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2022年10月の1件の記事

2022年10月27日 (木)

「女川原発を救った平井弥之助」神話とは何だったのか

前回記事(リンク)では福島第一原発建設期の問題点を改めて見直した。

今後は1970年代中盤以降から事故直前に至る国の不作為を中心に検証を行っていくが、それは次回とし、今回は東北電力女川原発の計画・建設について改めて論じておく。そのことにより、福島第一国賠訴訟における問題を解くカギが見えてくるためである。勿論、各訴訟によって論争の経緯が異なるので、全部を取り込む必要は当然ない。必要な部分をチョイスすれば良い。

Youtube

出典:「概要と歴史(女川)」Youtube東北電力チャンネル(リンク

いま、Googleで女川原発について検索すると「女川原発 なぜ無事?」と検索数の多い質問が提示され、「女川発電所が助かった理由」(リンク)というOCEANGREENこと、小川雅生元東工大原子炉工学研究所所長のウェブサイトに誘導される。このサイトに限らないが、『「決められた基準」を超えて「企業の社会的責任」「企業倫理」を追求しつづけた平井氏の姿勢』が称揚されている。同様の解説は学者、技術者、経済評論家等が採用し無名のブロガーまで含めてネットに多数ある。学術論文や学会誌の巻頭文に組み込まれたものも多い。勿論新聞で記事にもなり、雑誌記事にもなり、本も出た。

更に、東北電力賞賛論の裏には「女川は例外的な事例であり、福島は出来てなくても仕方なかった」という主張が見え隠れしているものもあり、そのことをTwitter上の業界関係者が延々と論じたこともあった。

しかし、これらの話は前提から誤っているのである。

結論を述べると、次のようになる。

  • 東北電力は指針・民間規格通りの仕事をした。平井氏の貢献も通産省から依頼された民間規格の制定。基準や指針を超える点は全く無い。
  • 東北電力は社内で高い敷地高を決めてから、平井氏を招聘した(=発案者ではなかった)。
  • その敷地高も東電の手法を参考にサイト周辺の津波高から、15m以上必要であることは簡単に導けた。単純に女川地点の過去の津波高3mに対し、5倍の安全率を確保したものではない。
  • 1号機の時、古文書は「数量的に不明確」とされ、明治以降の記録が精度が高いとした(古文書偏重史観の誤り)
  • 当初案だと東日本大震災で浸水を招くものであり、高くするように住民からも助言されていたが、東北電力等はその事実に触れず、結果だけを宣伝した。
  • 平井氏は岩沼千貫神社の言い伝えを子供の頃から知っていた可能性もあるが、検証すると津波の脅威を勉強で再認識した可能性が高い。
  • 更にドライサイト(敷地高を確保すること)に固執するあまり、想定外への対策(建屋の水密化)について、後輩達に警告しようとしなかった。中部電力と比べてこの差は顕著である。
  • その上、平井氏より高い敷地高を提言した人もいた。
  • 平井氏の言行と生前の評判はどうだったのか・・・当ブログで解明

特に、指針や規格通りだったとなると、女川での国と東北電力の態度が一種の最低ラインとなり、福島での国と東電を見ていく上でとても重要になってくるので、これは前半に説明し、後半で平井伝説を検証していこう。

私も、かつて「東北電力の企業文化」という法令や指針に基づかない要素は否定したが、平井弥之助のリーダーシップは評価し、前回記事まではその影響力を一定程度見ていたが、今回の検証作業の結果、平井氏がいなくても東北電力は女川を15mの敷地に建設しただろうと考えを修正した。

本来なら数本の記事に分割すべきところを今回は1本にしている。安易に言われる「メディアは報じない」と違って、こうした観点での再検証は当ブログ位しかやっていない。通しで一気読みする必要も無いが、関心があればゆっくりしていって欲しい。

【1】指針と電気協会規格

本節は指針、規格、設置許可申請の仕組みを述べているので、面倒な方は飛ばして構わない。

前回記事はもっぱら民間規格のJEAG等を論じたが、ここで指針も含めて俯瞰しておく。

(1)安全設計審査指針とは

国の「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」(リンク)は1970年4月に制定された。これは簡単に述べると設置許可申請された原発の設計に問題が無いか、原子力委員会が審査する際の物差しである。

安全設計審査指針の本文は基本的に原則論しか述べておらず仕様規定的な要素は殆ど無い。その構成は2.1で準拠規格・基準、2.2で自然条件に対する設計上の考慮、2.3で耐震設計について述べており、いずれも「過去の記録を参照」することを要求していた。

当指針には実運用の便のため「解説」という文書が付随する(Level7,リンク)。全項目に説明が加えられている。

P9

2.2の解説を引用するが、過去何年、サイトから半径何キロといった仕様規定は無く、「過去の記録の信頼性を考慮のうえ、少くともこれを下まわらない過酷なものを選定して設計基礎とすることをいう」などと述べられているのみである。女川の設計担当者が課せられた第一の条件が、これであった。

設置許可申請との関連についてもここで簡単に説明しておく。設置許可申請の基本的な仕組みは「ごぞんじですか?原子炉設置(変更)許可申請書」(『専門図書館』2011年11月号、リンク)に基本的な構成が説明されているが、申請を受けた後の審査過程については意外に説明が少ない。なお、設置許可申請は当初より公開され、新規のものはこの時代だと300ページ程度。

原子力委員会が審査をしていた頃は、申請ごとに「〇〇原子力発電所〇号炉設置(変更)許可申請第〇〇部会」を設け、その審査の為に設置許可申請を補足する説明資料を電力会社に提出させるなどしていた。この部会資料は審査の透明化を目的に1975年に公開され、それまでの分が国会図書館に収められている。この中で、電力会社側は「安全審査指針に対する対応」という資料を準備し、指針の各条項に対してこういう基本設計をしていますよ、という説明を行うようになっていた。従って、指針に対する当時の公式の理解を知るためはこの資料を読めば良い。新規の場合分量は100項目程度で、計1000ページ前後。

私が女川1号機の設置許可申請、およびその参考資料を読んだ限りでは、安全審査指針と津波との関係を詳しく述べた部分は存在しないようだ。当時の詳細な説明資料が付くテーマと言えば、専らプラント解析、自然現象では地震である。

とは言え、女川神話でよく言われる「エピソード」、津波伝承を集め、中でも1611年慶長津波の際、宮城県南部の岩沼市、千貫神社に来襲した津波のことを平井氏が知っていたとの伝聞が決め手となった、みたいな話があるが、たった400年前の津波伝承なら当時でもその存在程度は認識していたことが設置許可申請と部会参考資料から分かる。東電福島でさえ、建設初期には過去400年の地震を調べているから、後続する女川がそうなるのは当たり前である。

その後、指針類にも仕様規定的性格のものとして耐震設計審査指針(旧耐震指針)が定められたが、それは1977年のことで、しかも津波に関する指針とはならかった。つまり指針類は曖昧で貧弱な内容のまま数年間を過ぎたが、その理由は制定を担当する原子力委員会の動力炉安全基準専門部会に余力が無く、活動がにぶりがちだったからであり、当時から意識はされていた(『原子力産業新聞』1975年2月27日3面)。また、この時期は別の記事で解説していくが、設置許可申請されたプラントの安全審査も能力的な制約が大きかった。

(2)日本電気協会規格JEAG4601-1970とは

前回記事でも取り上げたが、JEAG4601-1970は耐震設計の考え方を参照するためのものである。

通産省の依頼で作成され、1970年5月に電気協会内部の原子力専門委員会、7月に上位の電気技術基準調査委員会で承認され、10月に発行した。これら委員会には東北電力も含めて各社が委員を出しており、電気技術基準調査委員会の旧委員に平井氏も入っていた。

