【事故検証は】東電資料より10年も早かった1983年の福島沖津波シミュレーション(前編)【やり直せ】
当記事は添田孝史著『原発と大津波 警告を葬った人々』でも空白扱いとしてきた、建設直後から1994年の資源エネルギー庁による見直し指示の間の20年弱、取分け1980年代に何があったのかを新資料を活用して解明しようとするものである。従って事故経緯的には同書との相補性を意識した。記事を読まれる前に同書で時系列を整理されるとよいと思う。
例によって長文となるが、前半は主として1980年代の津波シミュレーションを題材とする。後半は他の資料も使いながら1980年代の東電不作為の経緯を考察する。
今回紹介する1983年の津波シミュレーションは、ブログで取り上げてきた一連の新資料の中でも取り分け重要な意味を持つ。東京地検の見解が完全破綻するだけではなく、聞き取りに依存していた政府事故調その他の事故調も二次調査の必要を裏付けることになる。事故に至る原子力技術史も新たな文脈で捉え直す必要がある。
やはり、発展的な継続を訴えた国会事故調の主張が最も正しかったのだ。一発屋で終わってしまった各事故調は完全に陳腐化したと思う。公式にも再調査を行って新情報を取り込む必要がある。
【1970年に和訳されたIAEA勧告の恐るべき先見性】
添田氏は同書冒頭で次のように書いた。
「津波についての新発見」→「原発の安全性再検討」→「必要な対策を進める」→「安全が確保できたか第三者がチェック」という安全確保の基本となる手順は事故の40年前に福島第一原発が造られて以降、一度も回されていなかった。
「プロローグ」『原発と大津波』Px
後述するが、業界では建設中から上記への言及があった。
当時の科学者や技術者たちが、地震の揺れにはまだ不確実な部分が多いことを自覚し、相当議論を重ね、その上で、安全率を設けて設計したのに比べ、津波にはそのような配慮がなかった。「津波のことはよくわかってない」ということにさえきづいていなかったように見える。初期の原発におけるこの違いは、東電福島原発事故に大きな影響を及ぼす。
「序章 手さぐりの建設」『原発と大津波』P7
この点も同様である。津波に関する知見が未熟であることに関し、IAEAは上記のサイクルを回すことを求め、日本電気協会が1970年に策定した耐震設計指針にはその旨が転載されている。
3(e)津波
湾や港に生ずる津波やそれに伴う海面の振動は、著しい波力、洪水、洗掘そのほかの現象を伴なうため、海岸に設置される原子力発電所にとっては危険性を含んでいる。したがって津波の影響をさらされる地方の原子力発電所の敷地選定や設計については十分な考慮をはらわねばならないことが明白である。
津波、敷地および設計に関して考慮すべき重要なことは最大の予想海面上昇(run-up)であろう。最大海面上昇を予想することは困難であり、局地的な海岸の形状により津波を増幅したり、減少させたりする。特定地域の津波による最大海面上昇の高さは十分な歴史的記録がなければ予想できないであろう。
(中略)過去に海面上昇の記録のあった付近の敷地以外の場所では、海底地形の影響についての知識が不十分であり計測(海上波高計)が不足しており、理論が不適切でまた模型研究が限られたものであるので、海岸線形状の鋭敏性についてはほとんど知られていない。
津波の発生、性質および影響は原子力発電所の敷地決定や設計に関連してくるので、予想が不確実であることを改めるために、選ばれた海岸地域についての模型実験や統計的研究を行ってさらに検討を加えるべきである。さらに特定の地域について局地および遠隔地に波源を有する津波発生を予測する一助とするためのより良い解析方法および改良された理論を発展させる努力がなされるべきである。
「原子力施設の耐震設計及び試験に関する国際原子力機関主催の専門家会議における勧告」『JEAG4601-1970 原子力発電所耐震設計指針』日本電気協会 1970年 P254-255(リンク)
