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2021年11月 3日 (水)

原子力発電所で転倒防止・天井落下対策を取らないのは訴訟リスク

【はじめに】

原発再稼働に反対する層は今やどの世論調査でも6~7割に達し、私もその一人だが、実際には諸処の事情で再稼働してしまう原発は存在する。

政治的な働きかけ、訴訟、運動など色々行われているが、願望と現実は一致しないことの方が多い。

これまで、そのような状況下で提言されてきたことは専ら「原子炉の事故想定」や「核燃料サイクル」といった、身近でもなければ個人の手に余る話題ばかりであった。一方で所内の日常を観察すればするほど、再稼働が継続している状況で行政任せにせず、更にリスクを減らしていくための方策が必要であるように思われる。だが、インパクトに欠けるためその辺は推進派も反対派もあまり触れることは無い(取り組んでいる方もいる)。

私は、原発が再稼働した中で、実用的な提言とは何かを考え、まとめ記事を準備中である。だが、東電裁判を参考資料の一つにした事項については、読者の便を考えて単独のブログ記事にした。

この記事での主張を一言で言うと「電力会社各社は新規制基準対策で箱物を増改築してPRしているが、棚の転倒防止や事務所の天井落下防止措置は、全館に展開しておくこと、それを行わないと安全配慮義務違反などの訴訟リスクを生じる」である。

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出典:「オフィス家具類転倒防止対策」東京都防災HP 

地震に備えた安全なオフィスづくり Vol.5(JOIFA,日本オフィス家具協会)

職場の地震対策-事業所防災計画があなたを守る-(東京消防庁)

他にも多数図解あり。

その傍証として東電の例を示す。なお性質上、オフィスと呼ばれる全ての職場に通じる話である。

訴訟リスクは、下記のような記事を一瞥すれば一般的な災害でもあると分かる。高度な安全を要求され、躓きの連鎖によっては被害も巨大となる原発の場合は言わずもがな。

責任追及厳しくなる震災裁判、「天災」の免責はないと思え」『日経クロステック』2018.10.31

地震により自宅のブロック塀が倒れ、通行人に怪我を負わせた場合の責任(らい麦法律事務所)

【箱物は整備されていた福島第一の事務本館】

オフィスにおける地震対策が大々的に意識され出したのは阪神大震災の頃からである、と考える。業務用什器メーカーのイトーキは1978年宮城県沖地震の頃から取り組んでいたそうだが『セーフティオフィス―ソフト&ハード震災対策』(1995年11月)という本を出した。他、小川正明『工場の地震対策は大丈夫か』(1998年5月)なども出版された。学術面でも多くの調査がなされ、結果としてホームセンターで様々なタイプの固定器具が容易に手に入るようになった。

東電も阪神大震災から学んではいた。一例が福島第一の事務本館である。

だが、後になって検証してみると、箱物優先と言わざるを得ない。

事務本館に絞って解説した文書は見当たらないので、私が調査した範囲で歴史を概観しよう。

初代の事務本館は他の建屋と同様鹿島建設が担当したもので、1969年に竣工した。場所は、高台から10m盤に向かう、法面が特徴的な大熊通りを下り切った辺りである。

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出典:『鹿島建設月報』1969年10月P18

この初代事務本館は、後に左側に引き延ばされる形で増築した。

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出典:『東電設計30年のあゆみ』1991年7月P88よりトリミング

中央の、一部が原子炉建屋に隠れた低層の建物が初代事務本館。まだ鉄塔もあり、法面に黒い影が落ちている。東電のFacebook投稿に70mの送電用鉄塔重量が77tとあるので、送電線を支える必要のない通信用途の60mでもかなりの重量だろう(【超高圧送電線工事②】2014年10月29日)。

屋上から白い連絡橋が背面(北側)に伸びているが、これは10m盤よりは少し高い場所に建設された厚生棟(右の白い、真ん中に塔屋がある建物。1980年6月竣工、当初は1Fに大食堂があった)への渡り廊下である。その後、高台には研修棟も建設され、1995年3月に竣工。

