テロ対策を言い訳に反対派を追い出して爆発した福島第一原発
添田孝史著『原発と大津波 警告を葬った人々』は情報の密度も高い本である。2000年代の中盤にあった次の出来事も前から気になる内容だった。
同じころ(注:2005年頃)、市民団体、「原発の安全性を求める市民連絡会」は、東電に対して「海水ポンプを見せてほしい」と再三申し入れしていたが、テロ対策上見せられない」と東電 は拒否し続けた(伊東達也「無視され続けた警告 福島原発でなにが起こったか」『議会と自治体』二〇一一年五月)。
もし見せれば、福島第一原発では重要な ポンプ類が建屋で守られておらずむき出しになっていることや、余裕がないために津波想定をわずか三センチ超えるだけでモーターが水に浸かって動かなくなることが露見する。それを恐れたのだろう。
『原発と大津波』P108-109
なお、『市民が明らかにした福島原発事故の真実』によると、東電はいったん決定した福島第一の津波対策を2007年に白紙に戻し、その経緯を機密扱いにしてきたことが裁判を通じた情報公開で明らかになった。なお、この申入れは記事後半でもう一度取り上げる。
今回は海水ポンプと構内見学について掘り下げて調べた結果を報告する。再確認したこと、分かったことは次のようなことだ。
- 海水ポンプは取水口とタービン建屋の間、海抜4.5mに設置されている。
- 東電は1970年代には見学コースに原発構内を含めており、防波堤やサービス道路から取水口を見せていた。
- 東電は1979年6月から構内見学を制限したが、他の電力会社の原発で構内見学は続いており、東電とは逆に重視するPR担当者もいた。
- 海水ポンプのメーカーは広告や技報で福島第一の海水ポンプを宣伝しており、海抜も記載していたが、東電がそのような事実を反対派に教えることは無かった。
- 同一人物でも公職についているとまともに対応するが、付いてない時には展示施設(サービスホール)から追い出した。
- 福島第一の広報部課長は反対派軽蔑を公言していた。
- 1979年6月以降も2001年に至るまで、東電は自社にとって利益になる来客には構内見学をさせていた。
- 1980年代以降もメーカーや工事業者の出版物には福島第一の海水ポンプが写っていた。
- 1990年代になっても、原発施設の広報担当者達の中では、都合の悪い質問は笑って誤魔化すことを堂々と推奨していた。
- 2001年の同時多発テロ直前まで構内の写真撮影は可能だった。
- 同時多発テロ後に警備体制が厳しくなったが、地元民およびVIP待遇者は以前と同様構内見学を許されていた。
- 冒頭に紹介した市民団体は地元の関係者で構成されており、他社の津波対策に学ぶ様にも東電に要求していたが、東電はその要求も無視した。
上記の結果、東電は福島第一原発を爆発させた。
これは、社長のような「偉い人」を告訴すれば済む話だろうか(勿論それも必要だが)。新聞の原発広告を批判すれば済む話だろうか。絶対に違う。東電の広報部門は解体が必要で、歴代の広報関係者はPAの戦犯として告発する必要がある。
今回の記事は長い。「それだけの話を細かくやる必要があるのか?」と思われる反対派の方も多いかも知れない。勿論、ある。この点を聞き書き任せにしたり、字数制限や多忙を理由に流し、今更原理的な話や抽象的な話にリソースを割く記事ばかり作るのは大きな問題と考える。説得力が無い。既存の事故調に加え、本間龍氏や早川タダノリ氏を含めても掘り下げた事例は未見である。5年の風化で解明のマンパワーが足りないのだろうが、ケリは付けなければならない。本ブログがいくばくかでも貢献出来れば良いと思う。
【海水ポンプの役割】
まず、海水ポンプはどうして大切なのか、簡単に復習しよう。原発を止めても核燃料からは崩壊熱が出続ける。炉心の水を入れ替え続けることでこの熱を取って温度を100℃以下の「冷温」に保つ。福島事故のように炉心が入っている圧力容器の底が抜けてしまった場合はともかく、普通は炉心の水は純水を使う。しかし、純水の量は限りがあるので、今度は核燃料から熱を受け取った純水を冷やし、循環して使う必要がある。このために純水の入った配管を海水に浸けて、海に熱を逃がしてやる(これを最終ヒートシンクと呼ぶ)。この海水を引いてくるために海水ポンプが必要となる。なお海水ポンプはモーターで動くので、電源を必要とする。発電所の外との送電線が切れてしまったら、非常用電源で動かす。
なお海水ポンプには次のような役割分担がある。
- 循環水ポンプ:原子炉運転中は沸騰した蒸気をタービンに送り込んで電気を起こすが、残った熱は海に捨てるため、蒸気の配管を海水に浸す。その海水を引き込むポンプ。最も大きな熱量を冷やすために大量の海水が必要なので、ポンプも極めて大型である。
