« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »

2018年1月の2件の記事

2018年1月14日 (日)

差別吉本芸人への怒り

ダウンタウン浜田のエディ・マーフィ芸だが、まぁ元々先輩の横山やすしにすら「チンピラの芸」だと言われた位だし、そこから30年何の進歩も無かったのだから当然の結果と思うしかない。有名かも知れないが、ゴミ糞に過ぎない。相方もあの程度で映画の海外進出図ってたとはね。

馬鹿なのが幸いしてか、悪気に関しては、当人には無かったのだろう。他の日本人がやっている黒人差別までネットで掘られているが、それをダウンタウンの責任にされては堪らないだろうとは思う。何と言っても、80年代に巨人で活躍したクロマティの暴露本『さらばサムライ野球』にもミスをした彼に「ニガー・サナバビッチ」と連呼するファンが出て来るそうだから(ややうろ覚えだが)。

しかし、継続的にそう言われてしまうのは、日頃の発言、特に松本人志のあからさまに政権に媚びた発言が面白く無いからでは。

松本は本当に典型的だが、吉本の漫才やNSCで這い上がってきたひな壇芸人は、社会批評という点では全く面白く無いからね。予備知識も無いし、勉強もしないし、殆ど全てリアクション芸で、自分の目線だけ。そしてすぐに強い物に媚びる。で、差別を肯定するから見ていて気持ち悪い。迷惑料を貰いたくなる位だ。あれを芸だと思ってる吉本芸人がツイッターで暴れてるらしいが、無価値で有害なだけ。お笑いをやっているのに、面白くない。致命的だな。

人種差別への飛び火は頻度が低いが、差別の温床になり得る芸人の虐め体質は、今の何でもお笑いにしてしまう、「オレたちひょうきん族」や「漫才ブーム」世代が台頭した80年代からずっと言われてきた。「電波少年」も「めちゃイケ」もその後輩達も根本の行動原理が全員同じで、どこにもかしこにも吉本の顔。そういう風潮を作っているのは事実じゃないか。

無能な癖に地上波を占拠して為政者に代わって偉そうな説教を視聴者に押し付ける。何で日常でいい加減ストレス溜めてる時に同じようなストレスを加えられなければいけないのか。そんな差別芸人達の異常さを晒し者にする検証番組でも放送してくれた方が遥かに面白い。

ただ、吉本の芸人でも、同和のような身近な差別に関しては比較的今でもナーバスなようだ(もちろん例外はあるだろうが)。恐らくそれは、肌感覚の体験と義務教育での成果だろう。結局は訓練次第なのかもしれない。しかし、今から吉本NSC辺りがそのような啓蒙活動に時間を割くようになったとしても、何の社会的制裁も無いままでは、松本のような先輩芸人が幅を利かせる状況は変わらないだろう。

まぁ、米英のメディアが偉そうに言うのもどうかな、とは思ってはいる。「黒人差別に無知な日本」を嘲笑うことが目的のようだが、少なくとも黒人差別にナーバスになる一番の、桁外れな原因を作ったのは奴隷として使役してきた歴史を持つ、アングロサクソンだからだ。

「何千万も殺し、差別して豊かになったおかげで今は公民権も認めて綺麗な映画も量産するほど意識が高くなりました」「ユダヤ人に平等に接するには600万人殺す必要がある」。言葉にこそならないものの、「日本も欧米のような市民社会の確立を。」論者はしばしば、そういう歴史過程を「社会経験」として買おうとしている様に聞こえる。差別的で好戦的な安倍支持の極右を批判して居た筈がそういう倒錯に至る。でも、そうではないでしょう。(もっとも、対する安倍支持者は過去の自民党ハト派とも異なり、結果として平和主義に至る様な倒錯の兆候は無い。)。

