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2015年3月の3件の記事

2015年3月14日 (土)

日本原子力技術協会が2007年に提起した想定外津波対策-社外からの予見可能性は具体的でなくても良い-

今回は具体的な計算結果からは離れ、予見可能性について考えたい。

事故以降非常に評判の悪い原子力業界だが、実は津波浸水対策について一般向けにも有益な考え方を提起していた団体がある。提起したのは日本原子力技術協会。一般にはWANOと連携して国内事業者にピアレビューを行なったり、石川迪夫氏を最高顧問に迎えていたことで知られる。

個人的には、2000年に行われた福島第一のピアレビュー(リンク)でシビアアクシデント対策のチェックを行ったにも拘らず、何の疑問も提示せず問題無しで済ませてしまったことが印象深い。ピアレビューは同業他社の技術者がプラントツアーを行うのが基本だから、東電に限らず当時の業界全般の能力を推し量る上でも有用なエピソードだ。

例えばシビアアクシデント対策をこの様に褒めちぎった。

6.1.2 良好事例
・原子力発電所の安全性について、フォールトツリー解析などを含む確率論的安全評価により定量的な評価が行われている。この評価結果は、アクシデントマネジメントや定期安全レビューにおいて使用され、より高次の安全性確保に有効に活用されている。
「6.1 核的安全を中心とした原子力安全に対する取り組み」 相互評価(ピアレビュー)実施報告書 2000年11月24日P43

設備改造に関する評価も酷い。

6.2.2良好事例
・他の原子力発電所等において発生し、収集されたトラブル・事故等の事例は、「予防保全検討会」においてタイムリーに検討されるとともに、特に緊急性を要すると判断された場合には「QUICK LETTER制度」により、速やかな関係箇所への周知、迅速なコメント処理が行われるなど、本発電所への水平展開、再発防止が確実に図られている。

「6.2 過去のトラブル事例の反映」 相互評価(ピアレビュー)実施報告書 2000年11月24日P47

このように書く割には同業他社が手を付けていた外部電源の予防更新による耐震化を放置するなど、実に甘いレビューだった(参考)。

そんな原子力技術協会が一転して水害をターゲットにした提言をまとめたきっかけは2005年のハリケーンカトリーナで、ウォーターフォード3発電所が被災したことだった。これをきっかけに異常気象に対するアメリカの取り組みを参考にしながら、下記の文書を発表、電力会社にも説明を行った。

原子力施設における台風等風水害対策の考え方について」 2007年7月 日本原子力技術協会

事故後の目から見て非常に注目されるのは、台風や地震に囚われることなく、「風水害」全般を対象としていることだ。具体的には「台風」「大雨」「暴風」「津波」「高潮」「大雪」となっている。

また、考え方として想定外対応を打ち出している所が重要だ。

4.風水害対策の考え方
事業者が考慮しておくことで風水害対策がより効果的になると思われる考え方を洗い出すにあたって、以下のような基本的視点と対象事項を定めた。

(1)基本的視点
A.気象データ、災害情報に関する最新知見の入手
近年、自然災害は大型化しており、設計当初の気象データの有効性が損なわれている可能性があるため、最新のものを入手する。また、自治体や公共機関などがハザードマップ災害の影響を分析した情報を提供しているので、常に最新の知見を入手する。更には、設計を超えるような風水害発生を想定する。

B.周辺施設、インフラ被害の考慮
風水害はその影響が広域に及ぶため、発電所が直接被害を受けてなくても周辺施設が被害を受け、原子力施設へ間接的に影響を及ぼすことがあるから、これを抽出し、配慮を行う。原子力施設には送配電線、通信施設、道路、橋梁、港湾施設、周辺工場などがある。

(中略)
(2)検討対象
i.設計
最新の気象等の知見をもとに、設備の確認を行う。
a.最新の知見に基づく風水害が設備設計を超えないこと
b.風水害に対する設備の実力を把握すること

ii.災害対応手順
a.(1)の知見に基づいた対応手順書類の見直し
b.災害をもたらすと予想される気象状況が発生した場合および上陸した際に、原子力災害につながる芽を摘み取る活動が含まれること。

原子力施設における台風等風水害対策の考え方について』 P5

ハザードマップに関する記述は1998年公表の福島県津波想定調査にて、実際には原発の津波想定を先駆けて行い、1677年延宝沖地震津波をモデルにM8.0の地震津波シミュレーションを行っていた事実を思い起こさせる(経緯は『原発と大津波』第5章冒頭を参照のこと)。対する東電も東電で、実力値の把握も既に実施していたのだから、後は表に出すかどうかだけが問題だった。これを国民一般はおろか、福島県にすら提示していなかったことも既に知られている。

もっとも、福島県は1998年の調査の際に東電に照会を行っていた可能性がある。茨城県と原電での非公式なやり取りという実例がある以上、古い記録を処分・忘却或いは隠蔽した可能性は否定できない。

さて、読み進めていくと5章では丁寧なことにこんなことまで書かれている。

5-1.設計の確認
(1)設備の実力把握
a.最新の気象情報等の知見をもとに、設備が当初設計のままで対応可能かどうか確認を行う。
最新の気象、海象データの収集、分析周辺災害情報の入手、分析(自治体等作成の各種ハザードマップ等の入手、分析)最新の気象或いは周辺災害情報に照らした設計の健全性確認

b.設備の風水害に耐える実力・能力(どの大きさの風水害まで耐えうるのか)を把握する。
c.発電所構外の通信設備等インフラ施設や他社工場などの被害が発電所に及ぼす影響を考慮する。

5-2.災害対応手順の確認
風水害が発生あるいは上陸した場合に従う手順の検討にあたっては、前項5-1.で得られた設備の実力に基づいておこなう。検討の項目は以下

(1)訓練等の実施
(2)気象情報の監視
(3)プラント内外のダメージの想定
(4)浮遊物・飛来物対策
(5)災害対策体制の整備
(6)必要資機材の準備
(7)原子炉停止条件の把握
(8)電気火災の考慮
(9)通信、情報のやり取り
(10)原子力防災計画とのリンク
(11)経験のフィードバック

