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2017年6月15日 (木)

自らの公共的役割を語った後に縦笛発言をしていた新海誠監督

ニュースの政治面から目が離せない状況でこんな駄文を書いていていいのかという自問はあるのだが、これまでの自分のスタンスと整合は取っておきたい。

2017年6月13日「新海誠監督が不倫」というニュースが日刊スポーツに掲載され、それから数時間もしない内に監督が否定するという一幕があった。

私は、極限られた情報を以って、当事者、日刊スポーツの意図を議論しても意味は無いと思う。多くの観客は作品を見に来ており、監督の個人生活に興味がある訳ではないからだ。

そのことより今回初めて知って不味いなと感じたのは、次の件である。

『君の名は。』公開後、新海監督は次のように発言している。

自分としては、この先、もう1本か2本はサービスに徹した作品を作りたい。映画の世界で、自分の居場所や役割、もっというと日本社会の中で、自分の公共的役割を見付けていかないといけない年齢になった気がするんです。

【君の名は。動画付き】新海誠監督が大ヒットアニメの舞台裏を語った…「1分たりとも退屈させない作品を」(1/5ページ) - 産経ニュース 2016年9月19日

結構な志である。新海監督はティーチインその他で、「万人に向けて作品作りをしたい」という考えも表明しており、そういった意図も含めて『君の名は。』を評価している人は多いだろう。

私もその口で、新海監督のことは『ほしのこえ』以来知っていたが、『君の名は。』には恋愛映画とは別のメッセージで触発されるところもあり、以前「【平日の3.11を】『君の名は。』ティーチイン(仙台)に行ってきた【祭日に投影】」という記事を書いた。

だが、産経インタビュー記事の3ヶ月後、新海監督は次のような発言をしていた。

コラ画像では無く、『ゴロウ・デラックス』という番組の2016年12月16日放送分である。

新海監督のこだわり 唾液から作る口噛み酒

小説と映画で2016年ナンバーワンヒット「君の名は。」を特集。新海監督のこだわりは唾液から作る口噛み酒だった。ラブシーンを表現する手段だとし、男子は好きな子の縦笛をなめるようなフェチ要素があるのではないかと話した。稲垣吾郎は自分のフェチは喋ってるときの口だと話した。

ゴロウ・デラックス 本邦初公開!「君の名は。」制作日誌 TVでた蔵

少し調べると分かるが、幾つか挿入されている性的シーンの中でも、口噛み酒は製作中にスタッフ達から特に「気持ち悪い」と指摘されていた。そういった批判を考慮して、設定やキャラクター達の受け取り方を工夫するような修正が加えられた、と巷では言われている。だからこそ、性的な物目当てで見に来ていない多くの観客も、「設定」としてスルーしてきた(設定、というか入れ替わりを経験していることを考えれば、口噛み酒にまつわる行為は、問題ではないとも見做せる。「見た目は幼女だけど年は成人のキャラクター」のような、やたらに使い古された「設定」と同質の逃げではあるが)。

私は男でフェミニストでもないし、そう言う人達を批判したこともあるが、十代の頃から女生徒の縦笛やら唾液を舐めようと思ったことは無いなぁ。経験上、男子生徒の多数派がそう望んでいたようにも思われない(勿論そう言う人は一定数いるだろう)。現実で人の物を勝手に舐めるのは単なる迷惑行為だろ。よくある姿格好や行動に魅了されるのとはそこが違う。ついでに言うと私の場合、小学生~女子高生に執着も無いんだよね。

『君の名は。』は何回も見ているし(見ないで批判ではない)、BDの予約を解除する気も無いし、上映の機会があればまた見に行きたいとも思っている。公式設定からは排除されており、縦笛的解釈をしなくても観賞は可能だから、この件だけで全否定はしない。しかし、一言忠告はしても良いだろう。TV局から「何か面白いこと言ってください」と煽られたのかも知れないが、今後、こういう失言はしないでほしいね。内輪ネタを人にばらされたという事情なら、同情の余地もあるが。製作スタッフに対しても失礼だろうよ。

ガンダムの富野監督にせよ、ジブリの宮崎駿監督にせよ、過去のインタビューなどを見ると公共的役割は意識して作品作りをしてきた。観客もそれは了解していて、彼等の性的嗜好(はっきり言って縦笛発言並に痛い)も既に明らかになっているが、それを最終目的にして見ている人はさほど多くは無いだろう。新海監督も諸先輩のそういう部分の真似はしないことである。

こういうことを書くと、「PCを守っていると作品がつまらなくなる」「TVで面白いことがやれないとぼやいてる芸人の問題と同じ」という指摘が必ず出てくるが、まぁそれを守って空前のヒットを遂げた作品もあるし、「お前の番組を見ていると弱者叩きを生きがいにしてるようで気分が悪くなってくる」的なコメントばかりしている芸人も多いのが実態である。万人に向けて公共的役割を意識した作品を作りたいとしているなら、このようなメッセージは発しないことである。

2017年3月 6日 (月)

【平日の3.11を】『君の名は。』ティーチイン(仙台)に行ってきた【祭日に投影】

新海監督が『君の名は。』のティーチインをするというので仙台駅前のTOHOシネマに行ってきた。今回はそのレポート。当然ネタバレ前提なので未見の方は気を付けてください。また、組紐、扉、月の満ち欠け、トンビ、光と影、神話等、様々なギミックが指摘されている作品ですが、当記事で重点を置くのは殆ど災害映画としての側面です。

※本業多忙につき通常のシリーズ記事が滞っていますが、3月11日までには仕上げたいと思っています。

久しく行っていなかったティーチインを実施した理由はただ一つ、3.11から6年、想定外のロングランが遂にアニバーサリー報道の跋扈する時期まで続いてしまったからだろう。

そして、私も誘惑を押さえ切れず(大仰かも知れないが)スベトラーナ・アレクシエービッチと同じ観察者の轍を踏んでしまった。それは恐らく監督達も同じ。東宝は営業データから細かく動向をチェックできるだろうが、空気感ばかりはその場にいないと分からない。被災地の人達はどう受容しているのだろう、という疑問は当然湧いてくる。

生まれてこの方アイドルのおっかけとは縁のない人生を歩んできたので、舞台挨拶付き上映会は初めてだ。入れ込んだ理由は、よく言われているような点で高く評価しているからだけれども、私の場合、一般的ではない要因が幾つかある。まずはそこから。

【『君の名は』に入れ込んだワケ】

○倫理問題

「現実の災害を玩具にして」という倫理問題が言われることがある。『風が吹くとき』など、起こる前にディストピアを提示する映画には大きな価値があった。後追いで作られた架空の原発事故を描いた映画監督が何か言っていたそうだが、訴状作りの役にも立たない。起こってしまった後にそういうアプローチは意味をなさず、うんざりするだけ。必要とされるものは追悼や内省を促す作品である。

もしも原発事故の責任を主題に据えるのであれば、実録ベース以外に道は無い。

○郷土映画

自分の体験とシンクロし易い、現代の要素がある作品でないと私は没入までは出来ない。歴史物、SFなどどれも好みだが、時代や国が大きく異なる場合、対象にホイホイと憑依することはこれまでも出来なかった。

新宿は、今は引っ越したけれども多感な10代の頃に過ごした街で、一時期は働く場でもあった。単純に郷土が出てくるのは嬉しいし、「東京だっていつ消えてしまうか分からない」という一言は、到底無視出来ない。

新海作品を特徴付ける美しい街の風景も、「今の東京を心象風景として刻み付ける」ようにも使われている。そういった監督の意図はとてもフィットした。

ただ、地元民視点から見ると、通学で電車依存となっている瀧の有り様はちょっと違和感がある。千代田区六番町から新宿駅近郊の高校までなら、晴れの日は徒歩か自転車だよ。その方が体力もつくし。都会育ちだから歩くのは慣れている、そういう逆説がある。

○瀧と同じことをしてきた

3.11以降「知り合いがいる訳でもないのに」津波想定や原発建設の(各事故調が無視した)経緯について徹底的にリサーチし、実質的にデータマンとしての役割を果たした。これは、クロニクルの各記事を御覧頂ければお分かりの通り。興味を持たれた方は少しでも目に止めていただけると有り難い。

だから、劇中で瀧が糸守について執拗に調べるシーンがなぁ。瀧の個人的な人探しとの違いはあるが、本質で重なるものもあるから、寓意として共感出来る。焦点を合わせてる部分が人の内心だからだろう。特に「何故心を締め付けられる?」という体験。東電や津波に関係しないのでアップしてないが、双葉郡各町の広報誌、特に2000年代のものを読むのは正直きつい。絵に描いたような幸せそうな住人、特に子供達の、基礎自治体目線ならではの、自然な笑顔が多数収められている。その後、キュウイの里も、桜並木も、個人的な縁を言えば松島の市街も全部駄目になったことを知っているとね(立ち入り禁止が解除になったエリアもあるにはあるが)。

