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2016年7月の1件の記事

2016年7月17日 (日)

山口智美×早川タダノリ 「イタい〈日本スゴイ〉、妄想の〈歴史戦〉」を見に行った【追記あり】

公私ともに忙しくブログを編集する気力が無かったので既に10日ほど前の話になるが、下北沢のB&Bという書店で早川タダノリ氏と山口知美氏によるトークショー「イタい〈日本スゴイ〉、妄想の〈歴史戦〉」が企画されたので見に行った。

早川さんのTweetは以前から興味深く見ていたが、リアルで拝見したのは御二人共初めてだった。興味深いひと時を過ごすことができた。

行く前は早川氏の新刊『日本スゴイのディストピア』目当て。近年の「日本スゴイ」ブームは高度成長期にも萌芽的なものが見られたので、理解できなくもないが、戦前にも同じようなプロパガンダ運動があったのは、早川氏の研究で初めて認識した。

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考えてみれば当然で従来言われてきた学校教育や軍部に迎合したマスコミの問題だけでなく、宣伝屋や論壇人が私生活の領域まで徹底してプロパガンダを続けない限り、ああいう国粋主義は根付かないのだろう。それらの本で戦後まで重版かかり続けたものが(学術書などと異なり)一つも無いのも驚異だった。当時は暗黙の前提となるほど当たり前にあったとしても、現在では意識的に「鑑賞」しようと思わない限り、残す価値のない文化的習慣という訳だ。

内容詳細は本の性質上読んでのお楽しみだが、時節柄購入をお勧めする。考察を含めてとても読み応えのある本だったが、話の途中で山口氏のフィールドワーク体験を聞いた。

何でも日本会議に参加している靖国系宗教団体の「素手でトイレ掃除」を通じて自分の心を磨く(従って他者への奉仕が目的ではない)運動や皇族の子孫の竹田氏主催の一緒に稲を育てる運動などに信徒と共に何度も参加してきたとのこと。このような仕事をしているので、本質的な信条の違いでは妥協しないものの、ネットによくあるカルトへのあからさまに侮蔑的な態度は取らない、という趣旨の話だった。

質疑応答の時に印象に残ったやり取りが、二つあった。一つ目は「慰安婦問題において右派が激しく攻撃する点ではなく、彼等が反論しにくい観点(軍の民族差別など)で右派のプロパガンダを叩いた方が良いのではないか」というもの。これに対して「私の場合はフェミニストなので、女性が被害者になる問題を主題に反証するのは当然」という趣旨の回答だった(そりゃそうだ。なおこの質問が出たのは山口氏の近著が『海を渡る慰安婦問題』だからである)。

Umiwowataru

慰安婦が政治問題化する前に書かれた元軍人の回顧録に慰安婦の記述がある(有名なのは鹿内信隆や中曽根康弘のもの)などの材料もあるので、「反論しにくい」かは疑問だが、「被害者(元慰安婦)の証言を信用しないとの前提を出されると証言集めの意味が無くなる」というくだりは特に印象に残った。そもそも、他の「反論し易い」観点にしたところで、長年に渡る丹念な追跡調査や資料収集に負うところは大だ。最初から全てが揃っていたわけではない。だからインタビューも資料も採取せず、有り物だけで済ませる歴史研究などは、良い仕事ではないと思う。

二つ目はミソジニーに関する話で、「仕事でミソジニーのオヤジと接していると、ジェンダーの話題に触れない場面では実務に精通するなど、全面的に否定される要素ばかりではない(けどやっぱりミソジニーのスイッチが入ると不快)」という内容だった。同じようなことを山口氏も感じておられたようで、先の信徒達も、トイレ掃除以外は、どこにでもいるありふれた生活者なのだと言っていた。もっとも、DVのように問題人物が身内にいると、被害者は「それどころではない状況」だろうから、この手の相互理解論みたいなことを言ってる余裕は無いだろう。他方、人様から第3者として「実はあの人に困っているのですが」というような話を聞いた時にどう判断するかは、ケースバイケースで判断するしかない。

