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2020年6月 5日 (金)

テレビ会議全盛時代に省みる福島原発事故-何故菅内閣に進言しなかったか-

コロナ禍においてプラスの効用を認められたものに、Zoomに代表される一般社会へのテレビ会議の普及が挙げられる(厳密にはWeb会議と言うべきだが)。

実は、コロナ禍になった後も細々と福島原発事故の研究を続けているのだが、今回発掘した資料と共に触発されることがあった。

【首相が東電本店に乗り込んで知ったテレビ会議】

福島原発事故発生から数日間、震災対応を行う首相官邸は不満がくすぶっていた。東電からの情報が中々上がらず、内容も要領を得ないものだったからである。

事態が好転したのは、3月15日朝に菅首相が東電本店に乗り込んだためである。一般的には、東電に対して撤退阻止の演説を行ったことが強調されてきた。当ブログの提案を読んだのかは分からないが、公開1ヵ月でネット配信に踏み切り、人気をものにした『Fukushima50』でも「首相のドタバタ」として描かれている。

だが、この出来事のハイライトはそこには無い。

映画『太陽の蓋』を見ると明瞭に表現されているが、東電が本店に設けた自社の対策本部には、テレビ会議システムの大画面が鎮座していた(知名度が低いのでAmazonPrime版へのリンクを貼っておく)。

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原子力防災訓練(本店における訓練状況)」東京電力HP(2015年3月18日)。 室内配置が良く分かる一枚。

菅内閣は東電テレビ会議の存在を官邸に詰めていた東電の武黒フェローから知らされていなかった。乗り込んで初めて「それ」を目にし、政府としても活用することにしたのである。

テレビ会議は東電の3原発に接続されており、かの吉田所長も参加していた。最初からこれを知らされていれば、ヘリなど飛ばす必要は無かった。

ここまでは、この事故を少しでもまともに学んだ人なら、おさらいに属する話である。

【何故東電テレビ会議は政府に知らされなかったのか】

しかし一部で批判されているように、テレビ会議の存在を武黒だけが伝達し得た、と無意識の前提に考えるのはどうだろうか。これが今回のテーマである(結果だけ先に述べると、官邸スタッフには実務に疎い政治家を補佐する責任があるが、テレビ会議の件ではその役割を果たしていない。この記事は以下でそれを論証する)。

東電テレビ会議の存在を伝えるだけなら高い地位の人物は必要ない。平社員、3種国家公務員などでも十分な仕事である。

政府事故調中間報告では次のように記されている。

b 情報収集の問題点
今回のような事態が発生した場合、原災マニュアル上は、原子力事業者はまずERC(引用者注:緊急時対応センター。経産省庁舎に設置され、原災本部事務局を担う)に事故情報を報告し、しかる後ERC 経由で官邸へ情 報が伝達されることとなっている。ERCには、3月11日の地震発生直後から、東京電力本店から派遣された四、五名の社員が常駐しており、 彼らを通じて福島第一原発の情報がERCへ伝えられていた。 当初、ERCに参集していた経済産業省や保安院等のメンバーは、東京電力からの情報提供が迅速さを欠いていたことに強い不満を感じて
いた。しかし、東京電力本店や福島第一原発近くに設置されたオフサイトセンターが同社のテレビ会議システムを通じて現場の情報を得ていることを把握している者はほとんどおらず、同社のテレビ会議シス テムを ERCへも設置するということに思いが至らなかった。また、情報収集のために、保安院職員を東京電力本店へ派遣するといった積極的な行動も起こさなかった。

東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会 中間報告本文P470
※下線は引用者による。

一方、政府事故調の記述が官僚・政府関係者に甘い傾向はこれまでも指摘されている。従って、今回は上記の記述の背景を検証し、テレビ会議が見かけの印象以上に普及していたことを示す。

通信技術の変化は激しいので、技術史として語る必要もあると感じて作成した。

東電テレビ会議はジャーナリストが公開を迫った経緯もあり、一方向から書かれたものが多い(典型例として、福島原発事故記録チーム 編『福島原発事故 東電テレビ会議49時間の記録』岩波書店 2013年9月(試し読み))。だが、今回は一味違うものに仕上がったと自負している。

【テレビ会議の実用化と電力会社への導入】

事故当日の話はここで一旦止めにして、テレビ会議の歴史を紐解いてみよう。

1960年代後半には、将来実現すべき技術目標として通信事業、放送関係者には認識されていたようだ。日本で商業化されたのは1984年のNTT(旧電電公社)が嚆矢。電力会社では、NTTと同時期に東電が本店とシステム研究所間で実用化した。こぞって導入し始めたのは1990年代前半からである。電力会社の場合、平時の使用の他、最初から災害時の使用を前提に考えていたことが当時の技術記事から伺える(参考文献一覧参照)。

ただし、東電は以下の記事から1992年の段階でもマイクロ波無線通信網と山間地対策の衛星通信を主としており、テレビ会議の使用を前提に入れてないことがうかがえる。

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「東京電力における防災対策」『電気情報』1992年3月P20より。

一方で1979年3月のスリーマイル島原子力発電所事故後、日本では、原子力安全委員会が52項目の対策事項を発表し、その38項目目で「緊急時連絡」として電話回線、それ以外の連絡方法を整備するように求めていた。52項目の対策の元になったのは『米国原子力発電所事故調査報告書,第2次』という文書で、私も青焼きを1回だけ読んだが、連絡方法の一例にテレビ会議を明記していたような記憶がある。

そのためか、東北電力が1988年に導入した第一世代のテレビ会議システムは小規模なものだったが、女川原発には当時から接続されていた。

【阪神大震災での使用】

テレビ会議が災害時に活用された初期の事例で記録に残っているものは、阪神大震災(1995年1月)である。

関電は震災に関して「阪神・淡路大震災における電力ライフラインの復旧について」、他数本の技術記事を投稿している。J-stage等で読めるこれらの記事は自社の通信網が使用できたので、神戸支店、本店との間の情報連絡を密にしたことは述べているものの、その伝達手段は特に言及していない。だが『153時間 阪神・淡路大震災応急送電の記録』というビデオを見ると、機能を維持していた社内電話の他、テレビ会議を開いている姿が映されていた。

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『153時間 阪神・淡路大震災応急送電の記録』(関西電力)より。本店と神戸支店(右側CRT)を接続。

なお、行政側でもNTTからの供与により、兵庫県と被災6市との間でテレビ会議システムを構築・運用したと記録にはある。

当時のテレビ会議システムは伝送にISDNを採用していれば「進んでる」と見なされた時代。画像は(当然)NTSC。東北電力の場合、CIFというビデオデータ向け映像フォーマットで、解像度は低かった(352X288)。

これはアナログテレビ放送(640x480)と比較しても3分の1の情報量だ。一般のテレビが株式市況の数値をずらりと並べて放送していたことから類推すれば用は足りたのだろうが、図表を映す場合に情報量の制約はある。2Kに満たない地上波デジタル報道(1440X1080)でも、細かいフリップを大画面に映し出せる現代では考えられないことである。技報や論文は未達成の課題をあまり語らないが、このことは宿題として残った。

【阪神大震災の教訓を取り入れた東電】

関電神戸支店は元々5階に対策本部を設けていたが、建物が損傷したため、急遽地下1階の食堂にテレビ会議他の指揮機能を移転した。

この教訓を取り入れ、東電は震災後、新橋の本店2階に常設の非常災害対策本部室を設け、テレビ会議用のスクリーンを設置した。高い場所は一般的に揺れが大きいということだろう。後年、福島事故でハイライトを浴びた舞台は、同業他社の被災経験に学んで生まれたのである。

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『とうでん』2002年3月号より。

上述の経緯から、少なくとも阪神大震災後は、テレビ会議を通信連絡手段に加えたものと思われるが、支店や発電所関係者でも、定期の防災訓練で連絡班等に割り振られたことのある社員は、テレビ会議システムを触ることになる。

【社内テレビの普及(参考)】

一方、社員への周知について忘れてはならないのが紙に残らない手段。1990年代は社内テレビシステム/テレビ会議システムの普及が年毎に伸びていた時期で、1986年10月に導入した東電もこれらを活用し、社内外に情報発信を恒常的に行っていた。こちらも参考に取り上げておく。

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上に引用したのは『とうでん』1994年10月号。社内テレビ設置台数は社員10人に1台の割で、管内くまなく配備されていた。テレビ会議に縁の無い社員でもこちらは確実に記憶にあった筈である。ネット隆盛以降なら社内HPに掲載するようなお知らせも、当時はテレビで行っていたと思われる。

また、社内テレビとテレビ会議のシステムを共通の技術基盤で構築する導入事例が論文に取り上げられていた。推測だが、東電もそうだったのではないだろうか。端末を共通化すれば、会議室に社内テレビを配置することで1画面限定の1:1の通信主体とは言え、テレビ会議が開けるからだ。本店の訓示などは社内テレビとして流し、A支店とB支店間で会議を行う場合は、テレビ会議システムとして使える。

以上より、電力会社にとって、テレビ会議システムは相当前から普及していた仕組みだったということだ。官邸・ERCに詰めていた東電社員にとっても、同じである。にもかかわらず、彼等は本店の社員とも異なる認識で動いていた。このことは後で触れる。

【通産省のテレビ会議導入】

なお、原子力推進官庁である通産省は本省と地方機関とを結ぶテレビ会議システムを1996年に導入し、災害時の運用を視野に入れていた。

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『電気と工事』1996年10月号より記事冒頭部。

上記記事に技術仕様の詳細解説が載っているが、会議室に50インチのCRTを3台も並べるなど、大掛かりなシステムだった。既に、H.320をはじめとする規格の標準化も進んでいたが、他省庁や民間との接続については特に書かれていない。

【中央防災無線網のIP化】

インターネットの商用化から数年するとテレビ会議にも90年代後半にはIP化技術が持ち込まれ、H.323という規格も整備され変わっていった。

主に日本無線の技報に基づき2000年代の政府関係の防災システム導入状況を概括すると、まず、内閣府防災担当の所管で、元々中央防災無線網というものがあり、基幹ネットワークと位置付けられていた。そして、2004年度からIP化を開始し、Webアプリやテレビ会議システムの利用も順次可能となっていった。また、中央防災無線網は官邸から各省庁、指定公共機関を接続するものとなっており、東京電力も含まれていた

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5.アナログ放送終了後の電波利用 5-2.自営通信の取組み」『映像情報メディア学会誌』2008年No.5
※ネットワーク構成図のみ引用。東電は中央防災無線網に直結。なお、自治体の防災無線は事実上動画伝送能力が無かった。

他省庁もこの流れに乗った。防災の主役となる国交省を例にとると、同省の東北地方整備局が発行していた『月報とうほく』にも、2005年度より情報通信技術課を設けて通信インフラ整備を進めるとある。

これは、全国に光ファイバ網を張り巡らし(一部他省と共用)、河川・道路の監視映像を本省に流したり、テレビ会議を行うことが目的だった。2006年の技術記事では「映像情報収集システム」と呼ばれ、既に実用に供されていたことが分かる。当時IP化されたカメラだけで全国に5000台。テレビ会議と併せて、それらを自由に取捨選択できる優れものだった。

更に「映像情報提供システム」を整備して地方機関からテレビ局に伝送回線の整備も行われていたという。このような努力があったので、テレビ局や官邸の危機管理センターに情報を配信することも可能だった。

ライフライン関係機関との接続も多岐にわたり、縦割りの超克が意識されている。

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関係機関との接続概念図「国土交通省の防災情報システム」『電気設備学会誌』2006年4月P22
※先ほどと同じネットワークを国土交通省から見た姿。IP化で動画伝送能力を整備していた。

上述の事情なら、官邸との間でテレビ会議を開けるように準備しておくことも造作もないことだったと思われる。

総務省が2000年代後半に設けていた「安心・安全な社会の実現に向けた情報通信技術のあり方に関する調査研究会」の「最終報告書(案)」によると、「旧式のネットワークは、音声、FAX、データ、映像等の伝送用途毎に独立して運用。複数映像伝送など災害対策のニーズに応じた柔軟な伝送に課題。」とされていた。しかし仮に容量上の問題があったとしても、国土交通省とテレビ局間に引かれたものと同様の専用線を、中央防災無線網と指定公共機関の間に引けば良かっただけである。

菅直人氏は回顧の中で、官邸と東電本店の距離の近さに改めて驚いた旨を述べているが、このことは延線工事の容易さを示してもいる。JR,NTT,電力など相手なら都心の本社・東京支社との接続になるからだ。

【新潟県中越沖地震(2007年7月)】

2007年7月に発生した中越沖地震では柏崎刈羽原発が被災した。この時、地震発生直後に発電所の緊急時対策室ドアが歪んでしまい、屋外に対策本部を仮設せざるを得ず、新潟県からの要望もあって免振重要棟の建設に繋がったことはよく知られている。だが、ドアをこじ開けて3時間後には緊急時対策室で執務可能となったことはあまり知られていない。朝日新聞『生かされなかった教訓』には9月のプレス公開写真が載っており、室内にモニタらしきものはある。

また、本店2階の非常対策本部には多数の社員が詰めていたが、新聞社が出版した書籍2冊を読んでもテレビ会議システムの描写は無い。当時朝日新聞で原発取材を担当していた添田孝史氏にもメールで尋ねたが、記憶にないとのことだった。

どうも後述の『とうでん』を読むと、テレビ会議は有効に機能しなかったようである。

一方、新潟日報の取材によれば、原子力安全・保安院の現地事務所は職員2名を発電所に派遣したが、渋滞で到着に2時間40分を要した。つまり、到着後間もなく緊急時対策室が使用可能となった。推測だが、検査官は室内を目にしており、本店との連絡方法について所員と会話したと思われる。

だが、原子力安全・保安院は中越沖地震の教訓化が出来ず、後述するオフサイトセンターのように電力会社のテレビ電話・テレビ会議回線を現地事務所や東京に接続することは無かったようである。もし、接続していれば、政府事故調は上記のような記述とはならなかっただろう。

言い換えると、政府事故調もまた、中越沖地震がテレビ会議システム拡大の機会だったとは見なしていないのである(何も触れてない)。

更に問題なのは、武黒がこの地震で得た教訓を社員にどのように伝えたのか、である。

武黒は中越沖地震対応で柏崎に駐在するなど、防災対策の中核におり、その考えは『とうでん』を通じて全社に広報された。

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『とうでん』2007年10月より冒頭引用。社内に顔が知られていたことを示す一枚。

既に忘れている方が多いと思うが、中越沖地震では屋外の変圧器火災が発生し、テレビ放送で強烈な印象を与えていた。武黒は上記インタビュー記事の後半で課題と教訓として次のように述べた。

社会のみなさまが原子力発電所で火災が発生したと聞けば、大きな事故が発生したのではないか、大きな事故に発展するのではないか、と不安に思われるのは当然のことだと思います、そういった不安を解消するためにも、円滑かつ適切な情報提供ができるような仕組みを構築していきたいと思います。

(中略)メディアでは、どうしても目に見える被害が発生した箇所の映像を中心に報道されますが、発電所全体としては、そのような部分は一部であって、重要な部分は健全性を確保しているということをご覧いただけるようにしていただければと思います。

今回の記事では武黒の心理を掘るのは主目的ではないが、彼と少なからぬ東電社員達が黙り始めたのはこのような「教訓化」が影響していると思う。だから中越沖地震後も東電は政府とのテレビ会議システム直結を織り込むことはなかった。

その後、福島原発事故が起きるに至るが、2011年3月12日15時半に原子炉建屋が爆発してからは、武黒もそれまで黙っていた手前、システムの存在を伝える機会を逸したのだろう。

