たれる。

2018年3月11日 (日)

海からの原発テロを煽った青山繁晴氏は津波問題を隠した東電の加担者である

311からちょうど7年の歳月が過ぎた。

このブログを立ち上げてから、私も色々な問題点を明らかにしてきた。

東電福島第一の津波想定問題については特にブログ記事を多く書いてきた。40年運転した末の事故だから、それだけ問題を回避するチャンスも多くあったということを示してきたつもりだ。

これらの回避できるチャンスは大きく二つに分けることが出来る。一つは防災対策としての面。いわゆる津波想定を厳しくする機会が幾らでもあったという類の議論である。現在東電や国を相手取って行われている各種の裁判でも主流の問題である。

もう一つは、2016年から当ブログでも扱っている「テロ対策が防災対策の阻害要因になった」という事実関係からの追及である。下記がそれだ。

テロ対策を言い訳に反対派を追い出して爆発した福島第一原発

共謀罪の根底にある差別思想は必ず福島事故のような惨事を誘発する

2本の記事を書いて残った宿題は、「テロ対策」を助長したキーマンを殆ど掘り出せていないことである。防災対策の先送りをした戦犯達については、個人の責任特定が進んでいるのと対照的だ。

そのような中、事実上推進派のジャーナリスト石井孝明氏がテロ対策の貢献者として、ある人物を明記しているのを偶々目にした。

原発にミサイル? テロ? 対策は行われている」石井孝明(経済・環境ジャーナリスト) 2017.9.21(日本エネルギー会議HP)

その人物の名は青山繁晴。青山氏は元共同通信の記者で、1997年に同社を退職。911テロの少し前からセキュリティ関連の言論活動を始めた。一般にはチャンネル桜やDHC提供のTV番組や関西の報道番組に出演している右翼的なおじさんとして知られている。

以下、青山氏の言行を再検証してみたが、控えめに見ても防災情報隠しの機運をつくった加担者と言わざるを得ない。

【共同通信時代、安全神話に加担する】

青山氏は共同通信時代にチェルノブイリ安全神話を垂れ流し、福島事故後も正当化していた。

わたしは、かつて共同通信の政治部記者となる前に、大阪支社の経済部にいた時期があり、エネルギー担当記者としてチェルノブイリ原発事故に遭遇した。その際に「日本の原子炉は、チェルノブイリのようなひどいヒューマン・エラーがあっても自動停止するから、安全性は高い」という記事を書いた。この記事は今、再検証してみても誤報ではない。

「テロ標的の筆頭となる日本」『VOICE』2011年7月P172-173

誤報ではないが、解説記事なら説明は不十分だ。「チェルノブイリとは違う」という点を強調し、遂には原発事故について考えてはならないという下らない信念を抱く「専門家」を多数養成したのが日本の原子力業界である(当ブログ記事「【書評】松野 元『原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために』」参照)。過酷事故=チェルノブイリ限定、という奇妙なPRの片棒を担いだ数多の報道の一つにすぎず、この書きぶりは如何にも甘い。

なお、青山氏より踏み込んだ報道記事の実例として「原発過酷事故対策は安全か」(『朝日新聞』1994年2月17日朝刊4面)を挙げておく。タイトルからも推察できる通り、軽水炉の基本的な問題点を政治面も含めて要領よくまとめたものである。

【セキュリティ関連の経歴】

ただし、彼のセキュリティ関連の経歴は、論壇誌に寄稿するだけの評論家とは違って「本物」である。ここでいう「本物」とは彼の能力のことではなく、結果責任を問われるという意味だ。有識者委員だけで下記の通り(さらに詳細な経歴はリンク先など)。

    総合資源エネルギー調査会専門委員(経済産業省)
    海上保安庁政策アドバイザー
    原子力委員会原子力防護専門部会(技術検討ワーキング・グループ 核セキュリティ)専門委員(内閣府)
    国家安全保障会議の創設に関する有識者会議メンバー(内閣官房)
    日本原子力研究開発機構改革本部メンバー(文部科学省)
    消防庁第27次消防審議会委員(総務省)
    NHK海外情報発信強化に関する検討会会員(総務省)
    北近畿エネルギーセキュリティ・インフラ整備研究会 委員(京都府・兵庫県)

他に、旧防衛庁・自衛隊・警察等の上級職員や幹部を対象とした各教育研究機関で講義を受け持っている。また、共同通信を1997年に退職した後、数年間三菱総研に在職してノウハウを身に付け、2000年代よりシンクタンク「独立総合研究所」を旗揚げ、代議士になるまで10数年社長職にあった。

2001年の911テロ直後にはテリー伊藤との対談形式で『お笑い日本の防衛戦略【テロ対策機密情報】』という一般書を出している。巻末の帯に、防衛庁内の若手にかなりの心酔者を得ていると書かれている。彼は虚言も多く指摘されるが、近年の階層を問わない社会の右傾化を眺める限り、事実だったのだろう。

【テロリスクの例示に「海からの侵入者」を選択する】

テロ対策を言い訳に反対派を追い出して爆発した福島第一原発」でも2000年代のテロ対策強化については書いたが、中でも青山氏の提言・推進したテロ対策は重大な失敗だった。それは、海からのテロリスクを強調したからである。

テリー 日本の原発の現実を、本当は何よりも早く聞きたいな。

青山 「秘」に属するところは、いっさい言えません。しかし(中略)基本的なコンセプト(防護思想)の問題から考えてみましょう。

原発には冷却のために取水口と放水口があるわけです。原発は、海水で冷やして、温排水を流してということを永遠に繰り返しているわけです。(中略)平均的な原発で言うと、取水口、水を取り入れるほうはちゃんとカメラもあって、警備員もそれなりに配置していることが多い。なぜかというと、流れにのってサーっと来ちゃうかもしれない、という発想ですね。ところが、放水口のほうは、激流が流れ出ているから入ってこられるはずがないということで、カメラもなければ、監視員もいないのが普通です。ところが、さっきの(注:漂着してニュースになった)工作船とと一緒に水中スクーターが発見されてるんですよ。放水口の水流ぐらいは十分突破できる水中スクーターを現に日本の警察が捕獲しているのに、「ここは安全だ」と誰もいないし、何も防ぐものがなにのです。私があるところでそれを指摘して、せめてカメラぐらい置かなきゃいけない、と言ったら、「いや、たとえこの放水口をさかのぼっていっても、トンネルの向こうにあるのは巨大な壁で人間が登れるはずがない」と言うんですよ。私は、「そこまで言うなら、その壁も警察の方は見てますよね」って聞いたら、「見てる」って言うから、それ以上は言いませんでした。

ここで日本人が希望がもてると思ったのは、途中で保安主任が「ちょっと待ってくれ。やっぱり私、ひっかかるので、見てもらいます」って言ったんです。結構煩雑な手続きをして、私を中に入れたわけです。で、見たら、彼が絶対登れない壁というのは、トンネルから出てきたところに10メートルのコンクリートの壁があるだけなんです。これはそれこそお笑いの話で、あのコンクリートよりもはるかに硬い岩にアイゼンが食い込むでしょう。どこの登山用品店でも売ってる。しかもオーバーハングになってるところを行くんですから。こんな、ただの真っ直ぐのコンクリート壁ですから、北朝鮮特殊部隊だったら大体1分30秒ぐらいで上がってくるんじゃないかと言いました。

「第1章 いまそこにある日本の危機」『お笑い日本の防衛戦略【テロ対策機密情報】』P59-60(2001年)

ここで注目して欲しいのは、見学に至るまでの手続きだ。部外者が見るとすれば、誰であっても、同じ手続きになる。また、電力の言う「絶対」が相場通り、とてもいい加減な根拠しかないことも分かる。青山氏の描写は、一定の評価には値する。

だが、青山氏は最終的には電力と当局の本質的な欠陥を後押しすることになった。

テロリストに機密を知られたくないのなら、そのようなテロの脅威を煽ることは自殺行為である。しかも、警備する側も青山氏の余計な啓蒙のために、他の設備以上に気を使うことになってしまう。

しかし、海からの侵入者という想定は便利な公開情報として定着し、下記のように別の媒体にも連鎖している。後に検証する原子力委員会防護専門部会でも例示に使われている。

日本の原発は海水を高温蒸気の復水など冷却用に使うため、すべて臨海に設置されている。効率がいい反面、海からの侵入には弱いと言う弱点がある。とりわけ日本海側の原発にとって、そのリスクは大きい。最近ではこうした面への配慮も始まり、巡視艇による周辺海上の警備や潜水による進入探知のための監視も始まっているが、想定される北朝鮮などの訓練された工作員に対してどこまで有効かは疑問である。海上からの侵入阻止は、日本の原発にとって緊急の課題だ。

「しのび寄る「原発テロ」への備えは万全か」『THEMIS』2004年11月P91

もっとも、青山氏の想定には独創性が殆ど無い。

かわぐちかいじ『メドゥーサ』が1994年完結、小林源文『第2次朝鮮戦争―ユギオII』が1996年、麻生幾『宣戦布告』が1998年。青山氏の論はこれらの延長にあり、多少のディティールを追加しただけである。

【2000年代前半の原発テロ対策の法制化】

勿論、テロ対策の責任すべてを青山氏が負っているわけではない。制度的な流れも見ておこう。

法制的には2004年の国民保護法制定に際して海外からの原発テロに対し、行政が計画を定めるように求められ、青山氏も同法の制定に際して内閣府などが主催した「国民保護フォーラム」で講演している。

原子力の法規制にテロが位置付けられたのは2005年の原子炉等規制法の改正で、設計基礎脅威(デザイン・ベース・スレット,DBT。この位のテロリストまでは守れるようにしよう、という目安)の設定や必要な防護措置、具体的には防護区域などを設定することが定められた。

このような流れの中で、原子力安全・保安院は「核物質防護強化に関する原子力事業者への指導強化」「「核物質防護対策室」の新設」を実施した。警察庁はDBTの設定に際して脅威の情報を収集し、それを基に、関係省庁が集まって連携をして決めている(以上、原子力委員会防護専門部会準備会合議事、資料より)。

テロ対策強化は一見すれば良いことに思える。何故これが失敗だったのか。それは次の節を見ていくと理解出来る。

【右翼にとっても都合が悪すぎた市民団体からの指摘】

さて、福島県の共産党元県議伊東達也氏が中心となっていた市民団体は、2005年に次のような申し入れを行っていた。

原発の安全性を求める福島県連絡会の早川篤雄代表、伊東達也代表委員は5月10日、東京電力の福島第二原発を訪れ、つぎの「申し入れ」を行いました。

(1) チリ津波級の引き潮のとき、第一原発の全機で、炉内の崩壊熱を除去するための機器冷却用海水設備が機能しないこと、及び冷却材喪失事故用施設の多くが機能しないことが判明しました。(中略)

これまで住民運動の苛酷事故未然防止の要求を受けて、浜岡原発1号・2号機では3号機増設時に海水を別途取水するバイパス管(岩盤中に連携トンネル)を取り付け、女川原発の1~3号機では、取水口のある湾内を十メートル掘り下げて、機器冷却用水確保の対策を実施しています。
東電はこうした例にも謙虚に学び、早急に抜本的な対策をとるよう、強く求めるものです。

(2) 高潮のときに、第二原発の44台の海水ポンプが水没することも判明しています。
  想定される最大の高潮のときに、第一原発6号機の海水ポンプ14台が20㌢水没し、第二原発は1号機と2号機(各々11台ずつの22台の海水ポンプ)が90㌢水没し、3号機と4号機(同じく22台)が、100㌢水没することになります。
そこで東電は第一原発の6号機については土木学会が発表した直後の定期検査にあわせて密かに20㌢のかさ上げ工事をしました。
  しかし、第二原発の海水ポンプは「水密性を有する建物内に設置されているので安全性に問題はない」として、今日まで何の手も打っていません。
  
これに対し私たちは再三、海水ポンプ建屋を見せてもらいたいと申し入れをしましたが、テロ対策上見せられないという態度をとり続けています。
  これは、テロ対策を理由にした「悪乗り」としか言いようがないものであり、黙過することのできないことです。

  2002年に発覚したあまりにもひどい事故隠し、改ざん事件を経て、二度とこうしたことを繰り返さない、
今後は包み隠さず情報公開に努めると県民に約束したのは、いったいなんだったのかといわざるを得ません。わたしたちは強く抗議し、また、海水ポンプ建屋を公開するとともに、抜本的な対策をとるよう求めるものです。

チリ津波級の引き潮、高潮時に耐えられない 東電福島原発の抜本的対策を求める申し入れ」原発の安全性を求める福島県連絡会代表 早川篤雄 2005年5月10日(PDF

海水ポンプは原子炉で発生した熱を海に逃がすために重要な施設である。また、非常用ディーゼル発電機の多くは船舶用エンジンの転用なので、海水ポンプを介して冷却している。そして、テロ対策は防災対策のための見学申し入れともろにバッティングしていた。

青山氏が描いた見学手続きと比較すると、市民団体から申し入れがあった時、応対した東電原発の保安主任は希望の持てない人材であり、福島県警も同様の失敗をしたことが分かる。

なお、福島第二の海水ポンプが置かれていた建屋(海水熱交換器建屋)は原子炉建屋より低い位置にあったので、311の際には結局浸水し、多数の海水ポンプが機能を失った。水密対策をしているという説明は方便だったのだ。

福島第一の海水ポンプに至っては、以前紹介した空撮の通り、剥き出しだ。

Toudensekkei30nenp88

『東電設計三十年の歩み』1991年7月P88。赤で囲った場所に海水ポンプが密集配置されている。

【内部を見せるのは反対運動のせいと主張しながら、細部を説明する】

しかも、青山氏の問題認識は決定的に内向き志向だった。

青山 原発テロ対策のもう一つの問題点は、日本の原発は世界の原発の中でも一番内部を見せる原発なんです。

テリー それはなぜですか。

青山 
反対運動を気にしているからです。テリーさんもテレビで見たことあると思いますが、どこの原発でも、原子炉の上にまで人を入らせるでしょう。原子炉の上に立って、「この下が原子炉です。この下で原子力がいま燃えています。これぐらい安全です。」って解説までしてくれる。そのまわりのコンクリートは、確かにある評論家がテレビで言ってたように、飛行機が当たっても簡単には貫通しません。ジャンボ機が来たらほんとはだめだろうけども、普通の戦闘機ぐらいなら大丈夫だと私も思います。ところが、実際に現場で上を見上げたら、天井は普通の天井だとわかります。そうでないと重たくて構造が持たないんです。日本は地震国ですから、危なくて天井を厚く、重くはできません。これはすべての原発でそうですし、公開している現場でも誰でも見ることができますから、私も話ができます。そうすると、天井に人が取りついて、そこを開けるのは、小さな爆薬でいい。しかも、その下には使用済み燃料を入れてるプールの水が露出してる。だから、天井に取りついて、小さい穴をあけて、そこから爆弾を落とすだけで、落としたやつは死ぬけれども、そこから出た死の灰が日本中をかけめぐるわけです。評論家は自分の目で上を見上げて、この天井はどういう構造かとチェックしてない。しかし、工作員やテロリストは、見学者としてやってきて、それを見ます。

テリー 
ということは、別に北朝鮮の特殊部隊やアルカイダである必要はないよね。俺たちでも小さな爆薬を持っていけば、穴があいちゃうわけだ。

「第2章 いまそこにある原発の危機」『お笑い日本の防衛戦略【テロ対策機密情報】』P102-103(2001年)

確かに911テロが起きるまで、日本の原発見学は普通の工場見学と大差のない、開かれたものだった。青山氏が活動を本格化させる前から、東電はこの種の運動に対し、屈折した感情を持っていたが、もし、伊東達也氏等が2000年に見学を希望していれば許可したかも知れない。

青山氏が見学した原発だが、条件に当て嵌まるものはBWRだろう。即ち、下の階に使用済み燃料プールと原子炉(圧力容器)がある構造で、且つ、「ただの普通の天井」があるというとBWRのオペフロである。PWRの格納容器の天井は厚いので、彼の説明とは矛盾するし、使用済み燃料プールを収めた建屋は格納容器の外だからだ。東電の原発だったのかも知れない。青山氏は事故直後に福島第一の吉田所長を尋ねているが、東電とどのような関係にあったか懇切丁寧に説明すべきだろう。

独立総研は、同書のような問題意識でもって大量のレポートを納入したのだろうが、それは海水ポンプ津波対策の欠陥を隠す結果にしかつながらなかったのである。

市民団体に海水ポンプを見せていれば、正面から批判を受け、津波対策を迫られたのは明らかだ。だが、青山氏には「質問する人は工作員だから見学させてはいけない」との思い込みがあったのではないか。

一方で、テリー伊藤氏は早速「俺たちでも」と指摘している。このことは、本質的に思想が無関係なものとして、警備方法を考えなければならないことを示していた(ネットによくいる、気の振れた自己中心的で破滅主義のミリタリーマニアを見ればすぐわかることでもある)。

なお、「津波対策は学者や技術者達がしっかりしていれば、彼等に任せておけばよいこと」などと反論したい方がいるかも知れない。しかし、彼等がちっとも自分達のなすべきことをしなかったことは、添田孝史『原発と大津波』『東電原発裁判』や当ブログの様々な記事で論証済みである。

【電力会社を庇い、情報公開を否定する】

青山氏の原発テロの警鐘に関する主張を読んで気が付いたことがある。よく見ると政府(警察・自衛隊・経済産業省)は批判することもあるが、電力会社には基本的に文句を付けないのだ。

青山 原子力や放射能を扱う限りは警備については別枠で考えなければいけません。

 これはむしろお願いのようなものですけれども、テリーさんにこの機会によく記憶して頂きたいのは、ある政府高官、いまはもうOBになりましたが、この人が私に言った言葉は、橋本内閣のときに電力会社側と原発テロについても話し合ったと。ところが実は政府のほうの印象として残ったのは、その元高官の言葉をそのまま引用すれば、「電力会社は本当のことを言わない。電力会社の言うことを聞いていたら、原発というのは無限に安全であって、槍が降ろうが空爆されようが、もう絶対に放射能は漏れないのだと言うから、もう勝手にせいとなった」ということでした。

テリー ははぁ。そのとき青山さんはどういう反応をしたんですか。

青山 私は、「この責任を電力会社に負わせて”嘘つきだ”というのは間違いでしょう」と言いました。だって政府に本当のことを言って何かしてくれるでしょうか?橋本内閣が動いたでしょうか?むしろ変な形でマスメディアにリークされるのがオチでしょう。

テリー なるほど。たしかにそういう見方はできますよね。それでは青山さんはどうしろと?