果たして監督は、子供を意図的にカットに入れているのだろうか。

○趣味は部室

重い話が続いたが、廃部室もある種の郷愁を掻き立てる。学生時代、「趣味は部室です」と自己紹介するほど部室に入り浸っており、パソコン、アマチュア無線共手を染めた。90年代から2000年代前半に正にああいう感じで。スチール製のラックや作業台替わりの会議机、古いソファ。私の友人にも勅使河原のように、自室が部室的レイアウトになってしまった人が何人かいる。

なお、糸守の高校は高台にあり、電波環境は良好そうだ。アマチュア無線にあつらえ向きだろう。

【上映中に気づいたこと】

満員となった客席の雰囲気は東京に比べて違和感は無かった。もっともこの映画、普通の娯楽映画に比べると少し違っていることが多い。強いて言えばクラシックの演奏会と彼岸に寺社内で開放された談話室を合せたような感じ。

上映中は東京より真剣に見ている人が多かった。ギャグシーンで笑い声が殆ど聞こえてこない。もっとも、笑い声に関しては年が明けた頃から顕著になってきた現象で、リピーターが極めて多いことを示している。最近は初見のファミリー層が多数来館する休日昼下がり以外、笑い声を聞くことは殆ど無い。

以下、時系列順に感想を書く。パンフレット等で解説済みの話はほぼ外したつもり。ギミックに関連する人文系の知見だが、あまりマニアックなものには立ち入らない。試写会頼み?の『ユリイカ』や一見論評よりは地に足の着いた内容になったかと思う。

まず、この映画を民俗学・神話から読み解くにあたっても、監督が規定した表のテーマと裏のテーマで読みが変わってくる部分がある。三葉が弥都波能売神(みづはのめのかみ)からの引用に始まって、神話の男女逢瀬等々、表のテーマに係る解釈がネットでは殆ど。正直、設定として上手く当て嵌めた、以上の感動は無い。私が問題にするのは当然、裏テーマ。名前の話にしても「水神」と来れば津波絡みと読むしかない。

  • OP直前の「美しい眺めだった」。ティーチインの前から何となく思ってたことを思い出したので書いておく。彗星を題材にした理由の一つは、ネットでは九州の須賀神社絡みと言われているが、2つ目のテーマに沿った場合、異なる解釈が可能である。

    監督自身もどこかで言っていた気がするが、『日本書紀』などの神話を参照したものらしくネットでもそういった解釈がなされている。注意しなければならないのは、『日本書紀』はその後続刊が編纂され六国史と称されたこと。その最終巻『日本三代実録』になると神話的色彩は無くなり、現代の行政組織が発行する年史とほぼ変わらない事跡の羅列となる。そして『日本三代実録』の時代には貞観地震があり、冒頭の描写はその記述「光が見え隠れして昼間のように明るくなった」(現代語訳)に倣っていると思われることだ。なお、原文では「流光」と記される。

    表テーマは恋愛論的に解すると幻想となり、神話(国生み神話)との相性は良いとされる。しかし、裏テーマは神話というより事実を元にした寓話や実録との相性がある。ティアマト彗星がメソポタミアの海の神となっているのは当然裏テーマに沿っているが、その姿も地震に由来するということだ。

    なお、記述から分かるように貞観地震の発生時刻は夜。地震時の発光現象は幾つか目撃報告はあるが、予知の役には立たないとされ、まともな地震学者(と思われてきた人達)からはオカルト扱いされてきた、という事も本作の裏テーマに絡めるには良い材料である。恐らくこれが正解、というか災害映画としての意味になる。とは言え、当地自ら宣伝に回っているのでなければ、震災後何もしてこなかった映画ファンは須賀神社の聖地巡り程度に留めておくべきだろう。
  • なお、最初の特報CMは主に本シーンを素材にしているが、数あるCMでも台詞と音楽のテンポが最も整合している。
  • ティアマト彗星。10月2日、4日の方は「軌道が正しく描かれてない」などと言う批判に何故多くの人が飛びついたのかさっぱり分からない。全編通して地表との位置関係を考えれば「キャッチーだから」導入したとの公式発言通り、絵的にはビジュアル重視は明らか(TVニュースを見直すまで気付かないとは、何を見ていたんだろう)。むしろ適度に割り切っていて気持ちいい位だと思う。監督の認識がもう少し現実寄りにあることは、小説版の彗星描写(OPでレシプロ機並みの降下だったのが「秒速20㎞」など)から自明のことだ。
  • ニュースの模式図でもう一点。拡大図では地球、彗星、月の順に並び、作中の地表からの視点とは一致している。後半出てくる10月4日のニュースではピークが19時40分となっており、大体転ぶ時間に近い。
  • 胸の件、シーンとしてかなり配慮した跡も見られるが(ここで詳しく論じられている)、昔こんな深夜帯の萌えアニメみたいなことしてる人じゃなかったけどね。こっちだってそれ目的で来てる訳ではないし。
  • 旨そうな飯は精々50年代生まれまでの絵描きの専売と思っていたが、この朝食は美味しそうだ。良い物を見た。防災無線の個別受信機は意外にもここ2・3年で普及したものだそうで(リンク参照)、その辺りの取材もしっかりしている。
  • 登校する姉妹。オロナミンC風の広告がある階段で四葉はお米屋さんの話をしている(字幕版で分かる)。
  • テッシーからカフェと聞かされて目の色を変える二人。中京圏の喫茶店文化を知っているのだろう。北限は高山付近だから憧れもひとしおだ。自然な描写になっており実に上手い。
  • 瀧(三葉)達のカフェ巡り。ネットの一部でブルジョアとクレームが付いたが、下らない。そりゃ世の中苦学生もいるし、須賀神社周辺にもそういう学生向けのアパートはありましたよ(何十年も前の話だけど)。でもバイトしてる訳だし。小金を稼いで某高級焼き肉屋に行ったり、馬車道巡りしてる友人を身近で見てきたので、特に違和感は無いな。あの高級カフェが東京の全てでは無い位、日本で生活してたら誰でも分かる事だし。
  • レストランで奥寺に嫌がらせする山本(字幕版で分かる)。これもバイトで陥る窮地あるあるだな。私も昔、初日にこの手の揉め事に巻き込まれて、しかも被害者がお客だったのでクレーム貰ったんだよね。その後はそこそこの対応力付けたが。だから、バイト初日の三葉は、本当に凄い。
  • 導入部の締め、前前前世。107分しかない尺で、何故こんなに展開が速いのか。120分程度にしてアースバウンドに回したエピソードを映像化する道もあった筈である。最も直接的な理由は全体のテンポが乱れるからだろうが、他にも理由はあると考える。本作の表のテーマ、ボーイ・ミーツ・ガールだ。

    二人は互いを認識してから深い愛を確信するまで劇中1ヶ月しかかけてない。愛に限らず一般的に、他者と深い信頼関係を構築するには短過ぎる期間だ。それを解消したのが入れ替わり。身体感覚で互いの本音に触れるという、凡そ現実では不可能な行為の繰り返し。隠し事もほぼ不可能。だから、当人達すら意識しない内に、急速に距離を詰めることが出来た(アースバウンドでの入れ替わることなど不可能なテッシーの描写が良い対比となっている)。「リアルに」心理描写を考えるとそうなる。種々のギミックはあくまで装飾。だから導入部の展開を省略しても意味は通る。

    勿論、災害映画としては、「会えばすぐわかる」という、無くしたらPTSDレベルの信頼関係が、現実を反映するために必要だった。
  • バスケで飛んだり跳ねたりする三葉(瀧)。人の体なのだから余り無理はしない方がいいぞ。本気でバスケやってるとひざ痛めること位、中学時代バスケ部だった君なら知っているでしょう。
  • 御神体に奉納しに行く途中映る、送電線が2導体x4組の鉄塔。通常、送電線は3相交流が流れているので、3本で1回線を構成する。更に細いOPGW(架空地線)が塔頂に1本加わることもある。あの送電線にOPGWは無いので数が合わない。なお、この送電線はパンフレットVol.2表紙にも確認出来る。

