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2019年8月17日 (土)

【本音は】木村俊雄氏の文春記事に書かれた「炉心専門家」を嘲笑する人達【只の嫉妬】

木村俊雄氏が文芸春秋2019年9月号に投稿した記事を巡って、ネットではちょっとした騒動になっている。

この騒動については色々思う所があるが、今回は外形的な部分、つまり記事タイトルの「炉心専門家」という肩書への嘲笑を論じる。なお、公平を期すために述べると、私自身は炉心に限らず「原発の専門家」ではない。

まず、IWJに限らずメディアは関心を持ったところに取材に行くのであって、只の取材動画を「繋がり」と呼ぶのは違和感がある。裏を返せば自分のところには取材に来なかったという、単なる嫉妬ではないだろうか。この人の場合、答えは簡単で、炉心どころか原発に勤務した経験すらないからだろう。だから、推進派を含めて、取材される価値が全く無い。

「炉心専門家」は法定された国家資格ではないが、明らかに原発内での職能を分かり易く示しただけのことである。

詳しい知識を持っているかどうか以前に、ああいった巨大インフラ・巨大組織は役割分担があり、原発に勤務していたから何でも知っているだろうというのは間違いである。

似たようなことは以前もあった。推進派に嫌われてる小野俊一氏だが、IWJが取材に来た時、東電時代の職能をどうとでも取れる何でも屋のように表現されてしまい(正解は2Fで保修屋→本店で計画課勤務)、困惑していた動画を見たことがある。

当ブログでもよく引用するコロラド先生こと牧田寛氏はHBOL連載記事のタイトルを命名するのは編集者だと言っている。今回もそれらと同じパターンだろう。

それから、木村氏が311の分析記事を書けるのは不思議でも何でもない。原子炉の基本的な仕組み、水位や炉心流量の計測方法は変わっていなかったのだから、辞めた人の体験が議論に役立つのは当たり前のことである。例えば、流量の計測方式は差圧式を採用しているが、2000年代、超音波式に変更しようという構想が進められていた(「超音波流量計の導入で, 日本でも原子炉出力向上は可能か?」『日本原子力学会誌』2007年1月)。他、中性子のゆらぎから流量計測しようとする試みもあった(「中性子ゆらぎ信号を用いた炉心流量計測技術の開発」『日本原子力学会誌』1997年9月)。これらを東電が実適用していれば、彼の経験談は通用しなかったかも知れない。

次に、木村氏の経歴にある「原子炉設計」が福島第一の完成後だからおかしいと噛み付いている人がいる。別におかしいとは思わない。福島第一原発は約40年運転したのだが、その間運転方法(起動・停止の方法)や燃料は何度か変更されている。細かい話だから一般向けに言わないだけで、学会誌や専門誌を調べるだけでもその一端は把握出来る。例えば10年程前に『原子力発電が分かる本』という入門書を書いた榎本聰明氏は、80年代まで盛んにその手の論文を投稿していた(炉心設計の取りまとめ役だったんでしょう)。311の数年前に書かれた原子力工学科学生のインターンからも「すぐに終わる様な仕事じゃなさそう」位のことは誰でも分かる(「テプコシステムズ滞在記」『日本原子力学会誌』2007年1月)。

森雪 (TwitterID:@Premordia)さんは、原発プラントメーカーの社員と思しき人物である。炉心に限った話ではないが、メーカーだけが技術者を抱えている訳ではなく、ユーザーの立場で物を考える技術者達はどこにでもいますよね。完成した原発にも「原子炉設計」の仕事があり、物によっては論文の種になるのは、常識だと思うのだが。

これも大間違い。まず、携帯電話販売店に対する蔑視感情が垣間見える。そして、「原子炉に燃料を装荷して運転計画を立てる行為」の性格を一言で言うと、色々な工学的要素が絡みあい、手間暇がかかっているので、(梱包された)一般の荷物とは違う。原発は莫大な電力を取り出せるからその手間暇のコストを無視出来ていたのであって、そうでなければとても割に合わない仕事である(現在では他の発電方式に比べてもコストは高いという見方が一般的になったが)。