武黒のそのような行動は、後述するように、実は、東電本店と比べても異質となっていたのであるが。

【原子力防災訓練(2007年10月)】

さて、福島第一・第二周辺での原子力防災訓練が初めて開催されたのは1983年のこと。1991年以降は毎年開催された。予定調和と揶揄されることの多いイベントだが、実務者に仕事を覚えさせるという観点からは、それなりの意味はあったものと考える。

2007年の防災訓練は『とうでん』の12月号で特集されていた(下記。クリックで拡大)。

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訓練ではオフサイトセンター、発電所の緊急時対策室、本店を結ぶテレビ会議を構築した。中越沖地震の教訓を取り入れることに重点が置かれ、本店を交えた接続はこの年からとのことである。また、初期対応支援チームのヘリを本店から飛ばすことも行っている。

福島事故の日、菅首相に先んじて武藤栄副社長が福島にヘリで急行したのだが、それはこのシナリオに沿ったもので、発電所がヘリを受け入れる体制は想定内だったのだ。それが政府のヘリに代わったところでどうということは無いだろう。

また、この訓練には当時の副社長だった武黒も参加し、模擬記者会見を行っていた。

【原子力防災訓練(2008年10月)】

2008年10月の防災訓練では首相官邸とのテレビ会議が行われた。県庁かオフサイトセンターに接続したと思われる。

当時は自公政権の麻生内閣、経産大臣は二階俊博。状況から考えて大臣達は顔見せに過ぎなかっただろう。二階は、共産党の吉井英勝議員の津波質疑を受けて立った経産大臣でもあるが、小泉政権以降特に目に付くようになった自民党閣僚の例に漏れず、社会に対する見方がぬるいのではないかとも思っている。

それは、2020年春のコロナ禍において世界中がロックダウンする中、「人との接触を8割削減」という目標を示され、つまらなさそうに「出来る訳ない」と答えた姿に端的に表れている。

【原子力防災訓練(2010年10月)】

2010年の原子力防災訓練は10月に福島第一で行われた。テレビ会議は県庁、オフサイトセンター、各市町村役場、原子力安全保安院と接続している。オフサイトセンターには事業者ブースにテレビ電話を設置して、発電所と本店との連絡調整に使用したとある。

訓練は第三者機関として、JNES(原子力安全基盤機構)が評価を行った。JNESは保安院から業務移管を受けて成立した独立行政法人であり、過去の経緯から電力会社からの出身者も多かった。つまり、電力社員としての経験から、テレビ会議システムの存在を知っているJNES職員はおり、彼等と密接に仕事をしている保安院へも伝わっていたと思われる。

技術的トピックとしては、東電のテレビ会議システムが6月に更新され、社外接続を視野に入れていた。また、ハイビジョン画質の端末を使用することで表情やホワイトボードの文字読み取りがし易くなったという(『とうでん』2010年7・8月号)。H.323に準拠するのは最低限の条件として、それ以外にも公衆回線で使用出来ることなど、システム的に整えておくべき要件があったらしい。

なお、国会事故調本文の「東電の社内テレビ会議システム」という節を読むと、端末の移動を容易に行い、福島県庁や官邸に持ち込んだことが記されており、更新の目的である現場からの映像伝送能力を活用していたことが分かる(官邸への持ち込みは、菅首相の東電本店乗り込み後)。

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『とうでん』2010年7・8月号より。クリックで拡大。

ただし、この頃の東電は以前と異なり、導入一番手ではなくなっていた。

ハイビジョン画質(HDTV,解像度1280X720)で、異なる会社のテレビ会議システムに接続可能なパッケージは、中国電力がノルウェーTANDBERG社(当時。2010年、Ciscoに買収)のシステムを2007年までに導入していた。

2009年になると、東北電力が1994年から運用していたISDN回線による第二世代のシステムを、やはりTANDBERGのフルハイビジョン(2K,解像度1920X1080)の第三世代に更新し、メディアにも露出していた。同社のシステムは災害運用を前提に、インターネット、携帯電話回線等との接続を謳い、現場からの映像配信も視野に入れていた(もっとも、こうした機能は当時としては一般的なソリューションである。テレビ会議関連技術論文・記事を検索すると汎用PCを用いたコスト削減に関するものや、日経BP社によるサービス多様化等の取材記事などが散見される)。

東電が更新したシステムはハイビジョン。システム構成などの見えにくい部分は別としても、対外発表する程の技術的新規性は無かったのだろう。オノデキタ氏が語る「技術に輝く東電」は、彼が在職していた1980年代の姿に影響された見方なのである。

日経コンピュータの取材に対し東北電力は「災害時の情報共有では、現場の緊迫感や切迫感を伝えることも重要だ。社員の目つきを見れば、彼らに余裕があるのか、事態がどれほどの緊急性を帯びているかが伝わる。テレビ会議システムを高画質化することで、現場の臨場感も伝わるようになる」と述べている。「表情の分かりやすさ」は東電も意識していたのは上述の通り。この頃は電子メールも行き渡り、何年か過ぎているので、動画に付加価値を付けるための流行りだったのだろう。

だが、公開された映像は専ら室内の俯瞰で撮られている。フルハイビジョンの画質でも、表情を読み取ることには活かせなかったのではないか。本店に正しくニュアンスが伝わったのかは、考察を深める余地がありそうだ。

【行政側のテレビ会議導入状況(2009~2010年)】

ここまで読むと、菅内閣(政治側)だけが、知らずにいたということになる。副大臣クラス以上となると、仕事のやり方に古さが残るのは仕方がない。海外でもIT導入期に似たような話はあった。上述の通り、官民のスタッフが補佐する話である。

コロナ禍で台湾のIT大臣が注目を浴びているが、安易に真似ても原発事故が提起したもう一つの問題、「専門バカ」を頭に据えただけの結果に終わると思う。ネット黎明期からそうだが、Twiiterを見ていても、老若男女・思想の左右を問わず、IT関係者には知識の優位を無闇に誇示したがる浅はかな人物が非常に目に付く。それも最近は「メールを使える」「エクセルを編集できる」「SNSをやっている」、なのに老害は使えないなど、下らない話ばかり。

とは言え、政治家が本当にテレビ会議を利用した事が無いかと言うと、違ったのである。儀式的な利用機会は増えていた。

以下、Twitter上より報道発表とそのRTを示すが、存在感は急速に高まっていた。

 鳩山、続いて菅首相も度々使用していた

『Fukushima50』の小説版で言及されている浜岡での防災訓練でもテレビ会議を儀式的に行っている。

産経新聞に掲載されたと思しき首相動静を見ると、やはりこの年も、首相は15分だけ出席の儀式的なものだったようだ。なお、9月1日(防災の日)に行われる総合防災訓練では会場の伊東市を往復していた。官僚組織も歴史的経験に基づきスケジュールを組んでいるようだ。

有用性は各方面で認知され、2010年11月には全国の自治体で導入することとなった。

東電事故調は最終報告書で次のように述べた。

報道では、官邸のTV会議システムは使用されていなかったとされているが、それが事実でシステムが活用されていれば、当社は原子力安全・保安院へ要員も派遣して情報を提供しており、より早い段階で官邸の政府首脳は情報を入手でき、より的確な対応ができたものと考える。

政府と距離を置く立場の国会事故調もこの点は東電事故調と一致している。中央防災無線網を通じて接続はしていたのだから、事実だろう。

このことは東電テレビ会議でも確認できる。3号機が爆発した3月14日11時の映像には「官邸もリアルタイムでつないでおいて」と要請する声が収録されている。菅首相来店の前の日の話だ。本店の社員達の意識は切り替わっていたのである。

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「音声はわずか30分・・・初公開も「まだ隠ぺい」」(FNNニュース 2012年8月6日頃)より。(録画よりキャプチャー

※東電は「本37-1」という番号を振って公開(URL)。FNNは短縮編集しており、「官邸も」の後に別の人物の発言が10数秒挟まるが一文としてはこれで成立している。発話者は小森常務と思われる。OurplanetTVによる編集版ではカット。オノデキタ氏の解説(2014年10月21日。20分30秒付近から)でも触れていない。

澤昭裕氏は、指示の名宛て人を明示せずに「○○という作業、誰かやってくれ」と発話する場面が多いことなど、技術以前の基本的な進行の不味さを挙げていたが、この発言も正にそれで、しかも他者の発言に被されて伝わらなかったのである。

私がこの件で官邸スタッフに厳しく、政治家に同情的なのは、実務家とは一線を画す職能上の問題からだ。機材をセッティングする訳でもなければ、会議の開催準備をするでもない。それは彼等の仕事ではない。事故後にこういった防災訓練での振る舞いに触れて、菅内閣を難詰する自民党議員も現れたが、二階氏を見ればわかる通り、同じ穴の狢なのである。

【官邸に詰めていたスタッフ達の責任】

一連の記録を読むと、官邸に詰めていたスタッフとその周辺者は次のようにまとめられる。

  • 原子力安全・保安院:職員達は電力会社がテレビ会議を使ってるとよく知っていた。
  • JNES:電力会社出身者はテレビ会議の存在を知っていた。
  • 官邸地下危機管理センター:自らが中央防災無線網とテレビ会議を運用する立場にあり、思い至って当然だった。
  • 他省から内閣府への出向者:自省のシステムから、存在を類推可能だった。

「思いが至らなかった」という政府事故調の言葉から受けるよりずっと蓋然性が高い。ルーチンワークを崩したくないとか、「サヨク政権」への政治的な反感から意図的に黙っていたのではないだろうか。

【東北電力とのシステム接続も無し】

残された疑問は他にもある。

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【参考資料】当社テレビ会議システムの構成イメージ」(東京電力HP、2012年8月9日)

福島事故時の東電テレビ会議システム構成を示す。良くできている図で、繋がってないものを考える役にも立つ。政府の他にあるべきものは何か。

同業他社、殊に福島を管内とする東北電力である。

東北電力も東日本大震災発生時には上記の新鋭テレビ会議システムを縦横に活用したが、東電とは接続していなかった(直ちに接続したという情報を持っていないので、そのように判断している)。

その弊害はあった。福島第一に一番乗りした電源車は東北電力が福島県内の営業所に配置していた4台で、3月11日22時の到着だった。東電の電源車より2時間以上早かった。だが、東北電力の電源車は活用されなかった。瓦礫に邪魔されたことが理由とされているが、その瓦礫は下請の重機により急ピッチで撤去が進められていたので、本当の原因は事前の擦り合わせ不足だろう。

東北電力福島支店と福島第一間でシステム接続をしていればそのようなことは無く、建屋内の給電がより早期に復活したかも知れない。電気が来ると、電動弁(MO弁)やポンプの制御が回復し、計器の読み取りも可能となり、照明が灯る。ベント作業一つとっても、空気作動弁(AO弁)は人の操作に頼るままだとしても、MO弁の突入部隊が不要となり、明かりも取れて作業負荷は大幅に軽減される。

事前準備で事無きを得たから良かったものの、日本原電東海第二原発ともテレビ会議システムの接続をした記録はない。もし何かあったら、通信連絡上も福島を上回る問題を生じていた可能性がある。

事故前に、業界団体の電気事業連合会や原子力安全・保安院が音頭を取ろうとしていたのかは、そういう観点から調査をした人がいないようなので、分からない。事故後、反反原発活動に勤しむITオタク達をネット上でよく見かけたが、彼らは別に何か調査をしてくれる訳でもないので、役に立たなかった。

だが、東北電力がシステム更新をした際、エネルギーフォーラムの取材に対して「災害時に他電力同士がテレビ会議に参加することで復旧への迅速な対応化が図られるのではと期待しており、そうしたシステムの連携に向けた検討を進めていきたい」とコメントしていた。その後、水面下では隣接会社の東電と技術仕様を擦り合わせたと考えられ、要は宝の持ち腐れに終わっていたのではないかと思われる。

2013年に原子力規制庁が導入したテレビ会議システムが、多数の電気事業者と接続するように作られたのは、このような背景に基づいている。

【もし、東電テレビ会議が最初から菅内閣に知られていたら】

官邸が初動から東電テレビ会議を知っていたとしても、できることと、できないことがある。例えば、電源車。3月11日深夜にプラグが電源盤と合わないという話があったが、これはテレビ会議があっても解決できない。震災の前に繋がるかどうかチェックしておくことが必要である。

また、電源車を遠方から呼び寄せるとタイムラグが生じ、メルトダウンには間に合わない。あらかじめ発電所に配置して、移動時間を省く必要がある。これも、テレビ会議では解決できないことだ。

しかし、避難誘導や注水資機材提供の面で、より迅速で的確な連携が望めたことは疑いない。条件が良ければ上述のようにベント作業にも好影響を与える。

【おわりに】

主要4事故調の報告書が出揃って8年、どうして今日に至るまで、テレビ会議での会話にばかり注目が集まり、「使われ方」について技術面を含めての再検証が無かったのだろうか。私も全ての文献に目を通せたわけではないが。例えばテレビ関係者ならむしろ得意分野だろうと考える。

それをせず結果責任を「東電の武黒」のみに押し付けることは、高級官僚に留まらず、東電の一般社員や官吏の言い分を鵜呑みにすることと同義である。彼等の不作為はもう少し深堀の必要がある。

特に3月14日に東電首脳が「政府とリアルタイムでの接続」を求めていたことは重要である。それが失敗したために初動が更に遅れ、事故調相手には言い分と情報の小出しに終始した。対して、無知だった官邸の政治家は本店に乗り込んだことで速やかに事態を改善し、情報インフラのポテンシャルを引き出すことに成功した。結論として、「イラ菅」は役に立ったのである。

【参考文献】

情報検索の際は「テレビ会議」の他、「TV会議」や「ビデオ会議」を併用すると良い。

・斉藤良博「東京電力におけるテレビ会議システムの検証実験について」『テレビジョン学会技術報告』1987年11月

・「社内テレビシステムが店所へも拡大」『とうでん』1988年4月P17

・鹿志村修, 矢原義彦(北海道電力)「ISDNテレビ会議システム」『テレビジョン学会技術報告』1992年16巻54号

・山口昇「中部電力における画像伝送システムの導入と活用」『テレビジョン学会技術報告』1994年18巻48号

・「特集 東響電力の?を探る」『とうでん』1994年10月

・山本益生「電力会社における設備監視システムの現状と今後の画像利用」『テレビジョン学会誌』1995年3月

・臼田修「阪神・淡路大震災における電力ライフラインの復旧について」『電気学会誌』1995年9月

・「特設記事1 官庁のテレビ会議システムを見る ①通商産業省の設置導入事例」『電気と工事』1996年10月

・「2-05.都市基盤・サービスの復旧 【05】電話の復旧」『阪神・淡路大震災教訓情報資料集』(PDF)内閣府防災情報

・「特集”ライフラインを守る”という使命を果たすために PART1 当社の防災対策を知る」『とうでん』2002年3月

導入事例詳細 CASE STUDY 中国電力株式会社 様(株式会社 メディアプラスHP)

・「国土交通省の防災情報システム」『電気設備学会誌』2006年4月

・「タンバーグが対面会議と同等の臨場感を得られるテレビ会議製品」『日経コミュニケーション』2007年2月20日

・「特集 新潟県中越沖地震に負けない PART3 この難局を乗り越えるために何をすべきかを明確にして業務に取り組んでほしい」『とうでん』2007年10月

東北電力がフルHDのテレビ会議システムを導入、122拠点に配備(日経コンピュータ 2009年3月2日配信)