原子力施設における台風等風水害対策の考え方について』 P6-7

「プラント内外のダメージの想定」「必要資機材の準備」は事故で致命的な問題となった点である。水が建屋に入ってくることを想定に入れていれば、水密化自体は低コストで実施可能だった。「資機材」と書かれているように、この文書では暗黙の前提として巨大防潮堤のような手間のかかる設備は前提にしていないように思われる。

文書はSBO対策にも及んでいる。

(6)必要資機材の準備
c.送電線や開閉所、変圧器の事故による外部電源喪失の可能性が比較的高いことから、非常用ディーゼル発電機の健全性維持と燃料確保が重要となる。燃料については、あらかじめ必要量の見積もり、調達先確保等の検討を行っておく必要がある。

『原子力施設における台風等風水害対策の考え方について』 P10

ここで言及されている健全性維持が、日常的なサーベイランス実施に留まらないのは明らかだろう。また、福島第一では多くの発電機が水没したため目立たなかったが、原電東海第二のように燃料確保に奔走した事例が見られるのも事実である。これも予見されていたのは正直驚きだ。

前回記事で紹介したIAEA安全基準との連携が無く、JNES内で非公開で開催された内部溢水検討会を参考にした様子も無い(逆にJNESがこの文書を参考にしたという証言や文書も無いようだが、私が見落としているだけかも知れない。溢水勉強会に関しては添田氏が『原発と大津波 補足と資料』にて膨大な資料を公開しているため、精読してクロスチェックが必要だ。そのような読み方は刺激にもつながる。)

恐らく、原子力技術協会は既存基準類をノーチェックで書いたのだろう。しかし文面を読むと「並行進化」「車輪の再発明」を地で行っていることが分かる。見たくないものを見るように少し努力すれば、この程度のものは作ることが出来るということだ。

一方、高い情報収集能力を持つ東電の場合、この文書を意識して社内検討を実施した可能性は否定できない。例の推本予測をベースに福島沖に明治三陸波源を仮置きして実施したシミュレーションは2008年のものだからだ。つまり、石川迪夫氏など業界に苦言を呈する「うるさ型」を傍流(桜井淳氏による表現)の日本原子力技術協会に追いやったのは良かったものの、JNESや保安院でも津波・水害関係の再検討がスタートし、『原子力施設における台風等風水害対策の考え方について』を発表されてしまったため、再調査を実施、『津波に関する研究 その2』を現代風にリファインしたのが2008年のシミュレーションでは無かったのだろうか。

『原子力施設における台風等風水害対策の考え方について』は2008年に朝日新聞記事でも取り上げられ、同協会はその事実が埋没しないように再度強調を行っている(組織横断的取り組み その他)。

日本原子力技術協会についてはピアレビューの件が民間事故調で取り上げられた程度で、『原子力施設における台風等風水害対策の考え方について』は、東電、政府、国会、民間の4大事故調は全く取り上げなかった。ネットで確認出来るのは大前研一の『「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」最終報告』などもあるが、これもノーチェックとなっている。私は事故後かなり図書館や書店に通い詰めたが、書籍でも、この件を見かけた記憶は無い(福島事故関連の書籍は多数に上っているので、全く掲載例が無いとは断言しないが)。

興味深いことに当の原子力技術協会はINPOの事故調査報告書を翻訳したにもかかわらず、自らの提起について何も振り返ろうとしなかった。INPO報告にも反映されることは無かったようだ。反映されていれば今頃業界は自慢の種にしていただろう(米国原子力発電協会(INPO)「特別報告(追録):福島第一事故からの教訓」)。

石川氏は『考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』(2014年)を上梓している。同書は図書館で少し目を通した程度だが、自身が関与していた協会の提起に触れていたのだろうか。

ここまで無関心でいた理由は、この協会がパッチワーク的に行動する傾向にある事、タイトルが「風水害」となっているため「津波」をキーワードにしてタイトル検索しただけでは引っかからなかったことなどが考えられる。私もこの文書を知ったのは事故後4年経ってからだった。

不作為に対する迫り方は毎回紹介している『原発と大津波』が極めてオーソドックスなアプローチだが、厚さを一定に保つ岩波新書の要望なのか、日本原子力技術協会の動きを盛り込む余裕は無かったようだ。しかし、「数値は出さなくともある程度具体的な考え方を示す」といった点から、予見可能性を証明する立論はあっても良いのではないだろうか。

このような考え方が業界内からすら提起されていたにも拘らず、東電を動かす程の社会的圧力が作り出せなかった理由は何か。言うまでもなく、具体的計算結果の隠蔽に尽きる。東電事故調が述べているように、公式には福島原発事故のその日まで、設置許可申請に記載されていた津波想定は全く更新されず、チリ津波を前提にした3m程度の物でしかなかった。情報隠しを行っている場合、例え正しい疑問を抱いていたとしても、その想像力が正しく開花するとは思われない。それは次の事例を読めば明らかだろう。

3.質 疑
●原子力発電所は津波を考えているのか。
・日本海側、特に北陸・東北地方の発電所では津波を考慮して、取水工等を検討しているであろう。しかし、山陰地方の発電所では考慮していないのではないか。しかしながら、詳しくは情報公開されていないのでよく分からない。

2.1.2 講演要旨「来るべき東海・東南海・南海地震津波とその被害」』京都大学防災研究所 巨大災害研究センターセンター長・教授 河田恵昭 (第4回東海・東南海・南海地震津波研究会) 1998年5月12日

この当時既に幾つかの原発の津波検討実績があったのは事故後の情報開示で明らかになったことである。

事故前に反対派が行っていた予見可能性の代表例は高木仁三郎「核施設と非常事態 : 地震対策の検証を中心に」(1995年)、石橋克彦「原発震災 破滅を避けるために」(1997年)、或いは吉井英勝議員の質問書(2006年)などが知られている。

これらの人達と河田氏の講演の違いは河田氏が津波災害の専門家であることだ。その真価は『津波災害――減災社会を築く』(岩波新書、2010年)で如何なく発揮されている。高木氏や石橋氏は津波の専門家ではないからその脅威を指摘したとしても具体性に欠けたのはある意味当然だった。しかし、隠され、安全神話のシャワーを浴び続けてしまうと、その道の専門家であっても、正しく予見することは不可能になると言うことだ。このことは、社外、業界外からの予見可能性に関しては、閾値を大幅に下げてその価値を評価しなければならないことを意味する。勿論、原発訴訟においても同様である。