原発事故後、非日常、非線形な事態に対する人間の想像力がどの程度のものであったのかをよく考える。上記のように、1970年の時点で、概念レベルは基本的な事項が出揃っていることがわかるだろう。なお、IAEAが言うような理論および計算機の発展があったのは1970年代末以降のことで、その頃福島第一の工事は6号機まで完了しかかっていた。
当時敷地高決定に関わった小林健三郎氏が歴史津波を無視して6m以上の津波は来ないという認識の持ち主だったことは当ブログで既報した(リンク)。『原発と大津波』をたたき台に、東電の行動とIAEA勧告を比較すると雲泥の違いである。むしろ、東電の様な企業が目立ったために、IAEAですら苦言を呈していたようにすら見える。
東電は、福島第一原発の設置許可申請で「現地においては、継続的な潮位観測を行っていないので、小名浜港における検潮記録を準用する」とし、既往最大(記録に残っている最大)津波として、一九六〇年のチリ津波で観測されたO.P.(onahama peil、小名浜港工事基準面、以下略)+三.一二二メートルを取り上げている。これは気象庁の小名浜検潮所(福島県いわき市)が設置された五一年から六三年までの一二年間に測定したデータにおける最高値だった。小名浜検潮所から福島第一原発までは約五五キロ離れており、東北地方太平洋沖地震の際は、小名浜検潮所付近の津波高さが約四メートルだったのに比べて福島第一原発では三倍以上の高さがあった。これほど津波の状況が違う場所の、それもわずか一二年分のデータをもとに福島第一原発の設計をしたのだ。
「五五キロ遠方の、わずか一二年分の津波データで設計」『原発と大津波』P8
【『津波に関する研究』で仮定された福島沖のM8.2地震津波】
さて本題は、IAEAが求めた「良い解析方法および改良された理論を発展させる努力」である。
IAEAは勧告の最後で次のように念押しを行っていた。
第V節 調査および研究問題を含む今後の活動(Furture Action including Investigations and Research Problems)
(中略)
(p)津波の危険性の評価および原子力発電所を津波作用から防ぐための方法を開発し、改善する。ある地点の津波の可能性、および予想最大海面上昇(run-up)および引き潮を予測するための改良された方法が望ましい。この開発のためには理論および実験研究ならびに過去の津波データの綿密な解析が含まれている。
「原子力施設の耐震設計及び試験に関する国際原子力機関主催の専門家会議における勧告」『JEAG4601-1970 原子力発電所耐震設計指針』日本電気協会 1970年 P266(リンク)
各事故調および『原発と大津波』は1980年代の津波関連の出来事は余り挙げることが無く、時系列を並べると建設期から1990年代までぽっかりと穴が開いていた。そのため、あたかも1980年代以前は津波シミュレーションを用いた努力や発想が無かったかのような印象がある。しかし今年になって、私は1983年のシミュレーションを発掘した。
実施したのは損害保険料率算定会(以下算定会)。各種の保険料率を算定するために保険業界が設立した団体で、様々な社会的リスクに関する研究を行っている。1981年からは、地震予知総合研究振興会に委託する形で数年に渡り『津波に関する研究』、後継として『津波危険度に関する研究』を行った。太平洋岸を対象に津波シミュレーションを行ったのは『津波に関する研究 その2』で、研究期間は1982年8月19日から1983年3月15日まで。津波研究が重視される契機となった日本海中部地震はその直後1983年5月に発生しているので、着想としてはそれより前からのものである。なお、一連の研究成果は公開文献として刊行された上、当時の地震学の権威、力武常次東大教授の手により『日本の危険地帯―地震と津波』(新潮選書、1988年)に反映された。
研究には当時の代表的な津波研究者が参加。羽鳥徳太郎氏等の文献も参照しつつ、執筆担当は第1章:阿部勝征、第2章:相田勇、第3章:渡辺偉夫となっている。なお、今村文彦氏など1990年代以降にデビューした研究者達はクレジットされていない。首藤信夫氏は『津波危険度に関する研究』にて名前を確認出来る。彼らはこの仕事について証言しないのだろうか。
