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2022年10月27日 (木)

「女川原発を救った平井弥之助」神話とは何だったのか

前回記事(リンク)では福島第一原発建設期の問題点を改めて見直した。

今後は1970年代中盤以降から事故直前に至る国の不作為を中心に検証を行っていくが、それは次回とし、今回は東北電力女川原発の計画・建設について改めて論じておく。そのことにより、福島第一国賠訴訟における問題を解くカギが見えてくるためである。勿論、各訴訟によって論争の経緯が異なるので、全部を取り込む必要は当然ない。必要な部分をチョイスすれば良い。

Youtube

出典:「概要と歴史(女川)」Youtube東北電力チャンネル(リンク

いま、Googleで女川原発について検索すると「女川原発 なぜ無事?」と検索数の多い質問が提示され、「女川発電所が助かった理由」(リンク)というOCEANGREENこと、小川雅生元東工大原子炉工学研究所所長のウェブサイトに誘導される。このサイトに限らないが、『「決められた基準」を超えて「企業の社会的責任」「企業倫理」を追求しつづけた平井氏の姿勢』が称揚されている。同様の解説は学者、技術者、経済評論家等が採用し無名のブロガーまで含めてネットに多数ある。学術論文や学会誌の巻頭文に組み込まれたものも多い。勿論新聞で記事にもなり、雑誌記事にもなり、本も出た。

更に、東北電力賞賛論の裏には「女川は例外的な事例であり、福島は出来てなくても仕方なかった」という主張が見え隠れしているものもあり、そのことをTwitter上の業界関係者が延々と論じたこともあった。

しかし、これらの話は前提から誤っているのである。

結論を述べると、次のようになる。

  • 東北電力は指針・民間規格通りの仕事をした。平井氏の貢献も通産省から依頼された民間規格の制定。基準や指針を超える点は全く無い。
  • 東北電力は社内で高い敷地高を決めてから、平井氏を招聘した(=発案者ではなかった)。
  • その敷地高も東電の手法を参考にサイト周辺の津波高から、15m以上必要であることは簡単に導けた。単純に女川地点の過去の津波高3mに対し、5倍の安全率を確保したものではない。
  • 1号機の時、古文書は「数量的に不明確」とされ、明治以降の記録が精度が高いとした(古文書偏重史観の誤り)
  • 当初案だと東日本大震災で浸水を招くものであり、高くするように住民からも助言されていたが、東北電力等はその事実に触れず、結果だけを宣伝した。
  • 平井氏は岩沼千貫神社の言い伝えを子供の頃から知っていた可能性もあるが、検証すると津波の脅威を勉強で再認識した可能性が高い。
  • 更にドライサイト(敷地高を確保すること)に固執するあまり、想定外への対策(建屋の水密化)について、後輩達に警告しようとしなかった。中部電力と比べてこの差は顕著である。
  • その上、平井氏より高い敷地高を提言した人もいた。
  • 平井氏の言行と生前の評判はどうだったのか・・・当ブログで解明

特に、指針や規格通りだったとなると、女川での国と東北電力の態度が一種の最低ラインとなり、福島での国と東電を見ていく上でとても重要になってくるので、これは前半に説明し、後半で平井伝説を検証していこう。

私も、かつて「東北電力の企業文化」という法令や指針に基づかない要素は否定したが、平井弥之助のリーダーシップは評価し、前回記事まではその影響力を一定程度見ていたが、今回の検証作業の結果、平井氏がいなくても東北電力は女川を15mの敷地に建設しただろうと考えを修正した。

本来なら数本の記事に分割すべきところを今回は1本にしている。安易に言われる「メディアは報じない」と違って、こうした観点での再検証は当ブログ位しかやっていない。通しで一気読みする必要も無いが、関心があればゆっくりしていって欲しい。

【1】指針と電気協会規格

本節は指針、規格、設置許可申請の仕組みを述べているので、面倒な方は飛ばして構わない。

前回記事はもっぱら民間規格のJEAG等を論じたが、ここで指針も含めて俯瞰しておく。

(1)安全設計審査指針とは

国の「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」(リンク)は1970年4月に制定された。これは簡単に述べると設置許可申請された原発の設計に問題が無いか、原子力委員会が審査する際の物差しである。

安全設計審査指針の本文は基本的に原則論しか述べておらず仕様規定的な要素は殆ど無い。その構成は2.1で準拠規格・基準、2.2で自然条件に対する設計上の考慮、2.3で耐震設計について述べており、いずれも「過去の記録を参照」することを要求していた。

当指針には実運用の便のため「解説」という文書が付随する(Level7,リンク)。全項目に説明が加えられている。

P9

2.2の解説を引用するが、過去何年、サイトから半径何キロといった仕様規定は無く、「過去の記録の信頼性を考慮のうえ、少くともこれを下まわらない過酷なものを選定して設計基礎とすることをいう」などと述べられているのみである。女川の設計担当者が課せられた第一の条件が、これであった。

設置許可申請との関連についてもここで簡単に説明しておく。設置許可申請の基本的な仕組みは「ごぞんじですか?原子炉設置(変更)許可申請書」(『専門図書館』2011年11月号、リンク)に基本的な構成が説明されているが、申請を受けた後の審査過程については意外に説明が少ない。なお、設置許可申請は当初より公開され、新規のものはこの時代だと300ページ程度。

原子力委員会が審査をしていた頃は、申請ごとに「〇〇原子力発電所〇号炉設置(変更)許可申請第〇〇部会」を設け、その審査の為に設置許可申請を補足する説明資料を電力会社に提出させるなどしていた。この部会資料は審査の透明化を目的に1975年に公開され、それまでの分が国会図書館に収められている。この中で、電力会社側は「安全審査指針に対する対応」という資料を準備し、指針の各条項に対してこういう基本設計をしていますよ、という説明を行うようになっていた。従って、指針に対する当時の公式の理解を知るためはこの資料を読めば良い。新規の場合分量は100項目程度で、計1000ページ前後。

私が女川1号機の設置許可申請、およびその参考資料を読んだ限りでは、安全審査指針と津波との関係を詳しく述べた部分は存在しないようだ。当時の詳細な説明資料が付くテーマと言えば、専らプラント解析、自然現象では地震である。

とは言え、女川神話でよく言われる「エピソード」、津波伝承を集め、中でも1611年慶長津波の際、宮城県南部の岩沼市、千貫神社に来襲した津波のことを平井氏が知っていたとの伝聞が決め手となった、みたいな話があるが、たった400年前の津波伝承なら当時でもその存在程度は認識していたことが設置許可申請と部会参考資料から分かる。東電福島でさえ、建設初期には過去400年の地震を調べているから、後続する女川がそうなるのは当たり前である。

その後、指針類にも仕様規定的性格のものとして耐震設計審査指針(旧耐震指針)が定められたが、それは1977年のことで、しかも津波に関する指針とはならかった。つまり指針類は曖昧で貧弱な内容のまま数年間を過ぎたが、その理由は制定を担当する原子力委員会の動力炉安全基準専門部会に余力が無く、活動がにぶりがちだったからであり、当時から意識はされていた(『原子力産業新聞』1975年2月27日3面)。また、この時期は別の記事で解説していくが、設置許可申請されたプラントの安全審査も能力的な制約が大きかった。

(2)日本電気協会規格JEAG4601-1970とは

前回記事でも取り上げたが、JEAG4601-1970は耐震設計の考え方を参照するためのものである。

通産省の依頼で作成され、1970年5月に電気協会内部の原子力専門委員会、7月に上位の電気技術基準調査委員会で承認され、10月に発行した。これら委員会には東北電力も含めて各社が委員を出しており、電気技術基準調査委員会の旧委員に平井氏も入っていた。

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1970年版は、付録としてIAEA勧告なる文章がついており、「特定地域の津波による最大海面上昇の高さは十分な歴史的記録がなければ予想できないであろう」と言及していた(前回記事で解説した通り)。平井氏はこの勧告を付録することを認めた一人、ということだ。

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再掲するが上記のようにJEAG4601-1970は安全設計審査指針より記述のレベルがやや詳細化している。

なお、前回記事で書き忘れていたが、本規格2.1「敷地選定とその評価」の文章をよく読むと「海岸線の形状に支配されることが大きく、過去の津波の被害からおおむね判明している」との一文が入っている。本規格付録のIAEA専門家会議勧告と一見反するようにも思えるが、2.2「地震活動度」には「この種の学術研究は今後も進歩すると思われるので常に漸進的な態度で検討することが望ましい」と記載されており、同勧告と軌を一にしていた。

(3)IAEA勧告とは

JEAG4601-1970の付録2に収録されたIAEA勧告は、どんな背景を持つ文書なのだろうか。

JEAGには、発行年次等の情報が書かれていなかった。しかし英称”IAEA PANEL ON ASEISMIC DESIGN AND TASTING OF NUCLEAR FACILITIES PANEL RECOMMENDATION”で検索したところ、IAEAサイトに保存されていた。TECHNICAL REPORT SERIES No.88のタイトルであった(リンク)。1967年6月12日から16日にかけて日本で開催され、翌1968年6月に出版したものである。

パネル参加者は、見る人が見れば、当時のそうそうたるメンバーであった。国内外の学者は言うに及ばず、海外勢はGE,エバスコ,WH,ベクテル等も人を出していた。人数の上では(地震国と言う特徴故か)国内メンバーが半数以上を占めていた。つまり、勧告の内容はこれら参加者の総意に基づくと解することが出来る。なお、平井弥之助、東電の小林健三郎等は入っていない。小林は福島原子力建設事務所に駐在だから、担当業務でもなく、物理的な距離感も現在よりあった。

私が注目したいのは、日本原電の秋野金次氏。耐震設計の専門家である。2014年のブログ記事(リンク)でも紹介したが『コンストラクション』1969年3月号(重化学工業通信社)にて、太平洋側ではM=8級の地震を想定しなければならないと述べるなど、現実的な観点を持っていた(当時はモーメントマグニチュードの概念が無いのでM8級とは最大クラスを意味する)。

【2】東北電力の行動は指針、規格の遵守に過ぎない

さて、女川1号機の計画過程を重ねて時系列に並べてみよう。

  • 1968年6月:IAEA勧告発行
  • 1968年7月:東北電力社内に海岸施設研究会を設置
  • 1970年4月:安全設計審査指針制定
  • 1970年6月:女川1号機設置許可申請
  • 1970年10月:JEAG4601‐1970制定
  • 1970年11月:女川1号機審査結果が報告される

このように、女川の計画と、IAEA勧告、指針、JEAGは同時期である。参照しない訳がなく、実際の仕事の結果もこれらに記載した通りの行為となっている。

【3】「女川の奇跡」で平井弥之助を称揚し始めた元通産官僚と東北電力OB

ここからは平井伝説に焦点を当てて行こう。

それにしても震災後突然始まった女川絡みの平井弥之助称揚には不思議な点がある。事故以前の記録や当人の手になる文章がまるで見当たらない。町田徹氏は電中研時代の所内報挨拶文を発掘しているが、設計や原子力について論じたものではない。

実際には平井氏の著述物は他にもあり、2011年時点でもCinii等を用いればすぐに分かった筈である。だが、そうしたものについては後回しとし、まずは神話を検証していこう。

経歴は「電力土木の歴史-第2編電力土木人物史 (その6)」(『土木史研究』18巻、1998年、リンク)に詳細なものが載っている。

大まかに述べると、1902年宮城県柴田町生まれ。柴田町は県南に位置し、内陸だが岩沼市に接し、千貫神社は近い。水難という観点では阿武隈川に接している点も見逃せない。新卒から一貫して電力業界で土木技術者として働き、日本発送電を経て電力9分割の際に東北電力に入社した。

1960年5月から1962年11月まで取締役副社長、1963年からは子会社の東北電気工事で取締役会長をこなしつつ、電力中央研究所(電中研)理事を振り出しに技術研究所所長などを務めた。東北電気工事は1971年に顧問に退き、電中研理事は1974年に退任、理事となった。1986年2月に死去した。

神話の下地として最も流通している説明は、東北電力で立地関連業務を担当経験のあったOBの大島達治氏によるもので、次の通りである。新聞雑誌の記事や書籍も沢山出たが、これより後で記述のレベルも浅い。

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2011年3月28日に「通産省出身の元水力課長」が平井氏の功績について発信(INとはインターネットだろうか?)。これに触発され、2011年6月には大島氏の手で「技術放談 結果責任を負う事業経営のあり方」という一文が書かれ、それが出回った。画像引用はしないが次の4ページには「法令に定める基準や指針を超えて」という一言について、大島氏が記者などに説明する際に特に強調するように要望した旨、記されている。

発言者の立場を踏まえると、この言葉は指針を定め、規格を制定した国、および東電の責任を巧みに回避させようと意図した、訴訟対策と受け取れるのだが、無理がある。

まず、安全設計審査指針(リンク)は先に見たように「過去の記録を参照」するように求めていた。神社の地域伝承は勿論過去の記録の一種である。それを参考にしたところで、指針など超える訳がない。また、大島氏は自分自身が立地業務に関わった経験があり、且つ技術士でもあるのだが、文章には「基準や指針」の具体例が全く無い。

一方、平井氏はJEAG4601-1970という「基準を決めた側の一人」でもある。「規格に自分の思想を反映させたのが偉い」ということなら分かるが、そのような褒め方をすると、「女川は基準を超えていた訳ではないので」東電の立場は益々無くなってしまう。

また、IAEA勧告発行の翌月に、社内に海岸施設研究会を設置しているのだが、勧告文と平井伝説を比較すると、歴史津波への独創的な思考は特に見当たらない。2011年以降に語られた(震災バイアスが入り込みやすい)伝承の方が誤っていると言える。

後になって、「IAEA勧告にも裏から助言していたんだよ」などとOBが言い出したところで裏が取れなければそれまでであり、取れたところで、自分で制定したルールを守ったという、平凡な話にすぎない。

なお上記に赤書きした通り、東電の原子力導入に関する時系列に明らかな誤りがある。

【4】規程・基準は「馬鹿でも出来る最大公約数」と述べた平井弥之助

ただ、大島氏が震災後に著した文章を読み返すと、興味深い点に気づく。

 

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例えば、大島氏自身は人脈を利用して入社し、11年世話になり、仲人までして貰ったそうである。遠くから見ていた後輩が人物評をしている訳ではないということ。率直に言ってバイアスはかかると思う。

また、上記の一文には「規程・基準は馬鹿でもやれる最大公約数」と訓育したとある。平井氏が制定に関与したJEAG4601-1970は「馬鹿でもやれる最大公約数」だったのである。

【5】平井氏が招聘される前から敷地高を高く検討

2011年9月13日に東北電力が原子力安全・保安院への説明資料として準備したスライドを見てみよう。

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よく見れば「社内での比較検討の結果(中略)15m程度が最適と考えた」後に社内委員会(海岸施設研究委員会)を設置したとある。

平井氏が発案したかのように述べる人もいるようだが、最初から社内の最適案は15mなのである。

ネットで読める『原子力委員会月報』1970年12月号に付録された審査結果(リンク)では敷地高は14mとなっており、最終的な敷地高15m(14.8m)より1m低いように見える。

しかし、私は設置許可申請本体も読んだのだが、これは造成した時の高さを示すものらしく、原子炉建屋は14.8m、タービン建屋は15mの敷地高を確保していた。

なお、女川1号機はそのまま進めば福島第一の4・5号機と同時期に運開を計画したが、漁業関係者を中心とした反対運動のため着工は10年程遅れた。この間、数回設置変更許可が提出されているが、敷地高に関しては最初から変わっていない。1978年7月の設置変更許可申請にて、放水の設計がトンネル排水路から水深の深い水中放流管に変わっているが、津波や高潮の関連では変更がない。従って海岸施設研究会の成果は、設置許可レベルでは放水方法以外に影響しなかったものと考えられる。詳細設計に相当する、工事認可申請(非公開資料)には載っているのだろう。

ただしこの間、外部電源の開閉所は耐震性の高いGISの時代に取って代わり、事故を回避出来た副次的要因となったことは、数年前のブログ記事で述べたとおりである。

【6】正確な記録と生きた証言に溢れていた明治三陸津波と昭和三陸津波

震災後に行われた平井伝説、社外からの女川PRの盲点は、貞観、慶長といった古い津波の記録にフォーカスをし過ぎていることにもある。

三陸の場合は近代以降も、貞観や慶長にも比肩する高さの津波を経験していた。常識に立ち返れば、こちらの方が記録が正確で出版もされており、加えて体験者から新証言が収集可能であり、記念碑も新しく残存率が高い。後述する、羽鳥徳太郎氏の近代以前の歴史津波を対象とした論文に比べても遥かに情報の密度・正確度が高い。

だから最初から東北電力も近代の津波記録を把握したし、証言も収集した。私は実際の設置許可申請とも比較したが、下記のスライドは要点がよくまとまっている。

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スライドでは女川付近は精々3mの旨黄色で枠囲いしてあり、設置許可申請を読んでも津波の検討部分は東北電力自らが上記の(軽んじるかのような)結語で締めている。

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だが、毎回完全に同じ波源となることは無いため、重要なのは(1)の文献調査である。

また、ここで着目すべきは先行する東電福島。津波想定を決めた時に、55km離れた小名浜の記録を参考にした。従って東電流の考え方をするならば、55km以内に高い津波の記録を探し、それを当てはめれば良い。

ここで東北電力は『験震時報第7巻第2号』を挙げた(気象庁、リンク)。国会図書館は『三陸沖強震及津浪報告. 昭和8年3月3日』のタイトルでデジタルコレクション(リンク)でインターネット公開しているが、内容は同じものである。

中を見ると1km前後の間隔で実に詳細に津波の高さを示しており、下記のような一覧表にまとまっている。また引用はしないが一覧表と対応した地図が口絵に掲載されている。

一覧表を見るとコマ番号95、P9の歌津村(現南三陸町)石浜の外洋で明治三陸の時14.3mと記載されており、確かに設置許可申請の通りである。女川原発からは北に35km程。なお、歌津村は全般的に高い値が多く、海岸の向きも女川原発と似ている。

他、桃生郡十五浜村の荒屋敷で10.0mとの記載がある。荒屋敷はコマ番号14の口絵地図に載っており雄勝湾と追波湾の間、現在の荒浜海水浴場である。女川原発からは北に15km程しか離れていない。

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明治三陸では38mを記録した岩手県南部の綾里湾が有名だが、湾の形状が完全なV字であることの他、女川原発からの距離が約78kmある。そこまで遠い地点を参照するかは議論が分かれるかも知れないが、35kmや15kmなら近い。

なお、中央気象台はコマ番号93-94、P5から6で「波の高さ」を定義しており、これらは痕跡高(遡上高)である。

こうした記録は、歴史津波など前提が不明瞭な場合は、津波高の定義、位置、情報を記録した時期などについて議論の対象になる。だが、原発に要求される敷地高はJEAGによれば(後年の言葉でいう)ドライサイト、場合によっては敷地高の足りない分は防潮堤を設けて守るドライサイトコンセプト、である。

ドライサイトは水が絶対に来ない高さを示すもので、女川は明らかにそれを目指した。その観点からは痕跡高は有力な情報源である。同じ地域で異なる高さの証言・記録があった場合でも、2~3m程度の小さな差であれば保守的に高い方を採用すればよいことは、簡単に導ける。明治三陸以降は干満についての情報も残っているだろう。

なお、設置許可申請には出てこないが『宮城県昭和震嘯誌』(宮城県、1935年)も見てみた。この本は県がまとめた災害記念誌である(参考、「第1章 津波の記録―明治三陸地震津波と昭和三陸沖地震―」『本の万華鏡 第8回 津波 ―記録と文学―』国立国会図書館、リンク)。県庁か図書館を回れば参照出来るものだ。

やはり、現南三陸町田ノ浦から歌津付近の外洋に面した海岸(女川原発から概ね35~37km)で11~12mの津波が記録されていた(北原糸子他「津波碑は生き続けているか-宮城県津波碑調査報告-」『災害復興研究』第4号、関西学院大学、2012年P27図2、PDFリンク)。

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モノクロスキャンで読み取り難いが他の記録の傾向と照らすと、表の左側が昭和三陸津波か。明治三陸と思しき右側は藏内、田ノ浦で12m、石濱、中由馬場で11mといった記載が確認出来る(括弧で括られた部分は浸水面積)。なお、幾つかの地点で『験震時報第7巻第2号』と値に相違がある。

なお、平井氏を称揚する解説の中には当初敷地高12mの案もあったという話も出ているが、時期が不明であり、上記から考えれば設置許可申請の前、更に言えば海岸施設研究委員会の設置前ではないかと思う。だが、これまで見たように、平井氏でなくても却下するのは当たり前と分かる。

【7】当時の一般向け三陸津波紹介

なお、最初の設置許可申請前後にあった一般向けの啓蒙についても触れておく。

(1)吉村昭『海の壁 : 三陸沿岸大津波』(中公新書、1970年7月、リンク

吉村昭氏は戦記ノンフィクション作家として1960~70年代に活躍した方である(下記画像はAmazonより。後年、文春文庫で再版)。

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元が新書だったことから分かる通り、吉村氏の著作は小説ではなくノンフィクションの色彩が濃い。

第二章「波高」という一節は測定法に関する考え方を示したもので、明治三陸の事例を記載。大量の記録から、宮城県では2ヵ所を引用し、内1ヵ所は歌津石浜の14.3mだった。参考文献欄には『三陸沖強震及津浪報告. 昭和8年3月3日』が載っていた。「まえがき」からすると脱稿は6月のようだが、出版の2ヵ月前に出た東北電力の設置許可申請は(勿論)載っていない。偶然だが、同じように情報収集すれば、吉村氏が作中で自認するように、専門家ではない一般人でも同じ文献に目をつける、という見事な実例を示している。

この本が直接社内の議論、および審査に影響したとすれば本章の「この数字がそのまま津波の高さを正確に伝えるものとは限らない」というくだりだろう。吉村氏は1ヵ月に渡って現地での証言収集を続けたため、場所によっては、中央気象台などの公式記録より証言から推定される津波が大幅に高いことに気づいた。それで15mの設定が動いたわけではないが、数値の正当化には益したと考える。敷地高を下げようとは思わないだろう。

結果責任に関する意識付けも同様。被害の惨状は端的に言って地獄絵図と、誰にでも分かるように書かれている。

勿論欠点もある。明治三陸について、吉村氏は殆ど存命者の証言を収集出来ていないが、先の東北電力の調査ではより多くの生存者から証言を得ていた。また、個人で調査した場所の海抜を容易に求めるのが難しい時代であったため(詳細な地形図と照らし合わせが必要)、証言者の居住地と実名を沿えてトレーサビリティの維持には気を配ってるが、高さは判然としない記述も多い。

(2)NHK番組『新日本紀行』

近年も再放送され、アーカイブ化を優先して行っている。NHKのサイトで調べてみたところ、1968年11月25日「宮古 久慈 ~北部陸中海岸~」(リンク)が放送され、田老の堤防について取り上げていた。少し後になるが1973年6月4日には「唐桑の七福神 ~宮城・気仙沼~」(リンク)も放送した。

新書や教養番組は、話の種として企業活動の中で持ち出すのに向いている。三陸を知らぬ者も多い電中研や電事連と言った場所で何か訓示する際にも、立派な素材となるものである。加えて、東北出身者に接さずとも、日本海側や内陸出身で三陸に疎くても、意識付けの機会になる。それにこの時代のテレビは世帯普及率がモノクロ・カラー合わせ100%程度。独占的な発信力を既に獲得しており、しかも1世帯で複数台設置・多チャンネル化時代の前であるので、実質的な視聴率は高かったと思われる。

書籍とテレビ番組から一つずつ例示したが、勿論調べれば雑誌や科学番組など他にも出てくるだろう。

こうした観点から見ても、平井氏や少数の土木技術者だけの手柄ということはまずありえず、誰がやってもそうなる、という状況だった。

そのためか、設置許可申請や部会参考資料を見ても、海岸施設研究委員会の名は出てこない。

【8】1970年代に歴史津波の知見を拡張したのは羽鳥徳太郎氏であり、東北電力ではない

当時の歴史津波への姿勢についても述べておく。

1号機の時点では、東北電力は独自の古文書、石碑調査を行った形跡が無い。海岸施設研究会で取り上げたことは伝えられているが、こんな大事なことにも関わらず記録が残っていないため、その水準が全く分からないのである。だから結局は、設置許可と参考資料と同程度と見なさざるを得ないだろう。

なお、古文書とはどれくらい前の文書を指すかだが、東北大名誉教授の平川新氏によれば、和紙に書かれた明治以前の文書のことをいう。洋紙に書かれた明治以降の書類で、歴史分析の対象となるものは近代文書などと呼ばれることが多い、とのこと。私の調べたところ、明治維新期の資料なども古文書扱いされているものがあるようだが、新政府が近代的な地方自治の体制を構築するには時間を要し、1888年群制の施行でその完成を見るようである(「文化財としての古文書, アーカイブズとしての歴史資料」『学術の動向』2019年9月号、リンク)。

明治三陸津波の記録は中央気象台がまとめていることから、古文書とは言わない。一般的なイメージとしても近世以前だと思う。

よく言及される『日本三大実録』に記された貞観津波の言い伝えだが、これは今でいう公式記念誌のようなもので、知名度は高く引用されて当たり前のものである。近年、歴史研究で新規性を認められるには、寺の過去帳を読み解くなどの調査を要するし、そこまで行かなくても先行の研究成果位は参照するものだ。「古文書を当たって」というのはそうした行為を指すが、ネット上では記念誌を読み返す程度の意味に化けてしまった。

東北電力の海岸施設研究会は1980年8月まで活動したが、この間、地域史料まで当たって歴史津波の記録を検証したのは、津波研究者の羽鳥徳太郎氏で、「三陸沖歴史津波の規模と推定波源域」(リンク)を『東京大學地震研究所彙報』50巻4号(1976年3月刊行)に投稿した。

よく言及される、1611年慶長津波の際に記録された、岩沼千貫神社の件も挙げられており、この頃の羽鳥氏は神社の手前まで達した津波高は6~8mと見込んでいた。

東北電力は福島事故後にまとめた資料で、2号機からこの記録を参照としているが、1号機建設に際しても着工前の論文なので参照は出来ただろう(下記は東北電力の説明資料に赤書きしたもの)。

2011913p7

8mの伝承だけなら小林論文のように10mでも良さそうに見えるが、実際に検討された案はどれも高い。より重視された明治以降の津波が決め手だったのだろうが、敢えて比べるなら、慶長津波の岩沼千貫神社は直線状の海岸に対して、牡鹿半島以北はリアス式海岸という地形上の違いがある。また、千貫神社は海岸から7km奥にあって俎上による減衰が見込まれるのに対し、原発サイトは海際である。

ただし、牡鹿半島の石巻湾ではなく太平洋に向いてる点は岩沼と共通しており、直線距離は約67kmだが南北方向のみだと32km程度になる。

この事例が敷地高の判断に影響を及ぼしたとすれば、明治三陸や昭和三陸では起こらなかった高さの津波が、宮城県南部の岩沼に押し寄せていたことだろう。この事実から、主たる波源域が必ずしも三陸以北とは限らない分かりやすい例、として数えることが出来、例えば「明治三陸地震がもう50km南にずれて発生していたら」といった、小規模な波源移動を現実的なリスクとして受け取れたのではないか。そうなれば、今までは3m前後の波しか記録の無い女川でも、今後は15km、35km北で起こったような10m以上の津波が来る、という予見を補強出来るのである。

まぁ100kmも200kmも波源を南に想定するならともかく、50km以下の波源のずれ程度は慶長津波を細かに調べなくても想定の範疇だったとは思うが。

なお、小林健三郎の場合、前回記事で引用した博士論文3章の記述を見直してもらえばわかる通り、「V字型およびU字型海岸は適地から除外」していたが、女川は候補地の一つとして海抜10mで設定した。比較的開けている方とは言え、ゆるやかなU字なのだが。東北電力の検討結果と比べると、日本第二の津波常襲地帯である高知出身の割には、やり方は稚拙そのものと言える。

以上は、私の推認であり、実際の検討過程は東北電力が最初に実施した比較検討の資料や、海岸施設研究会の議事録を公開しないと分からない。だが、1970年代の知見で合理的に15mの敷地高を導くことは常識レベルで可能であることは分かるだろう。

むしろ、女川では3mの記録しかないことを強調する東北電力と原子力委員会に疑問がある。16mや18mといった案が葬られた可能性についても、考えておくことは出来るだろう。

例えばスライドで引用した歌津町石浜の14.3mを東電方式でそのまま採用すると、潮位差を加味したら15mを上回る可能性は高そうだし、この時代のやり方だと5m以下の想定でも0.5~1m程度の余裕は加味していたので、16m程度は必要に見える。想定の10%掛けで余裕高を加算すると14.3+潮位差(0.5~1m前後はあるか?)+1.4程度でやはり16m台後半となる。「神話で語られる平井像」的に余裕を大きく取ると、20m前後が妥当ではないか。

【9】地元の声を拾った『積算資料』

証言についての検討をしてみよう。昭和三陸津波は1933年だから、最初に設置許可を提出した1970年だと37年しか経過していない。40代以上の中年なら昭和三陸の実体験があった計算。調査で役場に挨拶しに行くだけでも文書に載ってない「証言」を得られる可能性がある。明治三陸津波の場合は1896年なので経過年数は74年。当時の平均寿命は今より概ね10年程短いが、80代以上の古老なら経験している。

そのため東北電力は1969年12月「現地付近の地震被害調査」という聞き込みを行った。調査報告書は設置許可申請第68部会参考資料103として、原子力委員会にも提出された。担当したのは同社女川原子力調査所の社員であり、主目的は地震だったが、明治三陸津波についても聞き取りを行った。残念であるのは聞き込みの範囲が調査目的の関係で女川町周辺に限られたことだ。

なお、東北電力の説明に反し、敷地を高くするように求めたのは、住民だったという証言がある。

地元に住むお年寄りから、次のような話を伺った。

建設計画の説明会が開かれた際に、最初に住民に提示された計画案で女川原発は、今回大きな事故になった「東京電力福島第一発電所」と同じような海岸線の低い標高に計画されていたそうである。
これを聞いていたお年寄りの方から、
「あんた達は若いんだね。そんな場所は物を建てるところじゃないよ。」
という声がかかったそうである。
そしてそのお年寄りは
「あそこにしなさい。あそこの高台にしなきゃだめだよ!そんな低い場所は昔から波をかぶって来たところだよ!」
「昔から津波から逃げるときはあそこへいけ!あの高台ならば大丈夫といわれてきたんだよ。」
と高台を指差したそうである。

(中略)その後、東北電力はこの地域に伝わる言い伝えを検証、文献調査、現地調査、ボーリング調査などを行い、その結果お年寄りの言っていた通り、地域に伝わる「言い伝えは正しい」とし、女川原子力発電所の計画案を変更し、硬い岩盤が確認出来たその高台に原子力発電所の計画を変更したそうである。

2013-07-01
土屋 信行「教訓そして再生へ(1) 東日本大震災から学び伝えたいこと」
『積算資料』(けんせつPlaza、リンク
※公益財団法人 えどがわ環境財団 理事長

吉村昭氏のくだりでも言及したように、証言はしばしば公式記録を上回ることがあるので、齟齬が生じることに対し説明はつく。

問題は敷地高の決定と「説明会」の時期に矛盾があること。

女川町HPでは詳細な「原子力年表」(リンク)を掲載しているが、1972年7月11日「県、知事出席のもと、原発建設説明会を女川町で開催」とある。この時点では国が主催する公開ヒアリング制度は無かったので、独自に実施したのだろう。お年寄りの助言がなされたとすればこの説明会となる。ただ、1972年の説明会なら15mと説明している筈。

別の仮説を考えるとすれば、「説明会」の意味するものが違い、聞き取り過程で双方の理解に齟齬があった可能性である。町のHPに加えて三浦康「急がれる原子力発電所建設」(『政経東北』1978年2月号)も参照しつつ述べると1967年1月、東北電力は女川を立地候補に挙げ、1968年1月建設計画を発表した。翌月には予定地の地権者全員が立ち入り調査に同意し、同年末には漁協の同意を得て海象調査を開始した。漁協が一転して反対に回ったのは1969年6月以降のことで、以後約10年膠着状態となった。

この経緯でお年寄りが助言できたのは何時かを考えると、1968年頃に地震ではなく、用地買収や海象調査の担当者へ語ったのではないか。普通の公共事業などでも、地権者限定の立入調査・用地買収説明会は実施する。またそのような説明会の場以外にも、立入当日は地権者と打ち合わせする。「高台を指さす」のは地図ではなく屋外でそうした際のことであるようにも読める。そうであるなら12m案か、小林論文にあるような10m案などでも時系列上の矛盾点は無い。

なお『政経東北』は記事単位での両論併記が特徴で、1980年1月号の編集部になる記事では、漁協の反対運動に対して東北電力が「電力が不足してもいいのか」と「反対運動をしていると電気がつかなくなるぞ」とも取れる姿勢で火に油を注ぎ、漁協以外へも反対が拡大したと伝えている。供給義務からはあり得ないことだが、私の個人経験から言えば、そのような型通りの説明を繰り返す者は、住民に対して他に語るべき材料を持たないからそうする、と感じている。SNSの原発推進派達が全く同じ恫喝を日常的に繰り返しているのを見れば、「先輩」達が同じことをしたというのは信憑性の高そうな話である。

東北電力の担当者が居丈高になってしまったのは、「こんな感じです」と福島のパンフレットでも参考に配った結果「敷地高が低い」と反論され、代替案を持ってなかったからではないか?