2015/3/15:【追記:提示後に対策した原電東海第二】
日本原子力技術協会は各電力会社に提示した旨を述べている。提示が2007年7月、茨城県の発表では津波浸水想定区域調査を土木部が2007年3月に公表、原電の説明では2007年10月に「本県沿岸における津波浸水想定区域図等」が公表され、その後県の原子力対策課から検討を口頭で依頼された。しかし茨城新聞2011年9月11日の記事によると当初は「本店も最初は『学会の評価を基に対策済み。県の予測は参考』との空気だった」と伝えられている(2014年の当ブログ記事参照)。

そのさなかに業界内から『原子力施設における台風等風水害対策の考え方について』を示されたので、具体的な対策に結び付いたのではないだろうか。原電のこれまでの説明にも、原子力技術協会の話はないが、同時期の話であったことや、東電との差は興味深い。

2015/3/21:【追記:会長経験者すら無視していた東京電力。権威が無ければとことんコケ】
日本原子力技術協会が当時どのように見られていたかを毎日新聞の中瀬信一郎氏が書いている。

日本原子力技術協会(原技協)は解消、代わりに原子力安全推進協会が電力会社、原子炉メーカーなど123社によって11月15日に設立された。さもありなん、と思いますな。

原技協が新設されたのは2005年。目的はアメリカのINPO(原子力発電運転協会)の日本版になることだった。よく知られているように、INPOは原子力発電事業者によってTMI(スリーマイルアイランド)原発の事故後に設置され、全原発の運転、事故、維持・補修などの情報を日常的に集め、業界なりの運転、維持基準を取りまとめて各事業者に連絡する。同時に、これをNEI(原子力エネルギー協会)に上げ、NEIはこれに基づいてNRC(原子力規制委員会)と規制の在り方を丁々発止とやりあう──というシステムである。

これを日本にも、という東京電力の荒木浩顧問の発案だったが、出だしから疑問符が付けられた。原発を持つ電力10社から情報がはかばかしく集まらないから、原技協は運転や補修などの共通ルールもまとめられない。もっとも、仮にルールを作ったとしても、それを原子力安全・保安院や原子力安全委員会に上げるのは日本原子力産業協会なのか、電気事業連合会あるいは電力中央研究所なのか、そこが曖昧のままとあっては、日本版INPOの機能を果たせるはずもなかったが・・・。

(中略)もし日本版INPOがワークしていたら、福島第1原発の敷地の高さは変えるわけにはいかないにしても、非常用ディーゼル発電機などの設置場所は改められ、全電源喪失は防げていたのかも。

歴史のイフ(2012/11/26)」(エネルギーフォーラムHP)

これでは、東電が提言を無視したのも頷ける話である。東電関係者でも荒木氏は例外的に問題を直視し得る高級幹部だったのかも知れない。荒木氏は2002年の原発検査データ改ざん事件で引責辞任しているが、一説にはこの時良心的な経営者が一掃されたと述べる者もいる(出典は失念。もっとも、安全対策の不作為もデータ改ざんと同じ位長い歴史があることが分かったので、2002年の経営陣が良心的かは疑問だが)。しかし、都合が悪いと会長まで経験した力のあるOBでも無視するというのは、どういうことなのか。

2015年3月 3日 (火)

【文献は】東電資料より10年も早かった1983年の福島沖津波シミュレーション(後編)【公開せよ】

前編はこちら

【1983年に発行されたIAEAの津波安全指針】

さて、ここからはブログ記事の後半戦。前回のシミュレーションを踏まえて同時期に起こっていたポイントになる出来事(あまり注目されていないが技術・経営面では重要なこと)を踏まえて考察していく。長文となるが、津波想定問題に興味のある方は、最後までお付き合いいただきたい。

冒頭に紹介したIAEAはその後、安全指針をシリーズ化して発行するようになった。津波防災に関わるものとしては1983年に発行された『No50 SG-10B 海岸敷地における原子力プラントに対する設計ベース 洪水』(50-SG-S10B Design basis flood for nuclear power plants on coastal sites 1983)である。1985年に原子力安全研究協会が和訳を発行し、必要なら英語が読めなくても読むことが可能となった。

2.2.2.2 津波
海岸敷地に対しては、予備調査に津波の潜在性があるか否かを決定するた めに過去の記録に関する解析を含まなければならない。世界の海洋の大部分及び津波を受ける海のいくつかに対しては津波に関する情報が数多くの情報源から利 用可能である。全津波の80%は太平洋で発生していると推定されているが、この種の破壊的事象は大西洋、インド洋、地中海及びそれら近辺の海域でも経験されている。津波に関しては多くの資料が収集されている。

(中略)海洋地震または火山活動の潜在性の有無と、近地津波、遠地津波による敷地の被災性が調査されなければならない。これは、これらの領域からの波が歴史上に記録されていなくても調査されなければならない。

もし、津波の潜在性が存在するならば、予備解析は本指針の5章で概説される簡潔な手法により履行されなければならない。

確率論的手法及び簡潔化された決定論的手法の適用がこの段階での津波評価に適している。(中略)国際津波情報センタ(ホノルル)により編集された既知の津波と津波と考えられるもののリストから得られた情報を用いて、津波活動の形跡が存在するか否かを調べるために敷地地域の特定の水位観測所に対して全てのハイドログラフを検討することを本手法は要求している。

(中略)水位観測所と敷地での津波応答の相関は、海岸形状を調査することにより明らかにされる。ハイドログラフ上の最大津波波高は近傍の海岸で観測された遡上高とは大きく異なるであろうから、既知の洪水高さに関する相互比較は敷地と水位観測所において可能な場合に限って行われる(参考文献[8]を参照)。

『No50 SG-10B 海岸敷地における原子力プラントに対する設計ベース 洪水』P8-9(リンク)原子力安全研究協会訳

参考文献[8]とは下記を指す。

WORLD METEOROLOGICAL ORGANIZATION,Manual for Estimation of Probale Maximam Precipitation,Operational Hydrology Report No.1,WMO-No.332,WMO,Genova(1973)