・新潟日報社 特別取材班「第1章 止まった原子炉」『原発と地震―柏崎刈羽「震度7」の警告』講談社 2009年1月

・「東北電力 テレビ会議システム革命!社内コミュニケーションの高度化へ」『エネルギーフォーラム』2009年5月

・「東北電力、タンバーグのHD対応ビデオ会議シ ステム導入」『CNA Report Japan』Vol.11 No.21 2009年11月15日

・『平成22年度 福島県原子力防災訓練の記録』福島県

・「第1章 柏崎刈羽原発が揺れた」『生かされなかった教訓 巨大地震が原発を襲った』朝日文庫 2011年6月文庫化

・「防災行政無線システムの変遷」『日本無線技報』2011年

・「15.2 事故対応態勢」『福島原子力事故調査報告書 本文』(東京電力 2012年6月20日)

・「3.2.4 情報共有におけるツールの活用状況」『国会事故調 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会 報告書』2012年7月5日

・菅直人「第一章 回想 東電本店へ乗り込む」『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』幻冬舎新書 2012年10月

・「原子力発電所事故時の組織力とは —「検証 東電テレビ会議」(朝日新聞出版)と公開画像—」澤昭裕Blog 2013年1月8日

・町田徹「第二章 創業」『電力と震災 東北「復興」電力物語』2014年2月
 ※東北電力のテレビ会議対応、電源車派遣について参照。

・共同通信社原発事故取材班「第二章 爪痕」『全電源喪失の記憶』(2015年3月単行本の文庫化。2018年3月)
 ※3月11日夜の瓦礫撤去について参照。

テレビ会議システムの歴史をわかりやすく解説!(ITトレンド、2020年3月4日)

CIF(Common Intermediate Format) とは(Web会議・テレビ会議システムのLiveOn > 用語集,ジャパンメディアシステム株式会社)

・鈴木康人「ISDN(INS)とは|ISDNの歴史と終了の背景を解説」(トラムシステムHP)

学識者、原告団等で参照資料必要な方にはPDFを提供する。

直接の参考にしたのは上記だが、この他にも情報通信関連の文献を色々読み返したり調べたりした。私事ながら、日本データ通信協会が推奨する資格スキル維持の役にも立った。

※2020年6月6日:FNNニュースより本店の認識を追記。

※2020年6月11日:エネルギーフォーラム記事および澤昭裕Blogの内容を反映。

※2024年9月25日:関係の薄い文章を削除、表現修正。最終部分を「おわりに」節にする。

2020年5月19日 (火)

【マスクしないで】元厚生技官の木村盛世氏はネトウヨに感染【激飛ばす】

日本政府の滅茶苦茶なコロナ対応を決死擁護した医療従事者、(外形的な)専門家は数多い。それらの言行をまとめる動きも活発である。巷間有名な御用は岩田健太郎氏や村中璃子氏だが、その他にもたくさんいる。

ここで大切なのは「沢山」の一言で片づけてると自分も同レベルの間抜けとなる、ということだ。その内すぐに「沢山」=「全員」とすり替わり、無敵の人になり果てる。

その一端を知るため、オノデキタ氏の挙げている人達を示す。

もう一つ気を付けなければならないのは、「容姿」「経歴」は批判の理由にはならないことである。また、態度についても、単に偉そうにしているだけならスルー。パワハラ的な態度は結果責任を問われて当然だが、「偉そうに」PCR拡大を主張する者もいるため、内容で判断だろう。基本的にはPCR検査の邪魔をしているか、サージカルマスク、衣料用ガウン、人工呼吸器の調達を妨害しているか、が最も重要な論点となる。

特に検査の邪魔をしている上記の連中を社会的に抹殺するだけでも、状況は改善するだろう。

さて、井田真人氏が次のように述べているのを見た。

 

木村盛世氏が何故そうなったのか、ここで彼女の身上を詳細に洗うことはしない。だが、非常に自己顕示欲が強いので、TV受けするとは言える。これは官僚一般の特徴に反している。省から追われたのかはよく分からないが、残っていたら後述の主張から見て、より酷い行政指導が発信されただろう。

それより彼女の発言を洗っていくと、面白いことが分かった。PCR検査だけを否定しているのではなく、マスク着用すら否定するかなり徹底した人物で、しかもネトウヨなのである。

一見、ただ専門家会議を批判してるだけのように見えるので、困りものですね。彼女の提案の方がより酷い。

ビジネスネトウヨのほんこんを「敬愛」。「一芸に秀でてるので後ろ髪引かれる気持ち」なら、まだわかるけどね。ほんこんて、千原せいじと同じで芸人の癖に何の芸も無い枠やろ。

外国人差別で知られる『HANADA』に投稿。

『死の淵を見た男』の角川文庫版にサインを貰い狂喜。

上記以外にも「木村もりよ マスク」で検索するとテレ朝系「ワイドスクランブル」「TVタックル」でマスク不要論を展開していたことが複数の証言から確認出来る。

その後、TV各局がソーシャルディスタンス確保、透明アクリル板と遠隔中継を相次いで導入したことは御存知の通り。「マスゴミ」すら木村の妄言など信じなかった。

まるで、ハンストした人に治療する必要は無いという意味の言葉を放った「EARLの外科医」こと、福家良太氏のようだ。

別に木村氏が原発事故の戦犯だとか思ってはいないが、物事の上っ面に飛びつく浅はかな人物であるとはいえる。きっと、特定のキーワードを耳にすると37.5℃以上の発熱が4日以上続き、倦怠感に襲われるのだろう。

以前「【Fukushima50】吉田所長の津波無視を庇う門田隆将の話には嘘がある【原作者】」に示したように、門田隆将は都合の悪い話を書かないばかりでなく、単なる嘘を書いている人物。だが、そんなことを知らなくても、何で大津波で電源喪失したのが東電の原発だけなのか、位の疑問は持ってしかるべきだろう。そこから少し調べれば、東電だけが対策を怠ったという結論にはすぐに辿り着ける。

だから、今回もPCR検査を大量にやるのが発展途上国まで含めた世界のすう勢であり、東アジアでマスクが感染拡大防止に効果を挙げたことも学ばななかった。これらの理屈は全て小中学生でも分かる程度の話だから今更詳説はしないが、全自動の検査機を輸出しまくっていたのが実情だったのに、国力低下とは恐れ入る。

コロナの件でというより、今後はネトウヨだから批判していく方が良さそうだ。

※そもそも、TVタックルなどとっくの昔に思想クラスターになっているが。あの番組の出演者、大竹まこと以外まともなことを言うレギュラー出演者をとんと見かけなくなった。

【番外編】

TVを見て木村盛世の主張が邪悪だと思った私の母もかなり大概であった。経歴を聞かされるなり「こいつは元共産党員に違いない」である。理由を聞くと「公務員には元々隠れ共産党が多い。こいつも共産党仕込みでトンデモを主張するようになった。頭のおかしい奴は大抵元共産党員だ。」とのこと。典型的な高齢ネトウヨの戯言である。

彼女は勉強のし過ぎで愚民見下し技官になっただけだと思うけどなぁ。

勿論、親切な息子である私は、東ドイツが西ドイツを吸収合併した世界にこの半毒親を連れて行ってあげるつもりなど毛ほども無かったので、事実を示した後「ネットやってなくても思考がネトウヨじゃん」とお伝えしたのであった。

不思議なのは、色々視聴はするもののPCR拡大派の番組に好感を持ってることである。BS-TBSの報道1930とか岡田晴恵さんが出演している番組やサンデーモーニングなど。邪悪な者は共産党出身だという人種差別にも似た思考は何処からくるのだろうか。その癖、御近所様の共産党議員には「数十年来見ているけどあの方は筋を通して立派」などという(その人が立派だとは私も思う)。

要は、完全に認知が歪んでいるのである。

若い頃役所関係の仕事をしていたので、昭和末期の職業経験を絶対化してこうなったものと思われる。学生時代にテストの成績が良かったり、キャリア官僚をやり込めたらしいが、そのことで自分を頭が良いと思ってるので始末に負えない。反面教師にしたいところだが。。。

2020年5月14日 (木)

医療報道評価におけるコロラド先生の誤りと欠如モデル理論の限界

コロラド先生は精力的にコロナ取材をしているが、原子力に比べると経験の蓄積が希薄なのか、誤りが見受けられる。

 

このニュースを見て、コロラド先生は次のように呟いた。

まず、彼のことを最近知った人に教えるが、彼は日本のTV報道はネット経由でしかチェックできない。何故ならNHKに対する不信感もあってか、受信契約をしていないからである。テレビを使っていないので、民放も電波経由ではチェックし得ない。これらの確認は各局のネット報道経由となる。

私はコロナ禍前、月に何度か帰宅していた実家でTVを見ていたが、体感的に彼の報道チェックがおかしいと感じることがあった。

その前提を元に今回の主張についてチェックを行う。

結論から先に述べると現場を放送していないというのは誤りであり、BBCと遜色ない鮮度、深度の報道が複数ある。また、「欠如モデル」で語ろうとしたことにも、今回の失敗の一因が見いだされる。

いわゆる、海外は日本より先進的だから真似るべきだと言う考え方をネットスラングで「出羽守」というが、これを医療科学報道に当て嵌めると「欠如モデル」の一種となる。

つまり「院内の実態を報道していないからコロナに危機感を持たないのだ。放送すれば危機感が広まり政策も欧米型に近づく」という考え方である。

しかし、最近の日本の保守層・無関心層の動向を分析すると、欠如モデルで説明できる範疇は限られるのではないか、という指摘がコロラド先生の周辺でも以前から見られる。

院内取材の件は正にそれだろう。

後程示すが、視聴者の多くは院内取材について何らかの報道を視聴したことがあると考えられる。日本のコロナ対策が欧米に比べて遅れを取っているのは、現場の映像が周知されないからではなく、別の理由を検討した方が良い。例えば(1)報道バラエティにおいて、一部出演者が安全神話を垂れ流している、(2)視聴者の何割かが映像を見ても内容を理解出来ない、(3)世論は対策の充実を求めているが安倍政権がサボタージュしているなどの要因である。

特に、橋下徹・村中璃子のような出演者や安倍政権の消極性が起因していることはまず確定と言ってよい。その点においてコロラド先生と私の間に認識の相違はないのだが、私は欠如モデルで理解させるには疑問がある、ということだ。

現状必要なのは、デモやロビー活動、或いは制度の目詰まりからゴミを取ることではないだろうか。

ここからは、冒頭の「病院の実態ルポが無い」が事実か具体的な検証に入る。

まず、コロラド先生はBBCが聖マリアンナ医科大学病院を取材したニュースを称賛している。

だが、BBCが報道したのは4月24日だ。

実はそれ以前の4月14日、NHKが聖マリアンナ医科大を取材している。

クローズアップ現代+ 2020年4月14日(火)
新型コロナウイルス 救える命を救えるのか  ~医療崩壊リスク・現場の訴え~
30分

この放送では他の病院も取材しているが、全体としては、ベッドが満床に近づいていること、感染症指定医療機関だけでは足りず、一般病院にも搬送されていること、救急がたらい回しにされていること、医療資材が払底していること、治療に要する設備の解説など、基本的な問題は大体取り上げられていた。

BBCの報道は日本国内に関しては只の後追いだったのである。10日後なら、患者増加で疲弊した姿は撮りやすかったかもしれないが。

また、聖マリアンナ医科大としては、BBCのみに「独占取材」させる必要もなかった。BBCの報道と前後する4月23日には新聞のカメラも入っていたし、数日後にはTBS他民放各局の取材も受け、先行する局とほぼ同様の放送がなされていることが、Youtubeにアップされた報道からも確認できる。「独占」の必要が無いのは他の病院も同じだろう。

聖マリアンナ医科大は近年、入試で女性差別に基づく点数操作を指摘されて開き直ったばかりであり、汚名挽回による動機が他の病院よりも強かったと思われる。

 

 

これらはBBCの東京駐在員なら知り得た情報にも拘らず、只のサファリツアーでしかなかったのは残念なことである。「裏口から入学する程度のオツムなのに、ECMOが操作できるのか」位聞くのがジャーナリズムだろう。

なお、日本国内での現場取材したテレビ報道は当然これだけではない。例えば4月13日のTBSサンデーモーニングでも小特集が組まれている。

TBS サンデーモーニング(4/13)
日本にも迫る医療崩壊
4分58秒(魚拓

BBCは3分30秒だったのに対してこちらは約5分。警鐘に重点を置いているが、対策の充実に資する報道という意味からは、極端な差があるとは思わない。

更に言えば、2~3月の初期段階では、海外報道の買い取りが、現場取材の代役を果たしていたと考えられる。その時点では患者があふれ出すような修羅場が国内には少なかったのだから、海外を素材に使うことになる。

他、BBCと同日や、1日遅れで聖マリアンナ医科大以外に現場取材した結果が放送されている。ICUまで踏み込んだり、予防策を業界内外に紹介出来るような放送は他にも色々ある。

【例1】
今週もすごかった『情熱大陸』のドキュメント!新型コロナの感染予防に取り組む「超・スーパー看護師」
4/20(月) 9:36
>病院内での感染予防対策の一部始終が撮影されていた。
>聖路加国際病院で院内感染予防の最前線に立っている。

【例2】

MBS NEWS
院内感染防ぐ“ゾーニング”された病棟の姿...大阪の感染症指定医療機関を取材 『医師と感染患者』の最前線(2020年4月23日)
6分25秒(魚拓

【例3】報道特集4/25
https://trend-at-tv.com/word/52789
80分

【例4】

ANNNewsCH
新型コロナ“最前線の教訓”自衛隊の病院公開(20/04/30)
8分53秒

自衛隊が行ったのは報道公開なので、以下の例のように他局も放送している。ここは防護徹底で「悲惨な素材」が取れなかったので、そういう意味では官製報道と言っても良いかも知れない。だが、各局とも別のニュースで問題事例は報じており、この件は良好事例を紹介するという意図の方が強いと考える。



TBS News
【現場から、新型コロナ危機】自衛隊「見えない敵との長期戦」(5/8)
3分52秒(魚拓

SBSは断続的に特集を組んでいる。

【例5】

SBS news 2020/04/24
【特集】新型コロナと闘う医療現場 院内感染を防ぐために
5分52秒(魚拓

【例6】

SBS news 2020/04/27
【特集】新型コロナと闘う医療現場 人も資材も消耗
 6分36秒(魚拓

【例7】

SBS news 2020/04/28
新型コロナと闘う 医療現場③ PCR検査と医療体制
5分34秒(魚拓

5月に入っても自衛隊病院以外の追加取材は続く。

【例8】

TBS【報道特集】新型コロナ重症患者~容体急変も 集中治療室の最前線 2020/5/08
12分8秒(抄録と思われる、放送時間は80分)(魚拓

【例9】

ANN News
看護師が語る“コロナ最前線”疲弊する現場の実態(20/05/12)
3分38秒(魚拓

【例10】

関テレ『報道ランナー』 2020年5月13日(水)
治療現場「レッドゾーン」の内部 新型コロナ重症患者と向き合う医療従事者
10分30秒(魚拓

中にはICUを映している時間が少ないといった欠点を指摘出来る報道もあるだろうが、ある国の報道というのはニュース1本、テレビ局1局で評価するものではない。ICUは映していなくても臨床医のコメントが補足しているとか、医療資材について報じた分量は多いなど、特徴もある。