平井称揚はこうした不都合な話を打ち消すには最適なのだろう。

【10】10年以上神話の連呼を続けた井上リサという人生

こういった事情を見るだけでも、時代背景も考えず古い津波の伝承ばかりを重視し、手柄を東北電力関係者、更には平井個人で独占するのは不誠実ではないだろうか。

例えば郷土の昔話を交えながら、何万回も平井氏の話をしたという井上リサという人がいる。何万回も言った割に、私が東北電力の広報担当者から勧められた町田徹『電力と震災』の平井氏を取材するくだりには井上リサ氏の名前は全く出てこず、ネットでは芸達者でも、東北電力を称賛する人にさえその声が轟いていないらしい。

細かな情報を知らずとも、東北電力が公表した2011年9月の資料を読めば神話のおかしさは分かること。実に、不憫に思ったものである。

ある時、次のような話を呟いた。

2021年、これを見かけて平井氏が浜岡にも絡んでいたことは文献にも残っていると別の方に教えたところ、程なくしてブロックされた。

 

井上さんは人生の一時期を賭けてPRに勤しんだのだろうが、碌に比較衡量もせずそういう行為にふけったのは失敗だったと思う。

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中部電力も東北電力と似た様な、海洋施設研究会を設けたが、建設記録に活動内容をまとめていた。

研究経過概要は後で引用した意味を説明するので、とりあえず無視して良い。委員として平井氏の他は、運輸省の港湾研究所所長や速水頌一郎元京大防災研究所所長の名が目を引く。特に前者を通じて知見を人的に入手するルートがある。そんなもの無くても火力発電所の頃から港湾との関りが深い電力会社ではあるが、「縦割り行政で通産省の顔ばかり見ていたので港湾の防災知見は存じ上げておりませんでした」はどうやったって通じないということである。鶴岡鶴吉氏は造船ドックの専門家で、土木工事と水門(ドックゲート)には明るかったかも知れない。

『電力と震災』に記された町田徹氏の取材からすると、東北電力の海岸施設研究委員会議事録は破棄されて残っていないようである。もしそうなら、大事な話をいとも簡単に捨ててしまうということであり、これまた信用の無い行為をしていたのだなとなる。

もっとも、私自身は破棄したとは思わない。実際は社内で閲覧許可のレベル分けをするのが常であり、「お客様の側に立つように」指導されている広報担当が見れる文書の中に、海岸施設研究会の議事録は無い、という意味であると思う。また仮に破棄なり最高機密なりであっても、中部電力のように、社内で作った記録に議事概要を載せている例もある。

なお、一般論として述べるが「地元の歴史に明るくなる」のを深い教養に基づくかのように言っていた方もおられたが、今は簡単だろう。インターネット上の自治体HPや史上の有名人を記念した公式サイトなどは幾らでもあるし、現地を訪問すれば県庁所在地他、拠点駅にはパンフレットが何十種類も置いてあり、観光案内所も設置されている。テレビのチャンネルに観光案内を載せているホテルも多い。各地の原発サイト周辺で観光旅行を企画している井上さんがどのような勉強法を取っているかは知らないけども、上記のものを活用すれば、短期間で一通りのことは言えるようになる。

【11】原子力に進出する前から建屋を水密化していた中部電力との「分かれ目」

なお私が聞いたところでは、中部電力は浜岡1号機建設の時から防水扉を設置し、想定外の津波にも備えていたのだが、これもまた、平井氏の助言よりも同社の直接的な体験が影響していると思う。何故なら、1959年の伊勢湾台風では同社の設備等にも大打撃を受け、以降、火力発電所では水密扉の設置を行ったからである。

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伊勢湾台風の犠牲者は約5000人。だから1995年に阪神大震災が起こるまでは戦後大災害の例として社会科の教科書にかなり強調して載っていた記憶がある。同時代人を含め、戦後から前世紀に教育受けた世代は概略同じじゃないかと思う。そこから着想すればある程度調べた時点で、予想出来るようにもなる。先のツイート時点では、私は上記文献は見ていなかった。

ここで注意べきは、平井氏も敷地高を高く取ることには注意を払ったようだが、建設後に想定が上昇した場合や、想定外の津波が押し寄せた場合の対策までは考えが及ばず、浜岡の対策を見てもそれを取り入れようとはしなかったことである。

敷地高確保への執着が筋金入りなのであろう。何故なら、伊勢湾台風の翌年、1960年5月にはチリ津波により東北電力八戸火力発電所が浸水したためである。同社初の火力であり、平井氏が軟弱地盤対策で大型ケーソンによる基礎の方針を決め、部下の大島氏に設計を任せた案件だった(「先輩に学ぶ(その3)彌翁眞徹居士 平井弥之助先生」『過去に生きるおとこ』2003年P26)。

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上記空撮の他、防災科学研究所でも海上保安庁が保管してた写真(リンク)を公開している(「災害写真館2/2 チリ地震津波50周年」防災科学研究所、リンク)。

被災時、平井氏は副社長の初仕事として、その他の一般社員はそれぞれの持ち場で被害状況の報告を眺めつつ、復旧計画の策定等に係わっていた筈。また、電事連での各種会議や日本発送電時代の人脈等による繋がりから、伊勢湾台風対策についての情報も合わせて共有することはしていただろう。自分の作品である火力発電所が津波で浸水したら、印象には残る。

チリ地震以前の被害記録と発電所敷地の海抜、チリ地震の被害についてはネット上にも信頼出来る記録がある。先に取り上げた『験震時報第7巻第2号』(気象庁、リンク)を見ると、1929年に周辺町村が合併して発足した八戸市は登場せず、合併前の鮫村で明治三陸の際3.0m、昭和三陸で2.1mとなっており、やや北方の市川村(1955年八戸市に編入され消滅)で3.0mと記録されていた。これに対し、埋立造成したと思しき土地に作られた八戸火力発電所は、高さ6.5mH.P(八戸港平均海面水位、T.Pこと東京湾平均海面水位で5.7m)の砂堤に囲まれた灰捨場があり、この土手を辛うじて浪がこしたという(八戸市総務部庶務課長佐々木正雄「チリ地震津波 八戸市」『津波デジタルライブラリィ』)。著名な津波工学者首藤信夫は世界初の発電所被災と述べ、浸水深は50cm程度と書いている(「1960年5月24日 チリ地震津波 その2」(過去の防災に学ぶ29)『ぼうさい』2010年7月号、内閣府)。なお、八戸港内の検潮儀記録は5.8mであった(チリ地震津浪 八戸市HP)。

まとめると、発電所着工前に3m程度の津波記録は参照出来た。それをしってのことか発電所の建設では5.7mの砂堤で囲ったが、チリ津波は八戸では5.8mと大きく、50cm程度の浸水深となった。

その結果、東北電力ではドライサイト思想の堅持となり、当記事で推定もしたが、何らかの考え方により建設地点の過去記録に余裕を見込むものとなった。東北電力と中部電力が原発建設に際して見せた差は、水密化に関する知見の有無ではなく、技術思想として各社が選んだことだったのである。

上記工事誌と東北電力の公開資料を突き合わせると、浜岡の海洋施設研究会と女川の海岸施設研究会を兼任していたのは平井氏の他、本間仁東洋大教授が確認出来るが、そうそう人材がいる訳でもないので他にも兼任者はいたものと考えられる。また、先行する浜岡を見学したり、ゼネコン、土木コンサルタントとして両方に係わる方も多くいただろう。しかし、以前も書いたが、東北電力が建屋の水密化を実施したのは福島事故後である。

なお、『中部電力火力発電史』P112には「伊勢湾台風級超大型台風の襲来による名古屋市内および近郊の浸水防止対策として、昭和39年に名古屋港高潮防波堤が築堤された」とある。

東レ名古屋工場も被災したが、実施した設備対策は「名古屋港に伊勢湾台風時の高潮を考慮した防潮堤が完備するまでの間」の対応として重要箇所の周囲に防水堤、その出入口には防水扉を設置する、建物を水密化する等の対策を取っていた(「伊勢湾台風による被審と事後の対策について」『安全工学』1992年4月、リンク)。

翻って『港湾』1960年8月号を読むと、チリ津波による東北の被害状況を報じた記事の隣に名古屋港周辺の臨海工業地帯港湾計画について述べた記事があり、これから拡張・造成を進めていく、という段階での伊勢湾台風による被災だった。そのため、計画では伊勢湾台風を教訓にした高潮対策として外防波堤の築造が挙げられていた。既にある火力発電所の水密化は、東レと同じく、そうした中長期の計画に先行して実施したのだろう。

福島事故後の全国の原発でも水密化が防潮堤に先行したが、それと同じことが半世紀前に起きていたのである。東電事故訴訟における発想可能性論議の観点からは、抑えておかなければならない。

【12】自ら海抜20mの原発計画図を作成していた大島達治氏

平井氏に戻るとダメ押しとなる出来事もある。私は2018年に東北電力が津波神話をつくるためについた嘘をブログ記事で暴いたが(リンク)、その時15m以上の敷地高を主張した人もいるのではないかという疑問を示した。

場所は異なるが、同じ三陸地方の候補地点にそれはあった。先の大島達治氏当人である。

実は、大島氏は2003年に『過去に生きるおとこ』という自伝を出版し、新潟火力の建設について平井弥之助を称賛していたが、女川敷地高設定の話は出していない。一方で1977年、自身が岩手県の三陸海岸沿いに原発立地を検討した際は、敷地高を20mに設定したことが記されていた。

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「三陸沿岸に適地はないと思いますよ」との返答が面白い。三陸の定義は幾つかあるが、狭いものでも南端は金華山。女川は外れないのだが。

上記文中からK地点は釜石を暗示しているように見えるが、歴代の釜石市長に菊池という人物はいない。一方、平林祐子氏は「「原発お断り」地点と反原発運動」(『大原社会問題研究所雑誌』2013年11月号、リンク)という、過去の立地計画を一覧した論文を投稿している。それによると岩手県には3ヶ所の候補地があったがKで始まる地点は無く、時期も1975年以前とのこと。よって正確な場所は分からなかったが、海抜20m程度は誰でも考えるということである。

大島氏の他にも似た対応を迫られたことはあったらしい。岩手支店の記念誌によると、東北電力は岩手県内の将来需要を賄うため北部火力地点計画として種市町に候補を選定し、1975年から立地業務を開始したが、地元の反対運動もあって1979年に計画を中止した。

しかし、将来需要と県の要望から1979年10月より岩手県沿岸全域を候補地とし、火力電源立地可能性調査を行った。大島氏に県職員が原発立地の話を打診した2年後のことだ。調査では電源の特性から石炭火力を選定し16地点を調査したが、発電所と灰捨用地が津波の影響を受けないことを前提とせざるを得ず、海面を埋め立てる場合は津波防潮堤により遮蔽されていることが条件であった。

調査の結果、候補地はいずれも灰捨用地の確保が困難等の理由から立地は困難と結論、1980年5月に報告し了承された。その際、知事から「将来的に原子力発電所の建設が課題になれば前向きに検討したい」との言葉があったという(『東北電力30年のあゆみ 岩手支店史』1982年3月P133-136)。

火力・原子力にまたがって電源立地の模索が行われ、地形的には津波を理由に火力が中止となったことは注目に値するだろう。その条件は、典型的なドライサイトコンセプトだったのである。

それに、岩手某所の20mは女川の15mより高く、どちらも三陸のリアス式海岸地帯にある。このエピソードもまた、平井氏の価値が言われているほどではないことを示す。

震災前から伝わっている新潟火力の基礎を深くした件についても、『過去に生きる男』の「電源一生・先輩に学ぶ」という一文では建設局長の平井氏が根入を12mにせよと言ったのに対して、決定案は3m足した15mとなり、新潟地震で流動化したのは10m付近だったという。よく読めばわかる通り、平井氏は最も余裕を与えた回答ではなかった。

こうした数々の点からも、大島氏の震災後の証言には注意を要するだろう。

【13】文献から浮かび上がる平井氏の姿

震災バイアスのかかったOB達の証言以外に、平井氏の人となりを知る手段は無いのかと言えば、実はある程度浮き彫りには出来る。最後にこのことを論じよう。

本節は、訴訟関係者から見れば必要性が低いが、人物史研究の点からは基礎となるものである。まぁボーナストラックだと思って読んで欲しい。

(1)「夢の仙台湾を語る」(『港湾』1960年10月号)

東北電力の副社長だった頃にこの座談会に出席した。掲載号自体が宮城県の工業開発を特集している。この年の5月にはチリ津波が来襲し、過去の大津波ほどではないが被害を出していた。座談会で平井は塩竃港の開発提案について説明し、社内でも研究したと述べているが、津波に関しては何も語っていない。他の出席者も同様である。

前年の伊勢湾台風と合わせ、海岸保全事業が急速に進められる契機となった時期であり、チリ津波以降は、津波対策事業に関する特別措置法も成立したため「そんなことは当たり前」であり、更に屋上屋をかけるような発言は控えられたのかも知れないが、そうした事情を汲んでも、人物像を考える材料にはなるだろう。

同じ号には日本港湾コンサルタント協会理事長の鮫島茂氏が「宮城県の港湾についての所感」という記事を寄せており、塩竃について「島や岬に囲まれて中が静謐で防波堤の設備も要らない。即ち天与の条件は上々」と述べ、気仙沼湾について「口元がくびれているから津波の被害も激しくはない。即ち天与の良地形」と評価していた。これは明治三陸、昭和三陸、チリ津波等に対しては正しい評価であったが、いずれも東日本大震災では港湾と市街地に浸水を生じている。

興味深いのは、同じ号に掲載された地震学者加藤愛雄氏による「津波の跡をたづねて」という記事である。加藤氏の記事は女川町を中心にめぐり、女川港の検潮所のデータや駅まで冠水した写真を掲載したものである。験潮データからは干潮時に5.4mの津波が押し寄せたことを示しており、干満差が0.6m程度のため、これが満潮時の場合だと6m程度の想定が必要であることを示していた。

原発は女川湾の外、南側に所在し、女川港からは6.5km程の距離。「地形的にはそのまま当てはめられない」というのが専門家の見立てだろうが、『港湾』を受け取った平井氏はこの記事からも、津波に関して再認識したのではないか。まぁ、発災時の報道や浸水した八戸火力の方が印象強いだろうけども。

(2)「電力中央研究所における発電土木関係研究の動向」(『発電水力』1967年11月号)

当時電中研で行っていた研究の紹介。読んで分かることは原子力土木関係が多く、福島第一専用港湾に関するものもあった。翌年にJEAG4601の作成に関与したり、東北電力の海岸施設研究委員会に呼ばれることになったのは、こうした研究を直接担当することはなくても理事として予習していたからだろう。だが、これらの研究に津波を強く意識したものはない。だから、津波に関して問われても、一般的な東北出身技術者以上のことは言えなかったように思う。

(3)「電力界の怪物紳士録」(『政経人』1969年8月号)

『政経人』とはかつて発行されていたエネルギー業界誌である。上記は取締役クラスの人物を多数論評したもので、経歴・業績に関する記述の正確さ、および社員から聞き取らないと書けないであろう差配ぶりから、一定の批判者が内部にいたことが分かる。『エネルギーフォーラム』は『電力新報』と名乗っていた頃から社内事情に関する記事が載るが、この雑誌も同じで実質的な文責は編集部と考えて良い(昭和時代の電気新聞では広告も見かけた)。SNSで電力関係者が「匿名で」生々しい悪口や政治主張を重ねるのは、こうした文化に影響されたものだ。

その中で「前人代的な平井弥之助」として1ページ程の論評をしており、ピークは日本発送電時代から1950年代の只見川開発に「子分」を連れて乗り込んだ頃だという。大島達治氏の文章で最初に引用した「結果責任を負う事業経営のあり方」を再読すると「一番弟子を任ずる私が」とあり、確かに子分を作るタイプではありそうだ。

特に、次の人物評が興味深い。

しかし、一方では押しつけがましい判断で処理してきたのを、いかにも判断力があるように見られていたにすぎない、というきびしい見方もある。言い方は悪いが、土木や出身だから無理ないにしても、親分、子分の関係が身辺に強く、お山の大将的な性格をもっている。電力界で、いまなお、このように前近代的な在り方を好む性格に、手厳しい批難の声があがっているが(中略)土方相手の仕事では、他人の真似られない特技を持っているというわけだ。

(中略)日発出身の平井は、副社長までやったが、東北電力の連中からみれば異邦人的な存在だった。(中略)しかし、元東北電力社長の内ヶ崎贇五郎が日発出だったことをからみれば(中略)やはり、平井自身のやり方が社内の肌に合わなかった、とけ込めなかったとみる方が正しいだろう。

(中略)鼻につくほど東北なまりが強く、言葉のやりとりが不充分で、それが東北人の特色である素朴さとつながらず、むしろマイナスになった。

日発時代の仲間は新生東北電力にあまり来ず、既存の社員達とは肌に合わなかったので、新入社員を薫陶したと考えると合点がいく。

電中研理事については閉職とも書いており、その辺は文系だなとも感じるが、「現場の親方向きで近代的センスが求められる経営者のウツワではなかった」などは当たってるのだろう。「近代的センスの経営者」が福島第一をどうしたか考えてみれば、平井氏を凡庸と見るようになった私でも「適材適所はあるだろう」とは思うが、事故の半世紀前だと、先を見通せる人はそういないだろう。

こうしてみてくると「結果責任を負う事業経営のあり方」に書かれていた大島氏ではない人による逸話「平井さんは女川に金を掛ける提案ばかり強調するので退任させられた」という話もまんざら嘘ではないように見える。予め最適とした15mを、海岸施設研究会は変更出来ていないし、その顔ぶれに平井派は居なかったのだろう。ひょっとしたら、議事録を残したがらない癖を良いことに「15mでは足りないかも知れない。もっと高く」という平井氏の提案を「金がかかる」ので没にするための委員会だったのではないか。

平井氏が一体どんな「金のかかる提案」をしていたのか、是非見てみたいものだ。

(4)「所感 情報管理技術に期待するもの」(『情報管理』1969年12月号、リンク

J-stageで読める著述物。技術情報の収集に苦労しており、電算化への期待が伝わってくる。実プラントに係わる委員まで務める中、情報の入手で苦労し、「金がかかる」予防的知見に基づいた設計の根拠づけに、日々苦労していたのかも知れない。21世紀の今は、SNSに匿名の愚痴用アカウントを作り、眉を顰めるような暴言を吐く関係者の装飾品として使われるようになったが、隔世の感がある。

(4)補足 新仙台火力への「指導」

情報収集関連で当時の話を一つ検証しておこう。大島氏の「結果責任を負う事業経営のあり方」によれば、「昭和45年新仙台火力の建設にあたり、仙台新港の入口にある火力を、貞観津波に備えて標高+10mの防波堤で護れ」と平井氏が指導し、電力だけそのような護岸に出来ないので発電所本館の壁面強化でお茶を濁したそうである。

この話も他の資料で検証する。かつて仙台湾塩釜港の開発について語った平井氏であるが、その後、現在の姿の原形となる仙台新港の計画が発表されたのは1962年10月のことであり、1964年8月原案通り決定。この際に防波堤の計画も模型実験を経て定められた(『貞山・北上・東名運河事典』管理人殿による。元は『みなとを拓いた四百年-仙台湾沿岸域の歴史-』1987年8月、運輸省第二港湾建設局塩釜港工事事務所からの引用、リンク)。

新仙台火力が埋立地の一角に用地を確保したのは1960年代後半のようで、1号機は1969年に着工、1971年運開。当時の発電所は、電源開発調整審議会をパスする必要があったのだが、その予定表を見ても1969年6月の着工となっていた。発電原価(送電端円/KWH)は2円70銭。同時期の東電鹿島3・4号2円29銭、中部電力渥美2号2円25銭、福島3号2円58銭など、他の太平洋岸火力・原子力と比べても高価だった(「記録的な電源開発の背後にある問題点」『エネルギーと公害』1969年6月5日)。1号機は共通で使用する付帯施設込みであるのかも知れないが、実験の裏付けも無く、発電原価を更に押し上げる提案は受け入れられなかったのだろう。

そもそも「指導」するには遅すぎる。本当に岩沼千貫神社の件が頭から離れなかったのであれば、模型実験をしていた6~7年前に話しておくべきこと。態度が変わったのは、女川の件で勉強し、且つ1970年に刊行された吉村氏の『海の壁:三陸海岸大津波』を読んだからではないかと考える(特に、公式記録と証言の食い違いのあたり)。

1970年だと本館は着工後で敷地高の変更は不可能。そのため、防波堤の強化を提言したのだろう。それ以前に積極的な対応を取った形跡は認められない。なお、補足的に述べるなら仙台港の調査を開始した1961年度より潮位は項目に入っていたが、国が港の奥に験潮所を設置し継続的に観測を開始したのは1970年の10月である(海岸昇降検知センター、リンク)。指導も片手落ちで、発想的には建物の水密化が入っても良さそうだがその記述は無く、東日本大震災では津波で内部まで浸水した。

(5)「土木技術者と電力界について」(『発電水力』1970年9月号)

各社の土木系出身の重鎮と開いた座談会であり、今のところ平井氏の技術観を最もよく伝えている。1970年は時期的にも注目すべきだ。

まず、関西電力の吉田氏が水力から原子力に転じた技術者達が配置設計で苦労していると水を向けると、平井氏は自己の職歴として若い頃に送変電系統の勉強をしてから他に転じたこと、水力に限らずオールマイティな能力が必要であること(大意)を語り、次のように述べた。

ダムだけの熟練技術者であるなどということは、私は非常におかしな話だと思い、腹の底では軽べつしたくなります。それでは、あなた、鉄塔を設計してごらんなさいといっても、送電線路の特性が解らないので狼狽するだけです。(中略)この点は水力土木屋さんによくよく考えてもらわなくてはならないことでしょう。そこで、水力発電土木を発電土木という表現にかりにしたとしますと、原子力だって、火力だって、鉄塔でも、基礎でも、水力発電土木より拡大されることになります。もともと熟練した水力発電土木屋は火力・原子力の土木部門、送変電線路でも何でも電気事業に関連する土木技術はすべて消化できるものなのです。ただ、例えば火力発電所の運転、送変電線の特性式は起りうる現象の経験がないため、水力発電土木技術の能力をうまく適用できないに過ぎないと思います。

ですから、それで有能な発電土木技術者に火力・原子力発電に関する土木的な施設の特性とその効用を充分説明をすれば先ほど吉田さんがおっしゃったとおりに、火力・原子力発電所と附属設備のレイアウトなど、よい計画設計ができるのです。

(中略)また、現在は技術の研究陣容ならびに請負者の陣容も整備されております。このような現状において、電力側の土木技術者は両者をうまく利用して、電力側の望む土木工事を完成せしめることが、これからの水力技術者のあるべき姿だと思っているのです(後略)

※引用者注。改行を追加。

やはり原典に当たるのはよい。良くも悪くも、どういう思考で女川に接したかが分かる。要はゼネラリスト的な人物であり、それ故に津波の問題にも妥当な気配りができ、蛸壺化した専門知識が「邪魔」をしなかったということ。下手に狭い部分だけ見識があると、あれこれ理由を思いついて経済性の面から敷地高を値切る恐れはあっただろう。女川1号機の設置許可申請の「せいぜい3m」を強調する文章には、審査側に危機感を持たせぬように配慮したものであり、その残滓がある。

これに関連して引用するが、例の大島氏は、あるエッセイでエリート主義を背景とした高木仁三郎への反感を記している。

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大島氏にとり、高木氏が著した「核施設と非常事態」のような警告論文は非常に鬱陶しく、見たくないものではあっただろう。

だが、この点は平井氏の教えから逸脱したものだった。平井氏は「調査研究のためには堂々とわからぬ点は遠近を問わず、学歴などを問題とせず、当時工夫または工手と呼んでいた熟練工にも頭を下げて教えを乞うた」(『発電水力』1970年9月号P72)と述べていたからである。「エリートだから問題を起こすはずがない、悪いのはバッシングするマスコミと原子力情報資料室だ」という辺りで、馬脚を現してしまった。色々述べてるが、このエッセイを見ていると前半の部分は何でバッシングを対置するのか意味が分からないし、結局エリート主義の縛りから自由にはなれなかったのではないか。これでは平井氏といえども、草葉の陰で怒り心頭だろう。

生前、言葉が少なかった理由もこの座談会で分かった。当人による意図的なものだ。先の説明に続けてこう述べている。

私はあまり経験談は言わないことにしているのです。経験を言うと、武功談になりがちですから、発達に邪魔となります。工事が完成したときは既に次の時代に入っているのですから、やったことは成るべく忘れて新しいことを考えなければなりません。

この点も、リタイア後に自伝や著書を刊行する大島氏とは異なっている。『政経人』に「言葉のやりとりが不充分」と書かれたことを気にしての弁解だったのだろう。確かに、若手の発想を頭ごなしに削ぐような経験談の押し付けは問題だろうが、自分の仕事に関する詳細を引き継ぐ点からは、それが業務工程に組み込まれて行った原子力には全く不向きであった。もし平井氏が記録主義者であれば、海岸施設研究会の資料も確実に残っただろう。

当時、ポランニーが暗黙知の概念を提唱して3年程過ぎていたが、それが野中郁次郎によって企業経営に取り込まれるのは後年のことだ。当時、こういう人物が上層部にいることは仕方なかった面もあるだろう。

この対談はかなりボリュームがあり、色々な話をしてるが、「水力出身なので水の怖さを知っていた」というような真偽不明のそれらしい説明を、次の発言と比較すると怪しいものだと分かる。何でも津波に結び付けるべきではないだろう。

土木屋の先輩にも罪があるんですよ。ということは、火力部門に行けば出世はもうとまったと判定していたわけです。

(中略)土質を扱うのは水力電気屋の分野じゃないんだ、こう言った人がおりますよ。会議のときに。そういうのを、あなた土質学知ってますかというと何にも知らない。私は岩盤しか扱わないんです。こう言います。そういうプライドを売ることもいいけれど、しかし、少なくともダムをやる人は、あらゆる分野のことを知らないでダムに手をつけたら、これは非常におかしなものですよ。

水主火従の時代、火力に従事する土木技術者はダム技術者より軽く見られていたようだ。しかし、ダムをやってても「岩盤しか知らない」などと蛸壺化した人の場合は、水の怖さについても中々津波という形に行きつかないだろう。また、福島第一のような初期プラントでは海水を原子炉建屋に導入したことで、漏水による腐食の問題や、地下水の漏れ出しが多く井戸を掘って水を排水しなければならなくなったなどの弊害が起きているが、岩盤の上に建屋を載せさえすれば良い、と考えて土質に無頓着であったのなら、そうなることは得心できる。

中には良いことも言っており、平井氏が発電土木という言葉を提案したのが切っ掛けで対談の終盤では電力土木という単語の創造に繋がり、ダム以外の電力土木設備についても取り上げる趣旨で、『発電水力』誌は『電力土木』誌に改名され、行元の協会名も1977年に電力土木技術協会に改まった。平井氏の本当の貢献は女川ではなく、後進に対し、視野を広げるための場を提供したことにあったと考える。

2022/11/1:古文書の定義を追記。

2022/11/2:八戸火力の設計経緯について追記。

2022/11/8:伊勢湾台風について東レの対策例を追記。

2024/3/13:八戸港周辺の過去津波被害、および八戸火力発電所のチリ津波被害について追記。

2022年9月 7日 (水)

あらかじめ失われていたドライサイト~福島第一建設期の盲点~

福島事故訴訟も提訴から10年が経ち、同種の訴訟が30もある状況となると、幾つかの傾向が見えてくる。

今回はその中で、いわゆるドライサイト論争についての見解を取りまとめる。これは、回避可能性に関する議論の入り口にあり、予見に比べて勝ち越しの頻度を下げる一因になっていると思われるからだ。

具体的には、福島第一原発の敷地の高さ、非常用電源の配置、水密化などの回避可能策が後知恵では無かったことについて2回に渡り、時系列順に追っていく。

数年前、このブログの「プロフィール」欄に過去記事一覧ページを設けた。

真剣に考える方は1つ1つの記事ばかりでなく全体の流れも追うだろうと思って設けたが、単行本とは異なり、分かりにくかったようだ。求められれば個別に解説などもしているが、いわば「頻出問題」については標準的な回答を作っておいた方が良いだろうと考えを改めた。また、論争の詳細化で、マスコミ好みのキャッチーな常套句や、思い付きでネットに放流された噂話的な情報は完全に価値を失った一方で、これまで発表する機会のなかった資料についても使いどころが到来したと感じている。

またこの記事では建設初期に敷地高と津波の関係について詳しく論じた、小林健三郎という東電の技術者を軸に述べる。勿論、他の重要人物についても随時紹介する(なお小林については数年前から取り上げている)。彼等の横顔を調べるのは、それが東電の意思決定に直結するからである。特に小林は、1号機の運転開始前に取締役になった。だが、一般的な原発事故本や訴訟では殆ど触れられていない。当ブログではそのような埋もれた事実を色々示していくので、今後の参考にしてもらいたい。

まず、ドライサイトと言う概念のおさらいをする。

検索すると上位に関西電力の説明がヒットするが、次のように説明している。

発電所敷地に津波を侵入させないこと。*新規制基準審査ガイドでは、重要な安全機能を有する設備またはそれを内包する建屋の設置位置高さに基準津波による遡上波が到達しないこと、または到達しないよう津波防護施設を設置していることと整理されている。

原子力ライブラリ(関西電力、リンク

ただし、事故後に規制庁などが使いだした「ドライサイトコンセプト」は本来の「ドライサイト」に比べ違いもあるようだ。東電原発事故群馬訴訟で国側は「敷地の高さ」に加えて「その他の方法」を挙げており、上記の関西電力の解説もそのようになっている。その事情を説明した部分を引用する。

「ドライサイト(Dry Site)」という言葉は,米国原子力規制委員会(NRC)が定める規制基準1.102「FLOOD PROTECTION FOR NUCLEAR POWER PLANTS」に出てくる専門用語です。この規制基準は,本件事故の約35年前(1976年)に策定されています。

そこでは,ドライサイトについて,以下のように定義されています。すなわち,「プラントは,設計基準水位より高い位置(above the DBFL1 )に建設されているため,安全関連の構造物,システム,及びコンポーネントは外部溢水の影響を受けない。」というものです。
つまり,「ドライサイト」とは,設計基準水位よりも高い位置に原発を設置することを意味します。

(中略)

ところで,国が創り出した「ドライサイトコンセプト」なる言葉は,本件事故の検証結果をまとめたIAEA事務局長報告書の附属書類である技術文書第2巻がヒントにされたものと思われます。

その文書では,正に「The dry site concept」という言葉が用いられています。ただし,その意味は,国の説明とは異なり,本来の「ドライサイト」と同じ意味,すなわち,原発の安全上重要な機器を全て「設計基準浸水の水位よりも高くに建設する」という意味で用いられています。

国は,この「ドライサイトコンセプト」という,いかにも高尚な響きのある言葉に目を付けて,本来の「高い位置に設置する」という意味から,「水を被らせない」という意味に歪曲したものと考えられます。

意見陳述書(ドライサイトコンセプトについて)2018(平成30)年6月19日 原子力損害賠償群馬弁護団(リンク

※一部記述を省略・誤記訂正

設計基準水位というのは、設置許可申請に記載した津波想定や、その後の見直しで国に提出した津波想定を指す。日本国内の原発は建設当時の設置許可申請によれば、すべてドライサイトであった。なお、この反対概念としてウェットサイトとは、災害想定が最初から高かったり、後で高く見直された結果、災害時には敷地が水浸しになる状態を指す。規制庁の考え方に合わせるなら、災害時の防潮堤などの高さが十分でなく、水浸しになる状態ということだろう。

この記事は添田孝史氏の著作を読むなど一定の前提知識のある方向けに書いているが、参考に、東電が福島事故を模式図にしたものを示す。

P105

非常用海水ポンプなどがあるのが海抜4mのエリア(通称4m盤)、原子炉建屋が建っているのが10m盤である。

【1】1966年・・・建設時3mのチリ津波を想定。敷地高を7mから10mに変更する。

死後出版された追悼集によると小林は、1965年12月に原子力部長代理となり、1966年5月には改組された原子力開発本部副本部長に就任した。追悼集に転載された『京大土木百年人物誌』の小林料氏(東電の後輩)による紹介では「公害・原子力問題等を提起する反対勢力に対し、終始、真摯に対応し、地方自治体の理解を得つつ、数多くの地点で立地を成功させた」そうである。

全てが破綻した今となっては、この経験は建前と本音の使い分けを徹底する、忖度の化け物であることを示唆する。端的に言えば自社に有利な事実は示すだろうが、不都合な話は簡単には出さないだろう。後述する博論と専門誌にもその一端が見える。

さて、東電は設置許可申請の直前に、土木業界向けにプレゼンを行っていた。講演者は小林より6年程年上で既に常務取締役だった田中直治郎(追悼記事はこちら)。以前も紹介したがその内容が実際の申請と相違している。

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原子炉建屋のあるエリアが10m盤ではなく7m程度しかない。

この講演で不思議なのは、第3図として提示された建物断面図では10mとなっている点だ。

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なお、田中は波(津波ではなく突発的な大波)が東海村より高く、最大10mだと述べている。

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防波堤を設けて減衰させるにしても、7mよりは大波と同じ高さの10mの方が何かと都合が良さそうに思える。

この相違は、講演の次の部分と照らし合わせると整合が取れる。

19668-3335

敷地の造成は東電からゼネコンに直接発注し、当初計画は7mだった。以前詳しく論じたが、ターンキーの対象範囲ではない。それに対して、GEは10mを要求し、敷地図面の差し替えが間に合っていなかったので、「レベルについては多少の変更」と述べたのだろう。

小林健三郎が博士論文を書くのは数年後のこと。だから一旦その情報は無いものとして推測すると、防波堤があるとはいえ10mの大波に7mの敷地高は、台風時の高潮に弱いと考えられたのではないだろうか。

なお、図中にも赤字で示したが、この図だと配電盤(電源盤)やDG(非常用ディーゼル発電機)は1階に配置されている。後述するが、許可を取り、着工して2年程はこの配置が前提だった。後で地下室に移したのだ。

事故の翌月の朝日新聞記事で「米国のハリケーン対策のため地下室にした」という説が流され、それを今でも信じている人達が多い。この配置変更の経緯をきちんと書いた事故調査報告書が一つも無かったことがハリケーン対策説に拍車をかけた。大きな設計変更をしたら設置許可申請は出し直すので、それを追えばすぐに分かった話である。また、米国でも1階に配置しているプラントは複数あり、福島1号機より1年先行したGE製の敦賀1号機もDGは1階に配置している。従って、ハリケーン対策説は信憑性がまるでない。

ここで確認しておくべきことは、海抜7mから10mへ変更要求し、DGを1階に配置したのはGEの可能性が高い、ということだ。事故までの40数年中で、津波に対しては安全側の変更だったと言えるだろう。

私が2013年8月に書いたブログ記事では、この設計でも助からないと評したが、311時の津波は敷地の全域に渡って15mを超えていた訳でもなく、水密化されていない扉であっても、ある程度は水の侵入を阻んだため、建屋内部は1m程度の浸水で済んだ号機もあったことなどが、株代訴訟などで詳しく引用されている。だからDGと電源盤は1階という設計が維持されていただけでも、助かった可能性は大幅に上昇すると考えを改めた。

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情報の開示についても抜かりは無かった。ネットの無い時代に官庁や国会図書館に出向いて設置許可申請書を読むというのは、部外者には敷居が高く、設置許可申請書と言うものの存在自体も認知されていなかったと思われる。だが、上記1階の平面図は『電気雑誌OHM』1966年12月号に載った1号機の計画記事(リンク)に掲載された。同誌は地域のちょっと大きな書店なら売られていたから、時代性を加味すればこの点の公開性は十分であろう。著者は東電の管理職だった豊田正敏氏で、後に副社長に上りつめ、退職後は原子力懐疑派に転じてリベラルの受けは良かった。小林に比べると下位職に当たる。

【2】豊田正敏の嘘

なお豊田氏は事故後、ジャーナリストの斎藤貴男氏に次のようにコメントしている。

全部を見るわけではないし、第一、それぞれの担当者が見ているじゃないですか。あの時は工事が遅れ気味だったので、とにかく工期を守れ、急げ急げとばかり私は言っていた。

いや、本当は見てなきゃいけなかったのかもしれないが、私の、副社長の仕事はもっと大局的な、高速増殖炉とか、そういう問題なのであって、非常電源の配置なんてのは課長クラスの仕事ですよ。どこだってそうです。他の電力会社にも聞いてみるといい。

斎藤貴男『「東京電力」研究 排除の系譜』角川文庫(2015年11月)P57-58

まず一部は斎藤氏も言及しているのだが、このコメントには事実と嘘がある。職務分掌は組織の基本でそれ自体は正しい。しかし、豊田氏が副社長になったのはずっと後年のことであり、東電がTAPの名で事前研究をしていた1960年代前半は、技術課長の肩書で『電気計算』や『電気雑誌OHM』に投稿していた。

豊田氏の手になる福島第一の建設記事はCiniiでは4本あり、媒体の専門性は高い。その中で最初に出した上記『電気雑誌OHM』1966年12月号記事では東京電力原子力部とあり、『機械学会誌』1968年4月号(リンク)では職位は未記載だが、ほぼ同時である『電気学会雑誌』1968年4月号(リンク)、および後述の『電気雑誌OHM』1969年11月号(リンク)では原子力部部長代理であった。その他、1969年には社内の他の社員とつるまずに『原子力発電技術読本』(リンク)を刊行するなど、「急げ急げ」と言う割に対外発表には熱心だった(つるまずと書いたのは、他の社員達は分担で別媒体に執筆していたからである)。

増殖炉の担当ではなく、明らかに福島第一の担当であり、完全な部長としての権限さえ有していない。豊田氏の投稿実績はCiniiを使うだけでも大要が把握できるが、私が新聞や岩波科学に批判的なのは、彼を取材するにあたってそのような検証や事前の準備を行った形跡がなく、言い分のみを流したことである(一例のリンク)。安易なキャンセルカルチャー的発想で意見を言う場を与えないのは問題だろうが、あれだけ事故について書いてる割には何だかなぁ・・・と思うのである。

次に、豊田氏の言が正しいとすれば、東電の中では課長職が非常電源の配置を決める権限を持っていた時期もあったということ。もしそうなら約40年後、本店原子力設備管理部の土木調査グループが15.7m想定への対策を進言した時、止められてしまった行為(名前を取って株代訴訟地裁判決では武藤決定と呼ばれている)が、過剰介入やマイクロマネジメントの類であることを傍証する。しかも、同グループの課長職にあった高尾誠は津波対策を取りたいと考えていたが、3万数千名の社員の上に立つ東電首脳が開催していた、通称御前会議に出られる地位ではなかった(参考:海渡雄一『東電刑事裁判 福島原発事故の責任を誰がとるのか』彩流社P109)。

もっとも、豊田氏の主張とは異なり、取締役まであと一歩の地位で駐在していた小林健三郎の敷地高への拘りは、「課長の仕事」とはかけ離れていた。また「他社」である日本原電や東北電力は意思決定プロセスがある程度明らかになっているが、2000年代の原電はともかく、東北電力は取締役を経てOBとなっていた平井弥之助の存在が影響しているので(ただし検証の結果、世間で言われているほどではないことを確認。ブログ記事リンク)、これもまた、豊田氏の主張とは様相が違う。勿論、安全側への変更決定であれば、上位者によるその種の行為は必ずしも非難される性質のものではないだろう。

『OHM』記事を執筆した時点では1階に配置されていたので、実際に建設されて以降に係わった実務家と比べると、認識に齟齬が生じた可能性も考えられる。だが、上記の熱意から当時、配置は頭に入っていたと考える方が自然であり、言い分を率直に受け取るには難がある。余談だが、豊田氏は1号機の運転開始後に改良標準化に関する記事も投稿している。後続プラントで「改良」されたのは内部配置も含めてのことであり、関わっていたならその動機を含めて知らぬ筈がない。

豊田氏の評価はここまでとして、1966年以前の記録は十分発掘出来ていないので、津波にどの程度意識的だったかは分からないが、安全に配慮する設計変更が繰り返されれば、更に確実性の高い防護となっただろう。だが、続きを見ていくとそうはならなかった。

【3】1967年・・・2号機設置許可申請

2号機は1967年9月に設置許可申請を提出した。電気室は1階だが、非常用DGと蓄電池は地下1階に配置されている。この時点からこれら機器の地下配置が始まった。

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DGは1台だけという設計思想は変わっていないようだ。この2ヵ月前に米原子力委員会(AEC)で一般設計基準(GDC)の制定があった。詳細は後述するが、内容を吟味するため日本側は調査団を派遣したり調査報告をまとめるなどの対応を取っていたので、2号機の初回申請には含めなかったのだろう。なお、北側は1号機建屋の敷地なので仮に何かを追設しようとしても、増築は難しいことも分かる。

【4】1968年十勝沖地震・・・10m盤を信じていなかった現場

1967年1月、小林は原子力開発本部副本部長福島原子力建設所(駐在)の任を受けた。

翌1968年5月16日、十勝沖地震が発生し、日本各地に津波が到来した。この時、現場にいた日立の社員が2009年に回顧した文章が残っている。

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別の社員の記録も見てみよう。

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以上、東電は現場は4m盤はおろか、格納容器を設置した10m盤など全く信用せず避難命令を出した。震度4とは言え地上は揺れており、津波が起きるとすれば(実際に小さな津波は起きた)日本の近海。チリ津波の経験など、全く当てになるものでは無いことは、素人が考えても分かる。

当時の小林は現地駐在。出張でもしていない限り、様子は間近で見ていた筈だし、相応の高い立場だから、報告などで情報も入ってくる筈である。当時温めていた研究のテーマからも、関心を持っただろう。

【5】1968年11月・・・1号機の設計を大幅に変更

だが、後続の号機を含め、4m盤の設計はもう直せない所まで来ていたのだろう。この半年後の1968年11月、1号機は内部配置と設計を大幅に改め、DGと蓄電池をタービン建屋地下室に移転させたほか、HPCI系を追加しその部屋も新たに増設することにしたからである。この時、タービン建屋の海側にも地下室が設けられ、予備ディーゼル発電機室とされた。1号機専用のもの(A系)と比べると大型で、2号機と共用(B系)とされている。1990年代に2号機のB系専用化のため、空冷DGを増設するまではこの体制であった。

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変更の理由は、1967年7月、米原子力委員会が「一般設計基準」(GDC)を制定し、単一故障対策として多重化を取り決め、それを日本側でも適用したからである。

米国の動きに対応し、業界団体の一つ、原子力安全研究協会が『軽水型原子力発電所の安全性に関する現状調査報告書』を発行したのは1967年10月のことであった。2号機の設置許可申請の翌月である。

同報告書ではGDCの紹介に加え非常用電源のあり方についても検討した。その114ページによれば、当時の米国プラントでも多くはDGを1台設置の体制であった中、福島より先行するドレスデン2・3号機のBWRツインプラントでDGを計3台設置する方式を取っていた。

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国内ではPWRの関電美浜は当初からDGを2台設置していた。DGの台数決定要因として同112ページで外部電源系統の信頼度が挙げられている。私はPWR陣営の歴史には疎いが1965年6月、電源開発御母衣(みぼろ)幹線での事故から、大停電が発生したことがあった。この経験から、同じ60Hz地域で営業地域も隣接する関電が、事態を重視して取った措置ではないかと考える。

変更の内容は後年『敦賀発電所の建設』第III編第1章や『日本原子力発電三十年史』第2章第1節3(P86以降)に明記された。

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GE製BWRをターンキーで契約するという点で、敦賀1号機と福島第一1号機は共通しており、福島にも適用された。

ただし、原電は敦賀に設置する原子炉が1基であり、次の展望も描けていない状況だった。そのためDGは2台設置に改めた。一方で東電は福島で後続プラントの建設を計画中であり、ドレスデンのやり方で台数を節約した。

変更内容はDG以外にも多岐に渡る。当事者としては当たり前の前提だったかも知れないが、変更前後の比較や、審査内容の説明がなかったことは、問題だろう。なお、国による「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」の制定は1970年4月のことであり、日本電気協会規格JEAC 4603「原子力発電所保安電源設備の設計指針」が制定されたのは1971年のことである。いずれも福島第一1号機を設計していた時期には存在していない。

そんな大規模なレイアウト変更を検討中の時期に、十勝沖地震で現場事務所が高台避難の命令を出し、チリ津波対応の4mに疑問が生じた。もしこれを真面目に対応して4m盤の設計を改め、敷地高を上げたりポンプを収容する建屋などを追加したら、設計変更の範囲は更に広がってしまう。

高度成長期は、電力需要が年毎に激増する時代。電気新聞を読み返すと予備率に神経を尖らせてる様子が伝わってくる。そのような中で工期が守れないのは致命的であった。また、建屋建設を赤字で受注した鹿島なども更に赤字が膨らんでしまう(鹿島は先を見越してGEから建屋建設を赤字受注しサブコンとなった。その経緯は、当時の日刊工業新聞や社史に当たれば分かる)。津波に関して何も改めなかった理由はまぁ、その辺りだろう。豊田正敏氏も上述の通り「急げ」とせかすばかりであったと吐露している。

この時小さな津波しか来なかったから、却ってたかをくくったという可能性もあるか?、と一瞬思ったが、震源は北海道に限りなく近い東北の沖合であり、当初発表した震源は50km北にずれていたことで十勝沖の名が付いた。この経緯から日本近海とは言え福島からは距離があり、そうは考えないだろう。その傍証に東日本大震災の時は、震源が東北沖であることをニュース速報等で把握し、6mの警報だったにもかかわらず、10m盤からの人員退避を行った。だから、津波に吞み込まれた犠牲者はタービン建屋の点検に入った東電社員2名だけである(建物の中まで浸水するとは思わなかったのだろうか)。

原子炉周辺にいた東電社員達の証言を読むと、10m盤に想定外の波が来たかのように述べているものが目に付く。これこそ「後知恵」のバイアスを意識的、無意識的に使っている可能性を疑わねばならない。実際の行動を観察すれば、10m盤は避難先に指定される高台のような扱いではなく、津波想定に対する現場の不信は、一貫して残っていたと考えられる。東電本店の土木調査グループや原子力安全・保安院のような限られた場だけではなく、発電所で仕事をする人達の認識はドライサイト、ドライサイトコンセプトのいずれでもなく、ウェットサイト化への恐れだった。

【6】設計変更の対外説明はうやむや。

この設計変更だが、国・東電・業界のどれも、満足に説明していない。

『火力発電』1968年12月号掲載の東電井上和雄氏執筆の紹介記事では工程を確認出来る。それによれば、6月下旬に当初予定より2ヵ月早く格納容器が完成、タービン建屋はタービン台のコンクリート打設中で、10月に復水器の搬入を予定していた。原稿受付は10月2日。『火力発電』は実質電力会社のための専門誌なのだが、設計変更には全く触れていない。時期が時期だけあり、建屋内の配置図も付いて無い。

翌1969年7月1日には3号機の設置許可申請が提出された(『原子力委員会月報』1970年1月)。敷地に関する設計は踏襲。福島第一は2基ごとにツインプラントとなっているため、この時点で4号機の敷地高を変えることは困難となった。

国による説明のあり方も見直しておく。当時、原子力委員会は月報を出しており、今でもネット上で閲覧できる。1号機の設置許可を与えた時は、1966年12月号に資料として、原子炉安全専門審査会報告を添付(リンク)し、定期刊行物の付録としてはボリュームのある内容だった。だが、1969年2月号で設計変更について触れた時は簡素な内容であり(リンク)、予備ディーゼル発電機には触れなかった。遡って、より詳細に記述された設置変更許可申請本文を確認しても台数は空欄のまま「変更なし」とされており、先の平面図を見ないと2台設置することが分からないのである。

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設計の改められた1号機の平面図が掲載されたのは、東電の野村顕雄氏が原子力学会誌1969年5月号に投稿した1・2号機の紹介記事(リンク)だったが、設計変更については全く触れられなかった。

続いて『電気雑誌OHM』1969年11月号には先の豊田氏が3号機の計画記事を投稿。ディーゼル発電機が2台設置され、内1台は4号機との共用である旨を説明した。1・2号機においても同じ考え方で設置されていると明記されたのはやはり東電の技術者が投稿した『電気計算』1970年4月号でのこと。この投稿は2名で1月号から6回に渡って連載されたものなので、紙数に余裕があった。

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複数の媒体に投稿された論文を見ないと全貌を把握するのも一苦労では、同業他社の技術者でも見抜くことは難しいだろう。建設記録のような単行本が本来は必要であり、後ほど紹介する博士論文も、その役割を部分的に果たし得る道はあった筈だ。

代表的な業界紙、原子力産業新聞も同様であり、この変更が許可された時に、ベタ記事を出しただけ(1969年3月6日1面、リンク)。9つの変更点と紹介しただけでは、何もわからない。

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発行元の日本原子力産業会議は創立時に東電社屋に事務所を構え、自治体の他に国立の研究機関も会員となっていた。その背景を踏まえれば、意図はどうあれ説明責任を間接的に負うものと考える(現在の会員はリンク。福島県は事故後退会)。

このように碌な対外説明が無かったのは意図的なものなのだろうが、その「成果」が何処の事故調も、主だったジャーナリズムも、崖を削って造成したこと、「最終的に」非常用電源が地下に配置されたことに目を奪われるばかりだったことだ。もっとも大半はインタビュー、プレス向け資料、それにやっつけのネット検索で済ませる傾向があるので、気付かなかったという方が正解だろう。

【7】1970年10月・・・JEAG4601原子力発電所耐震設計指針(民間規格)発行

1970年も秋になると、主要建物は完成し、核燃料を搬入して各種の試験を開始する段階であった。この年の動きとして注目すべきは日本電気協会による民間規格「JEAG4601原子力発電所耐震設計指針」の制定である。この指針は1987年に全文改訂されるまで参照され続けたが、耐震設計が主題でありながらも、津波へも一定の言及をしていることが特徴である。

国の責任と言う観点から見て重要なのは冒頭部「まえがき」「電気技術指針について」の説明および「作成に参加した委員氏名」である。

まえがきによると、元々、この指針は通産省が日本電気協会に制定に際し、耐震設計の審議を依頼したことが発端であった。少し長いが、内容検討のために引用する。

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「義務、勧告、推奨などの事項を明確に表現する意図のもとに作成されたものではない」と言う逃げもあるが、それが通用するのは、この指針以上に有用且つ具体的で広く承認された指針や規定が存在する場合だけなのではないか。

なお「電気技術指針について」では「大綱的には遵守すべき事項」「将来実績をふまえて基準化または規定化し得る性格を持っている」「電気技術指針は原則的には電気技術規程に準じて遵守されるべきもの」とも説明している。官側が多数委員に参加し「遵守すべき」と述べ、実績を将来まで待ってから基準・規定化しなければならない事情で、事故が起きた際のリスクが大きいものを実社会に投入するのは誤っている。津波工学の実績が溜まるまで待つか、すぐに実用するのであれば自明であること(例えば後述するように、遠地津波の想定だけではNGとする)、明らかな矛盾を含んだ設計成果物は直ちに規制する必要が国にはあった。小林の設計思想や東電の姿勢は1970年代であっても十分その対象となる。

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規程化出来ないのは未解決で一律に決められないから、という意図だが、新技術や保安上必要な事項を取り入れることを前提に規程化していないと述べたものである。最初に決めたチリ津波の想定を墨守して後続の原子炉を設置許可申請せよという意図ではない。

また、まえがきの経緯と指針の遵守義務的な性格から、通産省、科学技術庁(当時は原子力分野も所管)など国の組織や国の主導で設立した動燃事業団からも多数の委員が入っていた。このことも、国側は行政指導と同じく事実上の義務、勧告、推奨であったことの証左となる。

指針第2章「敷地および地盤」では「津波の被害を避けるため、敷地地盤面を高くしたり、防潮堤を設けることも考えられるが、非常用冷却取水を海水に依存するため発電所の安全性を損うおそれのある敷地は適当ではない」と記載されていた。

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ドライサイトコンセプトそのものの定義であり、これを守って設計していれば少なくとも以降の号機は4m盤に海水ポンプを置くことはあり得えないし、国側には内容を審査する義務があった。6基の原子炉を設置許可・設置変更許可する過程で何度もその機会も与えられていた。東電刑事裁判での被告側の言い分が「防潮堤は発想出来たが水密化は発想出来なかった」であるのは、こうした初期の事情も加味してのことではないだろうか(海渡雄一『東電刑事裁判 福島原発事故の責任を誰がとるのか』彩流社P156~157)。もっとも、水密化も浜岡のような例はあるのだが。

また、2015年に書いた記事でも紹介したが(リンク)、IAEA勧告を付録に加え、津波想定の継続的見直しを求めていた。254ページの「特定地域の津波による最大海面上昇の高さは十分な歴史的記録がなければ予想できないだろう」などの文言は、直近400年の歴史地震に対象を限定し、実際の観測は直近10年程度の小名浜の記録に基づいた設計思想を完全に否定するものである。

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他、255ページを読むと「計測が不足」(小名浜での観測10年のみ)「理論が不適切」(世界中の津波に言及しているため、リアス式海岸のみ高い津波が起こるという間違いを示唆していると推測)「予想が不確実」(余裕掛けが必要)「さらに検討を加えるべき」(1号機の設置許可を踏襲するだけではNG)といった文言が目に付く。模型実験の不足は1980年代以降、津波シミュレーションの普及で解決したが、それ以外は当時から提言されていることが分かる。

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各訴訟の準備書面で被告側は、IAEAの文書は絶対的なものでなく、参考にすぎないと主張する。しかし、後年の改訂版で削除したとは言え、自ら制定した規格にIAEA勧告を付録したのだから、そのような言い分は通じないのではないか。

JEAG,JAEC制定全般についても、元々は通産省からの依頼だったのではないかと思われる。

このように、折角ドライサイトコンセプトと言う逃げを用意し、福島第一では津波に際して結局10m盤を信じず高台に避難した経験があったにも関わらず、小規模な設計変更で設置が可能な防水扉も設けられなかった。後述の博士論文から見てより必要性の高い4m盤の構築物についても同様であった。このことは、1976年、本所5号機と同じ年に運開した浜岡1号機に腰部までの高さの防水扉が設置されていた事実と対照的である。浜岡原発は311以前、津波を敷地前面の砂丘で止めるとしており、建設時の敷地高はやはりドライサイトであった。

つまり、東電はJEAGに沿う必要を認めなかったし、審査する側の国も指針策定に関与しながら見逃していた、ということである。

【8】1971年・・・博士論文で心変わりし、意味不明に

さて、小林は1970年5月、取締役に就任、環境総合本部副本部長となり、仕事の上では原子力専任ではなくなっていた。翌1971年2月23日、博論の学位授与申請を提出しているので、執筆は70年頃に行ったのだろう。なお、博論は1971年7月23日出版に至った(出版日はIRDBによる)。その間、申請時に予告した通り、小テーマに分割した抄録的な論文を土木関連の専門・学会誌に数回に分けて投稿していった。従って、参考文献は設置許可申請以降に出版されたものが多く含まれている。

博論の内容を一言でいうと、原発の敷地選定についての経済性を検討したものである。津波に対する考慮を言及したのは第3章、第4章、第5章。

第3章では、次のように述べた。

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福島第一のチリ津波は遠地津波だが、津波高は低いと認識していたのである。近地津波ではなく、低い遠地津波を想定に使って朔望潮位を加えれば十分である旨を、博士論文に記述した。設置許可とそれを元にした解説記事では分からない。極めて筋の悪い、悪質な判断である。

工事は進んでいたとは言え、1号機さえ運転開始していない時点である。これも、私が5・6号機以降で敷地高が変わった真の理由=近地津波の中には異常に大きくなるものがあるので予防的に高くした、ではないかと考える傍証である。小林の本音か、その態度を見た周囲が警戒しての処置だと考えるのが自然。

なお、リアス式海岸の南端に位置する女川はさも先見の明があるように書かれるが、上述の「当時の認識からも」誰もが15mにしたかはともかく、ある程度は高くなって当たり前の土地だったことも分かる。

第4章「原子力発電の適地性の評価に関する研究」は学位申請時『土木学会誌』1972年1月号への投稿を予告し、実際には同年2月号に「わが国における原子力発電所適地の展望」という題名で掲載された。

第5章「福島発電所への適用」は『土木施工』1971年5・6月号への分割投稿を予告し、実際には同年7月号に「福島原子力発電所の計画に関する一考察」として掲載された。

1号機の運転開始が1971年3月26日であるから、それを見届ける形での発表を計画したのである。

以前も紹介したことだが、4章と5章では敷地高に整合が取れていない。5章では4mと書いたのに4章では10m。だから、4m盤の扱いはどうなんだ、という話である。しかも4mの根拠は3章で低いと評価した遠地津波を採用したためである。

4章は、土木学会誌では設計波高5~6m、設計潮位1~2mから太平洋岸で10mと簡略に説明されているが、4mの場所は無い。博論の方は詳述しており、最大津波高とさく望平均満潮位を足すと、太平洋岸の直線海岸部分に選定した各地点では7.4~8.9mになるので、余裕を加えて一律に10mで経済性を計算するものとした。その直後に5章で検討するような個別地点の地形や炉形による影響を考慮する旨書いてあるが、ポンプ室を4mに置く安全性の問題は説明どころか言及さえ出来ていない。

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5章は、設置許可申請以来一般的に説明される内容をなぞっており、チリ津波に対応して4m以上が必要であることから、陸上部の敷地高を10m、埋立部のポンプ室付近を4mとした件を説明している。

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小林は恐らく十勝沖地震の経験から、設置許可時のチリ津波など全く当てにならない所感を得たため、4m盤の安全性は捨て、10m盤が守れれば良いという体で論文を書いたものと思われる。しかし、現実の福島第一は海水ポンプを4m盤に剥き出しで配置するなど、小林の説明通りには設計されていないので、意味不明となった。

私が、あらかじめ失われていたドライサイトと考えるのは、この時系列の関係も理由にある。

しかも、10m盤の安全性は東電の現場も信用していなかったし、東電の設置許可申請も、小林の考えも、JEAGに沿ったものではなかった。

2000年代に津波評価技術等により津波想定が6m前後に引き上がっていった際、海水ポンプモーターを僅かに嵩上げして余裕の殆ど無い状態で対策を完了したが、僅かな嵩上げで良いと考えたのは、建設当時に本音に近い値として、5~6m程度の津波高まで対応させていたから、殆ど手直しせずに済んだということではないだろうか。

【9】5・6号機の敷地高は13mに

その後に起きた出来事を時系列で並べると、また興味深い傾向が見えてくる。

1971年3月4日、北側の敷地に5号機の設置許可申請が提出された(『原子力委員会月報』1971年6月)。5・6号機は敷地高が13mと高いが、私が1960年代に入社した元東電の技術者(名は秘す)に聞いたところでは、住宅の造成などでも多用される土量バランスのためで、津波への配慮ではないそうである。

土量バランスと言う聞き慣れない言葉だが、例えば斜面だった場所を段々にして住宅地にする際、ある部分は斜面を削り、その前面は逆に土を盛って平らな土地にするが、その掘削量や防災・交通の便などから見た標高を最適とするための計算のことである。専門誌の原発建設記事でも敷地の整備について述べた部分はこれに類する議論を行っている。

だが、この変更の本音は津波対策ではないか?後年の勝俣御前会議における資料回収と同じく、表に出したくない事情なら、当時20代の若手社員に教えるとは思えない。その根拠は勿論、十勝沖地震の体験である。設計を大幅に変更することなく可能なレベルで高さを稼いだように見える。

翌月となる1971年8月5日には、10m盤最後のプラントとなる4号機の設置許可申請が提出された(『原子力委員会月報』1971年12月)。なお、5号機が先行して申請されたのは双葉町への雇用・寄付金等の配慮のためである。3号機の時に書いたように、これは既定路線だろう。

なお、原子力委員会は2号機以降も数か月程度の短期間審査で設置許可を出し続けた。設計が同じであることを盾に、変化を嫌ったのだろうし、黎明期は過去の経緯(しがらみ)も蓄積が無いので、そうした確認に手間もとられなかったのだろう。後年、新しい号機になる度に津波想定が変わっていった女川とは様相が異なるが、先のJEAG4601-1970の観点からは、女川の方が正しかった。

【10】非常用海水ポンプの位置付け

1971年3月26日、1号機は各種試験を合格し、運転開始の日を迎えた。この頃になると、民間規格も更に整備が進んできた。先ほどのJEAG 4601,JEAC4603もこの時期である。

続いてJEAC4605 「原子力発電所工学的安全施設及びその関連施設の範囲を定める規程」が1973年1月23日に制定された。私は2004年版しか持っていないが、非常用海水ポンプのモーターやその電源(俗にいう非常用電源)が関連施設として定義されており、この点は初版からと考えられる。

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「工学的安全施設の関連施設」に定義されるということは、安全上の重要性にお墨付きが与えられたことを意味する。規格制定に関する資料は余り持っていないが、以下、国の責任とは何かを視野に考察する。

国の定めた『発電用原子力設備に関する技術基準を定める省令』(昭和40年通商産業省令第62号)の解釈には民間規格であるJEACやJEAGも引用される。法令に不慣れな向きに解説すると、この省令には解釈という名の具体的な説明文が付随している。「読み手が意味を読み解く」という一般的な意味の解釈とは少し違う。以前は解釈ではなく解説と呼んでいた。

省令62号で津波に触れているのは第4条で、原子炉施設には防護措置を取るように書いてある。原子炉施設と言う単語は第2条で定義され、その解釈を読むと原子炉冷却系統設備や非常用予備発電装置が含まれる。だが、解釈を読んでもJEAC4605は呼ばれていない。

ちなみに第4条の2は火災による損傷の防止を扱っており、1975年に追加された条文である。その解釈には当初JEAC4605が呼ばれていた。当時、火災に特化した電気協会の規格は無かった。現在の4条の2ではJEAC4626「原子力発電所の火災防護規程」を呼ぶようになっている。

従って、海水ポンプは津波の防護対象として省令はもとより、引用元文献からも名指しはされていない状態だった。なお、福島事故後は第4条から津波は分離され第5条の2が新設となった。対象設備は4条にあった時と同じである。勿論各社は実態として水密化工事などで海水ポンプを防護するようになった。JEACを呼ばなくても原子炉施設に含まれると見なしているのだろう。

ただそれは、福島事故と言う巨大な衝撃を経て万人にとり前提となったから現状の文言で通用するのであって、仮に1970年代、当記事で述べてきたような実態に照らし、予防的な津波防護の規程を強化するのであれば、火災防護の時同様、最低でもJEAC4605を呼ぶなどして海水ポンプを名指すべきだったと考える。それが、ルールを定める国の責任であろう。

一方で、1970年代後半から着工されて行った福島第二で海水ポンプが建屋に収納されたのは、こうした定義づけも影響しているだろう。福島第二においても津波想定は相変わらずチリ津波の3mを引き継いでいたが、最早低い場所に裸で置くことは出来なくなったのだ。また、原子炉建屋の海抜も12mとなり、DGは相変わらず地下室だったが、直流電源はその高さ(1階相当)となった。

【小括】

小林健三郎は経歴からも、研究内容からも土木分野の人物であり、原子力発電の仕組みは明るくなかったのかも知れない。また「工学的安全施設の関連施設」が何か、誰にでも分かるように定まっていない頃に福島第一を担当した。だから、土量バランス論の範疇から外れた埋立部のポンプ室は「遠地津波対応のみするが捨ててもよい」と思ってしまった可能性はあるだろう。

ならば、繰り返しになるが東電の他のスタッフ達はJEAGやJEACが制定された時点で福島第一の津波防護を見直すべきだったが、何も為されなかった。黎明期にして既に前動続行の悪い意味での官僚化が進行していたとも言えるだろう。

国(原子力委員会)が小林の博士論文を提供されたかは分からない。性質上頒布は極少数とは言え、公開文献だから存在を知れば参照は可能だったし、事実上の抄録である専門誌記事を繋ぎ合わせれば矛盾には気づけるようになっていた。だが、国もまたこの点を見逃し、ローテーション人事と専門委員の交代で埋もれたのだろう。最初のプラントであったのに、文献収集を怠ったとすれば、40年以上前の話であっても、一定の責任は生じると考える。

訴訟で被告側が言い分に使う「切迫性に欠けていた」という言い分も、もっぱら2000年代にあった出来事にばかり焦点を当てるからそう言ってくるのである。原告は反論として「原子力安全では一般防災より低頻度のリスクにも目を向ける」ことを材料にすることが多いが、40年以上に渡って問題行為が散見される状況についても通り一遍の説明はした方が良い。10年、20年、40年も切迫性に欠け続けるということはあり得ないからである。

次の記事では運転開始後に後知恵無しで結果回避が出来たのかについて、新たに発掘した知見を交えて論じる。

2022/9/7 公開。細部は後日修正・追補の可能性あり。

2022/11/5 平井弥之助について検証記事へのリンクを貼り、文言修正。

2022年8月15日 (月)

東電原発事故4訴訟、最高裁統一判断に見る草野裁判官の奇妙な議論

2022年6月18日、生業訴訟、千葉訴訟、群馬訴訟、愛媛訴訟の通称4訴訟について、最高裁で原告敗訴の統一判断が下された。

色々な問題点を含むものなので既に批判記事も何本か発表されている。主たる論点はそれらに任せるとして、私が気になったのは草野裁判官による賛成側の付帯意見である。

私のブログに酷似した内容が記載されているので、そのことについて(厳密に)検討しておきたい。後半では最高裁判決の影響力を無効化するため、どのような事実を主張すべきかも指摘した。

草野裁判官の意見は判決文の17頁以降。要約すると東電が2008年に社内で想定した地震津波(推本地震津波)が、何の対策もしていない福島第一原発を襲ったと仮定しても、大したことないので事故は避けられた、だから国に責任は無い、という主張である。

【1】問題の部分

酷似しているのは以下の2ヵ所である。

(1)けだし、本件長期評価が想定している地震は明治三陸地震と同規模の地震であるところ、明治三陸地震によって生じた東日本各地の震度は最大でも震度4であるとされており、震度4の地震によって上記の送電に支障を生ぜしめるほどの損壊が外部電源の設備に発生するとは考え難いからである(19頁)

(2)(例を挙げるならば、本件仮定の下においては電気設備類の一部が浸水した状態で外部電源から本件各原子炉施設内に電力が供給され続けた可能性があるところ、その過程において、浸水した電気設備類の内部配線等がショートして火災が発生した可能性がないとはいえない。)。しかしながら、このような新たな事実の発生可能性について推論を行うためには、その推論を基礎付ける具体的事実の摘示が不可欠であるところ、原審の認定した事実の中にそのような具体的事実を見出すことはできない。(25頁)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/242/091242_hanrei.pdf

要するに、地震の規模を小さくしたら、外部電源は壊れないので受電したまま浸水し、火事になってそれはそれで危険だったかも知れないけど、そんな話は原告・被告の書面や証言には無かったよね(=だからやっぱり国に責任は無い)、という意見である。

私のブログの該当記事は次の通り。中盤の次の部分である。

【外部電源が生きていたまま津波で浸水した場合、福島第一でも火災が発生した可能性がある】

以上、只の昔話ではないことが分かったと思うが、今日的な問題提起としては2つある。

一つ目は福島原発事故分析の盲点。2016年頃までホットな話題だったのは、大津波の想定は確実だったのか、という予見可能性の問題だった。民事・刑事裁判が進んでから言及されるようになってきたのは、「想定できたとして、対策は間に合ったのか」という回避可能性の問題である。訴訟では、回避可能性も後知恵抜きで証明する必要がある(個人的には、原告側にそこまで完全な証明を求めることは酷だと感じているが)。

さて、有名な2008年の15.7m試算だが、その前提条件は福島沖で明治三陸地震と同規模の津波地震が発生することである。津波地震とは、陸上での揺れはそれほど大きくないが、津波の規模が大きな地震を指し、明治三陸の場合、沿岸での震度は最大でも4に過ぎなかったとされている。したがって、この試算では揺れは問題となっていない。

実際の福島事故ではまず震度6強の地震動で外部電源がすべて破壊されたが、もし外部電源が生きていたまま津波が襲っていたら、奈井江と全く同じ環境条件が成立し、電気室、中央制御室等で電気火災の危険が大きかった。これは、後述のように他の被災原発と条件が異なるからである。

2019年1月19日 (土) 北電火発が経験した浸水火災

http://iwamin12.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/heaf-ba67.html

そんなの誰でも知ることが出来る一般論だ、と片付ける向きもあるかもしれないので、以下、しつこいが周辺事情について述べておく。

【2】一般論で済ませられるほど普及した教訓だったか

(1)については、海渡雄一『東電刑事裁判 福島原発事故の責任を誰がとるのか』にて明治三陸地震の解説を行記述した箇所に震度3程度であった旨の記述があるが、(2)について議論していない。それにこの本を使うのであれば、原告もしくは被告が証拠として採用する必要がある。

また、予見可能性の論争で福島沖の津波地震は多く論じられたが、(1)に類する表現は管見の限り見当らない。何故なら地震学的には雑駁な表現であり、訴訟で引用された学者等はそのような表現をせず、関心も日本海溝の付加体等に集中していたからである。

なお、(1)に関しては「明治三陸 震度4」でTwitter検索すると、地震速報の際にニュースで呼び掛けた例が幾つか上がってくる。だが「揺れが小さくても大きな津波かも知れないので海岸には近づかないように」といった注意喚起の文脈であり、揺れを過小評価するような使われ方ではない。

また、(1)について、判決文自体が大きな揺れを発生させるにはMw9が必要条件であるかように記載しているので2019年のブログ記事に加えて一点補足しておくと、Mw8クラス以下の地震で外部電源を損傷させる揺れを伴った津波地震は発生し得る。

例えば1994年三陸はるか沖地震では最大で震度6を記録、岩手県では発電所の275kV設備が震度5で損害を出している(日本電気協会規格『JEAG5003 変電所等電気設備の耐震設計指針』による)。この規格は、後半に過去の電気設備の震害について掲載した資料がついている。岩手県では沿岸に500kVや275kVの送電線が連担しておらず、目立たなかっただけなのである。

三陸はるか沖地震の規模はMw7.7のため、例えばMw8.2に規格化された東電の明治三陸モデルと三陸はるか沖の重畳・連結モデルを仮定しても、マグニチュードはMw8.3前後程度にしかならない。

なお、1978年宮城県沖地震は、震源が陸側に近かったため、揺れが大きく、一般建築物の耐震設計が刷新される契機になった。1981年の新耐震基準や先のJEAG5003というのはこの地震を教訓に定められたものである。

そして、東日本大震災前の推本による長期評価では、宮城県沖地震と日本海溝沖の津波地震が連動して発生するケースも想定したので、宮城県も2004年3月に結果を公表した第三次地震被害想定調査でこの想定を取り入れていた(「第2章 東日本大震災以前の事前対策」『東日本大震災 : 宮城県の発災後1年間の災害対応の記録とその検証』P56-58)。

(2)については、そもそも、奈井江火力発電所の知名度は高くはなかったと思われる。

火災と浸水の件は私が取り上げるまで、ネット上では僅かな情報しかなかった。そんな事情だから原発問題、東電原発事故に結び付けて論じたものは見当らない。

また『北海道火力原子力発電ニュース』というのは火力原子力発電技術協会の、北海道支部で発行されていた定期刊行物である。同協会は会員制で、入会するとHPで過去記事閲覧が可能だが、専ら電力関係の技術者による業界団体である。だから、東電原発の関係者や原子力安全・保安院の技術職が奈井江の件を知り、津波対策に生かすことは一般人に比べれば容易だった。

だが、協会の本誌は幾つかの大学図書館でも読むことが出来るが、各支部のニュースは国会図書館を含め納本されていない。私自身は古書市場で入手し存在を知った。部外者にはそういうハードルがあった。原発事故時に「私は文系です」と述べた国側関係者がいたが、彼の場合は技術職に尋ねるなどの道が本来はあったろう。だが、仕事で原発訴訟に関わる裁判官の場合、一般論としては工学系大学を出ている私以上の(環境的)ハードルがあるのではないか。

ブログを書いた20191月時点で4訴訟は第一審の審理が終わり、判決待ちか、一部の訴訟は第二審に進んでいた。その事情もあり、この事実を取り込むには証拠を補充する必要があったが、草野氏は(2)で「原審の認定した事実の中にそのような具体的事実を見出すことはできない。」としている。石狩川流域の出身者なら、電力関係者でなくても火災のことを覚えていたかもしれないが、もし草野氏が私のブログを経由しないで奈井江に関する情報を得ていたとしても、問題の本質は大差がない。

なお愛媛訴訟以外は準備書面等、何らかの文書をHPにアップしているので確認したが、私がブログで提示した事実を証拠を採用している箇所は幾つかあるものの、今回取り上げた箇所はなかった。いくつかの訴訟の担当弁護士とはこの件で確認・連絡も取ったが、やはりそのような事実は提示していなかった。

(2)に関しても、草野氏の主張は独自の考察としては、奇妙さがある。東日本大震災後は津波火災が注目されたが、それはもっぱら「水が引いた後に復電すると電化製品から火が出る」とか、「車が発火する」と言った現象を指す。洪水の後に通電を控える公的な注意喚起も多数あるが、発電所の数千ボルトの高圧回路を前提としたものではない。

発電所は火力を含めて簡単に止められない設備があるので、奈井江では通電中の浸水火災となったのである。また、数千ボルトの短絡によるアーク(火花)は一般家庭の100V200Vに比べて、遥かに大きく、配電盤での短絡事故は大抵爆発に近い。

実務家向けの定期刊行物『電気技術者』を読み返しても、2011年以降の数年は、震災復旧を含め、電気設備への浸水が好んで取り上げられる傾向にあったが、その中で火災に至ったのは2013年9月号「自家用電気設備の水害と対策」P11の、あるテナントの分電盤に浸水から盤を焼損した例程度である。勿論、すべての日本語文献をチェックできたわけではないが、電気分野に関係する他誌においても同傾向ではないだろうか。

上記の事情から、草野氏はネット検索で私のブログに辿り着き、その内容を参考に付帯意見を書いたが、奈井江火災という具体的名称やそれを福島事故と絡めて論じた私のブログは挙げなかったのではないか、と疑問を持っている。どのように「着想」されたのか、後述の事情からコメントし辛いかもしれないが、是非語っていただきたいものである。

【3】私が問題個所の下に書いたこと

なお、ブログ記事の酷似箇所の直下には、【15.7m想定を公式に採用していたら、福島第一は消防法令不適合となった】という節を設けていた。

詳細は当該部分に譲るとして、2007年中越沖地震の直後、柏崎刈羽原発は消防法違反で柏崎市から停止命令を受けた。大熊町・双葉町が推本想定を知れば、消防法を利用して是正を迫る決断の選択肢が出てきたことは容易に想像がつく。国や東電も、自治体がそのような動きを取る可能性を見越せただろう。

各地の訴訟で過去に提示された点を含め整理すると、推本想定を適用した結果、福島第一を停止し得たとされる法制的な根拠は、以下の13だが、4番目として消防法もある、ということだ。

  1. 20069月に改訂された耐震設計審査指針によるバックチェックに抵触すること
  2. 発電用原子力設備に関する技術基準を定める命令(省令62号)に抵触すること
  3. 自治体が安全協定をもとに運転への不同意を表明すること
  4. 消防法に基づく施行規則、火災予防条例に抵触すること(後述のように、これは私の誤解だったが、消防同意と消防計画には国の不作為は影響している)

非常用電源は建築基準法、消防法など複数の法令で別々に規制されており、それぞれの所管も違う。事情は原発でも同様である。それらに全て適合せねばならないため、このようなことが起きる。とはいえ、既に規制する法令(それに基づく規則、条例)はあったのだし、先の省令62号なども解釈にて消防法など他の法令を参照した構成となっている以上、水災害関連についてもそのような構成をとり、他官庁などと整合を図る必要は問われるべきだろう。

なお、地元の消防は査察を行う事ができるが、この制度は311の何十年も前から存在しており、解説書なども売られていた。

23/11/13追記:本件についてブログ執筆後、消防査察は日常的な火災予防に対するもので、自然災害は対象外とのご指摘を頂いた。しかしその一方で、建物の新築・改修の際には消防同意を要する。消防実務者向けの解説として、例えば『近代消防』1988年4月号に「原子力施設等の消防対策(20)」という実務者向け連載が載っており、P145~148の記述によれば、津波など出水の恐れがあるかを調べ、そこから導かれる想定より1m以上の土盛りをするように記載されていた。記事で示されているのは既往災害履歴であるが、政府や東電の推本に従った想定はこれまでの議論から同様のものと見なせるのは明らかである。よってバックフィット改修や新たな建屋の増築の際には、15.7m想定に基づき消防同意を得なければならなかったと考える。

また、中央防災会議の想定を元にしたとはいえ、日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法(2005年9月施行)の関係から、消防計画の作成などが求められていた。中央防災会議想定や本法が推本想定を元にしていれば、消防計画の面から見ても事故は回避できたということになり、国の責任はあると私は考える。

【4】奈井江火災の教訓は浸水防止対策の充実だった

また、私のブログ記事を最後まで読むとハード的には水密化の重要性を説くものとなっており「推本の想定が緩いので対策も緩くて良い」という草野氏の主張とは真逆のものである。

当時示したのは東電が編纂した『変電技術史』(1995年)第11章に記載された1977年制定「水害対策設計基準」だった。なお、株主代表訴訟の2019年渡辺意見書では2006年より中央防災会議に設けられた「大規模水害対策に関する専門調査会」の聞き取り調査が示されているが、東電は回答でこの基準を挙げている。

北海道電力の関係者が奈井江火災を振り返ったのも、目的は教訓の伝承であった。2019年のブログ記事で紹介した「台風の直撃を受けた奈井江発電所」(『火力原子力発電北海道ニュース』Vol.43,2000年)に記されていたのは組織の動きが主だが、1000名を動員し500年に1度の水害に耐えるようにされた旨の記述がある。その後に発掘した『北海道電力火力発電四十年史』(1993年)では、水密化など、更に具体的な復旧内容が記載されていた。

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全景空撮。大物搬入口と思しき扉の脇に見えるオレンジ色の物体は自走式水密ゲートと推測。

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草野氏の疑問を横に置くとしても、この内容は福島事故訴訟でのいわゆるドライサイト/ウェットサイト論や回避可能性を論じる際に重要な事実として提示する価値がある。

当時は泊原発をはじめとした大型電源もなく、北本連系線も1979年に運用を開始したばかりで本州から融通出来るのは15万kWという時代。17.5万kWのボイラが2基でも、当時は北海道電力の主力電源だった。そのためか、半年で実施している期間の短さも注目すべき点だろう。

【5】職権証拠調べについての考察

私は法曹素人だが、もしこの付帯意見が奈井江火災を下地にして書かれたとすると「弁論主義の第3テーゼないし職権証拠調べの禁止」に抵触するのではないか。職権証拠調べの禁止は人事裁判や公共性の高い案件では例外(職権探知主義)とのことだが、その場合においても、当事者に開示し意見を聞く必要があり、判決文でいきなり提示はおかしいからである。

一般的に裁判の判決を論じるとき、「〇〇の事実を無視して云々」といった批判がなされるが、証拠として採用していなければ、裁判官は論じようがない。だから法曹関係者、特に訴訟当事者の書く批判はそれを踏まえているだろうが、評論家の場合は必ずしもそうではないだろう。こうした点は頭に入れておく必要がある。

草野意見はあたかも自由心証に従って記載した体になっており、意見で奈井江の名も出てこないものの、周辺事情から疑問がある。

【6】後続訴訟で指摘すべき点

今後、類似訴訟では統一判断について様々な批判や新たな証拠の提示がなされるだろうが、草野意見についてはそれ以上の問題点があるように思われる。各訴訟団は最低限次のような主張を補充し、今回取り上げた点をより明確に否定しておくべきであろう。

  1. Mw8台前半以下の日本海溝沖地震でも275kV回線が損傷した例はあること
  2. 陸地の揺れが大したことないが津波高が大きくなる津波地震は、揺れの小ささを保証するものではないこと。言い換えると日本海溝沿いで発生する地震の中には揺れが大きいものもあること。
  3. 草野裁判官が述べる「推論を基礎付ける具体的事実」としては奈井江火災があり、ブログで引用した業界誌も伝承を目的にしていたこと。
  4. 通電火災のリスクが存在するなら、水密化の必要性は益々高まり、奈井江も復旧時に対策したこと
  5. 当時主力電源だった奈井江の浸水防止対策は半年で実施したこと
  6. 浸水リスクを放置したまま推本想定を公表しても、消防同意、消防計画を経て自治体の消防法違反を受ける可能性を念頭に(予期・忖度して)事態が推移したと思われること。

関係者の中には「面倒」であるとか、偏見(電力会社は全社一糸乱れず足並みを揃えるという誤った見方)に影響され、私の記事を不採用にした方もおられるかもしれない(そういう反応も側聞している)。だが、採用していれば草野裁判官があのような主張をすることは不可能となっていた。対外的なアピールも大切だろうが、後続の訴訟が同じ轍を踏まぬために、今一度吟味・検討を頂ければ幸いである。

23/11/13:消防法について追記。一部文言追加。

2021年11月 3日 (水)

原子力発電所で転倒防止・天井落下対策を取らないのは訴訟リスク

【はじめに】

原発再稼働に反対する層は今やどの世論調査でも6~7割に達し、私もその一人だが、実際には諸処の事情で再稼働してしまう原発は存在する。

政治的な働きかけ、訴訟、運動など色々行われているが、願望と現実は一致しないことの方が多い。

これまで、そのような状況下で提言されてきたことは専ら「原子炉の事故想定」や「核燃料サイクル」といった、身近でもなければ個人の手に余る話題ばかりであった。一方で所内の日常を観察すればするほど、再稼働が継続している状況で行政任せにせず、更にリスクを減らしていくための方策が必要であるように思われる。だが、インパクトに欠けるためその辺は推進派も反対派もあまり触れることは無い(取り組んでいる方もいる)。

私は、原発が再稼働した中で、実用的な提言とは何かを考え、まとめ記事を準備中である。だが、東電裁判を参考資料の一つにした事項については、読者の便を考えて単独のブログ記事にした。

この記事での主張を一言で言うと「電力会社各社は新規制基準対策で箱物を増改築してPRしているが、棚の転倒防止や事務所の天井落下防止措置は、全館に展開しておくこと、それを行わないと安全配慮義務違反などの訴訟リスクを生じる」である。

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出典:「オフィス家具類転倒防止対策」東京都防災HP 

地震に備えた安全なオフィスづくり Vol.5(JOIFA,日本オフィス家具協会)

職場の地震対策-事業所防災計画があなたを守る-(東京消防庁)

他にも多数図解あり。

その傍証として東電の例を示す。なお性質上、オフィスと呼ばれる全ての職場に通じる話である。

訴訟リスクは、下記のような記事を一瞥すれば一般的な災害でもあると分かる。高度な安全を要求され、躓きの連鎖によっては被害も巨大となる原発の場合は言わずもがな。

責任追及厳しくなる震災裁判、「天災」の免責はないと思え」『日経クロステック』2018.10.31

地震により自宅のブロック塀が倒れ、通行人に怪我を負わせた場合の責任(らい麦法律事務所)

【箱物は整備されていた福島第一の事務本館】

オフィスにおける地震対策が大々的に意識され出したのは阪神大震災の頃からである、と考える。業務用什器メーカーのイトーキは1978年宮城県沖地震の頃から取り組んでいたそうだが『セーフティオフィス―ソフト&ハード震災対策』(1995年11月)という本を出した。他、小川正明『工場の地震対策は大丈夫か』(1998年5月)なども出版された。学術面でも多くの調査がなされ、結果としてホームセンターで様々なタイプの固定器具が容易に手に入るようになった。

東電も阪神大震災から学んではいた。一例が福島第一の事務本館である。

だが、後になって検証してみると、箱物優先と言わざるを得ない。

事務本館に絞って解説した文書は見当たらないので、私が調査した範囲で歴史を概観しよう。

初代の事務本館は他の建屋と同様鹿島建設が担当したもので、1969年に竣工した。場所は、高台から10m盤に向かう、法面が特徴的な大熊通りを下り切った辺りである。

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出典:『鹿島建設月報』1969年10月P18

この初代事務本館は、後に左側に引き延ばされる形で増築した。

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出典:『東電設計30年のあゆみ』1991年7月P88よりトリミング