    糸守変電所のモデルは新信濃周波数変換所の撤去済みの設備だそうだが、ロケハンした際に直流送電線もお遊びで入れたのか。ネットの電力設備オタクがこの送電線に興味を示さないのも謎である(なお3.11後、高山付近に新規に周波数変換所の設置が検討されている)。
  • 丸の内線の走行音がE231系以降の通勤型に置き換えられている件。エンドロールと東洋経済の記事を読むとJR東日本企画が参加しているので、それが理由だろう。裏テーマを考慮すると、登場する鉄道事業者で只のビジネスではなく社命・メセナとしての意味があったのはJR東日本だけ。
  • 最初の秋祭り。御神灯(神に供える灯火)が町の規模に比べて異常に多い。この御神灯は町長説得の失敗後も背景に登場し、停電で一斉に灯を消す。ティーチインで後述するイメージに沿った意味が与えられているのだろう。
  • 司、奥寺先輩と乗った東海道新幹線の3列シートが山側になっていると鉄道マニアがはしゃぎ、東洋経済の記事でもJR東海が絡んでいれば避けられたと示唆していたが、2冊目のパンフレットにある通り、現実の鉄道と意図的に違えている部分があり、総武緩行線でも四谷駅到着シーンは左右反転していたりする。3列シートの件も、表面的な理由は観客の視線移動にあり、裏の意味としては下り列車で3列シートが東京側を見て左になる位置、即ち東北新幹線の暗喩だろう。

    その傍証に、東京駅の乗り換え案内サイン(柱に貼られている大きなサイズのもの)で縦に2種のサインが並んでいるものは実際の東京駅では殆ど見かけない(こちらのブログにある程度)。写真展における「山陸」と同種の意図と考える。

    他にも海岸沿いに近い白砂青松の風景は映さず山、田園、トンネルを映すことで東北新幹線に近い印象を与えている。
  • 3発目が落下してひょうたん型になった新糸守湖を高校からのぞむ。新しい隕石の方が大きなクレーターを作っている(小説でも言及がある)。これは、M8.5程度と推測されている貞観地震に比較し、東日本大震災の方がM9と規模が大きいことに対応している。

    小学生向け図鑑などで、大地震の大きさを比較する時、震央を中心として円を地図上に描いたものがあった。監督の故郷の湖をモデルにしたことは明らかにされているが、大きさを違えたことに関しては図鑑からヒントを得たのだろう。

    なお、それまでは何気ないシーンでも雲が動いてることが多かったが、このシーンでの雲は静止画である。
  • 旅館での司と奥寺。ビールのロゴがSAKAKI?となっている。冒頭のカフェでテッシーが飲んでいたコーヒーはサントリーのBOSSと明記されていたのと対照的。様々な事情で本来の姿でコラボ出来なかった商材も多々あることを示している。
  • 口噛酒を飲んだ瀧はトリップし、二葉の死を目撃する。不治の病で死んでしまうことから、双葉郡を暗示しているのだと思う。アースバウンドでは生前の姿が描かれており、更なる現実の暗喩について思いを巡らせたこともあるが、これ以上は厳しいかな。一葉、四葉は語呂合わせだろうね。
  • 瀧がトリップ中に目にした三葉。小説だときちんとした口語文だが、映画は「ちょっと、東京行って来る」「ええ?」←参考文献は匿名掲示板ですかねぇ。
  • 作戦会議で後ろ頭を掻く。髪を切ったので地が出し易い。頭は後に面接でも掻く。前後するが肘で付いた後のあの笑い、パンフレットを読むと思い入れありそうなんだが「異界からの使者のように」と指導したのかね。
  • 小説版だと作戦会議で、瀧の内心として「生きていればどうにでもなる」との独白がある。確かに死んでしまうことに比べたら、また、東京の人間が発した言葉としては説得力がある。だが、実際の震災後、生き地獄と言って良い不遇に陥った被災者にとっては、素直に受け入れられる感情であるかは疑問だ。もっとも、それを扱うことはこの映画の範疇を超えてしまうのではあるが、私も多少は見聞してきた以上、言及しておく。瀧君は大人になったら是非そういうことも知ってほしい。
  • 町長の態度も現実の暗喩と気づく。自分の娘さえ馬鹿にして病人扱い。町長だけではなく小学生すら同じ態度を取る。社会が、3.11前に警鐘を鳴らした人達をどういう態度で相手していたかを多少なりとも知っていると、被災地を含めてかなり内省を促す表現。観客も東京より厳粛だった(気がする)。驕れる地方政治家には良い薬だろう。
  • 三葉(瀧)が思い浮かべる御神体は2016年の様子なので川は増水している。その後、1回目の死亡時から瀧の体に飛んできた三葉のシーンとなる。噛み口酒の小瓶が描かれていないミスもあるが、新糸守湖を臨む際、背景に映る川の増水は引いている。2013年10月2日から10月4日まで糸守で雨は降っていないので、片割れ時は料年共水が引いているのが正しい。ところが、片割れ時終了後のズームバックにて2013年に切り替わる際、川の水は増水したままになっている。ソフト化の際修正入るだろうか。
  • 美濃太田行きのローカル線。高山本線では2015年までキハ40が現役だったようだ。ひと昔前の地方を象徴する車両で、国鉄色に塗ってしまえば普遍性はより高まり、2013年の描写にはあつらえ向き。時期の問題も配慮があるのだな。東海道新幹線は海側が2列になっており、上記と併せて完全に反転。
  • 片割れ時。観客が感極まっているのは死者が蘇り、あるべき場所に魂を収めたことなのに、台詞上は三葉の方から「瀧君がいる」と言っている。ちょっとしたテクニックだが、場面の立体感を高め、二人の相手に対する心遣いが感じられる。夢灯篭の旋律を使用し作品の一貫性もある。いや待て。OP主題歌は当初案を差し替えて夢灯篭になったそうだが、この劇伴が先に生まれ、後から主旋律を取って作曲したのだろうか。音楽雑誌の特集記事でもその点を掘り下げた記述は無かったな。
  • なお、片割れ時のやり取りを瀧の視点から眺めた小説版では、監督が知ってか知らずか最近問題視されている「恋愛工学」を全否定してることも好評価ポイントだ。
  • 三葉につられて笑う瀧。正直変な笑いだと思っていたので、上白石氏がベタ褒めしていたのが不思議だった。よくあるスタジオの生声と録音の差かなと思っていたのだが、極音上映で聴くと神木氏の熱演が伝わってくる。
  • 「再演の日」になってキャラデザで気づいたこと。主人公二人は完全な美形としてはデザインしていないとどこかで読んだ。常時美形として描かれてるのは奥寺。三葉は瀧を「ちょっとイケメン」と形容した。それでも美形としての印象が強いのは「何かに真剣になっているシーン」での作画管理が厳格だから。そうやって顔に心を映し出したということ。逆に導入部のほのぼのシーンは記号を多用し全体的に緩い感じ。基本的な演出技術だろうけど実に上手い。
  • 自分の体に戻った三葉が夜の山道を全速で走り、停電してるのに皆が迷わず避難出来る理由。小説を読んだら彗星は月明かりより明るいと書かれていた。瀧は当然知っていた。だから停電のアイデアに同意出来たのだ。
  • サヤちん「完璧犯罪」、テッシー「ここからは冗談ではスマンで」(小説版)、「二人仲良く犯罪者」。電源を落とすことは「完璧な犯罪」であると言っている。現実では、変電所を含めて電源(これは発電所を指す業界用語でもある)を落としてしまった東電は、想定除外で裁判となっている。何となく、原発村に対する暗喩を感じる。まあ監督は毎日新聞のインタビューで「価値観訴える映画、作りたくない」と言っており、暗喩としては曖昧過ぎるからこれも厳しい解釈ではあるが。
  • スーパーカブの後ろ側に見える送電線。良く見るとなんか弛度がおかしいな。東宝はちゃんと予算を当ててやれよ。
  • 倒壊する糸守変電所の鉄塔。ところで、糸守はスタッフにより一部の場面で糸森に変えられている。つまり、糸森変電所が夜に爆破され、鉄塔が倒壊する。夜ノ森線へのメタファーだろうか。変電所なのに周波数変換所をモデルにしたのは「入替」にかけてるんだな。
  • 祭りの中、楽しそうに彗星を眺める村人たち。現実との対比で言うと、当時そこまで呑気では無かったため、観客はやや距離感を感じるシーンでもある。 何故なら、地震後はとるもとりあえず指定の避難所なり高台に向かっていたのが実際の被災地の姿だからだ。
    しかし、ここでカメラが映している人達は、避難し切れなかった、何らかの事情でしなかった人がモデルであって、
    生者たる被災者ではない。一連のシーンでのんびりしているのはそのためだ。
  • 劇中歌の歌詞は一見するとその場面で進行中の出来事とは無関係である。しかし、登場人物(専ら瀧。外から村にやってきた者としてキャラ作りされているため)の回想を歌っていると解すると全てが分かる。