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1970年版は、付録としてIAEA勧告なる文章がついており、「特定地域の津波による最大海面上昇の高さは十分な歴史的記録がなければ予想できないであろう」と言及していた(前回記事で解説した通り)。平井氏はこの勧告を付録することを認めた一人、ということだ。

Jeag46011970__2_iaeap254

再掲するが上記のようにJEAG4601-1970は安全設計審査指針より記述のレベルがやや詳細化している。

なお、前回記事で書き忘れていたが、本規格2.1「敷地選定とその評価」の文章をよく読むと「海岸線の形状に支配されることが大きく、過去の津波の被害からおおむね判明している」との一文が入っている。本規格付録のIAEA専門家会議勧告と一見反するようにも思えるが、2.2「地震活動度」には「この種の学術研究は今後も進歩すると思われるので常に漸進的な態度で検討することが望ましい」と記載されており、同勧告と軌を一にしていた。

(3)IAEA勧告とは

JEAG4601-1970の付録2に収録されたIAEA勧告は、どんな背景を持つ文書なのだろうか。

JEAGには、発行年次等の情報が書かれていなかった。しかし英称”IAEA PANEL ON ASEISMIC DESIGN AND TASTING OF NUCLEAR FACILITIES PANEL RECOMMENDATION”で検索したところ、IAEAサイトに保存されていた。TECHNICAL REPORT SERIES No.88のタイトルであった(リンク)。1967年6月12日から16日にかけて日本で開催され、翌1968年6月に出版したものである。

パネル参加者は、見る人が見れば、当時のそうそうたるメンバーであった。国内外の学者は言うに及ばず、海外勢はGE,エバスコ,WH,ベクテル等も人を出していた。人数の上では(地震国と言う特徴故か)国内メンバーが半数以上を占めていた。つまり、勧告の内容はこれら参加者の総意に基づくと解することが出来る。なお、平井弥之助、東電の小林健三郎等は入っていない。小林は福島原子力建設事務所に駐在だから、担当業務でもなく、物理的な距離感も現在よりあった。

私が注目したいのは、日本原電の秋野金次氏。耐震設計の専門家である。2014年のブログ記事(リンク)でも紹介したが『コンストラクション』1969年3月号(重化学工業通信社)にて、太平洋側ではM=8級の地震を想定しなければならないと述べるなど、現実的な観点を持っていた(当時はモーメントマグニチュードの概念が無いのでM8級とは最大クラスを意味する)。

【2】東北電力の行動は指針、規格の遵守に過ぎない

さて、女川1号機の計画過程を重ねて時系列に並べてみよう。

  • 1968年6月:IAEA勧告発行
  • 1968年7月:東北電力社内に海岸施設研究会を設置
  • 1970年4月:安全設計審査指針制定
  • 1970年6月:女川1号機設置許可申請
  • 1970年10月:JEAG4601‐1970制定
  • 1970年11月:女川1号機審査結果が報告される

このように、女川の計画と、IAEA勧告、指針、JEAGは同時期である。参照しない訳がなく、実際の仕事の結果もこれらに記載した通りの行為となっている。

【3】「女川の奇跡」で平井弥之助を称揚し始めた元通産官僚と東北電力OB

ここからは平井伝説に焦点を当てて行こう。

それにしても震災後突然始まった女川絡みの平井弥之助称揚には不思議な点がある。事故以前の記録や当人の手になる文章がまるで見当たらない。町田徹氏は電中研時代の所内報挨拶文を発掘しているが、設計や原子力について論じたものではない。

実際には平井氏の著述物は他にもあり、2011年時点でもCinii等を用いればすぐに分かった筈である。だが、そうしたものについては後回しとし、まずは神話を検証していこう。

経歴は「電力土木の歴史-第2編電力土木人物史 (その6)」(『土木史研究』18巻、1998年、リンク)に詳細なものが載っている。

大まかに述べると、1902年宮城県柴田町生まれ。柴田町は県南に位置し、内陸だが岩沼市に接し、千貫神社は近い。水難という観点では阿武隈川に接している点も見逃せない。新卒から一貫して電力業界で土木技術者として働き、日本発送電を経て電力9分割の際に東北電力に入社した。

1960年5月から1962年11月まで取締役副社長、1963年からは子会社の東北電気工事で取締役会長をこなしつつ、電力中央研究所(電中研)理事を振り出しに技術研究所所長などを務めた。東北電気工事は1971年に顧問に退き、電中研理事は1974年に退任、理事となった。1986年2月に死去した。

神話の下地として最も流通している説明は、東北電力で立地関連業務を担当経験のあったOBの大島達治氏によるもので、次の通りである。新聞雑誌の記事や書籍も沢山出たが、これより後で記述のレベルも浅い。

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2011年3月28日に「通産省出身の元水力課長」が平井氏の功績について発信(INとはインターネットだろうか?)。これに触発され、2011年6月には大島氏の手で「技術放談 結果責任を負う事業経営のあり方」という一文が書かれ、それが出回った。画像引用はしないが次の4ページには「法令に定める基準や指針を超えて」という一言について、大島氏が記者などに説明する際に特に強調するように要望した旨、記されている。

発言者の立場を踏まえると、この言葉は指針を定め、規格を制定した国、および東電の責任を巧みに回避させようと意図した、訴訟対策と受け取れるのだが、無理がある。

まず、安全設計審査指針(リンク)は先に見たように「過去の記録を参照」するように求めていた。神社の地域伝承は勿論過去の記録の一種である。それを参考にしたところで、指針など超える訳がない。また、大島氏は自分自身が立地業務に関わった経験があり、且つ技術士でもあるのだが、文章には「基準や指針」の具体例が全く無い。

一方、平井氏はJEAG4601-1970という「基準を決めた側の一人」でもある。「規格に自分の思想を反映させたのが偉い」ということなら分かるが、そのような褒め方をすると、「女川は基準を超えていた訳ではないので」東電の立場は益々無くなってしまう。

また、IAEA勧告発行の翌月に、社内に海岸施設研究会を設置しているのだが、勧告文と平井伝説を比較すると、歴史津波への独創的な思考は特に見当たらない。2011年以降に語られた(震災バイアスが入り込みやすい)伝承の方が誤っていると言える。

後になって、「IAEA勧告にも裏から助言していたんだよ」などとOBが言い出したところで裏が取れなければそれまでであり、取れたところで、自分で制定したルールを守ったという、平凡な話にすぎない。

なお上記に赤書きした通り、東電の原子力導入に関する時系列に明らかな誤りがある。

【4】規程・基準は「馬鹿でも出来る最大公約数」と述べた平井弥之助

ただ、大島氏が震災後に著した文章を読み返すと、興味深い点に気づく。

 

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例えば、大島氏自身は人脈を利用して入社し、11年世話になり、仲人までして貰ったそうである。遠くから見ていた後輩が人物評をしている訳ではないということ。率直に言ってバイアスはかかると思う。

また、上記の一文には「規程・基準は馬鹿でもやれる最大公約数」と訓育したとある。平井氏が制定に関与したJEAG4601-1970は「馬鹿でもやれる最大公約数」だったのである。

【5】平井氏が招聘される前から敷地高を高く検討

2011年9月13日に東北電力が原子力安全・保安院への説明資料として準備したスライドを見てみよう。

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よく見れば「社内での比較検討の結果(中略)15m程度が最適と考えた」後に社内委員会(海岸施設研究委員会)を設置したとある。

平井氏が発案したかのように述べる人もいるようだが、最初から社内の最適案は15mなのである。

ネットで読める『原子力委員会月報』1970年12月号に付録された審査結果(リンク)では敷地高は14mとなっており、最終的な敷地高15m(14.8m)より1m低いように見える。