表面的な上から目線でものを言いだけが、リベサヨ知識層が嫌われる理由じゃない気がする。

勿論、日本が黒人を大量に奴隷として使役し、虐殺しなかったのは、版図にアフリカが無かったという、ただそれだけの結果論に過ぎない。専ら差別の対象は、肌の色では区別のつかない朝鮮人、中国人、台湾人、沖縄、アイヌなどであった。戦前戦中はポリネシア系に対して、米英と似たような差別を行っていた。現在ODAなどで海外出張する愚かな一部サラリーマン達もそうだ(この層も少なからず右側の名誉白人化するというおまけ付きでだ)。

そういう問題はあるのだが、最終的には被害規模が重視される。「日本にも黒人差別の源流がある」論は正しいが、基本的には欧米が解決すべき問題。

だからリベラルという大枠では共通していても、名誉白人のことは疑ってみることにしている。増してその価値観が、身近な上司や家族への反感と、自らに内面化した無自覚なジェンダー意識と、ハリウッド映画とドラマへの羨望で形成されていると思しき人物なら尚更だろう。

吉本が問題になったのと同時期に、欧米ではH&Mも黒人広告で炎上した。吉本の浜田よりあからさまな差別案件だと思うが、本邦のリベラルは感度が鈍い。以前白人至上主義を掲げていたファッションブランドが批判された時にもダンマリだったので予想通りと言う気はするが。

勿論、海外で差別が野放しだから吉本を目こぼしして良いということにはならない。そういう認知の歪みは日本社会の至るところに見られるが、これに対して欧米の美化だけを押し付けても、人権保護の法令整備など比較が容易なものはともかく、単なる不都合情報の無視では右翼層に突っ込む余地を与えるだけではないかということである。海外に学ぶのは好事例を採り入れるためにそうしているのであって、低くきに合わせる趣旨では無いということだ。

2018年1月 8日 (月)

2018年をどう過ごすか(および閑話休題)

もう1週間以上経過したが、2018年になった。コロラド氏をはじめとする当ブログ読者の皆様、本年もよろしくお願いします。

昨年末に実態に合わせてタイトルを変更したが、今年は何をしていこうか、少し考えてみた。

自分の生活を区分けすると、仕事、余暇、原発事故研究となる。311以来、徐々に余暇時間が減ってきていたが、今年は少し増やしたいなと。偶々TVを買い替えたこともあるので、やはり、流行っている映画やドラマは見たい。

記事の作成ペースは、月平均1本が目標。JSFのような高頻度化は行わない(週刊化もしない)。自分で書いた文章の初稿を読み直すと、粗も多く、同じ話題に二度触れていたり、簡単な文を変に修飾して、長ったらしいものに変えてしまっていたりするが、その校正が結構時間を要するからだ。

【原発問題】

プラントの安全性を中心としてもう数年は記事を書き続けられると思っている。勿論、これまでやってきたように、なるべく独自性を出した内容となる。勿論、先行する普遍的な主張に配慮はするが、それだけではカバー出来ない課題は幾らでもある。原発のように至る所でポジショントーク・神学論争・マニュアルトーク化が跋扈している分野は特にそうだ。勿論、単純に埋没・灰色文献を有効活用したいという願望もある。

実は、2015年にAPASTイベント後の懇親飲み会で雑談したことだが、原発訴訟の進展過程から考えて、事故に至る不作為に関する資料収集は、最初の5年が決め手なので、この期間に集中すると述べた記憶がある。実際2016年以降、資料収集のペースは以前より落とした。特に、津波問題については集められるネタは殆ど集めてしまったし、記事化出来ていないネタを消化した方が良い状態なのである。

その後、2017年に書いたブログ記事を見直して思うのは、数年に渡る資料ストックの効果が漸く出てきたなということ。あの記事群は、いずれも問題意識としては数年前からあったのだが、ミッシングリンクを繋ぐ新資料発掘やより深い考察は、2017年になって達成出来たのだ。

一方で、2018年から着手したい新テーマもある。それらを考慮の上、今年書こうと計画している記事は、次のようになる(時系列順)。

  1. 電力会社が原発導入前に実施した初期研究の検証(新規)
  2. 改良標準化・炉形戦略の検証(新規)
  3. 東電によるPAの検証(継続)
  4. 福島事故前のAM策の再検証(継続)
  5. 東海第二再稼働問題(継続)
  6. 時事問題(随時)

