カテゴリー「映画・テレビ」の2件の記事

2017年1月 3日 (火)

瀬川深氏の『君の名は。』批判に見る名誉白人風味の皮相性

普段政治的な不満を代弁してくれる人であっても、全ての面に同意するとは限らない。よくあることだ。

その一例が海外から日本の欠点なるものを親切に指摘する、名誉白人達である。確かに彼等の指摘する社会問題は野党支持者を中心に国内でも深刻だと考えられており、それを打開するために努力は必要である。共感出来る主張は多い。

だが、私が時たま思い出すのは、警察予備隊の創設に関わった米軍人フランク・コワルスキーの言「アメリカに心酔し、アメリカ人の気に入ろうとする日本人からは、いつも遠ざかるようにした」である(『日本再軍備』P139)。旧軍将校や一部自衛隊幹部などを指している。彼等は表向き日米友好プロパガンダに乗りながら、実際は戦中の失敗をさして省りみることも無く「日本のシビリアンコントロールは只の内務軍閥」と不平不満を言い続け、軍国主義の復活を夢想してきたからだ。

鏡のような存在を見ていても思い当たることがある。例えば、日本スゴイ番組に登場し、耳触りの良い甘言を弄する石平やケントギルバート。彼等はよく「模範的日本人像」を示すことがあるが、元々日本に住んでいる人達がそれを字義通り受け取っているとはとても思えないときがある。「心の綺麗な欧米人」をすぐ暗示する名誉白人達も、この裏返しのような存在である。

瀬川深氏は積極的に意見を発信している人士の1人だが、そういったものを感じることがあるので、今回『君の名は。』を例に書き出してみた。

監督でさえ公開間もなく公式に認めざるを得なくなった本作の裏テーマ、震災映画としての性格を全く理解していないことが伺える。以前感想をアップした時にも述べたが、『君の名は。』は時間を遡ってリプレイしている。科学の限界を超えており、未来でも実現しそうにない魔法の技術。現実には無理だと認めたのと同じなのである。道理に基づき、筋の通った住民避難では意味が無いということだ。何故ならば、この映画はそれがかなわなかった2万人を意識した作品だからである。

ついでに言えば「なんか年寄りが曖昧に語っている昔話」は、市原悦子が声を当てた祖母の事なのだろうが、壁画と大火のくだりから分かるように典型的災害伝承をモデルにしている。現実に津波伝承は災害研究で重要視されており、そこから学んで大津波を回避した実例もある。嘲笑する態度はあの東電と全く同じ姿勢と言えるだろう。

後はツイートの時系列順に沿うが、何だかなあ。

私は小林よしのりの差別主義を批判する者だが、10数年前彼の漫画に晒された辺見庸氏のことを思い出した。彼はNews23にて「左翼に興味を持ってくれない民草」を小馬鹿にしながら、その民草が熱狂しているワイドショーは「自分も面白い」と自白してしまったのだ。まぁ、洋画厨や海外ニュース厨のゴシップ根性との相性を見ていれば、当然の本音ではある。 瀬川氏のひるね姫の件も正にそれではないのかね。

そもそも、邦画の予告批判自体、虚偽に近い誇張である。2016年秋~冬にかけて10回は映画館に行ったが、予告がかかっていた邦画を思い出すと、「何者」「闇金ウシジマくん」「土竜の唄」「本能寺ホテル」「相棒」などだった。恋愛物に限っても「僕の妻と結婚してください」「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」等高校生が主役ではない作品も混じっている。単に瀬川氏が女子高生に「お前は映画館に来るな」とおっさん目線で生活指導したいだけではないだろうか。

そういえば、関連してこんな評もあった。

こういった表現を眺めていると、『君の名は。』は女子高生ばかり出てくる作品に見えるが、実際には主人公格の三葉と脇役で登場する友達、名取早耶香の二人だけ。また、「ギャルゲー的描写」は確かにあるが、恋愛映画にもかかわらずべクデルテストは結果としてパスする。何故なら、女性同士の会話の大部分は宮水家および早耶香との間で行われ、男性以外の内容も多いからである。なお、男性の話題であっても「悪名を残した繭五郎の言い伝え」のような恋愛性と無縁な例もある。

フェミニストに媚びての発言だろうが、果たして邦画やシネコンで流している内容を誇張してまで、必要なことなのか。

『シン・ゴジラ』はプロパガンダとして使われるリスクを承知の上で官僚に協力を求めて製作された。動員数は注目すべきだろうが、単に現実の政府のデタラメと対比すれば虚構性を指摘することは簡単であり、情の面でもあの上から目線のために『君の名は。』やジブリ作品ほどの膾炙・浸透は果たせていない。

『君の名は。』に分かり易いプロパガンダは無いが、話の構成を震災責任を免責したい勢力に利用される可能性は警戒すべきだろう。

要するに「何で怪獣は東京ばかり襲うの」「ガンダムなんて非現実的」の輩である。ハリウッド映画にも「宇宙の音」「見えるレーザー砲弾」があり、低予算ミニシアター系も不条理な筋書き・誤魔化しは幾らでもあるのですがねぇ。

名誉白人瀬川氏の家族観が狭量であることが良く分かる。まず、一葉婆によれば宮水家は政治と距離を置いてきたため、町長選では政治力というより、箔付けとして利用したことが伺える。次に、政治家は世襲が多いが「世襲でなければ絶対ダメ」と言う程ではない。初当選した市町村長を見ていれば、大半が男性であるにも関わらず頻繁に姓が変わっていることからも、分かることだ(もちろん、私に世襲・男系を推奨する意図はない)。

また、家庭生活の乱れどころか、前科者さえ政治家にはありがちでホームラン級とは到底言えないだろう。バツ1で首相になった例もあるというのに、違法ですらないバツ1未満の別居に対する偏見は不愉快ですらある。

本質は候補者が建前と本音を使い分け、それまでの利権システムを温存する意思を持っていることだろう。『君の名は。』は冒頭でそれを明示している。

話に絡んでこないのに、瀧が片親であることに理由付けが必要なのだろうか。私も東京っ子だったが80年代時点で、当人が深刻なメンタルに陥ってる訳でもない状況で、そんなこと詮索するような空気は小学校のクラスですら希薄だった。2010年代なら尚更。大方離婚だろうが珍しくも無い。本当に親リベラルなんですかねぇこの人。

「じゃらんとかるるぶのグラビアみたい」なのは遠景の時である。映画は日常風景の描写が主体。雑然とした古民家の和室や学校もそうだし「カフェは無いのにスナックは2件もある」ような田舎のどこが「じゃらんとかるるぶのグラビアみたい」なのだろうか。脳の構造を疑う。

日常描写主体なのは震災映画として「地方にありふれている=東北にもある物」を示す必要があったからだろう。要はファーストフード化する地方とか、昭和期の評論でしばしば見かけた「どこの県庁所在地に行っても駅前が似ている」という視点と同じようなものだ。

瀬川氏によれば二十歳を過ぎた仕事を持っている、3年年の差カップルの存在が整合性を破たんさせるらしい。正に叩きのための因縁。

世の中にはクラシックも騒音扱いする者がいるが、上記も自分が理解できない音楽は全て騒音と見なす人間が一定数存在する、という一例。物凄い音量で流れていたかのようだが、実際は只のJ-POP系挿入歌である。その程度の難癖。加えて疑問なのは歌詞が映画の内容とリンクしていることがそこまで珍しいのだろうか。

それにしても、小説家が他人のヒット小説の映画版にこれでもかと唾を投げつける姿は実に見苦しい。恐らく名誉白人にありがちな、「国産映画がヒットしているから叩く」という動機からだろう。本業の医学のため(憧れの?)海外暮らしするのは勝手だが、思い込み過多な拗らせもここまで来るとちょっと。