他に「国会前のデモにも行ってみたが、運動にも内輪では暴力があることに幻滅し、物を書くことで闘っていく方法に興味を持った」という話もあり、あのやり方の限界を再認識した。自由社会だからデモなどの運動を否定はしないし共感出来る主張も多いが、それだけに凝り固まって極度に「不賛同者」をカテゴリ分けし続けると、出る杭を打って批判したり、地味な調査報道を軽視したり、「読まずに批判するネトウヨ」と同じ穴の貉となる。一日中Twitterにへばりついて著名人でもない相手を標的に「誰それがどうした」と悪態をついてるアカウントや只のPA宣伝屋相手なら無視も仕方ないが、自分なりに調べて考えを提示している物書き相手に、それは不味いからね。

【2016/7/19追記】

山口氏だが、『日本会議の研究』を書いた菅野完氏の暴行問題が週刊金曜日で報じられた件で、内幕が暴露され名前が挙げられている。まぁその件で上記の評価が変わる訳でもないが、この騒動を無視したと思われるのも癪なので一言書いておく。

菅野に謝罪と慰謝料等の賠償が必要であることは言うまでも無い。私が気になったのはマーケティングについてではなく、便乗を疑われても仕方ない要求、簡単に言えば「取材活動を辞めろ」「菅野が入手した日本会議の新情報を引用するな」と取れるものだ。特に、類似分野の研究者・ライターの姿勢に注目している。諮った上でその種の主張を繰り出したり援用することは、意図を疑って当然だろう。

過去の事例だと、西山事件を思いつく。西山記者が罪を問われるべきなのは不倫(ネット右翼はレイプと言っている。リベラルや左翼がどういう解釈をしているかは知らない)の方であって、暴露された密約を無かったことには出来ないし、記者としての「功績」が第3者にすり替わることもない。菅野の問題も同じであって、「運動のための蹂躙は続いている(から黙れ)」などと研究者やライターが強弁するのは、ライバルに発表して欲しくないだとか、そういう意図「も」想定する。情報収集が捗らなくても、政府や東電の真意を推測しようとする場面と同じである。研究成果物に関しては、引用する必要が生じた時に引用し、それがジェンダーを論ずる文脈なら、論文内で菅野の不祥事に言及すれば足りる。

山口氏は今のところチャットで示された計画に従ってツイートしたついでに、その種のRTをしただけである。また、実績も示さず人の粗探しに熱心なあらら氏などと違い、歴史戦や日本会議を対象とする研究者として、成果も出している。金曜日の記事宣伝は良いと思うけど、そのRTにあった青谷三郎氏の指摘は切断処理とは言えない。

Yamaguchirt

ちなみに研究者以外にも問題は指摘できる。例えば菅野の弁護士に対して「こいつも妻帯者かー…糞過ぎる」と非難した濁山ディグ太郎。非モテかフェミ思想からなのか知らないが、こじつけだろう。光市母子殺人事件で懲戒請求騒動を起こした橋下にダブる。「被害者を利用する」文脈で言うなら、この人物こそ今から黙って他人の菅野批判でもRTしていればよい。

勿論菅野の今後の主張が禁止されなくても、批評面でも今回の件と完全に無関係ではいられない。例えば、彼が『日本会議の研究』出版後に強調し始めた「日本会議=ただのミソジニー説」を使って「戦前回帰は日本会議の目標ではない」と主張しても、その説得力は薄れる(なお、この主張は戦前回帰志向を主張していた左翼に対して挑発的であり、怨恨を増幅する一因となったかもしれない)。

また、上野千鶴子氏の本を読んだそうだが、『女ぎらい』の佐野眞一氏の例ように、日本会議のような「男らしい」標的を定めてより身近な問題をスルーしてきた、といった批判は免れまい。本を出した後に「日本会議の様なミソジニーは誰でも持っている」ということも言い始めていたが、今後は片手落ちだろう。ジェームス三木のように不祥事後も憲法ドラマと共に、ジェンダーど真ん中の対象になり得る作品で飯を食っていたクズがいるが、それを反面教師に、徹するべき領域は考えるべきだ。

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