しかし、私は設置許可申請本体も読んだのだが、これは造成した時の高さを示すものらしく、原子炉建屋は14.8m、タービン建屋は15mの敷地高を確保していた。

なお、女川1号機はそのまま進めば福島第一の4・5号機と同時期に運開を計画したが、漁業関係者を中心とした反対運動のため着工は10年程遅れた。この間、数回設置変更許可が提出されているが、敷地高に関しては最初から変わっていない。1978年7月の設置変更許可申請にて、放水の設計がトンネル排水路から水深の深い水中放流管に変わっているが、津波や高潮の関連では変更がない。従って海岸施設研究会の成果は、設置許可レベルでは放水方法以外に影響しなかったものと考えられる。詳細設計に相当する、工事認可申請(非公開資料)には載っているのだろう。

ただしこの間、外部電源の開閉所は耐震性の高いGISの時代に取って代わり、事故を回避出来た副次的要因となったことは、数年前のブログ記事で述べたとおりである。

【6】正確な記録と生きた証言に溢れていた明治三陸津波と昭和三陸津波

震災後に行われた平井伝説、社外からの女川PRの盲点は、貞観、慶長といった古い津波の記録にフォーカスをし過ぎていることにもある。

三陸の場合は近代以降も、貞観や慶長にも比肩する高さの津波を経験していた。常識に立ち返れば、こちらの方が記録が正確で出版もされており、加えて体験者から新証言が収集可能であり、記念碑も新しく残存率が高い。後述する、羽鳥徳太郎氏の近代以前の歴史津波を対象とした論文に比べても遥かに情報の密度・正確度が高い。

だから最初から東北電力も近代の津波記録を把握したし、証言も収集した。私は実際の設置許可申請とも比較したが、下記のスライドは要点がよくまとまっている。

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スライドでは女川付近は精々3mの旨黄色で枠囲いしてあり、設置許可申請を読んでも津波の検討部分は東北電力自らが上記の(軽んじるかのような)結語で締めている。

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だが、毎回完全に同じ波源となることは無いため、重要なのは(1)の文献調査である。

また、ここで着目すべきは先行する東電福島。津波想定を決めた時に、55km離れた小名浜の記録を参考にした。従って東電流の考え方をするならば、55km以内に高い津波の記録を探し、それを当てはめれば良い。

ここで東北電力は『験震時報第7巻第2号』を挙げた(気象庁、リンク)。国会図書館は『三陸沖強震及津浪報告. 昭和8年3月3日』のタイトルでデジタルコレクション(リンク)でインターネット公開しているが、内容は同じものである。

中を見ると1km前後の間隔で実に詳細に津波の高さを示しており、下記のような一覧表にまとまっている。また引用はしないが一覧表と対応した地図が口絵に掲載されている。

一覧表を見るとコマ番号95、P9の歌津村(現南三陸町)石浜の外洋で明治三陸の時14.3mと記載されており、確かに設置許可申請の通りである。女川原発からは北に35km程。なお、歌津村は全般的に高い値が多く、海岸の向きも女川原発と似ている。

他、桃生郡十五浜村の荒屋敷で10.0mとの記載がある。荒屋敷はコマ番号14の口絵地図に載っており雄勝湾と追波湾の間、現在の荒浜海水浴場である。女川原発からは北に15km程しか離れていない。

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明治三陸では38mを記録した岩手県南部の綾里湾が有名だが、湾の形状が完全なV字であることの他、女川原発からの距離が約78kmある。そこまで遠い地点を参照するかは議論が分かれるかも知れないが、35kmや15kmなら近い。

なお、中央気象台はコマ番号93-94、P5から6で「波の高さ」を定義しており、これらは痕跡高(遡上高)である。

こうした記録は、歴史津波など前提が不明瞭な場合は、津波高の定義、位置、情報を記録した時期などについて議論の対象になる。だが、原発に要求される敷地高はJEAGによれば(後年の言葉でいう)ドライサイト、場合によっては敷地高の足りない分は防潮堤を設けて守るドライサイトコンセプト、である。

ドライサイトは水が絶対に来ない高さを示すもので、女川は明らかにそれを目指した。その観点からは痕跡高は有力な情報源である。同じ地域で異なる高さの証言・記録があった場合でも、2~3m程度の小さな差であれば保守的に高い方を採用すればよいことは、簡単に導ける。明治三陸以降は干満についての情報も残っているだろう。

なお、設置許可申請には出てこないが『宮城県昭和震嘯誌』(宮城県、1935年)も見てみた。この本は県がまとめた災害記念誌である(参考、「第1章 津波の記録―明治三陸地震津波と昭和三陸沖地震―」『本の万華鏡 第8回 津波 ―記録と文学―』国立国会図書館、リンク)。県庁か図書館を回れば参照出来るものだ。

やはり、現南三陸町田ノ浦から歌津付近の外洋に面した海岸(女川原発から概ね35~37km)で11~12mの津波が記録されていた(北原糸子他「津波碑は生き続けているか-宮城県津波碑調査報告-」『災害復興研究』第4号、関西学院大学、2012年P27図2、PDFリンク)。

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モノクロスキャンで読み取り難いが他の記録の傾向と照らすと、表の左側が昭和三陸津波か。明治三陸と思しき右側は藏内、田ノ浦で12m、石濱、中由馬場で11mといった記載が確認出来る(括弧で括られた部分は浸水面積)。なお、幾つかの地点で『験震時報第7巻第2号』と値に相違がある。

なお、平井氏を称揚する解説の中には当初敷地高12mの案もあったという話も出ているが、時期が不明であり、上記から考えれば設置許可申請の前、更に言えば海岸施設研究委員会の設置前ではないかと思う。だが、これまで見たように、平井氏でなくても却下するのは当たり前と分かる。

【7】当時の一般向け三陸津波紹介

なお、最初の設置許可申請前後にあった一般向けの啓蒙についても触れておく。

(1)吉村昭『海の壁 : 三陸沿岸大津波』(中公新書、1970年7月、リンク

吉村昭氏は戦記ノンフィクション作家として1960~70年代に活躍した方である(下記画像はAmazonより。後年、文春文庫で再版)。

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元が新書だったことから分かる通り、吉村氏の著作は小説ではなくノンフィクションの色彩が濃い。

第二章「波高」という一節は測定法に関する考え方を示したもので、明治三陸の事例を記載。大量の記録から、宮城県では2ヵ所を引用し、内1ヵ所は歌津石浜の14.3mだった。参考文献欄には『三陸沖強震及津浪報告. 昭和8年3月3日』が載っていた。「まえがき」からすると脱稿は6月のようだが、出版の2ヵ月前に出た東北電力の設置許可申請は(勿論)載っていない。偶然だが、同じように情報収集すれば、吉村氏が作中で自認するように、専門家ではない一般人でも同じ文献に目をつける、という見事な実例を示している。

この本が直接社内の議論、および審査に影響したとすれば本章の「この数字がそのまま津波の高さを正確に伝えるものとは限らない」というくだりだろう。吉村氏は1ヵ月に渡って現地での証言収集を続けたため、場所によっては、中央気象台などの公式記録より証言から推定される津波が大幅に高いことに気づいた。それで15mの設定が動いたわけではないが、数値の正当化には益したと考える。敷地高を下げようとは思わないだろう。

結果責任に関する意識付けも同様。被害の惨状は端的に言って地獄絵図と、誰にでも分かるように書かれている。

勿論欠点もある。明治三陸について、吉村氏は殆ど存命者の証言を収集出来ていないが、先の東北電力の調査ではより多くの生存者から証言を得ていた。また、個人で調査した場所の海抜を容易に求めるのが難しい時代であったため(詳細な地形図と照らし合わせが必要)、証言者の居住地と実名を沿えてトレーサビリティの維持には気を配ってるが、高さは判然としない記述も多い。

(2)NHK番組『新日本紀行』

近年も再放送され、アーカイブ化を優先して行っている。NHKのサイトで調べてみたところ、1968年11月25日「宮古 久慈 ~北部陸中海岸~」(リンク)が放送され、田老の堤防について取り上げていた。少し後になるが1973年6月4日には「唐桑の七福神 ~宮城・気仙沼~」(リンク)も放送した。

新書や教養番組は、話の種として企業活動の中で持ち出すのに向いている。三陸を知らぬ者も多い電中研や電事連と言った場所で何か訓示する際にも、立派な素材となるものである。加えて、東北出身者に接さずとも、日本海側や内陸出身で三陸に疎くても、意識付けの機会になる。それにこの時代のテレビは世帯普及率がモノクロ・カラー合わせ100%程度。独占的な発信力を既に獲得しており、しかも1世帯で複数台設置・多チャンネル化時代の前であるので、実質的な視聴率は高かったと思われる。

書籍とテレビ番組から一つずつ例示したが、勿論調べれば雑誌や科学番組など他にも出てくるだろう。

こうした観点から見ても、平井氏や少数の土木技術者だけの手柄ということはまずありえず、誰がやってもそうなる、という状況だった。

そのためか、設置許可申請や部会参考資料を見ても、海岸施設研究委員会の名は出てこない。

【8】1970年代に歴史津波の知見を拡張したのは羽鳥徳太郎氏であり、東北電力ではない

当時の歴史津波への姿勢についても述べておく。

1号機の時点では、東北電力は独自の古文書、石碑調査を行った形跡が無い。海岸施設研究会で取り上げたことは伝えられているが、こんな大事なことにも関わらず記録が残っていないため、その水準が全く分からないのである。だから結局は、設置許可と参考資料と同程度と見なさざるを得ないだろう。

なお、古文書とはどれくらい前の文書を指すかだが、東北大名誉教授の平川新氏によれば、和紙に書かれた明治以前の文書のことをいう。洋紙に書かれた明治以降の書類で、歴史分析の対象となるものは近代文書などと呼ばれることが多い、とのこと。私の調べたところ、明治維新期の資料なども古文書扱いされているものがあるようだが、新政府が近代的な地方自治の体制を構築するには時間を要し、1888年群制の施行でその完成を見るようである(「文化財としての古文書, アーカイブズとしての歴史資料」『学術の動向』2019年9月号、リンク)。

明治三陸津波の記録は中央気象台がまとめていることから、古文書とは言わない。一般的なイメージとしても近世以前だと思う。

よく言及される『日本三大実録』に記された貞観津波の言い伝えだが、これは今でいう公式記念誌のようなもので、知名度は高く引用されて当たり前のものである。近年、歴史研究で新規性を認められるには、寺の過去帳を読み解くなどの調査を要するし、そこまで行かなくても先行の研究成果位は参照するものだ。「古文書を当たって」というのはそうした行為を指すが、ネット上では記念誌を読み返す程度の意味に化けてしまった。

東北電力の海岸施設研究会は1980年8月まで活動したが、この間、地域史料まで当たって歴史津波の記録を検証したのは、津波研究者の羽鳥徳太郎氏で、「三陸沖歴史津波の規模と推定波源域」(リンク)を『東京大學地震研究所彙報』50巻4号(1976年3月刊行)に投稿した。

よく言及される、1611年慶長津波の際に記録された、岩沼千貫神社の件も挙げられており、この頃の羽鳥氏は神社の手前まで達した津波高は6~8mと見込んでいた。

東北電力は福島事故後にまとめた資料で、2号機からこの記録を参照としているが、1号機建設に際しても着工前の論文なので参照は出来ただろう(下記は東北電力の説明資料に赤書きしたもの)。

2011913p7

8mの伝承だけなら小林論文のように10mでも良さそうに見えるが、実際に検討された案はどれも高い。より重視された明治以降の津波が決め手だったのだろうが、敢えて比べるなら、慶長津波の岩沼千貫神社は直線状の海岸に対して、牡鹿半島以北はリアス式海岸という地形上の違いがある。また、千貫神社は海岸から7km奥にあって俎上による減衰が見込まれるのに対し、原発サイトは海際である。

ただし、牡鹿半島の石巻湾ではなく太平洋に向いてる点は岩沼と共通しており、直線距離は約67kmだが南北方向のみだと32km程度になる。

この事例が敷地高の判断に影響を及ぼしたとすれば、明治三陸や昭和三陸では起こらなかった高さの津波が、宮城県南部の岩沼に押し寄せていたことだろう。この事実から、主たる波源域が必ずしも三陸以北とは限らない分かりやすい例、として数えることが出来、例えば「明治三陸地震がもう50km南にずれて発生していたら」といった、小規模な波源移動を現実的なリスクとして受け取れたのではないか。そうなれば、今までは3m前後の波しか記録の無い女川でも、今後は15km、35km北で起こったような10m以上の津波が来る、という予見を補強出来るのである。

まぁ100kmも200kmも波源を南に想定するならともかく、50km以下の波源のずれ程度は慶長津波を細かに調べなくても想定の範疇だったとは思うが。

なお、小林健三郎の場合、前回記事で引用した博士論文3章の記述を見直してもらえばわかる通り、「V字型およびU字型海岸は適地から除外」していたが、女川は候補地の一つとして海抜10mで設定した。比較的開けている方とは言え、ゆるやかなU字なのだが。東北電力の検討結果と比べると、日本第二の津波常襲地帯である高知出身の割には、やり方は稚拙そのものと言える。

以上は、私の推認であり、実際の検討過程は東北電力が最初に実施した比較検討の資料や、海岸施設研究会の議事録を公開しないと分からない。だが、1970年代の知見で合理的に15mの敷地高を導くことは常識レベルで可能であることは分かるだろう。

むしろ、女川では3mの記録しかないことを強調する東北電力と原子力委員会に疑問がある。16mや18mといった案が葬られた可能性についても、考えておくことは出来るだろう。

例えばスライドで引用した歌津町石浜の14.3mを東電方式でそのまま採用すると、潮位差を加味したら15mを上回る可能性は高そうだし、この時代のやり方だと5m以下の想定でも0.5~1m程度の余裕は加味していたので、16m程度は必要に見える。想定の10%掛けで余裕高を加算すると14.3+潮位差(0.5~1m前後はあるか?)+1.4程度でやはり16m台後半となる。「神話で語られる平井像」的に余裕を大きく取ると、20m前後が妥当ではないか。

【9】地元の声を拾った『積算資料』

証言についての検討をしてみよう。昭和三陸津波は1933年だから、最初に設置許可を提出した1970年だと37年しか経過していない。40代以上の中年なら昭和三陸の実体験があった計算。調査で役場に挨拶しに行くだけでも文書に載ってない「証言」を得られる可能性がある。明治三陸津波の場合は1896年なので経過年数は74年。当時の平均寿命は今より概ね10年程短いが、80代以上の古老なら経験している。

そのため東北電力は1969年12月「現地付近の地震被害調査」という聞き込みを行った。調査報告書は設置許可申請第68部会参考資料103として、原子力委員会にも提出された。担当したのは同社女川原子力調査所の社員であり、主目的は地震だったが、明治三陸津波についても聞き取りを行った。残念であるのは聞き込みの範囲が調査目的の関係で女川町周辺に限られたことだ。

なお、東北電力の説明に反し、敷地を高くするように求めたのは、住民だったという証言がある。

地元に住むお年寄りから、次のような話を伺った。

建設計画の説明会が開かれた際に、最初に住民に提示された計画案で女川原発は、今回大きな事故になった「東京電力福島第一発電所」と同じような海岸線の低い標高に計画されていたそうである。
これを聞いていたお年寄りの方から、
「あんた達は若いんだね。そんな場所は物を建てるところじゃないよ。」
という声がかかったそうである。
そしてそのお年寄りは
「あそこにしなさい。あそこの高台にしなきゃだめだよ!そんな低い場所は昔から波をかぶって来たところだよ!」
「昔から津波から逃げるときはあそこへいけ!あの高台ならば大丈夫といわれてきたんだよ。」
と高台を指差したそうである。

(中略)その後、東北電力はこの地域に伝わる言い伝えを検証、文献調査、現地調査、ボーリング調査などを行い、その結果お年寄りの言っていた通り、地域に伝わる「言い伝えは正しい」とし、女川原子力発電所の計画案を変更し、硬い岩盤が確認出来たその高台に原子力発電所の計画を変更したそうである。

2013-07-01
土屋 信行「教訓そして再生へ(1) 東日本大震災から学び伝えたいこと」
『積算資料』(けんせつPlaza、リンク
※公益財団法人 えどがわ環境財団 理事長

吉村昭氏のくだりでも言及したように、証言はしばしば公式記録を上回ることがあるので、齟齬が生じることに対し説明はつく。

問題は敷地高の決定と「説明会」の時期に矛盾があること。

女川町HPでは詳細な「原子力年表」(リンク)を掲載しているが、1972年7月11日「県、知事出席のもと、原発建設説明会を女川町で開催」とある。この時点では国が主催する公開ヒアリング制度は無かったので、独自に実施したのだろう。お年寄りの助言がなされたとすればこの説明会となる。ただ、1972年の説明会なら15mと説明している筈。

別の仮説を考えるとすれば、「説明会」の意味するものが違い、聞き取り過程で双方の理解に齟齬があった可能性である。町のHPに加えて三浦康「急がれる原子力発電所建設」(『政経東北』1978年2月号)も参照しつつ述べると1967年1月、東北電力は女川を立地候補に挙げ、1968年1月建設計画を発表した。翌月には予定地の地権者全員が立ち入り調査に同意し、同年末には漁協の同意を得て海象調査を開始した。漁協が一転して反対に回ったのは1969年6月以降のことで、以後約10年膠着状態となった。

この経緯でお年寄りが助言できたのは何時かを考えると、1968年頃に地震ではなく、用地買収や海象調査の担当者へ語ったのではないか。普通の公共事業などでも、地権者限定の立入調査・用地買収説明会は実施する。またそのような説明会の場以外にも、立入当日は地権者と打ち合わせする。「高台を指さす」のは地図ではなく屋外でそうした際のことであるようにも読める。そうであるなら12m案か、小林論文にあるような10m案などでも時系列上の矛盾点は無い。

なお『政経東北』は記事単位での両論併記が特徴で、1980年1月号の編集部になる記事では、漁協の反対運動に対して東北電力が「電力が不足してもいいのか」と「反対運動をしていると電気がつかなくなるぞ」とも取れる姿勢で火に油を注ぎ、漁協以外へも反対が拡大したと伝えている。供給義務からはあり得ないことだが、私の個人経験から言えば、そのような型通りの説明を繰り返す者は、住民に対して他に語るべき材料を持たないからそうする、と感じている。SNSの原発推進派達が全く同じ恫喝を日常的に繰り返しているのを見れば、「先輩」達が同じことをしたというのは信憑性の高そうな話である。

東北電力の担当者が居丈高になってしまったのは、「こんな感じです」と福島のパンフレットでも参考に配った結果「敷地高が低い」と反論され、代替案を持ってなかったからではないか?

平井称揚はこうした不都合な話を打ち消すには最適なのだろう。

【10】10年以上神話の連呼を続けた井上リサという人生

こういった事情を見るだけでも、時代背景も考えず古い津波の伝承ばかりを重視し、手柄を東北電力関係者、更には平井個人で独占するのは不誠実ではないだろうか。

例えば郷土の昔話を交えながら、何万回も平井氏の話をしたという井上リサという人がいる。何万回も言った割に、私が東北電力の広報担当者から勧められた町田徹『電力と震災』の平井氏を取材するくだりには井上リサ氏の名前は全く出てこず、ネットでは芸達者でも、東北電力を称賛する人にさえその声が轟いていないらしい。

細かな情報を知らずとも、東北電力が公表した2011年9月の資料を読めば神話のおかしさは分かること。実に、不憫に思ったものである。

ある時、次のような話を呟いた。

2021年、これを見かけて平井氏が浜岡にも絡んでいたことは文献にも残っていると別の方に教えたところ、程なくしてブロックされた。

 

井上さんは人生の一時期を賭けてPRに勤しんだのだろうが、碌に比較衡量もせずそういう行為にふけったのは失敗だったと思う。

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中部電力も東北電力と似た様な、海洋施設研究会を設けたが、建設記録に活動内容をまとめていた。

研究経過概要は後で引用した意味を説明するので、とりあえず無視して良い。委員として平井氏の他は、運輸省の港湾研究所所長や速水頌一郎元京大防災研究所所長の名が目を引く。特に前者を通じて知見を人的に入手するルートがある。そんなもの無くても火力発電所の頃から港湾との関りが深い電力会社ではあるが、「縦割り行政で通産省の顔ばかり見ていたので港湾の防災知見は存じ上げておりませんでした」はどうやったって通じないということである。鶴岡鶴吉氏は造船ドックの専門家で、土木工事と水門(ドックゲート)には明るかったかも知れない。

『電力と震災』に記された町田徹氏の取材からすると、東北電力の海岸施設研究委員会議事録は破棄されて残っていないようである。もしそうなら、大事な話をいとも簡単に捨ててしまうということであり、これまた信用の無い行為をしていたのだなとなる。

もっとも、私自身は破棄したとは思わない。実際は社内で閲覧許可のレベル分けをするのが常であり、「お客様の側に立つように」指導されている広報担当が見れる文書の中に、海岸施設研究会の議事録は無い、という意味であると思う。また仮に破棄なり最高機密なりであっても、中部電力のように、社内で作った記録に議事概要を載せている例もある。

なお、一般論として述べるが「地元の歴史に明るくなる」のを深い教養に基づくかのように言っていた方もおられたが、今は簡単だろう。インターネット上の自治体HPや史上の有名人を記念した公式サイトなどは幾らでもあるし、現地を訪問すれば県庁所在地他、拠点駅にはパンフレットが何十種類も置いてあり、観光案内所も設置されている。テレビのチャンネルに観光案内を載せているホテルも多い。各地の原発サイト周辺で観光旅行を企画している井上さんがどのような勉強法を取っているかは知らないけども、上記のものを活用すれば、短期間で一通りのことは言えるようになる。

【11】原子力に進出する前から建屋を水密化していた中部電力との「分かれ目」

なお私が聞いたところでは、中部電力は浜岡1号機建設の時から防水扉を設置し、想定外の津波にも備えていたのだが、これもまた、平井氏の助言よりも同社の直接的な体験が影響していると思う。何故なら、1959年の伊勢湾台風では同社の設備等にも大打撃を受け、以降、火力発電所では水密扉の設置を行ったからである。

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伊勢湾台風の犠牲者は約5000人。だから1995年に阪神大震災が起こるまでは戦後大災害の例として社会科の教科書にかなり強調して載っていた記憶がある。同時代人を含め、戦後から前世紀に教育受けた世代は概略同じじゃないかと思う。そこから着想すればある程度調べた時点で、予想出来るようにもなる。先のツイート時点では、私は上記文献は見ていなかった。

ここで注意べきは、平井氏も敷地高を高く取ることには注意を払ったようだが、建設後に想定が上昇した場合や、想定外の津波が押し寄せた場合の対策までは考えが及ばず、浜岡の対策を見てもそれを取り入れようとはしなかったことである。

敷地高確保への執着が筋金入りなのであろう。何故なら、伊勢湾台風の翌年、1960年5月にはチリ津波により東北電力八戸火力発電所が浸水したためである。同社初の火力であり、平井氏が軟弱地盤対策で大型ケーソンによる基礎の方針を決め、部下の大島氏に設計を任せた案件だった(「先輩に学ぶ(その3)彌翁眞徹居士 平井弥之助先生」『過去に生きるおとこ』2003年P26)。

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上記空撮の他、防災科学研究所でも海上保安庁が保管してた写真(リンク)を公開している(「災害写真館2/2 チリ地震津波50周年」防災科学研究所、リンク)。

被災時、平井氏は副社長の初仕事として、その他の一般社員はそれぞれの持ち場で被害状況の報告を眺めつつ、復旧計画の策定等に係わっていた筈。また、電事連での各種会議や日本発送電時代の人脈等による繋がりから、伊勢湾台風対策についての情報も合わせて共有することはしていただろう。自分の作品である火力発電所が津波で浸水したら、印象には残る。

チリ地震以前の被害記録と発電所敷地の海抜、チリ地震の被害についてはネット上にも信頼出来る記録がある。先に取り上げた『験震時報第7巻第2号』(気象庁、リンク)を見ると、1929年に周辺町村が合併して発足した八戸市は登場せず、合併前の鮫村で明治三陸の際3.0m、昭和三陸で2.1mとなっており、やや北方の市川村(1955年八戸市に編入され消滅)で3.0mと記録されていた。これに対し、埋立造成したと思しき土地に作られた八戸火力発電所は、高さ6.5mH.P(八戸港平均海面水位、T.Pこと東京湾平均海面水位で5.7m)の砂堤に囲まれた灰捨場があり、この土手を辛うじて浪がこしたという(八戸市総務部庶務課長佐々木正雄「チリ地震津波 八戸市」『津波デジタルライブラリィ』)。著名な津波工学者首藤信夫は世界初の発電所被災と述べ、浸水深は50cm程度と書いている(「1960年5月24日 チリ地震津波 その2」(過去の防災に学ぶ29)『ぼうさい』2010年7月号、内閣府)。なお、八戸港内の検潮儀記録は5.8mであった(チリ地震津浪 八戸市HP)。

まとめると、発電所着工前に3m程度の津波記録は参照出来た。それをしってのことか発電所の建設では5.7mの砂堤で囲ったが、チリ津波は八戸では5.8mと大きく、50cm程度の浸水深となった。

その結果、東北電力ではドライサイト思想の堅持となり、当記事で推定もしたが、何らかの考え方により建設地点の過去記録に余裕を見込むものとなった。東北電力と中部電力が原発建設に際して見せた差は、水密化に関する知見の有無ではなく、技術思想として各社が選んだことだったのである。

上記工事誌と東北電力の公開資料を突き合わせると、浜岡の海洋施設研究会と女川の海岸施設研究会を兼任していたのは平井氏の他、本間仁東洋大教授が確認出来るが、そうそう人材がいる訳でもないので他にも兼任者はいたものと考えられる。また、先行する浜岡を見学したり、ゼネコン、土木コンサルタントとして両方に係わる方も多くいただろう。しかし、以前も書いたが、東北電力が建屋の水密化を実施したのは福島事故後である。

なお、『中部電力火力発電史』P112には「伊勢湾台風級超大型台風の襲来による名古屋市内および近郊の浸水防止対策として、昭和39年に名古屋港高潮防波堤が築堤された」とある。

東レ名古屋工場も被災したが、実施した設備対策は「名古屋港に伊勢湾台風時の高潮を考慮した防潮堤が完備するまでの間」の対応として重要箇所の周囲に防水堤、その出入口には防水扉を設置する、建物を水密化する等の対策を取っていた(「伊勢湾台風による被審と事後の対策について」『安全工学』1992年4月、リンク)。

翻って『港湾』1960年8月号を読むと、チリ津波による東北の被害状況を報じた記事の隣に名古屋港周辺の臨海工業地帯港湾計画について述べた記事があり、これから拡張・造成を進めていく、という段階での伊勢湾台風による被災だった。そのため、計画では伊勢湾台風を教訓にした高潮対策として外防波堤の築造が挙げられていた。既にある火力発電所の水密化は、東レと同じく、そうした中長期の計画に先行して実施したのだろう。

福島事故後の全国の原発でも水密化が防潮堤に先行したが、それと同じことが半世紀前に起きていたのである。東電事故訴訟における発想可能性論議の観点からは、抑えておかなければならない。

【12】自ら海抜20mの原発計画図を作成していた大島達治氏

平井氏に戻るとダメ押しとなる出来事もある。私は2018年に東北電力が津波神話をつくるためについた嘘をブログ記事で暴いたが(リンク)、その時15m以上の敷地高を主張した人もいるのではないかという疑問を示した。

場所は異なるが、同じ三陸地方の候補地点にそれはあった。先の大島達治氏当人である。

実は、大島氏は2003年に『過去に生きるおとこ』という自伝を出版し、新潟火力の建設について平井弥之助を称賛していたが、女川敷地高設定の話は出していない。一方で1977年、自身が岩手県の三陸海岸沿いに原発立地を検討した際は、敷地高を20mに設定したことが記されていた。

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「三陸沿岸に適地はないと思いますよ」との返答が面白い。三陸の定義は幾つかあるが、狭いものでも南端は金華山。女川は外れないのだが。

上記文中からK地点は釜石を暗示しているように見えるが、歴代の釜石市長に菊池という人物はいない。一方、平林祐子氏は「「原発お断り」地点と反原発運動」(『大原社会問題研究所雑誌』2013年11月号、リンク)という、過去の立地計画を一覧した論文を投稿している。それによると岩手県には3ヶ所の候補地があったがKで始まる地点は無く、時期も1975年以前とのこと。よって正確な場所は分からなかったが、海抜20m程度は誰でも考えるということである。

大島氏の他にも似た対応を迫られたことはあったらしい。岩手支店の記念誌によると、東北電力は岩手県内の将来需要を賄うため北部火力地点計画として種市町に候補を選定し、1975年から立地業務を開始したが、地元の反対運動もあって1979年に計画を中止した。

しかし、将来需要と県の要望から1979年10月より岩手県沿岸全域を候補地とし、火力電源立地可能性調査を行った。大島氏に県職員が原発立地の話を打診した2年後のことだ。調査では電源の特性から石炭火力を選定し16地点を調査したが、発電所と灰捨用地が津波の影響を受けないことを前提とせざるを得ず、海面を埋め立てる場合は津波防潮堤により遮蔽されていることが条件であった。

調査の結果、候補地はいずれも灰捨用地の確保が困難等の理由から立地は困難と結論、1980年5月に報告し了承された。その際、知事から「将来的に原子力発電所の建設が課題になれば前向きに検討したい」との言葉があったという(『東北電力30年のあゆみ 岩手支店史』1982年3月P133-136)。

火力・原子力にまたがって電源立地の模索が行われ、地形的には津波を理由に火力が中止となったことは注目に値するだろう。その条件は、典型的なドライサイトコンセプトだったのである。

それに、岩手某所の20mは女川の15mより高く、どちらも三陸のリアス式海岸地帯にある。このエピソードもまた、平井氏の価値が言われているほどではないことを示す。

震災前から伝わっている新潟火力の基礎を深くした件についても、『過去に生きる男』の「電源一生・先輩に学ぶ」という一文では建設局長の平井氏が根入を12mにせよと言ったのに対して、決定案は3m足した15mとなり、新潟地震で流動化したのは10m付近だったという。よく読めばわかる通り、平井氏は最も余裕を与えた回答ではなかった。

こうした数々の点からも、大島氏の震災後の証言には注意を要するだろう。

【13】文献から浮かび上がる平井氏の姿

震災バイアスのかかったOB達の証言以外に、平井氏の人となりを知る手段は無いのかと言えば、実はある程度浮き彫りには出来る。最後にこのことを論じよう。

本節は、訴訟関係者から見れば必要性が低いが、人物史研究の点からは基礎となるものである。まぁボーナストラックだと思って読んで欲しい。

(1)「夢の仙台湾を語る」(『港湾』1960年10月号)