IAEAによれば、小名浜のチリ津波を根拠にし続ける東電の姿勢は「問題外」ということになる。添田氏やコロラド氏をはじめあんなものを根拠にして良いのかという疑問は事故後、誰もが感じたが、IAEAは30年も前に指摘し、その根拠は1973年のWMOのマニュアルだったのだ。

No50 SG-10Bは中盤以降で更に詳細な津波解析方法を推奨している。

5.2 海底地盤変動
(中略)モデルでは、地震のマグニチュード、震源の深さ、震央位置、断層の形態等の関数として海底地盤変動が与えられる。

最大地震の潜在性は、安全シリーズNo50-SG-S1のタイプS2地震に対して記述されたと同一のもしくは類似の手法で評価されるべきである。この地震は敷地で最も危険な津波を発生する潜在津波性地殻構造沿いまたは地震地殻領域で発生するものと仮定されなければならない。

以下のデータは海底地盤運動及びその結果として生じる水位上昇を十分明確にするために必要とされるものである。

・地震のマグニチュード
・最大鉛直地盤変位
・震源の長さと幅
・震源の方向と形状
・断層決裂長と震央位置
・断層からの距離による変位の減衰

これらのデータのいくつかは、安全シリーズNo.50-SG-S1で論じられているS2,S1地震を評価するための調査によって得られるであろう。 これらのデータの保守的な決定は、既往の記録の解析と共に地形学的、地質構造的、地震学的調査の結果を用いて行われるべきである。

『No50 SG-10B 海岸敷地における原子力プラントに対する設計ベース 洪水』P8-9

要するに「波源モデルは基準地震動のモデルと揃えなさい」ということである。サイト間での想定不整合に関し、添田氏がもっかい事故調オープンセミナー で、女川3号機が貞観の地震動に備えていることを例示していたことを想起させる。また、国会事故調によれば、津波堆積物調査に東電が非協力的であったため、文部科学省が浜通りで調査を開始したのは、東北電力が仙台平野で実施したのに20年近く遅れた2000年代末のことだったという。IAEAの安全指針を無視し 「地形学的、地質構造的、地震学的調査」を地震向けのものに限定したからである。

IAEAの一連の安全基準を軽んじることが出来たのは、国内に取り入れる努力を日本の監督官庁や電力業界がサボったからである。

IAEAでは1974年以来,「国際安全基準(NUSS)」の策定作業を行い,その骨組みとなる5つの"Codeof Practice"が1978年 に出来たが,(中略)当初作業を始めた際は,安全規制の目的に使用する場合の推奨基準として策定されたものである

内田秀雄「原子力安全の新時代」『日本原子力学会誌』1992年4月 P7

1986年にチェルノブイリ事故が起きても、事態は変わらなかった。

チェルノブイリ原子力発電所事故に端を発する原子力に対する不安と反対の高まりに対応するため(中略)国際安全基準に対する期待が大きくなった。(中略)IAEAは NUSSAG(Nuclear Safety Standard Advisory Group)を設置し,シビアアクシデントの取扱いを明示的に盛り込んだ原子力安全基準文書の改訂版を策定することとした。ところが,原子力利用各国はそれぞれ異なる法律・基準を採用しているため,IAEAの安全基準文書の国内基準への取入れは当初,必ずしも順調には進まなかっ た。 しかし,最終的に「異なる方法および解決法であっても,同等の保証を与えるものであれば容認される」との一文を序文に挿入することにより,各国とも本安全 基準文書に同調していくこととなった。

IAEAの国際安全基準に関する活動」『日本原子力学会誌』2000年10月 P32

規制側の担当者による原稿のため、官僚的作文となっているが、要するに抜け穴を設けてから取り込みを図ったのである。

【経営面からも1980年代の再検討が必要】

首藤信夫東北大教授は土木学会の津波評価委員会で主査を務めた際、持論に反し安全率を1倍に削ったことで汚名を残したが、その証言は中々興味深い。 例えば、政府事故調の聴取録によると1988年に『電力土木』誌にて津波の脅威を述べたところ、業界から猛反発を受け、北海道南西沖地震後まで数年間原発に対する津波の研究が停止状態にあったとしている。『原発と大津波』のインタビューでは、津波対策の提案を3回蹴られたと述べている。蹴られた時期は、今後確定が必要になる。

対策をしなかったのは一言で言えば「金にならないから」だろうが、時代的な影響も無視は出来ない。バブル期、東電の経営は極めて好調だったからだ。そこで今回、私は次のような文献を元に理屈付けを試みた。

また、もう一つが利益で見た変化です。九社合計の経常利益の推移を棒グラフにして示しています。これは九社合計の売上高です。まず思い起こしてほしいのは、 トリプルメリットでめちゃくちゃ儲かった時です。トリプルとは何かと言うと、円高、原油安、金利低下です。これにより燃料費等が大きく低下したことで、利 益が急増しました。ところが、出てきた利益は還元値下げを繰り返したことで、意図的に抑えたというか、世論の圧力で抑えさせられたのでした。その後、ほぼ 一定の水準を保つような推移が続いてきたのです。

円尾雅則「証券アナリストから見た電力各社の経営分析」『資本市場と電力』2001年2月 P26

上記は電力会社を相手にアナリストが行った講演だが、「トリプルメリット」これがバブル期の電力経営を語るキーである。ただし、技術史・社会史的観点からはアナリストが言う「世論の圧力」という単語には注意がいる。確かに消費者は公共料金への値下げ願望が強いが、それだけだろうか。次に、東電と独RWEの経営状態を比較した論文を見てみよう。

86年は東電にとって円高,原油安,金利安のトリプルメリットが重なって大幅な利益が計上され,これが,レバレッジの原理により増幅されたものである。しかし,東電は借入れ依存度が70%以上という高い比率であるため,このトリプルメリットがなくなったときには逆にひどい利益の落込みとなり,経営の安定上,問題がある。また,今期のように,公益事業としては極端に高い利益率は,常に料金値下げの潜在的圧力となる。

RWE社の設備投資は,原子力発電設備よりむしろ石炭火力の公害防除投資に向けられているためそれほど巨額を要していないこと,また,厚い内部留保があることなどにより,きわめて借入れ依存度が低く,財務体質が優れているといえよう。