中央の、一部が原子炉建屋に隠れた低層の建物が初代事務本館。まだ鉄塔もあり、法面に黒い影が落ちている。東電のFacebook投稿に70mの送電用鉄塔重量が77tとあるので、送電線を支える必要のない通信用途の60mでもかなりの重量だろう(【超高圧送電線工事②】2014年10月29日)。

屋上から白い連絡橋が背面(北側)に伸びているが、これは10m盤よりは少し高い場所に建設された厚生棟(右の白い、真ん中に塔屋がある建物。1980年6月竣工、当初は1Fに大食堂があった)への渡り廊下である。その後、高台には研修棟も建設され、1995年3月に竣工。

初代事務本館をよく見ると鹿島建設月報の写真より左に横長となり、更にその左側に建物が新築されている。これらの増築は1980年代と推定。

なお、白赤に塗装されているのは1・2号機排気筒、事務本館に最も近いのが1号機原子炉建屋である。

政府事故調中間報告資料編の「福島第一原子力発電所1号機から4号機 配置図」では左に新築された建物を総合情報棟と記載。東電は1980年代に総合機械化と銘打ち全業務に計算機を導入したが、所内メインフレーム等を置いたものと推定。

もう一枚写真を引用する。原子炉建屋の爆発時、爆風で窓ガラスが飛散した(福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成 24 年 6 月版)資料一覧 東京電力P49-50)。距離の近さも相俟って、屋外と変わらぬ汚染に晒されたため放棄され、所内を訪問する際は、遺構として案内を受けるようになり、比較的近くから撮影される機会が増えたのである。

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出典「放射線量は依然高く_津波や水素爆発の爪痕」『毎日新聞』2016年2月12日旧事務本館

佐藤栄佐久『福島原発の真実』(平凡社新書、2011年6月)P230によると、1~4号機の原子炉建屋は海を象徴したモザイク塗装に改められたが、初代事務本館ものそれに合わせたのか、水色系塗装に変わっている。

「がんばろう福島」のトラックがいる辺りから左側が建て増しされた部分。また、左端と中央部には近年ビルやマンションでよく追設される、耐震補強の鉄骨ブレース(筋交い状の肌色の部材)が入れられていたことが分かる。屋上にあった高さ60mのマイクロ波通信鉄塔は撤去されている(重量物の除去も耐震余裕を増す常套手段)。

写真を引用はしないが2011年3月24日に日本エアフォトサービスが撮影した高解像度の空撮、2011年12月に東電が公開した734枚の空撮写真(いずれも多くの報道で引用された)、2008年10月に撮影された構内写真(『Gigazine』記事等)などから、耐震補強は事故前に実施したものであると分かる。

なお、政府事故調中間報告資料編の「福島第一原子力発電所1号機から4号機 配置図」では旧事務本館のことを事務本館別館と記載。

だが、初代事務本館に代わる新事務本館が2001年7月に竣工した。

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出典:「写真⑤.事務本館の外観」『中間報告 資料編』政府事故調

位置関係は次のようになり、海抜はより高い。

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出典:「1)事故はどのようにして起きたのか」『1.福島第一原子力発電所の事故の概要』東京電力HP

2代目に改築した理由を明記した文書は見たことが無いが、阪神大震災の教訓の一つが「1981年新耐震基準以前のビルでは倒壊率が高い」ことだった。初代事務本館は10m盤に建っているので岩盤に近く、全体的な揺れは高台に比べれば小さくなる傾向だが、当時問題となっていたことは阪神大震災と同じ揺れが原発を襲ったら、ということだった。そうした命題だと掘り下げた場所での減衰は考慮しないことになるので、耐震補強するか、新築するかを迫られ、両方を選択したものと考える。

場所が初代事務本館に近い高台エリアなのは、業務上の利便性(初代事務本館に加え厚生棟や研修棟に近い)とP.P.(警備)上同じ防護エリアに配置する都合だろう。防護対象のエリアは柵で外周を囲うからだ(参考、『エネルギーレビュー』1996年5月P20)。

1980年代の訓練では緊急時対策所は適当な会議室に立て看板を持ってくる程度だったが、以前の記事で詳説したように、阪神大震災での関電の経験を踏まえ、本格的なテレビ会議施設を備えることが要求されるなど、オフィスとしても手狭になっていたのだろう。

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出典:『ふくいちメール』No.62 2001年8月

新事務本館の緊急時対策設備は会議室に据えられたので、式典などの行事にも使われたようだ。『共生と共進 福島第一原子力発電所45年のあゆみ』P32にはそうした写真が掲載されている。

その後、2007年7月の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発の事務本館に設置した緊急時対策所の扉が歪んで開かなくなるトラブルがあった。その教訓から、2代目事務本館の隣接地に免震重要棟の建設が決定し、2010年に完成した。下記の写真のように緊急時対策所も改めて設置された。

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出典:『福島原子力事故調査報告書』東京電力 2012年6月20日P58(いわゆる東電事故調最終報告)

左奥に見えているのは2代目事務本館と思われる。

なお、廃炉が始まってから2016年に新築されたものは少なくとも3代目。以降はそれが新事務本館と呼ばれている(「第1原発の新事務本館公開 東電、廃炉作業の拠点に」『産経新聞』2016年9月30日 隣接の建物を事務棟にしていたとあるのでそれを数えれば4代目。事故対応については変遷が輻輳しているので、他にもあるかもしれない)。

場所は、かつてサービスホールと呼ばれた見学施設の辺りにあり、海岸からずっと内陸側である。

【転倒防止、天井落下対策は置き去りか】

このような設備投資を行う一方で、棚の固定は等閑だったようだ。事務エリアの写真はあまり多くないが、以下のピアレビューを自賛する社報記事に写真がある。時期から初代事務本館と思われるが、棚を観察すると固定金具らしきものを見ることはできない(勿論見えない位置で固定する可能性はあるが、通常は最上部且つ両端ではないか)。

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出典:『とうでん』2000年12月号

さて、ここまで設備を概観したが、福島事故後、東電は次のように揺れを描写した。

・ 11 日 14:46,地震発生。揺れは段々と大きくなっていった。事務本館では,各部署のマネージャーなどがメンバーに対して机の下に隠れるよう指示。各自,現場作業用のヘルメットをかぶるなどして,身の安全を確保した。
(中略)

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・ 揺れは長く続いた。天井のパネルは落下,棚は倒れて物が散乱,机は大きく動き,机の下に閉じこめられる人もいた。揺れが収まってから,閉じこめられた人を救出し,避難場所の免震重要棟脇の駐車場に移動した。1 週間程前に避難訓練を行ったばかりで,各自が避難通路,避難場所を把握していた。

福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成 24 年 6 月版)資料一覧 東京電力 P1

・ サービス建屋屋上で運転員が津波の状況を監視する中,11 日 16:55,DDFPの設置されているタービン建屋地下階の消火系(以下,FP)ポンプ室へ運転員が確認に向かった。現場へ向かう途中,タービン建屋 1 階の廊下には地震や津波の影響で工具棚が倒れ,所々に海水が溜まっており,通行出来ない状況であった。それらを避けながらなんとか原子炉建屋の二重扉付近まで行ったところで,サービス建屋屋上で津波監視を行っていた運転員から,繋いだままにしていた PHS にて,津波が来るとの情報が入り,一旦引き返した。

福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成 24 年 6 月版)資料一覧  東京電力 P37-38

同じ様な記述は他にもあるが省略する。政府事故調中間報告資料によれば、写真は2階総務部執務室とのこと。

少し拘るが、共同通信社原発事故取材班『全電源喪失の記憶』(新潮文庫、2018年3月)P26には吉田昌郎所長の視点から「ロッカーやキャビネットには転倒防止措置が講じられていたが、中の書類は散乱」と記載されてる。確かに所長室から外に出ると総務部のエリアだが、門田隆将『死の淵を見た男』(PHP研究所、2012年11月)P25では「ロッカーは倒れ」とあり、上記東電の記述でも倒れている。門田氏の政治的バイアスは私も以前指摘したが、この記述にその動機があるようには思われない。

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出典:「写真④.2階技術総括部執務室内」『中間報告 資料編』政府事故調

また、政府事故調の技術総括部の写真を見ると、棚が倒れた跡が明瞭に分かる。

福島第一は落下や転倒の影響で、怪我人も出した。

外に出てみると、思いのほか寒い。防寒着を羽織ってきて良かった。1週間前の訓練通り、所員たちは免震棟前の駐車場に集まっていた。
(中略)
寒空の下、言葉を交わす所員の数はあっという間に400人、500人と膨れ上がっていった。駐車場のアスファルトは地震の影響で波打ち、陥没しているところもあった。集合した所員の中には、落下物に当たったのか頭から血を流している者、ショックで震えている者、恐怖で泣いている女性もいた。

「第一章 3・11」『全電源喪失の記憶』共同通信社原発事故取材班 新潮文庫 2018年3月1日P29

その後、東電株主訴訟にて、(事務本館ではないが)棚が倒れたことでタービン建屋などへのアクセスが困難となった点が争いとなり、被告側は第28準備書面のP10にて東電の記述を引用し、事前の対策が不可能だった証拠として引用した。

それに対して、元原子力プラント設計者の渡辺敦雄氏は意見書を提出し、次のように反論した。

(2)棚の締結・固定すらしてなかった可能性がある
(中略)東京電力は転倒防止処置を知らなかったわけではなく、全館で展開しておけばよかった。棚の締結・固定などは一般のオフィス・事業所でも耐震対策としてよくおこなわれていることであり、金具類も容易に入手できる。東京電力は公式発表で地震時の棚の管理状況を明らかにしていないが、一般的な地震対策についても通常期待される管理(原子力施設に要求される高度なものでは無く、一般防災のレベル)すら放擲していたのである。

渡辺敦雄『東京電力株主代表訴訟における結果回避可能性に関する意見書』2019年3月14日

インフラ関係では復旧の記録を公開することがある。企業の姿勢を示すうえで大切なのは言うまでもないが、最初から固定しておけば訴訟で指摘されるようなことは起きない。冒頭で啓蒙書をダメ押しに引用したが、2000年代の感覚から言えば常識だろう。

【柏崎刈羽の被災時には明記され、福島第二は水平展開】

不思議で仕方ないのは2009年、電気協会から『その時、仲間たちは 中越沖地震・柏崎刈羽原発被災の真実』という本を出版しており、同書には前の節で述べた所員の自宅被害の他、キャビネット転倒から天井化粧板落下まで一通りの言及があり、啓発は特に重点的に行われていたことである。

P4849

引用箇所の記述と写真から、転倒防止対策を行っていたら変圧器の火災にも早く駆けつけることが出来たことが分かる。

福島第一は僅か4年前の自社教訓を生かさなかった。上記意見書では中越沖の例まで言及はしていないものの、原子力発電所とは思えない瑕疵を指摘することで、反論に加え、管理者としての防災意識も問うている。

比較して違和感を感じるのは、福島第二の事務本館ではこのような事態は起きていないことだ。

増田尚弘は(中略)震災当時は第二原発の所長として勤務していた。(中略)その日、所長室から離れた技術総括部で打ち合わせを行っていた。

(中略)増田は思わず身をかがめた。(中略)次の瞬間、建物全体が大きく揺れ始めた。
「地震が来たら机の下に隠れなさい」
子供の頃から言われてきた言葉が頭に浮かんだが、実際に入ったことなど一度もない。しかし、今回はまずいぞと思い、辺りを見回した。揺れは驚くほど大きく、長時間続いた。近くの部屋からは女性社員の悲鳴も聞こえてくる。すぐ前にあった机の下にもぐり込んだ。

(中略)中越沖地震の教訓からキャビネットなどはしっかり固定されていた。扉が開いて中のものが飛び出すということはあったが、ほとんど倒れていない。また、天井が崩れることもなかった。

「第一章 緊迫の四日間」『福島第二原発の奇跡』高嶋哲夫 PHP 2016年3月18日P26-27,P37-38

同書冒頭に言明されているが、著者の高嶋氏は原発推進派である。そのことを以って本書を価値がないかのように論評する人がいるが、こうした聞き書きがスタンスに影響されるとは到底考えられない。福島第二では棚の固定は行われていたので、一部しか倒れなかったのである。

余談だが、増田所長の描写からは学べることが色々ある。以前の振る舞いは褒められるようなものでは無かったが、学校の防災教育は言うことを聞かない生徒にも影響を与えていることである。こうした人はよくいるだろうから、気を付けた方が良い。

福島第二の場合、天井落下の報告も見当たらなかった。耐震天井をPRしていた桐井製作所の導入事例を見ると、2008年に福島第二原子力発電所で実施した旨の記述がある(後で一括して掲載)。柏崎刈羽の事務本館は1985年前後の築で、福島第二より数年新しく、1981年の新耐震基準を満たしいていたにもかかわらず大被害を被った。復旧に当たり、東電は柏崎刈羽で耐震天井を導入しており、その水平展開が福島第二の事務本館まで及んだのではないかと考える。

やや込み入った専門的な話となるが、 現状入手した情報から福島第二事務本館の耐震性についても考察する。

福島第二原発が組織として発足したのは1982年4月で1号機の営業運転開始と機を一にしている。同年6月24日には竣工式(『福島第二原子力発電所のあゆみ』2008年10月P84)。『原子力ふくしま』1982年7月号は当時の第二原発を内覧した記事があり、事務本館は竣工していた。

新耐震基準とは1981年6月1日以降に建築確認の通知書を受けている建物となる(昭和56年(1981年)以降の新耐震基準とは?旧耐震基準との違いについても解説

1年で設計を改めるのはかなりスケジュールタイトなので、第二の事務本館は旧耐震で建築された可能性もゼロではない。一般建築と見なした場合はそのように考える。

しかし、当時の原子力施設は実際にはワンランク上の耐震分類を「検討用」として掲げ、設計側も原子力関連施設の範疇に、事務建屋なども含めていた(『原子力発電所の耐震設計の考え方』武藤研究室 1983年3月P20,22-23)。武藤研究室は鹿島建設を通じてBWR陣営との関りが深い。福島第二の事務本館もこの考え方に倣っていたとすれば、建築基準法相当のCクラスではなく、Bクラス相当の耐震性を持たせて建設されたとも考えられ、その安全余裕が結果として1981年新耐震基準の建築物以上の耐震性能を持たせた可能性はある。

事務本館そのものの耐震性は電力会社も詳しく解説する機会が少ない。だが、常時多数の所員が勤務しているため、人命上からはその扱いについて丁寧な情報開示が必要となるだろう。

なお、他社の状況だが、女川原発の舞台裏を取材した町田徹『電力と震災』(日経BP 2014年2月)P29によると、東北電力の火力発電所の事務室でも棚が倒れていたそうで、やはりインフラ企業としてその点は甘かった。

一方で北陸電力志賀原発の中央制御室や中部電力浜岡原発の5号機では2008年には耐震天井を導入した。志賀原発は2007年能登半島地震で自動停止を経験し、浜岡は以前から原発訴訟でも大問題となり耐震強化で他のプラントより先取りしていたという背景があった。

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出典:天井の耐震対策>導入事例(桐井製作所HP)より2007-2008年頃を抜粋

福島第一の2代目事務本館が措置されていなかったのは、建築が中途半端に新しかったことによると思われる。天井の落下とその対策に関する研究記事は、2001年より前から投稿されているが、電力会社への納入が多い桐井製作所の導入事例は2006年以降であり、実用化が遅れたことが窺える。なお、初代事務本館の内部写真は見つからなかったので、内部をどこまで改装したのたかは不明。

当時の社内マニュアル(防災業務計画)では、緊急時対策本部の要員は免震重要棟に入るが、その他の所員は一旦屋外の避難場所に集合することになっていた(『福島第二原発の奇跡』P48)。そういう人の動きを見る限り、やはり固定は全館に展開すべき施策だろう。なお、2013年以降は国交省の動向もあり、桐井製作所以外にも多数のゼネコン等が天井耐震化を売り込んでいるのは、以前取り上げた記事に書いた通り。

東日本大震災以降も大きな地震が全国で続発しているが、対策をサボるなどして事務室で同じ様な被害を繰り返し、社員が死傷したら、安全配慮義務を問われ訴訟リスクとなる。また、その人が欠けることで原子炉の事故復旧も遅れるなどの悪影響にもつながりかねない。死亡者が出なかったとしても、ただ揺れが来ただけで通常の執務は不可能となってしまうし(危ないから当面入室不可なんて話になる)、所員への心理的打撃も大きい。しかし、転倒防止、天井落下対策を実施しておけば、これらの影響緩和にも益するところ大である。建築物の耐震改修に比較すれば遥かに容易であり、自宅の次に過ごす時間が長い場所でもある。だから、抜かってはならないのである。

2020年6月 5日 (金)

テレビ会議全盛時代に省みる福島原発事故-何故菅内閣に進言しなかったか-

コロナ禍においてプラスの効用を認められたものに、Zoomに代表される一般社会へのテレビ会議の普及が挙げられる(厳密にはWeb会議と言うべきだが)。

実は、コロナ禍になった後も細々と福島原発事故の研究を続けているのだが、今回発掘した資料と共に触発されることがあった。

【首相が東電本店に乗り込んで知ったテレビ会議】

福島原発事故発生から数日間、震災対応を行う首相官邸は不満がくすぶっていた。東電からの情報が中々上がらず、内容も要領を得ないものだったからである。

事態が好転したのは、3月15日朝に菅首相が東電本店に乗り込んだためである。一般的には、東電に対して撤退阻止の演説を行ったことが強調されてきた。当ブログの提案を読んだのかは分からないが、公開1ヵ月でネット配信に踏み切り、人気をものにした『Fukushima50』でも「首相のドタバタ」として描かれている。

だが、この出来事のハイライトはそこには無い。

映画『太陽の蓋』を見ると明瞭に表現されているが、東電が本店に設けた自社の対策本部には、テレビ会議システムの大画面が鎮座していた(知名度が低いのでAmazonPrime版へのリンクを貼っておく)。

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原子力防災訓練(本店における訓練状況)」東京電力HP(2015年3月18日)。 室内配置が良く分かる一枚。

菅内閣は東電テレビ会議の存在を官邸に詰めていた東電の武黒フェローから知らされていなかった。乗り込んで初めて「それ」を目にし、政府としても活用することにしたのである。

テレビ会議は東電の3原発に接続されており、かの吉田所長も参加していた。最初からこれを知らされていれば、ヘリなど飛ばす必要は無かった。

ここまでは、この事故を少しでもまともに学んだ人なら、おさらいに属する話である。

【何故東電テレビ会議は政府に知らされなかったのか】

しかし一部で批判されているように、テレビ会議の存在を武黒だけが伝達し得た、と無意識の前提に考えるのはどうだろうか。これが今回のテーマである(結果だけ先に述べると、官邸スタッフには実務に疎い政治家を補佐する責任があるが、テレビ会議の件ではその役割を果たしていない。この記事は以下でそれを論証する)。

東電テレビ会議の存在を伝えるだけなら高い地位の人物は必要ない。平社員、3種国家公務員などでも十分な仕事である。

政府事故調中間報告では次のように記されている。

b 情報収集の問題点
今回のような事態が発生した場合、原災マニュアル上は、原子力事業者はまずERC(引用者注:緊急時対応センター。経産省庁舎に設置され、原災本部事務局を担う)に事故情報を報告し、しかる後ERC 経由で官邸へ情 報が伝達されることとなっている。ERCには、3月11日の地震発生直後から、東京電力本店から派遣された四、五名の社員が常駐しており、 彼らを通じて福島第一原発の情報がERCへ伝えられていた。 当初、ERCに参集していた経済産業省や保安院等のメンバーは、東京電力からの情報提供が迅速さを欠いていたことに強い不満を感じて
いた。しかし、東京電力本店や福島第一原発近くに設置されたオフサイトセンターが同社のテレビ会議システムを通じて現場の情報を得ていることを把握している者はほとんどおらず、同社のテレビ会議シス テムを ERCへも設置するということに思いが至らなかった。また、情報収集のために、保安院職員を東京電力本店へ派遣するといった積極的な行動も起こさなかった。

東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会 中間報告本文P470
※下線は引用者による。

一方、政府事故調の記述が官僚・政府関係者に甘い傾向はこれまでも指摘されている。従って、今回は上記の記述の背景を検証し、テレビ会議が見かけの印象以上に普及していたことを示す。

通信技術の変化は激しいので、技術史として語る必要もあると感じて作成した。

東電テレビ会議はジャーナリストが公開を迫った経緯もあり、一方向から書かれたものが多い(典型例として、福島原発事故記録チーム 編『福島原発事故 東電テレビ会議49時間の記録』岩波書店 2013年9月(試し読み))。だが、今回は一味違うものに仕上がったと自負している。

【テレビ会議の実用化と電力会社への導入】

事故当日の話はここで一旦止めにして、テレビ会議の歴史を紐解いてみよう。

1960年代後半には、将来実現すべき技術目標として通信事業、放送関係者には認識されていたようだ。日本で商業化されたのは1984年のNTT(旧電電公社)が嚆矢。電力会社では、NTTと同時期に東電が本店とシステム研究所間で実用化した。こぞって導入し始めたのは1990年代前半からである。電力会社の場合、平時の使用の他、最初から災害時の使用を前提に考えていたことが当時の技術記事から伺える(参考文献一覧参照)。

ただし、東電は以下の記事から1992年の段階でもマイクロ波無線通信網と山間地対策の衛星通信を主としており、テレビ会議の使用を前提に入れてないことがうかがえる。

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「東京電力における防災対策」『電気情報』1992年3月P20より。

一方で1979年3月のスリーマイル島原子力発電所事故後、日本では、原子力安全委員会が52項目の対策事項を発表し、その38項目目で「緊急時連絡」として電話回線、それ以外の連絡方法を整備するように求めていた。52項目の対策の元になったのは『米国原子力発電所事故調査報告書,第2次』という文書で、私も青焼きを1回だけ読んだが、連絡方法の一例にテレビ会議を明記していたような記憶がある。

そのためか、東北電力が1988年に導入した第一世代のテレビ会議システムは小規模なものだったが、女川原発には当時から接続されていた。

【阪神大震災での使用】

テレビ会議が災害時に活用された初期の事例で記録に残っているものは、阪神大震災(1995年1月)である。

関電は震災に関して「阪神・淡路大震災における電力ライフラインの復旧について」、他数本の技術記事を投稿している。J-stage等で読めるこれらの記事は自社の通信網が使用できたので、神戸支店、本店との間の情報連絡を密にしたことは述べているものの、その伝達手段は特に言及していない。だが『153時間 阪神・淡路大震災応急送電の記録』というビデオを見ると、機能を維持していた社内電話の他、テレビ会議を開いている姿が映されていた。

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『153時間 阪神・淡路大震災応急送電の記録』(関西電力)より。本店と神戸支店(右側CRT)を接続。

なお、行政側でもNTTからの供与により、兵庫県と被災6市との間でテレビ会議システムを構築・運用したと記録にはある。

当時のテレビ会議システムは伝送にISDNを採用していれば「進んでる」と見なされた時代。画像は(当然)NTSC。東北電力の場合、CIFというビデオデータ向け映像フォーマットで、解像度は低かった(352X288)。

これはアナログテレビ放送(640x480)と比較しても3分の1の情報量だ。一般のテレビが株式市況の数値をずらりと並べて放送していたことから類推すれば用は足りたのだろうが、図表を映す場合に情報量の制約はある。2Kに満たない地上波デジタル報道(1440X1080)でも、細かいフリップを大画面に映し出せる現代では考えられないことである。技報や論文は未達成の課題をあまり語らないが、このことは宿題として残った。

【阪神大震災の教訓を取り入れた東電】

関電神戸支店は元々5階に対策本部を設けていたが、建物が損傷したため、急遽地下1階の食堂にテレビ会議他の指揮機能を移転した。

この教訓を取り入れ、東電は震災後、新橋の本店2階に常設の非常災害対策本部室を設け、テレビ会議用のスクリーンを設置した。高い場所は一般的に揺れが大きいということだろう。後年、福島事故でハイライトを浴びた舞台は、同業他社の被災経験に学んで生まれたのである。

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『とうでん』2002年3月号より。

上述の経緯から、少なくとも阪神大震災後は、テレビ会議を通信連絡手段に加えたものと思われるが、支店や発電所関係者でも、定期の防災訓練で連絡班等に割り振られたことのある社員は、テレビ会議システムを触ることになる。

【社内テレビの普及(参考)】

一方、社員への周知について忘れてはならないのが紙に残らない手段。1990年代は社内テレビシステム/テレビ会議システムの普及が年毎に伸びていた時期で、1986年10月に導入した東電もこれらを活用し、社内外に情報発信を恒常的に行っていた。こちらも参考に取り上げておく。

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上に引用したのは『とうでん』1994年10月号。社内テレビ設置台数は社員10人に1台の割で、管内くまなく配備されていた。テレビ会議に縁の無い社員でもこちらは確実に記憶にあった筈である。ネット隆盛以降なら社内HPに掲載するようなお知らせも、当時はテレビで行っていたと思われる。

また、社内テレビとテレビ会議のシステムを共通の技術基盤で構築する導入事例が論文に取り上げられていた。推測だが、東電もそうだったのではないだろうか。端末を共通化すれば、会議室に社内テレビを配置することで1画面限定の1:1の通信主体とは言え、テレビ会議が開けるからだ。本店の訓示などは社内テレビとして流し、A支店とB支店間で会議を行う場合は、テレビ会議システムとして使える。

以上より、電力会社にとって、テレビ会議システムは相当前から普及していた仕組みだったということだ。官邸・ERCに詰めていた東電社員にとっても、同じである。にもかかわらず、彼等は本店の社員とも異なる認識で動いていた。このことは後で触れる。

【通産省のテレビ会議導入】

なお、原子力推進官庁である通産省は本省と地方機関とを結ぶテレビ会議システムを1996年に導入し、災害時の運用を視野に入れていた。

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『電気と工事』1996年10月号より記事冒頭部。

上記記事に技術仕様の詳細解説が載っているが、会議室に50インチのCRTを3台も並べるなど、大掛かりなシステムだった。既に、H.320をはじめとする規格の標準化も進んでいたが、他省庁や民間との接続については特に書かれていない。

【中央防災無線網のIP化】

インターネットの商用化から数年するとテレビ会議にも90年代後半にはIP化技術が持ち込まれ、H.323という規格も整備され変わっていった。

主に日本無線の技報に基づき2000年代の政府関係の防災システム導入状況を概括すると、まず、内閣府防災担当の所管で、元々中央防災無線網というものがあり、基幹ネットワークと位置付けられていた。そして、2004年度からIP化を開始し、Webアプリやテレビ会議システムの利用も順次可能となっていった。また、中央防災無線網は官邸から各省庁、指定公共機関を接続するものとなっており、東京電力も含まれていた

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5.アナログ放送終了後の電波利用 5-2.自営通信の取組み」『映像情報メディア学会誌』2008年No.5
※ネットワーク構成図のみ引用。東電は中央防災無線網に直結。なお、自治体の防災無線は事実上動画伝送能力が無かった。

他省庁もこの流れに乗った。防災の主役となる国交省を例にとると、同省の東北地方整備局が発行していた『月報とうほく』にも、2005年度より情報通信技術課を設けて通信インフラ整備を進めるとある。

これは、全国に光ファイバ網を張り巡らし(一部他省と共用)、河川・道路の監視映像を本省に流したり、テレビ会議を行うことが目的だった。2006年の技術記事では「映像情報収集システム」と呼ばれ、既に実用に供されていたことが分かる。当時IP化されたカメラだけで全国に5000台。テレビ会議と併せて、それらを自由に取捨選択できる優れものだった。

更に「映像情報提供システム」を整備して地方機関からテレビ局に伝送回線の整備も行われていたという。このような努力があったので、テレビ局や官邸の危機管理センターに情報を配信することも可能だった。

ライフライン関係機関との接続も多岐にわたり、縦割りの超克が意識されている。

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関係機関との接続概念図「国土交通省の防災情報システム」『電気設備学会誌』2006年4月P22
※先ほどと同じネットワークを国土交通省から見た姿。IP化で動画伝送能力を整備していた。

上述の事情なら、官邸との間でテレビ会議を開けるように準備しておくことも造作もないことだったと思われる。

総務省が2000年代後半に設けていた「安心・安全な社会の実現に向けた情報通信技術のあり方に関する調査研究会」の「最終報告書(案)」によると、「旧式のネットワークは、音声、FAX、データ、映像等の伝送用途毎に独立して運用。複数映像伝送など災害対策のニーズに応じた柔軟な伝送に課題。」とされていた。しかし仮に容量上の問題があったとしても、国土交通省とテレビ局間に引かれたものと同様の専用線を、中央防災無線網と指定公共機関の間に引けば良かっただけである。

菅直人氏は回顧の中で、官邸と東電本店の距離の近さに改めて驚いた旨を述べているが、このことは延線工事の容易さを示してもいる。JR,NTT,電力など相手なら都心の本社・東京支社との接続になるからだ。

【新潟県中越沖地震(2007年7月)】

2007年7月に発生した中越沖地震では柏崎刈羽原発が被災した。この時、地震発生直後に発電所の緊急時対策室ドアが歪んでしまい、屋外に対策本部を仮設せざるを得ず、新潟県からの要望もあって免振重要棟の建設に繋がったことはよく知られている。だが、ドアをこじ開けて3時間後には緊急時対策室で執務可能となったことはあまり知られていない。朝日新聞『生かされなかった教訓』には9月のプレス公開写真が載っており、室内にモニタらしきものはある。

また、本店2階の非常対策本部には多数の社員が詰めていたが、新聞社が出版した書籍2冊を読んでもテレビ会議システムの描写は無い。当時朝日新聞で原発取材を担当していた添田孝史氏にもメールで尋ねたが、記憶にないとのことだった。

どうも後述の『とうでん』を読むと、テレビ会議は有効に機能しなかったようである。

一方、新潟日報の取材によれば、原子力安全・保安院の現地事務所は職員2名を発電所に派遣したが、渋滞で到着に2時間40分を要した。つまり、到着後間もなく緊急時対策室が使用可能となった。推測だが、検査官は室内を目にしており、本店との連絡方法について所員と会話したと思われる。

だが、原子力安全・保安院は中越沖地震の教訓化が出来ず、後述するオフサイトセンターのように電力会社のテレビ電話・テレビ会議回線を現地事務所や東京に接続することは無かったようである。もし、接続していれば、政府事故調は上記のような記述とはならなかっただろう。

言い換えると、政府事故調もまた、中越沖地震がテレビ会議システム拡大の機会だったとは見なしていないのである(何も触れてない)。

更に問題なのは、武黒がこの地震で得た教訓を社員にどのように伝えたのか、である。

武黒は中越沖地震対応で柏崎に駐在するなど、防災対策の中核におり、その考えは『とうでん』を通じて全社に広報された。

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『とうでん』2007年10月より冒頭引用。社内に顔が知られていたことを示す一枚。

既に忘れている方が多いと思うが、中越沖地震では屋外の変圧器火災が発生し、テレビ放送で強烈な印象を与えていた。武黒は上記インタビュー記事の後半で課題と教訓として次のように述べた。

社会のみなさまが原子力発電所で火災が発生したと聞けば、大きな事故が発生したのではないか、大きな事故に発展するのではないか、と不安に思われるのは当然のことだと思います、そういった不安を解消するためにも、円滑かつ適切な情報提供ができるような仕組みを構築していきたいと思います。

(中略)メディアでは、どうしても目に見える被害が発生した箇所の映像を中心に報道されますが、発電所全体としては、そのような部分は一部であって、重要な部分は健全性を確保しているということをご覧いただけるようにしていただければと思います。

今回の記事では武黒の心理を掘るのは主目的ではないが、彼と少なからぬ東電社員達が黙り始めたのはこのような「教訓化」が影響していると思う。だから中越沖地震後も東電は政府とのテレビ会議システム直結を織り込むことはなかった。

その後、福島原発事故が起きるに至るが、2011年3月12日15時半に原子炉建屋が爆発してからは、武黒もそれまで黙っていた手前、システムの存在を伝える機会を逸したのだろう。

武黒のそのような行動は、後述するように、実は、東電本店と比べても異質となっていたのであるが。

【原子力防災訓練(2007年10月)】

さて、福島第一・第二周辺での原子力防災訓練が初めて開催されたのは1983年のこと。1991年以降は毎年開催された。予定調和と揶揄されることの多いイベントだが、実務者に仕事を覚えさせるという観点からは、それなりの意味はあったものと考える。

2007年の防災訓練は『とうでん』の12月号で特集されていた(下記。クリックで拡大)。

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訓練ではオフサイトセンター、発電所の緊急時対策室、本店を結ぶテレビ会議を構築した。中越沖地震の教訓を取り入れることに重点が置かれ、本店を交えた接続はこの年からとのことである。また、初期対応支援チームのヘリを本店から飛ばすことも行っている。

福島事故の日、菅首相に先んじて武藤栄副社長が福島にヘリで急行したのだが、それはこのシナリオに沿ったもので、発電所がヘリを受け入れる体制は想定内だったのだ。それが政府のヘリに代わったところでどうということは無いだろう。

また、この訓練には当時の副社長だった武黒も参加し、模擬記者会見を行っていた。

【原子力防災訓練(2008年10月)】

2008年10月の防災訓練では首相官邸とのテレビ会議が行われた。県庁かオフサイトセンターに接続したと思われる。

当時は自公政権の麻生内閣、経産大臣は二階俊博。状況から考えて大臣達は顔見せに過ぎなかっただろう。二階は、共産党の吉井英勝議員の津波質疑を受けて立った経産大臣でもあるが、小泉政権以降特に目に付くようになった自民党閣僚の例に漏れず、社会に対する見方がぬるいのではないかとも思っている。

それは、2020年春のコロナ禍において世界中がロックダウンする中、「人との接触を8割削減」という目標を示され、つまらなさそうに「出来る訳ない」と答えた姿に端的に表れている。

【原子力防災訓練(2010年10月)】

2010年の原子力防災訓練は10月に福島第一で行われた。テレビ会議は県庁、オフサイトセンター、各市町村役場、原子力安全保安院と接続している。オフサイトセンターには事業者ブースにテレビ電話を設置して、発電所と本店との連絡調整に使用したとある。

訓練は第三者機関として、JNES(原子力安全基盤機構)が評価を行った。JNESは保安院から業務移管を受けて成立した独立行政法人であり、過去の経緯から電力会社からの出身者も多かった。つまり、電力社員としての経験から、テレビ会議システムの存在を知っているJNES職員はおり、彼等と密接に仕事をしている保安院へも伝わっていたと思われる。

技術的トピックとしては、東電のテレビ会議システムが6月に更新され、社外接続を視野に入れていた。また、ハイビジョン画質の端末を使用することで表情やホワイトボードの文字読み取りがし易くなったという(『とうでん』2010年7・8月号)。H.323に準拠するのは最低限の条件として、それ以外にも公衆回線で使用出来ることなど、システム的に整えておくべき要件があったらしい。

なお、国会事故調本文の「東電の社内テレビ会議システム」という節を読むと、端末の移動を容易に行い、福島県庁や官邸に持ち込んだことが記されており、更新の目的である現場からの映像伝送能力を活用していたことが分かる(官邸への持ち込みは、菅首相の東電本店乗り込み後)。

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『とうでん』2010年7・8月号より。クリックで拡大。

ただし、この頃の東電は以前と異なり、導入一番手ではなくなっていた。

ハイビジョン画質(HDTV,解像度1280X720)で、異なる会社のテレビ会議システムに接続可能なパッケージは、中国電力がノルウェーTANDBERG社(当時。2010年、Ciscoに買収)のシステムを2007年までに導入していた。

2009年になると、東北電力が1994年から運用していたISDN回線による第二世代のシステムを、やはりTANDBERGのフルハイビジョン(2K,解像度1920X1080)の第三世代に更新し、メディアにも露出していた。同社のシステムは災害運用を前提に、インターネット、携帯電話回線等との接続を謳い、現場からの映像配信も視野に入れていた(もっとも、こうした機能は当時としては一般的なソリューションである。テレビ会議関連技術論文・記事を検索すると汎用PCを用いたコスト削減に関するものや、日経BP社によるサービス多様化等の取材記事などが散見される)。

東電が更新したシステムはハイビジョン。システム構成などの見えにくい部分は別としても、対外発表する程の技術的新規性は無かったのだろう。オノデキタ氏が語る「技術に輝く東電」は、彼が在職していた1980年代の姿に影響された見方なのである。

日経コンピュータの取材に対し東北電力は「災害時の情報共有では、現場の緊迫感や切迫感を伝えることも重要だ。社員の目つきを見れば、彼らに余裕があるのか、事態がどれほどの緊急性を帯びているかが伝わる。テレビ会議システムを高画質化することで、現場の臨場感も伝わるようになる」と述べている。「表情の分かりやすさ」は東電も意識していたのは上述の通り。この頃は電子メールも行き渡り、何年か過ぎているので、動画に付加価値を付けるための流行りだったのだろう。

だが、公開された映像は専ら室内の俯瞰で撮られている。フルハイビジョンの画質でも、表情を読み取ることには活かせなかったのではないか。本店に正しくニュアンスが伝わったのかは、考察を深める余地がありそうだ。

【行政側のテレビ会議導入状況(2009~2010年)】

ここまで読むと、菅内閣(政治側)だけが、知らずにいたということになる。副大臣クラス以上となると、仕事のやり方に古さが残るのは仕方がない。海外でもIT導入期に似たような話はあった。上述の通り、官民のスタッフが補佐する話である。

コロナ禍で台湾のIT大臣が注目を浴びているが、安易に真似ても原発事故が提起したもう一つの問題、「専門バカ」を頭に据えただけの結果に終わると思う。ネット黎明期からそうだが、Twiiterを見ていても、老若男女・思想の左右を問わず、IT関係者には知識の優位を無闇に誇示したがる浅はかな人物が非常に目に付く。それも最近は「メールを使える」「エクセルを編集できる」「SNSをやっている」、なのに老害は使えないなど、下らない話ばかり。

とは言え、政治家が本当にテレビ会議を利用した事が無いかと言うと、違ったのである。儀式的な利用機会は増えていた。

以下、Twitter上より報道発表とそのRTを示すが、存在感は急速に高まっていた。

 鳩山、続いて菅首相も度々使用していた

『Fukushima50』の小説版で言及されている浜岡での防災訓練でもテレビ会議を儀式的に行っている。

産経新聞に掲載されたと思しき首相動静を見ると、やはりこの年も、首相は15分だけ出席の儀式的なものだったようだ。なお、9月1日(防災の日)に行われる総合防災訓練では会場の伊東市を往復していた。官僚組織も歴史的経験に基づきスケジュールを組んでいるようだ。

有用性は各方面で認知され、2010年11月には全国の自治体で導入することとなった。

東電事故調は最終報告書で次のように述べた。

報道では、官邸のTV会議システムは使用されていなかったとされているが、それが事実でシステムが活用されていれば、当社は原子力安全・保安院へ要員も派遣して情報を提供しており、より早い段階で官邸の政府首脳は情報を入手でき、より的確な対応ができたものと考える。

政府と距離を置く立場の国会事故調もこの点は東電事故調と一致している。中央防災無線網を通じて接続はしていたのだから、事実だろう。

このことは東電テレビ会議でも確認できる。3号機が爆発した3月14日11時の映像には「官邸もリアルタイムでつないでおいて」と要請する声が収録されている。菅首相来店の前の日の話だ。本店の社員達の意識は切り替わっていたのである。

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「音声はわずか30分・・・初公開も「まだ隠ぺい」」(FNNニュース 2012年8月6日頃)より。(録画よりキャプチャー

※東電は「本37-1」という番号を振って公開(URL)。FNNは短縮編集しており、「官邸も」の後に別の人物の発言が10数秒挟まるが一文としてはこれで成立している。発話者は小森常務と思われる。OurplanetTVによる編集版ではカット。オノデキタ氏の解説(2014年10月21日。20分30秒付近から)でも触れていない。

澤昭裕氏は、指示の名宛て人を明示せずに「○○という作業、誰かやってくれ」と発話する場面が多いことなど、技術以前の基本的な進行の不味さを挙げていたが、この発言も正にそれで、しかも他者の発言に被されて伝わらなかったのである。

私がこの件で官邸スタッフに厳しく、政治家に同情的なのは、実務家とは一線を画す職能上の問題からだ。機材をセッティングする訳でもなければ、会議の開催準備をするでもない。それは彼等の仕事ではない。事故後にこういった防災訓練での振る舞いに触れて、菅内閣を難詰する自民党議員も現れたが、二階氏を見ればわかる通り、同じ穴の狢なのである。

【官邸に詰めていたスタッフ達の責任】

一連の記録を読むと、官邸に詰めていたスタッフとその周辺者は次のようにまとめられる。

  • 原子力安全・保安院:職員達は電力会社がテレビ会議を使ってるとよく知っていた。
  • JNES:電力会社出身者はテレビ会議の存在を知っていた。
  • 官邸地下危機管理センター:自らが中央防災無線網とテレビ会議を運用する立場にあり、思い至って当然だった。
  • 他省から内閣府への出向者:自省のシステムから、存在を類推可能だった。

「思いが至らなかった」という政府事故調の言葉から受けるよりずっと蓋然性が高い。ルーチンワークを崩したくないとか、「サヨク政権」への政治的な反感から意図的に黙っていたのではないだろうか。

【東北電力とのシステム接続も無し】

残された疑問は他にもある。

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【参考資料】当社テレビ会議システムの構成イメージ」(東京電力HP、2012年8月9日)

福島事故時の東電テレビ会議システム構成を示す。良くできている図で、繋がってないものを考える役にも立つ。政府の他にあるべきものは何か。

同業他社、殊に福島を管内とする東北電力である。

東北電力も東日本大震災発生時には上記の新鋭テレビ会議システムを縦横に活用したが、東電とは接続していなかった(直ちに接続したという情報を持っていないので、そのように判断している)。

その弊害はあった。福島第一に一番乗りした電源車は東北電力が福島県内の営業所に配置していた4台で、3月11日22時の到着だった。東電の電源車より2時間以上早かった。だが、東北電力の電源車は活用されなかった。瓦礫に邪魔されたことが理由とされているが、その瓦礫は下請の重機により急ピッチで撤去が進められていたので、本当の原因は事前の擦り合わせ不足だろう。

東北電力福島支店と福島第一間でシステム接続をしていればそのようなことは無く、建屋内の給電がより早期に復活したかも知れない。電気が来ると、電動弁(MO弁)やポンプの制御が回復し、計器の読み取りも可能となり、照明が灯る。ベント作業一つとっても、空気作動弁(AO弁)は人の操作に頼るままだとしても、MO弁の突入部隊が不要となり、明かりも取れて作業負荷は大幅に軽減される。

事前準備で事無きを得たから良かったものの、日本原電東海第二原発ともテレビ会議システムの接続をした記録はない。もし何かあったら、通信連絡上も福島を上回る問題を生じていた可能性がある。

事故前に、業界団体の電気事業連合会や原子力安全・保安院が音頭を取ろうとしていたのかは、そういう観点から調査をした人がいないようなので、分からない。事故後、反反原発活動に勤しむITオタク達をネット上でよく見かけたが、彼らは別に何か調査をしてくれる訳でもないので、役に立たなかった。

だが、東北電力がシステム更新をした際、エネルギーフォーラムの取材に対して「災害時に他電力同士がテレビ会議に参加することで復旧への迅速な対応化が図られるのではと期待しており、そうしたシステムの連携に向けた検討を進めていきたい」とコメントしていた。その後、水面下では隣接会社の東電と技術仕様を擦り合わせたと考えられ、要は宝の持ち腐れに終わっていたのではないかと思われる。

2013年に原子力規制庁が導入したテレビ会議システムが、多数の電気事業者と接続するように作られたのは、このような背景に基づいている。

【もし、東電テレビ会議が最初から菅内閣に知られていたら】

官邸が初動から東電テレビ会議を知っていたとしても、できることと、できないことがある。例えば、電源車。3月11日深夜にプラグが電源盤と合わないという話があったが、これはテレビ会議があっても解決できない。震災の前に繋がるかどうかチェックしておくことが必要である。

また、電源車を遠方から呼び寄せるとタイムラグが生じ、メルトダウンには間に合わない。あらかじめ発電所に配置して、移動時間を省く必要がある。これも、テレビ会議では解決できないことだ。

しかし、避難誘導や注水資機材提供の面で、より迅速で的確な連携が望めたことは疑いない。条件が良ければ上述のようにベント作業にも好影響を与える。

【おわりに】

主要4事故調の報告書が出揃って8年、どうして今日に至るまで、テレビ会議での会話にばかり注目が集まり、「使われ方」について技術面を含めての再検証が無かったのだろうか。私も全ての文献に目を通せたわけではないが。例えばテレビ関係者ならむしろ得意分野だろうと考える。

それをせず結果責任を「東電の武黒」のみに押し付けることは、高級官僚に留まらず、東電の一般社員や官吏の言い分を鵜呑みにすることと同義である。彼等の不作為はもう少し深堀の必要がある。

特に3月14日に東電首脳が「政府とリアルタイムでの接続」を求めていたことは重要である。それが失敗したために初動が更に遅れ、事故調相手には言い分と情報の小出しに終始した。対して、無知だった官邸の政治家は本店に乗り込んだことで速やかに事態を改善し、情報インフラのポテンシャルを引き出すことに成功した。結論として、「イラ菅」は役に立ったのである。

【参考文献】

情報検索の際は「テレビ会議」の他、「TV会議」や「ビデオ会議」を併用すると良い。

・斉藤良博「東京電力におけるテレビ会議システムの検証実験について」『テレビジョン学会技術報告』1987年11月

・「社内テレビシステムが店所へも拡大」『とうでん』1988年4月P17

・鹿志村修, 矢原義彦(北海道電力)「ISDNテレビ会議システム」『テレビジョン学会技術報告』1992年16巻54号

・山口昇「中部電力における画像伝送システムの導入と活用」『テレビジョン学会技術報告』1994年18巻48号

・「特集 東響電力の?を探る」『とうでん』1994年10月

・山本益生「電力会社における設備監視システムの現状と今後の画像利用」『テレビジョン学会誌』1995年3月

・臼田修「阪神・淡路大震災における電力ライフラインの復旧について」『電気学会誌』1995年9月

・「特設記事1 官庁のテレビ会議システムを見る ①通商産業省の設置導入事例」『電気と工事』1996年10月

・「2-05.都市基盤・サービスの復旧 【05】電話の復旧」『阪神・淡路大震災教訓情報資料集』(PDF)内閣府防災情報

・「特集”ライフラインを守る”という使命を果たすために PART1 当社の防災対策を知る」『とうでん』2002年3月

導入事例詳細 CASE STUDY 中国電力株式会社 様(株式会社 メディアプラスHP)

・「国土交通省の防災情報システム」『電気設備学会誌』2006年4月

・「タンバーグが対面会議と同等の臨場感を得られるテレビ会議製品」『日経コミュニケーション』2007年2月20日

・「特集 新潟県中越沖地震に負けない PART3 この難局を乗り越えるために何をすべきかを明確にして業務に取り組んでほしい」『とうでん』2007年10月

東北電力がフルHDのテレビ会議システムを導入、122拠点に配備(日経コンピュータ 2009年3月2日配信)

・新潟日報社 特別取材班「第1章 止まった原子炉」『原発と地震―柏崎刈羽「震度7」の警告』講談社 2009年1月

・「東北電力 テレビ会議システム革命!社内コミュニケーションの高度化へ」『エネルギーフォーラム』2009年5月

・「東北電力、タンバーグのHD対応ビデオ会議シ ステム導入」『CNA Report Japan』Vol.11 No.21 2009年11月15日

・『平成22年度 福島県原子力防災訓練の記録』福島県

・「第1章 柏崎刈羽原発が揺れた」『生かされなかった教訓 巨大地震が原発を襲った』朝日文庫 2011年6月文庫化

・「防災行政無線システムの変遷」『日本無線技報』2011年

・「15.2 事故対応態勢」『福島原子力事故調査報告書 本文』(東京電力 2012年6月20日)

・「3.2.4 情報共有におけるツールの活用状況」『国会事故調 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会 報告書』2012年7月5日

・菅直人「第一章 回想 東電本店へ乗り込む」『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』幻冬舎新書 2012年10月

・「原子力発電所事故時の組織力とは —「検証 東電テレビ会議」(朝日新聞出版)と公開画像—」澤昭裕Blog 2013年1月8日

・町田徹「第二章 創業」『電力と震災 東北「復興」電力物語』2014年2月
 ※東北電力のテレビ会議対応、電源車派遣について参照。

・共同通信社原発事故取材班「第二章 爪痕」『全電源喪失の記憶』(2015年3月単行本の文庫化。2018年3月)
 ※3月11日夜の瓦礫撤去について参照。

テレビ会議システムの歴史をわかりやすく解説!(ITトレンド、2020年3月4日)

CIF(Common Intermediate Format) とは(Web会議・テレビ会議システムのLiveOn > 用語集,ジャパンメディアシステム株式会社)

・鈴木康人「ISDN(INS)とは|ISDNの歴史と終了の背景を解説」(トラムシステムHP)

学識者、原告団等で参照資料必要な方にはPDFを提供する。

直接の参考にしたのは上記だが、この他にも情報通信関連の文献を色々読み返したり調べたりした。私事ながら、日本データ通信協会が推奨する資格スキル維持の役にも立った。

※2020年6月6日:FNNニュースより本店の認識を追記。

※2020年6月11日:エネルギーフォーラム記事および澤昭裕Blogの内容を反映。

※2024年9月25日:関係の薄い文章を削除、表現修正。最終部分を「おわりに」節にする。

2020年3月17日 (火)

【Fukushima50】吉田所長の津波無視を庇う門田隆将の話には嘘がある【原作者】

【『Fukushima50』は何故批判されるのか】

3月6日、シネコン各社が一席空けて鑑賞するように注意喚起する中、映画『Fukushima50』が公開された。本作に限らず「コロナ不況」で観客の出足は極めて低調だが、最初の土日は動員トップだったようである。

本作について、作り手は「どちらにも偏らない」といったお決まりの文句で宣伝を図っているが、ここ数年の原作者の極右化や、映画化を提案した故津川雅彦氏(公式パンフレットによる)の所業等から、原発関係者を翼賛するため右派が企画したことはばれてしまい、猛烈な反発を受けている。

反発を受けている理由は色々あるが、最も大きいと考えられるのは次の2点。

  1. 吉田氏が、事故前に本店で原発津波対策の責任者として、大津波の想定を先送りした当事者であることに触れていない。
  2. 日本原電の東海第二原発や東北電力の女川原発が津波想定・対策をして事故を回避した事実に触れていない。

これを無視して話を組み立てても、全て無駄だし、マイナーな話でもないのですぐにばれる。

「現場のことを知ってください」といったPRも傲岸だろう。「だったら東電のロゴ位正しいものを使え」と言いたくなるし、現場を取材した人は沢山いる。その言動自体が「門田だけが現場を知っている」かのような商業臭の強いものだ。

とまぁ、色々と論点はあるけれども、今回は門田氏が本店時代の吉田所長をどのように見ているかを検証する。昔からのブログ読者にとってはおさらい記事となる。

【「偏った意見」と「嘘」の違い】

本題に入る前に、普段から思っていることがある。

偏った意見を述べている人は、嘘つきなのだろうか。

ざっくり議論する程度なら、嘘つきと表現することも差し支えないと思う。万国共通で世の習いだから。しかし厳密に解釈すると-イメージとしては相手を裁判にかけるとか、学術レベルで検証するといった場面を想像すれば良いのだが-嘘つきとは言えない場合がある。

今回の門田氏が正にそれで、不都合な事実を述べなかったとしても、厳密には「考え方が東電に偏っている右の人」となる。彼を批判する添田孝史氏がHBOLに投稿した記事の題名も「福島核災害を「美談」に仕立て上げた映画『Fukushima50』が描かなかったもの」である。

勿論、偏った主張だけでも、社会的には問題だ。簡単に言えば、大量殺人犯がたまたま日常生活では親切な人だったからと言って、そこだけを取り上げて善人だと言い張ったら、大変な事だろう。だが、政治・社会問題ではこの手の印象操作は頻発する。

だから、今回門田氏の主張を精査し、氏が都合のいい事実だけ取り上げているのみならず、主要な部分で嘘が混じっていることを示す。

【「大胆な計算法」は本当か】

上述のように、門田氏は『死の淵を見た男』で本店時代の吉田氏を描かず、『Fukushima50』でもそうなっている。私はコロナウイルス予防のため、映画を見ることが出来てないが、クランクアップ時の記者会見、予告、有料パンフレット(結構ボリュームはある)、周木律氏によるノベライズ版をチェックした。いずれも本店時代の描写は無く、津波は「想定外」とされている。映画を見た人達の報告も同じである。

実は門田氏は原作出版後、本店時代の吉田氏について文章を公開していた。核心部分を引用する。

いま、吉田さんが「津波対策に消極的だった人物」という説が流布されている。一部の新聞による報道をもとに、事情を知らない人物が、それがあたかも本当のようにあれこれ流しているのである。

私は、吉田さんは津波対策をきちんととるための「根拠」を求めていた人物であると思っている。新聞や政府事故調が記述しているように、「最大15.7メートル」の波高の津波について、東電は独自に試算していた。これは、2002年7月に地震調査研究推進本部が出した「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という見解に対応したものだ。

そもそも、これはなぜ「試算」されたのだろうか。これは2008年の1月から4月にかけて、吉田さんが本店の原子力設備管理部長だった時におこなわれたものだ。

それは実に大胆な計算法だった。どこにでも起こるというのなら、明治三陸沖地震で大津波を起こした三陸沖の「波源」が、仮に「福島沖にあったとしたら?」として試算したものである。

もちろんそんな「波源」は福島沖には存在しないので、「架空」の試算ということになる。だが、それで最大波高が「15.7メートル」という数字が出たことによって、今度は、吉田さんは、これをもとに2009年6月、土木学会の津波評価部会に対して波源の策定についての審議を正式に依頼している。

つまり「架空の試算」をもとに自治体と相談したり、あるいは巨額のお金を動かすことはできないので、オーソライズされた「根拠」を吉田さんは求めていたのである。この話は、私は3回目の取材で吉田さんに伺うことにしていたが、その直前に、吉田さんは倒れ、永遠にできなくなった。

故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」(門田隆将公式ブログブログ「夏炉冬扇の記」2013年7月14日)

この見解はその後、対談や吉田調書に関する単行本などでも踏襲されている。

「大胆」という言葉の意味をネットの国語辞書で引くと「普通と違った思い切ったことをするさま。」とある。

これに照らすと先の引用で下線を引いた部分は嘘である。考え方に新規性が無く、ありふれていたからである。それを時系列順に挙げていこう。

【「架空の津波」を対策に活かした先達の知恵】

そもそも、大津波が何故起きるのかというと、学校で習ったプレートの沈み込みをイメージしてもらえば良いが、プレート境界となる海溝沿いで大規模な地滑りが起こり、大量の海水が上下に動くから、である。明治三陸津波は岩手県沖の日本海溝で起こった。日本海溝はその南側にずっと続いているから、同じような地滑りで同じような津波が起きるだろうと言うことは、プレートテクトニクスに沿った考え方としては常識だった。勿論、日本海溝ばかりではなく、簡単に言ってしまうと世界中の海溝で同じような津波が起きる恐れがあると考えられていた。

だから、明治三陸地震の波源を他の領域に移して津波シミュレーションを行うことは、1980年代から行われていたのである。

Mymiyagi1988hikaku_2

  • 「津波に関する研究 その2」(1983年)についてはこちらの記事で詳説
  • 「宮城県津波被害想定調査」(1986~1988年)についてはこちらの記事で詳説

いずれも、明治三陸の波源を南に移設したシミュレーションである(精度に問題があったり、規模を小さくしたことで、15.7mに匹敵する波高を福島沖で得ることは出来ていない)。なお、電力業界全般としては、やはり同時期に津波シミュレーションに手を出していたが、東電は当時の技報を全て非公開としているので、社外のシミュレーションを見てどんな試算をやっていたかは闇のままである。普通の企業なら古い技報位は公開しており、子会社を含めてお蔵入りを続けている東電の姿勢は異常だ。

ともあれ、東電が試算する25年も前に公開されている計算法は、全く「大胆」ではない。

「門田氏が言い過ぎたにしても架空は架空だったろ」と粘る人もいると思う。

しかし、そのうちの一つは宮城県が防災のために行った津波想定である。2000年代の津波想定では別の波源に代わったが、それまでは門田氏の言う「架空の波源」が津波対策を講じる根拠になっていた。

門田氏が紹介している2002年の地震調査推進研究本部の考え方も、これに沿ったものだ。

また、土木学会は2004年に福島沖で地震が起きるか専門家などにアンケートを取ったことがあるが、添田氏によれば、その時も多数派は起こると考えていたことが明らかとなっている(『原発と大津波』P78~P79)。

更に、2004年に発生したスマトラ沖地震津波を他山の石として、国土交通省は5か年の緊急対策を立案、その根拠には日本海溝沿いのどこでも大規模な地震津波が起きる、という前提に立ち、GPS波浪計配置や閘門管理システム等の予算を執行した。

GPS波浪計広域配置計画の検討で利用する断層条件は次の通りとする。

(1)日本海溝沿いの地震断層
日本海溝沿いのプレート間大地震は 1611 年三陸沖、1677 年房総沖、1896 年三陸沖が知られており、大きな津波を引き起こしている。地震調査研究推進本部の長期評価によれば、これらの地震は同じ場所で繰り返し発生しているとは言いがたいとのことであり、配置計画を検討する際の想定断層は、三陸沖から房総沖の日本海溝沿いに海溝軸に沿って並べて配置する。

 

Kokukou2005tsunmitohokufig213

本編1 P2-24(リンク)(平成17年度国土施策創発調査費 津波に強い東北の地域づくり検討調査

見ればわかるように、地震研究推進本部の長期評価をそのまま引き継ぎ、M8級断層が日本海溝に沿って房総沖まで切れ目無く直列に想定されている(本件についての詳説はこちらの記事)。

この他、日本原電が「根拠は十分」と判断して如何なる学会にも諮らず、津波対策を実施していたことは上述の通りである。

実は、日本原電に津波対策をするように働きかけたのは、茨城県だった。茨城県は中央防災会議が「根拠が薄い」と捨てた波源を使って津波シミュレーションを実施し、県内の原子力施設に危険を感じたのだった。県の考え方は事実上「架空の試算」に頼ったようなものである。

また、東電社内にも「津波対策をきちんととるための根拠を求めていた人」より積極的に立ち回った人がいた。津波想定の実務を担当した社員(高尾誠氏、原子力部土木調査グループマネージャー)や、高尾氏より高い役職についていた山下和彦氏である。彼等は、15.7m想定を弾き出した時点で津波対策に乗り出すべきと考えており、一旦は経営陣もその方針で動いていたが、2008年7月に上層部の「ちゃぶ台返し」で葬られたことが裁判で開示された資料により明らかとなっている。彼等に比べれば、吉田氏は地震津波の知識も無い只の消極的なおっさんに過ぎなかった。詳しくは、LEVEL7での添田氏の公判傍聴記や取材レポートを参照されたい。

【まとめ】

門田隆将氏が吉田氏を庇おうとして主張した内容は嘘だったと言える。

今回引用した文章全体の意義も崩れてしまう。「それは実に使い古された計算法だった」では締まりがない。

関連して冒頭の「事情を知らない人物が、それがあたかも本当のようにあれこれ流している」も実際は「詳しい内情に基づく本当の話」であった。端的に言えば添田氏の方が門田氏より詳しい。「『架空の試算』をもとに自治体と相談したり、あるいは巨額のお金を動かすことはできない」も事実に反しており、結局門田氏の主張は嘘ばかりだった。

氏は右派論客として原発事故以外にも様々な物議を醸している。そのことは別の場で批判されてきたし、これからも続いていくだろう。だからここで腹いせ的に「歴史や政治で問題発言をしているので、よく知らないが原発でも嘘つきに違いない」といった雑駁なことを言うつもりはない。しかし、きちんと検証してみても吉田所長の件では、氏の主張に信憑性は無いと考える。

2019年8月18日 (日)

元東電木村俊雄氏が提起した炉心流量問題を考える

前回記事「木村俊雄氏の文春記事に書かれた「炉心専門家」を嘲笑する人達」は元東電の木村俊雄氏に対する外形的な部分での嘲笑を批判した。

今回は門外漢なりに、その内容について検討してみたい。

【1】木村氏が指摘した炉心流量の問題とは

まず流量の計測方法を説明しておく。原子炉圧力容器の中にはジェットポンプというものがある。一般的なポンプのイメージとは異なり、ラッパ丈の直立パイプで、20本が圧力容器内壁に取り付けられている。このジェットポンプを直管として利用し、差圧を測ることで炉心流量を求める。流量計は、直管上下の差圧を見ているのだ。

木村氏の主張は当初は炉心流量のデータが開示されていないことの指摘だった。現LEVEL7のジャーナリスト木野龍逸氏等の助力でデータが開示された後は、内容を吟味した。

BWRは、定格出力で運転中は再循環ポンプを回し、圧力容器内の水を入れ替えている。これは、沢山の水を送り込むことで、膨大な熱を取る仕組みと考えてよく、強制循環という。地震などで安全のために原子炉を停止すると、強制循環の必要も薄れるので、再循環ポンプは止める。これをランバックと言う。ただし、圧力容器内は上と下で温度が異なるので、自然な水の対流が残り、燃料の崩壊熱を除去するのに一役買っている。これを自然循環と言う。

311の時も、原子炉が緊急停止した際、数十秒で自然循環に移行した筈だったのだが、木村氏は公開されたデータから炉心流量がゼロとなっていることを読み取り、1号機では津波到達前に小破断LOCA(冷却材喪失事故。配管に小さな亀裂が入って水が抜けてしまう事故のこと)が起きていた可能性を主張した。これが『科学』2013年11月号に掲載され、この頃の講演動画で詳しく説明された。

新潟県が設けた技術委員会でも木村氏の主張は取り上げられたが、東電の回答は、炉心流量が地震発生直後にゼロとなったのは、少ない流量表示をローカット(0と表示すること)したからで、水が抜けたからではありませんよと反論している。これが2015年から2018年頃のことだ。

その後、東電訴訟の一つ、いわゆる田村訴訟で新しい情報を入手したので、『文芸春秋』2019年9月号への記事掲載に至った。ただし全体の論旨構成に大きな変化はない。

今回は、この問題を論じる。前半は工学的な取り扱いが中心だが、後半は社会問題への適用について述べる。

【2】計測機器とローカット

一般に電気電子計測の分野では、「通常」使用しない範囲に数値が来ることを考えなかったり、少量のノイズにより指示値がぶれるのを嫌う。特に7セグのデジタル表示の場合は見た目にもコロコロ数値が変わるので嫌われる。そのため、ローカット(ある閾値以下は強制ゼロ表示)にする傾向がある(「ローカット機能とは」『用語集』株式会社ソニック)。

計測機器メーカーの仕様・取説などでもしばしば登場する(例:『デジタル微差圧計MODEL KS-2700シリーズ取扱説明書』株式会社クローネ P4,P12)。

原子力業界が突然持ち出してきた「謎の概念」ではない、ということである。

【3】東電のローカットに関する説明を読み解く

東電は新潟県技術委員会のために作成した以下の2本のスライドで「低流量域では、わずかな差圧誤差で大幅な流量誤差が生じる」ので「10%フルスケール以下の値はゼロとみなす」と説明している。

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これを、差圧式流量計(オリフィス式流量計)の一般的な説明とクロスチェックしてみよう。

差圧式の理解を深めるため、この形式の弱点とされるポイントを挙げ、それが正当であるか否かを論じてみましょう。

1)流量範囲が狭い
 自乗特性のため、測定できる最大最小流量比が3:1程度しかとれないといわれます。これは差圧伝送器の性能が向上した今日、状況が少し変わりました。一方、流量範囲はこの程度で十分という反論もできるのです。差圧式流量計の測定範囲は、絞り機構の 設計と差圧レンジの設定で自由に選べます。したがって、比較的狭い流量範囲でも、実際に使う範囲に合わせれば、実用上困るこ とはありません。使用流量域が当初の計画から変わる場合には、差圧伝送器のレンジ再調整かオリフィスプレートの交換で対応で きます。

※2)~5)は本記事に関係無いので省略

佐鳥聡夫「流量のお話 第2回 差圧式流量計」東京計装株式会社

測定範囲は変更できるが低流量対応にするにはオリフィスを交換しなければならない。つまり、圧力容器の中に入って交換する必要があるので、運転中には不可能と言うことだ。

10%ローカットについては次の説明から業界での常識と判断出来る。

通常,オリフィス流量計では低流量での誤差が大きいため,流量10%以下では流れていないものとしてカットして使用しているが,ある取引においてカットせずにオリフィス流量計+積算計でカウントしていた。その取引の長期間停止中に0.5%程度ゼロ点がずれていた。オリフィス流量計の流量は差圧のルートに比例するため,わずかな差圧0.5%誤差が流量7%で積算されてしまった。

●対策

誤差量に気づき,積算しなおした。その後は,10%以下の場合にカットされるようソフト上で処理を行った。

●差圧流量計のゼロ点

 オリフィス流量計は導圧管を通じて圧電素子により差圧を計測して,差圧伝送器で信号に変換し,開閉演算を行い流量比例信号として出力します。開閉演算する理由はオリフィス流量計の計算式の√を解くためですが,低流量(ゼロ点付近)の時にはこの開閉演算によりその値は拡大し,わずかなゼロ点誤差が大幅な流量誤差となってしまいます(表)。(以下省略)

エピソード③流量計測-オリフィス流量計「 ゼロ点誤差の思わぬ影響 」」『計装Cube』No.31 2008年8月

私に『トランジスタ技術』やCQ出版の技術書で解説されてる様な、デジタル回路の高度な知見は無い。そう断った上で述べるが、開閉演算とは平方根を求めることで、これを二進のAND,ORの組み合わせでも使ってやってるのだろう。

従って、東電の説明は上記の限りでは矛盾が無い。

【4】建設時の外部電源喪失試験と同じだった福島事故

木村氏は講演で、プラント建設後の起動試験経験もあり、炉心流量その他のパラメータを読み解くことはとても慣れていた旨を語っている。起動試験は細かく分けると100項目以上からなるが、その中に外部電源喪失試験という項目がある。木村氏が「今回の事故は試験でやっていたことが現実となった」(大意)と述べているのはこの外部電源喪失試験を指す。

これも嘘である。原子力黎明期に起動試験結果を公開の場で技術報告するのはよく行われていた(例:「福島原子力発電所1号機の起動試験」『火力発電』1971年10月 )。

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後年それが無くなったのは、単に技術的新規性が無いから誰も投稿してこなかったという、あらゆる枯れた技術製品で起きている理由からに過ぎない。読めば分かるが、そもそも起動試験とは、自動車で例えるなら「ブレーキはかかるのか、かかり具合はどうか」「エンジンは焼き付いたりしないのか」といったことを確認するための試験であり、既に公開されている耐震性能などと同様に、安全上はむしろ公開すべき情報である。

しかも東電はTwitterに無用な情報をばら撒いたことを認めた、柏崎刈羽勤務の社員A氏(HN:へぼ担当,TwitterID:hebotanto)を処分出来ておらず(いわゆる見て見ぬ振り状態)、内部統制は崩壊している。

【5】島根2号機の外部電源喪失試験はローカット無しだった

ところで、上述の福島第一1号機の論文だが、試験項目には外部電源喪失試験が無い。しかし私は、BWRに関して更に2プラントの起動試験結果を入手した。東海第二(BWR-5,MarKII-GE型)と島根2号機(BWR-5,MarkI改良標準型)である。それぞれの外部電源喪失試験を見直したところ、東海第二は炉心流量はゼロ表示となったが、島根2号機では炉心流量はゼロ表示ではなく、11870T/Hが900T/Hとなっていた。

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出典:「第6編起動試験」『東海第二発電所建設記録』日立製作所、1978年11月P595(全体リンクはこちら

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出典:「第6編起動試験」『東海第二発電所建設記録』日立製作所、1978年11月P596図45

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出典:『島根原子力発電所第2号機建設記録 起動試験編』中国電力 P331

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出典:『島根原子力発電所第2号機建設記録 起動試験編』中国電力 P335(グラフ全体へのリンクはこちら

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出典:「地震動による福島第一1号機の配管漏えいを考える」『科学』2013年11月P1225図2
※スキャンデータは伊方訴訟提出資料より。

なお、木村氏は福島第一1号機の炉心流量のグラフについて上図のように、14時48分24秒頃から-7000T/Hの異常なマイナス値(図中A)や直後のスパイク(図中B)が乗っている旨も指摘したが、東電は流量計のゼロ表示仕様だと説明した。しかし、東海第二、島根2号機共にそのようなマイナス値もスパイクも認められない。更に、島根のグラフは後で書き改められた形跡も無いように見える(スパイクについてはこれ以上の分析は控える)。

先の東電の説明はメーカーの仕様書を丸写ししたような印象があり、スクラム後の自然循環時に、炉心流量を計る必要性への考察が抜け落ちている。しかし、中国電力では流量表示に意味を見出していたことが伺える。

ATOMICAの自然循環の説明にはこうある。

軽水炉の一次(原子炉)冷却系には炉心を熱源とした循環ループがあり、通常運転時は一次冷却材ポンプ(原子炉主循環ポンプ)などの外部からの駆動力により原子炉冷却材が強制循環されている。このポンプが停止した際にも原子炉冷却材の密度分布による差や一部にボイドが発生することによってループ内に原子炉冷却材の循環(能力)を生じる。このような循環を自然循環(自然対流)という。沸騰水型原子炉では、原子炉圧力容器内自然循環だけで定格流量の半分に近い出力で運転を行うことができる。自然循環は、冷却材喪失事故時や、何らかの原因によるポンプ停止時に炉心の除熱をする上で重要な役割を果たす。

自然循環」『ATOMICA』

Twitter上には「再循環が止まってるから流量はゼロで当たり前だ」と言う「識者」がいるがとんでもない間違いである。

この説明を踏まえると、低流量域(=自然循環)はLOCA時は重要となるので、測定誤差が拡大したとしても、流量がゼロか否かの判断は出来るように、ローカットしなかったのであろう。

島根2号機の起動試験は1988年に行われた。先のような運用法に至った理由として考えられるのは、TMI事故(1979年)、チェルノブイリ事故(1986年)だろう。これを受けてシビアアクシデント時のプラントパラメータ把握に力点が置かれたと思われる。

福島事故前のアクシデントマネジメント(AM)の基本理念は、現有設備に最小限の追加投資を行って最大のポテンシャルを引き出すことである。1988年時点でこの考え方は公式の方針とはなっていなかったが、BWROG(BWR Owners Group、GE原子炉ユーザーの集まり)等で議論された可能性はあるだろう。自然循環時の炉心流量が一応計測可能であるなら、平時よりローカット設定を解除(一般的な計測機器ではユーザー側で解除可能な機種がある)すれば良い。

【6】運転特性図は何時書き改められたのか

上記推測を補強する資料もある。まずは先の『火力発電』誌に掲載された福島第一1号機起動試験の記事から運転特性図を引用する。

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この特性図は炉心出力0%の時、グラフ左の自然循環曲線もX軸が0%に収束するように描かれている(なお作成法は右記参照。「特集・原子炉熱流力設計の諸問題」『原子力学会誌』1972年5月P42)。

図の引用は省略するが、東海第二、島根2号機の起動試験にも運転特性図は掲載されており、自然循環が0-0収束するのは同じである。

次に、木村氏の講演動画からキャプチャされた運転特性図を示す。

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出典:「運転特性図」『木村俊雄さん「過渡現象記録装置データの重要性について」-Togetter

自然循環曲線が0-0収束していないことが分かる。こちらの特性図の方が実態的なアクシデントマネジメント策を検討するには向いている。

木村氏自身が述べていることだが、実際には出力0でも自然循環が残るので、90年代に定格(出力での)炉心流量の10%程度に収束するように特性図を書き改めたそうである。事実、2000年代後半より刊行されたオーム社原子力教科書シリーズの『原子炉動特性とプラント制御』(2008年)P95には木村氏が提示したものと同じ図が掲載されている。

Twitterの原子力関係者は木村氏批判にかこつけて、「運転のことならまずATOMICA」とツイートしているが、ATOMICAのBWR運転に関わる解説の出典を見ると、1971年の『電気計算』の記事に行き当たる。この記事は私も持っており、東電の川人氏(後の柏崎刈羽所長)が書いた非常に良い説明だが、時代が古い。ATOMICA依存も程ほどにという一例である。

2019年8月30日追記
東海第二の起動試験にも参加した某メーカーの炉心技術者より説明をいただいたので紹介する(もっとも、電源喪失試験には不参加だったとのこと)。

木村氏が90年代に関わった「炉出力-流量」線図の書き換えだが、初起動時(起動試験時)は古い図で間違いはないそうである。

具体的に述べると、最初の図は起動試験用にGEが提示したもので、燃料は全て新品のため崩壊熱がない。一方、木村氏が示したものや、近年の教科書に掲載されている図は、相当程度燃焼も進んで崩壊熱がある状態なので、自然循環が起きる、とのことであった。

その他、パラメータの見方等にも専門家ならではのご意見を頂いた。感謝いたします。

勿論、中国電力もその後東電に合わせてローカット設定にしている可能性はあるだろう。その場合は、津波の問題と同様、東電の都合に合わせた結果ではないか、という観点の検証が必要である。逆に、東海第二が運開後何年かして、島根2号機のような新型プラントに合わせている可能性もある。勿論、津波におけるその種の検証と同じく、必要なら当時のメールも引っ張り出さなければならない。

また、この点から新潟県の技術委員会が何を求めるべきなのかも浮かび上がってくる。

  1. 東北地方太平洋沖地震で自動停止した健全プラント(女川、福島第二、東海第二)の過渡現象記録装置のデータ開示
  2. 流量計のメーカー型番、取扱説明書、納入仕様書等の開示
  3. 文春木村氏記事での問題提起と併せ、東電見解の妥当性再検討、ローカット処理の妥当性を検証すること

技術的問題は【10】で結論を与えることにして次節は社会的な側面を議論する。

【7】木村氏の主張に欠けている視点

それから、木村氏の科学/文春記事や講演会動画に欠けている観点として、東電訴訟をしている被災者達に対して、その分析がどう役に立つのかを示していない、という問題がある。

(9月1日追記)よく言われるのは、物証(配管クラックの現物)で地震によるメルトダウンを証明できていないという点や、所外の放射線量が上がり出したのは津波来襲から数時間経過した後、といった点である。木村氏は建屋内の放射線が早期に上昇していたと反論しているが、所外の放射線量などについては反論していない。私も、木村氏の論に説得力が欠けると感じているのはこうした点なのだが、本節では少し視点を変えて論じる。

木村氏は講演動画で「『こうすれば事故を回避することが出来た』と論じている人達がいるが、そんな馬鹿なことに拘るのは止めて原発を廃止しよう」(大意)と語っていた。確かにそのような議論は原発推進派から多く出されていたが、回避可能性に関心を持っているのは推進派だけではない。一般に損害賠償訴訟や刑事訴訟では、予見可能性と回避可能性を証明する必要がある。つまり、回避可能性の知見は被災者に与えられるべきものなのである。白石草氏の懸念も、そう言うニュアンスだろう。

なお、大阪訴訟では原告は地震動破壊説を準備書面(裁判所に対して被告の何が悪いのかを詳しく説明した文書)に取り入れたが、東電は「壊れていない」と反論して問題設定そのものを避けたので、結局津波問題に論争の重点が移った。

しかし、訴訟に持ち込まれた事例が発生した以上、先々のことは考えておかなければならない。

【8】地震で破損していた場合に備え、主張する内容を考える

では、木村氏の主張を被災者達は訴訟でどのように取り扱えば良いか。これは、地震で壊れたか否かの検討に固執する限り絶対に解けない。

以下、「破損の有無」「東電の認識」の2条件で4通りに場合分けして考える。

  1. 地震で1号機は破損しておらず、東電も破損していないと信じている場合
    →これは、木村氏や田中三彦氏等が誤っている場合である。
     原告団は津波原因説をベースに裁判を戦えば良い。
  2. 地震で1号機は破損していないが、東電は破損を認識している場合
    →論理的にあり得ないパターンのため検討から除外する。
     ※これまでの訴訟で東電は破損していないと主張しているため。(1)(3)(4)のいずれかの理由であろう。
  3. 地震で1号機は破損しているが、東電は破損していないと信じている場合
    →これは、東電技術陣が科学信仰で思い上がっている場合である。
     この場合、木村氏や新潟県技術委員会がどれだけ検証し切れるかがキーとなるが、短期間で成果が出たとは言いかねるため、原告団は津波原因説をベースに裁判を戦っている。
     問題は調査等により(偶然)破損が証明された場合、東電側は正当な理由で主張をスイッチ出来ることにある。即ち、「事故前も事故後〇年間の間も予見出来なかったので、予見可能性は成立せず、我々は無罪である」との主張にスイッチする。
  4. 地震で1号機は破損しており、東電も破損を認識している場合
    →これは、いわゆるデータ隠しなどにより、表面上破損していないと主張している場合となる。原告団の対応は(3)と同じになるが、東電側は(3)と違い、訴訟に最も効果的なタイミングを選んで、予見不能だから無罪説にスイッチすることが出来る。
     ただし、(3)と異なるのは、虚偽説明をした証拠がどこかに残り、特に法廷での虚偽説明は、信用失墜リスクが大である。

原告に寄り添った考察としては、事実が(3)(4)の場合であっても、受け身の姿勢に留まらない言説を用意することとなる。受け身とは、「更なる調査を後追いで要求する」等の行動のことだ。特に、物書きが調査を東電任せにしていると、時としてカーゴカルトの二の舞となる。

【9】LOCAによるメルトダウンを防ぐために東電は何をしてきたか

そんな言説が成り立つのか。私も一晩考えたが、そもそも論に立ち返ればよい。勿論、素人文明論に広がらない程度の論である。

そもそも、東電や国はLOCAが起きたらどうすると言ってきたのか。そう、LOCAが起きた時のために各種の注水手段が準備されてきた。LOCAとは小破断を含め、過去40年以上「典型的な事故想定」として扱われてきたものだからである。

だから私ならそれに乗ってしまう。即ち、注水設備は何故使用できなかったのか。事故を早期に収束するためのプラントパラメータは何故読めなかったのか。答えは簡単。1時間経たない内に津波が到達し、全電源を喪失したからである。つまり、木村氏の論も結局は、各訴訟で最も重点的に主張され、証拠も充実している、大津波の予見可能性、回避可能性の問題に回収されるということである。上記(3)で述べた東電の無罪論(想定)は、あくまで地震動に対してのみ有効な論で、事故全体の予見という観点からは切り札として使えないようにしなければならない。

この論旨展開は木村氏にとっては不服かも知れないが、電源喪失が無ければプラントパラメータの異変に気付く機会が与えられることになるのだから、何も不整合は生じない。実際、東海第二で除熱に必要なRHR系海水ポンプの水没(本震直後ではなく、3月11日の晩に発生)を直ちに把握出来たのは、発電所が電源喪失していなかったからである。何も把握出来なければ、事態はより悪い方向に進んだのは間違いないところ。

福島第一1号機の場合、木村説によれば3月11日17時代に炉心損傷開始となるが、電源が生きていれば炉心損傷まで進展しても水素爆発を防げた可能性は高まる。要するにTMI事故程度での収束と同義。原告にとっては津波対策を取っていれば、FPの放出量を早々に帰宅出来る程度以下に抑え込めた可能性(INESのLEVEL5以下で収束できた可能性)が高まることが最後の砦であって、1号機がTMI-2のように溶けてオシャカになろうが本質的には知ったことではない。周辺住民が居住可能であれば、原子炉が再使用できるか否かは電力会社の金儲けの問題でしかないのである。

上記の論を採用した後に、1号機が地震でLOCAを起こしていたことが証明されても、木村氏が以前から指摘する通り、再稼働のハードルが上がるだけだろう。被災者の救済と再稼働は別の問題だからである。もっとも、既に再稼働に対しての課題は様々なものが指摘されており、耐震性不足もその中に入っているのだから、私は屋上屋ではないかと思っている。

【10】木村氏の指摘から浮かび上がる技術課題

地震でLOCAが起きてようが起きていまいが、議論は既にかなりされてきている。木村氏の論から汲み取るべき真に新しい技術課題は、①安易なローカット設定の採用や②観測者を混乱させる-7000T/Hの異常減少、スパイク表示など、計測機器の仕様に集約される。

これは真のユーザーフレンドリーとは何かと言うべき課題だが、原子力機器では殆ど触れられてこなかったと思う。

調べてみれば分かる。原発事故と計測機器に関する有名な問題として「原子炉水位計がシビアアクシデント時に使えない」という話が指摘されているが、計測原理の欠点によるもので、性質的に異なる課題である。

また、「計測機器の統計的不確かさ」なら理工学部生の実験用副教材では定番の記述だし、一般産業分野で古くからある話である(例:「第15章 計測の信頼性と測定の不確かさ」『標準化教育プログラム[個別技術分野編-電気電子分野]』日本規格協会、2009年)。しかし、誤読を誘発する表示の問題は異なる。

ヒューマンエラーの見地から取り上げられても良かった筈だが、原子力で取り上げられてきたのはTMI事故以降実施された制御盤のミミック表示化(制御盤をよく見るとスイッチとスイッチが色のついた線で結ばれてる。プロセスの流れに沿って機器の機能的な関係を系統線図で表したもの。)や、情報のモニタ表示化の是非位。

オーム社原子力教科書シリーズの『ヒューマンファクター概論』を読むと「機器が故障する」「人が誤読する」ことに力点が置かれているが、炉心流量計は故障していないし、誤読を誘いやすい数値を示すことへの配慮は同書の記述から読み取れない。この教科書が参照しているWASH-1400,NUREG-CR1278を全て精読した訳ではないが、制御盤への反映状況を見る限り、明らかにバックフィット対象事項ではなく、余り期待は出来ない。

必要なら電中研なり適当な学協会で研究会を設けて対応すべきだろう。

(2019年9月27日追記)私の意見だが、今回取り上げた運転関係者への負荷を減らしつつ、必要な情報を伝える中国電力のやり方が最も正当と考える。ただし、測定範囲を下回る値については、流量の有無のみ伝える二値的な表示になっているとより適切だ。

理由は、運転員に本質的でないことで面倒をかけるのは次の3つの理由により避けるべきだから。

  1. 第一に、運転員はただでさえ、個別の機械の癖や特性を把握することで忙しいことが挙げられる。『日本原子力発電社報』1971年1月号に「運転直員の一週間」という記事があるが、そのことをよく伝えている。名前は個別に出さないが、後年書かれた外向きの運転紹介記事もこの点は一貫している。計測機器に由来する波形の歪みは、原子炉の挙動を知る目的からすれば、本質的な知見ではないし、緊急時は誤読の要因になる。
  2. 二点目は彼等の経歴にある。運転員(直員)の多数派は高卒入社の技術系社員。原子力屋としての登竜門的ポジションにある。80年代の所内報によれば、20代が過半を占める。

    前回木村俊雄氏の記事でも書いたが、学歴を盲信した侮りは誤ってる。運転員として配属されると原子炉の運転操作のため専門的な教育がなされ、また年単位で勤務していく中で習熟度も上がっていく。とは言え、彼等に与えられた仕事は計測メーカーの設計者ではなくプラントの運転者である。その点から言えば、本来は無駄な知見であり、無くても仕事ができるようにするべきだろう。
  3. 三点目は、運転員にかかる心理的ストレスである。

三点目に関しては、手に入れた福島第一所内報に次のような一文が載っていたので引用する。

Gensiryoku_fukushima198207p22upside

皆さんは観光地に遊びに行き、ロープウェイに乗ったことはありますか。ロープウェイで深い谷底の真上にきた時、「もしロープが切れたら」とか「機械が故障して止まったら」など考えたことがありませんか。その時の恐怖と複雑な気持ちは、言葉では言い表せません。それと同じように原子力発電所が安定運転中であっても、もし機器の故障で何か起きたらと考えると妙な気持になります。中操で盤面に向かっていると、精神的に押しつぶされそうになるのです。その時、どうしようと悩むことより、私は主要プラントパラメータの動きに注意し、アナンシェータ(注:警告表示)の発生に一つ一つ対処し、確実に処理していくように心がけています。

われら中央操作員」『原子力ふくしま』1982年7月

似たストレスを抱える例としては乗り物の運転士が挙げられる。15年ほど前『運転協会誌』(鉄道業界誌)に「開拓者たち」というシリーズが連載され、その中である保安装置を開発した動機として、「運転士達が自らのミスにより事故を起こす悪夢に日々悩まされていたこと」を挙げていた(「開拓者たち TNSの誕生」『運転協会誌』2003年7月)。

所内報の記述はTMI事故(1979年)の影響が見られる。当時高木仁三郎などもこうした心理的プレッシャーが常時あることを指摘していたから、私が中国電力のやり方を推す理由としては、ある意味古典に属する。ただし所内報は、社外からの目線ではなくて、東電のBWR運転員による裏書となってることに価値があり、当記事に繋がっていく重要なものである。古典ではあるものの、しばしばメーカー技術者にさえマスクされて見えない、ユーザー視点であるとも言える。

付け加えれば、この種の「専門家」「業界人」はしばしば、本質的とは思えない現場知識の自慢、異常に生真面目な態度、反対派の幼稚な悪ふざけに対する無理解への絶望感と過剰な敵意、などを示すことがある。全てこの恐怖感の投影だろう。

【11】おまけ

最後にその「どうしようもない業界人」の一例として当ブログではおなじみ「水処理業界のあさくら氏」のツイートを紹介する。

 

指示待ちの姿勢が軽蔑されてることにいい加減気付こうね。全てが露見したら、君もたないと思うよ。

※2019年9月27日:【10】に個人見解追記。

2019年8月17日 (土)

【本音は】木村俊雄氏の文春記事に書かれた「炉心専門家」を嘲笑する人達【只の嫉妬】

木村俊雄氏が文芸春秋2019年9月号に投稿した記事を巡って、ネットではちょっとした騒動になっている。

この騒動については色々思う所があるが、今回は外形的な部分、つまり記事タイトルの「炉心専門家」という肩書への嘲笑を論じる。なお、公平を期すために述べると、私自身は炉心に限らず「原発の専門家」ではない。

まず、IWJに限らずメディアは関心を持ったところに取材に行くのであって、只の取材動画を「繋がり」と呼ぶのは違和感がある。裏を返せば自分のところには取材に来なかったという、単なる嫉妬ではないだろうか。この人の場合、答えは簡単で、炉心どころか原発に勤務した経験すらないからだろう。だから、推進派を含めて、取材される価値が全く無い。

「炉心専門家」は法定された国家資格ではないが、明らかに原発内での職能を分かり易く示しただけのことである。

詳しい知識を持っているかどうか以前に、ああいった巨大インフラ・巨大組織は役割分担があり、原発に勤務していたから何でも知っているだろうというのは間違いである。

似たようなことは以前もあった。推進派に嫌われてる小野俊一氏だが、IWJが取材に来た時、東電時代の職能をどうとでも取れる何でも屋のように表現されてしまい(正解は2Fで保修屋→本店で計画課勤務)、困惑していた動画を見たことがある。

当ブログでもよく引用するコロラド先生こと牧田寛氏はHBOL連載記事のタイトルを命名するのは編集者だと言っている。今回もそれらと同じパターンだろう。

それから、木村氏が311の分析記事を書けるのは不思議でも何でもない。原子炉の基本的な仕組み、水位や炉心流量の計測方法は変わっていなかったのだから、辞めた人の体験が議論に役立つのは当たり前のことである。例えば、流量の計測方式は差圧式を採用しているが、2000年代、超音波式に変更しようという構想が進められていた(「超音波流量計の導入で, 日本でも原子炉出力向上は可能か?」『日本原子力学会誌』2007年1月)。他、中性子のゆらぎから流量計測しようとする試みもあった(「中性子ゆらぎ信号を用いた炉心流量計測技術の開発」『日本原子力学会誌』1997年9月)。これらを東電が実適用していれば、彼の経験談は通用しなかったかも知れない。