更に、ネット時代であることを受け、医療側自らがYoutubeに動画を流す事例も見られる。日本赤十字、自衛隊病院などがその代表だ。

【日本赤十字社】新型コロナウイルス感染症 医療の最前線からのメッセージ 2020/04/30
3分27秒(魚拓

特に自衛隊病院は、ガウンやマスクの着脱法についても啓蒙しており、価値が高いと思われる。

感染管理認定看護師による医療従事者用動画の紹介① ~ガウンの着脱編~魚拓

啓蒙と言えば、そもそも院内感染拡大を防止するための発熱外来設置例などの放送も欠かせない。この点でもノウハウを紹介する報道は早期から存在している。

TBS News
【院内感染防ぐクリニックの対策とは・・】2020/03/12
4分20秒(魚拓

上で紹介されているのは、この後BS-TBS報道1930などにも度々出演したPCR拡大派のインターパークである。同業にとっては、学ぶものは多い筈だ。全てではなくても、クリアファイルでの受け渡しなど真似をしやすい工夫はあるし、サーキュレーター等を使って空調の流れを改善することも出来るだろう。

以上は、Youtubeにアップされた単発ニュースが主体である。つまり局によっては方針でアップされていないものもある。これらの他に、報道番組および報道バラエティの特集内でVTR編集された事例や中継でコメント取りしている例が多数観察される。

当然のことながら、新聞報道もTV報道に呼応するように、文字数を費やした現場取材が行われている。冗長になるので1本だけ紹介するが、BBCの放送と同日の毎日新聞は、東京臨海病院への取材記事を載せており、4600字を費やしている。新聞記事としては詳細な分量で、種々の数量報告を交え具体的だ。

毎日新聞 4月24日
治療最前線「ぎりぎりの精神状態」 患者や社会の無理解… 東京臨海病院・院長に聞く

以上のように、日本の医療現場を取材し、そこで取られている予防策、起きている問題を拾い上げることは素人でも十分可能であることを示した。諸事情で自宅で時間を余らせている向きは、数多くの動画をルポを比較し「A病院ではやっているがB病院ではやっていないこと」などの差分を取ってみるのも良いだろう。コロナ禍を一日でも早く終わらせるための知恵はそういった観察から生まれる。コロラド先生に反論するだけなら2つ3つで良いところ、10以上のルポを引用した理由はそこにもある。

こう見てくると、問題にすべきでことは何か、明らかだろう。

コロラド先生の言だからと簡単に信じ込んでしまう人達こそ、欠如モデルの対象層である。もしTVを見る習慣があるとすれば、目にしている内容が理解出来ない疾患を疑うべきだし、TVを見ないのにさも見てきたかのように思い込んでいるとすれば、論理的思考力に欠落があることになる。

実はこうした思考欠陥は出羽守と対立する「自称普通の日本人」に多く指摘されてきたことでもある。思考パターンは実質的に相似ということだが、何故彼等の主張なるものがスルーされるのか、自分が同じようなことをして相手が耳を傾けると思うのか、もう一度よく考えてはどうだろうか。

2018年6月 9日 (土)

今更バスに乗り込もうとするRADWIMPSが露わにした国粋主義

RADWIMPSがサッカー興行のタイアップでHINOMARUなる新曲を発表し、その内容が素朴な極右である件について。

既に話題になっており、今更私が付け加えることなど無いが、『君の名は。』を過去に持ち上げた以上、書いておく。

「無知と素朴を言っておけば何をどこまでやっても許される」というような、無様な右旋回でしかないというのが感想だ。右翼思想自体もそうだが、別に最初から信念があった訳でもなく、元々金には困って無さそうなバンドにも関わらず、どう見てもビジネス目的(歌詞の擬古文もそう見られてるよね)なのが節操のない感じで最悪。後「右でも左でもない」という言い訳な。ポップ系で遊んでる連中ではまだ流行ってるみたいなので遠慮なくしばいていくべきだろう。

映画公開後に調べて知ったことだが、エコ活動っぽいことをしていたり、対外的にも受けの良さそうな発言をしてきたり、傍目にはリベラルに見えるバンドだったので、今回のことには驚いた。

アーチストがはっきりした政治的態度表明をする時、過去に何も言ってこなかったのに、勝手にポジションを決め付けて消費を続けた挙句「裏切られた。作品捨てます」などという人がいるが、今回については事前にどういう側なのか示すだけのことはしてきたバンドではあるので、ファンの中でも極右的世情に嫌悪を持ってる人達は可哀想だったろう。

まぁ、あの映画については、RADWIMPS以外の出演者も、何か政治的な態度表明を改めてしている人はいなかったので(市原悦子氏が反原発の表明をした過去がある位)、趣旨の決定権がある監督以外は、単なる雇われ人として見ている。よって、C4DBiggneerのように、アーチストの信条に過剰に入れ込むかのような評価はしてこなかった。私が評価したのは企画書なり台本を渡された時にその人なりに設計したことを上手に出来てるかと言う、テクニカルな点だけ。演劇の技法で何を採るかとか、ロックにするか歌謡調にするかのスタイル選択とか、内心を見るって点からは本質的じゃないでしょ。どの方法であれ芸として成立してるならそれで良い。「明らかに台本読んできてないでしょこの人」みたいのの方が不誠実だ。

別にいい年したおっさんになって「〇〇さん尊いです」みたいなのも無かった。

胸のサイズであるとか、キン肉マン振りを評価基準にして意識の高いことに手を出すと必ず失敗する。だって胸のサイズや筋肉は思想信条と無関係だもの。自陣営にも何人もいるが、敢えて声高に指弾してないだけのことだ。

言い忘れたが、「歌が口やかましいから極右」という瀬川深氏の指摘も間違いだ。そのやかましいスタイルを左派のバンドが採用し、安倍批判に向かったら黙る癖にこれだからルッキズムは。デモや反権力系フェスが右派から批判される時の典型は正に「やかましい」だろうが。彼はあのグループが国会前で演奏する時、同じことを言えたのか。

普段からそう思ってるので、神木隆之介が百田原作の映画に出たり、RADWIMPSの公認カバーアルバム出している主演の女の子役の女優が、オールナイトニッポンで獅子文六『海軍』読んでると明かしたりする程度の想定は当然していた。ハリウッドに比べて日本のスター級芸能人は余り政治を語らないとも言われるが、それは裏を返せば、そういう人達は一般論として、金目か無関心、そう思われるリスクを背負ったということでもある。

『君の名は。』自体は下記の点では商業とポリコレのバランスを評価出来る映画だった。

  • 宣伝の委託を広告大手3社ではなく被災地を沿線に持つJR東日本企画に発注。
  • 東北で舞台挨拶のなかった『シン・ゴジラ』と違って複数回舞台挨拶した(私には決定的な違い)。
  • 韓国で舞台挨拶/ニュース出演を卒なく成功させた。
  • 本編の数ヶ月後発売された外伝小説で後付した設定が、神社本庁を回避するものであった(日本会議騒動対策と推定)。
  • 公式グッズが「宮水神社の菓子」に至るまで東宝に還流するルートだった。
  • 公式コメントでは震災への言及を最小限に止め、イタコ、被災地幽霊等に付け込んだスピリチュアル商売を煽らぬよう苦慮した形跡があった。
    ※便乗出来ないと悟ったからこそ、幸福の科学は『君のまなざし』を内製せざるを得なかった。勿論駄作。
  • 神社とのコラボ無し(取材と私的参拝のみ)。
    ※なお、須賀神社側も、恒例大祭の奉納者一覧に勝俣恒久(好ましからざる住民)の掲載無し。
  • 鎮守森プロジェクト(露骨な政治案件)とのコラボ無し
  • 「社会に無知なオタクが行っても良い聖地」をセットし、閖上には誘導しなかった。
  • バックに東北電力のついた女川での野外上映会招待を監督が辞退。

上記と対比的な事例としては、ナウシカがオウム系ビジネスで勝手に利用されまくった例(マハーポーシャのデモ動画は大抵これだった)、ガルパン詣でに適応進化した大洗磯前神社の事例、国と密接な協力関係を築いてシナリオから国家批判が一切消えた『シン・ゴジラ』の事例がある。『シン・ゴジラ』について社虫太郎氏は皮肉だと主張しているが、本物の震災や戦災があった場所を舞台に、中央集権の政権が勝利するという神話を創作した時点で私はNGと思っている。首都消失のように中央以外が活躍する余地すら無い。

まぁ、上記の時は何とかうまく切り抜けたものの、新海監督にせよ他の著名なスタッフにせよ、何時あからさまに右旋回するかは分かった物じゃないな、とは思っている。それは『君の名は。』の今後の売られ方も同じ。ああいう立場の人達、傍目には十分な名声と経済力があるようにも見えるが、それ以上の物を求めたいと思う物なのかも知れない。

そういった作り手に、ポリコレを通り越して思想信条PRの旗手になるよう強要する、意識の高い者達の一部もバカだなとは思う。だが、自分のやってる事の意味も、過去の同業者の無惨な歴史も知らないRADWIMPSのようなバンドは、確かに批判され続けるべきだろう。

2017年6月15日 (木)

自らの公共的役割を語った後に縦笛発言をしていた新海誠監督

ニュースの政治面から目が離せない状況でこんな駄文を書いていていいのかという自問はあるのだが、これまでの自分のスタンスと整合は取っておきたい。

2017年6月13日「新海誠監督が不倫」というニュースが日刊スポーツに掲載され、それから数時間もしない内に監督が否定するという一幕があった。

私は、極限られた情報を以って、当事者、日刊スポーツの意図を議論しても意味は無いと思う。多くの観客は作品を見に来ており、監督の個人生活に興味がある訳ではないからだ。

そのことより今回初めて知って不味いなと感じたのは、次の件である。

『君の名は。』公開後、新海監督は次のように発言している。

自分としては、この先、もう1本か2本はサービスに徹した作品を作りたい。映画の世界で、自分の居場所や役割、もっというと日本社会の中で、自分の公共的役割を見付けていかないといけない年齢になった気がするんです。

【君の名は。動画付き】新海誠監督が大ヒットアニメの舞台裏を語った…「1分たりとも退屈させない作品を」(1/5ページ) - 産経ニュース 2016年9月19日

結構な志である。新海監督はティーチインその他で、「万人に向けて作品作りをしたい」という考えも表明しており、そういった意図も含めて『君の名は。』を評価している人は多いだろう。

私もその口で、新海監督のことは『ほしのこえ』以来知っていたが、『君の名は。』には恋愛映画とは別のメッセージで触発されるところもあり、以前「【平日の3.11を】『君の名は。』ティーチイン(仙台)に行ってきた【祭日に投影】」という記事を書いた。

だが、産経インタビュー記事の3ヶ月後、新海監督は次のような発言をしていた。

コラ画像では無く、『ゴロウ・デラックス』という番組の2016年12月16日放送分である。

新海監督のこだわり 唾液から作る口噛み酒

小説と映画で2016年ナンバーワンヒット「君の名は。」を特集。新海監督のこだわりは唾液から作る口噛み酒だった。ラブシーンを表現する手段だとし、男子は好きな子の縦笛をなめるようなフェチ要素があるのではないかと話した。稲垣吾郎は自分のフェチは喋ってるときの口だと話した。

ゴロウ・デラックス 本邦初公開!「君の名は。」制作日誌 TVでた蔵

少し調べると分かるが、幾つか挿入されている性的シーンの中でも、口噛み酒は製作中にスタッフ達から特に「気持ち悪い」と指摘されていた。そういった批判を考慮して、設定やキャラクター達の受け取り方を工夫するような修正が加えられた、と巷では言われている。だからこそ、性的な物目当てで見に来ていない多くの観客も、「設定」としてスルーしてきた(設定、というか入れ替わりを経験していることを考えれば、口噛み酒にまつわる行為は、問題ではないとも見做せる。「見た目は幼女だけど年は成人のキャラクター」のような、やたらに使い古された「設定」と同質の逃げではあるが)。

私は男でフェミニストでもないし、そう言う人達を批判したこともあるが、十代の頃から女生徒の縦笛やら唾液を舐めようと思ったことは無いなぁ。経験上、男子生徒の多数派がそう望んでいたようにも思われない(勿論そう言う人は一定数いるだろう)。現実で人の物を勝手に舐めるのは単なる迷惑行為だろ。よくある姿格好や行動に魅了されるのとはそこが違う。ついでに言うと私の場合、小学生~女子高生に執着も無いんだよね。

『君の名は。』は何回も見ているし(見ないで批判ではない)、BDの予約を解除する気も無いし、上映の機会があればまた見に行きたいとも思っている。公式設定からは排除されており、縦笛的解釈をしなくても観賞は可能だから、この件だけで全否定はしない。しかし、一言忠告はしても良いだろう。TV局から「何か面白いこと言ってください」と煽られたのかも知れないが、今後、こういう失言はしないでほしいね。内輪ネタを人にばらされたという事情なら、同情の余地もあるが。製作スタッフに対しても失礼だろうよ。

ガンダムの富野監督にせよ、ジブリの宮崎駿監督にせよ、過去のインタビューなどを見ると公共的役割は意識して作品作りをしてきた。観客もそれは了解していて、彼等の性的嗜好(はっきり言って縦笛発言並に痛い)も既に明らかになっているが、それを最終目的にして見ている人はさほど多くは無いだろう。新海監督も諸先輩のそういう部分の真似はしないことである。

こういうことを書くと、「PCを守っていると作品がつまらなくなる」「TVで面白いことがやれないとぼやいてる芸人の問題と同じ」という指摘が必ず出てくるが、まぁそれを守って空前のヒットを遂げた作品もあるし、「お前の番組を見ていると弱者叩きを生きがいにしてるようで気分が悪くなってくる」的なコメントばかりしている芸人も多いのが実態である。万人に向けて公共的役割を意識した作品を作りたいとしているなら、このようなメッセージは発しないことである。

2017年3月 6日 (月)

【平日の3.11を】『君の名は。』ティーチイン(仙台)に行ってきた【祭日に投影】

新海監督が『君の名は。』のティーチインをするというので仙台駅前のTOHOシネマに行ってきた。今回はそのレポート。当然ネタバレ前提なので未見の方は気を付けてください。また、組紐、扉、月の満ち欠け、トンビ、光と影、神話等、様々なギミックが指摘されている作品ですが、当記事で重点を置くのは殆ど災害映画としての側面です。

※本業多忙につき通常のシリーズ記事が滞っていますが、3月11日までには仕上げたいと思っています。

久しく行っていなかったティーチインを実施した理由はただ一つ、3.11から6年、想定外のロングランが遂にアニバーサリー報道の跋扈する時期まで続いてしまったからだろう。

そして、私も誘惑を押さえ切れず(大仰かも知れないが)スベトラーナ・アレクシエービッチと同じ観察者の轍を踏んでしまった。それは恐らく監督達も同じ。東宝は営業データから細かく動向をチェックできるだろうが、空気感ばかりはその場にいないと分からない。被災地の人達はどう受容しているのだろう、という疑問は当然湧いてくる。

生まれてこの方アイドルのおっかけとは縁のない人生を歩んできたので、舞台挨拶付き上映会は初めてだ。入れ込んだ理由は、よく言われているような点で高く評価しているからだけれども、私の場合、一般的ではない要因が幾つかある。まずはそこから。

【『君の名は』に入れ込んだワケ】

○倫理問題

「現実の災害を玩具にして」という倫理問題が言われることがある。『風が吹くとき』など、起こる前にディストピアを提示する映画には大きな価値があった。後追いで作られた架空の原発事故を描いた映画監督が何か言っていたそうだが、訴状作りの役にも立たない。起こってしまった後にそういうアプローチは意味をなさず、うんざりするだけ。必要とされるものは追悼や内省を促す作品である。