富田輝博「電気事業の経営多角化戦略一東京電力と西独RWE社との比較を中心にして一」『情報研究』第9号 文教大学 1988年(ネット上で検索すると全文公開されている)

「レバレッジの原理」は財務分析の教科書か当該論文を参照して貰うとして、ポイントは、東電は原発に多額の設備投資が必要でその分借入金に依存しており、長期的には経営に不安があったと言うことである。そのような観点からは、新規建設と違って電源を生み出さない(利益に繋がらない)上、更に借入金依存を増す改造投資は、小口であっても極力避けたい動機があったとも解せる。

一方で、バブル後に結果として津波対策が強化されたのも事実だ。

1993年春、使用済み燃料プールの容量不足に端を発して共用プールの建屋を建設するための設置変更許可申請が出された。この時、非常用ディーゼル発電機も建屋内にスペースが設けられて設置されることとなり、原子炉を冷却することを前提に容量が決められた。この時増設された空冷発電機が無ければ 5,6号機もメルトダウンしていただろう。極めて重要な出来事だったと言える。空冷式とされたのは海岸からの距離があるために海岸から冷却水の取水路を設 けるより空冷式にすることが望ましいとされたという。従来の研究ではここで話が止まっていた。北海道南西沖地震は1993年7月12日の出来事なので、同 地震によって津波対策を触発された訳ではないことは分かるのだが、そういった時系列関係から意図を探る作業も熱心だったとはいいがたい。そもそも、建設時には地震動を抑えるため地下配置に変更となっていたのに空冷式の時は地上1階に配置とされた理由も分からないままだ。

しかし、申請前の10年間にあった出来事を見直すと、この動きには別の意味を探っていくことも出来るのではないかと思う。

【現時点での仮説】

現在、私は次のように推測している。

北海道南西沖地震以前、東電は敷地高10m以上の津波は無いと考えていたものの、敷地高4m以上の津波は予見可能性を認識し、仮に、IAEA安全指針に準拠した場合どうなるかは気になっていた。そのため、算定会の予測をもとに密かに社内で検証(算定会の計算結果を否定するため)のシミュレーションを実施、技報あるいは計算書として残した。その過程で、FKモデルのような前提を認めると 算定会のシミュレーションより悪い結果が出る可能性は認識したので、算定会の『津波危険度の研究』からはFKモデルを除外するように工作を行った。 1980年代の社内検討は①不都合の度合いが大き過ぎたか、②事故調が発見出来なかったか、③文書管理の杜撰さで原本が失われたかのいずれかの理由により、事故調には供されず、1994年のシミュレーションが最も初期のものとされた(故に94年の時は既往地震に対象を絞って貞観の再現に留め、しかも波源を三陸沖にずらした)。

また、津波に強い非常用電源が必要となり、ディーゼル海水ポンプが剥き出しとなっている福島第一で特に対策が必要になった。そのため増設分の非常用電源は空冷とされた。所内からの意見(例:『"福島原発"ある技術者の証言』)やメーカーからのコメントを反映すると地下は望ましくなかったので、地上階に据付することとしたが、建設時には無かった国の耐震設計指針が策定されていたため、M6.5の直下型地震で370Galの地震動を要求されたことで不安があった。その間、ディーゼル機関の製造元新潟鉄工は福島第一建設時に多数採用していた40Xシリーズから、SEMT社のPCシリーズのライセンスを元に開発・製造する方針に転換、原子力用途でも福島第二以降は18PC2-3Vが採用され、18V40Xとほぼ同じ大きさ、同等出力だった。同じBWR-5でも柏崎では小型軽量化をさらに進めた18PA6Vが採用されていた。機関が小型軽量であれば同じ地震加速でのモーメントも小さくなるので、地上階への変更は工認上の根拠も得やすい。従って既納のPCシリーズをベースに耐震仕様を満たした大容量ラジェータを開発し空冷型を採用したと推測される。

Niigata_100nenshi_p225

参考:非常用ディーゼル機関の耐震性と小型軽量化を強調する『新潟鉄工100年史』(1996年)

最終ヒートシンク確保の面からは残留熱除去系海水ポンプや補機冷却系海水ポンプも何らかの対策が必要だったが、これは予備の電動機を倉庫に保管しておくことで対応することと、少なくとも口頭では意思確認したものの、その後の電力自由化対応による定期検査合理化等の流れの中で「無駄な備品」の削減が図られ、標準化が不十分なBWR-3,4用の予備電動機が準備されることは無くなった。予備品の管理は工認等既存の法制度の枠外だったので電力会社単独での決定自由度が高く、他社(原電など)も持ってはいなかった。

繰り返しておくが、仮説なので、「このような資料が存在するのでは?」と言う意味で社内シミュレーションがあるものと仮定した。補足すると、監督官庁を納得させるためには、算定会のシミュレーションに対抗出来る自前のシミュレーションが必要だろう。1994年まで何もしないとは思えない。その傍証として、原発の構造解析に特化したコンサルタント、大崎総合研究所は 1985年に津波シミュレーションの報告を発行している(場所は中部沖だが)。同業他社も手を染めていたと考えるのは、不自然ではないだろう。なお、原電が東電のBWR-5と異なり残留熱除去系海水ポンプの予備品を持っていなかったのは問い合わせで確認済みである。福島第二が電動機交換で難を逃れたのは東電がBWR-5を標準化して多数保有していたことが影響している。また、共用建屋ではディーゼル発電機の下に地下階を設け、電気品室、蓄電池室を配置しており、ディーゼル発電機架台の下には地下室を設けなかった初期の設計思想と差がみられる。

【まとめ】東電は非公開文献を開示せよ

この記事では日本海中部地震から北海道南西沖地震の10年余りの間に起きていた出来事を新資料に基づいて分析した。もちろん今後も眠っている新資料が出てくることは十分にあり得る。しかし、現時点でも

  • 算定会がシミュレーションを公表してから空冷ディーゼルの設置を計画するまで最低10年間に渡って不作為を続けた
  • 最終ヒートシンク(残留熱除去系海水ポンプ)は空冷ディーゼルの計画以降も放置した

