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2014年10月の1件の記事

2014年10月 6日 (月)

福島原発1号機建設期に指摘された地震想定の問題点-原研大弾圧を横目に-

【要旨】

当記事は、「あり得た第三の選択肢-500Galの仕様も検討したのに実際は値切られた福島第一原発1号機」の続きである。耐震設計の条件となる想定地震動もまた、忠告を無視して決められたこと、そのような忠告が政治的弾圧下でも一部はなされていたことを示し、予見可能性に一石を投じるために書いたものである。

ただし本論では活断層論議ではなく、河角広、金井清という地震学者が発表した2つの研究を主な対象にしている。

【本文】
【0】はじめに

福島原発事故後、一時は毎週のように各大学図書館や大型公共図書館に通い、原子炉の耐震設計史について様々な文献を調査したが、1960年代の黎明期に耐震設計の問題点を指摘した専門家を再評価したものは余り見かけた記憶がない。

例えば、概説書としては詳細な『原子力の社会史』(初出1999年)はこの件に紙数を割いていない。舘野淳『シビアアクシデントの科学』(2012年)は、福島事故を踏まえて原子力開発史の総括に手をつけた良作で、第3章において原研労組が1963年に応力腐食割れの問題を提起したことを明らかにしている。一般的に大問題となったのは10年後だから研究機関に恥じない先進性と言えるが、耐震設計についてはそのような記述は無い(私が著者の立場なら、あれば載せようと考える)。

その他の書籍、雑誌記事を読み返しても、多くは、1970年代以降に東海地震や活断層の研究が進展してからなされた警鐘を始祖のように扱っている。例えば同じ「科学と人間シリーズ」から出ている『活断層上の欠陥原子炉 志賀原発―はたして福島の事故は特別か』や『地震列島日本の原発―柏崎刈羽と福島事故の教訓』などである。青柳榮『活断層と原子力』は推進派の手に成る書で、第二章では本稿で扱う項目も触れているが、過去の記述をそのまま引き写した個所もまま見られる。何よりもこの本のポジションからか、警鐘への関心は薄目に思われる。

そうした警鐘は1980年代以降に着工された軽水炉に対しては「事前の批判」として意味がある。また、既設炉に対しても、運転開始後の指摘を反映する時間はあった筈で、2011年まで耐震補強を遅らせた東電の怠惰はそれだけで論外である。

さて、福島第一の場合、最も遅く着工された6号機でも1972年であり、一見すると誰も想定以上の地震動が起こると考えていなかったように受け取れる。

しかし、それは間違いである。「事故後の回顧」を根拠にそう言っているのではない。地震動想定に関する不確実性も福島建設前から意識されていた。原発広告や提灯記事に隠れて見えにくくなっているだけで、公開文献にも記録は残っている。このことは、非公開文献には宣伝にそぐわない不都合な事項も詳述されていることを期待させる。

【1】佐野川書簡の問題点

さて、本題に入る前にダメな証言の例を一つ示そう。下記の現代化学記事である。原研で高温ガス炉の研究に従事し理事を務めた佐野川という研究者からの手紙には次のように書かれているという。

『私(佐野川)が言いたいことは、今回の福島第一原子力発電所の事故は、地震・津波は天災であるにしても、原発事故は明らかに人災であるということです。建設後40年近く経っていて、その間の原子力の技術開発で改善すべき点が多々あったにもかかわらず、必要な対策も講じないで放置されてきました。このことは、私が原子力研究所に在職していた時代にもわかっていたことですが、当時は誰も意見できない雰囲気でした。

しかし、本当のことを貴兄(西村)にお伝えしたいと思いました。福島原発建設当時、日本の技術者は震度9、津波は10メートル以上を主張したにもかかわらず、認められなかったという事実があります。

まず、チェルノブイリとスリーマイル島の原発が、同じくメルトダウンしながら、スリーマイル島のほうは外部への放射線漏れはほとんどありませんでしたが、これは、コンクリート製の分厚い格納容器のあるなしが明暗を分けたのです。この事故の事実を活かすことなく、使用済み燃料プールを原子炉格納容器の外に置いてスレート葺きの建屋の中に置いたことこそ改善すべきなのに、改修費がかかることを理由に無視したまま放置してきたのです。

そもそも福島第一原子力発電所を建設する際、高さ35メートルあった崖を削ってしまいました。そこに原子炉を建て、非常用電源を地下室に設置した結果、15メートルの津波で全電源喪失を招いたのです。つなり、日本の技術者には立派な技術と経験がありながら、残念ながらそれは活かされなかった。それを押しつぶした強大な力がありました。』

西村肇「原発の深層がみえた歴史の瞬間」『現代化学』2013年1月

佐野川氏は工学的にはデタラメで、証言者としても不誠実である。

まずは、工学的にデタラメな理由から。

○「震度9」などという階級は現在に至るまで存在しない。
1960年代当時の気象庁震度階での最高震度は7であり、阪神大震災を経て改訂された震度階でも5,6にそれぞれ強弱が新設されたに留まる。「震度8」以降は怪獣映画等フィクションに存在する内容に過ぎない。メルカリ震度階には震度9が存在するが、日本では使われておらず、目安となる加速度は400Gal前後であり、気象庁震度階の6から7に相当する。