- 残留熱除去系海水ポンプ(RHRS):原子炉を停止した際の崩壊熱を海に逃がすための海水ポンプ。福島事故を考える上で最も重要な海水ポンプ。
- ディーゼル冷却海水系ポンプ:非常用発電機もディーゼルエンジンなので車のエンジンと同じく冷やしてやる必要がある。そのための海水ポンプ。これが壊れてしまうと非常用発電機本体が生き残っていても動かすことは出来なくなる。津波への備えを考える上で重要な海水ポンプで、壊れてしまうのは問題だが、それだけでは致命傷にはならない。何故なら、福島第一は空冷のディーゼル発電機が3台、高台の免震重要棟に空冷のガスタービン発電機を1台備えており、これらは海水ポンプが不要だからである。それにも関わらず全電源喪失と呼ばれたのは、各原子炉用の配電盤が海水に浸かって壊れてしまい、発電機だけ生き残っていても電気が供給出来なかったからだ。
福島第一の場合、取水口とタービン建屋の間に建屋に収めることなく、露出して設置されている。分かり易く写真で示した文書として「福島第一原子力発電所における東北地方太平洋沖地震に伴う原子炉施設への影響に係る経済産業省原子力安全・保安院への報告について」がある。PDFのP118以降を参照してほしい。
P118の発電所上空から見た写真の内、5、6号機を示す。配置例を図示すると次の写真のようになる。
地上から見ると円筒の物体である。
緑色のポンプに挟まれた灰色の非常用ディーゼル発電機(DG)用海水ポンプはかなり小さい。全ての海水ポンプに名称が掲示されている。
注目してほしいのは、どの海水ポンプも同じエリアにあるので、海抜の高さも同じということだ。
次に検討するのは、海水ポンプを見学中に目にすることが出来るのか?である。公表された地図、写真を見る限り、次のような状況になっている。
- パンフレット:撮影場所、被写体との距離を管理出来るので、隠すのは容易である。
- 展示施設見学:施設は敷地の端にあるので丘などに邪魔され、海抜を実感することは無い。
- 構内見学:高台から海水ポンプを臨むことは出来ない。津波の来た海抜10m以下のエリアに降りると、1~4号機の海側と高台側にそ れぞれサービス道路がある。各建屋は大きいので、高台側から海水ポンプを見ることは出来ない。海側からは臨むことが可能である。また、防波堤からも双眼鏡 を使えば大体の姿、海抜を確認できる。なお、建屋内の見学の場合、窓が無いので外の様子を確認することは困難である。
【原発広告の対象だった海水ポンプ】
実は、福島第一原発を建設していた時代、海水ポンプは技術雑誌で宣伝の対象だった。
(『ポンプ工学』1972年2月号裏面広告より。中央に3台鎮座するのが循環水ポンプ。左側手前で半分切れているのが残留熱除去系海水ポンプである。)
よくある原発広告だと発電所の空撮だったり、原子炉や中央操作室の中の写真が多い。これは、他の工場やマンションの宣伝でやっていることをそのまま真似ただけのもので、広告の発注者が殆どの場合電力会社だからだ。隠すというよりは、電力会社的には「原発」というイメージに最も思い浮かべやすい写真を使っているだけである。これが原発の各機器を納入するメーカー辺りになると、原発そのものより機器の姿が映える写真を使った方が都合が良い。ただ、そのようなメーカーは電力会社に比べれば経営規模は小さいので、主要新聞に大きな広告は出さず、自社に関わりのある技術雑誌などに広告を出す。後述の事情から、1990年代位までは、機器メーカーや工事業者の広告写真に制約は無かったと言って良い。
【技報では海抜まで明記】
それどころか、循環水ポンプについては製造元の荏原製作所は公開技報で海抜まで図示しているのだ。
「東京電力株式会社福島原子力発電所2号機(出力784MW)向け2600㎜循環水ポンプ」『荏原時報』No81 1972年
元が画像なのでやや不鮮明だが上図の赤で囲った部分、左が「O.P.+4500mm」、右上が「電動機」と書いてある。他のポンプの海抜も同じ高さ、海抜4.5mである。だから東電のしていたことは、既に公開されている情報を必死になって隠すという、壮大な無駄であり、素朴な疑問を持った科学少年/少女上がりも多かった反対派への嫌がらせであった。実は推進派にとっても話は同じである。荏原製作所がプラント向けポンプの専業メーカーで技報を出していること、どれだけの人が知っていただろうか。
【1970年代の構内見学】
それでは、現場広報の実際を1970年代から追っていこう。この時期の見学を書き残した例は幾つかあるが、ここでは日本原子力発電の新入社員が受けた案内から引用してみよう。2名の記録が同社の社報に載っている。
一ヶ月間の新入社員研修もあと一日を残すばかりとなった4月26日、私たちは福島県双葉郡大熊町の東電福島原子力発電所を訪れた。(中略)まず敷地の入口にあるサービスホールで係の方から説明を受け、ホール内を見学させていただいた。(中略)私たちはサービスホールからバスで原子炉建屋の方へ向った。(中略)建屋の周りをまわってバスは海岸に出、防波堤の上を走ってその突端まで行きついた。この防波堤の先端が発電所全体を見渡すのに一番良い場所とのことで、バスを降りしばらくの間発電所とそのまわりの景観を楽しんだ。
「新入社員研修 福島第一原子力発電所を訪ねて」『日本原子力発電社報』1978年5月P22(原文)
もう一人の記事からも抜粋してみよう。
新入社員研修のフィナーレとして、東海発電所総務課派遣の技術系男子22名は福島県双葉郡大熊町にある東電福島第一原子力発電所の見学を行った。片道5時間、遠足気分でバスに揺られ午後1時頃目的地に着いた。まずサービスホールに通され福島第一原子力発電所の次長さんの説明を聞いた(中略)循環系の模型も実物大の模型と連動して実際に制御棒が上下する凝ったものだった。建設記録映画が終わるといよいよサイトの見学、高速道路や駐車場の料金所を思わせる守衛所を通って中に入った(中略)敷地全体を見渡せる防波堤の突端に立って見る、原子炉が6基並んでいる様は壮観であった。説明を聞いて再びバスに乗り、敷地内をぐるりと回って見学を終えた。
全体を振り返ってみると、見学時間が2時間と短かったことが非常に残念である。したがって、サービスホールでの説明や映画に時間を取られて実際の発電所は外側を眺めるだけに終わってしまった。研修で原子力についての話は聞いているのだから、サービスホールは抜きにしていきなりサイトに入っても良かったのではないだろうか。特に、6号機は完成してからでは立入れないような所も見学できたのではないかと、貴重なチャンスを逸した無念さが残る。
「新入社員研修 福島第一原子力発電所を訪ねて」『日本原子力発電社報』1978年5月P23(原文)
発電所の何を見学したのかが良く分かる。同様の見学は福島民報にも掲載されているので、一般向けの見学コースとほぼ同様の内容だったと思われる。彼等は事前に学習済みなので展示と内容重複が生じ、不満につながったのだろう。
なお、文中に出てくる「サービスホール」とは原発に併設された展示施設のことである。だが福島第一は敷地が広いのでサービスホールは西端に位置し、海沿いの取水路や海水ポンプを見ることは出来ないだろう。
サービスホール(1970年代の東京電力ハガキより)
とは言え、この頃は防波堤や建屋の周囲を車で回っていたので、仮に津波想定に疑問を持った人が海水ポンプに注目しても、答えることは可能だった。また、東電や原発メーカーも研修先として福島第一を活用しただろうから、数多くの技術系社員が海水ポンプを目にしている筈である。
【他社より早く構内見学を制限した東京電力】
ところが、翌年に事情は一転する。
荻津 それから福島の展示物の話が先に出ましたが、福島ではPP上6月から構内に入れないようにしたそうです。その代わりに高さ13mもある実物大模型を作って臨場感を出していました(中略)。
司会 まず地域のPR館であり、同時に遠くから東海村という原子力のメッカに来る子供達や一般の人達を多勢気持ちよく受け入れられるPR館。だんだんイメージが出て来ましたが、そうなると開館日や人の問題が出て来るので頭が痛いんです。(中略)運営上のもう一つの問題はPPとの関連です。これが各社とも悩みの種だろうと思うんですが、福島以外はVIPばかりでなく、身元の知れた人は構内案内をしているようですね。
荻津 福島はサイト外周の見学者の案内は中止して、その代わりにエレベーター付きの高さ30メートル、工費2億5000万円の展望台を計画しているそうです。
田口 伊方のPR館長も強調していましたが、景色や展示物がいくら良くても発電所のすぐ近くまで行かないと満足しない人も多いそうです。
小島 今回びっくりしたのは浜岡も美浜も伊方も、福島を除いてはむしろ積極的に構内見学をさせていたということです。とくに、自社の営業所の関係で来る団体の人達は折角発電所に来て本物を見なかった、構内にも入れなかったというのでは、帰ってから話しようがないということらしいです。
清水 従来、東海のPR館は男女各1名で、大勢のお客さんがみえるときあ適宜総務課の方で応援する体制を取っていたし、相手によっては、所長など発電所の幹部が応援していたんですが、PR館が構外に出て遠く離れるうえ、PP上構内には入れないということになると、PR館員を質量ともによほど充実しないと運営が難しくなります。