とは言い得るだろう。

『原発と大津波』をはじめとするこれまでの調査によって、事故前の10数年間に「警鐘を鳴らしても屁理屈と工作を弄して無視を決め込む」不作為のサイクルがあったことが判ってきている。そうしたサイクルが80年代にも存在していた可能性は極めて高い。むしろ「以前放置しても何も言われなかったから今回も大丈夫だ」と考えたのではないか。

各種原告団や弁護士の方によってこの件も裁判の中で解明されていくべきとは思うが、その際、東京電力は一連の事故調査で全く言及してこなかった次の未公開文献を開示するべきだろう。東電の原発資料は多数のリリース、官庁公開資料、専門誌記事で公開されているように見えるが、次に示す文献はそうではない。殆ど言及すらしていないところに、隠蔽する動機が強く疑われる。

  • 『東京電力技報』(1970年代にかけて発行されていた定期刊行物)
  • 『東電設計技術研究誌』(1980年代以降毎年発行されていた定期刊行物)
  • 『東京電力福島原子力発電所建設における工事の施工』東京電力 1972年、他建設工事誌一式

東電も原発黎明期から技報を発行しているが、90年代以降発行している『技術研究所報』を除き、大学への納本は現状無い。子会社の東電設計は本体と同じく一部の関係者が不作為を問われ、訴訟団から起訴を求められている。私が入手した一部の巻号には津波に関する研究もあり、全号の開示が望ましい。東電から調査を委託されたコンサルタントも技報は原則開示すべきである。金を貰って社会的に重要な研究をしていた以上、「やり逃げ」は許されない。

Todensekkei1995no10p115 出典:「平成6年度 社外発表論文リスト」『東電設計技術研究誌』No.10 1995 P115

上記に『東電設計技術研究誌』から確認出来る情報の一例を示す。『原発と大津波』で東電を追った第3章を読むと、1994年の津波シミュレーションで貞観津波の波源を不自然にずらしていることが示されている。一方論文リストを見ると、同時期にコンサルタントを使って既往の福島沖歴史地震を調べており、中村亮一という社員と、西村功という東電社員が関与していることが確認出来る。なお、これは社外論文であっても論文タイトルが学術データベースでピックアップできるとは限らない例で、現時点ではCiniiやJ-Stageで引っかからない。従って、社内で作成した論文リストは今でも重要である。

勿論、社内技報に掲載された論文自体も物によっては価値を持つ。

私自身、今回の記事で書いた資料を発見したのは『原発と大津波』をたたき台に因果関係を整理し、足りていない要素を考えてみた後だった。未公開資料 の公開により、さらに経緯の解明が進むこと、それが被害者の救済と業界が言う意味ではない技術の健全な発展に寄与することを祈念している。

2015/3/8:非常用ディーゼル周りに関して手直し。

【事故検証は】東電資料より10年も早かった1983年の福島沖津波シミュレーション(前編)【やり直せ】

当記事は添田孝史著『原発と大津波 警告を葬った人々』でも空白扱いとしてきた、建設直後から1994年の資源エネルギー庁による見直し指示の間の20年弱、取分け1980年代に何があったのかを新資料を活用して解明しようとするものである。従って事故経緯的には同書との相補性を意識した。記事を読まれる前に同書で時系列を整理されるとよいと思う。

例によって長文となるが、前半は主として1980年代の津波シミュレーションを題材とする。後半は他の資料も使いながら1980年代の東電不作為の経緯を考察する。

今回紹介する1983年の津波シミュレーションは、ブログで取り上げてきた一連の新資料の中でも取り分け重要な意味を持つ。東京地検の見解が完全破綻するだけではなく、聞き取りに依存していた政府事故調その他の事故調も二次調査の必要を裏付けることになる。事故に至る原子力技術史も新たな文脈で捉え直す必要がある。

やはり、発展的な継続を訴えた国会事故調の主張が最も正しかったのだ。一発屋で終わってしまった各事故調は完全に陳腐化したと思う。公式にも再調査を行って新情報を取り込む必要がある。

【1970年に和訳されたIAEA勧告の恐るべき先見性】

添田氏は同書冒頭で次のように書いた。

「津波についての新発見」→「原発の安全性再検討」→「必要な対策を進める」→「安全が確保できたか第三者がチェック」という安全確保の基本となる手順は事故の40年前に福島第一原発が造られて以降、一度も回されていなかった。

「プロローグ」『原発と大津波』Px

後述するが、業界では建設中から上記への言及があった。

当時の科学者や技術者たちが、地震の揺れにはまだ不確実な部分が多いことを自覚し、相当議論を重ね、その上で、安全率を設けて設計したのに比べ、津波にはそのような配慮がなかった。「津波のことはよくわかってない」ということにさえきづいていなかったように見える。初期の原発におけるこの違いは、東電福島原発事故に大きな影響を及ぼす。

「序章 手さぐりの建設」『原発と大津波』P7

この点も同様である。津波に関する知見が未熟であることに関し、IAEAは上記のサイクルを回すことを求め、日本電気協会が1970年に策定した耐震設計指針にはその旨が転載されている。

3(e)津波
湾や港に生ずる津波やそれに伴う海面の振動は、著しい波力、洪水、洗掘そのほかの現象を伴なうため、海岸に設置される原子力発電所にとっては危険性を含んでいる。したがって津波の影響をさらされる地方の原子力発電所の敷地選定や設計については十分な考慮をはらわねばならないことが明白である。

津波、敷地および設計に関して考慮すべき重要なことは最大の予想海面上昇(run-up)であろう。最大海面上昇を予想することは困難であり、局地的な海岸の形状により津波を増幅したり、減少させたりする。特定地域の津波による最大海面上昇の高さは十分な歴史的記録がなければ予想できないであろう。

(中略)過去に海面上昇の記録のあった付近の敷地以外の場所では、海底地形の影響についての知識が不十分であり計測(海上波高計)が不足しており、理論が不適切でまた模型研究が限られたものであるので、海岸線形状の鋭敏性についてはほとんど知られていない。

津波の発生、性質および影響は原子力発電所の敷地決定や設計に関連してくるので、予想が不確実であることを改めるために、選ばれた海岸地域についての模型実験や統計的研究を行ってさらに検討を加えるべきである。さらに特定の地域について局地および遠隔地に波源を有する津波発生を予測する一助とするためのより良い解析方法および改良された理論を発展させる努力がなされるべきである。