○マグニチュードとの取り違えと考えても矛盾
仮にこれがマグニチュードと震度を取り違えたもので、(東日本大震災で記録した)M9と主張したかったと仮定しても、問題がある。1960年代当時のマグニチュード計算法では規模を大きくしてもM8を超えた付近で「マグニチュードの飽和」が起こるからだ。この点を改善したモーメントマグニチュードが採用されたのは1970年代末である。つまり「原発黎明期にM9という話を聞いた」という類の証言は数字面は与太と見なしてよい。

○格納容器は福島第一にもある
福島第一原発で放射性物質が大量飛散した主な理由は①建屋内に水素が充満したこと②フィルター無しで事実上のドライベントを強いられたことによる。佐野川氏によるとさも福島第一には格納容器が無いかのように読み取れるが、格納容器はある。FP(放射性核分裂生成物)の主たる発生源も1-3号機で原子炉装荷中の燃料である。主に4号機で使用済み燃料プールが問題にはなったが、限られた文章中で強調するほどの結果ではない。ただし、原子炉建屋内保管の問題点を示した、とは言える。

震度など身近な指標なのだから、専門外の化学雑誌編集部であっても疑問は挟まないとダメだと思う。

次に不誠実と考える理由。佐野川氏の証言は不審な点が幾つかある。当時の原研で推進派による徹底した弾圧が行われたことは同じ原研の舘野淳氏、市川富士夫氏等の諸著作により事故前に明らかにされている。氏の記述はその弾圧期に一つのエピソードを加えたもので、その点は他者の手になる文献と大きな矛盾は無いようだ。原研研究者弾圧の歴史は広く知られるべきなのは確かだが、氏が初めて開陳するような話でもない。

「崖を削って原子炉を建設」「非常用電源を地下室に設置」も同じである。2013年1月号掲載記事なら手紙は2012年末までに書かれたのだろうが、その程度の事実なら幾らでも報じられていた。それをあたかも建設前に知っていたかのような枕詞を付けて、いつ知ったのかを明言しない。佐野川氏が語るべきことはそのニュースを聞いた時何を感じたかである。「津波10m以上」に関しては「震度9」のような定義の矛盾は無いが、これだけでは出所不明な噂話の類を出ない。他の発言が震災後のバイアスに影響されていることから、同様に記憶のすり替えも考えられる。

上記より、佐野川書簡は西村肇氏が副題につけた「当時の現場の技術者の声」かどうかは、疑問がある。事後証言を否定はしないが、時系列、固有名詞等を明瞭にしておかないと信頼を置くことは出来ない。

【2】事故前の地震想定への懸念-河角マップの場合-

それでは、具体的な数値を抜いて「建設前から地震想定には疑問もあった」という指摘があったらどうだろうか。私は、方向性としては正しいと考える。何故なら、それらは当時の記録が公になる形で残っているからだ。

例えば、日本原子力発電の耐震工学者である秋野金次氏。氏は1964年、原子力学会誌で建築学の観点から原発の耐震設計がどのような課題を抱えていたかを、一般会員に示している。

原子力発電所の建物は非常に剛かつ重量が大きくなることが特徴であるが,このような建物の地震応答は単に建物や地震の固有の性質によるだけでなく,建物と地盤との相関々係が決定的な要素となる。従来建物そのものの耐震構造については充分研究されてきたが,建物と地盤との地震時の相関々係については,問題の困難さもあって放置されてきた。例えば新潟地震による被害はそのことを如実に示している。このため原子力関係では,原子力平和利用委託研究費を39年度から受託し,模型実験ならびにJPDRの測定装置に追加を行ない,自然地震による建物と地盤との振動の相関々係を明らかにしようとしている。

「原子力発電所の耐震設計」『日本原子力学会誌』1964年8月P37

JPDRは原研が実証炉の触れ込みで導入したBWRで運開は1963年だが、実物を用いての地震動観測は福島着工の僅か3年前に過ぎなかった(当然、かの地に都合よい規模の地震が来てくれるとは限らない)。また、戦後長年にわたり建築学の研究者として業績を残した田治見宏氏はこの1年半後、更に具体的課題に踏み込んで次のように述べている。

地域的な地震活動度とは、過去の経験が教えるように、地域によって地震が多いところと少ないところがありその程度を示すものである。河角博士はこれを日本の地震史1200年間の資料に基づいて、工学的に利用し易い形に、全国的な震度期待地図にまとめた。この地図によると、茨城県の東海村地区は日本では地震活動度の比較的低いめぐまれた域に属し、100年間で予想される最高震度は地表で0.15gとなっている。東海発電所の構築物の設計用震度を決めるときには、上記の資料以外に、磐城沖にマグニチュード7.5の地震を想定したときこの地区でうけるであろう地動加速度も推定し、またその他要因も考え合せ、設計用震度をつぎのように定めた。生体しゃへい内部の原子炉物(水平方向0.6,垂直方向0.3),原子炉生体しゃへい(水平方向0.6),原子炉建物および付属施設(水平方向0.3),一般構造物(水平方向0.2)。

