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2014年8月11日 (月)

-東北電力の企業文化は特別か-日本海中部地震津波では能代火力造成地で多数の犠牲者

【はじめに】
以前から気になっていたことだが、女川原子力発電所の津波対策が東電よりまともだったのは、東北電力に他社より優れた企業文化があるからなのだろうか。

事故を起こした福島第一原発。無事だった女川原発。この差は何だったのか。8月10日から2週間に亘り、IAEA(国際原子力機関)、NRC(米原子力規制委員会)、IRSN(仏放射線防護原子力安全研究所)、民間の一線級の外国人専門家19人が女川原発を視察した。外国人専門家の一人は、技術的な要素に加え、「電力会社の企業文化」をあげた。

(中略)

東北電力は女川原発の建設時に、津波の高さの想定が3mと言われていた時期に、津波対策として、約5倍の高さの敷地に原発を設置した。東北電力は、副社長だった平井氏が言った言葉、「法律は尊重する。だが、技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われる。」に基づき決定・実践し、女川原発を東日本大震災から救ったのである。女川原発を視察した、IAEA、米NRC、仏IRSN、民間の一線級の外国人専門家は、この文化が脈々と東北電力内に伝わっているのを感じとり、「企業文化」の違いを挙げたのであろう。

女川原発を救った企業文化 - NTTファシリティーズ総合研究所

昭和30年代に副社長で勇退した平井弥之助氏が昭和40年代の電中研時代に東北電力に助言したことは事実らしい。この件は震災後に多く報じられるようになったが、震災前は専門誌でも何ら省みることの無かったエピソードである。実際、私は日本語で書かれた業界誌専門誌は粗方検索するかバックナンバーを漁ってきたが、この話は出てこなかった。震災前に、平井氏が尊敬されていたのは、関係者の個人的な師事関係から発した面もあるが、液状化を見越して建設した火力発電所が新潟地震に耐えたエピソードが主な根拠であった。

なお、女川原子力発電所1号機は1984年に運転開始しているが、同地では温排水を懸念した反対運動が存在し、計画から着工までに10年余を要している。したがって事実上福島第一と同世代に属し、最初の設置許可申請を行なった1970年時点で敷地高を14mとする記述が確認出来る。

(3)海象
(中略)
 東北地方、ことにリアス式海岸地形をなす三陸沿岸は昔から津波による被害が多いところである。記録や聞き込み調査によると、明治29年、昭和8年の三陸沖の近地地震による津波、昭和35年のチリ地震による津浪は大きなものであったが、敷地付近では3m程度であった。また、低気圧等による高潮についてはそれより下廻る。

なお、原子炉建物は標高約14mの整地面に設置される。

東北電力(株)女川原子力発電所の原子炉の設置に係る安全性について 昭和45年11月16日 原子炉安全専門審査会

さて、平井氏は個人であり、東北電力は組織である。そして問題のエピソードは1970年前後頃にまで遡る。安易に現代の東北電力に当て嵌めて良いものだろうか。今回の記事ではこの疑問について書いてみたい。

【1】強硬に主張しているのは平井氏だけ

まず、女川原発の敷地高が決められる経緯としてよく挙げられている説明を見てみよう。

平井は地元宮城県の出身で、「慶長津波(1611年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたと言います。

ここ、東北太平洋岸はそこかしこにそんな津波の来歴があり、伝承が残っているわけです。

途中他にもいくつもの津波伝承の残る神社を訪ね・・・・る予定だったのですが時間の都合によりカット(^^ゞ

平井弥之助は一人で強硬に「津波を想定して敷地を海水面+15メートルにせよ」と主張し続けたそうですが、最終的にそれを東北電力も認めたことが40年後の東日本大震災において女川原発を救ったことになります。

原子力論考(110)女川原発を見学してきました

矛盾を感じる。三陸沿岸は浜通りと異なり、震災前から日本一の津波常襲地帯として知られてきた。「そこかしこにそんな津波の来歴があり、伝承が残っている」「いくつもの津波伝承の残る神社」のは当然である。そして町田徹『電力と震災』によれば、東北電力社員の大半は管内出身者。三陸沿岸の者も多い筈。それなのに平井氏は当初社内で一人、津波の脅威を強調していた。言うなれば孤立しており、他の社員達は地元の歴史を前にしても実に鈍い。このエピソードはそのような面も表しているように思う。

【2】都合の悪い証言を無視する推進派

津波に対する企業文化が維持され続けたかどうかは、平井氏の後輩達の「実績」を観察しなければなるまい。例えばネット上では推進派や反反原発派は無視しているが下記のような証言も存在している。

東北電力の企業文化については、私個人としての体験・思い出があります。

私が不動産鑑定士の試験に合格し、(財)日本不動産研究所仙台支所に勤務していた頃ですから、約40年前のことです。

齋藤芳雄氏という不動産鑑定士の大先輩が、副支所長として、東北電力本店用地部長を退職され、仙台支所に招聘されて着任しました。旧海軍士官で文字通りの紳士でした。

(中略)ある時、塩釜方面に現地調査に出かけた時だったと記憶しています。「東北電力に永く勤めて感じたことは、『こと原子力発電』に関することは、社内では禁句でありタブー視されていることです」、「タブーがあることは、大きな目で見た時は、決してよいことではないはずです」と、静かに話されたことです。

