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2018年5月24日 (木)

【同時着工】東海第二と福島6号、難燃ケーブル採用で格差【IEEE Std 383】

1975年3月のブラウンズフェリー1号機火災事故の時点で、難燃性ケーブルの米国規格であるIEEE Std 383-1974が制定されており、米国の電線メーカーが製品化していたことは前回のブログ記事で紹介した。2013年以降、東海第二原発は火災防護問題で揺れている。建設時に、採用することは出来なかったのだろうか。

今回は当時のいきさつを再検証してみた。特に福島第一6号機と比較すると、非常に興味深い事実が明らかになった。

結論はシンプルで、「技術的にもコスト的にも工程的にも難燃性ケーブルの採用は可能で、内部告発による社会への警鐘もされていたが、不採用にした」という、どうしようもない失敗であることが分かった。

勿論、「一度布設してから引き換えていれば」という事ではなく、上流工程での決断が、違いを生んだという意味である。

それから40年後、ケーブルが経年を迎えているのに、一部しか交換しないと主張しているのが日本原電という企業である。これは最早「体質」と言っても良いのではないか。

以下、様々な史料に光を当てながら、論じて行こう。検証性を高めているので、実務寄りだが、専門誌記事並に長くなったことをお断りしておく。

【同時に計画した福島第一6号機では採用(しかも国産)】

私がこの事に気付いたのは、難燃ケーブルの採用状況を調べるために、ケーブルメーカー各社の社史を確認したためだ。

また、不勉強を痛感して日本の原発技術史を見直していたことも役に立った。言い方を変えると、推進派にせよ反対派にせよ、過去の話に関しては結構雑に書いているからである。特に概説本、啓蒙本は個別のプラントの来歴を調べる際、あまり役に立たない。

その一方、各プラント固有のリスクは、プラントを問わず共通に存在するリスクと共に、ある。

東海第二原発が福島第一と同じ沸騰水型(BWR)であることはよく知られている。だが、東海第二と福島第一6号機については、それ以上の共通点がある。BWRも開発された年代によって幾つかに分類出来るのだが、この2基はその詳細な形式も同じで、BWR-5というタイプに属している。

BWR-5はロングセラーで、新しいものでは2005年の東北電東通1号機がある。ロングセラーの飛行機や艦船がそうであるように、初期に建設したものと最後に建設されたものでは、マイナーチェンジの範疇に括って良いか疑問に思われるほどの変更があるのが常だ。しかし、東海第二と福島第一6号機を比べると完全な同世代である。

その理由は、東海第二を建設する際、導入コストを安価にするため、日本原電が東電に共同での導入を持ちかけたからである。そのあたりの経緯は東電から日本原電社長に転じた白澤富一郎の証言(例えば『さだめに棹さして : 電力六十年回顧録』)に詳しい。

だが、福島第一6号機は難燃性ケーブルを採用していた。実は、この事自体は311後、最初にケーブル問題を報じた新聞記事(「原発10基超 防火に不備」『毎日新聞』2013年1月1日)を確認しても分かることだった。この記事には「可燃性ケーブルを使った原発一覧表」が載っているが、福島第一6号機は含まれていないのだ(小川仙月氏講演PDFの49枚目にも転載)。

しかし、導入時の事情を知っていなければ、その意味に気付くことは困難だ。また、毎日新聞の問合せと同時期に公表された経済産業省の資料では、区分けの仕方が違っていることも誤読に拍車をかけた(虹屋弦巻さんが収録しているこちらの表。浜岡1,2号機は廃炉で除外されているが、福島第一1-4号機は爆発後も残ったまま。また、1977年の安全設計審査指針から着色している)。

というわけで、今回はそのいきさつを確認していく。

後述するIEEE 383-1974制定の前の、基本設計段階でのことだが、GETSCO極東支配人モーリス・D・ルート、日本GE社支配人コス・スフィカスは座談会で設計体制を次のように述べているのは興味深い(余談だが読者諸氏にとっても、GE関係者が仕事としてコメントしている姿を目にするのは非常に珍しいであろう)。仕様でも両者の差異が生じる余地は確かにあったと分かる。

ルート 今回、東海第二と福島6号の2つ注文をいただいて、まず第一に標準化という点で、エバスコやGEのデザインワークで、たとえばコントロールスケマティックとか、ワイヤリングデザインについては十分経済性が得られたと思うのです。しかし、ハードウェアについては、多少問題がありました。またこの2基を別々のサイトにおいたということで、必ずしも2基同時発注のメリットを完全に発揮できなかったということもあります。

ハードウェア標準化の問題につきましては、日本の場合アメリカと情況が違って、エバスコとGEが1人ずつのエンジニアを東芝のためにも、日立のためにも割り当てなければならなかったという問題もあります。今後総合的な経済性の追求については、やはり売り手も買い手も使用者も、どうやったら一番アドバンテージが得られるかと、一層検討してみる必要があるんではないかと思います。

(中略)今回のデザインワーク関係につきましては、エバスコ、GEではまず完全な一つのデザインを設計して、もう一つについてはそれをフォローしてつくるという方法をとったので、いわゆるエデュケーションという意味で、メリットがあったのではないかと思っています。ただしこれは金銭的なものでなく時間的なものですが。

(中略)

スフィカス
 別に、原電さんと東電さんが一緒になってやったことで、問題がたくさんあったとは思いません。原電さんはいくつかの点について、東電さんと違った意見をもっておられましたが、それほどの問題ではありませんでした。

一方、原電さん東電さんGEと三者の意見が違ったときは、どうしても三者が合意しなければなりませんでしたが、原電さんがいろいろ有効なサジェスチョンをしてくださって、原電さんと東電さんが最終的に意見が一致するということもありました。そういった面では、原電さんはGEをむしろHELPしてくださったと思っています。

新春座談会 東海第二発電所着工にあたって 」『日本原子力発電社報』1973年1月

ここで、耳慣れないテクニカルタームについて説明しておこう。コントロールスケマティックとは展開接続図とも訳され、機能・システムを表現した電気回路図面である。ワイヤリングデザインとは、スケマティックより下流工程の、実体的な電気配線図。使用するケーブルの電気的な機能からの選定も必要になってくる。例えば、ある計装にシールド線を使うかどうか等の判断などである(「第2編1.システム計画と表現法」『シーケンス制御用語辞典』電気書院 1983年6月)。

なお、難燃性にするかどうかは、スケマティクやワイヤリングデザインではなく、より上流の電気工事の仕様策定段階で決めるのが一般的ではないかと思われる。

福島第一6号機はGEが設計を請け負ったが、日本国内で出来る仕事は東芝が請け負った。よって、東芝グループ系の電線メーカー、昭和電線がケーブル納入の主体となった。社史には次のように書かれている。