荻津 今までもお客さんの到着が遅れて所長さんに随分お待ち願うことがありました。とにかく半分以上の件数は発電所の応援をお願いしていました。
「各社の原子力PR施設を見て」『日本原子力発電社報』1979年7月P35(原文)
PPとはPhygical protection(物理的防護)の略、つまりこの時期に警備上の理由から、構内見学の制限が始まっていた。きっかけが何であったかは良く分からないが、成田空港管制塔襲撃事件などの動向からテロを警戒してのものと推測する。もう一つの可能性は、日本に先んじて警備強化を図ったことで知られるアメリカからの要求である。1978年に、再処理の是非を巡って日米原子力協定の改定交渉が荒れたのだった。当時のカーター政権は友好国にプルトニウムを持たせて核武装されることを警戒していた。日本側としては、核武装の意向が無いことを示すため、IAEAの査察等を厳格に受けたり、核物質の紛失が無いように発電所の防備を形だけでも整える必要があった。そのため、70年代末に本格導入されたのがPPだった。
【反対派への蔑視を公言していた福島第一広報】
だが、この頃取られた見学制限はVIPや身元開示を行った者は対象にしていない。つまり、当時のPPは決定的要因ではない。もっと本質的な問題として、広報担当者に反対派への蔑視があった。広報担当者とは誰か?私は一般論として述べているのではなく、具体的に1名挙げられる。福島第一原子力発電所広報課長として長年発電所の運営に関わった、志賀剛氏である。その志賀氏が「武士に二言はない」と断言し、自ら海外留学生のPR担当として構内を案内した見学記事から引用しよう。
PR担当:以前は、よく一般の方から原子炉の運転を間違えると爆発するんじゃないか、という質問が出されましたが、そのような不安を抱く原因の主なものとして、まず、私の国は世界でも唯一の原子爆弾の被爆国であることから核アレルギーの後遺症が残っており、これがもとで日本語の爆発の「発」と、原発の「発」とを混同してしまっているんです。
一同:(笑い)・・・・
PR担当:そこにもってきて、ただ単なる政治目的のために原子力に無知な一般大衆に対し、原子力は放射能を出すから怖いんだぞぉ・・・などと「根も葉もない、無責任な流言飛語をとばし、さも危険なライオンや虎を野放しにしているかのようなことだけを宣伝し、これを人間の英知で安全なように幾重にも囲って絶対に表に出ないようにしてあるという点には一言も触れないんです。これに対応し、われわれPRマンは真実を話し、責任を伴う説明をし、地域住民の方々に満足してもらうよう計画的努力をしております。
— 志賀剛 「誌上英会話ツアー 原子力発電所の見学」『電気計算』1977年4月p83(原文)
志賀氏が何時東電を辞めたのかは分からないが、1992年の雑誌記事に福島第一の広報部課長として登場していたことは確認した。下記はより鮮明な『電気情報』1990年10月号の写真である(なお、プロフィールは『原子力文化』1981年5月号に掲載されている)。
彼の力もあり、見学に対する閉鎖的な姿勢は他社に比較しても一層強められたことを、日本原子力発電社報の記事は示している。
【同じ人物が公職を辞めると展示施設から追い払う東京電力】
このような方針の元、反対の立場を鮮明にした一般市民がどのような扱いを受けていたか。反対派の言い分を取材した朝日新聞いわき支局『原発の現場』にその記録が残っている。
「相手が国会議員の先生方だっただけに、やはり相当気を使いましたね」と第一補修課長の張間が話すように、社会党国会議員団が福島第一原発1号機を訪れた日は第一原発全体が緊張に包まれていた。
石野ら調査団はその朝、第一原発へ向かう前に、総評や原水禁、地元反対同盟の代表らとともに建設中の第二原発(双葉郡富岡、楢葉町)を視察した。東電側は所長の萩野昌一をはじめ幹部総出の応対であった。敷地内の見学には、総評のバスも入ることができた。反対同盟の岩本忠男が「我々だけなら常に門前払いだ。国会議員がいるといないとではこんなにも待遇が違うものなのか」と漏らした程、丁寧な応対であった。
第一原発に着いた調査団はサービスホールで所長の伏谷潔から説明を受けたが、その中で、管理区域内のカメラの持ち込みをめぐってやりとりがあった。伏谷が「まずい」といって拒否し、吉田(注:社会党議員)が「東京で本店で(持ち込みを)約束してきている」と譲らず、結局「前例としない」ことで一台だけ持ち込むことで話がついた。異例のことであった。
『原発の現場-東電福島第一原発とその周辺』朝日新聞いわき支局 1980年7月 P240-241