東北電力の副社長だった頃にこの座談会に出席した。掲載号自体が宮城県の工業開発を特集している。この年の5月にはチリ津波が来襲し、過去の大津波ほどではないが被害を出していた。座談会で平井は塩竃港の開発提案について説明し、社内でも研究したと述べているが、津波に関しては何も語っていない。他の出席者も同様である。

前年の伊勢湾台風と合わせ、海岸保全事業が急速に進められる契機となった時期であり、チリ津波以降は、津波対策事業に関する特別措置法も成立したため「そんなことは当たり前」であり、更に屋上屋をかけるような発言は控えられたのかも知れないが、そうした事情を汲んでも、人物像を考える材料にはなるだろう。

同じ号には日本港湾コンサルタント協会理事長の鮫島茂氏が「宮城県の港湾についての所感」という記事を寄せており、塩竃について「島や岬に囲まれて中が静謐で防波堤の設備も要らない。即ち天与の条件は上々」と述べ、気仙沼湾について「口元がくびれているから津波の被害も激しくはない。即ち天与の良地形」と評価していた。これは明治三陸、昭和三陸、チリ津波等に対しては正しい評価であったが、いずれも東日本大震災では港湾と市街地に浸水を生じている。

興味深いのは、同じ号に掲載された地震学者加藤愛雄氏による「津波の跡をたづねて」という記事である。加藤氏の記事は女川町を中心にめぐり、女川港の検潮所のデータや駅まで冠水した写真を掲載したものである。験潮データからは干潮時に5.4mの津波が押し寄せたことを示しており、干満差が0.6m程度のため、これが満潮時の場合だと6m程度の想定が必要であることを示していた。

原発は女川湾の外、南側に所在し、女川港からは6.5km程の距離。「地形的にはそのまま当てはめられない」というのが専門家の見立てだろうが、『港湾』を受け取った平井氏はこの記事からも、津波に関して再認識したのではないか。まぁ、発災時の報道や浸水した八戸火力の方が印象強いだろうけども。

(2)「電力中央研究所における発電土木関係研究の動向」(『発電水力』1967年11月号)

当時電中研で行っていた研究の紹介。読んで分かることは原子力土木関係が多く、福島第一専用港湾に関するものもあった。翌年にJEAG4601の作成に関与したり、東北電力の海岸施設研究委員会に呼ばれることになったのは、こうした研究を直接担当することはなくても理事として予習していたからだろう。だが、これらの研究に津波を強く意識したものはない。だから、津波に関して問われても、一般的な東北出身技術者以上のことは言えなかったように思う。

(3)「電力界の怪物紳士録」(『政経人』1969年8月号)

『政経人』とはかつて発行されていたエネルギー業界誌である。上記は取締役クラスの人物を多数論評したもので、経歴・業績に関する記述の正確さ、および社員から聞き取らないと書けないであろう差配ぶりから、一定の批判者が内部にいたことが分かる。『エネルギーフォーラム』は『電力新報』と名乗っていた頃から社内事情に関する記事が載るが、この雑誌も同じで実質的な文責は編集部と考えて良い(昭和時代の電気新聞では広告も見かけた)。SNSで電力関係者が「匿名で」生々しい悪口や政治主張を重ねるのは、こうした文化に影響されたものだ。

その中で「前人代的な平井弥之助」として1ページ程の論評をしており、ピークは日本発送電時代から1950年代の只見川開発に「子分」を連れて乗り込んだ頃だという。大島達治氏の文章で最初に引用した「結果責任を負う事業経営のあり方」を再読すると「一番弟子を任ずる私が」とあり、確かに子分を作るタイプではありそうだ。

特に、次の人物評が興味深い。

しかし、一方では押しつけがましい判断で処理してきたのを、いかにも判断力があるように見られていたにすぎない、というきびしい見方もある。言い方は悪いが、土木や出身だから無理ないにしても、親分、子分の関係が身辺に強く、お山の大将的な性格をもっている。電力界で、いまなお、このように前近代的な在り方を好む性格に、手厳しい批難の声があがっているが(中略)土方相手の仕事では、他人の真似られない特技を持っているというわけだ。

(中略)日発出身の平井は、副社長までやったが、東北電力の連中からみれば異邦人的な存在だった。(中略)しかし、元東北電力社長の内ヶ崎贇五郎が日発出だったことをからみれば(中略)やはり、平井自身のやり方が社内の肌に合わなかった、とけ込めなかったとみる方が正しいだろう。

(中略)鼻につくほど東北なまりが強く、言葉のやりとりが不充分で、それが東北人の特色である素朴さとつながらず、むしろマイナスになった。

日発時代の仲間は新生東北電力にあまり来ず、既存の社員達とは肌に合わなかったので、新入社員を薫陶したと考えると合点がいく。

電中研理事については閉職とも書いており、その辺は文系だなとも感じるが、「現場の親方向きで近代的センスが求められる経営者のウツワではなかった」などは当たってるのだろう。「近代的センスの経営者」が福島第一をどうしたか考えてみれば、平井氏を凡庸と見るようになった私でも「適材適所はあるだろう」とは思うが、事故の半世紀前だと、先を見通せる人はそういないだろう。

こうしてみてくると「結果責任を負う事業経営のあり方」に書かれていた大島氏ではない人による逸話「平井さんは女川に金を掛ける提案ばかり強調するので退任させられた」という話もまんざら嘘ではないように見える。予め最適とした15mを、海岸施設研究会は変更出来ていないし、その顔ぶれに平井派は居なかったのだろう。ひょっとしたら、議事録を残したがらない癖を良いことに「15mでは足りないかも知れない。もっと高く」という平井氏の提案を「金がかかる」ので没にするための委員会だったのではないか。

平井氏が一体どんな「金のかかる提案」をしていたのか、是非見てみたいものだ。

(4)「所感 情報管理技術に期待するもの」(『情報管理』1969年12月号、リンク

J-stageで読める著述物。技術情報の収集に苦労しており、電算化への期待が伝わってくる。実プラントに係わる委員まで務める中、情報の入手で苦労し、「金がかかる」予防的知見に基づいた設計の根拠づけに、日々苦労していたのかも知れない。21世紀の今は、SNSに匿名の愚痴用アカウントを作り、眉を顰めるような暴言を吐く関係者の装飾品として使われるようになったが、隔世の感がある。

(4)補足 新仙台火力への「指導」

情報収集関連で当時の話を一つ検証しておこう。大島氏の「結果責任を負う事業経営のあり方」によれば、「昭和45年新仙台火力の建設にあたり、仙台新港の入口にある火力を、貞観津波に備えて標高+10mの防波堤で護れ」と平井氏が指導し、電力だけそのような護岸に出来ないので発電所本館の壁面強化でお茶を濁したそうである。

この話も他の資料で検証する。かつて仙台湾塩釜港の開発について語った平井氏であるが、その後、現在の姿の原形となる仙台新港の計画が発表されたのは1962年10月のことであり、1964年8月原案通り決定。この際に防波堤の計画も模型実験を経て定められた(『貞山・北上・東名運河事典』管理人殿による。元は『みなとを拓いた四百年-仙台湾沿岸域の歴史-』1987年8月、運輸省第二港湾建設局塩釜港工事事務所からの引用、リンク)。

新仙台火力が埋立地の一角に用地を確保したのは1960年代後半のようで、1号機は1969年に着工、1971年運開。当時の発電所は、電源開発調整審議会をパスする必要があったのだが、その予定表を見ても1969年6月の着工となっていた。発電原価(送電端円/KWH)は2円70銭。同時期の東電鹿島3・4号2円29銭、中部電力渥美2号2円25銭、福島3号2円58銭など、他の太平洋岸火力・原子力と比べても高価だった(「記録的な電源開発の背後にある問題点」『エネルギーと公害』1969年6月5日)。1号機は共通で使用する付帯施設込みであるのかも知れないが、実験の裏付けも無く、発電原価を更に押し上げる提案は受け入れられなかったのだろう。