一方、1965年(昭和40年)、アメリカのピーチボトム原子力発電所建設中に起こったケーブル火災事例から、アメリカのメーカは難燃性ケーブルの開発及びその評価方法の提示を行うとともにその使用を推進した。このような背景のもとに、東京電力(株)福島第一原子力発電所6号機用ケーブルでは、アメリカのプラントメーカであるGE社から、IEEE383,323規格(いずれも1974年制定)に規定されているような、従来と異なる耐環境性と難燃性をもった信頼性の高いケーブルの開発が要求された。当社は東京芝浦電気(株)の協力により、約40種類の各種原子力用ケーブルを開発し、東京電力(株)の型式試験に合格して49年から53年(注:1974年から78年)の間に約1500kmのケーブルを納入した。

これらのケーブルに対する要求性能としては、ケーブルが燃焼源となり火災の伝播をしないことおよび機器の腐食と人命の危険防止などを考え有毒ガスまたは煙の発生が少ないことなどであった。また、ケーブルの構造上の特徴は、ケーブルを構成する絶縁体(EPゴム、架橋ポリエチレン)およびシース(クロロブレン、ビニル)のみならず、ジュート介在およびゴム引布抑えテープなどを難燃化し、さらにシース用ビニルは燃焼時の腐食性塩化水素ガス発生量を一般用ビニルの約3分の1としたノンコローシブルビニルとしたことなどである。これらのケーブルは、プラントの設計寿命40年間における通常運転時の性能と設計想定事故(冷却材喪失事故LOCA条件)に対する性能および万一の火災時にケーブルが延焼しない難燃性能を有する非常に高度なもので、BWR型、PWR型の両型式の原子力発電所において想定されるいかなる条件下においても、充分に性能を維持することが可能となり、現在の原子力発電所用ケーブルの基礎となっている。

この福島6号機の成果は、その後のBWR型のみならず、PWR型原子力発電所向けのケーブル納入実績となって結実し、さらに、これら原子力プラント用ケーブルの技術は一般のケーブル技術の向上にも役立ち、その応用は多岐にわたっている。たとえば、難燃化技術を応用して、火力発電所や製鉄所などの一般プラント用の低圧から高電圧に至る各種の難燃性ケーブルを開発し、数多くの使用例があるのを考えてみても、その意義は非常に大きい。

「第8章4 原子力・防災用ケーブルの開発」『昭和電線電纜50年史』1986年5月 P202

前回記事で紹介したように、東海第二のケーブル総延長は大体1500㎞と伝えられている。したがって、昭和電線は東海第二と構成の同じプラントに対して1社でほぼ全てのケーブルを納入したことになる。そして、後述のように福島第一6号機にケーブルを納入していたのは昭和電線だけではなかった。

なお、東京電力は福島第一6号機を建設した際、BWR-5を自社の標準化プラントにすると決めていた(『電気新聞』1979年10月25日1面)。実際、この後BWR-5は柏崎刈羽原発5号機まで10基に渡って建設され続けた。

【IEEE Std 383-1974制定と日本の規制への取り込み】

今更だが、原子力の世界でいう「難燃性ケーブル」とは何だろうか。

ネットで「難燃性ケーブル」を検索すると様々な製品のカタログがヒットするが、実際は鉄道用とか、消防法に基づく一般防災用(「耐火ケーブル」と言ってるのは大抵これだ)など、業界ごとに法規制があり、売られているケーブルも用途が決まっている。

原子力発電所で使用する難燃性ケーブルの定義は『発電用原子力設備に関する技術基準を定める省令の解釈について』という経済産業省の文書があり、311までは既設プラントは「延焼防止剤を塗布したケーブルがIEEE 383 (国内ではIEEE 383の国内版である電気学会技術報告(II部)第139号の垂直トレイ試験に合格していること)と書かれていた。

IEEE Std 383は歴史的には1974年版が有名である。内容を簡単に説明すると、試験対象のケーブルを何条か垂直に立てたトレイに布設した状態で下の方をバーナーであぶり、上の方に燃え広がっていく様子を20分観察する。基本的にはトレイのケーブルが全焼しないで火が消えていれば難燃性と認められる。なお、現在は2015年版が発行されている。

この規格はその他にもLOCA条件という基準があり、炉心溶融時の原発内部を模擬して放射線や高温の蒸気に一定の時間晒しても通電可能な性能を維持していることが要求される(この条件は、今回の記事では余り関わらない)。

以下、「原子力発電所用ケーブル開発の現状」(『日本原子力学会誌』1978年1月)も参考にしつつ、IEEE Std 383-1974制定から80年代頃までに日本の規制へ火災防護策の取り込みが完了するまでの時系列を示す。

  • 1974年4月:IEEE 323および383-1974が制定される
  • 1975年3月:ブラウンズフェリー1号機火災事故
  • 1975年12月:「発電所用原子炉施設に関する技術基準を定める省令」を改正し、原子炉施設内でのケーブルの延焼防止のため不燃または耐熱材料の使用を定める。
  • 1977年:安全設計審査指針の指針6に明記
  • 1978年11月:東海第二発電所運開
  • 1979年10月:福島第一6号機運開
  • 1980年:原子力安全委員会「発電用軽水型原子炉施設の火災防護に関する審査指針」を決定
  • 1986年:日本電気協会JEAG4607「火災防護指針」策定

一つ補足すると、上記原子力学会論文では、東京電力は福島第一3,4,5号機にてケーブル類の技術仕様書はIEEE Std 383-1974に準拠と記されているが、難燃性ケーブルを大量に用いているという意味ではないだろう。これらのプラントは『昭和電線電纜50年史』他の記述によれば、非難燃ケーブルを布設して完成している。実際には東海第二と同じく、1977年秋の5号機を皮切りに、延焼防止剤の塗布と一部ケーブルの難燃性への更新が実施された。

なお、延焼防止剤は1972年頃から一般に普及が始まったとされている(「有・無機の延焼防止塗料 住友電工」『電気新聞』1975年6月4日5面 に経緯記載)。

海外で最初に運転を開始したBWR-5は1984年の米ラサール原発1号機である。新設プラントへの難燃ケーブル適用はアメリカでも当たり前となっていた時期だ。

つまり、東海第二はBWR-5の中で唯一非難燃性ケーブルが大量に布設されたプラントと考えられる。

【元々、東海第二と福島第一6号機の建設スケジュールは同時期だった】

上記のような事実に対して、少し事情に詳しい読者は次のような疑問を抱くと思う。

東海第二の運転開始は1978年11月に対して、福島第一6号機の運転開始は1979年10月である。従って1年後に建設された福島第一6号機が難燃性ケーブルを採用出来、東海第二が採用出来なかったのは、寸手の差ではあっても、自然なのではないか。

私もそうだった。だから、この記事は最初、「何故火災問題の深刻さを受け止めず、東電とおなじ1979年まで延期しなかったのか」と問題提起するつもりだった(後でこの問題も扱うが)。