もしも原発事故の責任を主題に据えるのであれば、実録ベース以外に道は無い。

○郷土映画

自分の体験とシンクロし易い、現代の要素がある作品でないと私は没入までは出来ない。歴史物、SFなどどれも好みだが、時代や国が大きく異なる場合、対象にホイホイと憑依することはこれまでも出来なかった。

新宿は、今は引っ越したけれども多感な10代の頃に過ごした街で、一時期は働く場でもあった。単純に郷土が出てくるのは嬉しいし、「東京だっていつ消えてしまうか分からない」という一言は、到底無視出来ない。

新海作品を特徴付ける美しい街の風景も、「今の東京を心象風景として刻み付ける」ようにも使われている。そういった監督の意図はとてもフィットした。

ただ、地元民視点から見ると、通学で電車依存となっている瀧の有り様はちょっと違和感がある。千代田区六番町から新宿駅近郊の高校までなら、晴れの日は徒歩か自転車だよ。その方が体力もつくし。都会育ちだから歩くのは慣れている、そういう逆説がある。

○瀧と同じことをしてきた

3.11以降「知り合いがいる訳でもないのに」津波想定や原発建設の(各事故調が無視した)経緯について徹底的にリサーチし、実質的にデータマンとしての役割を果たした。これは、クロニクルの各記事を御覧頂ければお分かりの通り。興味を持たれた方は少しでも目に止めていただけると有り難い。

だから、劇中で瀧が糸守について執拗に調べるシーンがなぁ。瀧の個人的な人探しとの違いはあるが、本質で重なるものもあるから、寓意として共感出来る。焦点を合わせてる部分が人の内心だからだろう。特に「何故心を締め付けられる?」という体験。東電や津波に関係しないのでアップしてないが、双葉郡各町の広報誌、特に2000年代のものを読むのは正直きつい。絵に描いたような幸せそうな住人、特に子供達の、基礎自治体目線ならではの、自然な笑顔が多数収められている。その後、キュウイの里も、桜並木も、個人的な縁を言えば松島の市街も全部駄目になったことを知っているとね(立ち入り禁止が解除になったエリアもあるにはあるが)。

果たして監督は、子供を意図的にカットに入れているのだろうか。

○趣味は部室

重い話が続いたが、廃部室もある種の郷愁を掻き立てる。学生時代、「趣味は部室です」と自己紹介するほど部室に入り浸っており、パソコン、アマチュア無線共手を染めた。90年代から2000年代前半に正にああいう感じで。スチール製のラックや作業台替わりの会議机、古いソファ。私の友人にも勅使河原のように、自室が部室的レイアウトになってしまった人が何人かいる。

なお、糸守の高校は高台にあり、電波環境は良好そうだ。アマチュア無線にあつらえ向きだろう。

【上映中に気づいたこと】

満員となった客席の雰囲気は東京に比べて違和感は無かった。もっともこの映画、普通の娯楽映画に比べると少し違っていることが多い。強いて言えばクラシックの演奏会と彼岸に寺社内で開放された談話室を合せたような感じ。

上映中は東京より真剣に見ている人が多かった。ギャグシーンで笑い声が殆ど聞こえてこない。もっとも、笑い声に関しては年が明けた頃から顕著になってきた現象で、リピーターが極めて多いことを示している。最近は初見のファミリー層が多数来館する休日昼下がり以外、笑い声を聞くことは殆ど無い。

以下、時系列順に感想を書く。パンフレット等で解説済みの話はほぼ外したつもり。ギミックに関連する人文系の知見だが、あまりマニアックなものには立ち入らない。試写会頼み?の『ユリイカ』や一見論評よりは地に足の着いた内容になったかと思う。

まず、この映画を民俗学・神話から読み解くにあたっても、監督が規定した表のテーマと裏のテーマで読みが変わってくる部分がある。三葉が弥都波能売神(みづはのめのかみ)からの引用に始まって、神話の男女逢瀬等々、表のテーマに係る解釈がネットでは殆ど。正直、設定として上手く当て嵌めた、以上の感動は無い。私が問題にするのは当然、裏テーマ。名前の話にしても「水神」と来れば津波絡みと読むしかない。

  • OP直前の「美しい眺めだった」。ティーチインの前から何となく思ってたことを思い出したので書いておく。彗星を題材にした理由の一つは、ネットでは九州の須賀神社絡みと言われているが、2つ目のテーマに沿った場合、異なる解釈が可能である。

    監督自身もどこかで言っていた気がするが、『日本書紀』などの神話を参照したものらしくネットでもそういった解釈がなされている。注意しなければならないのは、『日本書紀』はその後続刊が編纂され六国史と称されたこと。その最終巻『日本三代実録』になると神話的色彩は無くなり、現代の行政組織が発行する年史とほぼ変わらない事跡の羅列となる。そして『日本三代実録』の時代には貞観地震があり、冒頭の描写はその記述「光が見え隠れして昼間のように明るくなった」(現代語訳)に倣っていると思われることだ。なお、原文では「流光」と記される。

    表テーマは恋愛論的に解すると幻想となり、神話(国生み神話)との相性は良いとされる。しかし、裏テーマは神話というより事実を元にした寓話や実録との相性がある。ティアマト彗星がメソポタミアの海の神となっているのは当然裏テーマに沿っているが、その姿も地震に由来するということだ。

    なお、記述から分かるように貞観地震の発生時刻は夜。地震時の発光現象は幾つか目撃報告はあるが、予知の役には立たないとされ、まともな地震学者(と思われてきた人達)からはオカルト扱いされてきた、という事も本作の裏テーマに絡めるには良い材料である。恐らくこれが正解、というか災害映画としての意味になる。とは言え、当地自ら宣伝に回っているのでなければ、震災後何もしてこなかった映画ファンは須賀神社の聖地巡り程度に留めておくべきだろう。
  • なお、最初の特報CMは主に本シーンを素材にしているが、数あるCMでも台詞と音楽のテンポが最も整合している。
  • ティアマト彗星。10月2日、4日の方は「軌道が正しく描かれてない」などと言う批判に何故多くの人が飛びついたのかさっぱり分からない。全編通して地表との位置関係を考えれば「キャッチーだから」導入したとの公式発言通り、絵的にはビジュアル重視は明らか(TVニュースを見直すまで気付かないとは、何を見ていたんだろう)。むしろ適度に割り切っていて気持ちいい位だと思う。監督の認識がもう少し現実寄りにあることは、小説版の彗星描写(OPでレシプロ機並みの降下だったのが「秒速20㎞」など)から自明のことだ。
  • ニュースの模式図でもう一点。拡大図では地球、彗星、月の順に並び、作中の地表からの視点とは一致している。後半出てくる10月4日のニュースではピークが19時40分となっており、大体転ぶ時間に近い。
  • 胸の件、シーンとしてかなり配慮した跡も見られるが(ここで詳しく論じられている)、昔こんな深夜帯の萌えアニメみたいなことしてる人じゃなかったけどね。こっちだってそれ目的で来てる訳ではないし。
  • 旨そうな飯は精々50年代生まれまでの絵描きの専売と思っていたが、この朝食は美味しそうだ。良い物を見た。防災無線の個別受信機は意外にもここ2・3年で普及したものだそうで(リンク参照)、その辺りの取材もしっかりしている。
  • 登校する姉妹。オロナミンC風の広告がある階段で四葉はお米屋さんの話をしている(字幕版で分かる)。
  • テッシーからカフェと聞かされて目の色を変える二人。中京圏の喫茶店文化を知っているのだろう。北限は高山付近だから憧れもひとしおだ。自然な描写になっており実に上手い。
  • 瀧(三葉)達のカフェ巡り。ネットの一部でブルジョアとクレームが付いたが、下らない。そりゃ世の中苦学生もいるし、須賀神社周辺にもそういう学生向けのアパートはありましたよ(何十年も前の話だけど)。でもバイトしてる訳だし。小金を稼いで某高級焼き肉屋に行ったり、馬車道巡りしてる友人を身近で見てきたので、特に違和感は無いな。あの高級カフェが東京の全てでは無い位、日本で生活してたら誰でも分かる事だし。
  • レストランで奥寺に嫌がらせする山本(字幕版で分かる)。これもバイトで陥る窮地あるあるだな。私も昔、初日にこの手の揉め事に巻き込まれて、しかも被害者がお客だったのでクレーム貰ったんだよね。その後はそこそこの対応力付けたが。だから、バイト初日の三葉は、本当に凄い。
  • 導入部の締め、前前前世。107分しかない尺で、何故こんなに展開が速いのか。120分程度にしてアースバウンドに回したエピソードを映像化する道もあった筈である。最も直接的な理由は全体のテンポが乱れるからだろうが、他にも理由はあると考える。本作の表のテーマ、ボーイ・ミーツ・ガールだ。

    二人は互いを認識してから深い愛を確信するまで劇中1ヶ月しかかけてない。愛に限らず一般的に、他者と深い信頼関係を構築するには短過ぎる期間だ。それを解消したのが入れ替わり。身体感覚で互いの本音に触れるという、凡そ現実では不可能な行為の繰り返し。隠し事もほぼ不可能。だから、当人達すら意識しない内に、急速に距離を詰めることが出来た(アースバウンドでの入れ替わることなど不可能なテッシーの描写が良い対比となっている)。「リアルに」心理描写を考えるとそうなる。種々のギミックはあくまで装飾。だから導入部の展開を省略しても意味は通る。

    勿論、災害映画としては、「会えばすぐわかる」という、無くしたらPTSDレベルの信頼関係が、現実を反映するために必要だった。
  • バスケで飛んだり跳ねたりする三葉(瀧)。人の体なのだから余り無理はしない方がいいぞ。本気でバスケやってるとひざ痛めること位、中学時代バスケ部だった君なら知っているでしょう。
  • 御神体に奉納しに行く途中映る、送電線が2導体x4組の鉄塔。通常、送電線は3相交流が流れているので、3本で1回線を構成する。更に細いOPGW(架空地線)が塔頂に1本加わることもある。あの送電線にOPGWは無いので数が合わない。なお、この送電線はパンフレットVol.2表紙にも確認出来る。

    糸守変電所のモデルは新信濃周波数変換所の撤去済みの設備だそうだが、ロケハンした際に直流送電線もお遊びで入れたのか。ネットの電力設備オタクがこの送電線に興味を示さないのも謎である(なお3.11後、高山付近に新規に周波数変換所の設置が検討されている)。
  • 丸の内線の走行音がE231系以降の通勤型に置き換えられている件。エンドロールと東洋経済の記事を読むとJR東日本企画が参加しているので、それが理由だろう。裏テーマを考慮すると、登場する鉄道事業者で只のビジネスではなく社命・メセナとしての意味があったのはJR東日本だけ。
  • 最初の秋祭り。御神灯(神に供える灯火)が町の規模に比べて異常に多い。この御神灯は町長説得の失敗後も背景に登場し、停電で一斉に灯を消す。ティーチインで後述するイメージに沿った意味が与えられているのだろう。
  • 司、奥寺先輩と乗った東海道新幹線の3列シートが山側になっていると鉄道マニアがはしゃぎ、東洋経済の記事でもJR東海が絡んでいれば避けられたと示唆していたが、2冊目のパンフレットにある通り、現実の鉄道と意図的に違えている部分があり、総武緩行線でも四谷駅到着シーンは左右反転していたりする。3列シートの件も、表面的な理由は観客の視線移動にあり、裏の意味としては下り列車で3列シートが東京側を見て左になる位置、即ち東北新幹線の暗喩だろう。

    その傍証に、東京駅の乗り換え案内サイン(柱に貼られている大きなサイズのもの)で縦に2種のサインが並んでいるものは実際の東京駅では殆ど見かけない(こちらのブログにある程度)。写真展における「山陸」と同種の意図と考える。

    他にも海岸沿いに近い白砂青松の風景は映さず山、田園、トンネルを映すことで東北新幹線に近い印象を与えている。
  • 3発目が落下してひょうたん型になった新糸守湖を高校からのぞむ。新しい隕石の方が大きなクレーターを作っている(小説でも言及がある)。これは、M8.5程度と推測されている貞観地震に比較し、東日本大震災の方がM9と規模が大きいことに対応している。

    小学生向け図鑑などで、大地震の大きさを比較する時、震央を中心として円を地図上に描いたものがあった。監督の故郷の湖をモデルにしたことは明らかにされているが、大きさを違えたことに関しては図鑑からヒントを得たのだろう。