青山 ですから発想の転換をしてほしいのは、警備に関してはすべてを国民に公開する必要はありません。むしろしてはいけない。これは機密事項です。私はマスメディアにいたからこそ、それをきちんとお話しできると思います。でも日本では一部のマスメディアをはじめとして、原子力発電に対しては、先入観に凝り固まった攻撃がなされるわけですから、どんどん情報公開しなければいけないということばかりが先行していて、もう新聞を読むだけでも相当なマル秘の情報を中国や北朝鮮は入手できます。しかもその公開情報に基づいてさらに非合法のスパイ活動も行っているわけですから、彼らの持っている情報は非常に細かくてディティールに踏み込んでいて、しかも正確であると考えなければならない。

「第2章 いまそこにある原発の危機」『お笑い日本の防衛戦略【テロ対策機密情報】』P108-109(2001年)

詳述は別の記事等に譲るが、安全神話を垂れ流したは事実である。青山氏の凄いのは、嘘をついていることを知った上で庇う所で、もう徹底している。また、情報公開まで否定している。同書の出版された2001年は旧原子力安全・保安院が発足した年で、情報公開が進んだ筈だったが、大津波の想定を軒並み葬った経緯は福島事故まで隠され続けた。そのため、国会事故調でも「規制の虜」論として批判された。

青山氏の電力会社擁護の矛盾を更に一つ指摘すると、東電や関電は1980年代に世界最高水準の航空機衝突耐性を持つ西ドイツの原発建屋の設計を取り入れようとして、結局諦めたことがある。そのため日本の原発建屋の壁厚はドイツの3分の2しかない(当ブログ関係記事)。青山氏は戦闘機の突入程度なら大丈夫だと主張しているが、それは比較的軽量な退役済みの機体に対しての話である。2000年代の主張として見ても適切ではない。

【「IAEAの基準」以下だった福島第一の海水ポンプ】

青山氏は『VOICE』2005年10月号にも2ページの記事を投稿しており、MP5短機関銃を装備した武装警官を各原発に常駐させたことで、物的なセキュリティ能力は世界最先端になったと書いている。

しかし、この寄稿にも彼の間違いを見つけることが出来る。

原子炉とその建屋は、IAEAの基準により分厚いコンクリートによって覆われているから、特殊部隊の火力でも破壊するには時間を要する。その時間は原発によって異なる。これをシミュレーションなどによってきちんと計っておき、破壊されない時間内に、軍の部隊が原発に到着できる態勢をとっておくことが現実には有効だからだ。

「日本の原発は無防備か」『VOICE』2005年10月号

建屋で覆われている場合、メリットは防災上もあり、窓を無くし、換気口を上部に誘導したり、出入り口を防水扉に替えてしまえばかなり強固な津波対策が簡単に取れる。原子炉建屋をそのように作っている事例は福島事故の前からあり、浜岡原発などは広報記事で自慢していた。敷地を超えて津波がやってきても最低限のことはしていますよ、という訳だ。

しかし、海水ポンプは原子炉建屋から数十m離れて海岸沿いにある。建屋で覆わず剥き出しで置いてある原発も多い。その典型が福島第一で、以前は見学で簡単に確認出来た。青山氏の言うようなIAEAの基準が作られ始めたのは1970年代後半からだが、この原発は、その前に建設され、そのままの状態で放置されていた。

こんなことは20人余りのスタッフを擁する独立総合研究所で受託した各種調査報告を見直すだけでも確認出来た筈だし(出来ないようなセキュリティレポートなら、価値は無い)、彼が視察した時点でも分かる話だったのではないだろうか。

【原子力委員会専門委員に就任し、それまでの成果を自讃する】

独立総合研究所のウェブページの説明(リンク)によると政府が警備を強化したのは2004年12月であるという。市民団体の申し入れより前である。わざわざ明記すると言うことは、彼の心酔者が取り入れたという側面があるのだろう。

もっと明白な証拠もある。彼は、2006年12月には原子力委員会(原子力防護専門部会)専門委員に就任した。専門部会の議事(一部は議事要旨)は公開されている(リンク)。その準備会合の時に、武装警官の常駐を決めた時のいきさつを自讃している。

青山 9・11同時多発テロがあってから、日本は世界で唯一全サイトに24時間武装機動隊が常駐している国になっているわけです。世界で日本だけです。最初それを決めるときに、私ども独立総合研究所も政府機関といろいろ協議をしたのです。その協議のなかで、機動隊が武装して、しかも拳銃ではなくて、MP5という機関銃まで持って守らねばいけないような危ない施設なのかという声が地元から出ないか、それが心配だという議論が、事業者はもちろんのこと、政府機関からも多数出たわけです。ところが、実際に行ってみると、反対運動が高まるどころか、むしろ地域にきちっと説明がなされて地域の理解が深まった面がある。

原子力防護専門部会準備会合 議事 2006年12月27日

だが、彼の弁とは異なりテロ対策を悪乗りとして異議は唱えられていた。彼は市民団体が見学できなかったことについて結果責任がある(なお、この議事で青山氏以外に反対運動に言及した者はいない)。

更に呆れるのは、安全規制とシナジー効果があると当局共々思っていたことだ。

青山 資料第2号の3ページに「安全規制と防護とのシナジー効果」とありますね。それはそのとおり、僕もシナジー効果が必ずあると思っているし、それから川上委員のおっしゃった「今まで日本は安全に随分努力してきたのだから、それに例えばテロ対策のようなものも加えていく」という考え方で賛成です。

原子力防護専門部会準備会合 議事 2006年12月27日

実際にはこの時点で既に真逆の事態が進行中だった。

なお、専門委員の任命は内閣総理大臣安倍晋三だった。なお、共同通信では政治部記者だったため、青山氏は安倍晋三とは安倍晋太郎の秘書時代からの付き合いだと言う。2009年のTV番組によると、食事する仲のようだ(リンク)。その後を見ても安倍友、飯友の類と言って過言ではないだろう。

安倍晋三といえば、第一次安倍内閣時の共産党吉井秀勝氏との答弁で述べた「全電源喪失否定発言」が知られるが、テロ対策を強調して市民団体を軽んじた経緯にも安倍が責任者として背景にいることが分かる。むしろ、彼の思想による弊害としては、こちらが本質的と言えるだろう。

また、青山氏は専門委員としてメルトダウンの脅威に対策するように説いて回ったと、原発事故の後になって何度も言っている。はだしのゲンの鮫島某とは違って恐らく事実の一端は示していると思われるが、任命者が電源喪失しないと国会で見栄を切ったことについては今回の資料収集では何も出てこなかった。

【事故直後、脱原発デモより先に『立ち上がれ日本』で菅政権を誹謗する】

青山氏は事故直後の2011年3月20日に、政党『立ち上がれ日本』の集会で「菅政権は恥を知れ!最低・最悪の震災・原子力対応」などと積極的に政争の具として講演を行った。

これはよく右派が批判する最初の大規模脱原発デモ(素人の乱主催。2011年4月10日)より早く、また、電力関係者が参加していると述べていた。また、この講演で菅直人の福島第一訪問を批判しているが、翌月に自らが訪問するなど、ある種の模倣的行動に出た。

【事故直後、津波が原因ではないと主張し目を逸らそうとする】

青山氏は2011年4月に吉田所長を訪ねた。5月13日には、その経験を元に参議院予算委員会に呼ばれてこんなことを言っている。

原子炉建屋は実は津波の直撃を受けた段階ではまだしっかりしていた。

勿論、これは後の事故調査報告で否定され、3ヶ月後に2008年の15.7m社内想定が報じられた。

彼は何でこんなことを言ったのか。

情報が無ければ色々な仮説は立てるものだが、当時から推進派も「原因は津波」が主流の意見であった。だから彼も「実は」と切り出した。

市民から「大津波の想定」について、文句が出ていることを電力を通じて聞いており、警備上の理由から情報公開すべきではないとコメントしたのだろうか。正直、その程度の会話なら私的なメールや会食でも伝えられる。

そこまで直接的ではなくても、懇意にしている電力の思考を忖度して先回りした可能性もある。

【メルトダウンの脅威が非公開情報だったと主張する】

青山氏は次のような奇妙な主張を行っている。ネットに残っている彼が出演したTV番組の書き起こしも大同小異である。

今までは「開示できない非公開情報」であり、今となっては非公開の意味が全く失われた情報がある。

それはこの情報だ。(中略)「原子炉が自動停止しても、その後に冷却が止まれば、原子炉の中の核生成物が出す崩壊熱によって、数時間でメルトダウンが始まる。テロリストがその弱点を知ったうえで冷却を止めてしまえば、極めて重大な事態となる」

「テロ標的の筆頭となる日本」『VOICE』2011年7月P172

まず、非公開という主張がそもそも嘘と言って良い。

崩壊熱のリスクは、福島事故前でもネット、或いはその辺の図書館や大型書店の原発棚で手に入る程度の情報に過ぎなかった。何冊も出ていた原発震災警鐘本も基本的なメルトダウンに至る原理に大差はない。これは、事故前から原発反対派が様々な警鐘を行っていたことや、3月11日の晩に、各方面からメルトダウンの可能性がコメントされたことからも明らかである。

しかし、青山氏と同レベル以下の思い込みの激しい人物が集まると、メルトダウンに対しての理解がデタラメとなっていった経緯について納得は行く。いわゆる右派軍事ブロガーJSFによる「馬鹿は黙ってろ」事件や、大阪大学教授菊池誠による「メルトダウンではないだす」発言などである。

電力業界の安全神話の他に戦犯がいるとすれば、青山氏のようなセキュリティを売り物にする人物による中途半端な情報の垂れ流しが原因だろう。JSFのような軍事オタクは後者の情報を又聞きで記憶していた可能性が高い。

勿論、セキュリティ方面で出回っていたデタラメは、彼だけが原因では無い。次に示す読売新聞社の月刊誌『テーミス』の記事は、より「馬鹿はだまってろ理論」で知られるJSFの主張に酷似している。

原発自爆テロは、一見容易にみえて、実は核物質奪取以上に実行可能性は低いといわれる。原発の大半は核分裂の暴走が起きないよう三重四重の防護措置が組まれており、しかも「すべての反応が安全サイドに動くよう設計されている」(原発関係者)からだ。運転員自身が意図的に暴走を図っても、原子炉はいうことを効かない仕組みになっている。(中略)現在、世界の主流となっている加圧水型(PWR)や沸騰水型(BWR)では、核分裂の暴走は理論的にも起きないようになっている。

原子炉そのものを破壊しようとするのも無理な話だ。圧力容器、格納容器は数十センチメートルの更迭、1メートル以上のコンクリート壁などで出来ており、テロリストが入手可能な爆弾、ミサイルでは到底、破壊は不可能だからだ。日本の原発は9.11テロやジェット戦闘機の衝突に対しても原子炉に致命的な損傷が起きないような強度設計がされている。

「しのび寄る「原発テロ」への備えは万全か」『THEMIS』2004年11月P90

JSFや菊池誠等が撒いたデマの検証作業は岩波に投稿するような階層の物書きからは「下らない事」と思われていたようで、『科学者に委ねてはいけないこと』に収録された影浦峡氏の表現に典型的に表れている(私もある市民団体の幹部に「捨て置けばいい」と言われたことがある)。勿論、彼等の典型的な甘さであり、2015年頃以降から、原発以外の分野でも様々な右派のフェイクニュース叩き本を出さざるを得なくなった。少しずつでもいいから、こういう作業は進めるべきである。

【青山氏の主張は何が間違っているのか】

大体以下にまとめられる。

  • 勉強すれば分かる程度の事実は書名タイトルにあるような「機密」ではない。
  • 機密ではない以上、彼の本は売名のためのビジネス目的である。
  • ビジネス以外に目的があるとすれば、純粋なテロ対策の警鐘ではなく政治活動である。実際、安倍晋三等と親しく、再三の自民党からの打診をOKして政治家となった。
  • 反対派の指摘は真摯に受け入れ、TV番組や雑誌記事で積極的に紹介するべきだった。
  • 当然のことながら、テロ対策・防災対策の不備は原発反対運動のせいではない。何故なら所有と運営の主体が電力だから、理屈としても実務としても成立しない。過去に当ブログで論じた通りである。
  • 情報公開を狭めれば社会からの批判に目を背け、原子力政策を誤り、防災対策も疎かになると理解していない。その根本は日頃からのリベラル・左翼批判に見られる「反対派の主張は誤ってなければならない」という偏見にある。
  • 「テロ対策を警鐘したが、電力がそれを受け入れなかった」から福島事故が起き、責任を感じているそうだが、理屈としては通らない。青山氏の負うべき責任は左翼批判とテロ対策を煽った結果、東電がそれを方便とし、反対派に津波に無防備な海水ポンプを見せなかったことにある。またそのような電力の態度に気付きながら庇ったのは青山氏である。

【本当に取るべきだった解決策とは】

このように書いてくると、テロ対策と防災対策は両立しないかのようにも思えてくるが、もちろんそんなことは無い。

なお、私も原発が核物質の巨大貯蔵庫でありセキュリティリスクが高いことは了解しているので、現状に準じた警備は必要と考える。311後は、陸自幹部OBによる問題提起があることも知っている(矢野義昭「今の自衛隊、警察では原発を守れない」2011年6月10日)。一般的にネット右翼は藁人形論法や「無防備主義」などのレッテルを貼ってくるので、予め書いておく。

似た事情は立地自治体の市民団体にもあり、防災訓練や対策の強化の申し入れは以前から新聞の地方面でも報じられていた。例えば『朝日新聞』2002年2月9日朝刊島根1面等)。

海水ポンプや取水路・放水路がテロに脆弱ならば、土木工事を伴なう改造を施せばよかっただけのことだ。例えば、福島第一の場合は、建屋を作って覆うとか、非常用海水ポンプとその建屋を増設するべきだった。きちんと水密化すれば防災上の耐久性は見違えるほど向上しただろうし、建屋の壁を厚くしたり、装甲を仕込むことによって、携帯火器で抜けないものにすれば物理的な防護度は格段に向上する。

もし、そのような工事が不可能ならば、テロ対策と防災対策は両立出来ないことになる。つまり、テロ対策上も、装甲された建屋で覆わないのであれば、武装警官達が防衛に失敗すれば簡単に破壊されてしまう。その状態で永遠に放置される。

そんな施設には存在価値が全くない。出来ないと分かった時点で運転を中止すべきだっただろう。

以上の2方策のいずれかしか、事故前に推進者が選ぶ道は無かったと思う。

事故後、原子力委員会防護専門部会はサブテーマとして「福島第一原子力発電所事故を踏まえた核セキュリティ上の課題と対応」を議論したが、公開された議事録を読む限り、市民団体の見学拒否に関する反省は一切していない。津波や避難の問題では法的責任こそ認めないものの、何らかの反省の意思は責任者達から示されているが、こいつ等にはそれすらも無い。

なお青山氏もやるべきことがある。「森友学園頑張ってくださいねー♪」動画など、原発以外の案件でも様々な味噌を付けていることを批判されているが、当ブログとしては過去の歪んだテロ対策に加担した責任を取って、代議士を辞め、言論・講演活動の内容を大幅に見直すべきだと結んでおく。

※文中、評判の確認と訓話的な意味でツイートを引用した。

2018.3.18:原子力委員会防護専門部会議事、資料の検証結果を追記、反映。

2018年2月 1日 (木)

福島第一の敷地高を決めた東電小林健三郎とはどのような人物だったのか

東電の、今で言う総合職で、最後は取締役待遇クラスまで上り詰めた小林健三郎と言う技術系幹部が、福島第一の敷地高決定の中核にいたことは下記のブログ記事で明らかにしてきた。

東電事故調が伝えない事実-津波に対する考え方を整理出来なかった小林健三郎- 2014.05.06

津波記録が容易に入手出来ても敷地高に反映する気の無かった東電原子力開発本部副本部長小林健三郎 2014.06.23

その小林健三郎は、実態の良く見えない人物だったが、実は311の10年前に亡くなっており、この度同氏の追悼文集を入手した。

私が公共性の高い事項としてつまびらかにしたいのは原子力発電に係った観点からの彼の人間性と技術観である。それ以外のことは特に明らかにする意味も無い。

なお、追悼文集について史料批判的見地から予め述べておくと、故人のプラス面を結晶化するために書かれたものであるというバイアスがかかってはいるが、私的な場での見解は本音で語られていることが多いと考えられる。

【1】高知に生まれ、旧制高校卒業まで生活する。

小林健三郎は、1912年(大正元年)12月8日、高知県で生まれた。以降市内旧制城東中学、旧制高知高校(現:高知大学)を卒業するまで地元で生活した。ナンバースクールには行かなかったということになるが、普通の旧制高校でも勉強が出来る者は帝大に合格するだろう。

実は、一番驚いたのがこの件だった。何故かと言えば、彼は後年博士論文「わが国における原子力発電所の立地に関する土木工学的研究」(1971)で、全国の原発適地を調査した時、高知県の沿岸部も含め、太平洋岸に原発を建てるなら、湾奥を避ければ敷地高(海抜)10mもあれば十分だという趣旨のことを書いていたからである。

これは、高知で生まれ育ったなら、あり得ない記述である。

実は、私の親族にも戦後、1960年代に高知高校(旧制とは別の私立高校)を卒業するまで高知で暮らしていた人がいる。その人に小林論文の話をしたところ、同じ反応であり、特に須崎の辺りは特に津波が高くなる場所なのは地元では常識、そもそも文献だけでなく古老が言い伝えてきた筈だとの答えを貰った。その後、311以前の地震・津波に関する文献を色々調べてみたが、やはり湾奥でなくても宝永津波のような10mを超す記録が残っており、元地元民だった親族の相場観を裏付けるものだった。

高知は三陸に次ぐ津波常襲地帯であり、歴史津波の記録は理科年表にさえ一部が載っている。それらを読めば、上代まで遡るまでも無く、記録は幾らでもあるのだ。神社仏閣に津波碑も残っている。

それどころか、1920年代位までは、古老自身が津波の体験者であった可能性もある。当時、高知に大津波をもたらした最も新しい記録は安政南海地震(1854年)だからだ。旧制高校に通えるような良家の子供であったと思われる小林少年は、古老から生の体験談を聞かなかったのだろうか。

和歌山では安政の津波を元に例の「稲村の火」で祭事化まで図って伝承していることと比較すると、この差は余りに大きい。

よって、小林健三郎は自らの博士論文で意識的に虚偽の記載をしたと言えるのである。

【2】京都帝国大学土木工学科を卒業する。

1935年3月、小林健三郎は京都帝国大学土木工学科を卒業した。後年、博士論文を提出したのも京都大学であり、親族を京都に連れて行っては当時の思い出話をしたのだと言う。

この時、同窓だったのが黒井俊治という土木技術者で、彼も電力土木、特にダム関係に進んだものらしく、ciniiでは関係論文がヒットする。

後輩だったのが小林料と言う人物で、東電でも原子力立地や送電線建設において小林健三郎と一緒に仕事をした。そのため『京大土木百年人物誌』という記念誌にて簡単な経歴紹介をしている。また、小林健三郎の死後に『「生真面目」でいいじゃないか』という自身の半生を振り返った著書を出している。

【3】神戸市役所での勤務を経て海軍施設部に徴用される。

最初の就職は神戸市役所だったのだが、6年経った1941年5月、国民徴用令に基づき、海軍に徴用された。施設部時代は、宮崎に飛行場を建設し、後に特攻隊の出撃基地として使われたとのことで、年を取ってから旅行している。1945年3月技術少佐に任官する。

また、1945年8月6日には江田島におり、原爆投下直後の広島に部隊を率いて救援活動に向かったと書かれている。

戦後の小林は、当時一般的だった陸軍悪玉、海軍善玉論を引用し、総括していたようだ。「陸軍は、まっすぐしか物事を見る事しかできないが、海軍は世界の情勢を常に知る事を訓練されていたので柔軟性があった」などと言っていた。まぁ、自分がいた組織への贔屓目と論壇での総括の受け売りだろう。特に平成期以降、ネット右翼に媚を売ってるパフォーマー以外は、陸軍も海軍も悪玉だったというのが常識的な相場観である。

【4】東電に入社してからの経歴

戦後は、運輸省に短期間在職した後、建設会社小林組、次いで協同建設を立ち上げ取締役社長となるが、事業は軌道に乗らず解散に追い込まれる。だが、この時広島に本社を置く発光建設の創業者と知己(元々京大土木→徴用令で海軍施設という経歴も一緒だった)になり、その息子宮内輝司が追悼文を寄せている。発光建設は海洋土木が専門で原発港湾の防波堤なども整備してきた実績のある企業だ。

その後、石原藤次郎京大教授(防災工学、水理学)の推薦で中途入社したのが東電で、1953年2月のことだった。日本発送電が九分割されたのが1951年5月だから、1年9ヶ月しか経っていない。