しかし、原発のような土木工事が常に予定通りに進行するものだろうか。

そういった観点から、もう一度最初から工程を見直してみよう。非常に興味深い事実が明らかになる。

まず、計画段階では東海第二と福島第一6号機は同時期の着工、運転開始を想定していた。

具体的に言うと、着工の前までの工程は完全に同一だった。原発は着工の前に基本設計を国(原子力委員会)に提出して設置許可を得なければならなかった。この設置許可は1971年12月に揃って提出された。その後、国側も設計に共通点が多いことから審査を同時に進め、1972年12月に揃って設置許可を答申した。

ネットですぐに過去記事が読める『原子力委員会月報』では雰囲気は分からないが、設置許可申請も下記のような感じだったのである。

昭和46年12月17日、電源開発調整審議会において東海第二発電所は、東電福島原子力発電所6号機増設とともに建設計画が決定され、これに基き同年12月21日両発電所は、内閣総理大臣あてに設置許可申請書を提出しました。

内閣総理大臣から諮問をうけた原子力委員会は下部機関である安全審査会に審査を委託し、昭和47年1月10日第98回原子炉安全専門審査会で、東海第二発電所を第84部会、福島6号機を第85部会で検討するとともに、両発電所は同型の原子炉であるため、炉関係については合同で審査をすることが決定されました。また両部会は通商産業省原子力発電顧問会と合同で審査を行なうことも決定されました。

(中略)11月7日第107回原子力安全専門審査会において福島6号機、伊方原子力発電所(四国電力)とならんで東海第二発電所の最終報告書がまとめられ「安全は十分確保される」との結論が出されました。

(中略)昭和47年12月23日正式に東海第二発電所の設置許可がおりました。

東海第二発電所設置許可おりる 」『日本原子力発電社報』1973年1月

日本原電が設置許可を得た1972年12月に作成した社内文書『東海第二発電所設備概要』「1.序」によると、この時点で着工は1972年、運転開始は1976年末を予定していた。

一方、福島第一6号機の場合、運転開始は1976年秋ごろを予定しており、東海第二よりも早期の運転開始を計画していた(「東電、GEと調印 福島原発主要機器の建設で」『日刊工業新聞』1972年12月16日11面)。

実際は設計遅延からどちらも着工が1973年春に遅れたが、その差は東海第二が4月、福島第一6号機が5月と僅か1ヶ月だったことが、両社のウェブサイトにある概要の情報からも分かる。

更に、初期には東海第二の工程の方が後になるように計画されていたとの証言もある。

東電は1990年代に部長~取締役級でリタイアした幹部達の回顧談をまとめた『東電自分史』というシリーズを刊行している(当時『電気情報』誌でPRするなど力を入れていたのだが、311後もライターや研究者からは、内容が些末だと思われたのか知らないがずっと無視され続けた)。

6号タービンはすでにSITEに納入されて長期保管の状態にありましたが、その後GEで設計変更により、最終段翼(L-0)最終段1段前の翼(L-1)を植え替える事になり新製品を送ってきまして、東芝の工場で植え替え工事を実施することになりました。

東海2号のタービンも条件は同じでしたが、東海2号の建設工程は最初F-6より半年遅れであったため、GEの工場ですでに植え替えが終わった後日本に送られてきていましたので、この件は解決済みでした。

中村良市「原子力発電開発の道程(2)」『東電自分史第V集』P65

なお契約について補足しておくと、電力各社とプラントメーカーが結んだ契約は、設計変更・追加(即ち仕様の変更・追加でもある)、見積価格条件などの細部を変更するため、数度に渡り変更されている。その中には東電が先行して変更契約した内容を、原電が参照して後追いの形で変更していたパターンもある(「第2章第3節 工事契約」『東海第二発電所の建設』日本原子力発電 1984年3月)。

後述のように、1974年まで、ほぼ同一の運開予定という状態は続いた。

【東電は6号機着工後に開発された難燃ケーブルを採用した】

このようにして両プラントは工事に入ったが、興味深いのは、IEEE 383-1974が発行されて間もない時期に、東電が福島第一6号機に採用を決め、昭和電線もその意向を受けてケーブル開発を進めていた事実が同社の技報で報告されていることだ(「原子力プラント用難燃ケーブルの開発」『昭和電線電纜レビュー』1974年12月 No3 P51)。

一般に、この時代の設置許可申請ではケーブルの仕様について細かく記載はしていない。設置許可申請は基本設計に相当し、詳細設計作業は工事が開始されてからも続く。よって、この当時、ケーブル仕様は詳細設計段階で決定することだったのだろう。だから東電は、着工後の1974年にIEEE規格が発行されても、難燃ケーブルを採用出来たのだ。

参考に、同時代の実務書からケーブル工事の手順を示す。

Nppplandesignconstruction_1979_p515

徳光岩夫「第4・29図 ケーブル工事の手順例」『原子力発電所の計画設計・建設工事』1979年P515

準拠規格の決定は上図の①④に相当する。⑤⑥のケーブル表のことを東海第二ではCCL(Cable Condit List)と呼んでいたようだ(この他布線表,Cable Wiring Listという呼び方もある)。日立自身は「ケーブルの手配、ケーブルトレー、ケーブルシャフト(ケーブル束が垂直移動するための床貫通部)、コンジット、ケーブル貫通部等の経路、布設量の適否の判定、ケーブル布設等電気工事の基本」と説明している(「第3章工程の更改 4 電気計装工事」『東海第二発電所建設記録 第3編 建設工事総論』P144)。

原子力機器というと、有名な平井憲夫氏の講演禄にあるような、「枯れた技術ばかり採用し、新技術が入らない」という批判がある。推進側も「実績と信頼性」をPRしたい時には枯れていることを売りにする。だが、福島第一6号機のケーブルについてはそうしたイメージに反していた。昭和電線が自主開発出来た理由は、74年中に規格が要求する試験設備(いわゆる垂直トレイ燃焼試験の設備)を工場に設けていたことも大きいだろう。

なお、日本の電線メーカーは難燃ケーブルの製品化で遅れていたことを前回記事で説明したが、ケーブルメーカー各社の社史を読むと、この時期になっても、米英の電線メーカーの技術を模倣する段階を脱していなかったことが分かる。

東電も難燃化には比較的積極性を見せ、1975年に社内基準を定めている(「電線路の難燃防火対策と動向」『電気学会研究会資料』電線・ケーブル研究会 1991年3月P6)。後年の津波問題で見せた問題先送りの姿勢とはかなり違った印象を受ける。