『君の名は。』が最近のディズニー作品程PC等を意識しているとは思わない。本来は興行収入目標15億の作品であり、ギャルゲー臭は過去の作品のようなニッチ向けの名残と思われる。作品が万人向けとして受容される中では、弱点になり得るだろう。しかし、言外の目的があるか知らんが、欠点を「発明」してまで叩き続けていると、結局は自身に返ってくるだろうことは警告しておく。

2016年9月19日 (月)

311の寓話としては『シン・ゴジラ』より『君の名は。』が上

最近『木根さんの1人でキネマ』に嵌っている。その影響か、私も主人公の木根と同じく、娯楽目的の映画なら、まずはストレートに楽しむ方がいいと考えるようになった。そこで、この夏に公開された『シン・ゴジラ』と『君の名は。』は映画館で鑑賞し、『MADMAX 怒りのデスロード』の凱旋上映を予約するに至る。

掲題の二作共、最初はストレートに楽しんだが、やはり論評がしたくなってきた。ネットの論評や設定をくまなく調べた訳ではないが、思ったことを記す。

2015年の『クレヨンしんちゃん オラの引越し物語』辺りからと思うが、311を作品に反映する流れが一般のエンターテイメント映画でも見られるようになってきた。統計を取った訳ではないが、2013年度上期の連続テレビ小説『あまちゃん』放送時点でも、娯楽目的で王道を狙ったような映像作品に311を取り込むような気持の準備は、(直接的な被災者でなくても)難しく、それがジオラマでの表現に繋がったと思う。

だが今年の夏にヒットした二作は、作品内に311の反映が見られ、そのことに関して作り手側の気負いも無い。この二作が世間一般が気持ちを整理するにあたり、アシストの役割を果たすことは疑いないだろう(被災者の心情まで癒すことが出来るかは疑問だが)。50年後の人達がこれらの映画を見ても、そういう時代の気分は説明されなければ理解出来まい。21世紀の平成の世に生きる我々が、何の予備知識も無く初代の2本を観賞したらそうなるのと同じように。

【表層的理解を許容した庵野監督】
今後も何かと比較されることが多いであろう二作だが、「311の寓話化」という観点から比較しようと思ったのは、添田氏が下記の引用をしていたからだ。

上記は順当な理解だろう。作中の機敏で的確な政府機関の対応は、原発事故の実情などを少し学べば、直ちに空想を描いたと分かる。受け手にそれと知らせる最初のシグナルは「御用学者」発言だろう。ただ、受け手の中には率直に「やはり日本は捨てたものではない」と感じている層が存在しているようだ。

庵野監督は宮崎駿を始めとする左翼系クリエイターから大きな影響を受けているようだが、観艦式の解説映像を監督するなど、自衛隊アレルギーは持っていない。ミリタリーを含め色々な知識の引出しを持っていることが売りでもあるので、防衛省・自衛隊その他政府機関に取材協力を依頼した際、どのような交換条件が提示されるかもわかっていたと思う。今年の夏の自衛隊イベントでは『シン・ゴジラ』とコラボしたPRポスターが掲示されていたが、作品への表層的な理解を選択した層を、自衛隊が取り込むことも許容していたということだ。『幸福の黄色いハンカチ』の山田洋二監督とは大いに違っている点である。

ここで自衛隊との関係に拘るのは、『シン・ゴジラ』が2015年の安保法案(戦争法案)の審議を横目で見ながら制作され、沖縄県の辺野古や高江での、戦略上の意味が希薄な米軍基地建設工事に、自衛隊も協力しているという事実があるからだ。冷戦終結から20年以上過ぎ、従来のように災害出動が主な見せ場となっている限りは、世間一般に自衛隊への警戒心がそれ程ある訳ではなかった。しかし、米軍辺りの傭兵代わりに地球の裏側の局地紛争で尻拭いやら、今更蛸壺化した国内市場で弱体化した武器の輸出が現実に差し迫って来れば、話は別である。当然、そういうことを積極的に進めている組織のPRのため、クリエイターが全力で乗っかってていいのかという疑問はある。