東電に入社した後は、基本的には千葉県市川の自宅から通った。なお、晩年までこの地で過ごしている。

1950年代の仕事の一つには横須賀火力の立地調査があり、リタイア後に再訪している。

1959年7月には早川水力建設所長となる。

1960年2月には本店に呼び戻され建設部土木課長となる。この頃、小林より6年早く大学を卒業し(東大)、日本発送電より更に前の東邦電力時代から生え抜きである田中直治郎は、工務部長としてTAP(東電社内の原発研究プロジェクト)に参加していた。小林健三郎がどうだったかは分からない。だが、田原総一郎『ドキュメント東京電力』の第一部によると、建設部長代理時代、原子力発電準備委員会のメンバーになっていた。原子力発電準備委員会は本店に設けられた組織で、1964年12月に発足している。少なくともこの頃には原発との付き合いが始まったことになる。

1965年12月には原子力部長代理となる。

なお、後に原子力開発の生き証人としてよく引き合いに出される豊田正敏は1945年に東大卒、福島第一所長や副社長の経歴がある池亀亮はその更に数年後に大学を卒業しており、小林健三郎とは10年以上の世代の違いがある。

さて、1967年1月には原子力開発本部副本部長福島原子力建設所(駐在)となる。しかし、福島第一1号機の設置許可申請は1966年7月、敷地高が正式に決まったのはその時だ。今まで敷地高決定の中心にいた、という書き方をしてきたが、この時期に社内でどのような動きがあり、小林健三郎がその中で何を何時決めていったのかは明らかではない。

1970年5月、取締役就任。電源立地と公害問題を総括する環境総合本部副本部長となる。福島第一の後も、広野町への火力立地(後年の広野火力発電所)を提案するなどの功績がある。

1971年7月には取締役公害総本部副本部長となる。また、同年2月に提出していた博士論文が認められ、工学博士となる。

1977年6月には常務取締役送変電建設本部長となる。下郷線などのルート選定のため、自ら各地を視察して回った。

1980年3月には日本原燃サービス(現、日本原燃)設立に伴い、同社副社長となる。

1984年6月には日本原燃サービス社長となり、六ヶ所村再処理施設の基本計画に係わる。

1987年6月には日本原燃サービス顧問となる。

1989年7月には東電の顧問となる。

1997年4月には、脳梗塞で倒れ東電病院に搬送される。倒れる少し前までは、東電の土木OB会にも積極的に顔を出していた。

2001年7月14日、東電病院にて召天。

飛行場建設と聞いてピンときたことがある。福島第一の敷地は陸軍の飛行場跡地を利用しているという事実だ。

『原子力発電所と地域社会』(日本原子力産業会議)、『東京電力三十年史』他、専門誌記事等を読み返しても、元々飛行場だったことに触発されたという記述は無く、この種の重要施設に相応の事前調査の末に決定した旨が書かれている。しかし、小林の個人的経験として、飛行場建設は身体感覚で染みついていた筈である。そして、土木から見た飛行場適地とは、平坦で広大な用地が確保出来る地形となる。この特徴は原子力発電所の適地に求められる条件の一部と共通する。

なお『歴史群像』で太平洋戦争期の研究記事を多数投稿している古峰文三氏は次のように述べている。

 

もっとも、福島第一は、圧力容器を始めとする長尺重量物の輸送、及び冷却水取水の都合から敷地高10mとなり、その造成工事には膨大な機械力が投入された。規模は戦時中の飛行場建設とは比較にならない。

ただ、1964年の用地買収後に公表された最初期の構想では、出力は一回り小振りの35万kW級だった。なお、東電による現地の詳細調査は用地買収後で、小林が準備委員会委員となった時期と重なる。この調査で、初めて造成規模の巨大さを数値化したのだろう。

よって、用地買収前に構想していた出力、そして造成規模は更に小さかったと思われる。傍証として、中部電力が1959年に検討した『186MW沸騰水型原子力発電所の検討』という資料のモデルプラントは、海抜25m前後の海岸丘陵地帯への建設を想定しているが、掘削土量は『土木技術』1967年9月号に報告された福島の120万立方メートルに比べ、僅か17万立方メートルに過ぎない。

恐らく1960年代前半の東電は、現実の福島第一ほど広範囲の掘削造成は考えずに買収を決断したのではないか。そして、その判断に小林の体験が反映されていたのではないだろうか。勿論、この推測の当否は今後の資料発掘次第なのだが。

東電時代は土木が専門だったこともあり、鹿島、飛島、間、熊谷、奥村などの各社トップとの付き合いも多かった。プライベートに仕事は持ち込まなかったが、「特定の人の派閥には属さない方がいいよ」と漏らすこともあった。

なお、原子力を専門とする職位についてから僅か7年で博士論文を提出した動機は書かれていなかった。元常務取締役の野澤清志、元東電常勤顧問の小林料といった当時の同僚、部下もその辺の事情は明らかにしていない。原子力部長代理になる前から火力立地での経験に加えて原発の勉強をしていたのかも知れないが、それにしても、上級管理職相当の仕事をしながら6年で博士論文は尋常ではないという印象を、私は持つ。そのこと自体は、「凄い」の一言である。

また、大学研究者的な目線で、博士論文を書くと言う行為の意味を考えると、自分の仕事に最終的な責任を引き受けたということでもある。生前、他者の助言で書けた旨常々言っていたそうだが、それは誠実さの表れであって、敷地高決定や適地選定の責任を誰かのせいにはしていない。

小林論文の査読者は主査が高橋幹二、他に彼に東電を紹介した石原藤次郎と、海岸工学が専門の岩垣雄一であった(京大リポジトリ)。通常、原発の設計に責任を持つのは電力会社/メーカー、および規制側だが、福島第一(および同じ思想で建設された福島第二)の場合、その敷地高の根拠が論文になったという特性上、この3名も歴史的評価に晒されねばならない。

特に、藤原藤次郎は逸話の多い人物である。『科学研究費の基礎知識: 文部省の制度・運営・審查を複眼でみる』などを読むと、伊勢湾台風を契機に特定研究(災害科学)研究の予算を継続的に確保し、京都大学防災研究所の発展に尽力した一面を持つ。この時代の文部省科学研究費特定研究(災害科学)研究報告集録には津波研究に触れたものがあり、丁度藤原が防災研究所の所長だった頃である(同1963年版目次参照)。

その反面、小林論文執筆の頃、土木学会会長を努めたり(1968~1969年)、 天皇と呼ばれて多数の門徒を育成した(日本リスク研究学会 2007 Newsletter No.2 [Volume.20] October)。防災のため学閥拡充が必要になると教え子を就職先から何人も大学に呼び戻した(ダムインタビュー(60)中川博次先生に聞く。 藤原より5年後輩の小林に声がかかったかは不明だが、若手には多かった)。他、学長選挙に立候補して落選するなどした。石原のリスク観については十分解明できていないが、土木学会会長、或いは業界の天皇と呼ばれる人物の弊害を考えると、余り明るい見通しは抱けないと思う。

【5】地質学への造詣

孫の1人には小学校の頃鉱石図鑑を買い与え、大学生でも持っていないような重厚な出来栄えのため、その孫が成人してからも難解で読めない程の水準だったとされている。

彼の地質学に対する拘りが良く分かる。また、60歳近くになって書いた先の博士論文は相当思い入れがあったものらしく、その様子は各人の追悼文からも伝わってくる。

【6】木川田一隆を礼賛する。

個人としてキリスト教を信仰するに至ったこと(後述)以外では、俗世の人士として木川田一隆を尊敬し、影響を受けていた。年の離れた親族にプライベートで何度も語っており、木川田が亡くなってからも墓が近かったので度々お参りしていたというから、事実だろう。

原子力の技術者達の技術観や人生観を知るために、後の我々が参照する資料は何と言っても社外の専門誌に投稿した論文が多く、それらは経営者に対する所感を語る場ではない。取締役クラスの技術者になると業界誌での対談機会も出てくるが、そこで語られる言葉は「よそ行き」の言葉であることは留意しておかなければならない。特に、木川田が現役の際は、部下がそのような場で反旗を公然と示すことはまずない。従って、この証言にはとても価値があるのだ。

電力業界や財界での「木川田信仰」は彼が死んだ後ではなく、生きている頃から存在していたようで、電気新聞などの業界誌では通常よりワンランク上の持ち上げ方をされていることが多い。その批判として代表的な物は斎藤貴男『「東京電力」研究 排除の系譜』である。要旨としては、結局は社の事業に忠実なロボットを量産するための方便でしかなかったというものと理解している。

私が入手した資料の中に、東電学園高校が2000年代に閉校した時に発行した記念誌がある。そこに書かれているカリキュラムが、平日は1~8限まで詰め込む徹底振りで、しかも寮制が基本だった。また、半世紀の歴史の中で卒業生は数万人いるが、女子は最後の数年に採用した100名に満たない。確かにロボット製造の場で(しかもミソジニーとも親和性あり)だったのではないか?と言う疑問が沸いてくる。

その木川田を尊敬する小林健三郎が、ある親族が新社会人となる際に教え諭したことの中には、「社命には私情を挟まず従いなさい」という一文があった。他のことは誰でも納得出来るような訓戒だったので、違和感を感じた。

確かに、東電や原子力業界を批判する文脈でも「利益相反」への批判は「私情を挟まず」に通じる物がある。しかし、ここでいう私情には「異論」も含まれるのではないか。社命が社会正義に反していた時にどうすればよいか、という視点がすっぽり抜け落ちているのは、木川田礼賛のマイナス面ではないかと感じるのである。

【7】20年以上教会に通った後に、受洗する。

私がこの点について注目するのは、キリスト教への関心が丁度博士論文を書いた頃に起こったからである。先に、ある親族が入信し、小林健三郎当人もその後、20年以上日曜日の礼拝を始めとして、背広姿で教会に通い続けたものの、入信は1987年まで躊躇い「私は仮免だから」と周囲に謙遜していたのだと言う。

従って、葬儀はキリスト教式に執り行われた。

さて、大規模な不祥事や事件、戦争などが終わった後の感慨としてよく次のようなことが言われる。

一神教には戒律があり、神と契約している者は嘘に対して疑問を持つことが多い。よって彼等は周囲の態度で物事を決めるのではなく、自主的に(或いは神に照らして)その行いに間違いが無いかを考えようとする。

牧師が出てくることから小林が入信したのはプロテスタント系なのだが、カトリックだとよく罪の告白を教会で行うなどの場面を(創作とは言え)ドラマなどで見かける。

では、小林健三郎は自らが誇りにしていた博士論文兼会社として行った原発適地の選定レポートにおいて犯した間違いを、告白しただろうか。

明らかに公にしていない。追悼文集にもそのような話は出てこない。

実社会とは基本的に嘘がつきものなのは、洋の東西を問わないが、原子力は特に問題のある嘘が多いことで知られる産業である。小林は原発建設の他にも、日本原燃サービス社長として、再処理施設の基本構想を取りまとめる仕事に参加したが、身を引いた後、積極的に真相を語ることはしなかった。

一口にキリスト教信者と言っても信仰のあり様は人それぞれである。だからこそ、他宗教(無宗教)を含めた優劣を問うことはしない。ただし、彼の場合、信仰は東電や日本の原子力発電が幾つも重ねた虚飾を剥ぐ力にはならなかったのである。

なお、追悼挨拶の代表は同じ教会で知り合った元千葉県知事、川上紀一であった。彼もまた、知事時代の末期に5000万円の政治献金を受ける代わりに便宜を図るとの念書を書いたスキャンダルを起こして辞任した人物である。もっとも、彼は自分が念書を書いたことは認めて知事を辞職したのではあるが。

追悼文集であるから、教会関係者の彼に対する態度は生前の善行・勤行に対する礼賛に満ちている。中には町の開発に係る問題が起こった時、知己を辿って某鉄道会社の元重役を相談相手に紹介したこともあるのだと言う。だが、それらは東電社員としての生き様とは切れた世界での話だ。本当に善行だったとしても、東電での活動とはリンクしない。

はっきり言ってしまえば、彼等のような経済的上流階級のキリスト教信仰は、得てして、自らの悪行を誤魔化すための手段でしか無かったのではないだろうか。吉田昌郎氏の般若信教信仰が、東電本店時代、津波対策を先送りした不作為に、何の役にも立たなかったように。

原発事故に宗教観を持ち出して説明する言説には元々疑問を持っていたが、この件ではっきりしたような気がする。事故を防止するハードとして五重の壁やECCSがある一方で、特定の宗教観や思想にそれが求められることもある。しかし、どのような宗教・思想をもってしても、何時も「作動」するとは限らないということである。

【8】晩年、原子力発電を推進したことが正しかったのか、悩む。

往時は京大土木工学科の同窓生を福島第一原発に招いて案内するなど、彼は自分が敷地高を決めた原発に自信を持っていたようだ。

しかし親族によると、晩年は原子力を推進したことが日本や人類にとって正しかったのか疑問を持っていたのだと言う。そしてメモ帳に次の日経社説を切り抜いて取っていた。

環境の世紀を迎えるにあたって私たちはさまざまな観点から環境問題を取り上げ、対策を提案してきた。(中略)環境問題の原点は、人類が自然界の一員であることを自覚し、自然を征服することで作り上げた文明のあり方を問い直し、見直すことから始まる。言い換えれば自然の破壊・開発を持って文明としてきた人類の歴史を、自然との共生・調和の方向に作り変えていくことに他ならない。人間中心主義とも言える自然観、文明観を転換し、宇宙船地球号の一員として自らを律し、その知恵と能力を自然との共存共栄のために使うことでなければならない。(中略)自然の本質を理解し自然界の法則を探る科学は、その思考構造において、宇宙の創造主である唯一絶対の神の存在を信じるキリスト教のそれと似ている。唯一存在である神のへの帰依は、真理の探究を使命とする科学の誕生を用意したと言える。(後略)

「自然との共生、新しい文明を-環境の世紀への提案-」『日本経済新聞』1995年5月29日

なお、1980年代に東電会長を務めた平岩外四は小林健三郎が亡くなったことについて話に上った際、「あの時代の原子力は良かったですね」との言葉を残したと言う。

電力業界で自分のした仕事を博士論文にまとめる取締役クラスの幹部は非常に珍しい。その意味では小林健三郎は今で言う情報公開性についてフェアな視点を持っていたのだろうが、逆に言えば、小林健三郎自身に不安があったからこそ、敢えて世に問うたのではないだろうか。原発適地の選定のレポートなど、自分の築き上げた地位にしがみ付く「普通の電力幹部」は絶対に博士論文になどしないからである(柴野徹『原発のある風景』参照のこと)。それが1980年代とか1990年代になってから、不安が確信に変わってきたのではないだろうか。

もしそうであるならば、日本原燃の社長を引いたのちに、何の発言もしなかったのは、失敗である。最低でも、後輩の、例えば1990年代当時50代から60代初頭位だった現役幹部達を相手に「あの研究は古い知見だから」などと警鐘を鳴らす位の事は、するべきだった。そうすれば、ボールは東電や電事連或いは官庁に投げられ、後輩も「実績ある諸先輩への忖度」の縛りから解放される。

実例もある。東北電の技術者平井弥之助氏が女川原発の敷地高を15mにするように強行に進言したのは今では調べれば分かる話だが、氏は1961年に東北電力を退職し、OBの立場で設計検討に助言している。また、平井氏は中部電力浜岡原発建設に際しても設計の研究会委員に参加している(『浜岡原子力発電所1号機建設工事誌』1976年5月)。このためか、浜岡原発は海水ポンプこそ福島第一のように剥き出しだが、原子炉建屋は1号機から防水扉を有していた(中部電力問い合わせメールへの回答)。

小林健三郎は「青臭い若造の正論」に耳を傾けることもあったという。しかしその位の事は、社会的に高位を得た年配者にはよくある話。私の個人的な経験でも、東電原子力部門の幹部級のOBは、リタイア後、業界団体で工学部の学生と討論をしたり、秘密裏に反対派と議論を交わすなどの行為にふけっていたが、彼自身が原子力に対する考え方を翻して反対派に加わったという話は、ついぞ聞いたことが無い。故に、こうした挿話も歴史的観点からは批判的に見なければならない。

【9】残された未解明の課題

色々あるとは思うが、敷地高に際して一つ宿題を残しておく。小林健三郎は自己の研究で女川地点の敷地高もまた10mとしているが、彼が福島第一の敷地高を決めた数年後、平井弥之助がOBの立場から女川に関与している。これが時系列である。お互いの判断や技術観が、どのように映っていたのかは実に興味深い。

2017年12月11日 (月)

【今こそ皆で】東京電力が隠蔽した津波安全神話のパンフレット【宣伝しまくろう】

原発の分野では宣伝・広告のことをPA(パブリックアクセプタンス)と称し、多額の予算を費やして多くの奇妙な広報が行われてきた。

この問題については既に本間龍『電通と原発報道』『原発プロパガンダ』、早川タダノリ『原発ユートピア日本』、或いは朝日新聞が出版した幾つかの福島原発事故本で様々な検証が進められている。

だが、多くの読者、そして各種訴訟当事者にとって本質的な疑問であるのは、直球の原発安全神話、中でも津波や電源喪失に対する安全神話を断言したものである。

原発宣伝の作り手は巧妙であるため、パンフレットのような紙に残るものでは、間接的なアプローチによる安全神話の浸透が多用されてきた。

  • 有利な点のみを語り、不利な点を伝えない
  • テクノロジー、空撮、女優、ポンチ絵などをバックにイメージを前面に押し出す

などの方法である。意外にも「事故は絶対に起きません」「津波が来ても大丈夫」と断言したものは余り数が多くない(それでも放射能、地震に関しては福島事故前から関心が高かったので、直接的な断言も多く見られる)。

今回、東京電力が行った津波安全神話の広告が発掘されたので、ここに紹介する(下記画像は敢えて3MBで掲載)。

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『げんしりょくはつでん』P19-20東京電力営業部サービス課 1989年5月

ただし、上記ページだけでは東電とは分からないので表紙も載せる。恐らく小学生用だったのだろう。

よく見ると、文章と絵がちぐはぐである。敷地を高くしているのに津波がそれを超えようとしている。とてもまともな監修者がチェックしたとは思えない代物だ。こんなデタラメ説明をしていたのなら、福島第一が敷地を超える津波で水没したのも納得である。

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次に目次を示す。

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我々の受け止め方、使い方だが、まずは、東電による津波安全神話の存在を広く知ってもらうため、ツイッターなどで拡散して頂ければと思う。元が宣伝用の冊子なので、ある意味向いている。特に、未だに原発推進を説く業界人のツイートにリプを返す形でぶら下げるのはとても効果的だろう。目障りなツイートの減少も期待出来る。

【補論:東電の津波PAに何故そこまで拘るのか】

以下は、過去の経緯や訴訟に関心を持っている方向けに書いたものである。パンフレットの醜悪さは見れば分かるだろうから、運動家が特に無理して読む必要はない。ただし、これまで原発問題について書かれた書籍では扱いの薄い、津波とPAについて主軸にしていることだけ予め述べておく。一言で言えば、菊池健、宅間正夫、竹内均といった80年代以前に東電が用意したPA師達によって、今日の地獄に至る道は「丁寧な説明」によって舗装されたのである。

宣伝用パンフレットによる、原発の津波安全神話は、次のものが知られていた。

文部科学省:「わくわく原子力ランド」(2010年、関連togetter

福島県:アトムふくしま1990年11月号他

したがって、国や県に対しては原発広告の面からも直球の批判を加えることが出来た。だが、意外にも東京電力については、自社のHPに記載されていた簡単な案内以外に、津波に言及した宣伝は発見されていなかった。

何故発見されなかったかと言うと、福島事故後、業界をあげて消して回ったからである。

その後事故の深刻さが明らかになると共に、原発プロパガンダに手を染めていた企業や団体は脱兎のごとく証拠隠滅に走った。原子力ムラ関連団体はそれまでHPに所狭しと掲載していた原発CMや新聞広告、ポスターの類を一斉削除したのだ。

事故以前、東電のHP上には様々な原発推進広告が掲載されていたが一斉に消去され、二〇〇六年から新聞や雑誌広告と連動させてHP上でも展開していた漫画によるエネルギー啓蒙企画「東田研に聞け エネルギーと向き合おう(弘兼憲史)」もいち早く三月末には削除した(中略)。

さらに原発プロパガンダの総本山である電事連さえ、原発に批判的な記事をあげつらって反論していた「でんきの情報広場」の過去記事を全て削除した。NUMOも、過去の新聞広告やCMの記録をHPから全部削除した。そして、資源エネルギー庁も、HPに掲載していた子ども向けアニメ「すすめ!原子力時代」などを削除した。また、二〇一〇年から大量の原発広告を出稿した東芝も、自社HPの広告ライブラリーから原発に関連する広告画像をすべて削除した。

(中略)カネに魂を売って安易に作り続けてきた作品群は、カネの切れ目が縁の切れ目とばかり、あっさり闇に葬られた。

本間龍「証拠隠滅に躍起になったプロパガンディスト」『原発プロパガンダ』第4章 岩波新書 2016年4月

本間氏が書いている通り、東電や電事連は、宣伝を消して回った。用心深く事に当たっていたから、津波安全神話を作らなかったのではない。これは推測だが、むしろイメージ広告が主体の紙メディア掲載済みのものは囮として活用し、より問題ある上記のようなタイプの宣伝を最優先で削除していたことさえ私は疑っている。特に東電の場合、東京レコードマネジメントという自社グループ専門の文書管理子会社を持っていることは、注目されても良いと思う。

最近、ネットの質問サイトでも事故前の宣伝の酷さを知らない人が「安全神話なんて本当にあったのですか」などと書き込んでいるのを何回か見かけたが、困ったことだと感じている。添田孝史氏の最新刊『東電原発裁判』でも、福島県の計画している原発事故の展示施設が、いずれも過去の安全神話に切り込む姿勢に消極的という報告がある。

そこで、民間の収集家の出番となるが、こういったパンフレット類は一過性のものであり、「史料」として認知されにくい。大量に消費されていてもほぼ100%近くは捨てられる。ことに原発反対派の場合、有害図書としてすぐに捨ててしまう向きも多かったのではないだろうか。時が経つと、こういった証拠の品は有用なのだが(だから原子力「情報資料」室は推進派以外にも嫌っている人がいたのだろう)。

なお、存在自体がそのまま訴訟に繋がり得る広報は、私が収集した中でも、黎明期から次のようなものがある。

【事例1:菊池健(福島民報、1976年)】

この時は、新聞社が女性向けセミナーを主催し、サービス・ホール(第一原発併設の展示施設)に連れて行った。サービスホールで案内したのは館長の菊地健氏。その様子を1面使って報告した、今で言うPR記事が載った。そこで決定的な一言が記録された。

地震にも大丈夫

発電所などの施設は、太平洋に面した標高三十五メートルの台地を標高十メートルまで掘削し、主要な建物はすべて耐震設計。わが国は地震が多いだけに不測の天災が気になるところだが、菊池さんは「施設は丈夫な岩盤の上に鉄筋を縦横に組んでいるから、関東大地震の三倍の地震が起きてもビクともしませんよ。」と胸を張る。また、津波にしても延長二千八百メートルの防波堤が大抵の大波をシャットアウトしてしまうという。

新しいエネルギー原子力 民報女性社会科教室」『福島民報』1976年11月9日6面

津波シミュレーション、堆積物調査の技術が無かったとは言え、開口部のある防波堤でシャットアウトとは随分といい加減なPR振りである。あの防波堤は外海の一発大波や暴風時の高潮には効果があるが、津波防波堤としての機能は(公開された仕様には)規定されていない。しかも津波警報が発令された際は昔から4m盤は無論のこと、10m盤からも退避するのが習わしであり、緊急時のマニュアルにも取り込まれていた。

【事例2:宅間正夫(政経人、1982年)】

これは外部電源喪失の問題なので津波とは異なるが、PAとしては殆ど存在していないので、挙げておく。それは『政経人』という、『電気新聞』のような業界誌にしか広告を出さない、電力業界向け月刊経済誌に載っていた。インターネット普及前の日本には、こういう一見怪しい提灯雑誌だが、妙に業界の内情にも詳しい定期刊行物が結構存在したのである。そこに、1970年代原子力部門で設計・建設を担当したある東電技術系幹部社員の言葉が載った。

一ヵ所にまとまって建っていれば、港湾や道路の他に共同で使えるものはたくさんある。(中略)送電ももちろん、発電所の中に変電所をつくり、まとめて一気に送っている。ただ、この送電線が事故や地震などでいっぺんにやられないかという心配があると 思うが、今の技術から言って、変電所や送電線は一寸した地震には十分耐えられるし、故障しても直ちに保護装置でその波及を防ぐといった設計になっている。 これは原発に限らず電源が集中的に固まっているところの送電設備や変電設備は、「保護システム」が非常に高度に出来ているので、いっぺんに全部やられると いうことはほとんどありえない。

東電・原子力発電の現況-卓越した実績を元に着々計画進行」『政経人』1982年10月号P84

彼については2014年の記事で取り上げているが、その後、2017年に書いた記事で、1982年当時でさえそのような考え方が誤りであったことを示した。しかし宅間は、東電OBとして、2000年代に原子力産業協会の副会長、原子力学会会長まで上り詰めた。

【事例3:日米規制当局の警告を無視(1989年、福島民報)】

1980年代、深刻な原発事故が相次いだことを受けて、シビアアクシデント対策が議論されるようになった。この時に東電が示した消極性は事故の遠因としてこれまでも色々な文献で言及されているが、事後証言と文章表現的には巧妙に書かれている公式文書に頼った、曖昧な表現に終始している。しかし、米NRC(原子力規制委員会)がベントが確実に出来るように改造するよう勧告を出した時、東電は次のようにコメントしていた。

現時点で対策不要 東京電力の話
今回の米国の動向については十分承知していた。日本の原子力発電所では事故発生防止を最優先に安全性が高められており、現実に炉心溶融など起こるとは考えられない。現時点では、そのような事故の影響を緩和する対策を講じる必要はないと考えている。

予め断っておくが、ベントすべきかどうか自体は無条件で賛成すべき見解ではない。ベントにより地元は汚染されるためである。したがって、この記事にある資源エネルギー庁のコメントは当時の回答としてはまずまずである。同じ東電のコメントを載せた、福島民友ではエネ庁の見解が「基礎的な勉強中の段階」と完全な否定ではないことも伝えている。東電がおかしいのは、理由としてリスクではなく完璧な安全神話を持ってきていることである。インターネット時代以前のPAはそれなりに巧妙に書かれているものだが、このコメントはそうした巧妙さとは無縁で、東電技術陣の傲岸な態度がありありと刻印されているので、価値があるのだ。

その後、1990年代になって日本の原発は確実にベントすることを目的とした改造を実施し、福島事故の際はベントすることが目標となった。

このように、傲岸不遜な態度については、ストレートニュースなどの形でメディアにも記録されてきた。今回の発見で欠けていた重要なピースが嵌ったと言える。

【第二次行動計画(1989年)で強化された原発PA】

このパンフレットが作られた1989年とはどういう年だったのか。

当時電力業界の営業・広報関係者および記者クラブ関係者、代議士事務所をターゲットにして書かれたと思われる『開く見える動くいま東京電力』(マスコミ研究会、国会通信社刊 1990年)という1冊の本がある。何故か国会図書館には納本されていないのだが、当時の東電の経営戦略の概要が解説されていて非常に興味深い。

その内容をそのまま引用するとブログ記事がさらに長くなってしまうので、簡単にまとめるが、私にとって意外だったのは、当時東電原発広報が何故、前のめりになったに関しては、どうも2つの理由がある事だった。

(1)チェルノブイリ/福島第二3号機事故/地震予知対策

既報の幾つかの研究に触れられているように、事故、取分けチェルノブイリ事故(1986年)による反原子力運動の高まった時、業界内では巻き返しが必要と説かれた。こういう事故が起こるとまともな感覚ならその技術を使うことを躊躇ったり、他の危険性などが無いか用心深く点検するようになるものだが、欠陥を矮小化する動きが必ず現れる。

同書に先立って1989年に出版された『21世紀の主役宣言 いま東京電力がおもしろい』第7章によると、通産省は省内に「原子力広報本部」を設け、電事連(当時の会長は東電社長だった那須翔)も組織替えで1988年4月より「原子力PA企画本部」を設置した上、各社の広報担当常務会でこれをバックアップすることとした。

また、『開く見える動くいま東京電力』第9章などによると、1989年7月、東京電力は全社的な経営戦略として「第二次行動計画」を策定していた。平岩外四を会長に据え、那須の下で、原子力PA活動は重点課題の一つと目された。それまで企画部の中の広報課に過ぎなかったPA担当の部署は第二次行動計画を機に、広報部として独立し、スタッフも拡充された。

危機を背景に「弁の立つ」人間が太鼓を叩いて予算取り、と言う訳だ。

特に東電の場合、1989年1月に福島第二3号機で再循環ポンプ事故を起こしており、この対応にもナーバスとなっていた。このため第二次行動計画に先立つ1989年4月の人事で、福島駐在のPA担当を設置し、菊地健・送変電建設部長が就いた。同書では福島に原発を続々建設していた時期に「地元対策で奔走した」と紹介されている(実際、手元の1981年の人事記録には立地総合推進本部 第二立地部(原発などの電力設備の用地取得などを担当)に就いているのが確認出来る)。だが、ここでは上述の通り、1976年にサービスホールの館長として語った津波PAが新聞に掲載された「実績」に注目したい。東電では、津波安全神話を騙る人物が昇進したのである。

なお、上記【事例3】で取り上げたベントの記事は、菊池健の異動後の出来事である。記事を読むと、共同田崎特派員と署名されている。つまり、米国駐在の共同通信田崎記者が書いた記事の配信を載せている。しかし、過去記事データベースで検索すると、福島の2紙だけがこのコメントを掲載しており、通産/エネ庁のコメントは各紙各様の表現となっている。よって、コメントは東電本店ではなく、後述する福島PA担当の「作品」の可能性がある。

もっとも、1980年代末時点では地方紙で過去記事データベースを導入していないところも多かったので、河北新報、新潟日報、茨城新聞、静岡新聞、北國新聞、西日本新聞など他のBWR型原発のある地元紙が導入済だったのかを原紙や縮刷版を含めて確認しないと、確実なことは言えない。福島民報はデータベース導入前だったようで、縮刷版で確認した。また、「田崎記者が東電ワシントン事務所に確認したが、配信記事では福島2紙以外が削った」という可能性もある。

チェルノブイリ事故や福島第二再循環ポンプ事故は今でも文献を紐解けば載っている「鉄板ネタ」である(特に前者は)。だが、当時の東電にとっては、面倒な事態に成長し得る種がもう一つあった。

福島県内の総合月刊誌『政経東北』1989年2月号に「福島県沖に”地震の巣が・・・県の震災応急対策は万全か”」という8頁に渡る特集記事が載ったのである。記事によると、1987年春にM6クラスの地震が5回続いたことを受け、1987年5月、地震予知連が「極端に大きなものは発生しないであろうが、M6-7クラスはあり得る。津波が発生することもあり得る」と見解を発表していた。それから2年後に、『政経東北』はこの件を蒸し返して福島県を歴史的には大地震のあった場所などと危機を煽った。

『政経東北』記事では原発震災への言及はされていない。以前、反原発運動に長年従事している東井怜氏から伺ったことだが、昔は、反原発陣営の中でも地震や津波を軽く見る人がかなりいたらしい。なお、地震学者の石橋克彦氏が阪神大震災からの想像で「原発震災」を提唱したのは1997年のことだから、89年時点ではまだ提唱は無かった。

地震の危機を煽った3ヶ月後、『政経東北』1989年5月号に再循環ポンプ事故を起こしていない福島第一所長の石井敬二へのインタビュー記事が掲載された。彼はそこで、安全対策の定番トークに加えて津波に言及した。

津波対策ですが、過去の記録から想定される最大水位上昇を考慮して、敷地の高さは十分高くしてあります。

安全優先の発電所運営を推進 石井敬二・東京電力福島第一原子力発電所所長に聞く 」『政経東北』1989年5月号

丁度、今回紹介した小学生向けのパンフレットが製作された時期と被っている。今見なおすと、部門を超えての連動企画を立て、年代とメディア別にPAしていたのだろう。

東電が建設時に、重要な海水ポンプを配置している4m盤と原子炉建屋のある10m盤の位置付け整理出来なかったことは以前のブログ記事で指摘した。後述のように、89年時点では既に4m盤の安全は保証出来ない状態だったのだが、社内でどう整理していたかは未だに良く分かっていない。東電が技報などの開示を拒否しているからである。

さて、1989年6月には(この分野に関心のある向きには有名な)加納時男原子力本部副本部長が取締役に選任された。この人事で、当時すでに社内でも専門性を盾に、他部門から隔絶し始めていた原子力本部から加納氏を取り立て、タテ割りの弊害に意識革命をもたらすというのが名目だった(今の目線で見ると、原子力本部の方に意識革命が必要なら、何故その中から取り立てるのかは理解に苦しむが)。そして『原発プロパガンダ』でも指摘されているように、バブル期以降、広報予算は更に潤沢となったのである。

加納が業界誌に応じたインタビューでは「成功例」も述べられている。『電気情報』1989年3月号によると、彼が「朝まで生テレビ」に出演する度に電話での反響があり、名前を名乗ってかけてきた人とは話をするようにしていた。話を交わしたある女性は、加納が出演を繰り返す度にスタンスに揺らぎが生じ、3回目の出演後に遂に「転向」を表明したという。これは恐らく事実だろう。そのような「成果」が無ければPAに自信は持てないからだ。今でこそバカバカしく見えるのは確かだが、彼等の宣撫能力まで過小評価をしてはいけない。

(2)電力需要の過大見積もり

バブル時代の好景気は電力需要を想定以上に伸ばし、1987年に総合エネルギー調査会が出した長期エネルギー需給見通しを上回った。この結果、需給見通しは修正を迫られ、1990年に修正した新しい見通しでは、2010年までに原発40基を新規に稼動し、電力需要の4割以上を原発で賄う計画だった。一方で、電力会社は装置産業のため膨大な設備投資を迫られ、財務体質は悪化していた。正に、総括原価制様様だった。

しかしこのような姿勢は安全のための、直ぐには儲けに繋がらない投資を尻込みさせる動機を生むものでもあったと考える。そこで、津波のような原発建設後に厳しく評価されるようになったリスクには、広告で乗り切った方が安く上がるというマインドが働いたのだろう。

(3)1989年当時の福島第一は2011年当時より更に脆弱

勿論、津波対策が只の宣伝紙切れとはとんだお笑い草だ。

過去に色々書いたが(関連記事)、1980年代時点で福島沖の津波シミュレーションは公表されたものがあり、潮位を考慮すると最低でも6m程度の高さに備えなければならないことは明白であった。東電はその問題に対して最初のネグレクトを行い、後に電力業界と癒着する津波工学者、首藤信夫は『電力土木』1988年11月号で関係者に問題提起(リンク)を行っている状況であった。

また、宮城県は防災計画の参考のため県南でこれまで起きたことの無い津波を想定した(関連記事)。続いて東北電力が仙台平野で貞観津波の痕跡を探すため、堆積物調査に着手、当時建設中だった女川2号機では、津波シミュレーションを採り入れ、1号機の時採用した3mという津波想定を9mに引き上げた。福島第一1号機(1971年運転開始)で採用した小名浜港でのチリ津波実績値3mを、15年以上後の福島第二4号機(1987年運転開始)まで10基に渡って踏襲した東京電力とは雲泥の差であった。

なお、1989年当時、福島第一には空冷の非常用発電機は無く、既存の非常用発電機は全て海水冷却に頼っていた(空冷の非常用発電機は1990年代末に増設完了)。津波が4m盤を超えてディーゼル冷却海水系ポンプが水没すれば、非常用の交流電源は全滅である。3.11後の訴訟で10m盤を超える津波が焦点になっている理由の一つは、空冷の非常用発電機なら10m以下の津波に対しては安全性を確保できる、という前提があるからだろう。

また、1987年の福島県沖地震では新福島変電所で一部機器の破損があった。それ以上の規模の地震が来れば変電設備の全滅(=外部電源喪失)は容易に想定出来た。東電は1983年の神奈川県西部地震の時には変電設備全体の更新を進めたが、1987年の福島沖地震の時は、原子力が重要だと認識していたにもかかわらず、碍子を取り換える程度の対応に留まった(『変電技術史』11章P558-559、1995年)。誰がこの決定に関わっているかはまだ解明していないが、菊池の前職は送変電建設部長である。

よって、1980年代末に算定会が考えていたようなM8.2程度の地震が起きれば、碌に追加対策もしていない福島第一は、全交流電源喪失により2011年の事故と同様の事態に至ったと考えられる。1980年代に想定された10m以下の津波を、今再検討する意義はここにある。

【地震予知批判者が安全神話を説いていた皮肉】

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このパンフレットの監修者として竹内均の名がクレジットされている。まぁ、今後は原発安全神話の戦犯として記憶されることになろう。

彼は、プレートテクトニクス理論を提唱したことで知られ、過去に起きた記録が碌に見つからなかった頃から、福島沖で海溝型津波地震が予想されていたのも、この理論が大元にある。そう言う意味では、彼の存在抜きに津波想定が発展することは無かった。

それが一体何故こんな結果を招いたのか。一つ言えるのは、竹内は、地震予知批判者達が語ってこなかった、矛盾を象徴する存在だったからである。

さて、1990年代より東京大学の地球物理学者ロバート・ゲラー氏は地震予知利権を度々批判してきた。311の後その頻度は更に高まり、予知批判者と言えばまず彼の名が上がるようになった。

実は、竹内は予知批判の先輩格に当たる人物である。

この間、むろん批判者がいなかったわけではない。例えば、故・竹内均・東京大学理学部教授は、痛烈に予知研究を批判したが、その批判は特に世論に影響を与えることはなかった。竹内氏は、政府の方針を建議する測地審議会の委員ではなかったため、政策決定プロセスへの影響も皆無だった。

ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』双葉社 2011年8月 P152

ロバート・ゲラー氏が同書で竹内に触れた個所はここだけだが、説明としては片手落ちである。何故なら、竹内は原発論争を長年ウォッチしてきた人にとっては有名な推進派の学者であり、1981年に東大を退官して以降は科学啓蒙雑誌『ニュートン』編集長として論陣を張ったからだ。テレビなど他のマスメディアへの露出も積極的にこなしていた。彼に心酔する「専門家」が書いたと思われるWikipediaの紀伝体風の記事によれば、テレビ出演回数は2000回を超えると言う。「世論に影響を与えることは無かった」とは到底思えない。

竹内均の投稿実績をciniiで確認してみる。1978年に成立した大震法と相前後して、1970年代末に『月刊自由民主』(自民党の機関誌。現在は完全な広報誌だが、当時は同時代の論壇誌と同程度の内容的なボリュームがあった)で毎月連載を持っていたことが確認出来る。一線の研究者として専ら研究誌に投稿していたのは1970年代前半頃までであり、『月刊自由民主』での連載開始の頃から、あからさまに政治に近付いて行ったようだ。

彼が地震予知利権に批判的でいられたのは、自民党と建設業界・海洋資源開発などの別の利権で繋がりを持っていたからだと考えられる。

幸か不幸か、損害保険算定会などを舞台に1980年代から表立って行われるようになった、福島沖の津波シミュレーションは、どちらかと言うと「予知利権」がもたらした「成果」でもあった。竹内にとって、全く面白くなかっただろう。

東電営業部はそこに目を付けて起用したのだと思われる。たかだかM7クラスとは言え、福島での地震を警戒するよう発表したのも予知連だったから、その点でも竹内は適任だった。更に言えば、歴史地震的な見地に立っていた『政経東北』の方が、予知連より更にまともだったのだが、名義貸し同然であっても、学者の名前さえ出しておけば、素人マスメディアの扇動記事など簡単に「論破」出来た。

しかし、出来上がったのは、傍から見れば単なる津波安全神話を刷り込むパンフレットに過ぎなかった。

竹内個人の問題は、どうも津波の脅威をあまり理解していなかった節がある所だ。「大地震は起こるか」(『コンクリート工学』1980年3月号)で彼は、大地震の揺れに東京のような大都市が襲われた場合の損害に比べれば、東海地震による被害など取るに足らないと述べた上、当時のコンクリート建築の水準を称賛していたからである。前者の主張は、原子力関係者にとってはとても都合の良いものではあった。原発は大都市から離れた地点に立地していたからである。

後者の主張も、現状肯定を意味する上で、ゼネコンを筆頭とする建設業界関係者には都合の良いものであった。そもそも、建築関係者には有名な宮城県沖地震による耐震基準の引き上げが行われたのが1981年であり、当時の目線で見ても、強引な現状肯定論と言わざるを得ない。そのメッキが完全に剥がれたのは、阪神大震災であった。要するに彼は、地震の揺れにおいても、過小評価に迎合した戦犯の1人であったのだろう。

なお、『コンクリート工学』は建設業界の技術専門誌で一般人向けの啓蒙誌ではない。竹内はそういう場になると、臆面も無く愚民観を披露しているのが分かる。その根拠が都市住民が日照権を望むからと言うのも、よく分からない理屈である。日照権が確保されている都市とは、密集建築が無く防火帯が確保されていることを意味するのだから、竹内は地頭が悪い。単に再開発と称したペンシルビルを乱立させたいデベロッパーの代弁をしているのが透けて見える。実際、80年代に東京で行われたのは、そういうミニ開発だからである。左右中道を問わず、啓蒙に熱心な人物にありがちなことだが、こういった二面性を含め、全く同情の余地は無いだろう。

無能評論家、これが竹内に相応しい肩書である。

17/12/13:89年の政経東北記事2本の件を追記。

2017年11月20日 (月)

日本学術会議で関村直人等が行った津波検証の問題点-特に福島県2007年津波想定について-

当記事は「福島原発沖日本海溝での地震津波を前提​にGPS波浪計を設置していた国土交通省」の続編と捉えて欲しい。国土交通省と福島県が一体どのような津波対策を取ったのかについて、日本学術会議の検証に反論する形で分かったことをまとめたものである。

携帯よりはPCでの閲覧を薦めるが、読めない訳では無い。

全体は【1】~【4】に分かれるが、中でも【2】は日本学術会議批判に留まらず、福島県が2007年に公表した津波想定について再考を行い、東電はもとより、福島県(そして省庁と閣僚)の過ちについて論じている。原発事故を主眼としてはいるが、2万名近くの死者、行方不明者を出した津波災害を検証する上でも、参考になれば幸いである。

【1】『原発と大津波』を無視する日本学術会議の「検証」

最近、日本の国立アカデミーで内閣府の機関でもある日本学術会議の中で、次のような検証作業が行われたことを知った。

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福島第一原子力発電所事故以前の津波高さに関する検討経緯-想定津波高さと東電の対応の推移-(日本学術会議、2017年8月1日)

 

参考資料 福島第一原子力発電所事故発生以前の津波高さに関する検討経緯(日本学術会議、2017年8月1日)

検証結果の趣旨は「東電は事前に分からなかったのだから津波想定で失敗したのは仕方がない」というもののようだ。

検証作業は18回に渡って行われたそうで、検討に当たった委員会は下記のメンバーである。

委員長 松岡 猛  (宇都宮大学)
幹事  澤田 隆  (元日本工学会事務局長)
委員 矢川 元基 (原子力安全研究協会会長)
    関村 直人 (東京大学)
    柘植 綾夫 (科学技術国際交流センター会長)
    成合 英樹 (筑波大学名誉教授)
    白鳥 正樹 (横浜国立大学名誉教授)
    宮野 廣  (法政大学)
    吉田 至孝 (福井大学、原子力安全システム研究所)
    亀田 弘行 (京都大学名誉教授)

学術団体の元締めにも拘らず、津波工学者はおろか、地震学者すら入っていない。一方で、爆破弁発言で醜態を晒した関村直人が参加している(なお、爆破弁発言の検証は無い)。また、福島原発事故の前から諸外国の過酷事故対策を知りながら、原発宣伝を優先するように策動していた原子力安全研究協会が名を連ねている(同協会の犯した罪についてはいずれ機会を見て書くことになるだろう)。

本文と参考文献一覧を見たが、添田孝史『原発と大津波 警告を葬った人々』や海渡雄一他『朝日新聞「吉田調書報道」は誤報ではない: 隠された原発情報との闘い』などの新資料を提示した文献は軒並み無視されている。

一方で、「話題」スライドが存在している。

残念だが、東日本大震災の後に津波研究を行った者達が発表した論文は震災津波の解析や今後の研究技術のあり方などに関するものが大半で、福島第一の津波想定を検証するような論文は見かけた記憶が無い。また、数少ないそうした論文があったとしても、日本学術会議が指摘するような「話題」が提起されたことも無いだろう。彼等が「話題はあくまで学術会議内でのことを指すのだ」と言い張るのでなければ、それらは、各地の訴訟や添田孝史氏、共同通信の鎮目記者等が提供したものである。

都合の悪い文献を無視すれば、東電や国に有利な結論に導くことは簡単だ。では何故、今更こんな検証を行ったのだろうか。恐らく、組織の名前を使ってオーソライズすることを狙っている。場合によっては第3者の検証事例の一環として、反論材料として訴訟で提示したかったのだろう。控訴審投入用の予備隊といったところか。

だが、重要な指摘を無視して行う反証に価値は無い。ついでに言えば、日本学術会議は初期のJEAG、小林論文、損害保険算定会から、国交省(=国家自身)が行った津波想定も軒並み無視している。大きな間違いの一つはここにある。

【2】福島県2007年想定について再考する

ただし、当記事はここで終わらない。日本学術会議が取り上げた資料の見方にも、問題のあるものが潜んでいる。例えば、福島県が行った2007年の津波想定が、東電の最新の津波想定より低いと評価した事実が証拠の一つとして書かれている。今回はこの福島県の津波想定について一度考えてみたい。

【2-1】これまで認識されてきた経緯

日本学術会議の検証結果では次のように書かれている。

Scjgojp1708011slide9 東京電力は、自治体が評価した防災上の津波計算結果を把握し、対策が不要であることを確認していた。

福島第一原子力発電所事故以前の津波高さに関する検討経緯-想定津波高さと東電の対応の推移-(日本学術会議、2017年8月1日)PDF9枚目

日本学術会議が元にしたと思しき、東電事故調の記述は次のようになっている。

Toden_jikocho_p19tsunamihyoka

福島原子力事故調査報告書』東京電力2012年6月20日P19より。赤枠(筆者)の部分が2007年福島県想定。直前の文章では

平成19年6月、福島県の防災上の津波計算結果を入手し、福島県が想定した津波高さが当社の津波評価結果を上回らないことを確認した。

と記載されている。

政府事故調も大体同じである(『政府事故調中間報告(本文編)』2011年12月P394)。

この点については、私を含めて誰も異を唱えてこなかった。異を唱える場合は、他の津波想定を隠していただろとか、そういう文句の付け方だった。

だがこれは私を含め、そもそも福島県が何故2007年に津波想定を行ったのかについて、検証してこなかったからだ。そして、福島県自身も検証したという話は聞かない(茨城、宮城、岩手では東日本大震災の対応をまとめた記録を刊行した際、曲がりなりにも事前の津波想定について検証作業が行われた)。隠蔽で有名な集団だから、無くても特に驚きはしないが。

【2-2】スマトラ沖後、国交省の提言通りに津波想定の実施を決めた福島県

話は、2004年12月のスマトラ沖地震によるインド洋大津波から始まる。この災害は日本の防災関係者に大きな影響を与えた。学者達が議論してきた地質構造の細かな相違は、防災行政上は特に議論にもならず、同じような津波が日本近海の海溝型地震で起こったらどうなるかに関心が向けられた。

国土交通省はスマトラ沖の教訓化を急ぎ「津波対策検討委員会」を発足、2005年3月に提言をまとめ、その中で「概ね5年以内に可能な施策」を盛り込んだ。当ブログで既にふれた閘門管理システムやGPS波浪計の整備もそうした施策だが、住民が避難する際に役立てることを目的としたハザードマップも、次のように決められた。

重要沿岸域のすべての市町村で津波ハザードマップが策定できるよう、津波浸水想定区域図を作成、公表。

津波対策検討委員会 提言 2005年3月

福島県沿岸は全て重要沿岸域に包含された。1999年に地方分権一括法が制定され、以後、国と自治体は対等関係と規定されたが、これは指導だ(一概に有害とは言えない)。

日本学術会議の検証は政府事故調報告を重視しているようだ。その政府事故調は中央防災会議の「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会報告」(2006年1月)を受け、福島県が調査を行ったと述べ、国土交通省の役割に言及していない(『政府事故調中間報告本文』P392)。

しかし、福島県議会の議事録を見ると、2005年3月に自民党杉山純一県議がスマトラ沖を引く形で「浸水予測図の作成率も、避難対象地域の指定率もともに約3分の1、避難場所は6割の市町村が指定しているが、そこまでのルートを決めているのは2割」などと日本の状況を問題提起した。県庁の職員は佐藤栄佐久知事(当時)に次のような答弁を用意している。

県といたしましては、昨年末のスマトラ島沖地震による津波を大きな教訓と受けとめ、沿岸市町に対して計画策定の指針を示し、地域住民自身が計画づくりに参画し、津波浸水予定地域や避難対象地域の設定などを内容とした避難計画を早急に作成するよう要請したところであり、今後とも、関係機関連携のもとに、迅速かつ適切な避難対策を実施できるよう、沿岸市町を積極的に支援してまいる考えであります。

平成17年2月 定例会-03月03日-一般質問及び質疑

津波対策検討委員会提言は2週間後の3月16日。与党が行う、典型的予定調和型答弁である。

なお、ネット上の情報としては県のHPがある。現在は削除されているが、当時次のように案内していた(この他、国土交通省東北地方整備局 東北地方水災害予報センターには今でも津波浸水想定区域図へのリンクが残っている)。

福島県では、平成18年度から平成19年度にかけて、県内の沿岸市町が作成する津波ハザードマップや津波避難計画の作成支援を目的として、津波想定調査を実施し、津波浸水想定区域図を作成するとともに、津波による被害想定を行いました。
福島県津波想定調査(福島県HP、アーカイブ

県の調査が2006年度に実施されたのは、自治体の場合、通年で4回定例の議会を開催するが、秋から冬にかけて行われる3回目の定例会(3定)までに来年度の予算案を作成するので、2005年度に間に合わなかったからである。また、「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会報告」を読んで初めて調査することを思い立ったとしたら、2006年度に予算が執行できるはずがない。参考文献以上の意味は無いのである。

従って、政府事故調の福島県の津波想定に関する説明は間違い(虚偽)である。日本学術会議の委員はそれを見抜けなかったのだろう。

なお国交省、内閣府、農林水産省は2004年3月に「津波・高潮ハザードマップマニュアル」を作成し、各自治体に送付していた(リリース)。この中で「津波想定の結果をハザードマップに反映」という流れが出来上がっており、スマトラ沖の後もその方針を踏襲したことが津波対策検討委員会の記録類から読み取れる。

以上が福島県の調査(正式名称:福島県津波浸水想定区域図等調査(2006年度))が行われた背景である。上記の事情から作業分担は次のようになった。

  • 津波浸水想定区域図:県で作成
  • ハザードマップ:各自治体で作成

コラム
なお、スマトラ沖がきっかけとなり、国土交通省の方針に従って津波想定を行ったのは茨城県も同様である(当方も2014年3月に茨城県に照会して確認済み)。一方、津波常襲地帯として知られていた宮城などは99年度の津波浸水予測図に対応して先に動いていたから、スマトラ沖の前に県レベルでの津波想定は作成していた。

【2-3】推本予測を元に想定を求められたのに何故か推本予測を捨てた福島県

【2-3-1】中央防災会議と地震調査研究推進本部

ところが、福島県はここで間違いを犯した。調査報告をまとめるにあたって、中央防災会議の資料のみを参考に想定地震を決定したのである。その結果、福島県沖での海溝地震は想定から除去されてしまった。

当時、中央防災会議の見解だけを参考にすると何故不味かったのか、改めて振り返って見よう。

東電原発訴訟を追っている人は御存知の通り、2000年の省庁再編以降、国の津波想定を扱う防災組織は大きく分けて2つあると認識されていた。

  • 中央防災会議:1960年の伊勢湾台風を契機に設立。政府の防災方針を決める。内閣府運営。
  • 地震研究推進本部(推本):1995年の阪神大震災後設立。地震の研究観測を集約して防災に反映させる。文部科学省運営。

福島第一原発の沖合を含む日本海溝沿いでマグニチュード8クラスの津波地震が30年以内に20%程度の確率で発生すると予測したのは推本で、2002年7月のことである。推本の地震でシミュレーションを作ると、東北地方太平洋沖地震津波を予告するような津波高さが得られる。推本はMw8.2とMw9に比べれば小振りな地震を想定していたから、一つの地震で大津波が発生する海岸線の範囲は狭い。しかし、推本はMw8.2が日本海溝の何処でも起き得るとしたので、東北地方太平洋岸はどこでも高い津波が起き得ると予想したに等しかったのだ。

しかし、中央防災会議は2004年2月に開いた専門調査会会合で推本予測を対象外とする旨を決定したのである。その2年後にまとめたのが先の「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会報告」であった。

Mokkaijikocho20150124soetap49_2
出典:もっかい事故調オープンセミナー「原発と大津波 警告を葬った人々」発表資料P49(リンク

福島県津波浸水想定区域図等調査に戻る。正確に述べると推本予測は、調査報告書概要版(修正版)のP5,P8で、過去の地震や最近の地殻の動きを紹介するために引用されているのだが、報告書最後の「7.参考文献一覧」からは削除され、中央防災会議の方がクレジットされているのとは対照的である。したがって、調査を発注した県と受注した国際航業が忘れていた訳では無い。明確な意図を持って想定地震から除去している。なお、私が入手した報告書の表紙にはタイトルに「概要版」とあり、右上に「修正版」と書かれているので、修正前の版や詳細版にはそのあたりの事情が書かれているのかも知れない。

【2-3-2】 使われ続けた推本予測

ところが、福島県が推本予測を無視するのは論理矛盾であった。まず、津波・高潮ハザードマップマニュアルは、後述のように現用文書として扱われ続けており、次のように推本予測も考慮するように書かれていたからである。前月の中央防災会議専門調査会との整合も取っていない。

Mlitgojpkowanhazard_shiryou2slide_2 津波・高潮ハザードマップマニュアル(案)」国土交通省津波・高潮ハザードマップ研究会事務局(2003年12月)  PDF14枚目

更に決定的材料として「津波対策検討委員会」が重要沿岸域に東北地方太平洋岸を含めたのは、推本予測を意識したからであった。そう意識させたのは次の図を作成した国土交通省河川局であった。

Mlitgojptsunamisiryo1_050206slide8説明資料1 我が国における津波被害と防災認識」津波対策検討委員会(2005年2月6日配布)PDF8枚目(綺麗なものは提言発表時の閣僚懇談会資料にある。)

「津波対策検討委員会が推本予測を捨てなかったこと」は極めて重要である。2004年に中央防災会議が推本予測を「捨てた後」の出来事であり、自治体の防災行政に直接の影響を与えたからである。言い換えるならば、中央防災会議(内閣府)が捨てた推本予測を、国土交通省はもう一度拾い、3番目のプレイヤーとして躍り出たのだ。この決断のために裏で御膳立てした官僚は激賞されて良い。原発事故と言う観点からは、それ程価値のある決断と言える。

【2-3-3】災害対策基本法制に見る運用上の矛盾

災害対策基本法によれば、中央防災会議が作成した防災基本計画に基づき、省庁(指定行政機関)は防災業務計画を作り、自治体は地域防災計画を作る。ちなみに、「七省庁手引き」は地域防災計画のための資料である。それでは、この提言は国交省の防災業務計画に反映されたのだろうか。平成18年度版(2006年)を参照してみる。

第2編「震災対策編」には「津波災害に対するハザードマップ等を作成し、危険箇所、避難地、避難路の周知を図るものとする。この場合、地方公共団体に技術的助言を行うものとする。」とある。

第14編 「その他の災害に共通する対策編」には研究成果を直ちに反映する旨記載されている。第15編「地域防災計画の作成の基準」にも提言の施策が反映されている。

一方、新旧対照表を見ると、第2編第6章「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震防災対策推進計画」が追加されたことが目を引く。中央防災会議は「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会報告」を現実の施策に反映するため、2月に大綱を制定、2006年3月には「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震防災対策推進基本計画」を作成した。それに応じて、国土交通省の防災業務計画に反映したものである。ここにも「津波災害に対するハザードマップ等を作成し、危険箇所、避難地、避難路の周知を図るものとする。この場合、地方公共団体に技術的助言を行うものとする。」との文言が登場する。第6章の方は専門調査会の想定に行き着くのだろう。

国土交通省の担当者がこの文言通りに、県に対して中央防災会議の想定のみを「技術的助言」した可能性はある。勿論、県や国際航業自らが調査開始後そう考えた可能性もある。

では、中央防災会議の想定はどこの災害対策の現場でもプライオリティが高いように整合していたのだろうか。答えは、NOである。

  • 【理由1】国交省の一連の動きに対し、中央防災会議が公式に(或いは表立って)他組織の想定を使わないように「指導」「助言」した記録は見つかっていない。(ただし、推本(文科省)に対しては別である。『原発と大津波』P68-70によると、推本の長期評価に対してはファックスを通じて「誤差があるので、使用上注意してほしい」旨の連絡を報道機関にも送っていたとされる。裏では長期予測自体に懸念を表明している)

  • 【理由2】福島県による調査後の2008年12月、中央防災会議は「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震の地震防災戦略」をまとめたが、P11、P25に登場する「津波ハザードマップの作成支援」には「七省庁手引き」と変わらず、多数の省庁が関与し、中央防災会議を所管する内閣府と国土交通省の名前が並ぶ。「津波ハザードマップ作成マニュアル」(「津波・高潮ハザードマップマニュアル」の誤記)を使って、市町村のハザードマップの作成支援をすると称しているのも同じである。自治体としては同じ問題で複数の官庁から見解が来ることになるだろうし、内閣府は自ら否定した推本予測を掲載したマニュアルで、何の支援を行うつもりだったのだろうか。福島県と同質の矛盾がここにある。

  • 【理由3】福島県の津波想定調査予算は、時系列上、中央防災会議の想定を前提にしようがなかった。中央防災会議の想定が専門調査会報告と言う形で外に出るのは2006年だからである。更に、茨城県が行ったように、中央防災会議の想定を墨守しなくても、罰則は無かった。

  • 【理由4】中央防災会議自体が結局は推本予測に依存していた例として、国土交通省のGPS波浪計の件があることだ。「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震の地震防災戦略」にはGPS波浪計も含まれ、「沖合波浪情報の分析・提供」を通じ防災体制の強化に資する旨記載されているのである。以前当ブログで書いた通り、GPS波浪計は推本予測を更に拡大する形で日本海溝での津波地震を前提に予算執行されたものである。また、この防災戦略には「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震の調査観測研究」という項目があるが、GPS波浪計や国土交通省は関係していない。GPS波浪計が研究設備では無く、実用的な設備と見做されていたことが分かる。結局は、各省庁施策の寄せ集めの感はある。

以上が、福島県が津波シミュレーションを行っても10m以上の水位が得られなかった原因の一つ目である。推本の言う通り福島沖に波源を置いてシミュレーションすると原発前面に10m以上の大津波が来ることは、東電自身がこの数年後に秘密裏に計算していた(事故後の報道で判明)。

したがって、福島県津波浸水想定区域図等調査(2006年度)は、津波対策検討委員会提言の要求を満たさない、欠陥調査であり、行政不作為である。震災による福島県内での直接的な死者・行方不明者は約1900名でほぼ全て津波によるが、推本予測を入れてハザードマップに反映していれば助かった人達も沢山いる筈である。これ程の悪影響をもたらした行政不作為が長年にわたり見落とされてきたのは極めて問題である。

災害対策基本法制の問題点は「地域防災計画にみる防災行政の課題」という2005年の論文で既に指摘されている。例えば、広域対応の防災計画を作っても、既存の計画に微修正を加えるケースが報告されている。その意味では、不整合は当然の結果である。被害想定の政治性も同様である。小さな津波しかもたらさない中央防災会議想定の方が社会的安心感には繋がるであろうことも、この論文が雄弁に予告している。想定には法的な効果が無いから議会の審議も経ないという指摘も重要だ。国と地方の序列化、市民排除にも言及がある。電力と言う組織が運用する原発はともかく、「七省庁手引き」本来の目的である、地域防災計画への寄与が中途半端に終わったのも頷ける。

ただし、起きてしまった災害に対して国家は責任を負うのも事実であり、今般の様に10万人位であれば、財政的にも賠償金の支払いは可能な範疇である。そのような矛盾の清算すら拒否するようでは、国家による防災には存在価値が無い。

【2-4】東電の福島県津波想定ミス解釈~そのまま当てはめてはいけない~

とは言え、福島県は津波想定を行い、報告書にまとめた。次に問うべきは、その結果を入手した東電の過ちである。

それを示す前に言葉の問題を述べる。役所は金と責任が絡むとき、言葉の使い方を揃える。スマトラ沖の後国交省が「津波浸水想定区域図」という単語を使いだしてから、関係する事業ではこの単語が使われた。

東日本大震災以降、これらの津波浸水想定区域図とハザードマップは順次更新されていったが、この単語で検索した結果、一部の自治体のデータはネット上に残っていた。まず、先程の福島県HPを見てみよう。

Preffukushimajpsaigaigtsunamisoutei

また、実際の津波は、これ以上の高さになることも考えられます。地震が発生したら、まず避難しましょう。
福島県津波想定調査(福島県HP、アーカイブ

次に、相馬市のハザードマップが残っていたので見てみよう。

Citysomahazard_map_a3_2_3 この地図は、福島県が平成19 年7 月に発表した、「津波浸水想定区域図等調査」の結果に基づいて作成したもので、予想浸水域を表示しています。
 
あくまで「想定の津波」によるものですので、到達しない場合、または、想定を越えて津波が押し寄せることも考えられます。
津波ハザードマップ 原釜・尾浜地区」相馬市2008年3月(魚拓

これが、福島県の津波想定の正しい受け取り方である。

このような一言が付け加えられている理由は、津波想定には不確実性が伴うので、「津波・高潮ハザードマップマニュアル」でその対応策を書いてあったからであろう(下記引用の他、同マニュアル4章で詳しく議論されているが、想定水位=最高の高さではない、という考え方は一貫している)。

津波・高潮ハザードマップに供する浸水予測区域の設定に際しては、現在の最先端の技術水準において、一般的に表 3.2.1に示す項目の条件設定が必要となる。

(中略)なお、設定以外の条件についてのマップへの記載は、紙媒体のハザードマップの限界を超えているが、最悪の場合に備えて対応できるよう、緩衝領域(バッファ)の設定や(4.4(3)参照)
想定を超える災害発生の危険性をマップ上に記載する等により対応する。

津波・高潮ハザードマップマニュアル(案)」国土交通省津波・高潮ハザードマップ研究会事務局  PDF45枚目

報告書本文、参考文献共に文書名として「津波・高潮ハザードマップマニュアル」は明記されていないが、報告書P52にハザードマップ作成担当者向けの説明として、

想定地震以外の地震による津波や条件が異なるときなど、シミュレーション結果と実際に来襲する津波が異なることを以下のように明記した。

「地震の震源が想定より陸地に近かったり、想定を超える津波が来襲するなど、条件が異なる場合には、ここで示した時間より早く津波が来襲したり、遡上高が高くなったり、浸水範囲が広がる可能性があります。」

と、上記記述に類する注意文のサンプルが例示されている。そのような報告書の書かれ方は、「津波・高潮ハザードマップマニュアル」と完全に整合する。

従って、県の想定水位が原発の津波想定より低いことを示したところで、原発の安全を保証する材料にはならない。何の意味も無い行為である。東電本体は元より、東電設計およびシーマス、ユニック等は津波想定のプロ集団であり、このようなミスは仕方無いでは済まされない。

ミス解釈の責任が、説明を行った福島県にあるのかは分からないが、少なくとも東電グループにあることは疑いない。各訴訟の準備書面を全て把握できていないが、この瑕疵もこれまで見逃されていたのではないか。

コラム
なお、東電も福島県も黙っているが、福島県津波浸水想定区域図等調査(2006年度)報告書概要版(修正版)のP13,41,53によれば中央防災会議,日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会資料提供のデータにより、
明治三陸の規模はMw8.6と設定している。時系列的にはこれまでの印象と異なる風景が見えてくる。

東電は2007年6月に上記の波源で追試を行ったが、その翌月に中越沖地震が発生して柏崎刈羽原発が被災した。その結果、社内組織改正で中越沖地震対策センターを設け、センターの土木調査グループは各原発の地震随伴事象である津波についても見直しを行い、2008年3月に、明治三陸の波源を福島沖に仮置きして海溝地震をシミュレーションし、各種報道で有名になった15.7mの津波高を得た。しかし、この社内試算では明治三陸の規模をMw8.3と半分以下に縮小した。Mw8.6の件を忘れる筈もない時期で、極めて悪質だが、何故か誰も指摘していない、ということである。

Scj_go_jp_170801_1slide4 中央防災会議においてもデータが不足する貞観津波や地震本部の見解については取り入れられなかった。

Scj_go_jp_170801_1slide7 地震本部は、中央防災会議や自治体などの防災機関に対して、どこまでその使命を発揮できたのか。

日本学術会議は推本を批判するため、中央防災会議を根拠にしているが、都合が悪ければ中央防災会議の波源モデルも無視するのが東電の態度である。むしろ、東電に加え、中央防災会議をも庇いたてる、この検証態度の裏にある思考は何か。『原発と大津波』でも中央防災会議の内情については完全には解明されていないので、実に興味深い。

なお、後述の「津波災害予測マニュアル」P44には、Mwが0.3大きくなると、津波の高さは2倍となる旨の記述がある。

一方、福島県津波浸水想定区域図等調査報告書概要版では、津波の高さは遡上高のみ示されており、明治三陸タイプが最も大きく、福島第一に近い下記の2地点で次のような結果となっている。

双葉町:前田川河口6.2m
大熊町:熊川河口6.7m

従って、東電の5mという水位(遡上高ではないと思われる)はまずまず妥当な追試と言えるだろう。数値面からも、安全率による割増は確認できない。

【2-5】省庁間連携と自治体の事後チェックを怠った国にも責任はある。

なお国交省は、着想と提言は良かったが、他省庁との連携(経産省の説得)、自治体の施策チェックと言う点では、失敗した。興味深いことに、検討委員会では素案を提示した後の意見で次のようなものがあった。

意見  38
例えば、「国土交通大臣は、すみやかに、この提言に盛り込まれた事項その他必要な事項を関係地方公共団体等に示すとともに、関係地方公共団体等で講じた措置または講じようとする措置の報告を求め、これらを集約し、分かりやすい形で国民に提供すること」といった文言を追記。

説明資料3 委員から頂いたご意見」 第3回 検討委員会(2005年3月16日)PDF6枚目

その結果、提言の最後には次のような文言が盛り込まれた。

また、地震防災対策の一環として、そのフォローが必要であるとともに、各省庁が横断的に講じるべき津波防災対策の施策で、さらに検討を要するものは、省庁連携の下に、専門的知見をもって推進すべきである。

この提言が歴史的価値を持つに至るかどうかは、行政のみならず国民及び各界各層の取組み次第である。国土交通省は、速やかに、この提言に盛り込まれた事項に関し、直接関係する事項を可能なものから実行していくことはもちろん、関連事項を関係地方公共団体等に示すと共に、関係地方公共団体等で講じた措置または講じようとする措置の報告を求め、これを集約し、分かりやすい形で国民に提供すべきである。

津波対策検討委員会 提言 2005年3月 PDF14枚目

青字の2点は明らかに未達であり、国の責任が認められる。他省庁のとの連携に関しては、歴史に残る安全神話を答弁した第一次安倍政権が、本来は経産省に連携すべしと命じるべきだったのかも知れない。それ以上の解明は、ジャーナリスト・研究者・当事者・官僚が共に取り組むべき課題である。

【2-6】割増しのヒントはあったのか

さて、それでは想定結果の何倍を提示すれば良かったのか。「津波・高潮ハザードマップマニュアル」はその答えを明示していない。下記のように浸水予測区域の外側にバッファ(緩衝空間)を設けるように指示しているが、具体的な数値は無い。割り増し比率は自治体に任されている。先の相馬市の場合は、バッファの明示は無い(避難場所の選定に当たって何らかの基準として用いられた可能性はある)。

Mlitgojpkowanhazard_shiryou2slide73 津波・高潮ハザードマップマニュアル(案)」国土交通省津波・高潮ハザードマップ研究会事務局  PDF73枚目

ただし、数値的根拠について公開文献でも参照材料はあった。以前紹介した気象庁による津波予報、および国土庁による津波浸水予測データベース作成の際、次のように述べている。このデータベースは2000年代以降のハザードマップに繋がる基礎資料として作成されたものなので、関連性は高いと言える。

「新しい津波予報」のイメージを図2に示します。一つの目安として、もしも海岸から避難する場合には、予想高さの2倍以上の高さの場所に避難すれば、危険率は1%未満にまで小さくなるはずです。

日本地震学会広報誌『なるふる』12号(1999年3月)PDF5枚目

津波予報と津波浸水予測は同じ幹「太平洋沿岸部地震津波防災計画手法調査 報告書」(いわゆる七省庁手引き)から分かれた2つの枝であり、不確実性についても首藤伸夫が七省庁手引き別冊の「津波災害予測マニュアル」で理論化している。統計的厳密性に拘るなら、「津波災害予測マニュアル」を熟読して導けばよいが、簡略化のために、上記『なるふる』を参考に2倍の数値を当て嵌めて原発防災を考えたとしても、それはそれで1つの見識となる(『原発と大津波』読者であれば、原子力発電所の津波評価技術で安全率1倍となった経緯を御存知だろうが、そこにも通じる話)。

『なるふる』の1%以下という指摘を単純に当てはめると、IAEAが推奨する10万炉年に一度の炉心損傷確率を達成するためには、最低でも想定の2倍の津波が来ても安全な必要があった。1000年に一度の大津波で防護されている水位を超える確率が1%の場合、(1/1000)X(1/100)=1/100000となるからである。実際には、東日本クラスの津波は500年程度とのしてきもあったりするので、1000年に一度との論は現在では楽観的だが。

福島県の調査で用いた波源を使った追試では、福島第一、第二共5m程度だとされているので、『なるふる』で推奨の倍率2を掛けると10m以上となる。即ち10m盤上の構築物でも、1階にあるような開口部は何らかの対策が求められる。

なお、『なるふる』が指摘する津波予報と同じデータベースを使用している国土庁津波浸水予測図の場合、福島第一の前面は8mであり、遡上は10m盤に達していることが既に知られている。ここに倍率2を掛けると、東電が行うべきだった津波対策は16mとなる。

更に、2002年の『原子力発電所の津波評価技術』で得た数値6.1mに倍率2を掛けると約12mとなる。ただし、これは既に『原発と大津波』第2章で言及済みである。

【3】「話題」スライドの情報源についての疑問

話を日本学術会議に戻す。

彼等が唯一有効性を認めた原子力技術協会の提言だが、震災後誰も省みる人が居なかったところ、身内からの警鐘だが(組織自体が業界で傍流扱いだったためか)無視されたものとして、私がブログで再評価したものである。彼等にとっては、業界人が自ら指摘したことがとても大切なのだろう。

その傍証に、原子力技術協会が『エネルギーレビュー』2006年7月号で発表した米ウォーターフロード原発3号機の事例は全く参照されていない。基本的には提言の内容に沿った記事だが、カトリーナ来襲の3日前、パッケージ型の非常電源をレンタルして据え付けたことは、日本語文献ではこの記事しか触れていない。言うまでもなく、最短で可能な電源対策の一環として、再評価すべき内容である。

もし2011年3月7日の「お打合せ」での結論(福島沖での大津波を想定する)を吉田所長が聞いており、且つ、『エネルギーレビュー』の記事を所長や彼の部下が覚えていたら、恒久的な津波対策が完了するまで、同じようなことをやれば済むからだ(社有の電源車を配置変更したり非常電源をレンタルする)。これはブログを書いた直後に見つけていたが、別の機会を見て記事で紹介することはしていなかったものだ。

【4】何も理解していないことが分かるスライド

次のスライドの説明は意味不明である。それも1枚に3ヶ所。

【4-1】場所を限定すると最も高い津波高が得られる?

Scj_go_jp_170801_1slide5_2 狭い範囲を対象として最大津波高さを予測した方がより大きな値が算出されるはず

福島第一原子力発電所事故以前の津波高さに関する検討経緯-想定津波高さと東電の対応の推移-(日本学術会議、2017年8月1日)PDF5枚目

次の東電事故調の模式図を見て欲しい。本当にそれが導けると考えたのか。

Toudenjikochoslide39福島原子力事故調査報告書』東京電力2012年6月20日P18より。

日本学術会議の書いていることは逆である。一つの地震津波をシミュレーションする時は、津波高を計算する海岸の範囲を予め設定するが、その範囲を広く(長く)した方が、狭い範囲よりも高い津波高の地点を得ることが出来る。例えば、福島沖のケースで言えば、発電所の前後1㎞だけ計算するのではなく、南北100㎞とか福島県内の海岸全域などに対象を広げれば、「西暦何年の××地震を模擬したこのシミュレーションでは福島第二の方が高い」とか「あのケースでは相馬が最も高い」となる。逆に、福島第一での高さだけを計算すれば、求められる高さは福島第一のものだけしかなく、他の地点と比較のしようが無い。東電事故調の模式図で例示するなら、右の黒矢印の近くにある想定が、図中の海岸の範囲では最も大きな水位を与えている(赤の設計津波より僅かに高い)。

添田氏がツイートしていた千葉訴訟における「震源事件」に通じるものを感じる。

このような過ちを避ける方法の一つは、『原発と大津波』の冒頭に書かれている、55㎞遠方の地点(小名浜港)の津波観測データを持ってきたという建設時のエピソードの意味を良く考え抜くことである(仮に55㎞南ではなく100㎞程北の宮城県の値を持って来れば最初から高い想定値が得られる。理論的にはあり得る方法)。

【4-2】報告書に出てこない文献を参照したと主張

ついでに言えば、先のスライド、「津波災害予測マニュアル(1999年とあるが1997年)」を福島県が参照したように書いている。だが、福島県津波浸水想定区域図等調査(2006年度)報告書概要版(修正版)の「7.参考文献一覧」には七省庁手引きを挙げているが、その別冊である「津波災害予測マニュアル」は載っていない。また、本文に文書名として直接書き込まれてもいない。七省庁手引き自体も、前半で既往津波の被害を一覧化した際に引用されているだけである。津波の水位計算法は実用レベルでは何時も大体同じ理論が使われているので、出所が「津波災害予測マニュアル」かどうかは断定できない。スライドには証言を取ったという記述も無い。

「津波災害予測マニュアル」は計算結果の信頼性の問題を厳密に論じているので、本当に参照しているなら、本文P52で「想定以上」などという曖昧な表現をするだけでは無く、正確な統計的意味が説明されていた筈である。

それは結局想定水位を鵜呑みにしてはならず、原発の場合は何らかの安全率が必要という結論に帰着する。厳しいことを言えば、数学的には発生可能性と安全率だけが異なるに過ぎず、本質的に原発と区別する意味も無い。それが理解できていればこのようなスライドになる筈がない。

【4-3】福島県の津波想定が大きくなるのは合理的?

学術会議の資料からは、何故合理的なのかがさっぱり読み取れない。上述のように福島県の津波想定に関する部分は調査不足だったし、前の文章ともつながりが見出せない。

事実関係から言えば、福島県と茨城県では想定していた地震が別のもの(茨城県は延宝地震を含む)だから、比較不能である。仮に、推本予測のことを言っているとしても、「どの領域でもM8クラス」と書いているのであって、福島県が高くなる合理的根拠は無い。

強いて言えば、東日本大震災では、茨城より福島の方が概して津波高が大きかったと言うだけのことである。しかし、プレートテクトニクス理論から言えば、茨城沖を主たる波源とする津波地震が起きても全く不思議ではない。

【4-4】恥の上塗り集団

ここまで書いてきて思ったが、日本学術会議は単なる誤植と言うより、何も理解していないのではないか。というか、ほんのりやばい感じしかない。

関村や原子力関連団体は、只、福島事故の恥を上塗りしただけである。大方、事務局に3流役人でも当てがい、現政権へ忖度した結果だろうが、只でさえ凋落傾向にある日本の学術団体の権威を一層貶めるだけの結果に終わった。唯一救いがあるかも知れないのは、こんなレベルの低い検証作業にまともな人材は回さないという、面従腹背な役人の雰囲気も僅かに感じられるところ位、だろうか。

リベラル左翼でも学術団体の声明などに依存した主張を見かけるが、何でも忖度で簡単に信用を失うのが現代の世であることは、他山の石として、覚えておきたいところである。

17/11/22:全文適宜修正し、意味の繋がりを明瞭にする。

17/11/23:中央防災会議「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会報告」を国土交通省、日本学術会議や政府事故調がどう扱ったかを追記。

17/11/28:【理由1】に追記。

2017年8月27日 (日)

【お理工軍クラは】ドイツの3分の2の壁厚しかない日本のPWR原発に「戦闘機が当たっても大丈夫」と断言する人達【黙ってろ】

あの晩「馬鹿は黙ってろ」という暴言を吐いて自爆したお騒がせ軍事ブロガーJSFがまた、原発のことでいい加減なツイートをしている。

もう大分話は進んでしまっているので今更だが、発端となった下記の発言はあやふやな認識が行き渡っているので、はっきりさせておきたい。その方が、原発の安全性について建設的な議論が出来るからである。

なお、その他の観点からの反論・分析については下記のコロラド氏のツイートを参照されたい(情報提供では私も協力した)。

日本の原発の航空機突入対策とミサイル攻撃について - Togetter

「原発の建屋は戦闘機を突入させても大丈夫」、3.11以降推進派を中心として広まったこの認識は、下記の米サンディア国立研究所で撮影された実験動画が元となっている。

原子力発電所の壁にF4戦闘機が突撃するムービー」2006年10月04日 14時37分16秒

しかし、どのような原発でもこの実験結果が適用できるわけではない。というより、全く適用出来る原発は無い。

後日、コロラド氏と議論していて気付いたが、この実験は衝撃力のデータをとるために壁厚を実際のサイトではありえない厚さ(3.66m)にした上でダンパーを付けているので、原発の安全性に対する安全性の証明には全くなっていないし、当該の機体は爆装もしていない(実験の背景については次の論文でおさらいされている。坪田張二「3)航空機衝突に対する原子力発電所施設の耐衝撃設計」日本原子力学会 2016年秋の大会)。