コラム
福島第一6号機がケーブルのIEEE規格対応を出来た理由はその外形的性質にもあると考える。

  • 地上建築物に使用するので、長さ当たりの質量が変わっても、航空機などに比べるとデリケートな管理が不要である
  • 難燃化とは材質を難燃性に変える事を意味しており、特に布設されるケーブルの主力である制御・計装ケーブルにとっては電流容量が多少変化したところで、元々mAオーダーの電流しか流しておらず、ケーブルの仕様の100分の1以下であることも珍しくはないため、設計条件が極端に厳しいということが無い
  • 仕上外径(被覆を含めた見かけの太さ)も殆ど変らない

なお、東海第二の日本側サブコントラクターだった日立も、日立電線が1974年中に試験設備を設け、難燃ケーブルの製品開発に着手している(『日高工場史』 日立電線 1979年)。

だが、発注者の日本原電にはこのような動きの形跡が全く見られない。

【6号機の難燃ケーブルを採用後、両プラントの建設工程が引き伸ばされた】

更に不思議なのは、IEEE 383-1974制定後、建設工程の大幅な引き伸ばしという「チャンス」があったのに活用しなかったことである。

着工前の運転開始予定は上述したが、着工が遅れたため、1974年時点では両プラントとも、既に工程を引き直していた。

東海第二の場合、電気新聞などにもコメントしていた運開予定は契約工程で1977年8月、日立の目標として1977年5月であった(「第1章 概要」『東海第二発電所建設記録 第3編 建設工事総論』P111、他)。

福島第一6号機の場合、運開予定は1977年10月であった(「原子力時代の躍動 東電、主役電源へ脱皮」『電気新聞』1974年8月15日4-5面)。

つまり、着工から1年経過しても、両プラントの運開予定は殆ど同じだった。

しかし1975年1~2月に再度引き直された工程により、両プラントには大きな差が付いた。

工程延長の理由は主としてオイルショック以降の総需要抑制策による急激な景況の悪化、電力需要の伸びの鈍化にあったが、東電・原電共にGE側分担の詳細設計の遅延や、プラントの狭隘さによる機器や配管の干渉等の修正個所を大量に抱え、工事も当初の予定に比べて大きく後れを出し、輸入機器などの納入も遅延していた。

かなり端折った形になるが、その様子を引用してみよう。まずはプラント全体工程の延期について。

東海第二発電所建設工事における前半のヤマ場は、75年2月、原電日立のトップ会談による工程更改に対する合意であったと考えている。オイルショック、EBASCO設計の大幅遅延等目標工程の遂行が不可能視され始めた74年春から約1年間、工程問題は揺れ続けた。

(中略)

我々がEBASCOの配管計画および応力解析の遅延を知らされたのは、73年9月28日のEBASCOエンジニアリング工程会議の席上であった。(中略)EBASCOオリジナルスケジュールに対し5.5~9.5ヶ月、原電の要求に対しても3.5~7.5ヶ月遅れるという状態で(中略)原電側もことの重大性を認め、直ちに、EBASCOに工程改善の要求を出し、10月5日その結果の説明があった。すなわちEBASCOに対しては、次のような要請を行った。
(1)人を米国内で集めて増強すること
(2)必要なら日本から応援を出す
(3)残業をすること
これに対して(1)はすでに遅すぎるとして(2)の必要はないが、(3)に対しては直ちに実行すると言ってきた。また、原電最高幹部からGEの最高幹部に働きかけるとともに、福島6号より実質的に東海第二を先行させるよう要請し、さらに原電から人を出し常駐させて督促する等の具体策を実行することにした。

(中略)

(74年)12月に入り(中略)東電の福島4号の運開14ヶ月繰り延べの正式申し入れがあった。

(中略)75年2月19日、原電吉岡常務(当時)と日立綿森常務(当時)のトップ会談が行われることになり、この機会を逃しては当分工程変更の突破口はないと考え(中略)打ち合わせにのぞんだ。以下、2月19日の会談内容を要約すれば資料のとおりである

資料

吉岡常務より
NT-2(注:東海第二を指す略号)の運開は77年5月15日を目標で努力してきたが(注:この時点で当初計画の76年末より半年遅延している)困難となった。(中略)原電としては納期を遅らせないことが絶対条件であり社運を賭している。

(中略)
日立側(ワ)より
日立としてギリギリは78.6.1運開の線である。しかしこれではあまりにも遅れすぎて原電の意志に沿わないと思われるので、さらに努力してみたい。一応の目標として77年末運開とし、これに向かっていかにしたら達成できるかよく検討してみたい。

「第3章 工程の更改」『東海第二発電所建設記録 第3編 建設工事総論』1978年11月

結局、日立の要求は受け入れられ、この時点で77年末運開が目標となった。しかし実際にはさらに一年ほど遅れることとなった。

東海第二の建設記録から分かることは、73年秋には東海第二を優先することがGEに要請されたこと、ケーブルの発注遅延は問題ではなかったことである。なお、GEからの回答はこの部分の記述に無い。中村良市氏が書いていた半年遅れからの挽回となると、随分な急変振りだ。

東電についても再び中村良市氏を引用しよう。

②工期の延長
需給の落ち込みにより、電源建設工事は軒並み工期を繰り延べる事になりました。忘れもしませんが正月15日(昭和50年1月15日)突然電源計画課長から呼び出しがあり5、4および6号を1年ないし1.5年工期を延長してもらいたいという事を通告され、その理由をるる説明されました。工程表を明日までに提出せよということになりその晩は徹夜で工程表を作る羽目になりました。その時決めた運開日がその後実際に運開した日であります。

(中略)6号機はPCVの据付が完了した段階ですが、大部分の機器は現場に到着しており、また、タービンなどGEよりの輸入機器も多く1年以上どうやって完璧な状態にして保管するか大問題になりました。

6号機建屋の近くに大々的な保管倉庫を作りGEの指導のもとに綿密な保管体制にはいりました。

工期延長はいろいろな事態を起こしましたが、一方、この頃から発生したSCCに対する対策、改造を実施することができた事など、良い面も多々ありました。また6号機は設計の遅れを取り戻すことができ、(中略)その後の安定運転に寄与することが出来たとおもっております。

中村良市「原子力発電開発の道程(2)」『東電自分史第V集』P63

東電は原電よりも更に工程を遅らせ、75年1月時点で79年の運開を予定していたことが分かる。正直ベースの工程と言えよう。

難燃ケーブル採用の観点から見ても、延期は都合が良かった筈である。プラントメーカーはCCL作成を腰を落ち着けて行うことが出来るようになるし、ケーブルメーカーはその間に量産体制を整えれば良いからだ。

そもそも、時系列を比較すれば分かるように、福島第一6号機より早期に運転開始を計画していたとしても、難燃ケーブルを購入出来ない当てが無かったとは言えないだろう。

【GEによる東海第二CCL作成遅延】

上記のような工程の元、電気配線設計の要、CCLはどうだったのだろうか。

本プラントでは、EBASCOがCCLを作成したのであるが、これが大幅におくれ、最終的に実際に使用できるCCLは当初の予定より2年も遅れてしまった。このため工事工程が大幅にずれ、RPV(注:原子炉圧力容器)耐圧前の突貫工事となり、さらに耐圧後にも大量の作業が持ち越され異常状態となった。図-18にCCL入手の変遷と、それに伴う工事計画の変遷を示す。以下本図に沿って具体的に述べる。(中略)