四七年八月に結成された「相双地方原発反対同盟」は間もなく「双葉地方原発反対同盟」に変わった。(中略)当時、岩本は双葉郡選出の社会党県議であった。「あの当時はいろんな問題を県議会で取り上げることができたけど、今は自分で出来ないのが残念。公職に誰かがついているといないとでは活動も違うし、東電の対応が違う。今なんか第一原発へ行ってもサービスホールでさえ門前払いの時がある」。五十五年二月に開かれた第二原発3,4号機の公開ヒアリングを前に、社会党国会議員団が福島第一、第二原発を視察した時の東電側の応対ぶりを見て、岩本は一層「公職」の有無による落差を感じた。
『原発の現場-東電福島第一原発とその周辺』朝日新聞いわき支局 1980年7月 P338
ここでも、当時から公職者以外の反対派には見せない、という姿勢が一貫して見て取れる。同一人物が公職にある時と無い時で態度を変えていることからも、警備上の理由では全くないことが明らかである。
【展望台設置後も暫くは構内見学を併用】
ともかく、東電は構内見学に代わる新しい見世物を準備する必要に追われ、展望台を建てると説明していた。エレベータ付きではなかったが、この展望台は建設残土で人工の丘を造成することによって(16/5/13追記:残土で造成したのか、改めて考え直してみるとちょっと自信無し)サイトの南側に設けられた。1979年初頭には供用されていたことが原子力学会誌で確認できる。
このサービスホールは,1970年8月に開館し福島県内はもちろん全国各地からの見学者を迎えている。アメリカ,イギリス,フランスを初め,ソ連や中国からの視察団も見えている。
福島第一原子力発電所の見学者は,総数で約70万人に達しようとしている。最近では月間6,000人程度。館長以下職員が見学者の説明案内に当たっている(中略)。
一般の見学者のため,発電所の見える展望台まで見学バスを定時運行している。
サービスホールには,北海道から九州まで全国各地の原子力候補地の関係者がつぎつぎと視察に訪れる。県や市町村の議員や行政関係者,漁業団体や商工業団体の役員など多種多様である。聞くと見るとでは大分感じが違うようだ。相当な流量になると思われた冷却用海水も,放水口から見た流れの範囲は予想外に小さい。取水路にむらがるスズキの群れ,ホヤ貝 ・ウニ・アワビの付着した岸壁,数えきれない稚魚の群れに飛び交う数百羽のウミネコ。視察に訪れた漁業組合の関係者は驚嘆の声を発する。
田原 重助「東京電力(株)福島第一原子力発電所」『日本原子力学会誌』Vol.21(1979) No.4 P50
※1979年2月14日原稿受理
大熊町民であれば、毎年正月の迎光をこの場で迎えるイベントを記憶している方も多いだろう。
どんな人達が来ているか詳しく挙げられている。一くくりに言えば、推進派か推進派になりかけている人達、ということだろう。意外なことに、展望台を設けてからも1979年6月までの間、見学制限はかからなかったらしい。疑問点さえ思い浮かぶなら、海水ポンプの高さを把握することはとても簡単だ。いったいどれだけの疑問を封殺してきたのだろうか。
【疑問を笑って誤魔化す広報担当者達】
さて、原発推進派ばかりの所内では、志賀氏のような態度の持ち主は特に珍しいものではなかったろう。恐らく、彼の後任者も同様の姿勢で接したことは容易に窺い知れる。このような人物が「都合の悪い質問」を投げかけられたときそのように反応するか、東電ではないが良い事例が残っているので紹介する。
武長 原子力の分野では突拍子もないことをおっしやる方もいます。例えば,「放射能によって近くの海ででっかいアワビが捕れる,といううわさですね」とか「原子力が怖くて会社を辞めた人はいませんか」「あなたはお子さんを産めないんじゃないですか」とか。私の知らないところで怖い話があるんだな,と驚きます。もし何々だったら,という質問も多いですね。例えば「ミサイルを打ち込まれたらどうなりますか」などと聞かれることがありますが,まず考えられないことですよね。そういう意地悪な質問が出たらお笑いの方にもっていくことにしています。明るい表情で「大丈夫です」って笑い飛してしまった方が,かえって安心していただけることもあるんです。
原 私どもの科学館にも原子力の展示がありまして,「原子力発電所に行くと髪の毛が薄くなるんじやないか」などと聞く人もいます。「私たちも原子力発電所に見学に行って燃料プールを上からのぞいてきましたけれど,この通りですよ」と頭を指さすとお客様も安心されます。原子力に関しては,訳も分からず怖がっているという方がほとんどですね。
注:武長三紀子(美浜原子力館)、原恵美子(中部電力でんきの科学館)
「みんな気楽に遊びに来てね-科学・技術・PR館のガイドレディ座談会-」『電気学会誌』Vol. 115 (1995) No. 1 P6
「都合の悪い話は笑ってごまかす」、ネットでは有名な原発PA師、石井孝明ではないが、正真正銘の「クスクス」、これがPR担当者の実情だった。東電社員の発言ではないことは、理由にはならない。座談会に同席した東電の女性社員は、何の疑問も呈していない。型に嵌った教育を与えて「役立たず」に育てたのは電力会社だが、教育を受けた側もいい年をした大人だ。彼女等にも責任はあるだろう。また高谷知美(東芝科学館)によると「展示物が更新されたときも研究員や営業の方にきていただいて、2時間ぐらい勉強します。また当社の工場や原子力発電所、あるいは晴海で行われるショーなどに出向いて最先端の知識を仕入れています」と述べており、PR施設間で綺麗事で埋まった情報を伝染させていたようだ。
【出版物に掲載された福島第一の海水ポンプ】
さて、構内見学の規制が他社にも増して恣意的なものだったので、80年代以降も身内向けの文書にはしばしば海水ポンプの姿は写っていた。身内向けと言っても、社史であるから対外的なPRも兼ねており、図書館に収蔵されているものもある(図書館は企業広報の場では無いので、受入数に余裕が無いと早期に除籍される。それを織り込めば、寄贈数は現在残っている数より多かっただろう)。
『東京電気工務所35年史』1982年P282-283。右側の写真に注目。後方の法面、タービン建屋外形から6号機用循環水ポンプと推定。定期検査のため予めクレーン車を進入するスペースが確保されていることが分かる。法面の上には白いガードレールが見えており、車が通れる道になっていることを示している。
日立製作所『土浦工場十五年史』1989年P228-299。P228のCWPとは循環水ポンプの略称。両端にある小ぶりな円筒状の機器が残留熱除去系海水ポンプである。
東電も子会社になるとあっさりと鮮明な空撮写真を載せている。
『東電設計三十年の歩み』1991年7月P88。元の写真は発電所全景だが、3、4号機付近を300dpiでスキャンし、分かり易いように写真中に追記した。赤で囲った場所が海水ポンプである。放水口も見学スポットの一つであるが反対側を向くと意外に海水ポンプに近いことが分かる。
【同時多発テロによる警備強化は恣意的な基準で運用されていた】
時は流れて、本記事の終盤は2000年代の構内見学を検証する。この時期に問題となったのは、2001年9月の米同時多発テロへの対処であった。次の電気事業連合会の資料を見ると、構内見学に制限がかけられていることが福島第二を例示して説明されている。
「「国民・地域社会との共生」電気事業者における取組状況について」電気事業連合会 2007年5月31日
しかし、この見学ルートには抜け穴があった。
来館者数減の大きな引き金となったのは、2001年に起きた9.11同時多発テロ事件である。この事件以降、セキュリティの問題から基本的には発電所内部の見学の自粛を各電力会社が取り決めたため、以前のように現場を見せて理解を得るという活動ができない状態となった。現状では、発電所立地地点の地元の人たちや、国会議員など一部の人たちには従来の見学ルートは残されているが、いわゆる「一般市民(来館者)」への対応はPR館内での説明のみ、あるいはそれに加えてバスでの構内一周(下車不可、発電所建屋外観のみ見学)で発電所の説明をするという形にならざるを得ない。
「原子力発電所関連PR館における情報共有の実態と運営の課題」『社会経済研究』No57 2009年6月P26
なお、同記事では福島第一への訪問日は2006年12月14日、第二が15日となっている。冒頭で述べた様なサイト名を名指しして疑問を呈していたのは専ら地元の住民であった。また、この文章から、電力会社にとっては同じ構内でも建屋外より建屋内の方がセキュリティレベルが高いことも分かる。
【「他社の津波対策に学べ」と市民運動に諭されていた東京電力】
さて、本記事冒頭に示した申入れだが、実はネット上で公開されている。これは市民社会と原発の関係を考察する上で、極めて重要である。
原発の安全性を求める福島県連絡会の早川篤雄代表、伊東達也代表委員は5月10日、東京電力の福島第二原発を訪れ、つぎの「申し入れ」を行いました。
(1) チリ津波級の引き潮のとき、第一原発の全機で、炉内の崩壊熱を除去するための機器冷却用海水設備が機能しないこと、及び冷却材喪失事故用施設の多くが機能しないことが判明しました。(中略)
これまで住民運動の苛酷事故未然防止の要求を受けて、浜岡原発1号・2号機では3号機増設時に海水を別途取水するバイパス管(岩盤中に連携トンネル)を取り付け、女川原発の1~3号機では、取水口のある湾内を十メートル掘り下げて、機器冷却用水確保の対策を実施しています。