    スパークルの場合、「遂に時は来た。昨日までは序章の序章で」は作戦の開始に合わせているが、実際には「再演の日」にやってきたことを思い返して語っている。
    停電の直前は「自分が電車の中などで、日頃三葉をどう思っていたか」を瀧が回想する視点。デート失敗後、糸守の絵を描いているシーンに対応し、台詞は無かった所である。敢えて台詞を消すことで、スパークルでの回想に説得力を持たせている。
  • また、人間開花版だったと思うが、フルで聞くとあの叫びには愛だけではなく慟哭も含意していることが分かる。MVとして再編集された映像からも明らかである。
  • 町が停電していく様子を空から見る。画面右上に炎上する変電所が確認できる。彗星落下後、テッシー達が日本の頑迷な官憲に逮捕されなかったのは、功績や住民の口裏もあろうが、物証たる変電所の残骸が吹き飛ばされてしまったことも影響しているのだろう。勿論停電の記録は残っただろうがね。
  • 鳴り響く警報。あの日私は現場にはいなかった。だが「トラウマになるから辞めろ」と言われつつ、実態解明のため何百回も津波襲来時の動画を見てきた。だから、あのシーンは直ぐに分かることだったが、西日本を中心にその再現だと素で分からない方もいるようである。そういう映像から目を逸らす人達も沢山おり、既に「忘れられ」始めているのかも知れない。だからここに敢えて書き残す。
  • 「知るかアホ。これはお前が始めたことや。」と叱咤するテッシ―。そう。この場面に限っては、表のテーマ「ボーイ・ミーツ・ガール」は個人的事情として封印され、裏テーマが完全な主役に躍り出るのだ(三葉は冒頭で愚痴を言っていた割には町の人達を見捨てずによく頑張ってはいる)。
  • 「こんな田舎でテロなんかあらすけ」と言ってるのは防災課の職員。宮水俊樹の前でおろつくのは防災課長である(字幕版で分かる)。
  • 彗星が落下し爆発する。高校上空から1~2秒程度の描写だが、空を見ると雲がドーナッツ状に変形している。市原悦子氏が広島、長崎を髣髴させるとコメントされており、「製作陣は流石にそこまでは意識していないでしょ」と思っていたが、あの核実験のような雲の広がり方を目にしての感想だったとしたら、絵的にそういう面はあるかも知れない。
  • ネットで議論となった話の中に、「作戦の首謀者3人はどうして逮捕されなかったか」というものがある。役場は事情を把握しているので、物証(変電所)が消し飛んでいても3人の間だけでの隠蔽は困難である。また、瀧が読んでいるネットニュースのように、写真も撮られてしまっている。

    恐らく、覚悟を決めた三葉にキーがある。つまり、彼女は隠そうとしたのではなく、目が座ったまま「爆破したのは私たち。避難してもらうためにやったの」と俊樹に告げたのだろう。あのシーンは典型的な父殺しだが、事態の本質を明瞭に告げることで、俊樹には娘の意志を尊重し、庇護する動機が生まれる。そうして、役場を巻き込んで隠蔽してしまったと考えるのが実は最も筋が通っていると思うのだが。

    監督は2冊目のパンフレットで瀧は異界の食べ物を食べて三葉になっていったと書いているが、三葉も瀧的になっていった面はあると考えるのが自然だろう。その意味でも三葉が決断力ある人物として振舞ったことは想像に難くない。
  • 瀧が就活で着ているリクルートスーツは本当に似合ってないのが素晴らしい。一方、就職後に着ている背広は板についたものだ。流石、実質的な勝負服になっただけのことはある。
  • 夕暮れ時に奥寺と瀧が眺める風景。防衛省の通信塔が印象的だが、あれ、近くで見ると結構塗装が劣化してるんだよね。塗りなおさなくても大丈夫なのかな。
  • 糸守の人々のその後。花屋の男に牛丼を食べる女。「ジェンダーをテーマにしないと決めた」と言う監督の自己認識が作品の随所に反映されている。実のところ「入れ替わりで性格が変化する」という設定を当然視している辺り、監督の無意識なジェンダー観が垣間見えて興味深い。2冊目のパンフレットにあった言葉を補うなら、思考の性差を先天的(=肉体に宿る)物と考えていないことが良く分かる。宮崎駿、引退撤回したそうだが、早逝した弟子にも抜かれていた貴方が、今から追いつくのはもう無理だな。それは罰だよ。
  • 先に、二葉=双葉郡の暗喩と書いた。最終的に糸守町の住人は助かるが、町が壊滅(一部は消滅)し、自治体として機能不全となる未来は変えられなかったことが、エンディングの上京した若者達から見て取れる。観客は結構分かっているが、あのシーンはそういう悲しみもある。監督だかRADWIMPSは「先の見えない不安な時代」と言っていたけどね。だからこそ「もう少しだけでいい」「何でもないや」という所に繋がる。
  • エンディングのボーイ・ミーツ・ガール。インテリから集客目当てと批判されたが、元の興収目標20億なのに監督が可哀想だ。生き残ることで出会いの機会に繋がるという災害映画との表裏一体の関係からすると、あれしか無かったと思う。素晴らしいのはこの二人が再度出会うことで、監督がパンフレットで言った「後は想像の範疇」に東京組と糸守組の大円団が射程内に入ること。貴樹に見せつけてやったれw
  • しかしながら、最低でも勤続4年目以降と思しき三葉はともかく、瀧はようやく見つけた就職先に振り落とされないように通ってる筈が、朝から仕事サボってデートか(西村智道風)。彼、試用期間中だよね。あの涙って「やっちまったのかー俺は」的ニュアンスかねw 5分後の醜態が見たくして溜まらない。
  • スタッフロール、英字幕版の時はいたく簡略だったが、北米公開の際は全訳した方が良い。余韻を楽しんでもらうべきだ。
  • ようやく幕が上がった。これだけやってオリンピックや現代の皇室のような、人を分断するワードを作中で一切使っていないのも大したものである。

【ティーチイン】

上映が終わり、満場の拍手で監督を迎えてティーチインが始まった。

「県外から来た人手挙げてください」は面白かった。3分の1位だろうか。安易に首都圏と考えてしまいそうになるが、東北地方は高速と新幹線が整備されるにつれて、各県間の移動が定着していったという話を読んだ記憶が蘇ってきた。行楽客は当て嵌まりそうだ。新幹線の場合、福島から20分で仙台に着いてしまう。県外からの来客も主力は東北地方の人達ではないだろうか。後述の質疑でも1人は青森から来たと言っていた。

リピート率も手を挙げて確認。4分の3位だろうか(なお最高は405回の方)。

なお、世代は広汎に分布、というか30代以降がとても目立つ。この件については公開初期にカップルを憎悪?していた「意識の高い人達」の評を信用してはならないw

動員数に話が及ぶ。2016年は邦画当たり年と言われたが、海外展開で期待できる戦略商品は本作だけ。監督はそのような意図は無かったとしつつも、多くの人に届く映画を作りたいという思いは持っていたそうだ。興味深いのは、神社周りの描写以外は、普遍的な日本の生活風景を紹介する構成にもなっていること。(社会問題の指摘はともかく)まだまだ変な日本の描写は散見されるからなぁ。改善に繋がれば嬉しいね。お互い。

【準備していた質問】

質疑応答では20名程が挙手。30分では時間的に厳しく、7~8名程で終わってしまった。製作中の苦労話、次回作のこと、趣味嗜好のこと、などなど。糸守町の中学校について、この日まで誰も設定を練っていなかったというのは、面白い検討抜けだった。

国内の観客動員を九州の人口と比べたり、自身の実家の小海町の人口を例示したり、監督は計数にも明るいようだ。小説にあった「電車に一両100人詰めて」等の表現は語呂と雰囲気重視なのだろう(通勤電車の定員は座席が50~60人程度、立席を含め140~150人。150%の乗車率なら210~225人となる。中央緩行線は朝でも空いてるが)。

なお、私は次のような質問を用意していた。

名取が放送をかける前「私、本当にやるん?」と三葉に向かって迷いを見せ、その後覚悟を決めて実行しますが、教師達に止められます。それは劇中での必然性があっての行動と結果であることは勿論ですが、見ているのは我々観客です。なので、ずっと疑問に思っていました。「本当に演るん?」て誰に向けて言ったのかなぁ、と。最初は観客だと思いました。警報からの一連の流れはそれまでの稲村の火からややスイッチし、3.11の明瞭なオマージュだと我々は知っています。でも、良く考えると我々が答える質問ではないですよね。