ただ「取材はするが映画ポスターを隊員募集に利用するな」と要求するのは信義の上でも無理な注文だ。311で自衛隊は東電や原子力安全・保安院などとは異なり大きな過ちは犯さなかったからである。逆に言えば、自衛隊に限っては『シン・ゴジラ』でのポジティブな描かれ方と311での姿とのかい離はそれ程は無い。彼等は最初投入人員を出し渋る姿勢を見せたが、菅直人首相の鶴の一声で10万人の動員体制を敷き、期待以上の成果を挙げたのである。あの無意味な原子炉へのヘリ放水は、政治のゴリ押しで彼等の責は無い。

庵野監督がリスクを背負ってしまったとすれば、その知識収集の積極性と現実のミリタリーへの警戒感の薄さが同居している点、ということになる。円谷もフロントの編集部も嵌ったリスクである。

どういう脚本と取材なら良かったのか、妙案がある訳では無い。ただ、無責任な政府関係者・ネット右翼・排外思想が社会を蝕んでいる側面はもう少し反映のしようもあったのではないか。一つのヒントとしては、ウルトラマンシリーズでの寓話の扱いや、リメイク版の『日本沈没』で「ずるい官僚達」を登場させるといった先例がある。なお初代ゴジラでオキシジェンデストロイヤーを沈める際、『シン・ゴジラ』の無人機や電車爆弾に相当する露骨な軍事的支援は受けていない。海保の船でゴジラが潜伏している海面に運んでもらっただけ。

一方『君の名は。』に目を転じると、政府や自衛隊への取材を通じた共依存関係は希薄である。精々神事の取材で文化行政とのつながりがある程度。実名で中部電力が登場するが、それ自体は作中で重要な役割を果たさない。かと言って軍事的な物事を殊更に批判して見せる訳でもない。そういう点では私は『君の名は。』に軍配を上げる。

新海誠監督や『君の名は。』のスタッフは、オタク的感性から豊富な知識を収集する能力はあっただろう。ただ、新海監督は元々セカイ系の作風を持ち味にしており、『君の名は。』も表層的な主軸はあくまで男女二人の恋愛にある。その特徴が現実の社会組織とコラボなどを通じて共依存に陥ることを回避している面はあるだろう。

【寓話の構造にも差異】
二作を比べると寓話の構造にも大きな差異がある。『シン・ゴジラ』は初めての出来事に直面した時の対応を描いているが、『君の名は。』を寓話の側面から眺めるとリプレイ(リベンジ)物だ。主人公の二人は一度村の壊滅を体験した後に、村を救うため、もう一度やり直す。それも気の利いたシミュレーションで軌道計算して気づく…といった「科学的展開」ではなく、実際に一度死ぬという徹底振り。現実には物理的に不可能。『シン・ゴジラ』も上記の通り、「現実には不可能」という感慨はあるのだが、冒頭に引用した論評のように、物理的なことを指してる訳ではないので、不可能の質が違うのだ。

だが、311を経験した日本社会一般には、被災者を映像を通して見ているだけで何も出来なかった負い目と、「あの時に戻れればそりゃ知らせたいさ」という潜在的欲求が残った。新海監督は今回、その潜在欲求を寓話化し、救済して見せたということだ。

この点でも私は『君の名は。』の方がより説得力があると考える。よく観察しなければわからないような皮肉でもって、整然とした事故対応の伝説を創造してみたところで、仮想戦記と同種の空疎さだけが残る。それよりは、時間を遡るという物理的な禁じ手に訴えて現実には回避が不可能であることを明示し、表層的理解への道を潰す。そして、救済願望を充足することで犠牲者への間接的な追悼とする方が、マシではないだろうか。

なお、『君の名は。』で寓話化の対象になっているのは、「原発事故」に留まらず大津波全体だろう。作中で村人が取る避難行動は要するに「てんでんこ」。防災放送も津波の時のそれだろう。作中の必死になっている感情や態度へも、観客は説得力を持ちやすい。三葉が父親の町長に「決断」を迫るのも、事の本質を良く捉えている。権力者の方こそ、血の通った生活感を持てという批判になり得るからだ。