なぜか、齋藤氏の言葉が今でも強く印象に残っています。

第7回 東京電力の本音と建前(1)
不動産鑑定士 高橋 雄三 のコラム

他社より抜きん出た企業文化があるなら、こんなコメントは出てこない。

【3】日本海中部地震津波で被災した能代火力発電所造成地

上記のように書いていくと、1990年に貞観地震の堆積物調査を行なって専門誌『地震』に発表した件を挙げる向きもいるかも知れない。だが、平井氏が強行な主張を行なってから20年の時を経た調査を始めるまでに、東北電力はある出来事を経験していた。それは、1983年の日本海中部地震である。この地震は同社管内で発生し、大きな津波を伴っていた。遠足の小学生が犠牲となったことは繰り返し報じられたので、覚えておられる方もいると思う。

だが、小学生以上の犠牲者を出した人々がいることは、忘れられかけているようだ。

日本海中部地震は当時としては注目すべき地震だったため多数の記録が残されているが、ネット上のデータベース検索で簡単に確認出来ないものも多い。そういうものを灰色文献に含めてよいのであれば、貴重な経験が灰色化したとも言えるだろう。

そのような中、次の文献はネット上でも読めるものである。引用してみよう。

e)能代港ケーソン流失と災害
能代港では当時東北電力能代石炭火力発電所の用地造成,北防波堤築造工事が行なわれていた。
(中略)火力用地護岸工は図一5に示すような870m x1,900mの長方形区割の締切りで施工途上であった。(中略)当時の作業人員306名中34名(船1二9名,護岸上25名)の死者を出し,稼働船67隻中40隻,陸上機械6台中6台全部が被災した。

津波防災実験所研究報告第1号 昭和58年5月26日 日本海中部地震津波に関する論文及び調査報告

ネットでは読めない文献からも一つ引用しておこう。工事を請負っていた五洋建設秋田出張所所長、森光利氏は津波が迫る様子を次のように綴っている。

あとで救助された人々の話によると、沖に白い波が見えたと思ったとたん、7~8mもあろうかと思われる衝立のような波が目の前に襲って来て、気が付いたら海の中であり、水柱では、1個300kgもある基礎石が乱舞しており、その石に何回かたたかれ、そのつどもうだめだと観念したそうである。

護岸の外側で作業していた499t級のガット船は津波に乗って、高さ5mもある護岸を乗り越えて内側へ入ってしまったとの事で、かなりの速度、高さの強烈な津波であったことは間違いない。

(中略)
◎災害時の能代港における稼動状況及び被害状況
 船   舶 113隻中被災 56隻
 重 機 類  19台中被災  9台
 作業従事者 631名中被災 373名
 被 災 者 373名中死亡 34名
              重傷 58名  
森光利「忘れてしまいたい体験 しかし 忘れてはならぬ教訓」『みなとの防災』99号(1988年)

ちなみに当該地は県が実施した埋立造成地を購入したものだ。完成後の能代火力発電所の敷地高は4.2~4.3mであり、被災当時から変わっていない(ただし、防波堤に関しては分からなかった)。

この件から分かる事は、東北電力は平井氏の教えを継承して敷地高に余裕を持たせるようなことはしておらず、失敗したということである。ちなみに、能代港が歴史の舞台に登場したのは『日本書記』であり、女川港に比較して1000年(女川の事実上の築港は明治時代であることを考慮すると実質1300年)以上の歴史差がある。過去の記録面では有利な立場にあったと言える。

なお、工事を請負った建設業者が 総計30名以上の死亡者を出しているにも拘らず、東北電力は敷地嵩上げも特に行わなかった。上記の文中にもあるように発電所本館の工事着手前であったから嵩上げは 既設発電所に比較すれば遥かに容易であった筈だ。電力お得意の「記録に残る既往最大」論に当て嵌めてもたかだか4m程度の嵩上げである。それが出来ない。倫理上も疑問を感じる。

【4】経験にも先輩にも学ばず同じ失敗を繰り返す東北電力

このように、発電施設に抜本的な改善を施さなかったため、28年後の東日本大震災では再び火力発電所に大損害を受け、再建に長期間を要したのは周知の事実である。この話に救いが無いと思うのは、次の発言である。平井氏は原発の津波対策だけを心配していたのではなかった。

毎度お馴染み国会事故調の添田氏のツイートから。企業文化が優れているなら「日本海ですらあのような想定外があったのだから、プレート境界に面した太平洋岸は大丈夫か」と全社レベルで考えても良さそうなものだ。東北電力にとって主力の発電設備は火力だったし、「尊敬する大先輩」が言っていたことなのだ。しかし、平井氏の後輩達は、抜本的な設備改善に反映することはなかった。

施設の性格は異なるが、東日本大震災で航空自衛隊松島基地は、津波により駐機していた全機体が水没する被害を受けたが、基地の再建に当って敷地の嵩上げを行なっている。重要な施設なら、当然の判断である。