さて、『津波に関する研究 その2』を見ていくと、福島沖の地震空白域への強い関心が見られその発端は1970年代の阿部氏の見解にあったことが第1章に書かれている。具体的な計算は2章で行っている。計算の際は海面を幾つものブロック(計算格子)に分けるのだが、沿岸の最も細かい計算格子でも312.5m。参考に90年代だと100m以下、2000年代以降は12.5mの格子も珍しくない。つまり今となっては粗いのだが参考にはなる。また、ハザードマップのような「面」の予測は行わず、海岸「線」も諦め、代表的な地「点」の計算に絞ることで負荷を最小限に絞っており、苦労が偲ばれる。
数値実験を行う津波モデルとしては、図2.16 に示すモデルMY,FKの2種類とした。
モデルMYは1897年のM7.7の地震とほぼ同じ位置に設定した。これはまたSENO(1979)によって、第1種空白域であるとされている場所でもある。そして断層の大きさとしては、三陸沖で最大級である1896年三陸津波に相当するものとした。ここに1896年津波の断層パラメータと、モデルMYを比較して示す。
ここにMoは地震モーメント、MwはKANAMORI(1977)によって定義されたモーメントマグニチュードである。
またモデルFKはモデルMYとまったく同じ断層をやや南南西に移動しただけであって、その位置は図2.16 に示すように、1981年1月の宮城県沖地震と1982年7月茨城県沖地震の、余震域にはさまれ、1938年福島県東方沖の群発地震の東側にあたる地域に仮定した。
「第2章 数値実験による津波の高さ推定」『津波に関する研究 その2』P42
(リンク。高精細な地図はこちら)
驚くべきことに明治三陸津波を参考として、宮城沖にMYモデル、福島沖にFKモデルというM8.2の波源が設定されている。東京地検が無いとした福島沖の日本海溝沿いに設定された専門的知見そのものに該当する。
門田隆将氏はブロゴスの「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」その他で東電を弁護する際、明治三陸地震の波源を福島沖に仮定したのは東京電力の勉強会であることを強調し
それは実に大胆な計算法だった。どこにでも起こるというのなら、明治三陸沖地震で大津波を起こした三陸沖の「波源」が、仮に「福島沖にあったとしたら?」として試算したものである。
などと先進性を宣伝していたが、そのような発想は事故の四半世紀も前に存在し、東電の関係者はむしろ算定会の研究を参考にした可能性がある。前回記事の国交省に加えて、公開文献の範囲ですらこのような知見が存在している以上、門田氏の言い分も、検察の論理も完全に破たんした。
2000年代に国の防災研究に係り、日本海溝沿いのM8級津波地震の可能性を指摘していた島崎邦彦氏は、震災後『科学』2011年10月号の論文で「プレートテクトニクスに基づけば当然の結論である」と書いたため、ネットでは一部推進派による「後からならどうとでも言える」と批判がされたと記憶している(同論文は『科学者に委ねてはいけないこと――科学から「生」をとりもどす』にも所収。私は同書の購入を薦める)。しかし、島崎氏の「相場観」は研究史の観点からは正しい記憶であったことがこの研究の存在で改めて証明された。
この研究による津波高を下記に示す。
「第2章 数値実験による津波の高さ推定」『津波に関する研究 その2』P42
女川の最大値はMYモデルの10.9m、大熊の最大値はFKモデルの4.56mである。福島第一と比較するとFKモデルは4m盤を超過している。1994年に資源エネルギー庁の求めに応じて東電が行った計算では、津波高は最高でも3.5mであり、4m盤を超過していない。4m盤を超える計算結果が相次いで提示されるのは1990年代後半のことである。従ってこの計算結果は予見可能性から見ると驚くべきものなのである。
本文の説明とは異なり、FKモデルの規模は明治三陸波源の半分に抑制されている。仮に全ての条件を明治三陸と同じとしていたら、2008年の東電社内試算と同様に、敷地高10mを上回る津波が計算された筈である。規模を弱めたのは地震空白域であるため、そこまでの確信は持てなかったのだろう。