Nt2construction_record_no3p144fig18

(2) CCL入手の督促
CCLの入手の督促は. 原電を通し再三行ってきたが、'74年8月取水口行ケーブルのCCLが発行された以外は、大幅に遅れる状況となった。唯一の取水口行ケーブルのCCLも問題が多く、実用できぬものであった。'74年8月原電からEBASCOに対しCCL入手促進を行った結果、
a) NT-2のCCLはコンピューターで自動作成する。
b) EBASCOのCCL発行期日は、
  受電関係ケーブル'74年12月末
  他ケープル'75年3月末
であることが判明した。
'74年初めにCCLの早期入手を要請しておきながら8月に至り6-9か月も遅れとなったのである。この理由としては、EBASCOIこCombinationStructure構造に対する実績経験がないため、電気関係配置の基本的問題で設計変更が続発し、電気計画全般が影響を受けたのも一因であろうと推測される(注:電源室などが狭隘でレイアウトや布設ルートを見直した)。しかし、この時点でCCLの大幅遅延を大問題として原電トップまで上げなかったのは、我々の認識の甘かったこととして反省させられる。

(中略)最終的に実用可能までに仕上げたのは76年6月末である。

この処理に当たり、EBASCOはLiaison Engineerを1名サイトに常駐させた。

原電は、'75年12月に4名、'76年1月以降1名(一部パート)が本件の処理に当たられ、日立は'75年12月から'76年6月末までに、原電と合同で行ったチェックのみで、約700人日を投入した。

結局、当初のCCL入手要求期日から2年遅れて実用可能なCCLを得たことになった。

「第3章工程の更改 4 電気計装工事」『東海第二発電所建設記録 第3編 建設工事総論』1978年11月P144-146

1974年4月の規格発行時に難燃化を決定出来なかった原因はこれだろう。図がまざまざと設計者達の時間を空費したことを示している。当時はすぐケーブル製作にかかりたかったにも拘わらず、GEがCCLの納期と設計品質を守れず、日程関係の情報も散発的にしか流れて来なかったのである。また、日立も設計変更に電気技術者のリソースが割かれ、線種の更新には尻込みしたのだろう。

なお、先の昭和電線によると納入したケーブルは約40種とのことである。日立も難燃化対象の線種を一覧化し「CVの3芯はFR-CVの3芯に書き換え」といった読み替え表を作った上で、CCLを順次更新出来た筈である。図面管理上は線種の書き換えだけなので比較的単純な作業であり、如何に発電所の規模が大きいとはいえ、設計補助者をICC(茨城コピーサービス)辺りから動員すれば、1ヶ月程度の短期で可能だったのではないか。

【日立電線難燃ケーブル開発の状況】

運開延期という千載一遇のチャンスが巡ってきた1975年から76年にかけて、日立のケーブル開発・製品化の状況はどうだったのだろうか。

東海第二関連の資料は非売品を含めてプロの技術史研究者並に調査したのだが、難燃性ケーブルへの変更を検討したという記述すら見つからなかった。昭和電線の場合はGEからの要求があったとも言及されているが、それに相当する記述も無い。

311後に起こされた東海第二訴訟の準備書面(50)「東海第二原発のケーブルの老朽化問題について」では次のような説明をしている。

論文「原子力発電所用のケーブル開発」(「日立評論」1976年3月号)では、「近年、アメリカではプラント火災の経験から、グループとしてのケーブルの難燃性、特に火災を伝搬させないことについての要求が高まってきた」、「原子力発電所の設計上想定される事故の一つとしての冷却材喪失事故に対しても安全確保上の重要項目にケーブルが取り上げられ、品質認定の基準化の検討が行われてきた」としながらも、「我が国では、この新しい規格に従い、確実に試験を実施した例はまだない」としていた。

私は原告には入っていないが、興味深い点に注目していると思う。日立電線の言う「確実に試験をした例」とは、自社の試験設備ではなく、米国認定機関での試験を指している。

一言で言えば、随分控えめなPRという印象を受ける。

なお、『日高工場史』によれば、日立は東海第二と同年に運転を開始した浜岡2号機にも(一部だが)IEEE 383-1974準拠の難燃性ケーブルを納入していた。1975年12月なのでかなり早い。

また『日立評論』の記事から半年後、日立電線は原研と共同開発した制御系ケーブルを、米フランクリン研究所に送って火災・LOCA時の試験を依頼し合格した。「電線価格との問題はあるものの」今後は本ケーブルが使用されるものと期待している旨を当時の記事は伝えている(「冷却材喪失事故時試験 米民間試験に合格 日立電線 原発用600Vケーブル」『電気新聞』1976年10月13日5面)。

そう、日立電線も制御ケーブルを開発したが、高価になったというのだ。これが、PRを控えめにした理由の一つなのかも知れない。

恐らく、昭和電線のケーブルが米国認定機関の試験を受ける前から、東電の採用を前提に製品化されたことを考えると、『日立評論』の記述はLOCA条件の厳密さを意識した、差別化策であったように思われる。

なお、東電が70年代半ばに採用した難燃性ケーブルは、昭和電線のものだけではなかった。藤倉電線も1976年に東電の形式認定を受け、福島第一6号機用に難燃ケーブルを納入している(『フジクラ100年の歩み』1987年P145-146)。このように見てくると、少なくとも難燃性については、米国の認定機関の試験にパスするよりも、まずは電力会社の認定をパスことの方が大事であったようにも読める。

よって、東海第二に難燃性ケーブルを採用したければ、日立電線製ケーブルの製品化が遅れていたとしても、日本原電なりGEが鶴の一声で海外を含めた他社製のケーブルを買わせればよかっただけである。

【日本原電が難燃ケーブルを採用しなかった理由】

改めてまとめよう。一般論としては、次のような理由を候補として思い付くだろう。

  1. メーカーに電線の開発能力が無かった。
  2. 工期が延びる可能性があった。
  3. コストアップを嫌った。
  4. 火災対策にかける信念が東電より不足していた。

以下、これら4つの仮説の正否を検討してみる。

【1】

これまで述べた理由から否定出来る。

ただし、日立電線については、生産技術に難があった可能性がある。『東海第二発電所建設記録 第3編』「第13章 電気計装」によると、次のような製造不良があったからである。

1976年11月初旬ごろCCNケープル(架橋ポリエチレン絶縁クロロプレンシース制御ケープル) の一部に、心線の絶縁体同士が粘着を生じているものがあると判明、その後の調査で、 絶縁厚などに規格外れのものが発見きれるなどがあったため最終的には粘着の発生したケープルは全数交換した。