このように震度期待値図は耐震工学では非常によく利用されているが、その場合注意すべきことは、この地図の作成に際し用いられた地震資料の中で、正確といえるのは明治以後100年間位のもので、それ以前のものは当然確度も劣るし、また資料の数も年代が古いほど減っている。したがって、この地図に示されている期待値もある巾をもつものと考えるべきで、たとえば、福井地方や新潟地方はこの地図では地震活動度が低いとされていた。このように過去の地震歴のみからは将来を推定するのに不充分な地方もあるので、地質構造的な検討もあわせて行い、これを補って行くことが望ましい。

しかし、いずれにしてもこのような方法が現時点ではとり得る道であり、したがってアメリカでも大体似た方法をとっている。たとえばSan Onofre Plantの場合は、敷地付近の過去200年間の地震歴を調査して、その結果敷地では100年間に1回0.1~0.13gの、また600年間に1回0.24~0.27gの地震があると推定した。そして、発電所の重要構造物は0.25gの地動加速度で設計し、原子炉停止系と格納容器はその2倍の0.5gで機能が損なわれないようにすると提案した。また廃案になったがBodega Bay Plantの場合は、San Andress Faultから1マイルしか離れていないこと、また地盤が花崗岩ということから、設計は0.33gの地動加速度を、そして原子炉停止系と格納容器は0.66gで設計を検討し、この地震でもそれぞれの機能が充分保持できるようにすると提案された。

「原子炉施設の立地条件 I-(2) 地震・地盤」『第4回原子力総合シンポジウム』1966年2月

田治見氏が触れているのは「わが国における地震危険度の分布」(『建築雑誌』1951年6月)のことである。

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河角マップ(75年期待値。原発建設にあたっては200年期待値で引いた河角マップなども併用しており、浜通りの期待値も300Gal以上にはなっている。)
独立行政法人 防災科学技術研究所HPより引用

ここで示された震度期待値図、いわゆる「河角マップ」は敦賀、福島でも参照されたが、50年代初頭の資料であり、その後、同図で期待値の低いとされた地域でも強振動を観測し、疑問が呈されていたのである。

上記シンポジウムが開催されたのは1966年2月。丁度この月に東京電力はGE、WH両社に接触し、福島サイトでの建設見積を徴収しつつあった。福島1号機の炉型をGE社のBWRと決定したのが4月、設置許可申請を国に提出したのが7月、GEと正式契約を締結したのが12月のことである。要するに東電が耐震設計仕様を決定する前の論考である。しかし、東電はこうした疑問を黙殺し、陳腐化した震害のデータを補正することなく、敦賀の2/3の強度で問題ないとし、設計用最強地震動(後にS1、2006年の耐震設計指針改訂以降はSdに相当)180Galで申請、国もそのまま認可した。また、「アメリカの似た方法」では限界地震動(後にS2、2006年の耐震設計指針改訂以降はSsに相当)は最強地震の2倍であったが、東電他多くの電力会社が採用した係数は1.5倍であった。

上記文中で田治見氏は「このような方法が現時点ではとり得る道」として地質構造的な検討の併用を挙げている。これが正確に機能すれば問題ないのだが、同じ年、発電水力関係者が主催した講習によると末尾にて当時の地質的分析能力の一端を率直に吐露している。

岩盤力学の課題の中で非常に重要なことでありながら今日遅れているものの一つに(中略)地山内部の初期応力の問題がある。鉱山関係ではかなり以前から研究されていたが、基礎工学として比較的に地表近い部分の初期応力については未知の点が多い。

地殻変動による応力、岩質とか挟雑物の含水効果による応力、重力作用による応力等原因は種々あって、これによって安全度の推定には大きな差異をもたらすだけに、今後の研究にまつ処が大である。筆者の研究所でもかつて現場測定を試みたが、技術的な困難性から精度上に問題が多く、成功しなかった。

最後に重要で難しいものとして岩盤の耐震性の問題がある。(中略)一般に岩盤地帯は軟弱地盤に比して振幅は非常に小さいが加速度はむしろ大であるといわれているが、震源からの距離や深さ、岩盤の岩質と層の厚さ、地震動の特性と構造物のそれ等の関連性について、未知のことが非常に多い。

最近は、大きなダム、送電線鉄塔、原子力発電所などのように基礎工学の面から動的な岩盤力学を必要とする場合が増加してきているので、この方面の研究が早急に望まれている。

君島博次「土木技術者の岩盤力学」(『第8回発電水力講習会テキスト』1966年2月)P16-17

先に挙げた青柳榮『活断層と原子力』でも1960年代当時の地質工学のレベルは上記と大同小異のイメージで描写されている。期待値図が当てにならず、それを補完する地質構造の研究も問題山積となると、地震動を想定する際、余肉を大目に設定するのが自然な考え方になる筈であった。