東電はこうした例にも謙虚に学び、早急に抜本的な対策をとるよう、強く求めるものです。(2) 高潮のときに、第二原発の44台の海水ポンプが水没することも判明しています。
想定される最大の高潮のときに、第一原発6号機の海水ポンプ14台が20㌢水没し、第二原発は1号機と2号機(各々11台ずつの22台の海水ポンプ)が90㌢水没し、3号機と4号機(同じく22台)が、100㌢水没することになります。そこで東電は第一原発の6号機については土木学会が発表した直後の定期検査にあわせて密かに20㌢のかさ上げ工事をしました。
しかし、第二原発の海水ポンプは「水密性を有する建物内に設置されているので安全性に問題はない」として、今日まで何の手も打っていません。
これに対し私たちは再三、海水ポンプ建屋を見せてもらいたいと申し入れをしましたが、テロ対策上見せられないという態度をとり続けています。
これは、テロ対策を理由にした「悪乗り」としか言いようがないものであり、黙過することのできないことです。
2002年に発覚したあまりにもひどい事故隠し、改ざん事件を経て、二度とこうしたことを繰り返さない、今後は包み隠さず情報公開に努めると県民に約束したのは、いったいなんだったのかといわざるを得ません。わたしたちは強く抗議し、また、海水ポンプ建屋を公開するとともに、抜本的な対策をとるよう求めるものです。「チリ津波級の引き潮、高潮時に耐えられない 東電福島原発の抜本的対策を求める申し入れ」原発の安全性を求める福島県連絡会代表 早川篤雄 2005年5月10日(PDF)
伊東達也氏は共産党の県議会議員だが、経歴を調べると3期勤め2003年に引退していた。従って、東電は岩本忠夫の時と同じパターンで伊東氏を拒絶したに過ぎなかった。当の岩本氏が推進派に鞍替えして双葉町長の椅子に収まっていた時に、この申入れ拒否は起きていたのだった(岩本氏は2005年12月に町長を退任した)。
このシンプルな事実を軽視して産総研の岡村氏など「箔」の付きそうな「警鐘」ばかりに目を引こうとしたメディア・事故調の姿勢には大きな疑問がある。
【他の見学事例との比較】
一方、2000年代にはインターネット上にも見学記録が書き残されるようになった。次の6例を検討してみよう。
【事例1】「東京電力 福島第一原子力発電所取材見学にて」2000年5月19日
同時多発テロ前の見学だが、構内の写真撮影をしている。
【事例2】「続・原子力発電所見学ツアー」2006年2月18日
同時多発テロ後だが、よりセキュリティレベルの高い福島第二の中央操作室、原子炉建屋を見学している。当時、同レベルの見学が福島第一でも可能だった証拠である。当然、海水ポンプも見学可能だっただろう。
【事例3】「福島第一原子力発電所に行ってきました」2007年1月19日
発電建屋(リアクターおよびタービン)にはセキュリティー上の理由で入れてもらえません。見させてもらえるのは,展示施設と作業員の訓練用の原寸大のリアクター,低レベル放射性廃棄物の貯蔵庫でした(中略)。
津波対策はどうなっているのだと言う質問には,10mの高台にある施設は既往最大の津波に対応だが,津波が押し寄せることよりも,引いてしまうことのほうが,冷却水空焚き状態になるので問題とのことだった。
構内見学は出来なかったが、6例の中で唯一津波対策について質問している。2007年1月時点で、(専門の技術者ではなく)広報担当レベルで「10m以下は危ない」と認識している。当然海水ポンプが危ないと言うことも、認識していたと思われる。このコメントはかなり致命的である。また、質問の出現頻度が6分の1とすると、同様の質問をしていた見学者は推進派が考えているよりも多かった可能性がある。
【事例4】「東京電力・福島第一原子力発電所見学印象記」2007年9月26日
9.11事件以降、テロ対策として、監視カメラ、金属探知器、防護フェンスなどを設け、警備が強化されたとのこと(中略)
まず、中央監視室に案内されました(中略)
まず、発電機の部屋に入ります(中略)。エレベーターで5FLまで上がり、原子炉圧力容器の上まで案内してもらいました(中略)。
今回の見学は本年5月に技術懇談会で講演いただいたエネルギー・ネット代表の小川博巳氏と元東電(株)副社長の竹内哲夫氏のご尽力で大出所長以下の親切丁寧なご説明をいただけ、普段では見られない場所まで案内していただき、非常によい勉強になり、良い経験をさせてもらいました。
やはり同時多発テロの影響で警備強化を図ったことが伺えるが、社内の役職者の知己ということで、原子炉建屋・中央操作室に入っている点が特徴である。『社会経済研究』で言及された「一部の人達」にどのような人が含まれるかが理解出来る。