原因はCCNケーブルの製造法にあり、PCV内に使用するケーブルについては,型式テストおよびLOCA時のテストを行うこととなっており その条件は低温加硫(100℃x 8時間加硫)方式でこれらのテストを行い承認されていた。ところが実際の製造では、低温加硫で8時間も行うより中混加硫なら160℃X5分で済むとの判断から無断で中温加硫としてしまい、粘着を生じた。

このような品質事故を起こしたにも拘らず、翌年『電気と工事』1977年8月号では懇意にしている大学教授が難燃化などの防災技術に関心を持っていることを知って日高工場を訪問した際は、技術開発の成果のみをPRし、「企業が失敗に遭遇した時どう向き合うか」という視点は皆無だった。

Denkitokoji197708p71

日立電線自身が編纂した『日高工場史』にも当事故は記載がないが、このような行為は、疑うことを知らない傲岸な技術者を生むことになる(研究家目線では、記念史を利用する醍醐味はこういう所にあるとも言えるが)。

【2】

これまでに述べた内容で否定出来る。色々書いたが、最も重要な要因は東電が採用を決めたのは工期を延長する前だったこと。その時点で両プラントの運開予定は殆ど変わらなかったこと、工期はケーブル以外の要因で伸ばされた性格がより強いことである。特に日本原電より1年遅く変えられた東電はそうだろう。

なお、東海第二にて、延焼防止剤の塗布は1977年7月~11月に施工された。ただし、難燃ケーブルを布設していた場合は、塗布が必要な範囲は大幅に減少し、5ヶ月も要さなかったと思われる。つまり、CCLの更新とケーブル製作に時間を要したとしても、延焼防止剤塗布の工程が短縮されることで、ある程度は取り返せた筈だ。

コラム
産業用のケーブルを(海外)調達した経験から述べると、まとめ買いで半年かかることは今でも珍しくない。当時の技術書には布設の3ヶ月前には発注すべきと書かれている(徳光岩夫『原子力発電所の計画設計・建設工事』 電気書院 1979年P520)。『東海第二発電所建設記録 第3編』P145によれば8ヶ月である。

逆に、余り前に発注して保管することも好ましくない。10年以上前の話になるが、ある通信ケーブルを買い置きして3年後に使用していいか聞いたところ、先輩の技術者に「腐って特性が悪くなっているからダメだ」と言われたことがある。そういう意味からすると、建屋がほぼ出来上がってきた段階でケーブルを発注すればいいのだから、それまでに製品化出来れば良いということになる。

【3】

次の記述から否定出来る。

難燃性ケーブルとしては、従来よりシリコンゴムやその他フッ素系樹脂を用いたケーブルなどがあるが、これらは耐熱性であり、かつ難燃性が高い反面、経済的には高価であることから所内ケーブルすべてに対して採用するには適していない。このことからわれわれは絶縁体としてUL規格、CSA規格の難燃性試験に合格する難燃架橋PEおよび難燃EPゴムを用い、シース材料としては燃焼時に発生するHCLを少なくし、かつ難燃性を高めたノンコローシブPVCを使用したケーブルを開発し、各種難燃性試験を行ない良い結果を得た。

(中略)この種の電線は経済性の点でも特に不利益がないことから難燃性を要求する一般分野の利用にも最適なものである。

「原子力プラント用難燃ケーブルの開発」『昭和電線電纜レビュー』1974年12月 No3 P62

昭和電線は1974年時点で新開発した難燃ケーブルはコストで問題が無い旨を述べている。上述の、1976年『電気新聞』記事の日立製制御ケーブルとは対照的だ。

ただし、一般論として、日本原電がコストを非常に気にしていたことは当時の社報からも読み取れる。そのような思考(気分)から安全性について大した考慮もせずに不採用にした可能性は否定しない。

原子力発電所の建設についてお金の面でもう一つ重要なことは建設期間が長いということです。「金は天下の廻りもの」といわれるとおり、回転してくれないことにはどうにもなりません。この点原子力発電所の建設は資金を寝かせるということでも右総代といえるでしょう。具体的な一例を東海第二についてあげてみましょう。

東海第二の工事費1880億円のうち1460億円はこれ全て借金です。仮に運開が一ヵ月遅れるとしますと、その頃は全ての支払がほぼ終わっていますから、年利8%で計算しても1460億円X8%X1/12で約10億の金利が余計にかかります。しかもここで大切なことはその分に見合う電気料金がその時に入ってこないということです。逆に運開していれば、運開直後ということで利用率50%としても1100MWX97%X24HX30日X50%で月4億KWHの電気を売ることが出来ます。5円/KWHとしても20億円です。金利との出入りだけでも差引一ヵ月30億円もの違いが生じてきます。ですから建設期間を「一日でも短くしてほしい」というのが私達資金調達に携わる者の願望です。

経理部経理課「東海第二発電所工事資金調達にあたって 」『日本原子力発電社報』1975年9月P6

また、日立電線が供給できない場合、他社製ケーブルを調達するといった手段は、供給出来ないメーカーにとっては失注である。その意味では、日立に対する発注維持が難燃化より優先された可能性はある。

その仮説を補強する証拠として、オイルショック以降は総需要抑制により、原発メーカーも電線メーカーも青息吐息であったことが挙げられる。前者の事情は「苦難の原発メーカー 運開延期で操業悪化」(『電気新聞』1975年5月23日4面)、後者の事情は「切実さ増す電線業界 不況脱出、秋か来春」(『電気新聞』1975年6月23日3面)といった記事や各社の社史で確認出来る。

なお、当ブログ記事「初期BWRターンキー契約の本当の問題点~原電敦賀1号契約を中心に~(2)」で触れた通り、ケーブル難燃化が焦眉となる10年前の1967年に和訳された『米国における電力設備の建設工事』では「他の製造者からの構成部品がターンキー契約によって製造され、購買されたものよりも望ましいことがある。」と予見されている。東海第二はターンキー契約ではないが、以前のプラント建設での契約文の特徴を随所に引き継いでいることは原電自身が認めている。

つまり、企業系列に拘り過ぎることの弊害は、とっくに指摘されていた。

【4】

これについては疑いなく断定できる。本物の熱意があれば、まだ上流工程段階だった1974年中にケーブルの変更を決断すれば良いだけだ。また、その結果として仮に工期が延びてしまうとしても、本物の熱意とは毎月10億円の追い銭よりも、例えば武谷三男が『原子力発電』(岩波新書、1976年2月)で白日の下に晒した『大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算』(国家予算に匹敵するオーダー)を天秤にかけるような態度を指すからである。