例えば、福島事故後、保安院は福島での想定5.7mと実際の津波との差約9mを参考に、各原発の津波想定+9mの津波対策を行うように勧告した。技術的根拠は薄いが、想定するだけの科学力が無い場合にはエンジニアリングジャッジとして理解は出来る。地震動に応用するならば実際の観測値と河角マップとの差分が大きいところを参考に、+200Galといった形で上乗せする考え方は有りだろう。関電美浜1号機は実際に今述べた方法に近い想定を行っている。

しかし、福島ではそのマージンは微々たる物に過ぎず、田治見氏の忠告は無視された。指摘から1年後、東電の担当者は次のような態度で臨んでいることを明らかにした。

(2)地震活動度
耐震設計にあたつては、その地域の地震活度(Seis-micity)を考慮しなければならず、殆んどの耐震規定にこのことが折込まれている。

図-4は、日本およびその近くで過去1350年間に起こつた大地震の震央分布を示したものである。分布の様相はほぼ列島軸に平行しており、太平洋側ではM=8級を含む大地震が細長く連つておこつているが、日本海沿岸ではM=7級が局地的に起こつている。

このように地震の発生から見た地震活動度は地域によつて異なつており、実際の設計にあたつて、その地域の過去における地震歴から将来の地震期待値を推定しなければならない。

この場合、その地域に影響を与えた最大のものを採るのも1つの方法であるが、過去の地震史料を豊富に持つわが国においては、これを確率的に処理することも考えられる。

河角博士は、地震史料が地方により精疎のあることも考慮に入れて75年、100年、200年に1度起こる確率のある地表加速度分布を算出している。

大西一央(東京電力原子力部土木建築課副長)「原子力発電所の立地計画」『第9回発電水力講習会テキスト』1967年2月 P143

大西氏は河角マップを念頭に論じているが、疑問点は示さない。これは、確率論に逃げ道をつくろうとしていると解すのが適当だろう。「強振動と推測される地震史料があっても確率論で言い訳を作れるなら無視するのも一つの手」と取れる。当時の業界では原子炉事故に10万炉年に1回という目標値は掲げられていなかったが、事故の重大性を考えれば1000年確率程度の災害に備えるのは基本中の基本であり、その理屈から行くと1350年程度の地震史料では結局最大の記録を重視するのが保守的ではないだろうか。

【3】金井論文の欠陥も事前に承知

勿論、東電は河角マップ以外にも資料を調査したのだが、そこでも田治見氏の指摘した問題点を無視し、間違いを繰り返している。

河角Mapあるいは上記の金井式においても、その地域での確率的、あるいは平均的な値が示されており、したがつて、個々の地震が必ずしもこのようには現われないこと、また、地中においては加速度が小さくなることなども考慮しなければならない。

参考として福島地点の地震活動度および設計震度について概要を述べる。

福島県周辺の地震は、その震源を磐城、三陸沖の外洋に持つものと、猪苗代湖周辺の内陸に持つものとの2つのグループに大別されるが、強震以上のものは約150年に1度、烈震以上のものは約400年に1度位の割合でしか起こっておらず、激震以上の地震は1度も起こつていない。

一方、地震による建物の被害度数分布については金井博士の研究があるが、福島県周辺で過去に震害を受けた所は、会津若松を中心とした猪苗代湖附近を除いては特に見当たらず、福島発電所附近では、かつて震害は経験したことがないようである。

過去約700年間に、福島県およびその周辺に発生した地震のうち、記録に残つている主な地震は約35個であるが、これらの地震によつて被害を受けた区域の過半数は会津、岩代附近となつており、仙台、石巻附近にも若干被害が見られるが、その他はほとんどが直接の地震被害ではなく、津波による被害となつている。

大西一央(東京電力原子力部土木建築課副長)「原子力発電所の立地計画」『第9回発電水力講習会テキスト』1967年2月 P146

実は、上記の文言は当時の設置許可申請に書かれた内容とほぼ同じである。ただし、設置許可申請はその背景にある設計哲学を述べるための文書ではないので、設計者の考えに相当する部分はその他文書・雑誌投稿論文などに明記していることが多い。史料調査を丹念に行なうことの大切さが分かる。大西氏は設置許可申請の当該部分を起草していたのだろう。

その設置許可申請の資料一覧を見ると、「金井博士の研究」とは河角マップと同時期に発表された金井清『日本における建物に震害を受けた度数の分布』(1950年)を指しているのが分かる。大西氏の文言の問題点は下記である。

  1. 田治見氏が指摘したように「過去に震害の発生していない地点であっても、将来震害が発生する恐れがある」点を明記していない(震度7には上限が無いことに注意)。
  2. そもそも、東海発電所建設時に指摘された金井論文の問題点を無視し「過去に震害は無い」としている。

東海発電所計画時に指摘された金井論文の問題点とは何か。それは、次のような点であった。

大日本地震史料、震災予防調査会報告、地震研究所彙報、気象要覧、建築雑誌等から本邦における破壊的地震による地域的被害分布を調査したものである。調査方法はまず日本地図の中に緯度、経度とも10′間隔の線を引き、一つの地震で、網目の区域に1箇所でも震害を受けた記録があれば、その網目に1点を与える。

この作業を年代別に4期に区分して行った。その間の地震回数を列記すれば、第1期599~1191年(地震回数29回)、第2期1192~1687年(地震回数51回)、第3期1688~1871年(地震回数51回)、第4期1872~1948年(地震回数35回)である。

第1期(599~1191年)は史料が不十分であり、京都を中心とする近畿地方が特にたびたび被害を受け、第2期は鎌倉付近の被害が増している。これは政治文化の中心に古記録が偏在する結果である。そこで特に史料不備な第1期を除き第2期(1192年)以降第4期の終り(1948年)に至る間の137回の地震についてその被害を調べた。ただし第4期については被害1%以上のものをとった。

2.1 日本における建物に震害を受けた度数の分布(資料1-1-1)」(原子炉地震対策小委員会第2次経過報告書)『原子力委員会月報』1958年1月

資料1-1-1とは金井論文のことである。河角マップが1350年間と、古文書による記録が取得出来るほぼ限界の期間を対象にしているのに対して、金井論文が700年に限定しているのは、歴史地震学を軽んじて足切りを行ったためである。「プラント技術者の会」の筒井哲郎氏が述べた「地震多ければ人多し」をある意味地で行く結果となったのが金井氏の研究であった。

この時切り捨てられた地震記録の中には東日本大震災以後一般にも有名になった貞観地震もあった。良く知られているのは『日本三代実録』に書かれている記録で、多賀城から見た被害と推定されている。多賀城は地方政治の拠点であったから、この事自身「政治文化の中心に古記録が偏在する結果」である。商業原発の立地が事故被害の軽減を目的として殆ど過疎地帯に選定されているのは良く知られているが、古文書の調査にとっては大きなマイナス要素であった。浜通り、取り分け双葉郡にはそのような-現代日本に当て嵌めれば仙台都市圏に匹敵するような-政治拠点が設けられたことは無かった。

ここで、原子力委員会や東電が行うべきだったのは、古文書資料の収集による史料偏在の補正であった。若しくは、後述する例のような、より高度な統計処理方法の開発だった筈である。1958年に公式に不充分と確認してから8年も後に設置許可申請を提出した東京電力の場合は尚更で、努力次第では結果を残すことが出来た筈だ。しかし、原電にせよ東電にせよ、奇妙なことに欠陥を承知していながらその成果を耐震設計の決定根拠に持ち込み、「従うべき前例」化する傾向がみられるようになっていく。それどころか彼等の作成する文書では、引用した金井論文で時期を700年に限定した根拠すら削除された。しかも「ほとんどが直接の地震被害ではなく、津波による被害」と認識していたにも関わらず、歴史津波は考慮の対象外だった

このような展開を辿った理由は一般的な原子力史を扱った文献で指摘されているように、国策による性急な導入にあるのだろう。腰を据えて研究する時間が無いから既存の文献を洗い、疑問点を切り捨てる方向にエンジニアリングジャッジした、と考えるのが妥当である。

なお、冒頭で挙げた『活断層と原子力』は活断層研究史を振り返った書で「過去における最高値を取ると、資料年数の短い地域は小さな値を与えてしまうことになる」(P67)とあるが、このあたりの事情を指しているとすると整合が取れる。

【4】想定180Galの算出根拠にも影響

先の大西氏の論文には180Galを導出した過程も書かれている。

(中略)福島地点は上記のごとく、過去において激震以上のものは発生していないが、この激震を標準地盤(地表)の加速度におきかえれば、約0.4g以上となる。今仮想地震を0.45gと仮定し、現地の地震観測で得られた増幅率0.25を考慮すれば、基盤の最大加速度は0.18gと考えられ、この値は一応安全側にあるといえる。

一方、地震のマグニチュードと震源距離から基盤の加速度を求める金井実験式を用い、福島地点に大きい影響を与えたと思われる地震について、基盤の加速度を求めれば、約0.18gとなり、妥当な数値であることがわかる。

大西一央(東京電力原子力部土木建築課副長)「原子力発電所の立地計画」『第9回発電水力講習会テキスト』1967年2月 P146

この説明は『原子炉施設の耐震設計』(1987年)での記述より噛み砕かれており、大変興味深い。言い換えると

  1. 当時の気象庁震度階の説明では、400Gal以上を激震(震度7)の目安として説明していたので、とりあえずその値をベースにした。
  2. 既往地震の加速度を金井式で推定した値も基盤で180Gal相当だった。