まず、コロラド氏が指摘しているように、日本の原子力発電所は航空機が衝突した場合の耐性を仕様化せず3.11を迎えた(社内的に規定しているかも知れないが公表されることは無かった)。従って、戦闘機を突入させても大丈夫かどうかは分からない、というのが正確な回答である。

また、後で見ていくが、建設された年代と国の考え方によって壁厚は異なっている。

にもかかわらず、何故漠然とした安心感が広まっているかと言えば、原発建屋(格納容器)の壁厚は1m以上という宣伝が意識の底にあったからだろう。「日本では実験していないとしても、壁厚が1mもあれば戦闘機がぶつかった位で壊れる訳ないだろ」、という素人的直感である。

業界人は安全神話を広めるために噂を放置し、或いは自らも信じ込んだ。なお、日本の場合も1970年代の時点でタービンミサイル対策仕様書は準備している(「BWR原子炉系配管の安全設計実務」『配管技術』1979年2月号)ので、外部からの飛来物と一くくりに考えて安心感を抱いていた業界人もいるだろう。なお、タービンミサイルとは、蒸気タービンが高速回転中に破損した場合、高速で飛び散った破片を指すテクニカルタームで、兵器としてのミサイルを指す言葉ではない。

この直感は半分正しく、半分間違っている。物体の衝突で最も重要と目されるのは質量と速度だが、セスナや練習機のような小型機が低速で衝突する場合から、300tを超える重いワイドボディ機がフルスピードで衝突する場合まで、様々なケースが想定出来るからだ。

前置きはこの位にして、日本では公開されなかった航空機の突入仕様も、海外では公開している事例がある。中でも注目されるのは旧西ドイツだ。統一後、東ドイツの原発は危険性を理由に軒並み廃止され西ドイツの原発だけが残ったが、2001年(恐らく9.11の後)グリーンピースが同国全サイトの航空機衝突について検討した際、その壁厚を一覧化している(下記論文P4~P5)。

Gp_ev_22745_hamburg2001pp4_2

Dr. Helmut Hirsch“Danger to German nuclear power plants from crashes by passenger aircraft“Greenpeace e.V. 22745 Hamburg(2001)pp4

グリーンピースだからと頭から否定するネット右翼もいるだろうが、この部分はドイツの規制内容を説明しているにすぎず、内容はドイツ原発について推進派が書いたものや学術文献とも整合している(文中に掲示するのは煩雑なのでリンクに留めるが例えば:TOUR OF SELECTED SPENT FUEL STORAGE-RELATED INSTALLATIONS IN GERMANY(2006)(リンク) )。

ドイツの原発は構造上3世代に分かれる。

第1世代は壁厚2フィート(約0.6m)。10トンのスポーツ機(軽飛行機)が時速185マイル(296㎞)で衝突する条件としている。

第2世代は壁厚3.5フィート(約1.05m)。F-104戦闘機を想定し10トンの機体が時速400マイル(640㎞)で衝突する条件としている。

第3世代は1981年に新しく強化された規制に従い、F-4戦闘機を想定し20トンの機体が時速480マイル(768㎞)で衝突する条件としている。コロラド氏が良く指摘する米NUREG/CR-5042(1987年)の6年も前のことだ。なお、グリーンピースの論文には書かれていないが、壁厚は約2m、KWU社製の加圧水型炉K-PWR(Konvoi)の場合、1.8mとなっている。Youtubeにアップされた動画が時速800㎞で試験をしているのは、この規制を意識した条件設定なのだろう。

Nuclear_enginieering_and_design_198
出典:NUCLEAR ENGINIEERING AND DESIGN 1987 VOL103 No.1 pp23

なお、2001年時点でドイツには18基の原発があったが、その内第3世代は9基に過ぎない(内、konvoiは3基)。西ドイツは第3次大戦の想定戦場であり、また、西ドイツ空軍は900機以上のF-104を導入したが、300機近くを事故で喪失し、不慮の墜落の頻度が高かったという事情がある。このことが「落ちても滅多に当たらない」という確率論に頼ることを止め、原発に落ちた場合を想定する決定論に基づいた対策にシフトした理由だと思われる。しかし、その西ドイツと言えども、大型戦闘機の範疇に属するF-4の衝突に耐えられる原発は限られた割合しかなかったのだ。

世界を見渡しても、壁厚1.8mの格納容器に原子炉システムの主要機能を入れた原発はKonvoiのような一部しか見当たらない。

WikipediaのF-4記事の仕様欄は比較的しっかりしているようなので、そこから引用するが、空虚重量が約13t、運用時重量が約18t、最大離陸重量が約28tであるという。従って、20tという仕様はフルに爆装、燃料満載の状態には当てはまらないが、何も積んでいない空の状態という訳でもなさそうではある。どの重量を用いるのが適切かは、ブースカ氏のような航空専門家のコメントも参考にした方が良いだろう。

なお、JSFが論争を仕掛けた渡辺輝人弁護士は大飯原発訴訟の原告側弁護士を務めているそうだが、日本のPWRの完成形と言って良い大飯原発3・4号機の壁厚は過去に技術論文で紹介されており、胴部が1.3m、ドーム部が1.1~1.3mである。従って、西ドイツの第2世代と同レベル。壁厚はF-104戦闘機対応「相当」に過ぎない。

Concrete_kougaku199102p32
出典:「大飯原子力発電所3・4号機PCCVにおけるコンクリート工事」『コンクリート工学』1991年2月号

冒頭でも述べたように日本の原発の航空機衝突仕様は公開されていないが、壁厚は判明しているので推定は容易である。一方、1980年代以降の航空自衛隊はF-4やF-15といった大型戦闘機を主力としており、1980年代以降に建設された原発にF-104の機体規模(最大離陸重量13t)を想定することは適切とは言えない。航空自衛隊でもF-104は導入されたが1986年に実戦部隊からは退役している。航空自衛隊には同レベルの規模の戦闘機として三菱F-1が80機弱あったが、これも2006年に退役済み。現在F-4以外で日本の上空を飛行する主な戦闘機は次のようになる(暫定的に最大離陸重量で比較)。
  • F15-J:最大離陸重量30t
  • F-2:最大離陸重量22t
  • F-35A:最大離陸重量32t(導入中)
  • F/A-18E/F:最大離陸重量30t(米海軍)
軽量戦闘機に属する機体を前提とするのは詐欺と言って良いと分かるだろう。しかし、JSFのような軍事マニア達は「戦闘機にも耐えられる」「F-4が衝突しても耐えられる」と軽口を吹聴してきた。大した航空評論家振りだ。

種明かしをしてしまえば簡単な話である。それなのに本当の話が何故広まっていないかというと、日本の原発宣伝では、壁厚は曖昧に表現されることが殆どだったからである。試みにATOMICAの軽水炉の解説を読んでみても、正確な数値は出てこない。こういう姿勢が、日本の原発リテラシーを貧困なものとし、原発事故の遠因に繋がっている。

(以下はおまけ。)

【補論1】圧縮強度
konvoiと大飯3・4に関してはコンクリート強度の値も入手している。konvoiについては技術者による視察報告のため「強度」としか書かれていないが、通常、強度とのみ述べる場合は圧縮強度を指すそうだ(コンクリートの強度 白鳥生コン株式会社)。

大飯3・4の圧縮強度は450kgf/cm^2(『コンクリート工学』1991年2月号)に対しkonvoiの一つGKN-2号機は350kgf/cm^2である(「第9回電力土木技術調査団報告」『第29回電力土木講習会テキスト』1987年2月)P71)。大飯3・4の方が3割ほど圧縮強度が高い。

さて、1960年代末より米独では、軍事上或いは原子力安全の観点から、飛来物に対する建築の耐久性の研究が早くから進展した。これらの研究成果は国内外の文献で公開されているため、日本の建設業界関係者なども知ることは可能であり、実用する機会も存在した。例えば、自衛隊・在日米軍の発注する土木施設や、原子炉建屋設計をべクテルのような海外のゼネコンと共同で実施する場合などである。

こういった研究の過程で、飛来物によるコンクリート板の貫通深さ評価式、貫通限界板厚評価式が種々提案された。その一覧を読むと、圧縮強度はファクターに入っているものの、平方根の形を取っていたり(修正NDRC式)、そもそもファクターに入っていないなど、余り大きな影響は与えないような印象を受ける(例:「衝撃荷重を受ける鉄筋コンクリート板の局所挙動に関する実験的研究」『FAPIG』1990年3月号)。

よって、圧縮強度については簡単のため無視している。

【補論2】航空機突入仕様を明示出来なくなった背景は、JK-PWRの挫折か

国内外の原子力プラントの壁厚を比較したがらないのは、幾つかの理由が考えられる。K-PWRについては、1981年秋から東電がJK-PWRとして導入を正式検討しフィジビリティスタディまで実施したものの、導入を中止したからだと思われる。

東電が非公式の形でK-PWRに関心を示すようになったのは1970年代後半のことで、日経や業界紙がその動向をストレートニュースやKWU社の日本駐在員へのインタビューで報じていた。

一方1970年代から80年代初頭にかけて、日本の原子力業界は航空機衝突問題に対しても取り組みを始めていた。最初期の成果として1975年に原子力安全研究協会が『原子力発電所に関する航空機事故の確率評価について』をまとめていた。その後、より直接的なテーマを与えられた文献として、学者やコンサルタントなどに依頼された『原子力構造物への航空機及び飛来物衝突問題の研究』『原子力施設並びにコンクリート壁に対する航空機ミサイル衝撃の解析』が1979年頃に相次いで刊行された。その他、航空業界では航空振興財団がICAO文書『航空機事故技術調査マニュアル』を刊行していたが、1980年代に入ると原子力業界でも参考のため買い入れる動きがあった。

この時点での遅れは欧米に比べてまだ数年程度だったと思われる。NUREG/CR-5042(1987年)の元となったと思われる論文が1972年に出ているためだ(“PROBABILISTIC ASSESSMENT OF AIRCRAFT HAZARD FOR NUCLEAR POWER PLANTS”, NUCLEAR ENGINEERING & DESIGN 1972 No2: 333-364)。

1981年になると、先述のように西ドイツが航空機衝突の規制を強化し、その背景には冷戦があった。欧州はその最も重要な正面だったが、極東も(一応)ホットスポットと見なされていたので、日本の原子力業界が関心を持つのは当たり前だった。

従って、1980年代初頭時点で、資金のメドさえクリアすれば西ドイツ並みの対応で仕様を策定するだけの素地は持っていた。もし実施されていれば、3.11前から設置許可申請書にも記載済みだっただろう。

少し、後についてのことも述べておく。

電力中央研究所で「飛来物の衝突に対するコンクリート構造物の耐衝撃設計手法」の研究が始められたのは1982年のことで、その終了・報告は1991年である。また、冒頭に掲げた、用途廃棄となったF-4戦闘機を用いて衝突実験が行われたのは1980年代末のことで、日本の武藤研究室の提案で米サンディア国立研究所で行われた。なお、武藤研究室とは、福島第一1号機建設時、BWR建屋の耐震解析などで活動していた鹿島建設の研究室であり、同社の社報や記念誌、1970年代のNUCLEAR ENGINEERING & DESIGN誌にその名を見出すことが出来る(これらの他、警察・自衛隊なども何か研究はしていたのだろうが、先行研究を当たっても触れた物は無かった)。

朝日新聞が2011年に報じた、外務省による同趣旨の研究はオシラクの影響を受けてか航空機衝突は含まれていないが、1984年のことだ(「原発への攻撃、極秘に被害予測」『朝日新聞』2011年7月31日)。

しかし、ホットスポットと自認する者が多かった割に、日本の原発は耐震以外は単なる米本国仕様のコピーとして導入が進められた。航空機衝突で日本が採用したのは、米国風味のパッチワーク規制だった。飛行場に極端に近いサイトだけ仕様を明記。1980年代後半以降計画の本格化した、六ヶ所の再処理施設にのみ適用された。しかし、速度は時速540㎞に抑制され、訴訟でも批判の的となっている(「準備書面(123) 核燃料サイクル施設に係る新規制基準骨子案に対する疑問と批判」2013年9月6日P6)。西ドイツのようにどのような場所でも実施を要求する考え方とは異なっている。

同じ極東に位置し、本当のホットスポットであった台湾、韓国が航空機衝突についてどのように検討していたのかは分からない。両国との原子力交流は原産を通じて活発だったこともあり(業界外のネット右翼は受け入れたくないだろうが、紛れも無い事実)、電事連などが情報を手に入れようと思えば容易に入手できた筈である。

一方、そもそも何故JK-PWRの導入検討が浮上したのかと言うと、当時は1970年代中盤の初期プラント低稼働率問題の影響を引きずり、「本当に米国軽水炉で良かったのか」という炉形論議が再燃していた一方、更なる建設コストの削減も求められていたからである。

そのような状況で、F-4の衝突に耐えるJK-PWRを導入したらどうなるだろうか。

まず、WH製PWRを導入済みの他社と仕様の整合が取れなくなる(横並びが崩れる)。また、コストアップの要因にもなるので、経営面からは航空機衝突仕様の明記は積極的になれなかった筈だ。

一方で、WH製PWR並に壁厚を薄くすると「反対派を刺激し」説明に苦慮することが容易に想定出来る(勿論、苦慮する方が悪いのであって、そのような倒錯思考自体が批判されなければならないのだが)。1970年代後半、航空自衛隊の主力戦闘機は西ドイツ同様にF-4であり、更に重量の大きなF-15の導入も1976年に決定していた。このような状況下、K-PWRの衝突仕様をスペックダウンして導入することはあり得ない。社会的合意が得られない。

田原総一朗が推進派的ポジションに鞍替えして『生存への契約』を著したのは1981年のことで、その中で業界関係者にインタビューしている。内容は、国費による強力な助成で成功した西ドイツの賞賛。しかし、裏を返せば「金は出さずに規制だけを強化することは認めないよ」というメッセージが込められていたのかも知れない。

K-PWRのフィジビリティスタディは商業機密による縛りもあるため、公開された技術論文は未見である。しかし公開されない理由として、衝突仕様の問題も一因として働いたのでは無いだろうか。一旦日本語論文として社外にPRしてしまうと、当時計画中だった他のサイトまで問題が波及するからである。しかも、柴野徹夫『原発のある風景』や四電窪川原発反対運動の顛末を見れば分かるように、各社では70年代以前とは比較にならない立地難にも直面しており、これ以上面倒の種を抱える余裕は無かった。

勿論、航空機衝突に正面から取り組んだ原発を建設した方が、安全の面ではプラスである。しかし、JK-PWRを、安価がセールスポイントだったABWRの当て馬として使い捨てた時に、日本の原子力産業が航空機衝突への考え方を実機に反映する機会は決定的に失われたのである。

1983年に羽田沖で人為的な墜落事故が発生し、1985年には航路を大幅に外れた形で日航機墜落事故が発生した。これらを受けてのものか、通産省は1986年春に政務次官名で、航空機衝突の際の安全確保について電力に問い合わせている。電力の回答は「安全は確保出来る」という空疎なものだった。「安全を確保出来る」程度の規模で事故を想定していることが伺える。

こういった空理空論のツケは、結局311後に支払うこととなり、原子力規制委員会は各原発の再稼動を審査に当たって、議事録非公開の形で「故意による大型航空機の衝突その他のテロリズムへの対応について」審議することとなった。しかし、具体的に壁厚を増す補強工事が行われた例は皆無である。高浜原発1,2号機はコンクリートの建屋で周囲を取り囲む工事を行っているが、あくまでも事故時の放射線を遮蔽するためのもので、航空機突入の補強が目的では無く、壁厚も元々の厚さが0.9mの所に、0.3mプラスされて1.2mにしかならない(高浜発電所1号炉及び2号炉外部しゃへい建屋の変更について)。

もし、政治環境の変化等によって、大型航空機の突入に耐える強度が求められた場合は更なる壁厚の増加工事が必要となり、その工事費用は二度手間であるがゆえに、最初から航空機突入を意識して外部しゃへい建屋を建設していた場合より遥かに高くつくと考えられる。こういった泥縄的状況は最早電力にすら旨味が無く、喜ぶのはゼネコンだけ、電力や元請が不当に価格を下げるように圧力をかけた場合、どこの組織も得をしない事態すらあり得ることも見通しておかなければならない。

最近、『新装版 怒る富士 (上)』をレビューだけ見たが、江戸時代の愚行をなぞる未来しかないということである。

関西電力は航空機突入を意図して新規に1m以上の壁厚の建屋を建設すると、他電力の原発にも同様の措置を行わなければならないので避けたのだろう。このような忌避的態度も、当補論2を補強している。

17/10/9:補論2にソース、高浜外部しゃへい建屋の件を追記。

2017年5月23日 (火)

共謀罪の根底にある差別思想は必ず福島事故のような惨事を誘発する

唐突だが、私も本日衆議院を通過した共謀罪には反対である。

世情よく言われているように、屋上屋を重ねるだけでこの法律には意味が無く、権力者は対象から除外されている、保身のための法律だからだが、他にも理由がある。福島原発事故の教訓である。具体的には「テロ対策を言い訳に反対派を追い出して爆発した」という話を調べ上げたからだ。

上の方のツイートのような出来事が、東電福島でもあった。

共謀罪や千葉市長熊谷氏の暴言などで何かと揶揄される共産党を始めとした左翼団体。だが、彼等は福島第一、福島第二が津波に弱いことを事故前から指摘してきた。

一般的には、共産党の吉井英勝議員が国会で質問した話が有名になった。覚えている方もおられるだろう。

注目して欲しいのは、地元の市民団体も現場の重要な建屋が津波対策をしているか、視察をしたいと要望を出していたことである(下記のリンク先)。

チリ津波級の引き潮、高潮時に耐えられない 東電福島原発の抜本的対策を求める申し入れ」原発の安全性を求める福島県連絡会代表 早川篤雄 2005年5月10日(PDF

しかし東電は、「原発に反対する者は犯罪者予備軍」という妄想に取りつかれていた。以前から、原発の展示施設で見学者が安全性に疑問を呈した場合には、明るい表情で「大丈夫です」と笑い飛ばすように指導し、市民団体が上記の要望を出した時は「テロ対策上見せられない」とうそぶいた。その一方で、原発に賛成する市民達には現場の見学を許可するという、恣意的な運用を続けていた。不幸なことに、見学を許可された市民達は原発の構造に興味の無い無知な者が大半だった。

福島事故を振り返った時、右派は「あれは避けられない事故だった」と主張し、リベラルな考え方の持ち主でも、主だった事故調の説明「東電は事前に大津波のシミュレーションをしていたのにそれを活かさなかった」という認識に留まっている。つまり、専門家がしっかりしてさえいれば良かったと無意識に思っている節がある。そこに彼等が誹謗する「左翼」の意見を採り入れていたら事故を防げたという事実は全く参照されていない。

共謀罪に賛成する人々が考える『テロ対策』を施した結果、福島原発事故は発生したのである。

繰り返すが私は、以前「テロ対策を言い訳に反対派を追い出して爆発した福島第一原発」という記事を書いた。

長いが、是非読んでほしい。共謀罪のような考え方は必ず原発や再処理工場の事故を誘発する。吉井議員や市民団体の指摘が無視されたのは、ただ「左翼だから」という共謀罪に通底する発想のためである。そのような右翼的偏見が原発事故の底にはある。

そして原発事故が起こった時、政権におもねる者達は被災者を見捨てる。大衆にも棄民に加担する者がいるのは常識だが、例え潜在的には善意の持ち主であっても、都合の悪い情報は流通量を抑制され、無関心なまま「終わったこと」として受け取られる。そういった過去の悲劇をも再生産することになるだろう。

【おまけ】

なお、テロ対策について肝心の原子力規制庁は「何も話しあっていない」そうである。

昔、日本の原発は丸腰だと言われていたが、今は武装警官が詰めており、そのことは官庁のリリースや報道もされている。そんな状況で話をするのに共謀罪が必要なのか、少し頭を働かせれば済む話だ。