だから、映画館に足を運ぶことが永遠に出来なくなった人達の御霊に向けて、「宜しいでしょうか」と尋ねたのかなと。

実際の出来事をモチーフにフィクションを作ることはどなたでもやることですが、中にはこれはどうかと思うような使われ方もある。監督の場合は、一連の言行から受ける印象として、それをやったら相手がどう受け止めるか、考えて行動する方とお見受けしました。このように考えると、最後の一押しをするのは神職でもある「本物の三葉」でなければならないし、名取は「お姉ちゃん」を演じる訳ではありません。そして、町長や教師達が「普通の大人」としての役割を示すために「誰が喋っている」と止めに入り、「何てことしてくれたんや」と叱責して、放送のシーンが終わる。そうすることによりお会いしたことのない御霊への礼と謝意に代えて、お帰り頂く。祭り、つまり祭礼の中で起こった出来事(芝居)として眺めるとストンと腑に落ちる。そういうメッセージを込めているのでしょうか。もしそうであったとしたならば、演者の方達も了解済みで収録されたのでしょうか。

映画館への道中色々考えたが、仙台という土地柄、と客層を予想し上記に決めた。隕石とラスムッセン報告について尋ねるよりはマシだったと思う。もっとも、指名されたとして、最後まで淡々と話せたかどうかは、正直自信が無い。なお、小説版ではこの日を「再演」と位置付けている。テッシーが「ここからは冗談ではスマンで」と言っているのは既に紹介した通り。

【震災は平日に起きたのに、彗星は何故祭りの日なのか】

私が言いたいのは「この映画は大津波を石碑や神社仏閣で示すことで伝承した事実がモチーフ」「夢のお告げを受けた少女が人々を災害から救う」という既にリリース済みの「裏話」ではない。そんな話をここで繰り返しても今更意味は無い。また「劇中では三葉が生き返ったから再演なのは当たり前」ということでもない。

監督はあるインタビューで「全身全霊で作りあげた」と語っていたが、恐らく映画を使って本気で慰霊する気だったのだろう、という事だ。

一般的なストーリー解説では「彗星が落ちたから宮水神社で祭りを行なって伝承するようになったという設定」と理解されている。

コラム
飛騨に近い美濃地方で輪中を設けている地域では、水害のあった日を祭礼の日に指定し、水神を祭る例も見られる。和歌山県広川町の津波祭りは伝統としては浅いが、あの「稲村の火」を伝える。大津波で犠牲になった人々の霊を慰め、稲の束に火を放ち、この悲劇が二度と起こらないように堤防を築き上げた浜口梧陵の遺徳をしのぶとともに、住民の津波災害に対する啓発につながっているという。

だが、これだけでは3.11映画としてのモチーフを説明するには不十分だ。例えば、2011年3月11日は只の平日(金曜日)。祭りなど無かった。だから、入れ替わりの設定などを導入したとしても、事実に倣えば、普通の日に落とすことになる筈だし、伝承が話の過程で明らかになれば十分。祭りの日に災禍を合せることまでは必要ない。ところが、この映画では曜日はモチーフと揃えているが、わざわざ祭りの(ハレの)日としている。更に言えば、震災は月日までは予報されていなかったが、彗星(と祭り)は月日まで予告され、作中で大衆は心待ちにしているのである。寓話化としては「祭りを楽しみに待つ大衆」は余計なのだ。

要するにストーリーの中で整合を求めることは限界があり、我々の生きる3.11後の社会とのダイレクトな働きかけを考えた方が良い。それが、実際に慰霊を映画の目的とするという事。

宗教的儀式の詳細は良く知らないが、「祭り」をWikipediaで引くと「祭祀は、神社神道の根幹をなすものである。神霊をその場に招き、饗応し、慰め、人間への加護を願うものである。さまざまな儀礼・秘儀が伴うこともある。」とある。つまり、サヤちん(の演者)がある種のイタコ(これも東北は有名)として神霊を招くためには、祭りの日という設定が必須。それは人為による再演だから、「予告するもの」なのだろう。誰もいない神楽殿が開かれたままになっているのも、トラ・トラ・トラではないが、何かを暗に示しているのでは。

本格的な巫女が主役となるのも上述の一般的ストーリー解説で理解されているが、それだけなら設定過剰だろう。映画の形式をとった祭礼なので、巫女(神職)でないとダメなのだろう。もし津波のモチーフ借用に留まるなら、若い頃の宮水俊樹のような、学者など一般人による謎解きという筋書きだけでも、十分成立する。

なお、監督や主要スタッフのインタビューを幾つも読んだが、彼等が災害映画としての文脈を語る時は、生者を慰めるための話しかしてこなかった。しかし、目に映るもの、話の構成に対する素朴な疑問を整理してみると、死者に向けて語っている側面は否定出来ない。監督は広い層に作品のことを知ってもらいたかったとのことだが、よく知らない内からアニメで慰霊を公言すれば、どんな反応が返って来るか。それを予想して語らなかったのだろう。

死者に往年の人格を認め、映画館に招く気だったとして、饗応や生者への加護はともかく、どうすれば肝心の慰めになるのか。作品を観賞して台詞を言霊とし、魂にあるべき避難誘導を経験させ、未練を断ち切っていただくことは勿論だろう。東北の身代わりとして招魂に使った宮水(糸守)を祭礼の後に焼くのも自然な解釈と言える。だが、監督が見せたかったものは心を揺さぶられている生者、すなわち観客の姿だろうか。それが最も無難かつ合理的な結論に思える。

私は霊性の存在は信じていないつもりだし宗教活動も不熱心で万事形式だけだが、親族の位牌の前で一言二言話かける位はやっているし、理由も無く黄昏時に墓参りをしようとは思わない。そういう人なら結構いる。原理主義ではなく、そういう人達への映画だ。

多少は調べ物もしたが、Web上にこの問いへの答えが既にあるのかは分からない。或いは一葉婆さんが小説で語ったように、安易なテキスト化は憚られているのかも知れない。公開初期も、動員数の割に本作の反響が伝わってくるペースが全体的に遅いと言われていたから。祈念の場と感じた観客はそうなる。

従って現時点では数ある解釈論の一つに過ぎないのだが、補強材料はある。演者のインタビューで、ビデオコンテと台本見ただけで涙流してたと読んだが、音楽も書き込まれた背景も無いのに、想像力だけで本当に感涙できるかな、と。演者の人達というのは、一般の人に比べて場の想像力が高い傾向にあるから、以心伝心で了解という事もありえるが。

ただし、上記の疑問に対して、監督の思考を伺えるお答えが全く無かった訳ではない。

「幸せになりなさい」が村上春樹のオマージュではないかとの指摘があったそうだ。だが、監督に製作中そういう意識は無く、公開後に指摘されて気付き、自然に身に付いたものとして受け入れたというような話をされていた。

また、特に印象に残ったのは、自分がその場で決めたこと、あるいは逆に人に指摘されて譲ったことを後から眺めてみると、内心ではその選択が正しいと思っていたからではないか、と述懐されていたことだ。

これらの話から、半ば無意識に作品にある種の性格を付与していることが分かる。

結局、3.11絡みの話は出なかった。このタイミングで公開初期以来久々の、恐らく上映期間中最後となるティーチインを開いたことが全てと、皆了解していたからだろう。

という訳で、行ってみるものだなと感じた一日でした。

あと、片割れ時に入室してきた若い女性二人組、後で「イオンシネマ名取にもいましたね」って監督に言われてたねw イオンシネマ名取からの移動時間考えても遅すぎです。前でガサゴソされると興を削ぐんでもう少し考えてほしかったな。せめて旅館のシーンまでに来れないものか。金曜までの疲れが残っていたために東北大での取材を諦め、17時37分の下りやまびこで到着して最前列最短経路で即ダッシュ、前宣伝終了直後の41分頃に入室した私が言うのもなんだが。

【追記】監督のツイートなどにもあるように一区切りしたいという事で、3月末で公開終了を予定との映画館も現れ始めたようだ。つまり、映画通り夏にスタートして桜の季節に終わりを迎えることになる。凄いなぁ。

参考文献:小説版2冊、パンフレット2冊。および『ユリイカ』、ネットメディア上のインタビューなど。特に、17年1月1日のハフィントンポストのものはかなり踏み込んでいる。『女性自身』や『東洋経済』の記事も興味深い。個人の感想では「追悼の儀式としての「君の名は。」」(映画.com)が最も私の意見に近い感想だった。

当記事を執筆後、3月11日にはTBSにて『君の名は。』の真実を放映、同時期、銀座松屋で『君の名は。』展が3/20まで開催されていた。当記事の考察・論評部分にこれらの情報は反映していない。実は、TBSの放送では入れ替わりを導入した意味として「貴方だったらどう行動したか」というメッセージだと明かしている。この言葉を聞いて、それは読み切れなかったと思ったものだ。私も洞察力をもっと磨かなければならない。また何故、瀧が中の上レベルの生活水準なのかも得心した。それは東京に住む監督が自らに課した小さな罰なのだ。

また、『公式ビジュアルガイド』は最も製作意図を丁寧に追った文献だと分かってはいたが、記事執筆後、ある種の答え合せを兼ねて松屋で購入するまで未見だったことを付記しておく。

17年4月3日追記。なお、防災無線が鳴っていなかった件もTBSの放送後に初めて知った。当ブログ執筆時には知らなかったし、知っていたとしても関連付けて推測出来たかは疑わしい(“閖上の悲劇”の原因に「新事実」も 名取市、防災無線メーカーへの厳しい指摘が並んだ検証委報告案の全容)。

17年5月9日追記。本論を余りに飛躍していると見る向きもあろうが、東北学院大が取り組んでいる一連の社会学研究『霊性の震災学』等を参照すれば、まずまず妥当な内容と了解いただけると思う。

17年5月14日追記。下記2つを参考サイトに追加。M Sato(※名前を誤記し抗議を受けたので訂正)伊藤氏の主張に同意するものではない。あるインタビューで都市と星などSFを例示した監督は無意識にそのフレームを拝借した可能性はあるだろうが、彗星の人格性を前面に出したとしても、本作の2つのテーマからはずれ、それを強調することに、物語上の意味も、監督が意図していた社会的意義も無い。付言すればエンドロールのスペシャルサンクスに海外SF作家の名は無い。ただし描写の観察力は優れている。

伊藤弘了「恋する彗星――映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」2017年1月23日

M Sato「映画「君の名は。」考察メモ 第2版」 2017年5月14日

17年5月21日追記。彗星のテーマ性の部分を見直し、加筆。

上野誠「映画『君の名は。』と『万葉集』

2017年1月 3日 (火)

瀬川深氏の『君の名は。』批判に見る名誉白人風味の皮相性

普段政治的な不満を代弁してくれる人であっても、全ての面に同意するとは限らない。よくあることだ。

その一例が海外から日本の欠点なるものを親切に指摘する、名誉白人達である。確かに彼等の指摘する社会問題は野党支持者を中心に国内でも深刻だと考えられており、それを打開するために努力は必要である。共感出来る主張は多い。

だが、私が時たま思い出すのは、警察予備隊の創設に関わった米軍人フランク・コワルスキーの言「アメリカに心酔し、アメリカ人の気に入ろうとする日本人からは、いつも遠ざかるようにした」である(『日本再軍備』P139)。旧軍将校や一部自衛隊幹部などを指している。彼等は表向き日米友好プロパガンダに乗りながら、実際は戦中の失敗をさして省りみることも無く「日本のシビリアンコントロールは只の内務軍閥」と不平不満を言い続け、軍国主義の復活を夢想してきたからだ。

鏡のような存在を見ていても思い当たることがある。例えば、日本スゴイ番組に登場し、耳触りの良い甘言を弄する石平やケントギルバート。彼等はよく「模範的日本人像」を示すことがあるが、元々日本に住んでいる人達がそれを字義通り受け取っているとはとても思えないときがある。「心の綺麗な欧米人」をすぐ暗示する名誉白人達も、この裏返しのような存在である。

瀬川深氏は積極的に意見を発信している人士の1人だが、そういったものを感じることがあるので、今回『君の名は。』を例に書き出してみた。

監督でさえ公開間もなく公式に認めざるを得なくなった本作の裏テーマ、震災映画としての性格を全く理解していないことが伺える。以前感想をアップした時にも述べたが、『君の名は。』は時間を遡ってリプレイしている。科学の限界を超えており、未来でも実現しそうにない魔法の技術。現実には無理だと認めたのと同じなのである。道理に基づき、筋の通った住民避難では意味が無いということだ。何故ならば、この映画はそれがかなわなかった2万人を意識した作品だからである。

ついでに言えば「なんか年寄りが曖昧に語っている昔話」は、市原悦子が声を当てた祖母の事なのだろうが、壁画と大火のくだりから分かるように典型的災害伝承をモデルにしている。現実に津波伝承は災害研究で重要視されており、そこから学んで大津波を回避した実例もある。嘲笑する態度はあの東電と全く同じ姿勢と言えるだろう。

後はツイートの時系列順に沿うが、何だかなあ。

私は小林よしのりの差別主義を批判する者だが、10数年前彼の漫画に晒された辺見庸氏のことを思い出した。彼はNews23にて「左翼に興味を持ってくれない民草」を小馬鹿にしながら、その民草が熱狂しているワイドショーは「自分も面白い」と自白してしまったのだ。まぁ、洋画厨や海外ニュース厨のゴシップ根性との相性を見ていれば、当然の本音ではある。 瀬川氏のひるね姫の件も正にそれではないのかね。

そもそも、邦画の予告批判自体、虚偽に近い誇張である。2016年秋~冬にかけて10回は映画館に行ったが、予告がかかっていた邦画を思い出すと、「何者」「闇金ウシジマくん」「土竜の唄」「本能寺ホテル」「相棒」などだった。恋愛物に限っても「僕の妻と結婚してください」「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」等高校生が主役ではない作品も混じっている。単に瀬川氏が女子高生に「お前は映画館に来るな」とおっさん目線で生活指導したいだけではないだろうか。

そういえば、関連してこんな評もあった。

こういった表現を眺めていると、『君の名は。』は女子高生ばかり出てくる作品に見えるが、実際には主人公格の三葉と脇役で登場する友達、名取早耶香の二人だけ。また、「ギャルゲー的描写」は確かにあるが、恋愛映画にもかかわらずべクデルテストは結果としてパスする。何故なら、女性同士の会話の大部分は宮水家および早耶香との間で行われ、男性以外の内容も多いからである。なお、男性の話題であっても「悪名を残した繭五郎の言い伝え」のような恋愛性と無縁な例もある。

フェミニストに媚びての発言だろうが、果たして邦画やシネコンで流している内容を誇張してまで、必要なことなのか。

『シン・ゴジラ』はプロパガンダとして使われるリスクを承知の上で官僚に協力を求めて製作された。動員数は注目すべきだろうが、単に現実の政府のデタラメと対比すれば虚構性を指摘することは簡単であり、情の面でもあの上から目線のために『君の名は。』やジブリ作品ほどの膾炙・浸透は果たせていない。

『君の名は。』に分かり易いプロパガンダは無いが、話の構成を震災責任を免責したい勢力に利用される可能性は警戒すべきだろう。

要するに「何で怪獣は東京ばかり襲うの」「ガンダムなんて非現実的」の輩である。ハリウッド映画にも「宇宙の音」「見えるレーザー砲弾」があり、低予算ミニシアター系も不条理な筋書き・誤魔化しは幾らでもあるのですがねぇ。

名誉白人瀬川氏の家族観が狭量であることが良く分かる。まず、一葉婆によれば宮水家は政治と距離を置いてきたため、町長選では政治力というより、箔付けとして利用したことが伺える。次に、政治家は世襲が多いが「世襲でなければ絶対ダメ」と言う程ではない。初当選した市町村長を見ていれば、大半が男性であるにも関わらず頻繁に姓が変わっていることからも、分かることだ(もちろん、私に世襲・男系を推奨する意図はない)。

また、家庭生活の乱れどころか、前科者さえ政治家にはありがちでホームラン級とは到底言えないだろう。バツ1で首相になった例もあるというのに、違法ですらないバツ1未満の別居に対する偏見は不愉快ですらある。

本質は候補者が建前と本音を使い分け、それまでの利権システムを温存する意思を持っていることだろう。『君の名は。』は冒頭でそれを明示している。

話に絡んでこないのに、瀧が片親であることに理由付けが必要なのだろうか。私も東京っ子だったが80年代時点で、当人が深刻なメンタルに陥ってる訳でもない状況で、そんなこと詮索するような空気は小学校のクラスですら希薄だった。2010年代なら尚更。大方離婚だろうが珍しくも無い。本当に親リベラルなんですかねぇこの人。

「じゃらんとかるるぶのグラビアみたい」なのは遠景の時である。映画は日常風景の描写が主体。雑然とした古民家の和室や学校もそうだし「カフェは無いのにスナックは2件もある」ような田舎のどこが「じゃらんとかるるぶのグラビアみたい」なのだろうか。脳の構造を疑う。