「原子力施設の耐震設計及び試験に関する国際原子力機関主催の専門家会議における勧告」『JEAG4601-1970 原子力発電所耐震設計指針』日本電気協会 1970年 P254-255(リンク

原発事故後、非日常、非線形な事態に対する人間の想像力がどの程度のものであったのかをよく考える。上記のように、1970年の時点で、概念レベルは基本的な事項が出揃っていることがわかるだろう。なお、IAEAが言うような理論および計算機の発展があったのは1970年代末以降のことで、その頃福島第一の工事は6号機まで完了しかかっていた。

当時敷地高決定に関わった小林健三郎氏が歴史津波を無視して6m以上の津波は来ないという認識の持ち主だったことは当ブログで既報した(リンク)。『原発と大津波』をたたき台に、東電の行動とIAEA勧告を比較すると雲泥の違いである。むしろ、東電の様な企業が目立ったために、IAEAですら苦言を呈していたようにすら見える。

東電は、福島第一原発の設置許可申請で「現地においては、継続的な潮位観測を行っていないので、小名浜港における検潮記録を準用する」とし、既往最大(記録に残っている最大)津波として、一九六〇年のチリ津波で観測されたO.P.(onahama peil、小名浜港工事基準面、以下略)+三.一二二メートルを取り上げている。これは気象庁の小名浜検潮所(福島県いわき市)が設置された五一年から六三年までの一二年間に測定したデータにおける最高値だった。小名浜検潮所から福島第一原発までは約五五キロ離れており、東北地方太平洋沖地震の際は、小名浜検潮所付近の津波高さが約四メートルだったのに比べて福島第一原発では三倍以上の高さがあった。これほど津波の状況が違う場所の、それもわずか一二年分のデータをもとに福島第一原発の設計をしたのだ。

「五五キロ遠方の、わずか一二年分の津波データで設計」『原発と大津波』P8

【『津波に関する研究』で仮定された福島沖のM8.2地震津波】

さて本題は、IAEAが求めた「良い解析方法および改良された理論を発展させる努力」である。

IAEAは勧告の最後で次のように念押しを行っていた。

第V節 調査および研究問題を含む今後の活動(Furture Action including Investigations and Research Problems)
(中略)
(p)津波の危険性の評価および原子力発電所を津波作用から防ぐための方法を開発し、改善する。ある地点の津波の可能性、および予想最大海面上昇(run-up)および引き潮を予測するための改良された方法が望ましい。この開発のためには理論および実験研究ならびに過去の津波データの綿密な解析が含まれている。

「原子力施設の耐震設計及び試験に関する国際原子力機関主催の専門家会議における勧告」『JEAG4601-1970 原子力発電所耐震設計指針』日本電気協会 1970年 P266(リンク

各事故調および『原発と大津波』は1980年代の津波関連の出来事は余り挙げることが無く、時系列を並べると建設期から1990年代までぽっかりと穴が開いていた。そのため、あたかも1980年代以前は津波シミュレーションを用いた努力や発想が無かったかのような印象がある。しかし今年になって、私は1983年のシミュレーションを発掘した。

実施したのは損害保険料率算定会(以下算定会)。各種の保険料率を算定するために保険業界が設立した団体で、様々な社会的リスクに関する研究を行っている。1981年からは、地震予知総合研究振興会に委託する形で数年に渡り『津波に関する研究』、後継として『津波危険度に関する研究』を行った。太平洋岸を対象に津波シミュレーションを行ったのは『津波に関する研究 その2』で、研究期間は1982年8月19日から1983年3月15日まで。津波研究が重視される契機となった日本海中部地震はその直後1983年5月に発生しているので、着想としてはそれより前からのものである。なお、一連の研究成果は公開文献として刊行された上、当時の地震学の権威、力武常次東大教授の手により『日本の危険地帯―地震と津波』(新潮選書、1988年)に反映された。

研究には当時の代表的な津波研究者が参加。羽鳥徳太郎氏等の文献も参照しつつ、執筆担当は第1章:阿部勝征、第2章:相田勇、第3章:渡辺偉夫となっている。なお、今村文彦氏など1990年代以降にデビューした研究者達はクレジットされていない。首藤信夫氏は『津波危険度に関する研究』にて名前を確認出来る。彼らはこの仕事について証言しないのだろうか。

さて、『津波に関する研究 その2』を見ていくと、福島沖の地震空白域への強い関心が見られその発端は1970年代の阿部氏の見解にあったことが第1章に書かれている。具体的な計算は2章で行っている。計算の際は海面を幾つものブロック(計算格子)に分けるのだが、沿岸の最も細かい計算格子でも312.5m。参考に90年代だと100m以下、2000年代以降は12.5mの格子も珍しくない。つまり今となっては粗いのだが参考にはなる。また、ハザードマップのような「面」の予測は行わず、海岸「線」も諦め、代表的な地「点」の計算に絞ることで負荷を最小限に絞っており、苦労が偲ばれる。

数値実験を行う津波モデルとしては、図2.16 に示すモデルMY,FKの2種類とした。

モデルMYは1897年のM7.7の地震とほぼ同じ位置に設定した。これはまたSENO(1979)によって、第1種空白域であるとされている場所でもある。そして断層の大きさとしては、三陸沖で最大級である1896年三陸津波に相当するものとした。ここに1896年津波の断層パラメータと、モデルMYを比較して示す。

ここにMoは地震モーメント、MwはKANAMORI(1977)によって定義されたモーメントマグニチュードである。

またモデルFKはモデルMYとまったく同じ断層をやや南南西に移動しただけであって、その位置は図2.16 に示すように、1981年1月の宮城県沖地震と1982年7月茨城県沖地震の、余震域にはさまれ、1938年福島県東方沖の群発地震の東側にあたる地域に仮定した。
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「第2章 数値実験による津波の高さ推定」『津波に関する研究 その2』P42
リンク。高精細な地図はこちら

驚くべきことに明治三陸津波を参考として、宮城沖にMYモデル、福島沖にFKモデルというM8.2の波源が設定されている。東京地検が無いとした福島沖の日本海溝沿いに設定された専門的知見そのものに該当する。