松本人志がMCの報道バラエティで「今、隣でミサイル上がってんすよ、これとか考えると準備しといた方がええんちゃうのっていう」とコメントがあったらしい。

飛んでくるミサイルに共謀罪でも示して帰っていただくように説諭するのだろうか。相変わらず馬鹿で権力の忖度しか出来ない奴等だ。かつて横山やすしにさえ「チンピラの会話」と言われたあの下劣な芸風は元々嫌いだったが、政治まで語って欲しくないね。

話もしない規制庁は論外だが、共謀罪賛成派にせよ、煽動者になった芸人にせよ、かつて左翼を馬鹿にする時常用していた「話せば分かる」を地で行ってるのは興味深い。活断層やミサイル相手に印籠代わりに「共謀罪」を示せば惨事が防げるという屁理屈。つくづく間抜けな話である。

※17年5月26日本文に一文追記。

2017年3月20日 (月)

【東電には】電源盤を2階に配置して建設された日本原電敦賀1号機【都合の悪い話】

30余り提訴されている福島第一原発事故訴訟の中で、2017年3月18日、前橋地裁での訴訟で判決が下された。賠償額については甚だ不満足な結果だったが、津波の予見・回避可能性については国と東電の過失を認める内容となっているそうで、何よりである。

これまで取材などの都合で当ブログでも全く触れてこなかったが、東電福島事故を語る際は余りにも当然の前提として処理されてきたことがある。今回の判決全文はまだ入手していないが、今後、前橋訴訟が高裁・最高裁に進んだり、他の訴訟が進展するにつれて、津波回避可能性を論じる上で、それなりの見解を示しておかないと困ると思われる。今回判決が出たことを機会に、明確にしておきたい。

それは、配電盤(電源盤)の置かれていた場所だ。

【電源喪失問題の検証は配電盤対策の検証に行き着く】

添田孝史『原発と大津波』終章「責任の在処」P182では、津波の予見の他にも「誰が、何時、どういう理由で、どんな意思決定をしたか」が十分には解明されていない問題を幾つか挙げており、「全電源喪失対策の不十分さ」もその一つである。

当記事はその問題を「配電盤水没を回避出来る可能性が生じたのは何時からなのか」、という観点から執筆した。だから予見可能性ではなく、回避可能性に関する記事である。

まずは今回の判決骨子から抜粋してみよう。

配電盤(電源盤)が水を被ったのは、良く知られているように大半が地下1階以下に設置されていたからである。この配電盤というのは、外部電源、非常用電源、移動電源車のどれから電力を引いてくる場合にも必ず必要な、一般家屋で言えばブレーカーのような機器である。

電源喪失問題の検証というと、よく挙げられるのは「電源喪失は30分以上続かない」という考え方が国の規制に書かれていたことだが、配電盤が水没しなければこの前提を満足出来た。また仮に「電源喪失は30分以上続く」と規制を改めて、移動電源車などを準備しても、配電盤が水没した場合には復旧までの時間が週単位となってしまう。私は、失敗学会津波対策研究会にて東電の技術系OBから「あの時は移動配電盤も向かわせたが早期復旧は出来なかった」と直接聞いている。他の原因はともかく、水没で配電盤が全滅するような事態は後段の対策を充実させても無力感しかない。それだけ、重要な設備ということだ。

Nissin_truckswgr_2013 トラック搭載型移動用スイッチギヤ(移動配電盤)パンフレット(日新電機、2013年)
※後述の高圧配電盤に相当する設備(関電向。移動用のためか容量は小さい)。東電OBによると福島第一には電源車の他にこのような移動配電盤も派遣されたという。

この問題への対応策は2通りある。

  • 配電盤室の換気口、ケーブルトレイ、扉などを防水工事する。
  • 配電盤を高い場所に移設若しくは増設する。

防水工事についてはその必要性は自明であり、新規性もない。なお、大林組は既設の建築物が水害ハザードマップなどで防災強化を迫られた場合にも適用できる「建物の水害に対する設計ガイドラインについて」という論文を2007年の技報に発表していた。地下室についても

特に危険性が大きいと考えられる場合においては,地下空間の用途及び規模を勘案し下記の措置をとる。

(1)浸水しないことを求められる建築物の場合は,地下室を設置しない。

(2)浸水させたくない居室や電気室等の設備は地下に設けない。

(3)やむを得ず,重要設備や機能を地下階に設置する場合は,浸水しにくい計画にする。具体的には,重要室への浸水の防止策,浸入水の排出策として,建築物の開口部は設定浸水高さ以上の高さに設ける。

と極々常識的な内容が記載されており、ここでも福島第一が上記(3)に対応する改造工事など、回避可能性を講じなかった結果、一般防災の水準以下であったことを示している。

私が検証の不足を感じているのは高い場所への設置である。

【配電盤を地下に配置した理由は耐震性だが、規制要件では無い】

配電盤の配置について、各事故調や検証本などを読んでも、何故地下1階に配置されているのか、についての説明はおざなりである。同じく地下に配置された非常用電源については事故直後、米国のハリケーン対策をそのまま真似たからだという証言が朝日新聞に載ったことがある(魚拓)。だが、色々と詳細情報が上がってくる内に、後述のように米国でも地上に配置する例が指摘されるなどしたためか、重要視はされなくなった。そもそも、ハリケーンに耐える建築物を作ることは、台風が毎年襲来する各地の街並みを見れば明らかなように、さほど難しいことではない。原発向けなら尚更。

それでもハリケーン説は具体的な脅威を挙げているだけまだマシで、もっと酷いと「GEに任せたから」的な実に粗雑な説明も散見される(この件に限らず、「GEに任せたから」「GEは凄いから」と断りなく説明している文献は、その点に関しては地雷だと思った方が良い。証言を引用している場合、証言者のポジションなどを考えておく必要がある)。また、上層階に移設出来るかどうかも言及が無いか、留保無く可能としている。準備書面などの中にはネットにアップされている物もあるが、こういった文献の影響を大きく受けている。

この点について最も詳しく論じているのは意外なことに電事連と東電事故調である。つまり、東電と電事連は詳しく論じることで自らの正当性をアピールする目的がある。

電事連が提出したのは前回も紹介した「国内BWRプラントの非常用電源設備の配置について」(2011年8月23日)である。福島第一の非常用電源が地下に配置された経緯の解明のために提出された資料のため、記述の重点は非常用電源になっているが、図上で配電盤も確認することが出来る。以下、2013年の記事「東電事故調への疑問(第3回)」から再掲するが、地震対策が理由だったとしている。

東京電力のプラントの例では、BWRプラント導入初期の配置設計は、米国プラント配置を踏襲した設計がなされていた。ただし、地震に対する設計が米国と比較して厳しい条件となるため、多くは工学的安全施設の電源となる非常用DG等の配置においても岩着した基礎上に設置する方針とした。

また、電事連によれば、米本国の設計思想は次のようになっていた。

非常用DGや電気品はタービン建屋等に配置されているが、非常用DGは地下階に配置されている事例はなく、電気品の一部が地下階に配置されている事例があった。これは、米国では原子炉建屋を除き、設計条件として建屋基礎を深くして地下階を設ける構造とする必要がないためと考えられる。当時の米国プラントは、原子炉建屋は二次格納施設のみの単独建屋となっている。また、非常用DG、中央制御室等は個別の建屋、もしくはタービン建屋と一体とする配置としており、原子炉建屋以外に非常用DG、電気品を設置するのは、当時としては標準的な配置であった。また、非常用DGはタービン建屋の一部に配置されている設計事例もある。

東電事故調は2011年11月の中間報告で8月の電事連資料の記載を踏襲し、最終報告でもP30-31で同趣旨の説明を繰り返した。しかし、電事連、東電共に、福島第一1号機の最初の設置許可申請では、米国の設計思想がそのまま日本に提示されていたこと、「導入初期の配置設計」について具体的なサイト/ユニット名、年月を指定しないなど、言葉を濁している。彼等の報告書だけを読み比べても、読み手は閉じた思考から抜け出すのは困難である。

とは言え、電力は原発の配電盤に対して剛構造であること(共振周波数が20Hz以上)等、耐震性確保のため特殊な要求をしてきたことには留意しなければならない。そのため「一般のビルや工場の屋上にもキュービクルが置いてあるのだから大丈夫だ」という指摘に反論してくるのではないかと懸念している。勿論、一般のキュービクルで、東日本大震災後も機能しているものなど掃いて捨てる程あるだろうが。

黎明期から、原子炉に関係する配電盤は耐震区分上、Aクラスと呼ばれる最も厳しいカテゴリに区分されてきた。高層階では地震の揺れは大きくなるので重要な電気機器などを置きたがらない(後述)。ただし、置きたがらないというのは設計思想の一つに過ぎず、法規制に取り込まれて禁止とはなっていない。

【上層階に配電盤を設置しても問題無かったという暗黙の前提】

この点について、以前、失敗学会の津波対策研究会でコメントしたり、長年原発報道に係ってきたある報道記者と議論したことがある(津波対策研究会でのコメントはその時点で一部参加者から賛意を受けており、反論も無かった。同OBからは5,6号機敷地高決定の事情も聞いたが、報告書には敷地高の件のみ明記された)。いずれの議論でも、上層階に新しい配電盤室(の入った建屋)を増設することなどは、さして難しくなかったと結論している。その理由は、主に2点。

一点目は、50万Vといった特別高圧を扱う外部電源と異なり、配電盤の電圧は高くても6900Vで、関係機器のサイズが小さく、地震時に加わる衝撃も少ない傾向にある事だ。東日本大震災の時、外部電源は地震動で広汎な損傷が見られたが、配電盤類でそのような事象は殆ど聞いたことが無い。津波による被水があったプラントを除き、問題無く動作している(残念なことだが、伊東弁護士による批判はこうした点を十分に説明出来ていない)。

二点目は、福島事故後、最短のケースでは1~2年程の間に、固定式の非常用電源などが高台に増設されたが、その配電盤室の設置に特に大きな問題は出ていないためである。ああいった設備を急遽増設した時、使われる技術は既製のものばかりだから、それで良いということだろう。

【原発黎明期の配電盤の特徴】

では、1970年代の古い技術で製作された配電盤はどうなのだろうか。

調べてみると、まず盤自体が後年より嵩張ることが分かる。大きな物体程地震加速度による影響も大きくなるため、これは不利な材料だ。

後掲の『電気計算臨時増刊』の記述にもあるように、原発は多くの電気機器への電力供給を制御しているため、配電盤の数(面単位で数える)も多くなる。よって配電盤1・2面辺りのサイズを示すことが多いが、福島第一6号機、東海第二に採用した高圧配電盤の場合下記のように、2面当たり幅2m、奥行2.7m、高さ2.6mとなっている。

 

Fujigihou1975no8p2_2

配電盤メーカー技術者も当ブログを閲覧する可能性があると思われるので、専門的だが、他の仕様についても書いておく(興味ない向きは飛ばしてください)。

『富士技報』によると、メタクラと言ってることから分かるようにJEM 1153(1990年廃止、現JEM 1425相当。経緯はリンク参照)に沿った形式は屋内用自立形閉鎖型(G型)。TCBは極小油量遮断器の略語で、遮断電流定格は7.2kVで60.5kVAとあるから、後述の福島第二以降に大量生産されたVCB(真空遮断器)2段積みの63kVAと比べてもそん色のないスペックと言える。『国分工場史』1巻の記述などと合わせると、1970年代の高圧配電盤はTCBかMBB(磁気遮断器)が主流である。磁気遮断器の方は当時の国鉄工作局が編集した電気機関車のメンテナンスマニュアルでも載っており、耐震性の付加はさほど困難な技術ではないことも推測できる(船舶用なら地上並の大容量タイプも存在しているのだろう)。63kVAとなると配電盤でよくみられる水平引き出しを実現するため、台車の上に載せる方式が多い。この点が耐震性との両立にはマイナスとなるようだ。また、MBBの場合電流遮断のためアークシュートという部材が必要となり、筐体への地絡対策を考慮すると上下方向に相当の容積を食い、2段積みが難しかったのではないだろうか。

盤構造としては板材は3.2㎜の鋼板を使用し、前面扉は4.5㎜鋼板である。主梁はみぞ形鋼(100㎜X50㎜X6㎜)を使用し、必要個所に補強用の斜材を入れた。盤体は溶接構造としているが、溶接強度はそこまで必要ないと判断し、連続溶接は採用していない。

このような仕様により、建物の卓越周波数(5.5Hz,7.9Hz)および盤体の固有振動数(20Hz以上目標)において水平方向0.66G、垂直方向0.29Gの地震力(連続正弦波)に耐えることとされた。

「1100MWe原子力発電所用6900Vメタルクラッドスイッチギアの耐震設計」『富士時報』Vol.48,No.8 1975年 P2(クリックで拡大)

下記の日立国分工場史を読むと、福島第二に納入した高圧配電盤は、遮断器を2段積するなどによって所要面積を従来形の69%に縮小したと書いてある。昭和58年と言えば1983年で、事故の28年も前の話。当時、配電盤の技術革新が急速だったことを伺わせる。この事情は重電各社共同様で、『電気計算』の常連だった東芝も1980年9月号で縮小化傾向を取り上げた記事を投稿している。

Kokubu_2kan_p174175 「第13章 受変電設計器部 (1)メタクラ・キュービクル」『日立製作所国分工場史第二巻』株式会社日立製作所国分工場 1987年8月 P174-175(クリックで拡大)

また、実装されている各種の保護継電器が半導体化されていないため、後の時代の製品に比較すると耐震性で不利であることが70年代末の文献で既に指摘されている。

Denkikeisan197907p214215_2 徳光岩夫「原子力発電所の新しい保護継電技術」『電気計算 臨時増刊号 「これからの保護継電技術』 P214-215 1979年(クリックで拡大)

そういった古い配電盤が、高い場所、例えば福島第一、福島第二では事例の無かった2階より上への設置は出来たと言えるのか、ということだ。

勿論、外部電源の時と同様、古い配電盤に対して予防更新した実績はあり、福島第一もその機会を利用する手はあった。下記『国分ものづくり半世紀』他、東芝レビュー2010年12月号でもそういった記事がある。

Kokubu50nen_p149 「第3章 スイッチギヤ」『国分ものづくり半世紀』 日立製作所 2007年P149

余談だが、2014年度には原発用として水平3G(3000Gal)鉛直2G(2000Gal)の高圧配電盤が製造されている(「2014年度の技術成果と展望」『富士電機技報』Vol.88,No.2 2015年 P113)。富士電機はこの耐震仕様を従来の3倍の大きさとしている。恐らく、こういった仕様を東日本大震災前に求められていなかっただけで、仕様として与えられれば2000年代に高台増設用等の用途で製作することは可能だったと思われる。

話を戻すと、法廷では、規制の在り方などを議論する場合がよくある。前橋判決もその一つだ。そういう官僚的制度論の中では以前から参照すべき事例があるに越したことは無い。

【日本原電敦賀1号機は2階に配置】

以前某古書店で見かけた『敦賀発電所設備の解説』(リンク)という本にその答えはあった。冒頭に「発電所配置」(リンク)が載っている。同配置から、2階部分を引き延ばして赤字で注釈した図を下に示す。これもクリックで拡大するのでよく確認して欲しい。手書きで読み難い部分もあるが、周囲の関係と大きさから赤字のように書かれている。余談となるので図示はしないが非常用ディーゼル発電機は1階に配置されており、電事連~東電事故調の記述とだいぶ異なる印象を受ける筈だ。

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「1.1 全体配置 図1.2.2敦賀発電所平面図」『敦賀発電所 設備の解説』P7 1972年4月
※何故かPNGが掲載出来ないので上記はGIFである。PNG版はリンクのみ貼る。

以前の記事でも触れたように、スイッチギヤとは配電盤(電源盤)のことで、言葉の関係は次のようになる。

  • 6900Vスイッチギヤ=メタクラ=(高圧)配電盤
  • 480Vスイッチギヤ=パワーセンター=(低圧)配電盤

なお、標高(海面からの高さ)で見ると同じ1階、2階といっても、敦賀の方が福島第一より低い位置にある。しかし、耐震性の規格などを論じる場合、普通、標高では見ない。先にも述べたが、建物の上層階では揺れが大きくなるので、電気機器などは地上からの高さが問題となる。例えば、1階で200Galに耐えるように決めている場合、2階では300Galとか400Galなど、一定の倍率を掛けた値を仕様にする。しかも、国会事故調が報告書で敦賀と福島第一を比較した時指摘したのだが、敦賀の方が建設時に要求されていた耐震性(地震動)は大きかった。よって、福島第一より大きな地震動を前提に2階に設置されたという事が分かり、福島第一で配電盤を2階に設置することは極めて容易だったということになる。

【欺瞞的回答は東電子会社故か】

さて、念のため日本原電に質問してみたところ、次のような回答を得た。

質問(2016年11月3日)

廃止となった敦賀発電所1号機ですが、下記の電気設備は福島と異なり、地上階に配置されていたようです。
 ・非常用ディーゼル発電機:1階

 ・6900Vスイッチギヤ(メタクラ、高圧配電盤とも呼称):2階
 ・480Vスイッチギヤ(パワーセンター、低圧配電盤とも呼称):2階

 ・モーター制御盤(モーターコントロールセンタ):1階
 ・
バッテリー(直流用蓄電池):2階
 ・HPCI用ディーゼルエンジン:1階
 ・HPCIポンプ:1階

上記の高さに配置されていると解して良いでしょうか。

下記も2階に配置されているのか高さを御回答ください。
・バイタル電源(AC240Vもしくは120V、計装用)
・原子炉保護系電源(120V M-Gセット)

回答(2016年11月16日)

ご質問いただきました敦賀1号機に係る設備の配置・高さ等につきましては、これまで公表しておらず、原子炉設置許可申請書等にも記載はありません。現在も一般に公表している内容ではないことから、本質問への回答は差し控えさせていただきます。

ご期待に添えず誠に申し訳ございませんが、ご理解の程よろしくお願いいたします。

表に出ていないという回答自体が嘘であるのは勿論だが、仮に、過去に公表していなかったとしても、東日本大震災で被災した原発の配電盤の設置階はその後の調査で公表されている。差支えのある情報とは思えない。しかも既に廃止済みだ。典型的隠蔽体質と言えるだろう。

回答メールが言及している設置許可申請も現在は簡単に閲覧出来る。その他『日本原子力発電社報』に載った軽微な改造も可能な限り見直ししたが、建設時の配電盤配置が変更された形跡はない。そのまま40年に渡って運転されたということだ。

従って、クロニクルで紹介した1970年代~1990年代の各ターニングポイントにおいても、回避可能性に注力していれば、技術的問題も法規制上の問題も無く、福島第一の配電盤を高所(2階)に配置できた。

【結論】

もし私が準備書面を書く立場にあったならば、配電盤の配置について次のような一文を加えるだろう。

東電は電事連が保安院に提出した資料の記述を引き継ぐ形で、配電盤が地下1階や1階に配置されている理由を正当化することに終始したが、実際には同じBWR原発である日本原電敦賀1号機で2階に配置していたことを隠していた。日本原電敦賀1号機は福島第一1号機より1年先行して建設され、その後東電は日本原電を子会社化していた。従って実際には、大津波の可能性に気づいた時点で何時でも、配電盤を2階の高さに配置することが出来た筈である。回避可能性のハードルは極めて低く、最新の技術でなくても配置を改めることは可能だった。事故後の保身のための情報隠しに走り裁判を長期化させたことは原告が受けた不利益に大きく影響したと言うことが出来る。

当記事として主張したいことはまぁ、上述の通りだ。勿論、子会社となって東電を守るために唯々諾々と隠蔽工作に付き合う日本原電の体質についても、言うまでもなく問題外である。

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