日常描写主体なのは震災映画として「地方にありふれている=東北にもある物」を示す必要があったからだろう。要はファーストフード化する地方とか、昭和期の評論でしばしば見かけた「どこの県庁所在地に行っても駅前が似ている」という視点と同じようなものだ。

瀬川氏によれば二十歳を過ぎた仕事を持っている、3年年の差カップルの存在が整合性を破たんさせるらしい。正に叩きのための因縁。

世の中にはクラシックも騒音扱いする者がいるが、上記も自分が理解できない音楽は全て騒音と見なす人間が一定数存在する、という一例。物凄い音量で流れていたかのようだが、実際は只のJ-POP系挿入歌である。その程度の難癖。加えて疑問なのは歌詞が映画の内容とリンクしていることがそこまで珍しいのだろうか。

それにしても、小説家が他人のヒット小説の映画版にこれでもかと唾を投げつける姿は実に見苦しい。恐らく名誉白人にありがちな、「国産映画がヒットしているから叩く」という動機からだろう。本業の医学のため(憧れの?)海外暮らしするのは勝手だが、思い込み過多な拗らせもここまで来るとちょっと。

『君の名は。』が最近のディズニー作品程PC等を意識しているとは思わない。本来は興行収入目標15億の作品であり、ギャルゲー臭は過去の作品のようなニッチ向けの名残と思われる。作品が万人向けとして受容される中では、弱点になり得るだろう。しかし、言外の目的があるか知らんが、欠点を「発明」してまで叩き続けていると、結局は自身に返ってくるだろうことは警告しておく。

2016年9月19日 (月)

311の寓話としては『シン・ゴジラ』より『君の名は。』が上

最近『木根さんの1人でキネマ』に嵌っている。その影響か、私も主人公の木根と同じく、娯楽目的の映画なら、まずはストレートに楽しむ方がいいと考えるようになった。そこで、この夏に公開された『シン・ゴジラ』と『君の名は。』は映画館で鑑賞し、『MADMAX 怒りのデスロード』の凱旋上映を予約するに至る。

掲題の二作共、最初はストレートに楽しんだが、やはり論評がしたくなってきた。ネットの論評や設定をくまなく調べた訳ではないが、思ったことを記す。

※本記事は公開直後の感想なので情報は古い。ある程度舞台裏の分かった半年後に「『君の名は。』ティーチイン(仙台)に行ってきた」を書いた。

2015年の『クレヨンしんちゃん オラの引越し物語』辺りからと思うが、311を作品に反映する流れが一般のエンターテイメント映画でも見られるようになってきた。統計を取った訳ではないが、2013年度上期の連続テレビ小説『あまちゃん』放送時点でも、娯楽目的で王道を狙ったような映像作品に311を取り込むような気持の準備は、(直接的な被災者でなくても)難しく、それがジオラマでの表現に繋がったと思う。

だが今年の夏にヒットした二作は、作品内に311の反映が見られ、そのことに関して作り手側の気負いも無い。この二作が世間一般が気持ちを整理するにあたり、アシストの役割を果たすことは疑いないだろう(被災者の心情まで癒すことが出来るかは疑問だが)。50年後の人達がこれらの映画を見ても、そういう時代の気分は説明されなければ理解出来まい。21世紀の平成の世に生きる我々が、何の予備知識も無く初代の2本を観賞したらそうなるのと同じように。

【表層的理解を許容した庵野監督】
今後も何かと比較されることが多いであろう二作だが、「311の寓話化」という観点から比較しようと思ったのは、添田氏が下記の引用をしていたからだ。

上記は順当な理解だろう。作中の機敏で的確な政府機関の対応は、原発事故の実情などを少し学べば、直ちに空想を描いたと分かる。受け手にそれと知らせる最初のシグナルは「御用学者」発言だろう。ただ、受け手の中には率直に「やはり日本は捨てたものではない」と感じている層が存在しているようだ。

庵野監督は宮崎駿を始めとする左翼系クリエイターから大きな影響を受けているようだが、観艦式の解説映像を監督するなど、自衛隊アレルギーは持っていない。ミリタリーを含め色々な知識の引出しを持っていることが売りでもあるので、防衛省・自衛隊その他政府機関に取材協力を依頼した際、どのような交換条件が提示されるかもわかっていたと思う。今年の夏の自衛隊イベントでは『シン・ゴジラ』とコラボしたPRポスターが掲示されていたが、作品への表層的な理解を選択した層を、自衛隊が取り込むことも許容していたということだ。『幸福の黄色いハンカチ』の山田洋二監督とは大いに違っている点である。

ここで自衛隊との関係に拘るのは、『シン・ゴジラ』が2015年の安保法案(戦争法案)の審議を横目で見ながら制作され、沖縄県の辺野古や高江での、戦略上の意味が希薄な米軍基地建設工事に、自衛隊も協力しているという事実があるからだ。冷戦終結から20年以上過ぎ、従来のように災害出動が主な見せ場となっている限りは、世間一般に自衛隊への警戒心がそれ程ある訳ではなかった。しかし、米軍辺りの傭兵代わりに地球の裏側の局地紛争で尻拭いやら、今更蛸壺化した国内市場で弱体化した武器の輸出が現実に差し迫って来れば、話は別である。当然、そういうことを積極的に進めている組織のPRのため、クリエイターが全力で乗っかってていいのかという疑問はある。

ただ「取材はするが映画ポスターを隊員募集に利用するな」と要求するのは信義の上でも無理な注文だ。311で自衛隊は東電や原子力安全・保安院などとは異なり大きな過ちは犯さなかったからである。逆に言えば、自衛隊に限っては『シン・ゴジラ』でのポジティブな描かれ方と311での姿とのかい離はそれ程は無い。彼等は最初投入人員を出し渋る姿勢を見せたが、菅直人首相の鶴の一声で10万人の動員体制を敷き、期待以上の成果を挙げたのである。あの無意味な原子炉へのヘリ放水は、政治のゴリ押しで彼等の責は無い。

庵野監督がリスクを背負ってしまったとすれば、その知識収集の積極性と現実のミリタリーへの警戒感の薄さが同居している点、ということになる。円谷もフロントの編集部も嵌ったリスクである。

どういう脚本と取材なら良かったのか、妙案がある訳では無い。ただ、無責任な政府関係者・ネット右翼・排外思想が社会を蝕んでいる側面はもう少し反映のしようもあったのではないか。一つのヒントとしては、ウルトラマンシリーズでの寓話の扱いや、リメイク版の『日本沈没』で「ずるい官僚達」を登場させるといった先例がある。なお初代ゴジラでオキシジェンデストロイヤーを沈める際、『シン・ゴジラ』の無人機や電車爆弾に相当する露骨な軍事的支援は受けていない。海保の船でゴジラが潜伏している海面に運んでもらっただけ。

一方『君の名は。』に目を転じると、政府や自衛隊への取材を通じた共依存関係は希薄である。精々神事の取材で文化行政とのつながりがある程度。実名で中部電力が登場するが、それ自体は作中で重要な役割を果たさない。かと言って軍事的な物事を殊更に批判して見せる訳でもない。そういう点では私は『君の名は。』に軍配を上げる。

新海誠監督や『君の名は。』のスタッフは、オタク的感性から豊富な知識を収集する能力はあっただろう。ただ、新海監督は元々セカイ系の作風を持ち味にしており、『君の名は。』も表層的な主軸はあくまで男女二人の恋愛にある。その特徴が現実の社会組織とコラボなどを通じて共依存に陥ることを回避している面はあるだろう。

【寓話の構造にも差異】
二作を比べると寓話の構造にも大きな差異がある。『シン・ゴジラ』は初めての出来事に直面した時の対応を描いているが、『君の名は。』を寓話の側面から眺めるとリプレイ(リベンジ)物だ。主人公の二人は一度村の壊滅を体験した後に、村を救うため、もう一度やり直す。それも気の利いたシミュレーションで軌道計算して気づく…といった「科学的展開」ではなく、実際に一度死ぬという徹底振り。現実には物理的に不可能。『シン・ゴジラ』も上記の通り、「現実には不可能」という感慨はあるのだが、冒頭に引用した論評のように、物理的なことを指してる訳ではないので、不可能の質が違うのだ。

だが、311を経験した日本社会一般には、被災者を映像を通して見ているだけで何も出来なかった負い目と、「あの時に戻れればそりゃ知らせたいさ」という潜在的欲求が残った。新海監督は今回、その潜在欲求を寓話化し、救済して見せたということだ。

この点でも私は『君の名は。』の方がより説得力があると考える。よく観察しなければわからないような皮肉でもって、整然とした事故対応の伝説を創造してみたところで、仮想戦記と同種の空疎さだけが残る。それよりは、時間を遡るという物理的な禁じ手に訴えて現実には回避が不可能であることを明示し、表層的理解への道を潰す。そして、救済願望を充足することで犠牲者への間接的な追悼とする方が、マシではないだろうか。