【事例5】「福島第一原子力発電所と広野町交流の旅(その1)」2010年6月5日
テロ防止のため稼動している原子力発電所内の見学は出来ませんが、サービスホールでは原子炉を収納する建物の最上階を再現し原子炉の真上にいるような体験ができます(中略)。
又、技能訓練棟では発電所で働く人が実際に使用されている機器を使って訓練を行い技術向上を図っています。
事例3と同じく、テロ対策のため構内見学が不可となっている。
【事例6】 「福島第一原子力発電所見学に行ってきました」2010年11月29日
敷地内での写真は禁止になっていました。理由は敷地内の道すじが解るとテロ対策に支障がでる、とのことでした。したがってGoogleで検索しても敷地内の道路は出てきません。各所のゲート、検問は米軍基地と勘違いするほどでした。
敷地内のゲートはパスしたものと推測する。訓練センターに向かうためなのか、建屋外観以上の構内見学だったのかは不明である。撮影禁止の指示が出ていることが、事例1と異なっている。「原発構内は撮影制限or禁止」は関係者には常識だが、米同時多発テロ以前は緩やかに運用されていたことが伺える。
なお、上記6事例の見学記録の中には、原発の基本的な仕組みが殆ど理解できないまま見学を終えた者も存在する。東電が気に入る人材だけを見学させるということが何をもたらすかが推測できる。原発への予備知識や問題発見力は、原発への是非ではなくて、原発に興味を持っているかどうかで決まるからだ。東電の考え方では「原発が問題だと感じて、勉強を始めた一般市民」は永久に構内見学は不可能だ。
【国の核防強化案の矛盾】
実際、米同時多発テロの影響から2004年には国でも総合エネルギー調査会にて防護対策がが審議されていたが、次のような文言が存在した。
②必要最小限の秘密の設定
原子力基本法の基本精神(注:民主、自主、公開)を踏まえ、核物質防護秘密の対象は、当該情報が漏洩した場合に著しい危険の増大が予想される情報や核物質防護の効果的な実施に必要不可欠な情報等、最小限の範囲に留める。
③秘密の実効性の担保
既に当該情報が公開済みであったり、当該情報に関与する者が不特定多数に及ぶ場合等は、実質的に機密の保持が困難と考えられることから、秘密の対象とはしない。
「核物質防護対策の強化について(案)」総合エネルギー調査会 2004年10月P9
当ブログおよび『原発と大津波』などが再三に渡り指摘したように、2000年代には原発を津波が襲った場合の問題点は公知の情報だった。高木仁三郎も1997年に日本物理学会誌に投稿した「核施設と非常事態」で津波による非常電源の停止の可能性を予見している。当時、東電は「海水ポンプの位置と海抜」を機密と捉えて冒頭の発言をしたと思われる。しかし、上記方針案に照らしても、東電の言い分は成立の余地が全く無い。仮に、猫も杓子も入構厳禁にすれば、正しい批判に耳を塞ぐことになる。多少テロを防ぐ役に立ったところで事故を防げなければ、そのようなテロ対策の存在意義はゼロである。
【最終改訂版にも明記されていた「見学者」対応】
最後になるが、東電が福島事故の直前まで見学者が入構する可能性を考えていたことを示す文書がある。事故後公開された原子炉の事故時運転操作手順書だ。
「津波注意報」又は「津波警報」が発令された場合は、ページング(注:構内放送)により取水口周辺及び屋外の作業者及び見学者等に避難を指示する。1号機事故時運転操作手順書(事象ベース)2010年2月11日第22章
取水口周辺に見学者が来ることを想定していたのが分かる。この操作手順、設備改造や法規制が変更する度に、細々と改訂を続けていた。従って、最終改訂は2010年なのである。
また、事故時運転操作手順には津波に備えて海水ポンプの仕様が詳細に記述されている。事故時運転操作手順は当直の者は叩き込まれ、その改訂も現場で行うとされてきた。2000年代には改訂された津波想定の数値(最大5.7m)も盛り込まれた。従ってポンプの詳細を覚えている者が居なかったということは絶対にあり得ないと分かる。
以上が東電の原発広報施設関係者達が事故の戦犯として裁かれなければならないと考える理由である。彼等は今日も枕を高くして眠りについている。
16/5/9:2000年代の状況を加筆・全体的に修文。総合エネルギー調査会委員の件は別の機会に扱うこととし、削除した。
16/5/10:【「他社の津波対策に学べ」と市民運動に諭されていた東京電力】を追加。
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