というのである。つまり、既往最大値と分布図を万能のものとして心理的に引きずられ、気象庁震度階の目安がその心理的バイアスを補強したのである。ここに、田治見氏が指摘した問題点への配慮は殆ど見えてこない。

大西氏は400Galに50Galを加えて余裕を乗じたとしている。しかし、地表で400Galの場合、基盤面に比較し2.5倍の増幅率となっていることを考慮すると基盤面では160Galに過ぎず、180Galに比べた余裕は20Galに過ぎない。これは、恐らく話が逆であり、金井式からの推定加速度に結果を合わせるために余裕値を設定したのだろう。

Doboku_gakkai197105_fig5 ※出典:「原子力発電所の立地に関する土木学的考察」『土木学会誌』1971年5月号

以前も紹介したが、小林健三郎が土木学会誌に投稿した論文によれば、福島1号機と同じタイプの原子炉建屋の場合、180Galまでは上記のような基盤加速度を仮定した動解析の影響は大きくなく、いわゆる建築基準法の3倍の震度で設定される静的計算値に支配され、建設費が一定である。180Galはその点でも都合がよい値である。

そもそも、震度7は「目安として地表面で400Gal以上」を指すとされていたのであって、震度7なら400Galになることを意味するものではない。600Galでも800Galでも震度7となる。更に言えば、仮に400Galの地震動が来たとしても、それは震度7の最低値と判定されるかも知れないし、震度6の最大値と見なされるかもしれない。400Galという値を基準に物を考えるのは危ういということなのだが、東電はそのギリギリの線を狙い、それを「一応は安全側」と称したのである。ちなみに、福島地点にて基盤加速度に敦賀と同じ250Galを設定した場合、地表面では2.5倍を掛けて625Galとなる。東電が400Galに与えた余裕50Galに比較し、4.5倍の225Galの余裕となる。

【5】記録の偏在を補正した分布図を黙殺

東電が古い不完全な分布図に固執する一方、1968年には新たな分布図を作成する試みが公表された。金井論文で指摘された古地震史料の偏在は河角マップも同様に抱えていたが、京都大学の後藤尚男等は、時間を遡るに従って史料が少なくなるという時間的偏在に着目し、記録された時期を確率分布に従って補正したのである。論文の冒頭で後藤等は次のように述べている。

そこ(注:河角マップ)では重要な問題点が未解決のまま残されている。それは、上述の地震についての記録が各時代における大地震をすべて網羅しているとは考え難く、その正確さは各時代における社会的・政治的条件の影響を受けている可能性が大きいということである。(中略)古くから都のあった京都では古い時代でも比較的多くの地震が記録されているのに対し、東京については江戸幕府の成立とともに地震の数が急激に増加している。

このように、現在得られる過去の地震記録には、一般に時代を遡るほど記録もれの多い可能性が大きいが、これに対し、記録された地震の総数を全期間の長さで割って単位期間における地震の平均回数とする河角博士の方法によると、将来の地震の頻度を過小に評価する恐れがある。

出典:「地震時における最大地動の確率論的研究」『土木学会論文集』第159号(1968年11月)

計算については複雑なこともあり論文を参照して欲しいが、震度階について次のような記述があるのは注目である。

I=VIIに対しては、気象庁の加速度では400㎝/sec~2という下限のみが与えられているが、これまでに経験された最大の地震加速度が500㎝/sec~2台であろうと推定されていること、震度階V,VIの加速度の上・下限の差がいずれも約150㎝/sec~2とされていることから、ここでは一応I=VIIでは地震加速度は400~550㎝/sec~2とし(後略)

結局、震度7を処理の対象とすると550cm/sec~2=550Galまでを包含しなければならないことになる。原発建屋の設計のように保守的な仮定を取る場合、決定論的に最大値を仮定するのが妥当と考えられるため、当時の観測実績のみから判定しても、450Galでは不足することになるだろう。

さて、後藤等の計算結果によれば、福島沿岸の75年期待値は河角マップ(下図18)の計算に使用した式と全く同じものを用いた場合数倍になり(下図17)、著者らが更なる補正を行った分布図(下図15)でもなお河角マップより2倍程度大きな値を示している。


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特に、次のように述べていることが注目される。

図-15と図-18を比較すると、図-18からは地震危険度が小さいと考えられる中国地方中部や九州の東海岸沿いの地方、あるいは東北地方中部の海岸地方でも、図-15によればそれほど安全でもないという結論が得られる。

出典:「地震時における最大地動の確率論的研究」『土木学会論文集』第159号(1968年11月)

この研究が発表されたのは2000年代に『原子力発電所の津波評価技術』で悪名を残すことになる土木学会であった。しかしながら、東電は福島1号機の地震想定を6号機まで踏襲し、より公正でタイトな前提条件を黙殺した。

【6】東電を傍観した「原子力のパイオニア」原電の工学者

東電に先行していた原電にしても、次のような楽観視の元に耐震設計の取り纏めを行なっていたので、自民党の意向を受けて業界が疑問を封殺する方向に走る中、東電が原電より先鋭化したのは当然の結果ではあった。