なお、工期が延びたとしても、金利を除けば半年までは問題は生じない。1970年代末の予備率はさほど高くはなかったが、電事連によれば、9電力会社合計で夏季最大電力が冬季電力を上回るようになったのは1968年以降のことである。従って、現実的なネックは1979年のピーク需要に間に合わせることであるから、運開が1978年11月から半年程度遅延しても夏には間に合ったということだ(よく運開前の発電量を当てにすることがあるが、試運転は停止リスクがあり、本当の意味で当てになる戦力とは言えない)。

運開延期による供給予備不安を払拭出来ないのであれば、工期再設定時、オイルショックで繰り延べされたLNG火力の建設を再開して調整すれば良かっただけのことだ。

【小括-40年後にふり返って-】

建設から40年近い時が過ぎ、日本原電は東海第二の再稼動に当たって、コストの増加を嫌ってケーブルその他で様々な対策費を削っている。その度合いは外部電源などにも見られるように、同業他社に比べても激しい内容である。原発を維持したいと考える人達も、「延焼防止剤や防火シートがあるから大丈夫」などと奇妙な屁理屈(それで大丈夫なら難燃性ケーブルの開発自体がそもそも不要になる)を振り回したりしないで、原電が40年前と同じ愚行を繰り返そうとしている事実を直視してはどうだろうか。

【一般社会からの批判も無視】

このような工程変更を経て、1975年12月、東海第二はいよいよケーブル布設の準備を完了し、電気室・6.9kV受電関係を皮切りに、当初計画の6ヶ月を遥かに上回る、1年半以上の期間をかけて布設を行った。

その間、日本原電は1976年頃、国内のインシデントと一般社会からの警告も無視している。

ケチのつき始めは、大きなレベルで言えば、むつ事故以来高まっていた推進と規制の分離に即座に対応出来ず、原子力安全委員会の設置でお茶を濁してしまったこと。1月の国会でも共産不破氏から性急な開発への批判があったが、三木首相は規制強化を約束するのみで、内閣自体も秋に降ろされてしまった。

具体的なレベルの言及となると、今では原発批判の古典となった『原子力戦争』とこれまでの出来事が対比出来る。

「『展望』連載のドキュメント・ノベル、面白く拝見いたしました。ところで、(注:1976年)四月上旬の夕刻、東京電力福島第一原子力発電所二号炉で起きた火災事故のことをご存知でしょうか。正確に申し上げますと、初旬とは、二日、午後七時半頃。場所は、二号炉建屋内の(中略)メタクラと呼んでいる電気室。メタクラには何本もの太い電気ケーブルがあるのですが、燃えたのは直径10センチのケーブル三本で、中に約一五百本の導線が走っているのです。この火災は五十本の消火器で消しとめられ、その後、三交替による二十四時間突貫作業での修理がおこなわれ、終了するまでに四日間かかっています。もちろん会社は火災事故のことは秘密裏に処理し、消防署への連絡も禁じました。

この処理の方法は、”公開”の原則に反するのはもちろん、日本の原子力産業の発展のためにもはなはだ感心できません。何でも秘密にしてしまう姿勢が、国民の疑惑をなおのことエスカレートさせ、原発開発をいっそう遅滞させる原因になるに違いないからです。それ以上に、私がこの事故を看過できないのは、去年、一九七五年三月二十二日に、世界最大の規模を誇るアメリカのブラウンズ・フェリーの原子力発電所で、やはりケーブル火災が起こり、(中略)防火対策がまるでなされていないことを露呈したものでした。」

「美浜一号炉燃料棒事故の疑惑 田原総一朗の報告」『原子力戦争』ちくま文庫版 P310

このくだりは小説仕立てではなく、完全なドキュメントとして書かれている。田原氏に告発の手紙が届いたのは4月21日だったが、5月12日には毎日新聞その他で「ボヤだった」として(渋々)公表されている。

『原子力戦争』を読んだことがある人は分かると思うが、原発批判の他に、味方陣営同士・告発者とジャーナリズム間での疑心暗鬼が随所に描かれている。田原氏もこの事故よりも題名の通り、美浜の事故の方に関心を向けてしまい、その評価は軽いものだった。

40年経って東海第二に関する記録と時系列を合わせることで、この告発の価値が浮かび上がる。『原子力戦争』は1976年6月に刊行されたが、例え東電が同業他社に情報隠しをしていたとしても、この事故が世間一般レベルでも問題視されたことを原電も日立もGEの日本支社も皆、知り得たということだ。何故なら反対運動の動向を監視する目的もあり、こういった原発批判本は会社として(総務・企画部が)必ず購入するものだからである。新聞報道のスクラップも同様だ(普通はファイルするし、私は、東電がスクラップしたファイルの現物を目にしたこともある)。個人的に関心を持って購入した社員達もいるだろう。

にもかかわらず、原電は東電に追従すらせず、東海第二のケーブル仕様を変更しなかった。理由は『東海第二発電所建設記録』「第4編第13章電気計装」に掲載の工程と比較すればはっきりしている。上述のように、既に布設工事に入っていたからである。特に1976年8月以降、1年余りの間、全系統で布設の華僑を迎えていた。今更世論を気にして線種を変更・再手配する余裕は無かった、といったところだろう。

このチャンスをフイにしたことが、告発者の警告通り、その後の原電の隠蔽体質・ケーブル問題に大きく影響していることは2018年の今、改めて指摘すべきことだろう。古い資料を活用したければ、このように工夫を加えれば良い。

【採られるべきだった対策とは】

とは言え、原電や日立だけを責めれば済む、という訳でもない。

【早期に、正直ベースの工程を報告する】

設計の遅延という内部的な要因には、GEの納期遅れ、設計品質の低下が係わっていることが多く指摘されている。日本側文献が情報源の大半を占めているからかもしれないが、中村良市氏は過去のGEと比較してもレベルが低下していると嘆きを残している。

一般論として、そういう状況が主要アクターのどこかに発生することは避けられない。従って、そういう状況に陥った場合には、プロジェクト完遂(この場合運開)までの、正直ベースの見通しと課題を早期に立てるべきだろう。そうすれば、他のアクターもその予定を前提に策を講じていく。福島第一6号機はそれを行ったおかげで、ケーブルに限らず、様々な設計の見直し・改善を盛り込めたとされる。

一方『東海第二発電所建設記録』を読むと、IEEE 383-1974が制定された時期、納期遅れの情報は小出しとなっていた。

【共同研究する】
電力会社は1970年代より重要な技術課題は会社の枠を超えて関連メーカーにも呼びかけ、『電力共通研究』(略称:共研)として取り組む習慣があった。過去に実施された共研のリストはネットで公開されていないようだが、年に1つか2つしか取り上げない、という類のものではなかったと記憶している。

しかし、現状で1970年代にケーブルの難燃化が共研にリストアップされたという情報は入手出来なかった。あれば、電力の建設記録や電線メーカー各社の社史に記述される筈だが、規格対応は各社ばらばらに動いている。後に電気学会が研究会を作ったが、報告が発表されるようになったのは1970年代末で、そこでの知見が福島第一6号機向けケーブルに間に合ったかは怪しい。