初代事務本館をよく見ると鹿島建設月報の写真より左に横長となり、更にその左側に建物が新築されている。これらの増築は1980年代と推定。

なお、白赤に塗装されているのは1・2号機排気筒、事務本館に最も近いのが1号機原子炉建屋である。

政府事故調中間報告資料編の「福島第一原子力発電所1号機から4号機 配置図」では左に新築された建物を総合情報棟と記載。東電は1980年代に総合機械化と銘打ち全業務に計算機を導入したが、所内メインフレーム等を置いたものと推定。

もう一枚写真を引用する。原子炉建屋の爆発時、爆風で窓ガラスが飛散した(福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成 24 年 6 月版)資料一覧 東京電力P49-50)。距離の近さも相俟って、屋外と変わらぬ汚染に晒されたため放棄され、所内を訪問する際は、遺構として案内を受けるようになり、比較的近くから撮影される機会が増えたのである。

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出典「放射線量は依然高く_津波や水素爆発の爪痕」『毎日新聞』2016年2月12日旧事務本館

佐藤栄佐久『福島原発の真実』(平凡社新書、2011年6月)P230によると、1~4号機の原子炉建屋は海を象徴したモザイク塗装に改められたが、初代事務本館ものそれに合わせたのか、水色系塗装に変わっている。

「がんばろう福島」のトラックがいる辺りから左側が建て増しされた部分。また、左端と中央部には近年ビルやマンションでよく追設される、耐震補強の鉄骨ブレース(筋交い状の肌色の部材)が入れられていたことが分かる。屋上にあった高さ60mのマイクロ波通信鉄塔は撤去されている(重量物の除去も耐震余裕を増す常套手段)。

写真を引用はしないが2011年3月24日に日本エアフォトサービスが撮影した高解像度の空撮、2011年12月に東電が公開した734枚の空撮写真(いずれも多くの報道で引用された)、2008年10月に撮影された構内写真(『Gigazine』記事等)などから、耐震補強は事故前に実施したものであると分かる。

なお、政府事故調中間報告資料編の「福島第一原子力発電所1号機から4号機 配置図」では旧事務本館のことを事務本館別館と記載。

だが、初代事務本館に代わる新事務本館が2001年7月に竣工した。

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出典:「写真⑤.事務本館の外観」『中間報告 資料編』政府事故調

位置関係は次のようになり、海抜はより高い。

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出典:「1)事故はどのようにして起きたのか」『1.福島第一原子力発電所の事故の概要』東京電力HP

2代目に改築した理由を明記した文書は見たことが無いが、阪神大震災の教訓の一つが「1981年新耐震基準以前のビルでは倒壊率が高い」ことだった。初代事務本館は10m盤に建っているので岩盤に近く、全体的な揺れは高台に比べれば小さくなる傾向だが、当時問題となっていたことは阪神大震災と同じ揺れが原発を襲ったら、ということだった。そうした命題だと掘り下げた場所での減衰は考慮しないことになるので、耐震補強するか、新築するかを迫られ、両方を選択したものと考える。

場所が初代事務本館に近い高台エリアなのは、業務上の利便性(初代事務本館に加え厚生棟や研修棟に近い)とP.P.(警備)上同じ防護エリアに配置する都合だろう。防護対象のエリアは柵で外周を囲うからだ(参考、『エネルギーレビュー』1996年5月P20)。

1980年代の訓練では緊急時対策所は適当な会議室に立て看板を持ってくる程度だったが、以前の記事で詳説したように、阪神大震災での関電の経験を踏まえ、本格的なテレビ会議施設を備えることが要求されるなど、オフィスとしても手狭になっていたのだろう。

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出典:『ふくいちメール』No.62 2001年8月

新事務本館の緊急時対策設備は会議室に据えられたので、式典などの行事にも使われたようだ。『共生と共進 福島第一原子力発電所45年のあゆみ』P32にはそうした写真が掲載されている。

その後、2007年7月の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発の事務本館に設置した緊急時対策所の扉が歪んで開かなくなるトラブルがあった。その教訓から、2代目事務本館の隣接地に免震重要棟の建設が決定し、2010年に完成した。下記の写真のように緊急時対策所も改めて設置された。