門田隆将氏はブロゴスの「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」その他で東電を弁護する際、明治三陸地震の波源を福島沖に仮定したのは東京電力の勉強会であることを強調し

それは実に大胆な計算法だった。どこにでも起こるというのなら、明治三陸沖地震で大津波を起こした三陸沖の「波源」が、仮に「福島沖にあったとしたら?」として試算したものである。

などと先進性を宣伝していたが、そのような発想は事故の四半世紀も前に存在し、東電の関係者はむしろ算定会の研究を参考にした可能性がある。前回記事の国交省に加えて、公開文献の範囲ですらこのような知見が存在している以上、門田氏の言い分も、検察の論理も完全に破たんした。

2000年代に国の防災研究に係り、日本海溝沿いのM8級津波地震の可能性を指摘していた島崎邦彦氏は、震災後『科学』2011年10月号の論文で「プレートテクトニクスに基づけば当然の結論である」と書いたため、ネットでは一部推進派による「後からならどうとでも言える」と批判がされたと記憶している(同論文は『科学者に委ねてはいけないこと――科学から「生」をとりもどす』にも所収。私は同書の購入を薦める)。しかし、島崎氏の「相場観」は研究史の観点からは正しい記憶であったことがこの研究の存在で改めて証明された。

この研究による津波高を下記に示す。

Tsunamikenkyu2_198403_my_fk_p50 「第2章 数値実験による津波の高さ推定」『津波に関する研究 その2』P42

女川の最大値はMYモデルの10.9m、大熊の最大値はFKモデルの4.56mである。福島第一と比較するとFKモデルは4m盤を超過している。1994年に資源エネルギー庁の求めに応じて東電が行った計算では、津波高は最高でも3.5mであり、4m盤を超過していない。4m盤を超える計算結果が相次いで提示されるのは1990年代後半のことである。従ってこの計算結果は予見可能性から見ると驚くべきものなのである。

本文の説明とは異なり、FKモデルの規模は明治三陸波源の半分に抑制されている。仮に全ての条件を明治三陸と同じとしていたら、2008年の東電社内試算と同様に、敷地高10mを上回る津波が計算された筈である。規模を弱めたのは地震空白域であるため、そこまでの確信は持てなかったのだろう。

研究完了後の日本海中部地震では、海底勾配の緩い場所で発生するソリトン分裂(砕けた波が重なって高くなる現象、リンクを参照)が確認されていた。そのようなケースを含めて余裕倍半分で評価していれば、M8.2でも十分に脅威を見積もれたと言える。なお、この研究での津波高の信頼度は1.2~1.4と述べられており、4.56mの1.4倍=6.38m程度は考慮の範囲に入れておかなければならない。

女川も見逃せない。平井氏が敷地高を15mと主張したことばかりが取り上げられるが、1号機の津波想定は福島と差のない4m程度、2号機(1987年設置許可申請)でようやく9.1mに引き上げられた。算定会の方が4年早く、値も高い。『津波に関する研究』では女川の印を湾奥にプロットしていることから、湾口に近い原発では津波高はより低く計算される可能性もあるが、算定会の計算結果を嫌って東北電力が条件を変えて再計算し直していた可能性も見逃せないだろう。信頼度を考えると東北地方太平洋沖地震レベルの津波高を覚悟しなければならなかったことを算定会の計算は示しているからだ。

注意しなければならないのはこの値は静水面に対する変化を表したものなので、現実に適用するには潮位の加算が必要となることだ。例えば、福島第一の設置許可申請に出てくる小名浜の平均潮位は0.8m余り、満潮位で1.7mである。論文には書かれていないけれども、満潮時の津波を検討すれば、この値を加えなければならない筈だ。大熊では先の6.38mに潮位を加え、切りの良い数字で1m弱の余裕を加えると、1983年の時点でO.P.9m程度までは対策が必要だったことになる。

FKモデルに対し渡辺偉夫氏は次のように述べている。

3.5 あとがき
 以下数値実験による計算結果と実際の津波の実測値との比較をおこなった。モデルは3つの海域で発生する断層を想定したが、各海域ごとの特徴的なことを防災上の観点から取り上げてみると次のようになる。
1)宮城県沖
過去に波源の中心が宮城県沖から茨城県沖にかけては、Mtが8以上でm(注:mは津波マグニチュード)が2以上の大津波を発生したことがない。今回計算したFKモデルによれば、福島県沿岸では200等深線上で波高4m、湾内の津波の高さ(最大値)4.5m以上となっている。この沿岸では過去最大の高さで1m程度であることを考えると、大きな問題である。現在の防災対策は過去のデータに基づいて立てられているのが常識であるとするならば、福島県沿岸では4m以上の津波のための防災対策はおそらく立てられていないであろう。この津波の発生する可能性は少いかも知れないが、全く0であると云い切れない。今後の検討課題である。

「第3章 数値実験による計算値と過去の津波データとの比較」『津波に関する研究 その2』P139

既往最大論への疑問、予見可能性、全てが凝縮されている。

しかし、津波危険度を論じた後継の『津波危険度に関する研究』ではFKモデルは対象から外され、MYモデルのみ評価対象となった。

一方、計算地点を眺めると実に興味深いことが判る。元々、算定会の津波関連研究は同時期に進められた地震動に関する研究と対をなすものだったらしく、それ らをまとめた内輪向けの冊子『日本各地の地震および津波危険度』(1980年代後半頃編纂)では「はしがき」で「過去4年に渡り、いわゆる限界地震 [S2]およびその周辺の問題について検討を重ねてきた」「本報告に述べる地震および津波危険度は、地震防災行政、重要建造物の立地条件の判定、地震保険料率算定などの実用的問題を検討する際の指針の1つとすることができよう」と述べられている。

S2とは原発に想定される当時の基準地震動である。従ってこの研究の背後に原子力の影を見出すことは何ら不自然ではない。また、東北地方太平洋沖に限らず、各地域の津波シミュレーションを見ると六ヶ所、女川、大熊、富岡、浜岡を計算地点に選んでいる。このことからも原子力施設に対する強い関心が伺え る。

この間に何があったのかを考えていく必要がある。

後半はこちら

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