そもそも「指導」するには遅すぎる。本当に岩沼千貫神社の件が頭から離れなかったのであれば、模型実験をしていた6~7年前に話しておくべきこと。態度が変わったのは、女川の件で勉強し、且つ1970年に刊行された吉村氏の『海の壁:三陸海岸大津波』を読んだからではないかと考える(特に、公式記録と証言の食い違いのあたり)。

1970年だと本館は着工後で敷地高の変更は不可能。そのため、防波堤の強化を提言したのだろう。それ以前に積極的な対応を取った形跡は認められない。なお、補足的に述べるなら仙台港の調査を開始した1961年度より潮位は項目に入っていたが、国が港の奥に験潮所を設置し継続的に観測を開始したのは1970年の10月である(海岸昇降検知センター、リンク)。指導も片手落ちで、発想的には建物の水密化が入っても良さそうだがその記述は無く、東日本大震災では津波で内部まで浸水した。

(5)「土木技術者と電力界について」(『発電水力』1970年9月号)

各社の土木系出身の重鎮と開いた座談会であり、今のところ平井氏の技術観を最もよく伝えている。1970年は時期的にも注目すべきだ。

まず、関西電力の吉田氏が水力から原子力に転じた技術者達が配置設計で苦労していると水を向けると、平井氏は自己の職歴として若い頃に送変電系統の勉強をしてから他に転じたこと、水力に限らずオールマイティな能力が必要であること(大意)を語り、次のように述べた。

ダムだけの熟練技術者であるなどということは、私は非常におかしな話だと思い、腹の底では軽べつしたくなります。それでは、あなた、鉄塔を設計してごらんなさいといっても、送電線路の特性が解らないので狼狽するだけです。(中略)この点は水力土木屋さんによくよく考えてもらわなくてはならないことでしょう。そこで、水力発電土木を発電土木という表現にかりにしたとしますと、原子力だって、火力だって、鉄塔でも、基礎でも、水力発電土木より拡大されることになります。もともと熟練した水力発電土木屋は火力・原子力の土木部門、送変電線路でも何でも電気事業に関連する土木技術はすべて消化できるものなのです。ただ、例えば火力発電所の運転、送変電線の特性式は起りうる現象の経験がないため、水力発電土木技術の能力をうまく適用できないに過ぎないと思います。

ですから、それで有能な発電土木技術者に火力・原子力発電に関する土木的な施設の特性とその効用を充分説明をすれば先ほど吉田さんがおっしゃったとおりに、火力・原子力発電所と附属設備のレイアウトなど、よい計画設計ができるのです。

(中略)また、現在は技術の研究陣容ならびに請負者の陣容も整備されております。このような現状において、電力側の土木技術者は両者をうまく利用して、電力側の望む土木工事を完成せしめることが、これからの水力技術者のあるべき姿だと思っているのです(後略)

※引用者注。改行を追加。

やはり原典に当たるのはよい。良くも悪くも、どういう思考で女川に接したかが分かる。要はゼネラリスト的な人物であり、それ故に津波の問題にも妥当な気配りができ、蛸壺化した専門知識が「邪魔」をしなかったということ。下手に狭い部分だけ見識があると、あれこれ理由を思いついて経済性の面から敷地高を値切る恐れはあっただろう。女川1号機の設置許可申請の「せいぜい3m」を強調する文章には、審査側に危機感を持たせぬように配慮したものであり、その残滓がある。

これに関連して引用するが、例の大島氏は、あるエッセイでエリート主義を背景とした高木仁三郎への反感を記している。

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大島氏にとり、高木氏が著した「核施設と非常事態」のような警告論文は非常に鬱陶しく、見たくないものではあっただろう。

だが、この点は平井氏の教えから逸脱したものだった。平井氏は「調査研究のためには堂々とわからぬ点は遠近を問わず、学歴などを問題とせず、当時工夫または工手と呼んでいた熟練工にも頭を下げて教えを乞うた」(『発電水力』1970年9月号P72)と述べていたからである。「エリートだから問題を起こすはずがない、悪いのはバッシングするマスコミと原子力情報資料室だ」という辺りで、馬脚を現してしまった。色々述べてるが、このエッセイを見ていると前半の部分は何でバッシングを対置するのか意味が分からないし、結局エリート主義の縛りから自由にはなれなかったのではないか。これでは平井氏といえども、草葉の陰で怒り心頭だろう。

生前、言葉が少なかった理由もこの座談会で分かった。当人による意図的なものだ。先の説明に続けてこう述べている。

私はあまり経験談は言わないことにしているのです。経験を言うと、武功談になりがちですから、発達に邪魔となります。工事が完成したときは既に次の時代に入っているのですから、やったことは成るべく忘れて新しいことを考えなければなりません。

この点も、リタイア後に自伝や著書を刊行する大島氏とは異なっている。『政経人』に「言葉のやりとりが不充分」と書かれたことを気にしての弁解だったのだろう。確かに、若手の発想を頭ごなしに削ぐような経験談の押し付けは問題だろうが、自分の仕事に関する詳細を引き継ぐ点からは、それが業務工程に組み込まれて行った原子力には全く不向きであった。もし平井氏が記録主義者であれば、海岸施設研究会の資料も確実に残っただろう。

当時、ポランニーが暗黙知の概念を提唱して3年程過ぎていたが、それが野中郁次郎によって企業経営に取り込まれるのは後年のことだ。当時、こういう人物が上層部にいることは仕方なかった面もあるだろう。

この対談はかなりボリュームがあり、色々な話をしてるが、「水力出身なので水の怖さを知っていた」というような真偽不明のそれらしい説明を、次の発言と比較すると怪しいものだと分かる。何でも津波に結び付けるべきではないだろう。

土木屋の先輩にも罪があるんですよ。ということは、火力部門に行けば出世はもうとまったと判定していたわけです。

(中略)土質を扱うのは水力電気屋の分野じゃないんだ、こう言った人がおりますよ。会議のときに。そういうのを、あなた土質学知ってますかというと何にも知らない。私は岩盤しか扱わないんです。こう言います。そういうプライドを売ることもいいけれど、しかし、少なくともダムをやる人は、あらゆる分野のことを知らないでダムに手をつけたら、これは非常におかしなものですよ。

水主火従の時代、火力に従事する土木技術者はダム技術者より軽く見られていたようだ。しかし、ダムをやってても「岩盤しか知らない」などと蛸壺化した人の場合は、水の怖さについても中々津波という形に行きつかないだろう。また、福島第一のような初期プラントでは海水を原子炉建屋に導入したことで、漏水による腐食の問題や、地下水の漏れ出しが多く井戸を掘って水を排水しなければならなくなったなどの弊害が起きているが、岩盤の上に建屋を載せさえすれば良い、と考えて土質に無頓着であったのなら、そうなることは得心できる。

中には良いことも言っており、平井氏が発電土木という言葉を提案したのが切っ掛けで対談の終盤では電力土木という単語の創造に繋がり、ダム以外の電力土木設備についても取り上げる趣旨で、『発電水力』誌は『電力土木』誌に改名され、行元の協会名も1977年に電力土木技術協会に改まった。平井氏の本当の貢献は女川ではなく、後進に対し、視野を広げるための場を提供したことにあったと考える。

2022/11/1:古文書の定義を追記。

2022/11/2:八戸火力の設計経緯について追記。

2022/11/8:伊勢湾台風について東レの対策例を追記。

2024/3/13:八戸港周辺の過去津波被害、および八戸火力発電所のチリ津波被害について追記。

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