次に、木村氏の経歴にある「原子炉設計」が福島第一の完成後だからおかしいと噛み付いている人がいる。別におかしいとは思わない。福島第一原発は約40年運転したのだが、その間運転方法(起動・停止の方法)や燃料は何度か変更されている。細かい話だから一般向けに言わないだけで、学会誌や専門誌を調べるだけでもその一端は把握出来る。例えば10年程前に『原子力発電が分かる本』という入門書を書いた榎本聰明氏は、80年代まで盛んにその手の論文を投稿していた(炉心設計の取りまとめ役だったんでしょう)。311の数年前に書かれた原子力工学科学生のインターンからも「すぐに終わる様な仕事じゃなさそう」位のことは誰でも分かる(「テプコシステムズ滞在記」『日本原子力学会誌』2007年1月)。

森雪 (TwitterID:@Premordia)さんは、原発プラントメーカーの社員と思しき人物である。炉心に限った話ではないが、メーカーだけが技術者を抱えている訳ではなく、ユーザーの立場で物を考える技術者達はどこにでもいますよね。完成した原発にも「原子炉設計」の仕事があり、物によっては論文の種になるのは、常識だと思うのだが。

これも大間違い。まず、携帯電話販売店に対する蔑視感情が垣間見える。そして、「原子炉に燃料を装荷して運転計画を立てる行為」の性格を一言で言うと、色々な工学的要素が絡みあい、手間暇がかかっているので、(梱包された)一般の荷物とは違う。原発は莫大な電力を取り出せるからその手間暇のコストを無視出来ていたのであって、そうでなければとても割に合わない仕事である(現在では他の発電方式に比べてもコストは高いという見方が一般的になったが)。

よく「原発はお湯を沸かしているだけ」と簡単に説明する人達がいるが、その伝で行けばあらゆる職業は簡単に表現できることにいい加減気付いてはどうだろうか。パン屋は小麦を焼いてるだけ、電車は車輪を転がしてるだけ、火力発電所はやはりお湯を沸かしてるだけだが、どれも一人で維持出来る代物ではないし、速成も不可能。それを本気にするのは、全てが中途半端で何の仕事も出来ない人か、自分だけが尊い仕事をしていると信じ込んでいる、他者に対する想像力の欠けた無敵君の類だろう。

そういう感覚を持たないで知識も無い人間が人の肩書を小馬鹿にする。業界人が悪乗りする。こっちから見ていると笑うしかない。そのような反応自体が、(原発に限らず)技術と組織に依存した産業に不向きな人材であることを示しているからだ。

こんな連中がデカい顔をして闊歩してれば国が傾くのは当たり前である。牧田氏は日本の原子力業界は五大核大国に比べれば猿のようなものだと嘲笑しているが、確かに反反原発の反知性振り、猿頭振りを見ると、反対派が存在しなかったとしても原子力立国は到底無理だろう。

 

学歴差別は問題外。実は、例の東電柏崎で炉主任をしていたへぼ担当が(ある意味)心底嫌っていたのが学歴差別だったのだが。

現場感覚に欠ける学者は腹一杯。実はこれもへぼ担当がしばしば表明していたこと。このバカ者のような言動に右顧左眄されることなく、実務家は自由に物を言っていけばよい。一日8時間授業で電気工学の実務を叩きこまれた東電学園OB/OGの方が、御用学者よりは実のあるコメントをしてくれそうだ。

1時間でなれるそうだが、もちろん間違い。木村氏は東電時代に柏崎刈羽の起動試験要員も経験している。起動試験と言うのは、原発の建設が終わった後に実施し、ソフト屋の言葉で言えば結合テストや総合テストのようなもので、数ヶ月は続く大規模な内容である。

そして、原子力学会誌に掲載されたインタビューによれば、起動試験要員は訓練プログラム無しの場合、10年の経験を経て一人前となる専門技術職である(「原子力発電所の新規建設は, 今後, 有能な系統試験技術者と起動試験技術者を必要とするが, 十分な人員が確保できるのか」『原子力学会誌』2006年12月)。

原発反対派の側についた専門家が同じ専門家集団たる推進派を馬鹿にしているのは、利益相反体質、組織病理、職員倫理の荒廃の果てに事故が起きたことを指しているのであって、1時間の講習で炉心の専門家が養成できると信じている訳ではない。

たかだか文春記事についた肩書一つでこのような蔑視感情が発露されるのは、結局は世間的に名の通った企業・団体の構成員およびかつてそうであった者に対する嫉妬だろう。私もある部分ではへぼ担当と同じ思考パターンの持ち主なので、見ていて殺意が沸いてくる。見苦しいのですぐ止めて欲しいと思います。

当時の所内報を読むと、木村俊雄氏は1983年度入社で双葉町出身、そのまま福島第一の発電部に配属された。発電部とは、中央操作室で運転員が所属する部署だ。同期の配属には姉川尚史(現:東電原子力技監、フェロー)氏が人事課に配属されているのが興味深い。ま、単なる巡りあわせと言えばそれまでだが、こんなことも嫉妬を増幅させる要因になりそうだ。

そう。これは擁護に値しない。事故直後から彼は実名で活動しており、今回とほぼ同様の記事を投稿している(「地震動による福島第一1号機の配管漏えいを考える」『科学』2013年11月)。

時系列滅茶苦茶。放射能で認知でも歪んでるのかね。御愁傷様。

2019年6月 2日 (日)

東電裁判被告の武藤栄に原子力損害賠償制度の検討委員をしていた過去

福島原発事故の責任を巡って刑事・民事に渡り、様々な訴訟が提起されている。その中でも当時の東電会長であった勝俣恒久、取締役副社長原子力・立地本部長からフェローに転じた武黒一郎などは刑事訴訟や株主代表訴訟の被告に名を連ねている。取締役副社長(代表取締役)原子力・立地本部長だった武藤栄もその一人だ。

ところで、こういった幹部を含む原子力部門の重鎮達が、その出世の過程でどんな仕事をしてきたのかだが、津波対策についてはかなり解明されたものの、その他の点は断片的な裏話が目立ち十分に解明・論評されていない。

武藤の場合、2000年代初頭に電事連原子力部長に出向し、原子力損害賠償制度に関する調査に参加していたが、これもまた、ネット上で話題になっていない。

事の発端は、2001年度予算で、原子力委員会が原子力損害賠償制度に関する調査を三菱総研に発注したことに始まる。その調査の検討委員の一人が武藤だった。紙版の報告書は入手し、冒頭には配布対象者に向けて「引用、転載には承認が必要」といった(著作権法の観点から第三者には完全に無意味な)文言があるが、内閣府がネット上で全文公開している。

 原子力損害賠償制度検討会報告書 平成14年3月(内閣府HP)

内容は国家間で原子力損害賠償について共通のルールとして生み出されたパリ条約・ウィーン条約を、アジア地域に適用するにあたっての課題を調査したものであった。あまりなじみのない条約だが、ヨーロッパを中心に締約国を増やしてきた。日本、アメリカ、ロシアといった(当時の)原子力大国は入っていないが、日本の場合は無限責任制度であるのに対し、条約の方は有限責任制度であること、損害賠償額の上限が原陪法に比較しても低すぎることなどを理由としていた。それが2000年代に入る頃には「無限責任制度を有する国であっても法的整合性の面で特段の問題が無いように改められ、また、賠償措置額も大幅に改善された」ため、このような検討が行われた。

ただし、チェルノブイリ原発事故や福島原発事故に対応できるような内容ではないので、一部の法研究者以外は注目してこなかった。

しかし、原子力損害に関する業界周囲の考え方を知る上では参考になる点もあるし、武藤氏の脳内にどのような知見がインプットされているかを確認する上でもこのレポートは重要である。よって、現在進行中の訴訟を意識し、特徴的な記述を抜き出してみよう。

なお、「パリ条約/ウィーン条約」に関しては(推進側を含め)解説サイトが幾つかある。また、本文中で触れる東電の動向についてはLEVEL7や福島原発告訴団/支援団掲載の裁判傍聴レポートを読むと深く理解できる。

【原子力損害賠償の一般的性格】

4.わが国を含めたアジア地域原子力損害賠償制度の必要性
(1)制度構築のニーズ
  原子力損害は、人身および財産に与える影響が甚大であることが予想されるとともに、その性質上、損害原因の特定および結果の予測が非常に困難である、という特殊性を有している。
 こうした特殊性を有する原子力損害の賠償処理を、従来の過失責任ルールの下で行おうとするならば、被害者は、非常に困難な加害者の特定及び過失の立証に直面することとなり、被害者の救済は実際問題として非常に困難となる。また、仮にこの問題が解決されたとしても、加害者である事業者に賠償資力が備わっていなければ、被害者の救済は画餅に帰すこととなる。


 したがって、被害者救済を迅速かつ十分に行うためには、まず第一に、1)無過失責任制度、2)原子力事業者への責任集中、3)この責任の履行を担保するための損害賠償措置の事業者への強制、を柱とする、原子力損害賠償制度を確立することが必要不可欠であるといえる。


 そして、原子力事故が越境損害に結びつく可能性があることを勘案するならば、原子力施設を有する国のみならずその周辺の国々においても、原子力損害賠償に関する適切な法制度が整備されることが重要である。このとき、大規模かつ複雑な賠償処理において、国家間での賠償の公平性が担保されるようにするために、その制度内容は国際的・地域的に統一されたものとすることが望ましい。

具体的な賠償額と範囲を除けば、方向性としては正しい記述である。

【越境損害に対する見解】

2.国際的原子力損害賠償諸制度の沿革及び概要
(1)歴史的背景
国際的な原子力損害賠償制度は、各国の国内法とほぼ同時に整備されてきた。原子力損害賠償制度の確立に取り組む先進諸国は、越境損害の問題に対応するためには共通の国際的枠組みが必要であると考え、国際条約の整備についても原子力開発の初期の段階から着手した。この結果、1960年には経済協力開発機構(OECD)により、原子力の分野における第三者に対する責任に関する条約(以下「パリ条約」という。)が採択され、(発効は1968年)、1963年には国際原子力機関(IAEA)の下で、原子力損害の民事責任に関するウィーン条約(以下「ウィーン条約」という。)が採択された(発効は1977年)。


ところが、1986年に発生した旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所における事故は、国際的な原子力損害賠償制度のあり方について大きな問題を投げかけた。チェルノブイリの事故の際、旧ソ連政府は、越境損害に対する損害賠償を規定している国際条約に加盟していないことを理由に、国外で発生した損害に対しては、何らの賠償をも行わなかった(国内では2000年までに2,000億ルーブル以上を支払ったとされる。)。すなわち、それまで30数年をかけて整備されてきた国際的な原子力損害賠償制度は、チェルノブイリ事故に対して機能し得なかったのである。このような事情の下、IAEAを中心として、損害賠償措置額の増額、条約締結国の拡大の必要性等について、活発な検討が開始された。その結果、パリ条約とウィーン条約との連携により被害者救済措置の地理的範囲の拡大を図ることを目的としたウィーン条約及びパリ条約の適用に関する共同議定書(ジョイント・プロトコール)がIAEAとOECDの原子力機関(NEA)との共同作業により1988年に作成され、また1997年にはウィーン条約の改正議定書及び原子力損害の補完的補償に関する条約(以下「補完的補償条約」という。)がIAEAにおいて採択された。

※下線は筆者による。

越境損害に言及しているのも興味深い。当たり前だが、彼等は安全神話を利用する一方で、実際に事故が起きたらどのようなハレーションを生むのかについても、知見の更新を続けていた(詳細は割愛するが業界は、越境損害に関して本レポートの他にも様々な研究を行っていた)。

このことは後程もう一度取り上げる。

【原陪法3条但し書き削除の提案】

2) 免責事項
 原賠法においては、「異常に巨大な天災地変」又は「社会的動乱」による原子力損害について、原子力事業者は免責とされている。


 一方、ウィーン条約改正議定書においては、「武力紛争行為、敵対行為、内戦又は反乱」に直接起因する原子力損害について、運転者は免責とされている。したがって、我が国がウィーン条約改正議定書を締結する場合には、少なくとも「異常に巨大な天災地変」による原子力損害の扱いについて、何らかの調整を行う必要がある。


 条約を締結するに当たっては、原則として、条約の規定に過不足なく対応できるよう措置する必要があることから、ウィーン条約改正議定書締結についての対応策としては、「異常に巨大な天災地変」による原子力損害を、原賠法の免責に関する規定から削除することが必要になるものと考えられる。


 この対応をとる場合、従来、免責となっていた事項についてのリスクは、責任集中されている原子力事業者が負うこととなる。しかしながら、この点については、原子力事業者は、その結果、何らかの追加的負担が生じることに強く反対している。従って、その主張に従えば、原子力事業者に追加的な負担が生じないような仕組みが可能であるか否かを検討することが必要となる。

「5.条約と国内法との関係 (1) ウィーン条約改正議定書との関係」

驚くべきことに、ウィーン条約には事故を起こした原子力事業者の免責条件として「異常に巨大な天災地変」が規定されていないので、削除が妥当と書かれているのだ。ただし、規定を削除したことによるリスクの追加に対して原子力事業者は反対とも記されている。

検討委員会に入っていた現役の原子力事業者の代表者は武藤だけである(他に原電の顧問が一名)。業界における東電の立場が盟主であったこと、他社は東電よりのりしろを付けて予防的に対応する傾向があったこと、武藤の社内での地位を考えると、ただのメッセンジャーであるとは言い難く、武藤個人の意思も反映された意見と考える(盟主扱いは事故前より一般紙にも見られる。例えば「原発耐震補強 迷う東電」『日経産業新聞』2007年8月21日32面)。

レポートが作成された2001年度は土木学会で「原子力発電所の津波評価技術」が審議されていた時期に被り、翌2002年に安全率を1にして(不確実性を見込まないで)発行されたのはよく知られた事実である。また、2002年には東電の津波想定実務の担当者(高尾誠)が原子力安全・保安院に40分も電話で抵抗して大津波の想定を拒否したことが、裁判の過程で明らかになっている。本レポートの「原子力事業者の見解」はこれらの動きと軌を一にしている。即ち異常に巨大な天災地変に対応するための追加コストはそれが予防のためであれ賠償であれ支払いたくない、ということだ。

高尾氏は数年後には反省したのか、2008年には大津波の想定を認めて対策するように社内で活動するのだが、武藤が出席した御前会議は津波対策を延期を決定した。「原子力事業者にとりマイナスになることは一切行わない」という考えを変えなかった。

また、原子力委員会や国も、無限責任を基本とし、災害多発国でもある日本の原賠制度から、「異常に巨大な天災地変」による免責事項を削除する代わりに、必要な天災リスクを予防するための資金を電力会社に助成したり、国家が肩代わりすべき賠償積み立て金を確保する等の措置を行わなかった。そもそも、条約加盟国が本当に天災リスクの少ない国ばかりなのかという点も考慮した形跡がない(欧州でも南部は地震リスクが存在し、洪水リスク等も常々指摘されている)。彼等もまた、東電同様に逃げたのだと言える。

【その後の推移】

その他、このレポートの後にどのように事態が推移したのだろうか。

  • パリ条約、ウィーン条約共にチェルノブイリ事故レベルの損害を補償するためのスキーム(賠償額の桁単位での引き上げ)は行われなかった。
  • 日本はパリ条約、ウィーン条約、補完的補償条約いずれも署名も批准もせず、越境損害賠償についてのスキームを整備しなかった。
  • 原子力損害賠償法から異常に巨大な天災に関する規定は削除されなかった。

上述のように、武藤や電事連が補償の拡大充実について調査研究・ロビー活動に積極的だった事実は見当たらない。

そして福島原発事故直後の2011年3~4月には、案の定東電から「異常に巨大な天災地変」なので免責規定を適用すべきとの主張がなされた。かつて、武藤を通じて追加のコストを支払うことに反対した、あの異常に巨大な天災地変に東日本大震災が該当するというのだ(当ブログ他で指摘されているように、予見も回避も可能だったため、そのような指摘は当たらない)。

この件で、原電出身で自民党から転じた与謝野馨経済財政相と枝野官房長官は怒鳴り合いう事態となった。しかし枝野氏が押し切り、東電は免責されることは無かったものの、後に業界の巻き返しで経営破たんの形は採らず、半国有化されるに至った。

【事故後8年経って振り返った時の視点】

訴訟の場においても原陪法3条但し書きの精神を引き継ぐ形で「異常に巨大で回避不可能な災害」という観点に収束するように、被告側弁護団が論じている。

しかし、そもそも条約への整合化がなされていれば、最初からこのような論理がまかり通る余地は皆無だったと言える。免責という法益をちらつかせることで無駄な議論や『免責法理のプロパガンダ』を生み、時間稼ぎをしてきた東電・政府関係者の罪は大きい。

むしろ、このレポートの存在により電事連はもとより、武藤個人も原子力損害賠償制度について、通常の東電原子力部門社員より詳しく知った状態で、津波対策の延期を決定した東電経営陣の2008年の「御前会議」に出席していたことが分かる。当時のことに関して言えば、原賠制度のスケールの大きさから、真面目に論じる必要があったのは最高幹部達であり、勝俣、清水といった面々も武藤からレクされていた可能性を考えておくべきだろう。

勿論、この調査が原子力委員会による発注だったことも重要な観点である。制度の運用者で制度設計や立法にも官僚などと共に影響を与える者が、電事連の代表者と共にレポートを作成していたことは、訴訟における彼等の正当性~当時の制度に従っただけ~といった論理に重大な問題が潜んでいることを示す。

越境損害についての考慮も同様である。本文を読めばどちらの国で裁判を行うかについてもこのレポートは制度化の必要を認めている。

4) 裁判管轄、単一法廷

 原賠法においては、裁判管轄に関する規定が、特に置かれていないことから、国際裁判管轄に関する判例法によれば、原子力損害賠償請求訴訟についての裁判管轄としては、被告の住所地(本拠地)国に加え、事故発生地国及び被害発生地国に認められることになる。


 一方、ウィーン条約改正議定書においては、裁判管轄について「その領域内で原子力事故が生じた締約国の裁判所のみに存する」と規定されるとともに、「自国の裁判所に裁判管轄権が存する締約国は、一の原子力事故に関して自国の裁判所のうち一の裁判所のみが裁判管轄権を有することを確保しなければならない」と規定されている。


 このため、同議定書を締結する場合には、我が国以外の締結国における原子力事故の被害が我が国に及んだ場合に当該事故発生国に裁判管轄権が特定されることに関して、問題点等の検討を行っておく必要がある。
 この場合、我が国国民は、外国で訴訟を行うこととなり、我が国において訴訟を行うことに比べ、言語の問題、旅費等の経済的負担、事故発生国と我が国との民事訴訟に関する裁判手続における法令の定めや慣習等の内容の差異等が生ずることが考えられる。
 しかしながら、同議定書締結により、

  • 同議定書に規定される原子力損害については、越境損害であっても確実に 合計3億SDRまでは賠償措置が講じられることとなることから、同議定 書を締結しない場合に比べ確実な被害者の救済が図られること、
  • 前述の被害者の訴訟に伴う負担等に関しても、同議定書に規定された被害発生地国による代位請求や紛争処理手続により、かなりの程度、緩和されることとなると考えられること
等から、同議定書の締結は我が国にとり十分な利点を有していると考えられる。

 我が国が同議定書を締結する場合には、裁判管轄の一元化を実現するため、我が国が事故発生地国である場合に、裁判手続法上、一つの原子力事故による原子力損害について裁判管轄権を有する我が国の裁判所を一つに特定するための国内法上の措置を講ずる必要はある。

 

「5.条約と国内法との関係 (1) ウィーン条約改正議定書との関係」

※下線は筆者

越境損害で被害を受けた国民が外国で訴訟を起こすことになる・・・これが現実化したのがトモダチ作戦に参加した米兵訴訟である。条約に未加入、或いは未署名という点では米国も日本と同じ状態であり、日米共に、法の欠缺を放置していたことになる。

東京電力ホールディングスは6日、東日本大震災の支援活動「トモダチ作戦」に参加した米空母乗務員らが福島第1原発事故で被曝(ひばく)したとして、医療費に充てる基金創設などを東電に求めた2件の訴訟の判決で、いずれも米国の裁判所が訴えを却下したと発表した。

東電によると、2件は米カリフォルニア州の南部地区連邦裁判所に提訴されたもので、それぞれ10億ドル(約1120億円)の基金を求めていた。判決は4日付で、裁判所は却下の理由を「審理する管轄と権限を有しない」とした。

東電は「当社の主張が認められたと理解している」とコメントした。〔共同〕

トモダチ作戦の訴え却下 原発事故で米裁判所」『日本経済新聞』2019年3月6日

トモダチ作戦訴訟についてはネットメディアでも数件報じられているが、裁判の管轄権が主要な争点となり、原告側擁護の立場から河合弘之弁護士は渡航にかかるコスト、日本側の裁判制度の瑕疵などを指摘し、米国での提訴につなげた経緯がある。しかしそもそも論として、事前に被害者に寄り添った制度化をしておかないから、このような時間と議論の年単位での空費が起こるのである(なお、米国はウィーン条約には参加していないが、上述の「補完的補償条約」は福島事故までに批准していた)。

今後、海洋汚染の拡大が確認された時点で、同様の事態が他国とも生じる恐れが高い。

なお、業界側は事故後、「原子力損害賠償制度に関する今後の検討課題~東京電力(株)福島第一原子力発電所事故を中心として~」(日本エネルギー法研究所、2014年)にて事故前の議論についても触れている。事故被害の巨大さから津波想定の問題をはじめ、かなり踏み込んだ法的検討はしているが、原陪法3条但し書きに関する議論や裁判管轄権に関する制度の不備を放置したこと等について、事故前の知見を批判的に分析はしていない。ADR等の裁判外の賠償手続きについても迅速性を強調する等の自賛?が目立つ。

今後、注意を払うべきなのは、原発事故訴訟が提起されてから、武藤が法的知見と経験を被告および補助参加人、弁護団と共有してきた可能性が高いことだろう。彼らの構築するロジックを細部まで検討すると「単なる津波対策の免責」という観点だけでは理解しがたい文言が見つかると、弁護士やウォッチャーの間でしばしば指摘されている。これらを素朴なカルト信仰の変形として理解する向きも多いが、今回のレポートやその他の業界内でクローズする専門知見を反映した行動と見るのが、被災者に対して公正な被害補償を達成するうえでは適切と考える。

2019年4月 3日 (水)

へぼ担当の正体が判明したため、東京電力柏崎刈羽原子力発電所に抗議した

以前当ブログで告発したへぼ担当(TwitterID:@hebotanto)だが(この記事この記事など)、その後彼自身および元妻、軍事ライターdragoner氏(PN:石動竜仁氏)等が公開している情報から正体(実名・詳細経歴等)が判明した。彼は本当に東電原子力部門社員としてツイッターで問題行為を続けていた。

このため、証拠となる文書を添えて東京電力柏崎刈羽原子力発電所に抗議した。

以下、メールの一部を公開する。

===================

2018/07/04

突然のメール、失礼します。
岩見と申します。

ネット上を主な活動の場にしているへぼ担当というハンドルネームの人物が、東電グループ社員であることを仄めかし守秘義務違反を含むモラルハザードを続けている件について、連絡します。
近年はTwitterでhebotantoというアカウントを取得し活動しているようです。

彼の問題ですが、数々の暴言、安全神話、異論者との対話拒否、守秘義務違反、同僚後輩の悪口、インサイダーへの異常な関心等です。それらについては下記にまとめています。
http://iwamin12.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/dv-cc1d.html
http://iwamin12.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-c042.html

(中略)奥様が東京電力健保組合に言及して、社員であることが当人以外の発言でも証明されています。

http://archive.is/0RQFk

また彼は、(中略)以上の条件を加味して推定すると、A氏(注:メールでは実名)が該当します。

A氏が本名で登録している幾つかのSNSを見ると、職務経歴、現在の居住地(中略)、B氏との関わりが載っています。これらはへぼ担当のtwitterの書き込みと完全に一致しました。

彼は(中略)炉主任を取得、他に技術士、ボイラ・タービン技術主任者を取得、技術評価の仕事の他、311後はガスタービン発電機車の保守業務などにも関わったようです。

(中略)原子力安全にとって重大な脅威であり、処分をお願いします。

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設楽 親
2018/07/04
To 村田, 大嶋, 自分

情報ありがとうございます。

こちらでも調べて対処致します。


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東京電力ホールディングス(株)

 柏崎刈羽原子力発電所

         設楽 親

(中略)
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責任を全うするため技術力の向上と組織力の強化に取り組みます

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2019/03/28

柏崎刈羽原子力発電所
設楽様

御無沙汰しております。岩見です。
根拠について添付ワードにまとめましたので、送ります。

様々なウェブサイト、SNSに記録を残していること、
古い版とは言え〇〇〇〇会名簿に東電社員として記載されていること等が根拠です。

不躾な連絡であったとはいえ、予想通り半年以上部下の方を含め返信も無く、呆れております。

特に今年に入ってから顕著ですが、ニッカウヰスキー、済生会病院、世田谷年金事務所、立憲民主党などSNS上の問題発言が原因で有名企業、団体等の人物が相次いで処分を受けたり、著名政党が新人の推薦を取り下げるなどの事例が相次いでいます。

数年前には復興庁参事官、東日本大震災直後には東電社員も同様の問題発言で処分されていますね。

A氏の一連の発言も同様のソーシャルメディアリスク事案です。
近年では世論に加え、法制度的にもこのような問題への視線は厳しいものとなっています。
機密情報漏洩リスクもさることながら、下記に示すように、社外の委員会において反対派を出席させるものの結論は予め準備したものとし、口封じ対策する旨のツイートは、東電の信用を根本から破壊するものです。

20150118_hebotantobougen

注:元ツイートは以下
https://twitter.com/hebotanto/status/556644728066699264(魚拓:https://archive.fo/DgCBN)
https://twitter.com/hebotanto/status/556652836017020929(魚拓:https://archive.fo/yNfuF)


色々な宿題が残っていると当の反対派などから不満が表明されている新潟県の技術委員会に対してどのように説明するつもりでしょうか。

事はA氏本人だけの責任では済まないと考えます。(後略)

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さて、メールで示したように他の類似案件では調査期間は長くても数日である。従って、これは本店と現場が連動した、東電の意図的なサボタージュに他ならない。

A氏の社会的属性は下請の作業員ではなく、高卒が多く採用される一般の原子炉運転員とも異なり、原子炉主任技術者・ボイラ、タービン主任技術者である。少し古い情報源ではあるが、東電内では、福島事故でも議論となった運転操作基準の改訂にあたり、改訂案を審査承認出来るだけの技能を有するとされていた。実務における技術的重要度は極めて高いと考える。

そのような重責を担当し得る人物が関与したネット工作の継続期間、趣味・業界人への浸透度合いも過去問題発言をした一般の人士と桁違いである。

なお、彼の技術力自体は高いので、批判記事だけではなく次のような記事もアップしている。

電気火災の脅威を力説し旧式原発3基の不安全を証明した東電原発職員へぼ担当氏

このような問題を抱えておりながら、東京電力は柏崎刈羽原子力発電所の再稼働がスムーズにいくと考えているのだろうか。再稼働の前にはA氏が嘲笑した委員会のひとつである、新潟県技術委員会の調査が完了することが必要とのことだが、その役割は完全に形骸化したと見るべきだろう。なお、同委員会委員の田中三彦氏他によれば、東電はこの委員会で提起された多くの技術課題の解明に消極的な対応を続けているそうだ。

私は次の処置以外に解決策は無いものと考える。

  • 柏崎刈羽原子力発電所の安全審査が完了した6,7号機を含む全基の廃炉
  • A氏はもとより、上記メール前に通報した東電お客様相談窓口で調査を放棄する旨の回答をした部門の関係者、設楽所長以下発電所関係者の処分

実は、この8か月間、私は改めて東電の態度を観察していた。電気火災の記事を読めばわかるが、A氏の暴言には地元の消防の能力を嘲笑した書き込みも含まれる。ところが東電は、2018年秋にトンネル内のケーブル火災を起こし、早期に鎮圧出来なかった。かつて、2007年の中越沖地震後、火災に対する可燃物の対策が不備との理由で、柏崎市は消防法を理由に柏崎刈羽原発の運転停止を命じている。A氏がその意趣返しをしたかったのかは分からないが、不必要な舌禍であり、自衛消防隊の能力に見合わない発言だったことは疑いないものである。

ある意味では、A氏の個人的な非違行為が問題なのではない。これは、福島事故を経験した後の、東電の安全文化がどのようなものなのかを示すための、一種の試験だったのである。その結果は上記のように、相も変わらずの無視・無為・無策である。社外から何度も津波対策を求められても吉田所長以下一丸となって拒否を続けた事故前と、何ら変わるところが無い。むしろ「そんな金があるか」という意味の言葉を吐き捨てた吉田氏より一段と悪くなっている。

どのような高度な技術を駆使しても、根本的なモラルが破綻している集団に責任を全うして原発を運営することは不可能である。誰の目にもよくお判りいただけると思う。

同時に、この情報を2018年夏の時点で掴んでいながら、何の裏取りの努力もしなかった一部の「原子力問題に詳しいジャーナリスト」についても猛省を求めるものである。例えばかつて復興庁参事官暴言ツイート事件を暴いた毎日新聞は、子会社が電力会社の広告を受注してきた過去からかは不明だが、何の反応も示さなかった。広河隆一を持ち上げ続けた挙句、態度を急変させた某ライターもそうであった。

結局、こういった人達は、ネット時代以前の旧来の党派性に凝り固まった取材しかできないのではないか、私はそう疑問に感じている。

※文中、敢えて個人名を示さなかった個所がある。添付した文書をアップしないのも同様の理由である。ただし一部市民団体・弁護士・牧田寛・添田孝史氏他数名の原子力問題ライターには回送している。

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