そのような構造の差異がある以上、情報の洪水で埋め尽くした『シン・ゴジラ』の方がリアリティがあるかのような論評は、違うのではないか。私はそう思う。

16/10/9【海外市場で受け入れられるのはどちらか】
海外市場での売れ行きを見てみたが、やはりシン・ゴジラは不発に終わったようだ。表面的には「日本特有の政治的事情を理解していないから」という話だが、それならオープニングに「第二次大戦に敗北し原爆を投下された日本は、戦後制定した憲法で他国に攻め込むための軍隊を持たないと決めた。官僚と大衆は時には対立しながらも、協力して焼け野原から国を復興させた。それから70年の時が流れた・・・」といった数行の説明を加えて船上のシーンに移れば良いだけ。まぁ、多分そういう処置があっても上手くは行かないだろう。外国人には「優秀な官僚」は日本人の自己満足にしか映らない。それに、ゴジラシリーズは寓話として受け取っても「侵略国家であった戦前日本」という視線が欠如しているからである。本作でもこの点は踏襲している以上、世界市場で売っていくような作品では無い。

この点でも余計なものに縛られていない「君の名は。」の方がマシだろう。311の凄惨さは海外にも知れ渡っているから寓話にも気付き易い(HENTAI性というマイナス点があるので、ディズニー程一般性を獲得するとは思わないが)。新海監督は人に指摘されないと分からないそうだが、一連の性描写をカットしても作品を成立させることは可能と思われるので、つくづく残念だなぁと思う。

16/10/15【「君の名は。」が311を寓話化した具体的な個所】
2回目を観賞した。やはり、只の恋愛ものと考えるか、社会性を帯びていると考えるかで大きく感情移入の度合いが変わって来る作品だ。当初公開された出演者のコメント等は、前者を装っているが、まぁフェイクだろう。出演者が下手に政治的なコメントを発するリスクを、本作のスタッフは良く知っている。私は三葉以下、糸守の人々の背景にネクシャリズムと作り手の慰霊を感じずにはいられない。

  • 中部地方を舞台に選んだのは、作劇に使えそうな習俗を制作側が見出したということもあるかも知れないが、「東京から新幹線と在来線を乗り継いで数時間の距離にある田舎」ということが重要と思われる。つまり、東北地方太平洋岸の暗喩である。上記ツイートをした社虫氏は私のような比較目線を持たず、自然にそのことに気付いている。高山ラーメン屋も(本州ではありがちだが)六国の沿道的な風景。
  • ティアマト彗星の再来間隔が1200年なのは(劇中割り切りして1000年とのコメントもある)、311が「1000年に一度の巨大地震」と評されていることと対応させたものである。隕石がややずれた場所に落着するのは、海溝型地震に全く同じ規模、震源で発生するものが無いことに倣っているとも取れる。
  • 良く見ると図書館で手に取る犠牲者名簿がおかしい。明らかに500名規模の内容ではない。1ページ50名割り付けるとすれば、311の約2万名を記述するには400頁となり、他の情報を加えれば600~800頁程度にはなってほぼあの厚さになるのではないか。
  • 神社が主要なキーになるのは、中世以前の災害伝承において神社が大きな役割を果たすからである。安全な避難場所である高校が高台にあるのも、津波の隠喩。克彦、早耶香と思い付いた共同作戦は正に「稲村の火」の再現である。
  • なお町長の経歴を見ると、民俗学者とある。民俗学者の場合、村からすればマレ人に近い扱いのようなイメージを私は持っているので、この設定は少々奇異に映る(より思想色の強い学問なら成立し得るが)。従って、この町長は災害伝承を再発見する学者をも表象しているのかも知れない。
  • 彗星でなければならない理由だが、311寓話の視点からはラスムッセン報告(WASH1400)という歴史的マターに繋がる事に気付いた。劇中のテレビ放送で「隕石が居住地に落ちることなどまず無い」と言っているが、これはラスムッセン報告を元に、歪曲も交えて行われた有名な原発プロパガンダを表象している。最初、何故隕石なのか、この作品で原発を表象する記号は地震で破壊されたことの暗喩である変電所と、「正しく使われ人々の役に立つ」非常電源位だと思っていたが、恐らく、「彗星に対する都会人の態度」こそが原発事故の最大の暗喩なのだろう。
  • 記事を書いてから知ったのだが、新海監督は大成建設のCMを担当したこともあるので、これが原発にあからさまに触れず、且つ、科学的に災害の予測が出来ない大衆の視点から描かれている、最も現実的な理由だろう。しかし、瀧が建築士を目指していることとし、大成建設本社のある新宿に面接を受けに行きながらも、「地図に残る仕事」という単語に似た言葉ををゼネコンの意向とは異なる文脈で述べているくだり(しかも内定を取れない)は、意地を感じなくもない。ちなみに大成はPWRを得意とする(単刀直入に言えば、311はまだ対岸の火事)。もし新海監督がBWRを得意とする鹿島のCMを担当していた場合、社会倫理上相当歪んだメッセージを発することになったと思われる。