また、書いてきた内容を本(自費出版)にしてみたいとも思っているが、ネットのツイートに対する批判文とか、時事性の強過ぎる部分を手直ししたりする必要もあるので、とてもそこまでは出来そうに無い。ノウハウは皆無だしね。

それ以外は正直、議論の潮流を見て決めている。

例えば、原発避難や放射能汚染の問題では、私は独自に取材して見解を発表する程のリソースは使ってこなかったし、これからも、そうした問題を発信している人達の著作をフォローするのが精一杯だと思う。

なお、現状の立場だが、避難の問題は各告訴団や子供被災者支援法の側を支持。放射能汚染も御用PA屋のデタラメ安全論に与するのは論外だが、極端な反被曝やECRRをそのまま支持するには躊躇いがある。ただし、それらを強く主張する根拠は持っていないので、安易な分断的コメントは避け、比較的明瞭な御用PA達の発言や行動について批判側を支持している。ここで言う御用PA屋とは、福島県立医大、中西準子、長谷川三千子、中川恵一、竜田一人、GEPR等のことだ。恐らくこれは、普段私のブログに興味を持ってくれている人達とそう変わるものではないだろう。

【政治・社会問題】

原発事故には関係のない、安倍政治の暴走であるとか、男尊女卑等の問題なども同様。他山の石として教訓化するため、フォローしていく位かな。私自身の経験談や、書評と言う形での紹介などはあるかも知れない。

【記事にはしない閑話休題】

私自身はそれほど意識高い系という訳でもない。自宅のテレビのチャンネルが民放のバラエティやワイドショーになっている時間も多い。勿論それらを鵜呑みにしている訳でもないが、余りRTされていないコメントでも、意識高い系が事実でないことを根拠に社会批判をしているのを見かけると、それは違うだろと思うことは結構ある。

(以下、敢えて匿名化)

正直、反原発であっても、やり過ぎだと思う時はある。ネット右翼がまとめるTogetterは大抵汚物扱いされるものであり、そう思われて当然なのだが、関電の原発だかが再稼動された時、「事故が起きればいい」と呟いた反原発アカウントを集めたまとめは中々の眺めだった。「軽微な」と逃げを打つ知識人もいたが、まぁ、ある種の要注意リストとしてはデマリンVSオノデキタ氏以来の役に立つ内容であった。誰が我欲石原なのか、よく分かったし、そんな奴はいないという類のコメントは全く根拠の無いものだ。

原発以外だと例えば、年末年始にやっていたヒットドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の再放送に対して、森山みくりに個室を与えようとしていないのは日本の男尊女卑起因の因習に由来するから平匡は趣味の模型を捨てられてもしょうがないというような批判。原作2,9巻を読めば分かる通り、本当の婚姻関係に進展する過程で平匡は個室を確保するために2LDKへの引っ越しを計画しており、間違いである(ドラマも同じ)。その計画は色々な出来事が進展する中で中断されていただけであり、加えて1LDK時代も、みくりの私服は共用スペースのクローゼットに収納されていた。後平匡って物欲的には趣味らしい趣味無いよね。

この様な問題は2016年の映画『この世界の片隅に』でも散見された。例えば、原作にはあった太極旗が削除されているから不当だとか(実際は削除されていない)。他には、主人公のすずが知的に劣っているのが慈しむだとか、反対に差別で不快だとか何とか。残念だが、あの程度のうっかりミスは健常者でも見られるものである。『フォレストガンプ』と違って作品の本質的問題点には繋がらない。そもそもすずが知的に劣った人間としてデザインされてるとも思われない(演者も)。そんな前提を導き出せる人はどういう立場であれちょっとおかしいんじゃないの。大体責任能力無かったらあの映画をネタにした「臣民」「普通の日本人」の戦争責任に関する是非の議論が根底から成立しないだろう。

