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2014年8月11日 (月)

「日本の原発は高度経済成長を支えた」という誇大宣伝が1000件以上RTされる

「日本の原発は高度経済成長を支えた」←また酷いデタラメである(魚拓)。偶には記事にする。

まず、時系列が変である。通常、高度経済成長とは第一次オイルショック(1973年冬)までを指す。より正確には1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までの19年間だそうだ。オイルショックが高度成長に止めを刺している以上、「高度成長期を支えた」一例であるかのように「オイルショックの落ち込みを補った」が続くのは、真偽以前に表現として不自然なのである。更に不自然なのは不況で落ち込むのは需要であり、供給がそれを補うのはあり得ないということ。「電気は溜められない」が特徴の電力事業では尚更である。

73年と言う年は同時代人にとっても、TVの映像でしか知らない人にとっても高度成長終焉というイベントのお陰で印象深いので結構覚えているかと思うのだが。

次に、「高度成長期」に運転を開始した原発を数えてみよう。なお、これ以前のものは研究炉や実証炉ばかりで電力生産にまともに寄与するものはない。

・東海発電所:1966年
・敦賀1号機:1970年
・美浜1号機:1970年
・福島1号機:1971年
・美浜2号機:1972年
・福島2号機:1974年7月

まず押さえておきたいこと。高度成長の前半期に稼動していた原発はゼロである。高度成長期全期間を通じても、正式に運開していたのはたったの5機に過ぎない。片手で数えられる。自ずと当時の発電量や設備容量に占める割合も想像がつくというものだ。リンク先のグラフを読めば分かるとおり、日本の原発は高度成長を支えていない発電電力量の推移)。勿論、19年続いた高度成長期の最後の数年間で少しばかり発電したと言う見方は出来ようが、その貢献度は当時落ち目だった石炭火力や、高度成長前半期には主役の座を火力に譲っていた水力にも劣るのである。

なお、福島原子力発電所は福島第二の計画が具体化したことに伴い、1974年に福島第一原子力発電所に改称したので注意が必要である。福島2号機はオイルショック前にパワーアップテストの工程まで進んでいたため、出力制限して救援のため併入された。

また、長年約3割の発電量を担っているという宣伝が繰り返されたため麻痺している人も多いが、3割弱に達したのは昭和も終わりに差し掛かった頃である(電源別発電電力量の実績)。3割とは平成時代最初の20年ほどの話。バブルは遠くなりにけり、という時間感覚の問題なのだ。

余談だが、高度成長期に運開した原発はいずれも出力が小さく発電単価は大きくなりがちで、導入炉としての性格が強かった。だから、当時の火力発電に比較しても、何処まで競争力を持っていたかは疑問である。言い換えれば原子力発電の技術が成熟するまで大量導入を控え、火力一筋を継続する道も十分な現実性を持っていたと考えられる。フランスやスペインは実際にそのような道を辿っており、荒唐無稽と言う訳でもない。そして、オイルショック時に稼動していた原発は、OPECに対して何のブラフにもなっていない。

また、意外と知られていないのは、オイルショックのため原発の建設ペースは落ち込みを経験したと言うことだ。

しかし、これも小中学校で習った社会の勉強を思い出せば、自然と理解出来る。高度成長期に考えられていた日本の未来像は実際の姿とかなり異なっているからだ。簡単に言えば、それは重厚長大産業への極端な依存であった。苫東、むつ小川原といった失敗の見本のような工業開発は本来そのために準備されたものだ。しかし、現実にはオイルショックによる原料費高騰や人件費の漸増などによりそのような路線は修正を余儀なくされ、軽薄短小な精密機械工業やサービス業の拡大が進展する。それで電力が高度成長期に考えられていたように伸びる訳もない。

しかも、福島第一について言えば、工事が遅れたことは幸運だった。福島原子力建設所所長であった中村良市氏は次のように述べている。

②工期の延長
需給の落ち込みにより、電源建設工事は軒並み工期を繰り延べる事になりました。忘れもしませんが正月15日(昭和50年1月15日)突然電源計画課長から呼び出しがあり5、4および6号を1年ないし1.5年工期を延長してもらいたいという事を通告され、その理由をるる説明されました。工程表を明日までに提出せよということになりその晩は徹夜で工程表を作る羽目になりました。その時決めた運開日がその後実際に運開した日であります。

3号機はすでに試運転に入っておりそのままいくことになりました。さて、これからが大変でして5、4号機は据付がだいぶ進んでおりましたので、長期の保管体制に入らなければなりませんでした。まず保管体制の検討、建設工事人員の再配置などの検討が必要になりました。

6号機はPCVの据付が完了した段階ですが、大部分の機器は現場に到着しており、また、タービンなどGEよりの輸入機器も多く1年以上どうやって完璧な状態にして保管するか大問題になりました。

6号機建屋の近くに大々的な保管倉庫を作りGEの指導のもとに綿密な保管体制にはいりました。

工期延長はいろいろな事態を起こしましたが、一方、この頃から発生したSCCに対する対策、改造を実施することができた事など、良い面も多々ありました。また6号機は設計の遅れを取り戻すことができ、給水系のFCVをMG controlに変更することが出来たことなど、その後の安定運転に寄与することが出来たとおもっております。

中村良市「原子力発電開発の道程(2)」

面倒なので専門用語の説明はしないが、何となく時間的な余裕が取れたことは分かるだろう。『原子力の社会史』などの通史を読むと、1970年代は日常的な運転においてもトラブル続きで、その対策に追われた苦しい時期だったことが記されている。高橋氏の言うように強引な稼動を行なっていたら、上記の改良を反映する暇は無くなり、現実の福島第一以上にずさんな設計・施工の原発となっていたことは疑いない

高橋一博氏を見て分かる事は、62歳だからと言って自分が生きた時代を正確に覚えてるとは限らないと言う、至極当然の話である。高橋氏は仕方ないにしても、それにも増して問題なのはこんな与太が現時点で976件もRTされてることだが。殆どが賛意のRTじゃないのこれ。こんなデタラメをあり難がって放射脳叩きに勤しんでる原発推進派は知恵無しのバカだね(笑)。

2014/8/16:タイトルが分かりにくかったので変更

2014/8/24:追記、一部表現見直し
続き→「日本で原発が動き出したのはオイルショックの後」と放言するPolaris_sky氏

沢山の方に御覧いただいたようで感謝いたします。

今回のような誇張・デマへの疑問を提起しながら日頃は原発の歴史研究記事もやってます。例えば下記など。御笑覧頂ければ幸いです。

-東北電力の企業文化は特別か-日本海中部地震津波では能代火力造成地で多数の犠牲者

小林健三郎が選んだ「原子力適地」-中部電力浜岡原発などは除外-

茨城県の「要請」は明記せず日本原電の対応を「自主」「独自」と喧伝する危うさ(追記あり)

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この高橋という人は他にも間違いをしています。
ウランも有限です。

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