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出典:『福島原子力事故調査報告書』東京電力 2012年6月20日P58(いわゆる東電事故調最終報告)

左奥に見えているのは2代目事務本館と思われる。

なお、廃炉が始まってから2016年に新築されたものは少なくとも3代目。以降はそれが新事務本館と呼ばれている(「第1原発の新事務本館公開 東電、廃炉作業の拠点に」『産経新聞』2016年9月30日 隣接の建物を事務棟にしていたとあるのでそれを数えれば4代目。事故対応については変遷が輻輳しているので、他にもあるかもしれない)。

場所は、かつてサービスホールと呼ばれた見学施設の辺りにあり、海岸からずっと内陸側である。

【転倒防止、天井落下対策は置き去りか】

このような設備投資を行う一方で、棚の固定は等閑だったようだ。事務エリアの写真はあまり多くないが、以下のピアレビューを自賛する社報記事に写真がある。時期から初代事務本館と思われるが、棚を観察すると固定金具らしきものを見ることはできない(勿論見えない位置で固定する可能性はあるが、通常は最上部且つ両端ではないか)。

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出典:『とうでん』2000年12月号

さて、ここまで設備を概観したが、福島事故後、東電は次のように揺れを描写した。

・ 11 日 14:46,地震発生。揺れは段々と大きくなっていった。事務本館では,各部署のマネージャーなどがメンバーに対して机の下に隠れるよう指示。各自,現場作業用のヘルメットをかぶるなどして,身の安全を確保した。
(中略)

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・ 揺れは長く続いた。天井のパネルは落下,棚は倒れて物が散乱,机は大きく動き,机の下に閉じこめられる人もいた。揺れが収まってから,閉じこめられた人を救出し,避難場所の免震重要棟脇の駐車場に移動した。1 週間程前に避難訓練を行ったばかりで,各自が避難通路,避難場所を把握していた。

福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成 24 年 6 月版)資料一覧 東京電力 P1

・ サービス建屋屋上で運転員が津波の状況を監視する中,11 日 16:55,DDFPの設置されているタービン建屋地下階の消火系(以下,FP)ポンプ室へ運転員が確認に向かった。現場へ向かう途中,タービン建屋 1 階の廊下には地震や津波の影響で工具棚が倒れ,所々に海水が溜まっており,通行出来ない状況であった。それらを避けながらなんとか原子炉建屋の二重扉付近まで行ったところで,サービス建屋屋上で津波監視を行っていた運転員から,繋いだままにしていた PHS にて,津波が来るとの情報が入り,一旦引き返した。

福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成 24 年 6 月版)資料一覧  東京電力 P37-38

同じ様な記述は他にもあるが省略する。政府事故調中間報告資料によれば、写真は2階総務部執務室とのこと。

少し拘るが、共同通信社原発事故取材班『全電源喪失の記憶』(新潮文庫、2018年3月)P26には吉田昌郎所長の視点から「ロッカーやキャビネットには転倒防止措置が講じられていたが、中の書類は散乱」と記載されてる。確かに所長室から外に出ると総務部のエリアだが、門田隆将『死の淵を見た男』(PHP研究所、2012年11月)P25では「ロッカーは倒れ」とあり、上記東電の記述でも倒れている。門田氏の政治的バイアスは私も以前指摘したが、この記述にその動機があるようには思われない。

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出典:「写真④.2階技術総括部執務室内」『中間報告 資料編』政府事故調

また、政府事故調の技術総括部の写真を見ると、棚が倒れた跡が明瞭に分かる。

福島第一は落下や転倒の影響で、怪我人も出した。

外に出てみると、思いのほか寒い。防寒着を羽織ってきて良かった。1週間前の訓練通り、所員たちは免震棟前の駐車場に集まっていた。
(中略)
寒空の下、言葉を交わす所員の数はあっという間に400人、500人と膨れ上がっていった。駐車場のアスファルトは地震の影響で波打ち、陥没しているところもあった。集合した所員の中には、落下物に当たったのか頭から血を流している者、ショックで震えている者、恐怖で泣いている女性もいた。

「第一章 3・11」『全電源喪失の記憶』共同通信社原発事故取材班 新潮文庫 2018年3月1日P29

その後、東電株主訴訟にて、(事務本館ではないが)棚が倒れたことでタービン建屋などへのアクセスが困難となった点が争いとなり、被告側は第28準備書面のP10にて東電の記述を引用し、事前の対策が不可能だった証拠として引用した。

それに対して、元原子力プラント設計者の渡辺敦雄氏は意見書を提出し、次のように反論した。

(2)棚の締結・固定すらしてなかった可能性がある
(中略)東京電力は転倒防止処置を知らなかったわけではなく、全館で展開しておけばよかった。棚の締結・固定などは一般のオフィス・事業所でも耐震対策としてよくおこなわれていることであり、金具類も容易に入手できる。東京電力は公式発表で地震時の棚の管理状況を明らかにしていないが、一般的な地震対策についても通常期待される管理(原子力施設に要求される高度なものでは無く、一般防災のレベル)すら放擲していたのである。

渡辺敦雄『東京電力株主代表訴訟における結果回避可能性に関する意見書』2019年3月14日

インフラ関係では復旧の記録を公開することがある。企業の姿勢を示すうえで大切なのは言うまでもないが、最初から固定しておけば訴訟で指摘されるようなことは起きない。冒頭で啓蒙書をダメ押しに引用したが、2000年代の感覚から言えば常識だろう。

【柏崎刈羽の被災時には明記され、福島第二は水平展開】

不思議で仕方ないのは2009年、電気協会から『その時、仲間たちは 中越沖地震・柏崎刈羽原発被災の真実』という本を出版しており、同書には前の節で述べた所員の自宅被害の他、キャビネット転倒から天井化粧板落下まで一通りの言及があり、啓発は特に重点的に行われていたことである。

P4849

引用箇所の記述と写真から、転倒防止対策を行っていたら変圧器の火災にも早く駆けつけることが出来たことが分かる。

福島第一は僅か4年前の自社教訓を生かさなかった。上記意見書では中越沖の例まで言及はしていないものの、原子力発電所とは思えない瑕疵を指摘することで、反論に加え、管理者としての防災意識も問うている。

比較して違和感を感じるのは、福島第二の事務本館ではこのような事態は起きていないことだ。

増田尚弘は(中略)震災当時は第二原発の所長として勤務していた。(中略)その日、所長室から離れた技術総括部で打ち合わせを行っていた。

(中略)増田は思わず身をかがめた。(中略)次の瞬間、建物全体が大きく揺れ始めた。
「地震が来たら机の下に隠れなさい」
子供の頃から言われてきた言葉が頭に浮かんだが、実際に入ったことなど一度もない。しかし、今回はまずいぞと思い、辺りを見回した。揺れは驚くほど大きく、長時間続いた。近くの部屋からは女性社員の悲鳴も聞こえてくる。すぐ前にあった机の下にもぐり込んだ。

(中略)中越沖地震の教訓からキャビネットなどはしっかり固定されていた。扉が開いて中のものが飛び出すということはあったが、ほとんど倒れていない。また、天井が崩れることもなかった。

「第一章 緊迫の四日間」『福島第二原発の奇跡』高嶋哲夫 PHP 2016年3月18日P26-27,P37-38

同書冒頭に言明されているが、著者の高嶋氏は原発推進派である。そのことを以って本書を価値がないかのように論評する人がいるが、こうした聞き書きがスタンスに影響されるとは到底考えられない。福島第二では棚の固定は行われていたので、一部しか倒れなかったのである。

余談だが、増田所長の描写からは学べることが色々ある。以前の振る舞いは褒められるようなものでは無かったが、学校の防災教育は言うことを聞かない生徒にも影響を与えていることである。こうした人はよくいるだろうから、気を付けた方が良い。

福島第二の場合、天井落下の報告も見当たらなかった。耐震天井をPRしていた桐井製作所の導入事例を見ると、2008年に福島第二原子力発電所で実施した旨の記述がある(後で一括して掲載)。柏崎刈羽の事務本館は1985年前後の築で、福島第二より数年新しく、1981年の新耐震基準を満たしいていたにもかかわらず大被害を被った。復旧に当たり、東電は柏崎刈羽で耐震天井を導入しており、その水平展開が福島第二の事務本館まで及んだのではないかと考える。