この様なやり方は資本主義的には正しいのだろうが、重大な事故に直結する安全技術の導入には不適当な手法である。もし共研の対象にしていれば、より互換性の高い標準ケーブルを複数のメーカーで生産することで、二重三重の開発コスト負担を避けることが出来たと考える。そういった開発方法は国鉄や電電公社など、官公需系ではしばしば見られるものだ。ケーブルメーカー各社の社史を読んでいても、他分野ではあった。

『財界地獄耳』(東京スポーツ新聞社 1981年3月)では日立製作所の苦境について、『週刊東洋経済』1980年新春特大号を参考にしながら解説している。それによると、日立・東芝共原子力部門の収益は長らく赤字で、1980年頃に漸く期間損益で黒字に転換したのだという(勿論、本書が出る前からメーカーの損益に関する情報は業界紙でも断片的には示されていた)。私は原子力部門ではないとは言え、メーカー側技術者であることを断った上で書くが、収益が長らく赤字だった理由の一つは、電力が負担すべき開発コストから逃げていたのではないかという疑問も沸く。

【国策なら、安全投資は国で助成する】
また、国費による支援の貧弱さについても当時から指摘されていた。一般向けの代表例は田原総一郎『生存への契約』(文藝春秋)で、難燃ケーブルの開発完了後の1981年に出版されている。同書では技術開発に手厚い支援を行った西ドイツの事例を提示していた。恐らく、原産会議の誰かが、「このままでは日本の原子力技術の自立・優位性獲得に支障する」と危機感を持ち、田原に取材協力したのではないだろうか。

一般向けが1981年とするなら、業界向けの刊行物での問題提起は当然それより速かった。特に、傍流系統のメディアを読み返すと意外な程の的確さに驚かされる。

例えば『原子力界』というB5版で毎号20頁程度しか無い刊行物があるが、第8号(1976年8月)には、「日本の工業技術開発力は高くない」というタブーの存在や、原発推進と称して電力会社を煽動しながら寄生し、集金活動を行う児玉誉士夫的な人物が批判的に言及されている。まるでアゴラ系を想起させる内容だが、それが出来なかった事例に東海第二のケーブル問題も連なったということだ。

【規制は、経過措置を安易に認めないようにする】
1970年代、日本の規制機関は配管材料などには非常に注意を払っていたが、火災防護については(結果として)いまいちだった。当然反省すべきことである。

日本の規制が期待出来ないと外圧に頼らざるを得ない。ただ、前回述べた事情から「アメリカの規制の方が優れていた」とは言えなさそうである。

関連することだが、以前、敦賀1号機のターンキー契約について調査した時、US Licensable条項について触れた。米国の規制機関がGE製の原子炉に対して安全上追加を要求した設備は、着工後であっても、敦賀にも無料で設置するという条項である。

NRCが発行したRegulatory Guide 1.20,Fire Protection Guidelines for Nuclear Power Plants(June 1977)では建設中プラントに対して日本同様、難燃性ケーブルの採用を義務付けなかった。東海第二にUS Licensable条項の有無を示す資料は見つけられていないが、あったとしても、有効な手にはならなそうだし、だからこその現状だろう。とても残念だ。

東海第二に直接かかわるところで言えば、1975年5月、原子力委員会による「原子力発電所周辺の線量目標値」の決定によって、ALAP(As Low As Practicable,後年のALARA)対策としてシステムの追加・改良を行った件は、規制運用の歴史事例として注目に値する(「8.2.3 新技術の開発・適用」『日立工場七十五年史』1985年12月P388)。

ただし、BWR-5のラサール1号機が1984年の運開である事実と照らすと、経過措置の運用は日本より厳しかった可能性もある。経営の論理による工期短縮要求は同じでも、米国の場合は供給予備率が常時20~30%あるため、余り追い込まれない環境で建設できたことは影響しているだろう。日米ともに言えるのは、最初が肝心であり、経過措置を無闇に認めるべきではなかっただろうということだ。

【参考】

本文に記載した以外を含め、下記を参考にした。

  • 「原子力プラント用難燃ケーブルの開発」『昭和電線電纜レビュー』1974年12月 No3
  • 「第8章4 原子力・防災用ケーブルの開発」『昭和電線電纜50年史』1986年5月
  • 「第2章」「第5章第1節 絶縁線(その1)」『日高工場史』1979年9月
  • 「ケーブル配線の防火区画貫通部の防火措置工法」『電気と工事』1977年5月
  • 「「電線・ケーブル製造工場」見学記」『電気と工事』1977年8月
  • 「II 3. 原子力分野への展開」『フジクラ100年の歩み』1987年12月
  • 「電線路の難燃防火対策と動向」『電気学会研究会資料』電線・ケーブル研究会 1991年3月
  • 「第2章 新事業部の分離独立」『住友電工百年史』1999年2月
  • 「1.序」『東海第二発電所設備概要』1972年12月
  • 「東海第二発電所設置許可おりる」『日本原子力発電社報』1973年1月
  • 「新春座談会 東海第二発電所着工にあたって」『日本原子力発電社報』1973年1月
  • 「東海第二発電所工事資金調達にあたって」『日本原子力発電社報』1975年9月
  • 「第3章 工程の更改」「第13章 電気計装」『東海第二発電所建設記録 第3編 建設工事総論』日立製作所 1978年11月
  • 「第2章第3節 工事契約」『東海第二発電所の建設』日本原子力発電 1984年3月
  • 中村良市「原子力発電開発の道程(2)」『東電自分史第V集』1995年11月
  • 「8.2.3 新技術の開発・適用」『日立工場七十五年史』1985年12月
  • 「原子力発電所用ケーブル開発の現状」『日本原子力学会誌』1978年1月
  • 「4.2.4 ケーブル工事」『原子力発電所の計画設計・建設工事』1979年
  • 「美浜一号炉燃料棒事故の疑惑 田原総一朗の報告」『原子力戦争』ちくま文庫版(原著1976年6月)
  • 「日立製作所」『財界地獄耳』東京スポーツ新聞社 1981年3月
  • 福島第一原子力発電所の沿革(東京電力)
  • 東海第二発電所(日本原子力発電)
  • 燃え上がる可能性のある原発が10数機・・毎日新聞のお年玉 [原子力規制委員会、指針・基準]」『畑のたより、環境・核篇』2013年1月6日
  • 東海第二原発のケーブルの老朽化問題について」『東海第二訴訟準備書面(50)』2017年7月

※2018年5月25日深夜~26日深夜:タイトル変更、本文校正。内容追加。
※2018年5月28日深夜:1974年時点での運開予定追記。
※2018年5月31日【4】、記事末尾に供給予備率に関する記述を補足、一般社会の批判に三木内閣の件追記。

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