著者が担当している敦賀発電所と福島発電所は,想定最大地動加速度が前者は250gal,後者は180galで,その他の条件は大差がない。この想定最大地動加速度の差は,敷地の過去の地震歴の差異にもとづくものであり,この70galの差が両発電所の設計上の差となってどのように表われるか,現在の著者にはわからない。しかし,いずれにせよ同じBWRをG. E.社が多少の時期をずらして設計するのであるから,耐震設計上に大差が起るとは考えられない。もし耐震設計上問題があるとしても,敦賀発電所で解決済みとなっているであろう。他方,美浜発電所はPWRであり,受注者も著者には経験のないW. H.-三菱グループであり,どのような耐震設計が行われるか,寡聞なのでここに述べることはできない。ただ1次系が格納容器内に完全に収容されているので, BWRに比べて耐震設計が比較的容易であろうことは推察される。

秋野金次,柴田碧「原子力発電所の耐震設計の現況」『日本原子力学会誌』1966年11月

BWR系とPWR系では電力も業者も異なるためか、情報交換がまともに機能していないことが読み取れる。ターンキーまで持ち出して米本国のメーカーが保証していた黎明期だから、建築上の企業秘密保持も絡んでいたかも知れない。

しかし、美浜の地震想定の考え方が明らかになったからか、それとも過去の分布図の問題点を知ったからか、秋野氏は1969年の論文では、次のような厳しめの評価を付け加えている(以前別記事で紹介したが再掲する)。

それらの研究結果を河角広博士が整理して、(日本列島における)震央の位置の分布を示した(中略)太平洋側にはM=8級の大地震が点々と発生しており、日本海側にはM=7級の局地的大地震が点在している。そして内陸にはM=6~7級の地震が散らばっている。日本では(中略)当分海沿いに建設されるものと推察するならば、将来においても太平洋側にはM=8級の地震が(全体に亘ってではないにしても)発生するものと推定しなければならないであろうし、日本海側ではM=7級を覚悟しなければならないであろう。

秋野金次「原子力発電所の耐震設計について」『コンストラクション』1969年3月P37

国会事故調は敦賀1号機と福島1号機を比較していたが、「わからない」まま設計を進めて行った事実は事故調報告に引用すべきだったろう。それにしても、「500Galの仕様も検討したのに実際は値切られた福島第一原発1号機」で比較した様に、福島を敦賀並の基準で設計すると鉄筋コンクリート容積38%増、原子炉建屋工事費27%増となるのだが、これのどこが「大差が起こるとは考えられない」のだろうか。

更に2年程経過し、1号機が運転開始を間近に控える頃になると、電中研内からも耐震設計の解説にあたり、未解明の点を吐露する者が現れてくる。

2.2地震の規模と大きさ
(前略)地震発生の頻度・分布・加速度の大きさを総合して、河角広博士が示された最高震度期待値が図2-1(注:既に紹介済みの図と同一)に示されている。これも、確率上の数値であり、実際の設計にどのように適用するかは、設計者の工学的判断に待たねばならない面もあるが、どの程度の耐震設計を必要とするかの目安を得る上に、非常に有用なものである。

2.3地震動の特性
ある地点において、何らかの構造物の耐震設計を行ないたいときに、まず問題となるのは、”外力となる地震動とはどのようなものであるか”ということである。ところが、この基本的な問題に対して、完全な解答がない現状であり、”耐震設計とは未知な外力に対する設計である”とさえ言われている。

この問題点を解明するために、遅ればせながら、多くの地点において、地震観測が行なわれてきているが、一朝一夕に、大地震の記録がえられるものではないため、他地点において観測された地震波から、考える地点の地震動の特性を推定せざるをえないことが多い。

堤一「電力施設の耐震問題」『第13回発電水力講習会テキスト』1971年2月P78

結局、福島1号機の設置許可から僅か10年余りで、電力業界は次のように見解を修正せざるを得なくなった。

原子力発電所においては、地震入力を50年、100年の期待値として取り扱うことが許されず、限界地震については、ますます、大きいものが要求されそうな現状である。これは、断層の活動性に関する研究に決め手が得られないためであり、地震予知と同様に、この問題の解明に多大の努力が払われることを期待したい。この解決をみるまでは、従来の歴史からの期待値のみならず、工学的な手法-たとえば、地下や海上に立地することによる-によって対処し得る限界などの研究も進めておかなければならない。

「7-4-5 今後の課題」『火力原子力発電所土木構造物の設計』電力土木技術協会 1977年 P232-233

大西一央氏の見解は否定されたのである。同書は業界各社の技術者多数で分担執筆されているが、上記7章も堤一(電力中央研究所土木技術研究所地盤耐震部長)一人で執筆されている。堤氏は業界の平均に比べれば率直な見解を表明している。なお、7章に東電の名前は表立って入っていない。地下や海上立地は実現しなかったが、藁をも掴む思いで希望を与えたかったのだろう(その割に、よりハードルの低いと思われる免震技術への言及が無いことも興味深い。大風呂敷が好きなのだろうか。)。