誰だか忘れたが、彼女が作中行なっていた和服の仕立て直しが劣った人間のすることであるかのようにうそぶく者がいたが(その作業を女性にのみ押し付ける社会は問題だろうが)相応の服飾家政学的技術を要する。そんなことをネタにしちゃった一部リベサヨははっきり言ってバカだよね。過去に森喜朗など保守政治家の語学力をあげつらって盛大なしっぺ返しを食らったのに、相変わらず意識が高いだけの名誉白人は同じことを繰り返す。なお、私は技術的側面やクラウドファンディングを除き、あの映画をさほど評価はしていない(言及はしてこなかったが、過去記事を読めば大体分かりますよね)。

よくある、Wikipedia日本語版の思想的粗を探してくる「風習」も同じである。確かに当該の記述は右傾的な偏見に満ちているのかも知れない。その手の加筆、今より遥かに右翼だった頃を含めてほぼ100%関わってないから、まぁそうだろうなと私も思う。ただし、「そこに挙がっている文献名を確認する位ですね~」というスタンスすらすっ飛ばして「信じません」と言った口が、別の場面でWikipediaで情報を引いてくるのは何なんだろう。彼等が一様に口をつぐむのは、例えば、自分の無知や異論を突き付けられるからあのサイトが嫌いだという原初的な嫌悪感だろう。誰しも多少は持つ物だ。それに、古参の書き手側は、まぁ、GAやFA判定を受けていたり、情報の出所が遺漏なく記載されている記事を良記述だと持ち上げると、荒らしが壊しに来ると思っているのかも知れないが。

なお、私自身ここ数年は編集に参加していないが、よく当ブログで引用する添田孝史氏の著作を出典に追記しようとは考えてこなかった。それは筋をばらさない方が商業上プラスだったからだ(公正性の観点からは、書かれるべきだろうとは思う)。

学者や公的組織が積極的に関与しているから英語版は凄いという評価も眉唾だと思っている。日本でそれを愚直に実行しているのが土木学会だという事実を示すだけで当ブログの常連には十分だろう。アメリカでも役所系が協力する例はあるようで、利益相反面からはリスクがある。そもそも意識の高い人から透けて見える「何も考えずにそのまま貼り付けていいサイトがあれば躊躇なく利用するという姿勢」自体が問題の根本にあり、彼等の批判対象である右傾化した知識人と同じく、棍棒としての用途だという事が垣間見える(面白いけど本質が科学奴隷な人に多し)。

そういう人物は通常、目的外利用者と呼ぶ。特に右派リベラル。菅野完の記事から正当な出典ごと暴行事件の話が消えても完黙してるのは何故だろう。あの規模の意図的削除は日本語版でも珍しいのだがねぇ。まぁフェミニストの中にも「自分の好きな白人の芸能人ならDVやってても作品消費OK」という内容をツイートした人がいる位だから、原理的矛盾を平然とやってのける輩には今更驚きもしないが。それまでの「クソオスは社会から抹殺」な主張を根本から覆すほどの破壊力だったが、周囲のお仲間は黙ってRT。菅野氏も英番組『TOPGEAR』でジェレミーが語ったように、ジョージ・クルーニーと改名すれば良かったのかも知れない。数ヶ月経たず、彼女等が敬愛するハリウッドで告発運動が始まったが、追放されたプロデューサ等に対して何人が同じことを語れるかは大変見ものである(私は、日本でも山本圭一のような人間をある種の盾に使う吉本クソオス芸人は追放されるべきと思っているのだが。ま、吉本なんて定義に従って追放し続けたらあっと言う間におしどりさんの個人事務所になっちゃうだろうけど)。

まぁ、事をあまり荒立てない方がいいので、これ以上の言及は控えるが、彼等以上にアホだなと思ったのはかつてWikipediaにネタを取られると愚痴をこぼしていた石本某氏がYahooで一次資料汚染を主張し始めた時位であるとは言っておきたい。

余暇時間に費やす純粋な趣味についても書いてみたいが、中々難しいだろう。精々本や映画の感想位だろうか。本当は無難な?趣味として鉄道や国道探訪もあるのだがねぇ。

« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »