今回は吉田調書をスクープした朝日新聞を叩いてるオタク共は『海上護衛戦』に墨でも引いて読んでろの続きである。
【ウェブサイトで取材記録を公開しない門田隆将氏の批判に欠ける「説得力」】
実は、バランスを欠いて党派的な言動を重ねているのは前回批判したネット右翼系のオタクだけではない。政府事故調とは別ルートで吉田氏に接触したと思われる門田隆将氏もそうである。彼のブロゴス記事を見てみよう。
私は吉田さんの生前、ジャーナリストとして唯一、直接、長時間にわたってインタビューをさせてもらっている。私がインタビューしたのは、吉田所長だけではない。
当時の菅直人首相や池田元久・原子力災害現地対策本部長(経産副大臣)をはじめとする政府サイドの人々、また研究者として事故対策にかかわった班目
春樹・原子力安全委員会委員長、あるいは吉田さんの部下だった現場のプラントエンジニア、また協力企業の面々、さらには、地元記者や元町長に至るまで、
100名近い人々にすべて「実名」で証言していただいた。
私がこだわったのは、吉田さんを含め、全員に「実名証言」してもらうことだった。そして、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』が誕生した。
「お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事」(2014年06月01日 06:28)
私は『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』は読んだし、門田氏のウェブサイトも見てみたが、彼がインタビューした100名の関係者との問答集一覧は掲載されていなかった。飯の種とは言え、結局は、門田氏や出版社と言うフィルターを経て世に出ている訳だ。このことは、後述する菅直人叩きへの腐心や、事故前に吉田氏自身が津波対策を怠った件のバイアスとなって表れている。
なぜ調書の吉田証言を「直接引用」をしないのだろうか。ひょっとして、そうは吉田所長が語っていないのを、朝日新聞の記者が“想像で”吉田氏の発言を書いたのだろうか。
「お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事」(2014年06月01日 06:28)
御自身が範を示せば、この言葉には説得力が伴うだろう。
15/5/14追記
この記事を書いて1年が経過した。その間津波問題に関しては添田孝史著『原発と大津波 警告を葬った人々』が上梓され、添田氏はネット上に「補足と資料」のサイトを開設、独自性の強く貴重な取材成果をアップしている。嘘だと思うなら貴方の目で確認されることをお勧めする。同じ話を使いまわすだけの門田氏とは雲泥の差であることが分かる。
更に、添田氏は精力的な追加取材を敢行し、Twitterでリアルタイムに第一報を報じ続けた。福島原発告訴団は2015年春、同書出版後に発掘された新たな福島沖の津波想定の成果を盛り込み、検察審査会に強制起訴を求める上申書を提出した(ココとココを参照。新資料発掘は私も行った。当ブログ2015年2月、2015年3月の記事を参照して欲しい)。元政府事故調関係者もこうした動きを見て失敗学会を通じて緊急フォーラム、研究会を実施し、これまでの姿勢を修正しつつある。英雄吉田という虚像は既に崩壊している。
【俗的な「ドラマ」の取材にプライオリティをつけて失敗した門田隆将氏】
門田氏は長時間以上インタビューをしながら分秒の対応策に時間を割き過ぎたために、本店時代の津波対策の件を先送りした。
この話は、私は3回目の取材で吉田さんに伺うことにしていたが、その直前に、吉田さんは倒れ、永遠にできなくなった。
「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」2013年07月14日 16:31
前2回の取材で大まかなことは聞いていたとも語っているが、この手の話は「真理は細部に宿る」ということもある。細部を聞けなかったのは、門田氏のマネジメントの失敗である。事故時の対応振りもそれなりに重要だが、周辺の補機類や資材まで流出させた津波の規模を思い起こせば、直近数年の経緯で勝負はほぼ決まってしまっていた。門田氏は同書冒頭に、吉田氏の健康状態は既に優れなかったと記している。ならば、事故前の経緯を優先して聞くべきだった。
しかし、門田氏の取材方針からか、同書は事故時の官邸との対立など、マスメディアが「ドラマ」として面白おかしく書きたててきた部分をクライマックスに持ってきている。この点は朝日新聞のしてきたことも大同小異だが、門田氏も同じ穴の狢ということだ。門田氏に、朝日新聞を批判する資格など無い。
政府事故調の聴取方法は良くも悪くもオーソドックスで検察の取調べを参考としたと言う。吉田調書は門田氏の取材では浮かび上がらなかった本店時代の詳細を白日に晒す可能性を秘めていると言える。
ただ、私はこうも考える。ひょっとしたら、門田氏は自らもフィルターを通して吉田氏を描いたことを客観化されてしまうのを恐れているのかも知れない、ということだ。
【吉田氏を都合よくアイコンとして使っているのは門田隆将氏】
なお、前回のブログでも触れたように吉田所長についてこんな的外れの評価をしている者がいる。
しかし、実際に『死の淵を見た男』を読めば、吉田所長を使いでのあるアイコンとして物語化し、英雄視していたのは門田氏なのは明らかだ。四式戦闘機弁務官氏は『死の淵を見た男』を読んでいないのだろう。
門田氏は恐らく東電との意見やプロモーションに関する摺合せを経て、吉田氏にコンタクトした。吉田氏にコンタクトを取ることが出来たジャーナリストとして、特異なポジションにある。論壇での立ち位置はともかく、その成果は誇っても良いことだ。ただし読み手が注意しなければならないのは、その立場を保持する限り、門田氏はいかようにも書くことが出来るということだ。同等以上の情報を入手した朝日新聞の出現は、寡占市場を崩すようなもの。正に想定外だったのではないだろうか。
私は、『死の淵を見た男』を「東電が欲した物語」と見なしている。東電事故調は自己弁護という役割は100%果たしたものの、東電の視点で見た場合、カバーしきれなかった点がある。それは社員のメンタル面への気配り-正当化のための物語の提供-であり、この役割を果たすのが、『死の淵を見た男』である。太平洋戦争敗戦後、軍や軍人の正当化を(部分的にでも)図る役割を担った代表例として、「ジャーナリスト」伊藤正徳の著書がある。これと同質のポジションだろう。
今回の震災で被災したもう一つの電力会社、東北電力もこの手法を使い、町田徹『電力と震災』を上梓した。私が東北電力に原発の件で何度か問い合わせした時、同社の広報担当者は自社社員の書いた記事と並べて、『電力と震災』を参考文献に挙げてきた。そのことから『電力と震災』の位置付けが分かるし、私はこの経験から、『死の淵を見た男』も東電にとって同様のツールであるとの感を益々強めた。だからこそ、『死の淵を見た男』は様々な視点で読み解く価値がある。しかし、そういった分析視点は、東電の宣伝対象であるネット右翼や科学オタク、金儲けのことで頭が一杯の一部再稼動支持者には無い。
なお、吉田氏は発売された本書を目にしているがその時の反応は次のようなものだったという。
脳内出血で倒れて4か月後に出た拙著を吉田さんは大層喜んでくれた。そして、不自由になった口で「この本は、本店の連中に読んで欲しいんだ」と語られた。
「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」2013年07月14日 16:31
私から見れば彼は「本店の吉田」でもあり「現場代表の吉田」でもあり「東電の吉田」でもある。同書に描かれたのが「本店の吉田」でないことは確かであろう。
【本店管理部時代の津波対応をオミットした『死の淵を見た男』】
「物語」という視点を導入したからには、限定的ではあるが、その解体作業にも手を付けておかねばなるまい。つまり、『死の淵を見た男』が抱える問題点である。
最も重要な点は、吉田氏の本店時代の津波に対する姿勢が本書でオミットされていることだ。何度か読み直したが、やはり見つからない。門田氏はこの件をブログで補足している。
『死の淵を見た男』は2012年末の出版だが、本店時代の件は2011年時点でメディア報道で触れられていた。同書は政府、国会、民間、東電の主要4事故調報告書を参考文献としているため、門田氏も当然この件は執筆時に知り得た筈である。明らかに重要なエピソード。にもかかわらず、書籍外で補足するという選択をしたのは、例え弁護のためのロジックを用意していたとしても、美談として製作した同書に水を差す内容だったからではないのだろうか。
【自分の本に書いた話すら都合が悪いと無視する門田隆将氏】
そのブログ記事「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」は奇妙な記述が垣間見られる。
いま、吉田さんが「津波対策に消極的だった人物」という説が流布されている。一部の新聞による報道をもとに、事情を知らない人物が、それがあたかも本当のようにあれこれ流しているのである。
私は、吉田さんは津波対策をきちんととるための「根拠」を求めていた人物であると思っている。新聞や政府事故調が記述しているように、「最大15.7メートル」の波高の津波について、東電は独自に試算していた。これは、2002年7月に地震調査研究推進本部が出した「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という見解に対応したものだ。
そもそも、これはなぜ「試算」されたのだろうか。これは2008年の1月から4月にかけて、吉田さんが本店の原子力設備管理部長だった時におこなわれたものだ。
「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」2013年07月14日 16:31
この程度のことは事故調と一部新聞の報道を取り纏めたらすぐに分かる事である。門田氏は「事情を知らない人物」でもあるまいに、今更何を言っているのだろう。そして、残念ながら、「津波対策に消極的だった人物という説を流布」しているのは門田氏自身でもある。次の記述と比べてみよう。
なぜそんな事態になったのか。吉田にもわからなかったのである。
「この時点で、テレビで津波情報は流れていましたが、そんなに大きいものが来るとは、気象庁からも出ていないわけです。僕は、もしかしたら、津波が来て、(四円盤の)非常用の海水ポンプのモーターに水がかかることがあるかもしれないと、考えていました。また、引き潮になった時に水がなくなりますから、どうすればいいのか、そのへんの手順を考えないといけないと、思ってたんですよ。それで、津波対応として、いろんなポンプの起動手順だとか停止手順だとか、そういうものをもういっぺん確認しておくように指示を出していました。それでも、大きくても五、六メーターのものを考えてのことです。まさか、あんな十何メーターの大津波が来るとは思ってませんでした」
(『死の淵を見た男』P57)
確かに、気象庁の津波警報が津波を過小評価し、大被害に繋がったのは巷間指摘される。この点は吉田氏の証言は当時の状況と一致する。しかし、十何メーターの津波が来ると本気で思っていなかった(頭の中で想定内に入れていなかった)ことも、この証言からは読み取れる。それが、「津波対策に積極的だった」と言えるだろうか。
門田氏は月刊誌に詳しくレポート記事を書いたとのことだが、各事故調報告の後追い程度の内容で「吉田氏は仕事をした」と強調する程度の物なら、価値は無い。吉田氏は「十何メーターの津波が来る」と思えなかったから学会の権威を借りることにし、具体策は延期したと受け取る方が余程自然である。また、学会のオーソライズ自体も表面的な理由かも知れない。90年代末から、東電は原子力部門を含めたコスト削減策に血道を削っていたからである。
巷間伝えられるところによれば本格的な対策費用は400億、致命的な部分に限って数億から数十億といったところと目されるが、例え後者の金額であっても、原子力部門としては避けたい出費だったのかも知れない。そのような小規模対策は単年度予算に収まるだろうが、「吉田氏の在籍した年度の予算に与える影響は大きい」と解することも出来る。
そもそも、東北電や日本原電がオーソライズを待たずに対策(日本原電は吉田氏と同時期、ただし問題もある)した以上、門田氏の弁護は根本的に無理がある。日本原電の例は民間事故調報告書にも書かれている筈だが、同書を参考文献に挙げてる門田氏は何処に目をつけているのか。
【協力企業に関する恣意的な取扱い】
次のような記述も見られる。全面撤退か否かで揉めていた15日前後の様子に関しての批判だ。
一連の朝日の記事の中には、実質的な作業をおこなったのは「協力企業の人たち」という印象を植えつける部分がいくつも登場する。しかし、これも事実とは違う。放射能汚染がつづく中、協力企業の人たちは吉田所長の方針によって「退避」しており、作業はあくまで直接、福島第一(1F)の人間によっておこなわれているのである。
お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事 2014年06月01日 06:28
確かに、運転員は元々東電社員から養成されているし、ベントのための建屋への進入はプロパーの所員から選抜したそうだ。消防車からの放水も15日頃に限っては東電社員だけで実施したらしい。しかし、そんな状態で長く続けられる筈も無い。門田氏は次のように書いている。
この日の朝、死に装束をまとって座っているように見えた吉田ら幹部たち「六十九人」を除いて、福島第一原発の免震重要棟から退避してきた東電社員と協力企業の人々は、六百人近かった。
福島第二原発の体育館に、彼らは収容されている。しかし、「六十九人」の懸命の闘いにも、限界があった。特に原子炉への注水活動の人員不足が時間を経るにつれ、露呈し始めたのだ。
「どうしても、数少ない残った人たちだけでは活動が難しかったと思います。それで一度は第二の体育館に退避した人たちも、徐々に第一に帰り始めるんです。線量の高いところに戻るわけですから、葛藤があったと思います。」
(『死の淵を見た男』P280)
事故発生当初から、対処は協力企業無しでは成立しなかった。それどころか同業他社の力も借りている。例えば、町田徹『震災と電力』には3月11日当日、福島第一に向けて急行する東北電力の電源車の記述がある。東北電力ばかりでなく、事故調での記述を読めば分かるようにあの日、福島第一に向っていた電源車は自衛隊のものなどを含め数十台に上っていた。
14日の3号機爆発の時もそうだ。happy氏は『福島第一原発収束作業日記』に「その日(14日)は朝方の暗い内から作業してたんだけど、「免震棟に戻れ」って指示があって全員戻ったんだ」と書いている。この後吉田所長の訓示があり、一時退所している。要するに、縁の下の準備などは下請け依存だったということだろう。ちなみに、3号機爆発の際は門田氏の大好きな軍人(自衛隊員)も負傷している。放水(つまり、作業)のために展開していたからだ。その過程は彼自身も書いている。
朝日新聞の「逃げた」という表現はまたぞろドラマをやろうという意図を感じなくも無いし、その過程は吉田氏に限らず様々な記録も残っている。だからその批判は分かる。しかし、門田氏が主張していることは「華々しく前線で戦う兵士は志願兵だった」「正規兵だった」「海戦の肝は東郷提督の回頭命令だった」などと言うのと同じで、日常のプラント維持に欠かせない支援部隊や兵站部門を無視した難詰である。
止めとして『死の淵を見た男』から一行引用しておく。
福島第二原発に退避した人たちが、続々と第一に帰ってきたのは、三月十六日である。
(『死の淵を見た男』P287)
一日で戻ってくる程度の期間でしかないのなら、その前後の期間がそうであったように、作業の「量的な主力」は「協力企業の人たち」だろう。この間には協力会社の一つ、原子力防護システムに勤務するベテラン消防士が、同社の本社と掛け合って放水作業に参加するまでのやり取りも描写されている。かように門田氏の健忘症は、党派的である。
【『死の淵を見た男』にもあった吉田所長の「オーバーな表現」】
朝日には厳しく、推進派や反反原発には甘い傾向は門田氏の著書を読んだ筈の読者たちにも見受けられる。例えば、吉田調書から引用した朝日新聞に対して「チャイナシンドロームなんて言葉を使う訳がない」という批判がある(【吉田調書】当時、吉田所長は細野豪志首相補佐官に電話で「炉心が溶けてチャイナシンドロームになる」と言ったのか?-Togetter)。しかし、これは俗語としての使用であるのは一目瞭然だ。しかも、『死の淵を見た男』が発売された時にこうした言葉の揚げ足取りは問題にもならなかったのである。
非常用ディーゼル発電機が津波で停止した際の様子を門田氏は次のように描写している。
いつの間にか吉田には、何かが起こった時に、”最悪の事態”を想定する習性が身についていた。吉田の頭の中は、この時点ですでに「チェルノブイリ事故」の事態に発展する可能性まで突きぬけていた。すなわち、「東日本はえらいことになる」という思いである。
(『死の淵を見た男』P58)
なぜ吉田氏の証言を「直接引用」をしないのだろうか(笑)。
それはともかく、推進派は事故前、チェルノブイリ事故について比較すること自体を否定していた(松野 元『原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために』参照)。事故後も福島との相違点をネットの内外で強調して回った。民間事故調が近藤駿一氏の被害想定を公開した時にも、推進派は「菅直人による政治的な誇張」と嘲笑していた。門田氏の表現は、それらを全て覆すものだ。
ちなみに、『死の淵を見た男』には海水注入問題について班目氏の次のような証言がある。
海水注入を優先して行わないと、本当にチャイナシンドロームになりますので、私は何が優先かというと、とにかく冷やすことですから、海水注入を優先するように言ったんです。
(『死の淵を見た男』P223)
上記より、「プロがチャイナシンドロームなんて言う訳がない」と主張した反反原発全員の主張が崩壊する。揃いも揃ってバカで無能な癖に、下らないまとめでグダグダと意味の無いツイートを重ねているのが良く分かる。
吉田氏の活躍を最初に報じたのは2011年5~6月頃の『週刊現代』だったと記憶する(後で調べたら5月7日号で「日本の運命を握るヨシダという男」とい
う記事が掲載されている)。その頃から率直な物言いをするという評が伝えられていた。そのような人物なら「禁句」を設定するとは思えず、政府事故調に対し
て「チャイナシンドローム」、門田氏に対して「チェルノブイリ級」と語ったのであろう。むしろこれは、事故の重大性を分かりやすく表現するための、吉田氏
なりの気配りと解することが出来る。周囲が、どこの媒体が報じたかで党派的にデタラメな毀誉褒貶を加えているに過ぎない。
同じような話は「メルトダウン」という単語に対してもあった。メルトダウンと炉心溶融-Togetterに詳しいが、NRCのウェブサイトでは普通にFAQにも載っている。反反原発は事故発生時、メルトダウン自体を否定し、溶融不回避と悟ると今度はメルトダウンという言葉を福島事故が当て嵌まらないように歪曲して解釈しようとした。結局、原子力安全委員会委員長という、これ以上無い権威的職位にあった班目氏が、『証言 班目春樹』P64にて「メルトダウン」という単語を使用したことで止めを刺された。
【まとめ・補論】
上記のように、門田氏や推進派の言行を点検してみると、恣意性によりその場その場でいい加減な表現が垣間見られる。また一連の記述と弁明を読んで思ったのは、先ほども述べたが門田氏が後方兵站の重要性を意図的に軽んじて必要以上の英雄視を行う傾向があることだ。菅直人
の「悪役振り」を強調し、わざわざ従軍慰安婦騒動に例えるところにも、本質的に右派であることが伺える。ちなみに、慰安婦問題では今年になって軍の新資料
なども発掘されているのだが、何故わざわざそのような墓穴を掘る言動を取るのか。
ただし、比較して改めてわかったのは吉田氏は門田氏にも政府事故調にも率直な意見を述べていると思われることだ。2つの証言を相互に比較しても矛盾は少ない。そうしたことは、朝日新聞の取材班を含めた、調書を精読した者達には良く分かっていたのだろう。
もう一つ、門田氏の本を最近の寸劇混じりのNHKスペシャルじみていると揶揄する向きがある。私もそう思う。海抜4mのエリア
をわざわざ「四円盤」と呼ぶのは、圧力抑制室を「サプチャン」と意味が失われた略語を使って粋がるのと似ている。こうした言動は竜田一人のマンガ「イチエフ」で「ふくいちなんて呼ぶ奴はいない」と自作を宣伝する行為にも見出せる。「事情通を気取る心理」というべきものだろうか。非常に興味深い。
2014/6/10:内容はほぼ同一だが全面改訂、加筆を実施。
2015/5/14:冒頭にその後の顛末を加筆。
結局、朝日の要求に応じて政府が開示した聴取録からは津波想定に関して驚くべき新事実が発見された。予想通り、脇役に過ぎなかった吉田調書ではなく、保安院の小林調書にある「津波に関わったらクビ」をはじめとする一連の証言である。また、添田孝史氏の『原発と大津波』により新証拠が多数提示され、当ブログでもダメ押し的に多くの新資料を提示した。最早、検察官がどれほど政府の顔色を伺って恥を晒すかだけが、問題点だと言える。
片や、門田氏はWILL、産経をはじめとする右派メディアに露出を重ね、完全に御用評論家のポジションで安定、底の浅さを晒す結果に終わった。当記事のコメント欄を読んでも「政局」「右左」にしか興味の無いネット右翼が反感を持っていたことが分かる。