【5】電力の言い分を鵜呑みにする浅はかなPA屋達

ところが今回の震災後に至っても、東北電力は女川再稼動の布石なのか、喜々として平井氏の伝説を称揚するのに勤しんだようだ。外国人専門家やNTTファシリティーズはよく調べもせずに放言してしまい、「企業文化」は権威付けされた。私も能代火力の件を知ったのは、過去の津波歴を資料で洗ってからのことだ。日本海中部地震での失敗に加え、震災後のこの一連の宣伝行為も、東北電力の企業文化に重大な疑問を抱かせるものである。

電力会社の周囲にたかる口舌の徒は輪をかけて酷い。私は東北電力の事実上の広告塔となっている町田徹氏、井上リサ氏等が能代火力発電所の件の詳細な説明をしているのを読んだことが無い。町田氏は元々それ程の知識も土地勘も無いので悪意の無い方だと思うが、広告塔はそれ以上の役割では無いし、電力側も致命的に不都合と判断した情報はレクチャーはしないだろう。電力ツアーを仕事の糧にしており、宮城周辺の土地勘がある井上氏の場合は全てにおいて論外である。

【6】調査研究は日本海中部地震を契機に進展

このように、被災当事者ですらハード面の津波対策は疎かなまま無為な時間を過ごしたのが現実だったが、発電所の工事で多数の犠牲者を出したことは、電力業界にとってはちょっとした衝撃だったのも事実である。

津波は、通常海岸で見られる風波とは異なって頻度の小さい現象であり、しかも、日本海中部地震津波のように昼間発生するとは限らないため、実際の現象を目のあたりにすることは滅多に無い。また、周期と波長が極めて長い波であるため、模型実験で津波現象を正しく再現するには、現存のほとんどの実験水槽は短すぎる。こうしたことから、津波は実感としては捉え難い。事実、1983年と1993年日本海で発生した2つの大津波によって改めて認識させられるまでは、津波はリアス式海岸のような屈曲の激しいV字状の海岸において大きく増幅されるというのが常識であり、”条件によっては平坦な海岸線のところでも大きな増幅をしたり、分裂波を伴って来襲することや島によって津波エネルギーが捕捉されること”等はほとんど注意を引かなかった。

海岸部に建設される原子力発電所や火力発電所は、発電所施設の建設にあたって、耐震性の評価のみならず、津波に対する安全性の評価を行なっておくことが必要である。日本海中部地震津波によって施工中の発電所埋立護岸用ケーソンが移動・転倒・水没した例はあるものの、建設後の発電所が津波によって被災を受けた例はないが、発電所特有の項目、すなわち、施工中も含めた外郭施設の安定性・機能保持、海面低下等の条件下での取水機能の保持、敷地内浸水・濁水冠水の程度と建屋・機器への影響等について、適正に評価しておかなければならない。

『火力・原子力発電所土木構造物の設計』(増補改訂版、1995年)P154-155

同書初版にも津波の記述はあるのだが、ここまで突っ込んだ内容ではない。電力業界の技術者が集まって書かれた書であることを勘案すると、非常に味わい深い文章である一方、認識に地震学の専門雑誌類との落差を感じる。地震学の方面では、当時から古文書に記録が残されている(巨大な)歴史津波への関心が強かったからである。

この地震以降、津波予測の研究が徐々に増えていくが、それはシミュレーションやデータ取り纏めに欠かせない計算機の性能アップばかりが原因ではなく、動機付けがあったのである。問題は、電力業界の対策が専ら調査研究レベルに留まったことだ。東北電力が1990年に発表した貞観津波の研究は上記のような流れを踏まえて眺めるべきである。

【まとめ】
私も平井氏は尊敬しているが、氏のなしたことをNTTファシリティーズや町田徹氏、井上リサ氏が主張するように、東北電力全般に当て嵌めるのは間違いだと考える。言わば、女川は平井氏の個人的なファインプレー。平井氏の理念が後輩達に受け継がれていないことは、能代火力や新仙台で被災を重ねたことからも容易に証明出来る。東北電力は地方電力会社の一典型に過ぎない。

記事の最後は森氏の次の言葉を引用しよう。

我々は自ら、これからの天災から身を守らねばならない。しかし実際に体験していない事態に対しては、案外無防備である。例えば秋田地方では近年津波による被害がなかったせいか、山崩れを警戒して「地震があれば海岸へ逃げろ」との言い伝えもあると聞いているが、三陸側では地震即津波となっている。

各地で起きたいろいろな災害について、実際に体験した人達の、「こんな状況の時、こんな災害が起きた」、「災害が起きる前は、この辺がこんなになっていた」、「こうしたら助かった」とかその体験を広く交換し合い、常に心にとめておく必要がある。

(中略)

しかし、恐いのは、「災害は忘れた頃にやってくる」である。我々はこの尊い教訓を肝に銘じておかねばならない。

森光利「忘れてしまいたい体験 しかし 忘れてはならぬ教訓」『みなとの防災』99号(1988年)

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