よく「原発はお湯を沸かしているだけ」と簡単に説明する人達がいるが、その伝で行けばあらゆる職業は簡単に表現できることにいい加減気付いてはどうだろうか。パン屋は小麦を焼いてるだけ、電車は車輪を転がしてるだけ、火力発電所はやはりお湯を沸かしてるだけだが、どれも一人で維持出来る代物ではないし、速成も不可能。それを本気にするのは、全てが中途半端で何の仕事も出来ない人か、自分だけが尊い仕事をしていると信じ込んでいる、他者に対する想像力の欠けた無敵君の類だろう。

そういう感覚を持たないで知識も無い人間が人の肩書を小馬鹿にする。業界人が悪乗りする。こっちから見ていると笑うしかない。そのような反応自体が、(原発に限らず)技術と組織に依存した産業に不向きな人材であることを示しているからだ。

こんな連中がデカい顔をして闊歩してれば国が傾くのは当たり前である。牧田氏は日本の原子力業界は五大核大国に比べれば猿のようなものだと嘲笑しているが、確かに反反原発の反知性振り、猿頭振りを見ると、反対派が存在しなかったとしても原子力立国は到底無理だろう。

 

学歴差別は問題外。実は、例の東電柏崎で炉主任をしていたへぼ担当が(ある意味)心底嫌っていたのが学歴差別だったのだが。

現場感覚に欠ける学者は腹一杯。実はこれもへぼ担当がしばしば表明していたこと。このバカ者のような言動に右顧左眄されることなく、実務家は自由に物を言っていけばよい。一日8時間授業で電気工学の実務を叩きこまれた東電学園OB/OGの方が、御用学者よりは実のあるコメントをしてくれそうだ。

1時間でなれるそうだが、もちろん間違い。木村氏は東電時代に柏崎刈羽の起動試験要員も経験している。起動試験と言うのは、原発の建設が終わった後に実施し、ソフト屋の言葉で言えば結合テストや総合テストのようなもので、数ヶ月は続く大規模な内容である。

そして、原子力学会誌に掲載されたインタビューによれば、起動試験要員は訓練プログラム無しの場合、10年の経験を経て一人前となる専門技術職である(「原子力発電所の新規建設は, 今後, 有能な系統試験技術者と起動試験技術者を必要とするが, 十分な人員が確保できるのか」『原子力学会誌』2006年12月)。

原発反対派の側についた専門家が同じ専門家集団たる推進派を馬鹿にしているのは、利益相反体質、組織病理、職員倫理の荒廃の果てに事故が起きたことを指しているのであって、1時間の講習で炉心の専門家が養成できると信じている訳ではない。

たかだか文春記事についた肩書一つでこのような蔑視感情が発露されるのは、結局は世間的に名の通った企業・団体の構成員およびかつてそうであった者に対する嫉妬だろう。私もある部分ではへぼ担当と同じ思考パターンの持ち主なので、見ていて殺意が沸いてくる。見苦しいのですぐ止めて欲しいと思います。

当時の所内報を読むと、木村俊雄氏は1983年度入社で双葉町出身、そのまま福島第一の発電部に配属された。発電部とは、中央操作室で運転員が所属する部署だ。同期の配属には姉川尚史(現:東電原子力技監、フェロー)氏が人事課に配属されているのが興味深い。ま、単なる巡りあわせと言えばそれまでだが、こんなことも嫉妬を増幅させる要因になりそうだ。

そう。これは擁護に値しない。事故直後から彼は実名で活動しており、今回とほぼ同様の記事を投稿している(「地震動による福島第一1号機の配管漏えいを考える」『科学』2013年11月)。

時系列滅茶苦茶。放射能で認知でも歪んでるのかね。御愁傷様。

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