これ以降、業界内での検証、新たな災害の経験、指針改定など機会を経る度に各サイトの基準地震動は引き上げられ続けることになる。

【7】まとめ

冒頭でも触れたが、権力絡みの利益相反行為に鈍感な日本でも、原発と地震の問題が論争となるのと並行し、過去の研究にも疑問が投げかけられるようになった(例えば河角マップの場合、「活断層の活動予測」『地学雑誌』Vol.101(1992)No.6)。著者の松田氏は「陸被害地震(動)の場所予測図」でも比較を試みている。

しかし、同種の疑問は1960年代には指摘されており、この記事を通じて、東電が建設にあたって、事前の忠告を無視していたことを明らかにした。

柴田碧氏は「原子力発電所の耐震設計 1958年の出発・発展とその経過」(『日本地震工学会誌』2007年1月号)にて地震動の検討は敦賀、福島の頃は個別に社内委員会を設けて討議したと述べている。東京電力の社史などよると東電が10年近い研究期間を経て社内に原子力発電準備委員会を設けたのが1964年12月、『アトム』1966年3月号によると社外学識経験者の参加を得て耐震委員会を設けたのがそのおよそ半年後の1965年7月になるという。耐震委員会の設置から更に半年ほど経過してGE・WHから見積書を徴収し、約1年経過した1966年7月に設置許可申請に至る。

この流れと上記地震想定の選定過程を見比べて思うのは、社内の人材を主体にした場合、必ずしも最新の地質学的知見を踏まえて議論がなされるとは限らず「実証性」を盾に古い知見が採用されやすかったのではないかということである。勿論その背景には各識者や私が度々取り上げてきた例の経済性論議があるだろう。

こういった一面は政治的弾圧に重きを置いた従来の原子力史や、各事故調が必要以上に依存した「聞き取り調査」では浮かび上がらせることが出来なかった。聞き取り調査に頼り過ぎたことを気にしたものか、マスメディアや反対派を含めて「結果から比較した後知恵批判は無意味」といった言説をよく聞くが、事前に忠告・警鐘されている場合はそのような遠慮は全く要らないのである。その警鐘が具体的であるなら尚更だろう。勿論、恣意的な弾圧など無い方が良いのは当たり前である。もし無ければ、こうした警鐘は更に詳細なレポートの形を取って1960年代半ばまでに広く公開されたと思われる。

【追記】2014/10/8:若干加筆・見直し。なお、当記事にて参照した文献の大半は、各事故調が報告書で明記しなかったものである。取分け『原子力総合シンポジウム』、『発電水力講習会テキスト』、『コンストラクション』(日経が創刊したものとは別)は、現時点での主要学術文献データベースでは記事名までは登録されていない。大西一央氏については、専門誌論文・専門書でも殆ど登場せず、後年『土木史研究』の人物伝に協力者として出てくる程度である。これらの文献に今回光を当てたことは、原子力技術史の研究進展に資するところ大と確信している。

【追記2】2014/11/1:togetterで取り上げていただいた。uchida_kawasaki様、フジヤマ・ガイチ様他ありがとうございます。

さて、上記の論は原子力開発初期の加速度同士で比較したため定義面での根拠の違いを意識する必要が無く、近年詳細に調査されるようになった振幅、周期(スペクトル)、継続時間等は言及しなかった。そこで、2点補足したい。

(1)「震度7は400Gal」という目安自体が過小評価

かつては概ね400Gal以上を震度7の目安と解説されていたが、1991年以降数度の変更があり、地震計の記録を元にスペクトルを分解、一定の計算式のもと計測震度を「算出」するようになった。これによると周期が変わると震度7に相当する最大加速度も数倍の振れ幅で変化するため、従来の400Galという数値は全く当てにならない。国土庁が敢えて対応値を示したことがあるが(「震度~最大加速度~SI値関係表」参照)震度7に相当するのは1500Gal程度となった。 また、400Galと説明していた頃の考え方をベースに試算された方のサイトによれば、震度7とは概ね800Galに相当すると結論している。震度6弱と6強の境界加速度が奇しくも450Galとなる(「震度-加速度の推定」参照)。

(2)大熊・双葉両町は震度6強、原子炉建屋では最大加速度400Galを超過

東日本大震災地震動の特徴と被害との関係」というスライドの9枚目に各地の最大加速度が載っているが、浜通り中部は軒並み1000Gal前後に達しているのが分かる。大熊町は震度6強を観測した。地表で1000Gal前後の揺れとなっているのに対して所内は岩盤まで掘り抜いたため建屋地下1階での公表値は450~550Gal程度に収まっているが、震度としては最大でも6強以下、岩盤設置による抑制効果を考慮すれば6弱以下の可能性もある、ということになる。

これら2つの事例は、「震度7は400Gal以上」という目安に過ぎない判断を「基準」にした過去の技術判断が如何にいい加減で保守性を欠いているかを示している。

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