なお、『君の名は。』で寓話化の対象になっているのは、「原発事故」に留まらず大津波全体だろう。作中で村人が取る避難行動は要するに「てんでんこ」。防災放送も津波の時のそれだろう。作中の必死になっている感情や態度へも、観客は説得力を持ちやすい。三葉が父親の町長に「決断」を迫るのも、事の本質を良く捉えている。権力者の方こそ、血の通った生活感を持てという批判になり得るからだ。

そのような構造の差異がある以上、情報の洪水で埋め尽くした『シン・ゴジラ』の方がリアリティがあるかのような論評は、違うのではないか。私はそう思う。

16/10/9【海外市場で受け入れられるのはどちらか】
海外市場での売れ行きを見てみたが、やはりシン・ゴジラは不発に終わったようだ。表面的には「日本特有の政治的事情を理解していないから」という話だが、それならオープニングに「第二次大戦に敗北し原爆を投下された日本は、戦後制定した憲法で他国に攻め込むための軍隊を持たないと決めた。官僚と大衆は時には対立しながらも、協力して焼け野原から国を復興させた。それから70年の時が流れた・・・」といった数行の説明を加えて船上のシーンに移れば良いだけ。まぁ、多分そういう処置があっても上手くは行かないだろう。外国人には「優秀な官僚」は日本人の自己満足にしか映らない。それに、ゴジラシリーズは寓話として受け取っても「侵略国家であった戦前日本」という視線が欠如しているからである。本作でもこの点は踏襲している以上、世界市場で売っていくような作品では無い。

この点でも余計なものに縛られていない「君の名は。」の方がマシだろう。311の凄惨さは海外にも知れ渡っているから寓話にも気付き易い(HENTAI性というマイナス点があるので、ディズニー程一般性を獲得するとは思わないが)。新海監督は人に指摘されないと分からないそうだが、一連の性描写をカットしても作品を成立させることは可能と思われるので、つくづく残念だなぁと思う。

16/10/15【「君の名は。」が311を寓話化した具体的な個所】
2回目を観賞した。やはり、只の恋愛ものと考えるか、社会性を帯びていると考えるかで大きく感情移入の度合いが変わって来る作品だ。当初公開された出演者のコメント等は、前者を装っているが、まぁフェイクだろう。出演者が下手に政治的なコメントを発するリスクを、本作のスタッフは良く知っている。私は三葉以下、糸守の人々の背景にネクシャリズムと作り手の慰霊を感じずにはいられない。

  • 中部地方を舞台に選んだのは、作劇に使えそうな習俗を制作側が見出したということもあるかも知れないが、「東京から新幹線と在来線を乗り継いで数時間の距離にある田舎」ということが重要と思われる。つまり、東北地方太平洋岸の暗喩である。上記ツイートをした社虫氏は私のような比較目線を持たず、自然にそのことに気付いている。高山ラーメン屋も(本州ではありがちだが)六国の沿道的な風景。
  • ティアマト彗星の再来間隔が1200年なのは(劇中割り切りして1000年とのコメントもある)、311が「1000年に一度の巨大地震」と評されていることと対応させたものである。隕石がややずれた場所に落着するのは、海溝型地震に全く同じ規模、震源で発生するものが無いことに倣っているとも取れる。
  • 良く見ると図書館で手に取る犠牲者名簿がおかしい。明らかに500名規模の内容ではない。1ページ50名割り付けるとすれば、311の約2万名を記述するには400頁となり、他の情報を加えれば600~800頁程度にはなってほぼあの厚さになるのではないか。
  • 神社が主要なキーになるのは、中世以前の災害伝承において神社が大きな役割を果たすからである。安全な避難場所である高校が高台にあるのも、津波の隠喩。克彦、早耶香と思い付いた共同作戦は正に「稲村の火」の再現である。
  • なお町長の経歴を見ると、民俗学者とある。民俗学者の場合、村からすればマレ人に近い扱いのようなイメージを私は持っているので、この設定は少々奇異に映る(より思想色の強い学問なら成立し得るが)。従って、この町長は災害伝承を再発見する学者をも表象しているのかも知れない。
  • 彗星でなければならない理由だが、311寓話の視点からはラスムッセン報告(WASH1400)という歴史的マターに繋がる事に気付いた。劇中のテレビ放送で「隕石が居住地に落ちることなどまず無い」と言っているが、これはラスムッセン報告を元に、歪曲も交えて行われた有名な原発プロパガンダを表象している。最初、何故隕石なのか、この作品で原発を表象する記号は地震で破壊されたことの暗喩である変電所と、「正しく使われ人々の役に立つ」非常電源位だと思っていたが、恐らく、「彗星に対する都会人の態度」こそが原発事故の最大の暗喩なのだろう。
  • 記事を書いてから知ったのだが、新海監督は大成建設のCMを担当したこともあるので、これが原発にあからさまに触れず、且つ、科学的に災害の予測が出来ない大衆の視点から描かれている、最も現実的な理由だろう。しかし、瀧が建築士を目指していることとし、大成建設本社のある新宿に面接を受けに行きながらも、「地図に残る仕事」という単語に似た言葉ををゼネコンの意向とは異なる文脈で述べているくだり(しかも内定を取れない)は、意地を感じなくもない。ちなみに大成はPWRを得意とする(単刀直入に言えば、311はまだ対岸の火事)。もし新海監督がBWRを得意とする鹿島のCMを担当していた場合、社会倫理上相当歪んだメッセージを発することになったと思われる。

まぁ、本作で150億も稼いだので、今後は企業の意向から離れた所で発言し易くもなるだろう。後は本人次第である。

【余談】2本の映画とPC
近年のハリウッド映画のPC強化(彼等も、程度の差こそあれジェンダーに縛られてきたということだ)や前年の『進撃の巨人』騒動で懲りたのもあってか、『シン・ゴジラ』は近年の日本映画にしては随分思い切ったとは感じている。制作裏話で無自覚な発言で女性層から批判されたプロモータがいたが、現状では彼自身の自業自得に留まる。

『君の名は。』は恋愛が主軸なので恋愛外しという選択は(元祖へのオマージュから言っても)無いが、役回りからポスターまで均等分割されてるのはPCを意識してるのではないか。(とは言え、ストーリーの大枠にぶれないところでなされる酒の話等は男であっても見てて辛いものがある。そりゃそれだけ「進んでいる」9歳児なども探せばいるだろうが)

どちらも上映終了後の観客の様子を観察したが、男女比はほぼ1:1、全体としては満足感の高そうな表情で、『君の名は。』では潤んでいる女性も数%いた。新海監督のマイナス面もそれなりに出ていたので、私の方が「え?あれで潤む女性居るの」と思った位だが、ネット炎上の傾向と現実にはずれがあるんだなぁ。

16/10/15【余談2 べクデルテスト】
「君の名は。」の女性描写はもう少し議論しておく。本作をべクデルテストで評価しても解釈次第となるだろう。特に、「女性同士の会話が恋愛である」の解釈が曖昧。元々、軽い冗談の中から生まれたテストのため解釈の明記が無いようだ。

「恋愛の話禁止」と解釈した場合、実はフェミニストが嫌うであろう、若手女優を集めた芸能事務所が採用する基準に近く、流石に極論ではないかと思う(本作がそうであるように、「男同士で恋愛の話をする」作品が存在することも、私の違和感の理由)。これに対し、もし「恋愛以外の会話が主軸と認められること」という解釈ならパスするだろう。

もっとも、日本製アニメの場合、中味がおっさんか、おっさんに媚を売る名誉男性となっている例が多いため、べクデルテストでは指標として不十分とも聞く。一つの解決法は「専ら女性に魔法などの超人的能力を付与し、神格化しているか」という規定を追加することだろうが(この基準なら萌え魔法物は全て除去出来る)、本作の場合は両性に付与されているためやはりパスする。

まぁ、PCなりべクデルテストにのみ執着するのもどうかとは思うけどね。小説版の解説には「新海監督のベスト盤」というコンセプトがあったとされているが、この監督がここまで社会性に寄り添った映画を作ったことは無い。何より、映画を作る上で最も重要な創造力でゴジラより勝っているように思うよ。元ネタ厨には悪いけど。

16/10/9【普段の姿勢との整合について】
「国や東電に予見可能性があった」という私の日頃の主張と「君の名は。」のリプレイへの評価は矛盾しない。「君の名は。」は国や東電のような情報的優位にある強者を描いた作品ではなく、市井の個人の目線から災害を見ているからである。

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