    なお、それまでは何気ないシーンでも雲が動いてることが多かったが、このシーンでの雲は静止画である。
  • 旅館での司と奥寺。ビールのロゴがSAKAKI?となっている。冒頭のカフェでテッシーが飲んでいたコーヒーはサントリーのBOSSと明記されていたのと対照的。様々な事情で本来の姿でコラボ出来なかった商材も多々あることを示している。
  • 口噛酒を飲んだ瀧はトリップし、二葉の死を目撃する。不治の病で死んでしまうことから、双葉郡を暗示しているのだと思う。アースバウンドでは生前の姿が描かれており、更なる現実の暗喩について思いを巡らせたこともあるが、これ以上は厳しいかな。一葉、四葉は語呂合わせだろうね。
  • 瀧がトリップ中に目にした三葉。小説だときちんとした口語文だが、映画は「ちょっと、東京行って来る」「ええ?」←参考文献は匿名掲示板ですかねぇ。
  • 作戦会議で後ろ頭を掻く。髪を切ったので地が出し易い。頭は後に面接でも掻く。前後するが肘で付いた後のあの笑い、パンフレットを読むと思い入れありそうなんだが「異界からの使者のように」と指導したのかね。
  • 小説版だと作戦会議で、瀧の内心として「生きていればどうにでもなる」との独白がある。確かに死んでしまうことに比べたら、また、東京の人間が発した言葉としては説得力がある。だが、実際の震災後、生き地獄と言って良い不遇に陥った被災者にとっては、素直に受け入れられる感情であるかは疑問だ。もっとも、それを扱うことはこの映画の範疇を超えてしまうのではあるが、私も多少は見聞してきた以上、言及しておく。瀧君は大人になったら是非そういうことも知ってほしい。
  • 町長の態度も現実の暗喩と気づく。自分の娘さえ馬鹿にして病人扱い。町長だけではなく小学生すら同じ態度を取る。社会が、3.11前に警鐘を鳴らした人達をどういう態度で相手していたかを多少なりとも知っていると、被災地を含めてかなり内省を促す表現。観客も東京より厳粛だった(気がする)。驕れる地方政治家には良い薬だろう。
  • 三葉(瀧)が思い浮かべる御神体は2016年の様子なので川は増水している。その後、1回目の死亡時から瀧の体に飛んできた三葉のシーンとなる。噛み口酒の小瓶が描かれていないミスもあるが、新糸守湖を臨む際、背景に映る川の増水は引いている。2013年10月2日から10月4日まで糸守で雨は降っていないので、片割れ時は両年共に、水が引いているのが正しい。ところが、片割れ時終了後のズームバックにて2013年に切り替わる際、川の水は増水したままになっている。ソフト化の際修正入るだろうか。
  • 美濃太田行きのローカル線。高山本線では2015年までキハ40が現役だったようだ。ひと昔前の地方を象徴する車両で、国鉄色に塗ってしまえば普遍性はより高まり、2013年の描写にはあつらえ向き。時期の問題も配慮があるのだな。東海道新幹線は海側が2列になっており、上記と併せて完全に反転。
  • 片割れ時。観客が感極まっているのは死者が蘇り、あるべき場所に魂を収めたことなのに、台詞上は三葉の方から「瀧君がいる」と言っている。ちょっとしたテクニックだが、場面の立体感を高め、二人の相手に対する心遣いが感じられる。夢灯篭の旋律を使用し作品の一貫性もある。いや待て。OP主題歌は当初案を差し替えて夢灯篭になったそうだが、この劇伴が先に生まれ、後から主旋律を取って作曲したのだろうか。音楽雑誌の特集記事でもその点を掘り下げた記述は無かったな。
  • なお、片割れ時のやり取りを瀧の視点から眺めた小説版では、監督が知ってか知らずか最近問題視されている「恋愛工学」を全否定してることも好評価ポイントだ。
  • 三葉につられて笑う瀧。正直変な笑いだと思っていたので、上白石氏がベタ褒めしていたのが不思議だった。よくあるスタジオの生声と録音の差かなと思っていたのだが、極音上映で聴くと神木氏の熱演が伝わってくる。
  • 「再演の日」になってキャラデザで気づいたこと。主人公二人は完全な美形としてはデザインしていないとどこかで読んだ。常時美形として描かれてるのは奥寺。三葉は瀧を「ちょっとイケメン」と形容した。それでも美形としての印象が強いのは「何かに真剣になっているシーン」での作画管理が厳格だから。そうやって顔に心を映し出したということ。逆に導入部のほのぼのシーンは記号を多用し全体的に緩い感じ。基本的な演出技術だろうけど実に上手い。
  • 自分の体に戻った三葉が夜の山道を全速で走り、停電してるのに皆が迷わず避難出来る理由。小説を読んだら彗星は月明かりより明るいと書かれていた。瀧は当然知っていた。だから停電のアイデアに同意出来たのだ。
  • サヤちん「完璧犯罪」、テッシー「ここからは冗談ではスマンで」(小説版)、「二人仲良く犯罪者」。電源を落とすことは「完璧な犯罪」であると言っている。現実では、変電所を含めて電源(これは発電所を指す業界用語でもある)を落としてしまった東電は、想定外だったとして法的な責任を認めていない。監督は毎日新聞のインタビューで「価値観訴える映画、作りたくない」と言っているが、大衆の正しい願望として、「非常用電源は役に立つ場面で機能すべき」という琴線を刺激したかったのではないだろうか。知れば知る程、現実の非常用電源の扱いは醜悪の一言に尽きるからね。
  • スーパーカブの後ろ側に見える送電線。良く見るとなんか弛度がおかしいな。東宝はちゃんと予算を当ててやれよ。それと、三葉はテッシーにつかまってはいても、胸は押し付けていない、監督自ら明かした、冒頭で胸を押し付けるサヤチンと対称的な描写。
  • 倒壊する糸守変電所の鉄塔。ところで、糸守はスタッフにより一部の場面で糸森に変えられている。つまり、糸森変電所が夜に爆破され、鉄塔が倒壊する。夜ノ森線へのメタファーだろうか。変電所なのに周波数変換所をモデルにしたのは「入替」にかけてるんだな。
  • 祭りの中、楽しそうに彗星を眺める村人たち。現実との対比で言うと、当時そこまで呑気では無かったため、観客はやや距離感を感じるシーンでもある。 何故なら、地震後はとるもとりあえず指定の避難所なり高台に向かっていたのが実際の被災地の姿だからだ。
    しかし、ここでカメラが映している人達は、避難し切れなかった、何らかの事情でしなかった人がモデルであって、
    生者たる被災者ではない。一連のシーンでのんびりしているのはそのためだ。
  • 劇中歌の歌詞は一見するとその場面で進行中の出来事とは無関係である。しかし、登場人物(専ら瀧。外から村にやってきた者としてキャラ作りされているため)の回想を歌っていると解すると全てが分かる。

    スパークルの場合、「遂に時は来た。昨日までは序章の序章で」は作戦の開始に合わせているが、実際には「再演の日」にやってきたことを思い返して語っている。
    停電の直前は「自分が電車の中などで、日頃三葉をどう思っていたか」を瀧が回想する視点。デート失敗後、糸守の絵を描いているシーンに対応し、台詞は無かった所である。敢えて台詞を消すことで、スパークルでの回想に説得力を持たせている。
  • また、人間開花版だったと思うが、フルで聞くとあの叫びには愛だけではなく慟哭も含意していることが分かる。MVとして再編集された映像からも明らかである。
  • 町が停電していく様子を空から見る。画面右上に炎上する変電所が確認できる。
  • 鳴り響く警報。あの日私は現場にはいなかった。だが「トラウマになるから辞めろ」と言われつつ、実態解明のため何百回も津波襲来時の動画を見てきた。だから、あのシーンは直ぐに分かることだったが、西日本を中心にその再現だと素で分からない方もいるようである。そういう映像から目を逸らす人達も沢山おり、既に「忘れられ」始めているのかも知れない。だからここに敢えて書き残す。
  • 「知るかアホ。これはお前が始めたことや。」と叱咤するテッシ―。そう。この場面に限っては、表のテーマ「ボーイ・ミーツ・ガール」は個人的事情として封印され、裏テーマが完全な主役に躍り出るのだ(三葉は冒頭で愚痴を言っていた割には町の人達を見捨てずによく頑張ってはいる)。
  • 「こんな田舎でテロなんかあらすけ」と言ってるのは防災課の職員。宮水俊樹の前でおろつくのは防災課長である(字幕版で分かる)。
  • 彗星が落下し爆発する。高校上空から1~2秒程度の描写だが、空を見ると雲がドーナッツ状に変形している。市原悦子氏が広島、長崎を髣髴させるとコメントされており、「製作陣は流石にそこまでは意識していないでしょ」と思っていたが、あの核実験のような雲の広がり方を目にしての感想だったとしたら、絵的にそういう面はあるかも知れない。
  • ネットで議論となった話の中に、「作戦の首謀者3人はどうして逮捕されなかったか」というものがある。役場は事情を把握しているので、物証(変電所)が消し飛んでいても3人の間だけでの隠蔽は困難である。また、瀧が読んでいるネットニュースのように、写真も撮られてしまっている。

    恐らく、覚悟を決めた三葉にキーがある。つまり、彼女は隠そうとしたのではなく、目が座ったまま「爆破したのは私たち。避難してもらうためにやったの」と俊樹に告げたのだろう。あのシーンは典型的な父殺しだが、事態の本質を明瞭に告げることで、俊樹には娘の意志を尊重し、庇護する動機が生まれる。そうして、役場を巻き込んで隠蔽してしまったと考えるのが実は最も筋が通っていると思うのだが。

    監督は2冊目のパンフレットで瀧は異界の食べ物を食べて三葉になっていったと書いているが、三葉も瀧的になっていった面はあると考えるのが自然だろう。その意味でも三葉が決断力ある人物として振舞ったことは想像に難くない。
  • 瀧が就活で着ているリクルートスーツは本当に似合ってないのが素晴らしい。一方、就職後に着ている背広は板についたものだ。流石、実質的な勝負服になっただけのことはある。
  • 夕暮れ時に奥寺と瀧が眺める風景。防衛省の通信塔が印象的だが、あれ、近くで見ると結構塗装が劣化してるんだよね。塗りなおさなくても大丈夫なのかな。
  • 糸守の人々のその後。花屋の男に牛丼を食べる女。「ジェンダーをテーマにしないと決めた」と言う監督の自己認識が作品の随所に反映されている。実のところ「入れ替わりで性格が変化する」という設定を当然視している辺り、監督の無意識なジェンダー観が垣間見えて興味深い。2冊目のパンフレットにあった言葉を補うなら、思考の性差を先天的(=肉体に宿る)物と考えていないことが良く分かる。宮崎駿、引退撤回したそうだが、早逝した弟子にも抜かれていた貴方が、今から追いつくのはもう無理だな。それは罰だよ。
  • 先に、二葉=双葉郡の暗喩と書いた。最終的に糸守町の住人は助かるが、町が壊滅(一部は消滅)し、自治体として機能不全となる未来は変えられなかったことが、エンディングの上京した若者達から見て取れる。観客は結構分かっているが、あのシーンはそういう悲しみもある。監督だかRADWIMPSは「先の見えない不安な時代」と言っていたけどね。だからこそ「もう少しだけでいい」「何でもないや」という所に繋がる。
  • エンディングのボーイ・ミーツ・ガール。インテリから集客目当てと批判されたが、元の興収目標20億なのに監督が可哀想だ。生き残ることで出会いの機会に繋がるという災害映画との表裏一体の関係からすると、あれしか無かったと思う。素晴らしいのはこの二人が再度出会うことで、監督がパンフレットで言った「後は想像の範疇」に東京組と糸守組の大円団が射程内に入ること。貴樹に見せつけてやったれw
  • しかしながら、最低でも勤続4年目以降と思しき三葉はともかく、瀧はようやく見つけた就職先に振り落とされないように通ってる筈が、朝から仕事サボってデートか(西村智道風)。彼、試用期間中だよね。あの涙って「やっちまったのかー俺は」的ニュアンスかねw 5分後の醜態が見たくして溜まらない。
  • スタッフロール、英字幕版の時はいたく簡略だったが、北米公開の際は全訳した方が良い。余韻を楽しんでもらうべきだ。
  • ようやく幕が上がった。これだけやってオリンピックや現代の皇室のような、人を分断するワードを作中で一切使っていないのも大したものである。

【ティーチイン】

上映が終わり、満場の拍手で監督を迎えてティーチインが始まった。

「県外から来た人手挙げてください」は面白かった。3分の1位だろうか。安易に首都圏と考えてしまいそうになるが、東北地方は高速と新幹線が整備されるにつれて、各県間の移動が定着していったという話を読んだ記憶が蘇ってきた。行楽客は当て嵌まりそうだ。新幹線の場合、福島から20分で仙台に着いてしまう。県外からの来客も主力は東北地方の人達ではないだろうか。後述の質疑でも1人は青森から来たと言っていた。

リピート率も手を挙げて確認。4分の3位だろうか(なお最高は405回の方)。

なお、世代は広汎に分布、というか30代以降がとても目立つ。この件については公開初期にカップルを憎悪?していた「意識の高い人達」の評を信用してはならないw

動員数に話が及ぶ。2016年は邦画当たり年と言われたが、海外展開で期待できる戦略商品は本作だけ。監督はそのような意図は無かったとしつつも、多くの人に届く映画を作りたいという思いは持っていたそうだ。興味深いのは、神社周りの描写以外は、普遍的な日本の生活風景を紹介する構成にもなっていること。(社会問題の指摘はともかく)まだまだ変な日本の描写は散見されるからなぁ。改善に繋がれば嬉しいね。お互い。

【準備していた質問】

質疑応答では20名程が挙手。30分では時間的に厳しく、7~8名程で終わってしまった。製作中の苦労話、次回作のこと、趣味嗜好のこと、などなど。糸守町の中学校について、この日まで誰も設定を練っていなかったというのは、面白い検討抜けだった。

国内の観客動員を九州の人口と比べたり、自身の実家の小海町の人口を例示したり、監督は計数にも明るいようだ。小説にあった「電車に一両100人詰めて」等の表現は語呂と雰囲気重視なのだろう(通勤電車の定員は座席が50~60人程度、立席を含め140~150人。150%の乗車率なら210~225人となる。中央緩行線は朝でも空いてるが)。

なお、私は次のような質問を用意していた。

名取が放送をかける前「私、本当にやるん?」と三葉に向かって迷いを見せ、その後覚悟を決めて実行しますが、教師達に止められます。それは劇中での必然性があっての行動と結果であることは勿論ですが、見ているのは我々観客です。なので、ずっと疑問に思っていました。「本当に演るん?」て誰に向けて言ったのかなぁ、と。最初は観客だと思いました。警報からの一連の流れはそれまでの稲村の火からややスイッチし、3.11の明瞭なオマージュだと我々は知っています。でも、良く考えると我々が答える質問ではないですよね。

だから、映画館に足を運ぶことが永遠に出来なくなった人達の御霊に向けて、「宜しいでしょうか」と尋ねたのかなと。

実際の出来事をモチーフにフィクションを作ることはどなたでもやることですが、中にはこれはどうかと思うような使われ方もある。監督の場合は、一連の言行から受ける印象として、それをやったら相手がどう受け止めるか、考えて行動する方とお見受けしました。このように考えると、最後の一押しをするのは神職でもある「本物の三葉」でなければならないし、名取は「お姉ちゃん」を演じる訳ではありません。そして、町長や教師達が「普通の大人」としての役割を示すために「誰が喋っている」と止めに入り、「何てことしてくれたんや」と叱責して、放送のシーンが終わる。そうすることによりお会いしたことのない御霊への礼と謝意に代えて、お帰り頂く。祭り、つまり祭礼の中で起こった出来事(芝居)として眺めるとストンと腑に落ちる。そういうメッセージを込めているのでしょうか。もしそうであったとしたならば、演者の方達も了解済みで収録されたのでしょうか。

映画館への道中色々考えたが、仙台という土地柄、と客層を予想し上記に決めた。隕石とラスムッセン報告について尋ねるよりはマシだったと思う。もっとも、指名されたとして、最後まで淡々と話せたかどうかは、正直自信が無い。なお、小説版ではこの日を「再演」と位置付けている。テッシーが「ここからは冗談ではスマンで」と言っているのは既に紹介した通り。

【震災は平日に起きたのに、彗星は何故祭りの日なのか】

私が言いたいのは「この映画は大津波を石碑や神社仏閣で示すことで伝承した事実がモチーフ」「夢のお告げを受けた少女が人々を災害から救う」という既にリリース済みの「裏話」ではない。そんな話をここで繰り返しても今更意味は無い。また「劇中では三葉が生き返ったから再演なのは当たり前」ということでもない。

監督はあるインタビューで「全身全霊で作りあげた」と語っていたが、恐らく映画を使って本気で慰霊する気だったのだろう、という事だ。

一般的なストーリー解説では「彗星が落ちたから宮水神社で祭りを行なって伝承するようになったという設定」と理解されている。

コラム
飛騨に近い美濃地方で輪中を設けている地域では、水害のあった日を祭礼の日に指定し、水神を祭る例も見られる。和歌山県広川町の津波祭りは伝統としては浅いが、あの「稲村の火」を伝える。大津波で犠牲になった人々の霊を慰め、稲の束に火を放ち、この悲劇が二度と起こらないように堤防を築き上げた浜口梧陵の遺徳をしのぶとともに、住民の津波災害に対する啓発につながっているという。

だが、これだけでは3.11映画としてのモチーフを説明するには不十分だ。例えば、2011年3月11日は只の平日(金曜日)。祭りなど無かった。だから、入れ替わりの設定などを導入したとしても、事実に倣えば、普通の日に落とすことになる筈だし、伝承が話の過程で明らかになれば十分。祭りの日に災禍を合せることまでは必要ない。ところが、この映画では曜日はモチーフと揃えているが、わざわざ祭りの(ハレの)日としている。更に言えば、震災は月日までは予報されていなかったが、彗星(と祭り)は月日まで予告され、作中で大衆は心待ちにしているのである。寓話化としては「祭りを楽しみに待つ大衆」は余計なのだ。