まぁ、本作で150億も稼いだので、今後は企業の意向から離れた所で発言し易くもなるだろう。後は本人次第である。

【余談】2本の映画とPC
近年のハリウッド映画のPC強化(彼等も、程度の差こそあれジェンダーに縛られてきたということだ)や前年の『進撃の巨人』騒動で懲りたのもあってか、『シン・ゴジラ』は近年の日本映画にしては随分思い切ったとは感じている。制作裏話で無自覚な発言で女性層から批判されたプロモータがいたが、現状では彼自身の自業自得に留まる。

『君の名は。』は恋愛が主軸なので恋愛外しという選択は(元祖へのオマージュから言っても)無いが、役回りからポスターまで均等分割されてるのはPCを意識してるのではないか。(とは言え、ストーリーの大枠にぶれないところでなされる酒の話等は男であっても見てて辛いものがある。そりゃそれだけ「進んでいる」9歳児なども探せばいるだろうが)

どちらも上映終了後の観客の様子を観察したが、男女比はほぼ1:1、全体としては満足感の高そうな表情で、『君の名は。』では潤んでいる女性も数%いた。新海監督のマイナス面もそれなりに出ていたので、私の方が「え?あれで潤む女性居るの」と思った位だが、ネット炎上の傾向と現実にはずれがあるんだなぁ。

16/10/15【余談2 べクデルテスト】
「君の名は。」の女性描写はもう少し議論しておく。本作をべクデルテストで評価しても解釈次第となるだろう。特に、「女性同士の会話が恋愛である」の解釈が曖昧。元々、軽い冗談の中から生まれたテストのため解釈の明記が無いようだ。

「恋愛の話禁止」と解釈した場合、実はフェミニストが嫌うであろう、若手女優を集めた芸能事務所が採用する基準に近く、流石に極論ではないかと思う(本作がそうであるように、「男同士で恋愛の話をする」作品が存在することも、私の違和感の理由)。これに対し、もし「恋愛以外の会話が主軸と認められること」という解釈ならパスするだろう。

もっとも、日本製アニメの場合、中味がおっさんか、おっさんに媚を売る名誉男性となっている例が多いため、べクデルテストでは指標として不十分とも聞く。一つの解決法は「専ら女性に魔法などの超人的能力を付与し、神格化しているか」という規定を追加することだろうが(この基準なら萌え魔法物は全て除去出来る)、本作の場合は両性に付与されているためやはりパスする。

まぁ、PCなりべクデルテストにのみ執着するのもどうかとは思うけどね。小説版の解説には「新海監督のベスト盤」というコンセプトがあったとされているが、この監督がここまで社会性に寄り添った映画を作ったことは無い。何より、映画を作る上で最も重要な創造力でゴジラより勝っているように思うよ。元ネタ厨には悪いけど。

16/10/9【普段の姿勢との整合について】
「国や東電に予見可能性があった」という私の日頃の主張と「君の名は。」のリプレイへの評価は矛盾しない。「君の名は。」は国や東電のような情報的優位にある強者を描いた作品ではなく、市井の個人の目線から災害を見ているからである。

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