研究完了後の日本海中部地震では、海底勾配の緩い場所で発生するソリトン分裂(砕けた波が重なって高くなる現象、リンクを参照)が確認されていた。そのようなケースを含めて余裕倍半分で評価していれば、M8.2でも十分に脅威を見積もれたと言える。なお、この研究での津波高の信頼度は1.2~1.4と述べられており、4.56mの1.4倍=6.38m程度は考慮の範囲に入れておかなければならない。
女川も見逃せない。平井氏が敷地高を15mと主張したことばかりが取り上げられるが、1号機の津波想定は福島と差のない4m程度、2号機(1987年設置許可申請)でようやく9.1mに引き上げられた。算定会の方が4年早く、値も高い。『津波に関する研究』では女川の印を湾奥にプロットしていることから、湾口に近い原発では津波高はより低く計算される可能性もあるが、算定会の計算結果を嫌って東北電力が条件を変えて再計算し直していた可能性も見逃せないだろう。信頼度を考えると東北地方太平洋沖地震レベルの津波高を覚悟しなければならなかったことを算定会の計算は示しているからだ。
注意しなければならないのはこの値は静水面に対する変化を表したものなので、現実に適用するには潮位の加算が必要となることだ。例えば、福島第一の設置許可申請に出てくる小名浜の平均潮位は0.8m余り、満潮位で1.7mである。論文には書かれていないけれども、満潮時の津波を検討すれば、この値を加えなければならない筈だ。大熊では先の6.38mに潮位を加え、切りの良い数字で1m弱の余裕を加えると、1983年の時点でO.P.9m程度までは対策が必要だったことになる。
FKモデルに対し渡辺偉夫氏は次のように述べている。
3.5 あとがき
以下数値実験による計算結果と実際の津波の実測値との比較をおこなった。モデルは3つの海域で発生する断層を想定したが、各海域ごとの特徴的なことを防災上の観点から取り上げてみると次のようになる。
1)宮城県沖
過去に波源の中心が宮城県沖から茨城県沖にかけては、Mtが8以上でm(注:mは津波マグニチュード)が2以上の大津波を発生したことがない。今回計算したFKモデルによれば、福島県沿岸では200等深線上で波高4m、湾内の津波の高さ(最大値)4.5m以上となっている。この沿岸では過去最大の高さで1m程度であることを考えると、大きな問題である。現在の防災対策は過去のデータに基づいて立てられているのが常識であるとするならば、福島県沿岸では4m以上の津波のための防災対策はおそらく立てられていないであろう。この津波の発生する可能性は少いかも知れないが、全く0であると云い切れない。今後の検討課題である。
「第3章 数値実験による計算値と過去の津波データとの比較」『津波に関する研究 その2』P139
既往最大論への疑問、予見可能性、全てが凝縮されている。
しかし、津波危険度を論じた後継の『津波危険度に関する研究』ではFKモデルは対象から外され、MYモデルのみ評価対象となった。
一方、計算地点を眺めると実に興味深いことが判る。元々、算定会の津波関連研究は同時期に進められた地震動に関する研究と対をなすものだったらしく、それ らをまとめた内輪向けの冊子『日本各地の地震および津波危険度』(1980年代後半頃編纂)では「はしがき」で「過去4年に渡り、いわゆる限界地震 [S2]およびその周辺の問題について検討を重ねてきた」「本報告に述べる地震および津波危険度は、地震防災行政、重要建造物の立地条件の判定、地震保険料率算定などの実用的問題を検討する際の指針の1つとすることができよう」と述べられている。
S2とは原発に想定される当時の基準地震動である。従ってこの研究の背後に原子力の影を見出すことは何ら不自然ではない。また、東北地方太平洋沖に限らず、各地域の津波シミュレーションを見ると六ヶ所、女川、大熊、富岡、浜岡を計算地点に選んでいる。このことからも原子力施設に対する強い関心が伺え る。
この間に何があったのかを考えていく必要がある。
後半はこちら。
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