実は、慰霊という指摘も既に一部のサイトではなされている。それでは、慰霊という行為は誰に対して行うのだろうか。

当然、生き残った者が死者に対して行うのである。

だが、慰霊に言及している一部サイトも、基本的には生者を観衆として無意識に想定している。

しかし、私はこの映画が招待している者には、死者も含まれていると考える。というより、彼等こそ、本当の招待者ではないのだろうか。

宗教的儀式の詳細は良く知らないが、「祭り」をWikipediaで引くと「祭祀は、神社神道の根幹をなすものである。神霊をその場に招き、饗応し、慰め、人間への加護を願うものである。さまざまな儀礼・秘儀が伴うこともある。」とある。つまり、サヤちん(の演者)がある種のイタコ(これも東北は有名)として神霊を招くためには、祭りの日という設定が必須。それは人為による再演だから、「予告するもの」なのだろう。誰もいない神楽殿が開かれたままになっているのも、トラ・トラ・トラではないが、何かを暗に示しているのでは。

本格的な巫女が主役となるのも上述の一般的ストーリー解説で理解されているが、それだけなら設定過剰だろう。映画の形式をとった祭礼なので、巫女(神職)でないとダメなのだろう。もし津波のモチーフ借用に留まるなら、若い頃の宮水俊樹のような、学者など一般人による謎解きという筋書きだけでも、十分成立する。

なお、監督や主要スタッフのインタビューを幾つも読んだが、彼等が災害映画としての文脈を語る時は、生者を慰めるための話しかしてこなかった。しかし、目に映るもの、話の構成に対する素朴な疑問を整理してみると、死者に向けて語っている側面は否定出来ない。監督は広い層に作品のことを知ってもらいたかったとのことだが、よく知らない内からアニメで慰霊を公言すれば、どんな反応が返って来るか。それを予想して語らなかったのだろう。

死者に往年の人格を認め、映画館に招く気だったとして、饗応や生者への加護はともかく、どうすれば肝心の慰めになるのか。作品を観賞して台詞を言霊とし、魂にあるべき避難誘導を経験させ、未練を断ち切っていただくことは勿論だろう。東北の身代わりとして招魂に使った宮水(糸守)を祭礼の後に焼くのも自然な解釈と言える。だが、監督が見せたかったものは心を揺さぶられている生者、すなわち観客の姿だろうか。それが最も無難かつ合理的な結論に思える。

私は霊性の存在は信じていないつもりだし宗教活動も不熱心で万事形式だけだが、親族の位牌の前で一言二言話かける位はやっているし、理由も無く黄昏時に墓参りをしようとは思わない。そういう人なら結構いる。原理主義ではなく、そういう人達への映画だ。

多少は調べ物もしたが、Web上にこの問いへの答えが既にあるのかは分からない。或いは一葉婆さんが小説で語ったように、安易なテキスト化は憚られているのかも知れない。公開初期も、動員数の割に本作の反響が伝わってくるペースが全体的に遅いと言われていたから。祈念の場と感じた観客はそうなる。

従って現時点では数ある解釈論の一つに過ぎないのだが、補強材料はある。演者のインタビューで、ビデオコンテと台本見ただけで涙流してたと読んだが、音楽も書き込まれた背景も無いのに、想像力だけで本当に感涙できるかな、と。演者の人達というのは、一般の人に比べて場の想像力が高い傾向にあるから、以心伝心で了解という事もありえるが。

ただし、上記の疑問に対して、監督の思考を伺えるお答えが全く無かった訳ではない。

「幸せになりなさい」が村上春樹のオマージュではないかとの指摘があったそうだ。だが、監督に製作中そういう意識は無く、公開後に指摘されて気付き、自然に身に付いたものとして受け入れたというような話をされていた。

また、特に印象に残ったのは、自分がその場で決めたこと、あるいは逆に人に指摘されて譲ったことを後から眺めてみると、内心ではその選択が正しいと思っていたからではないか、と述懐されていたことだ。

これらの話から、半ば無意識に作品にある種の性格を付与していることが分かる。

結局、3.11絡みの話は出なかった。このタイミングで公開初期以来久々の、恐らく上映期間中最後となるティーチインを開いたことが全てと、皆了解していたからだろう。

という訳で、行ってみるものだなと感じた一日でした。

あと、片割れ時に入室してきた若い女性二人組、後で「イオンシネマ名取にもいましたね」って監督に言われてたねw イオンシネマ名取からの移動時間考えても遅すぎです。前でガサゴソされると興を削ぐんでもう少し考えてほしかったな。せめて旅館のシーンまでに来れないものか。金曜までの疲れが残っていたために東北大での取材を諦め、17時37分の下りやまびこで到着して最前列最短経路で即ダッシュ、前宣伝終了直後の41分頃に入室した私が言うのもなんだが。

【追記】監督のツイートなどにもあるように一区切りしたいという事で、3月末で公開終了を予定との映画館も現れ始めたようだ。つまり、映画通り夏にスタートして桜の季節に終わりを迎えることになる。凄いなぁ。

参考文献:小説版2冊、パンフレット2冊。および『ユリイカ』、ネットメディア上のインタビューなど。特に、17年1月1日のハフィントンポストのものはかなり踏み込んでいる。『女性自身』や『東洋経済』の記事も興味深い。個人の感想では「追悼の儀式としての「君の名は。」」(映画.com)が最も私の意見に近い感想だった。

当記事を執筆後、3月11日にはTBSにて『君の名は。』の真実を放映、同時期、銀座松屋で『君の名は。』展が3/20まで開催されていた。当記事の考察・論評部分にこれらの情報は反映していない。実は、TBSの放送では入れ替わりを導入した意味として「貴方だったらどう行動したか」というメッセージだと明かしている。この言葉を聞いて、それは読み切れなかったと思ったものだ。私も洞察力をもっと磨かなければならない。また何故、瀧が中の上レベルの生活水準なのかも得心した。それは東京に住む監督が自らに課した小さな罰なのだ。

また、『公式ビジュアルガイド』は最も製作意図を丁寧に追った文献だと分かってはいたが、記事執筆後、ある種の答え合せを兼ねて松屋で購入するまで未見だったことを付記しておく。

17年4月3日追記。なお、防災無線が鳴っていなかった件もTBSの放送後に初めて知った。当ブログ執筆時には知らなかったし、知っていたとしても関連付けて推測出来たかは疑わしい(“閖上の悲劇”の原因に「新事実」も 名取市、防災無線メーカーへの厳しい指摘が並んだ検証委報告案の全容)。

17年5月9日追記。本論を余りに飛躍していると見る向きもあろうが、東北学院大が取り組んでいる一連の社会学研究『霊性の震災学』等を参照すれば、まずまず妥当な内容と了解いただけると思う。

17年5月14日追記。下記2つを参考サイトに追加。M Sato(※名前を誤記し抗議を受けたので訂正)伊藤氏の主張に同意するものではない。あるインタビューで都市と星などSFを例示した監督は無意識にそのフレームを拝借した可能性はあるだろうが、彗星の人格性を前面に出したとしても、本作の2つのテーマからはずれ、それを強調することに、物語上の意味も、監督が意図していた社会的意義も無い。付言すればエンドロールのスペシャルサンクスに海外SF作家の名は無い。ただし描写の観察力は優れている。

伊藤弘了「恋する彗星――映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」2017年1月23日

M Sato「映画「君の名は。」考察メモ 第2版」 2017年5月14日

17年5月21日追記。彗星のテーマ性の部分を見直し、加筆。

上野誠「映画『君の名は。』と『万葉集』

18年1月25日。慰霊に係わる文章手直し。

2017年1月 3日 (火)

瀬川深氏の『君の名は。』批判に見る名誉白人風味の皮相性

普段政治的な不満を代弁している人であっても、全ての面に同意するとは限らない。よくあることだ。

その一例が海外から日本の欠点なるものを親切に指摘する、名誉白人達である。確かに彼等の指摘する社会問題は野党支持者を中心に国内でも深刻だと考えられており、それを打開するために努力は必要である。共感出来る主張は多い。

だが、私が時たま思い出すのは、警察予備隊の創設に関わった米軍人フランク・コワルスキーの言「アメリカに心酔し、アメリカ人の気に入ろうとする日本人からは、いつも遠ざかるようにした」である(『日本再軍備』P139)。旧軍将校や一部自衛隊幹部などを指している。彼等は表向き日米友好プロパガンダに乗りながら、実際は戦中の失敗をさして省りみることも無く「日本のシビリアンコントロールは只の内務軍閥」と不平不満を言い続け、軍国主義の復活を夢想してきたからだ。

鏡のような存在を見ていても思い当たることがある。例えば、日本スゴイ番組に登場し、耳触りの良い甘言を弄する石平やケントギルバート。彼等はよく「模範的日本人像」を示すことがあるが、元々日本に住んでいる人達がそれを字義通り受け取っているとはとても思えないときがある。「心の綺麗な欧米人」をすぐ暗示する名誉白人達も、この裏返しのような存在である。

瀬川深氏は積極的に意見を発信している人士の1人だが、そういったものを感じることがあるので、(直接の面識はないのであるが)今回『君の名は。』を例に書き出してみた。

監督でさえ公開間もなく公式に認めざるを得なくなった本作の裏テーマ、震災映画としての性格を全く理解していないことが伺える。以前感想をアップした時にも述べたが、『君の名は。』は時間を遡ってリプレイしている。科学の限界を超えており、未来でも実現しそうにない魔法の技術。現実には無理だと認めたのと同じなのである。道理に基づき、筋の通った住民避難では意味が無いということだ。何故ならば、この映画はそれがかなわなかった2万人を意識した作品だからである。

ついでに言えば「なんか年寄りが曖昧に語っている昔話」は、市原悦子が声を当てた祖母の事なのだろうが、壁画と大火のくだりから分かるように典型的災害伝承をモデルにしている。現実に津波伝承は災害研究で重要視されており、そこから学んで大津波を回避した実例もある。嘲笑する態度はあの東電と全く同じ姿勢と言えるだろう。

後はツイートの時系列順に沿うが、何だかなあ。

私は小林よしのりの差別主義を批判する者だが、10数年前彼の漫画に晒された辺見庸氏のことを思い出した。彼はNews23にて「左翼に興味を持ってくれない民草」を小馬鹿にしながら、その民草が熱狂しているワイドショーは「自分も面白い」と自白してしまったのだ。まぁ、洋画厨や海外ニュース厨のゴシップ根性との相性を見ていれば、当然の本音ではある。

瀬川氏のひるね姫の件も正にそれではないのかね。

そもそも、邦画の予告批判自体、虚偽に近い誇張である。2016年秋~冬にかけて10回は映画館に行ったが、予告がかかっていた邦画を思い出すと、「何者」「闇金ウシジマくん」「土竜の唄」「本能寺ホテル」「相棒」などだった。恋愛物に限っても「僕の妻と結婚してください」「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」等高校生が主役ではない作品も混じっている。

17/8/20追記。『シャーマンキング』って作品の恐山アンナというキャラクターらしい。『君の名は。』の三葉や奥寺よりずっと年下の風体にしか見えないが。日頃、少女のようなキャラクターが出てきただけでポリコレ的発言を呟く行為との整合性は無い上、少女が好きだから女子高生批判出来たというオチですか。呆れてしまう。

そういえば、関連してこんな評もあった。

こういった表現を眺めていると、『君の名は。』は女子高生ばかり出てくる作品に見えるが、実際には主人公格の三葉と脇役で登場する友達、名取早耶香の二人だけ。また、「ギャルゲー的描写」は確かにあるが、恋愛映画にもかかわらずべクデルテストは結果としてパスする。何故なら、女性同士の会話の大部分は宮水家および早耶香との間で行われ、男性以外の内容も多いからである。なお、男性の話題であっても「悪名を残した繭五郎の言い伝え」のような恋愛性と無縁な例もある。

フェミニストを気にしての物かは分からない。だが、果たして邦画やシネコンで流している内容を誇張してまで、必要なことなのか。

『シン・ゴジラ』はプロパガンダとして使われるリスクを承知の上で官僚に協力を求めて製作された。動員数は注目すべきだろうが、単に現実の政府のデタラメと対比すれば虚構性を指摘することは簡単であり、情の面でもあの上から目線のために『君の名は。』やジブリ作品ほどの膾炙・浸透は果たせていない。

『君の名は。』に分かり易いプロパガンダは無いが、話の構成を震災責任を免責したい勢力に利用される可能性は警戒すべきだろう。

上記は要するに「何で怪獣は東京ばかり襲うの」「ガンダムなんて非現実的」と同じような指摘である。ハリウッド映画にも「宇宙の音」「見えるレーザー砲弾」があり、低予算ミニシアター系も不条理な筋書き・誤魔化しは幾らでもあるのですがねぇ。

家族観が狭量である。まず、一葉婆によれば宮水家は政治と距離を置いてきたため、町長選では政治力というより、箔付けとして利用したことが伺える。次に、政治家は世襲が多いが「世襲でなければ絶対ダメ」と言う程ではない。初当選した市町村長を見ていれば、大半が男性であるにも関わらず頻繁に姓が変わっていることからも、分かることだ(もちろん、私に世襲・男系を推奨する意図はない)。

また、家庭生活の乱れどころか、前科者さえ政治家にはありがちでホームラン級とは到底言えないだろう。バツ1で首相になった例もあるというのに、違法ですらないバツ1未満の別居に対する偏見は不愉快ですらある。

本質は候補者が建前と本音を使い分け、それまでの利権システムを温存する意思を持っていることだろう。『君の名は。』は冒頭でそれを明示している。

無用に登場人物を増やすのは話の焦点がボケる。話に絡んでこないのに、瀧が片親であることに理由付けが必要なのだろうか。私も東京っ子だったが80年代時点で、当人が深刻なメンタルに陥ってる訳でもない状況で、そんなこと詮索するような空気は小学校のクラスですら希薄だった。2010年代なら尚更。大方離婚だろうが珍しくも無い。日頃リベラル的な発言の多い方のレビューなので驚いている。

なお、震災映画の側面からは、両親が揃っていない家庭を前提にすることも必要だったのではないかと解する事も出来る(例:「ふくしまノート」第35話-「避難離婚」が増えてるってホントですか?)。

「じゃらんとかるるぶのグラビアみたい」なのは遠景の時である。映画は日常風景の描写が主体。雑然とした古民家の和室や学校もそうだし「カフェは無いのにスナックは2件もある」ような田舎のどこが「じゃらんとかるるぶのグラビアみたい」なのだろうか。

日常描写主体なのは震災映画として「地方にありふれている=東北にもある物」を示す必要があったからだろう。要はファーストフード化する地方とか、昭和期の評論でしばしば見かけた「どこの県庁所在地に行っても駅前が似ている」という視点と同じようなものだ。

 

瀬川氏によれば二十歳を過ぎた仕事を持っている、3年年の差カップルの存在が整合性を破たんさせるらしい。正に叩きのための因縁。

世の中にはクラシックも騒音扱いする者がいるが、上記も自分が理解できない音楽は全て騒音と見なす人間が一定数存在する、という一例。物凄い音量で流れていたかのようだが、実際は只のJ-POP系挿入歌である。加えて疑問なのは歌詞が映画の内容とリンクしていることがそこまで珍しいのだろうか。

それにしても、小説家が他人のヒット小説の映画版にこれでもかと唾を投げつける姿は実に見苦しい(映画が主で小説は従なのは周知だが、世に出た順は逆なので、後書きを踏まえつつこのように表現している)思い込み過多なのもここまで来るとちょっと。

『君の名は。』が最近のディズニー作品程PC等を意識しているとは思わない。本来は興行収入目標15億の作品であり、ギャルゲー臭は過去の作品のようなニッチ向けの名残と思われる。作品が万人向けとして受容される中では、弱点になり得るだろう。しかし、言外の目的があるか知らんが、欠点を「発明」してまで叩き続けていると、結局は自身に返ってくるだろうことは警告しておく。

2016年9月19日 (月)

311の寓話としては『シン・ゴジラ』より『君の名は。』が上

最近『木根さんの1人でキネマ』に嵌っている。その影響か、私も主人公の木根と同じく、娯楽目的の映画なら、まずはストレートに楽しむ方がいいと考えるようになった。そこで、この夏に公開された『シン・ゴジラ』と『君の名は。』は映画館で鑑賞し、『MADMAX 怒りのデスロード』の凱旋上映を予約するに至る。

掲題の二作共、最初はストレートに楽しんだが、やはり論評がしたくなってきた。ネットの論評や設定をくまなく調べた訳ではないが、思ったことを記す。

※本記事は公開直後の感想なので情報は古い。ある程度舞台裏の分かった半年後に「『君の名は。』ティーチイン(仙台)に行ってきた」を書いた。

2015年の『クレヨンしんちゃん オラの引越し物語』辺りからと思うが、311を作品に反映する流れが一般のエンターテイメント映画でも見られるようになってきた。統計を取った訳ではないが、2013年度上期の連続テレビ小説『あまちゃん』放送時点でも、娯楽目的で王道を狙ったような映像作品に311を取り込むような気持の準備は、(直接的な被災者でなくても)難しく、それがジオラマでの表現に繋がったと思う。

だが今年の夏にヒットした二作は、作品内に311の反映が見られ、そのことに関して作り手側の気負いも無い。この二作が世間一般が気持ちを整理するにあたり、アシストの役割を果たすことは疑いないだろう(被災者の心情まで癒すことが出来るかは疑問だが)。50年後の人達がこれらの映画を見ても、そういう時代の気分は説明されなければ理解出来まい。21世紀の平成の世に生きる我々が、何の予備知識も無く初代の2本を観賞したらそうなるのと同じように。

【表層的理解を許容した庵野監督】
今後も何かと比較されることが多いであろう二作だが、「311の寓話化」という観点から比較しようと思ったのは、添田氏が下記の引用をしていたからだ。

上記は順当な理解だろう。作中の機敏で的確な政府機関の対応は、原発事故の実情などを少し学べば、直ちに空想を描いたと分かる。受け手にそれと知らせる最初のシグナルは「御用学者」発言だろう。ただ、受け手の中には率直に「やはり日本は捨てたものではない」と感じている層が存在しているようだ。

庵野監督は宮崎駿を始めとする左翼系クリエイターから大きな影響を受けているようだが、観艦式の解説映像を監督するなど、自衛隊アレルギーは持っていない。ミリタリーを含め色々な知識の引出しを持っていることが売りでもあるので、防衛省・自衛隊その他政府機関に取材協力を依頼した際、どのような交換条件が提示されるかもわかっていたと思う。今年の夏の自衛隊イベントでは『シン・ゴジラ』とコラボしたPRポスターが掲示されていたが、作品への表層的な理解を選択した層を、自衛隊が取り込むことも許容していたということだ。『幸福の黄色いハンカチ』の山田洋二監督とは大いに違っている点である。

ここで自衛隊との関係に拘るのは、『シン・ゴジラ』が2015年の安保法案(戦争法案)の審議を横目で見ながら制作され、沖縄県の辺野古や高江での、戦略上の意味が希薄な米軍基地建設工事に、自衛隊も協力しているという事実があるからだ。冷戦終結から20年以上過ぎ、従来のように災害出動が主な見せ場となっている限りは、世間一般に自衛隊への警戒心がそれ程ある訳ではなかった。しかし、米軍辺りの傭兵代わりに地球の裏側の局地紛争で尻拭いやら、今更蛸壺化した国内市場で弱体化した武器の輸出が現実に差し迫って来れば、話は別である。当然、そういうことを積極的に進めている組織のPRのため、クリエイターが全力で乗っかってていいのかという疑問はある。

ただ「取材はするが映画ポスターを隊員募集に利用するな」と要求するのは信義の上でも無理な注文だ。311で自衛隊は東電や原子力安全・保安院などとは異なり大きな過ちは犯さなかったからである。逆に言えば、自衛隊に限っては『シン・ゴジラ』でのポジティブな描かれ方と311での姿とのかい離はそれ程は無い。彼等は最初投入人員を出し渋る姿勢を見せたが、菅直人首相の鶴の一声で10万人の動員体制を敷き、期待以上の成果を挙げたのである。あの無意味な原子炉へのヘリ放水は、政治のゴリ押しで彼等の責は無い。

庵野監督がリスクを背負ってしまったとすれば、その知識収集の積極性と現実のミリタリーへの警戒感の薄さが同居している点、ということになる。円谷もフロントの編集部も嵌ったリスクである。

どういう脚本と取材なら良かったのか、妙案がある訳では無い。ただ、無責任な政府関係者・ネット右翼・排外思想が社会を蝕んでいる側面はもう少し反映のしようもあったのではないか。一つのヒントとしては、ウルトラマンシリーズでの寓話の扱いや、リメイク版の『日本沈没』で「ずるい官僚達」を登場させるといった先例がある。なお初代ゴジラでオキシジェンデストロイヤーを沈める際、『シン・ゴジラ』の無人機や電車爆弾に相当する露骨な軍事的支援は受けていない。海保の船でゴジラが潜伏している海面に運んでもらっただけ。

一方『君の名は。』に目を転じると、政府や自衛隊への取材を通じた共依存関係は希薄である。精々神事の取材で文化行政とのつながりがある程度。実名で中部電力が登場するが、それ自体は作中で重要な役割を果たさない。かと言って軍事的な物事を殊更に批判して見せる訳でもない。そういう点では私は『君の名は。』に軍配を上げる。

新海誠監督や『君の名は。』のスタッフは、オタク的感性から豊富な知識を収集する能力はあっただろう。ただ、新海監督は元々セカイ系の作風を持ち味にしており、『君の名は。』も表層的な主軸はあくまで男女二人の恋愛にある。その特徴が現実の社会組織とコラボなどを通じて共依存に陥ることを回避している面はあるだろう。

【寓話の構造にも差異】
二作を比べると寓話の構造にも大きな差異がある。『シン・ゴジラ』は初めての出来事に直面した時の対応を描いているが、『君の名は。』を寓話の側面から眺めるとリプレイ(リベンジ)物だ。主人公の二人は一度村の壊滅を体験した後に、村を救うため、もう一度やり直す。それも気の利いたシミュレーションで軌道計算して気づく…といった「科学的展開」ではなく、実際に一度死ぬという徹底振り。現実には物理的に不可能。『シン・ゴジラ』も上記の通り、「現実には不可能」という感慨はあるのだが、冒頭に引用した論評のように、物理的なことを指してる訳ではないので、不可能の質が違うのだ。

だが、311を経験した日本社会一般には、被災者を映像を通して見ているだけで何も出来なかった負い目と、「あの時に戻れればそりゃ知らせたいさ」という潜在的欲求が残った。新海監督は今回、その潜在欲求を寓話化し、救済して見せたということだ。

この点でも私は『君の名は。』の方がより説得力があると考える。よく観察しなければわからないような皮肉でもって、整然とした事故対応の伝説を創造してみたところで、仮想戦記と同種の空疎さだけが残る。それよりは、時間を遡るという物理的な禁じ手に訴えて現実には回避が不可能であることを明示し、表層的理解への道を潰す。そして、救済願望を充足することで犠牲者への間接的な追悼とする方が、マシではないだろうか。

なお、『君の名は。』で寓話化の対象になっているのは、「原発事故」に留まらず大津波全体だろう。作中で村人が取る避難行動は要するに「てんでんこ」。防災放送も津波の時のそれだろう。作中の必死になっている感情や態度へも、観客は説得力を持ちやすい。三葉が父親の町長に「決断」を迫るのも、事の本質を良く捉えている。権力者の方こそ、血の通った生活感を持てという批判になり得るからだ。

そのような構造の差異がある以上、情報の洪水で埋め尽くした『シン・ゴジラ』の方がリアリティがあるかのような論評は、違うのではないか。私はそう思う。

16/10/9【海外市場で受け入れられるのはどちらか】
海外市場での売れ行きを見てみたが、やはりシン・ゴジラは不発に終わったようだ。表面的には「日本特有の政治的事情を理解していないから」という話だが、それならオープニングに「第二次大戦に敗北し原爆を投下された日本は、戦後制定した憲法で他国に攻め込むための軍隊を持たないと決めた。官僚と大衆は時には対立しながらも、協力して焼け野原から国を復興させた。それから70年の時が流れた・・・」といった数行の説明を加えて船上のシーンに移れば良いだけ。まぁ、多分そういう処置があっても上手くは行かないだろう。外国人には「優秀な官僚」は日本人の自己満足にしか映らない。それに、ゴジラシリーズは寓話として受け取っても「侵略国家であった戦前日本」という視線が欠如しているからである。本作でもこの点は踏襲している以上、世界市場で売っていくような作品では無い。

この点でも余計なものに縛られていない「君の名は。」の方がマシだろう。311の凄惨さは海外にも知れ渡っているから寓話にも気付き易い(HENTAI性というマイナス点があるので、ディズニー程一般性を獲得するとは思わないが)。新海監督は人に指摘されないと分からないそうだが、一連の性描写をカットしても作品を成立させることは可能と思われるので、つくづく残念だなぁと思う。

16/10/15【「君の名は。」が311を寓話化した具体的な個所】
2回目を観賞した。やはり、只の恋愛ものと考えるか、社会性を帯びていると考えるかで大きく感情移入の度合いが変わって来る作品だ。当初公開された出演者のコメント等は、前者を装っているが、まぁフェイクだろう。出演者が下手に政治的なコメントを発するリスクを、本作のスタッフは良く知っている。私は三葉以下、糸守の人々の背景にネクシャリズムと作り手の慰霊を感じずにはいられない。

  • 中部地方を舞台に選んだのは、作劇に使えそうな習俗を制作側が見出したということもあるかも知れないが、「東京から新幹線と在来線を乗り継いで数時間の距離にある田舎」ということが重要と思われる。つまり、東北地方太平洋岸の暗喩である。上記ツイートをした社虫氏は私のような比較目線を持たず、自然にそのことに気付いている。高山ラーメン屋も(本州ではありがちだが)六国の沿道的な風景。
  • ティアマト彗星の再来間隔が1200年なのは(劇中割り切りして1000年とのコメントもある)、311が「1000年に一度の巨大地震」と評されていることと対応させたものである。隕石がややずれた場所に落着するのは、海溝型地震に全く同じ規模、震源で発生するものが無いことに倣っているとも取れる。
  • 良く見ると図書館で手に取る犠牲者名簿がおかしい。明らかに500名規模の内容ではない。1ページ50名割り付けるとすれば、311の約2万名を記述するには400頁となり、他の情報を加えれば600~800頁程度にはなってほぼあの厚さになるのではないか。
  • 神社が主要なキーになるのは、中世以前の災害伝承において神社が大きな役割を果たすからである。安全な避難場所である高校が高台にあるのも、津波の隠喩。克彦、早耶香と思い付いた共同作戦は正に「稲村の火」の再現である。
  • なお町長の経歴を見ると、民俗学者とある。民俗学者の場合、村からすればマレ人に近い扱いのようなイメージを私は持っているので、この設定は少々奇異に映る(より思想色の強い学問なら成立し得るが)。従って、この町長は災害伝承を再発見する学者をも表象しているのかも知れない。
  • 彗星でなければならない理由だが、311寓話の視点からはラスムッセン報告(WASH1400)という歴史的マターに繋がる事に気付いた。劇中のテレビ放送で「隕石が居住地に落ちることなどまず無い」と言っているが、これはラスムッセン報告を元に、歪曲も交えて行われた有名な原発プロパガンダを表象している。最初、何故隕石なのか、この作品で原発を表象する記号は地震で破壊されたことの暗喩である変電所と、「正しく使われ人々の役に立つ」非常電源位だと思っていたが、恐らく、「彗星に対する都会人の態度」こそが原発事故の最大の暗喩なのだろう。
  • 記事を書いてから知ったのだが、新海監督は大成建設のCMを担当したこともあるので、これが原発にあからさまに触れず、且つ、科学的に災害の予測が出来ない大衆の視点から描かれている、最も現実的な理由だろう。しかし、瀧が建築士を目指していることとし、大成建設本社のある新宿に面接を受けに行きながらも、「地図に残る仕事」という単語に似た言葉ををゼネコンの意向とは異なる文脈で述べているくだり(しかも内定を取れない)は、意地を感じなくもない。ちなみに大成はPWRを得意とする(単刀直入に言えば、311はまだ対岸の火事)。もし新海監督がBWRを得意とする鹿島のCMを担当していた場合、社会倫理上相当歪んだメッセージを発することになったと思われる。

まぁ、本作で150億も稼いだので、今後は企業の意向から離れた所で発言し易くもなるだろう。後は本人次第である。

【余談】2本の映画とPC
近年のハリウッド映画のPC強化(彼等も、程度の差こそあれジェンダーに縛られてきたということだ)や前年の『進撃の巨人』騒動で懲りたのもあってか、『シン・ゴジラ』は近年の日本映画にしては随分思い切ったとは感じている。制作裏話で無自覚な発言で女性層から批判されたプロモータがいたが、現状では彼自身の自業自得に留まる。

『君の名は。』は恋愛が主軸なので恋愛外しという選択は(元祖へのオマージュから言っても)無いが、役回りからポスターまで均等分割されてるのはPCを意識してるのではないか。(とは言え、ストーリーの大枠にぶれないところでなされる酒の話等は男であっても見てて辛いものがある。そりゃそれだけ「進んでいる」9歳児なども探せばいるだろうが)

どちらも上映終了後の観客の様子を観察したが、男女比はほぼ1:1、全体としては満足感の高そうな表情で、『君の名は。』では潤んでいる女性も数%いた。新海監督のマイナス面もそれなりに出ていたので、私の方が「え?あれで潤む女性居るの」と思った位だが、ネット炎上の傾向と現実にはずれがあるんだなぁ。

16/10/15【余談2 べクデルテスト】
「君の名は。」の女性描写はもう少し議論しておく。本作をべクデルテストで評価しても解釈次第となるだろう。特に、「女性同士の会話が恋愛である」の解釈が曖昧。元々、軽い冗談の中から生まれたテストのため解釈の明記が無いようだ。

「恋愛の話禁止」と解釈した場合、実はフェミニストが嫌うであろう、若手女優を集めた芸能事務所が採用する基準に近く、流石に極論ではないかと思う(本作がそうであるように、「男同士で恋愛の話をする」作品が存在することも、私の違和感の理由)。これに対し、もし「恋愛以外の会話が主軸と認められること」という解釈ならパスするだろう。

もっとも、日本製アニメの場合、中味がおっさんか、おっさんに媚を売る名誉男性となっている例が多いため、べクデルテストでは指標として不十分とも聞く。一つの解決法は「専ら女性に魔法などの超人的能力を付与し、神格化しているか」という規定を追加することだろうが(この基準なら萌え魔法物は全て除去出来る)、本作の場合は両性に付与されているためやはりパスする。

まぁ、PCなりべクデルテストにのみ執着するのもどうかとは思うけどね。小説版の解説には「新海監督のベスト盤」というコンセプトがあったとされているが、この監督がここまで社会性に寄り添った映画を作ったことは無い。何より、映画を作る上で最も重要な創造力でゴジラより勝っているように思うよ。元ネタ厨には悪いけど。

16/10/9【普段の姿勢との整合について】
「国や東電に予見可能性があった」という私の日頃の主張と「君の名は。」のリプレイへの評価は矛盾しない。「君の名は。」は国や東電のような情報的優位にある強者を描いた作品ではなく、市井の個人の目線から災害を見ているからである。