やや込み入った専門的な話となるが、 現状入手した情報から福島第二事務本館の耐震性についても考察する。

福島第二原発が組織として発足したのは1982年4月で1号機の営業運転開始と機を一にしている。同年6月24日には竣工式(『福島第二原子力発電所のあゆみ』2008年10月P84)。『原子力ふくしま』1982年7月号は当時の第二原発を内覧した記事があり、事務本館は竣工していた。

新耐震基準とは1981年6月1日以降に建築確認の通知書を受けている建物となる(昭和56年(1981年)以降の新耐震基準とは?旧耐震基準との違いについても解説

1年で設計を改めるのはかなりスケジュールタイトなので、第二の事務本館は旧耐震で建築された可能性もゼロではない。一般建築と見なした場合はそのように考える。

しかし、当時の原子力施設は実際にはワンランク上の耐震分類を「検討用」として掲げ、設計側も原子力関連施設の範疇に、事務建屋なども含めていた(『原子力発電所の耐震設計の考え方』武藤研究室 1983年3月P20,22-23)。武藤研究室は鹿島建設を通じてBWR陣営との関りが深い。福島第二の事務本館もこの考え方に倣っていたとすれば、建築基準法相当のCクラスではなく、Bクラス相当の耐震性を持たせて建設されたとも考えられ、その安全余裕が結果として1981年新耐震基準の建築物以上の耐震性能を持たせた可能性はある。

事務本館そのものの耐震性は電力会社も詳しく解説する機会が少ない。だが、常時多数の所員が勤務しているため、人命上からはその扱いについて丁寧な情報開示が必要となるだろう。

なお、他社の状況だが、女川原発の舞台裏を取材した町田徹『電力と震災』(日経BP 2014年2月)P29によると、東北電力の火力発電所の事務室でも棚が倒れていたそうで、やはりインフラ企業としてその点は甘かった。

一方で北陸電力志賀原発の中央制御室や中部電力浜岡原発の5号機では2008年には耐震天井を導入した。志賀原発は2007年能登半島地震で自動停止を経験し、浜岡は以前から原発訴訟でも大問題となり耐震強化で他のプラントより先取りしていたという背景があった。

20072008

出典:天井の耐震対策>導入事例(桐井製作所HP)より2007-2008年頃を抜粋

福島第一の2代目事務本館が措置されていなかったのは、建築が中途半端に新しかったことによると思われる。天井の落下とその対策に関する研究記事は、2001年より前から投稿されているが、電力会社への納入が多い桐井製作所の導入事例は2006年以降であり、実用化が遅れたことが窺える。なお、初代事務本館の内部写真は見つからなかったので、内部をどこまで改装したのたかは不明。

当時の社内マニュアル(防災業務計画)では、緊急時対策本部の要員は免震重要棟に入るが、その他の所員は一旦屋外の避難場所に集合することになっていた(『福島第二原発の奇跡』P48)。そういう人の動きを見る限り、やはり固定は全館に展開すべき施策だろう。なお、2013年以降は国交省の動向もあり、桐井製作所以外にも多数のゼネコン等が天井耐震化を売り込んでいるのは、以前取り上げた記事に書いた通り。

東日本大震災以降も大きな地震が全国で続発しているが、対策をサボるなどして事務室で同じ様な被害を繰り返し、社員が死傷したら、安全配慮義務を問われ訴訟リスクとなる。また、その人が欠けることで原子炉の事故復旧も遅れるなどの悪影響にもつながりかねない。死亡者が出なかったとしても、ただ揺れが来ただけで通常の執務は不可能となってしまうし(危ないから当面入室不可なんて話になる)、所員への心理的打撃も大きい。しかし、転倒防止、天井落下対策を実施しておけば、これらの影響緩和にも益するところ大である。建築物の耐震改修に比較すれば遥かに容易であり、自宅の次に過ごす時間が長い場所でもある。だから、抜かってはならないのである。

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