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2014年8月の5件の記事

2014年8月30日 (土)

非常用発電機が水没した新潟地震を無視する日本の原子力産業

既に過去の記事「東電事故調への疑問」にて述べたことだが、福島第一原発1号機の非常用ディーゼル発電機は最初から地下に配置されていた訳ではない。最初の設計では地上配置になっていたものが、1968年に申請された改設計で大型化し、地下1階に変更したのである。

1f1_196607_1f_heimenzu_shahei 福島原子力発電所設置許可申請書 添付書類(1966年7月)より1階平面図
赤枠が非常用発電機

1f1_196811_1f_heimenzu 福島原子力発電所設置変更許可申請書 添付書類(1968年11月)より地下1階平面図
赤枠が非常用発電機(1号A系)。1階のタービン北側から移動している。

その理由は、岩盤に近い地下1階の方が地震動が抑制されるからであった。しかし、東電を含む主要事故調は当初地上配置となっていたことは無視し、完成後の姿を議論している。

福島第一1号機が設計されていた頃に米国で建設されていたプラントを調査したところ(中略)個々のプラントの設置されている地盤を考慮した設計となっていた。(中略)非常用D/Gが設置されている建屋の多くは、岩盤に設置することを要求されたものではなかった。これに対して、日本の原子力発電所では、建屋の多くは耐震性から岩盤への設置が要求されるために地下階を有している場合が多い。このような条件の違いもあり、非常用D/Gについては、大型機器としての耐震性や振動を考慮して基礎の上(最地下階)に設置していた。

『福島原子力事故調査報告書』東京電力 P30

建屋の周りが水に覆われてしまえば、非常用D/Gが設置されている建屋の種類や設置場所に関係なく、ルーバ等の浸水ルートとなり得る開口部と浸水深さの高さ関係で非常用D/G自体の浸水につながるものと考えられる。なお、経済産業省所管の独立行政法人原子力安全基盤機構の報告書(「地震に係る確率論的安全評価手法の改良 BWRの事故シーケンスの試解析(平成20年8月)」及び「平成21年度地震に係る確率論的安全評価手法の改良 BWRの事故シーケンスの試解析(平成22年12月)」)において、プラントに津波が到達するほどの高い津波の場合、安全上重要な施設に被害を生じ炉心損傷に至ることが報告されている。

『福島原子力事故調査報告書』東京電力 P31

地震対策であることは分かったが、一つの疑問が沸いてくる。東京電力や各社の技術者は、非常用発電機が水没するリスクについて「何時から」承知していたのだろうか?

この点について各事故調の報告書は明瞭な記述をしていない。例えば、政府事故調中間報告は400ページ台辺りから過去の経緯に触れているが、津波対策を見直した際に、その可能性が認識されたかのような記述をしている。だから津波の経緯でのいい加減な報告と同様「建設時は無知だった」かのような印象すら感じられる。東電事故調は既に見た通りでこの件は何も語っていない。

だが、これもまた、相当以前から経験済みの問題で着工前から分かっていたことだった。今回はこの件について述べてみよう。

まず、次のパンフレットを見て欲しい。1983年頃に作成された川崎重工の非常用ガスタービン発電機のカタログである。

Kawasaki_pu_series_hyoshi_2

表紙からして中々強烈である。右のビルは電源喪失。というか左のビルも1階は水浸しなのだがそれは御愛嬌。続いて本文。全文はこちらのPDFで。全ての記述が福島原発事故に当て嵌まる。携帯の方は画像を読むのが辛いと思うので、後で重要な記述を抜き書きしてみよう。

Kawasaki_pu_series_honbun

防災用・非常用の発電設備を手掛ける者として、災害が起こるたびに、私たちは被災地を見舞い、いかにすれば完全にその機能を果たせるのかという問題を、あらゆる角度から調べ、検討してきました。

そして、私たちが出した結論は-「屋上または上層階への設置」です。受変電設備などの問題もありますが、これらも含めて屋上または上層階へ設置することが、水没の危険を避ける最良の方法です。

発電設備メーカーとして、設計・製作面から「地震そのものに強い設備」「絶対の起動信頼性をもつ設備」を追求してきたことはもちろんですが、せっかくの設備も、地下発電機室が浸水してしまっては使えません。

実際、長崎の大水害の際にも、西浦上合同庁舎、長崎市市民病院、長崎市市民会館、長崎市成人病センターなど、地下で浸水してしまった非常用発電機の例をいくつか見ました。長崎地区の官庁関係者の話では、今後この教訓を活かして、非常用発電設備の設置にあたっては、屋上設置を積極的にすすめてゆく方針を固めたとのことです。

長崎大水害は1982年なので当時としてはタイムリーな話題を盛り込んでいる。この後の記述を読んでいくと更に興味深い内容となっている。

地下浸水の危険は、台風による水害時だけではなく、地震によって起こることもあります。地下には水道やガスの本管、配電線などが通っており、万一これらが破損し、地下室の壁にヒビ割れでも起これば、地下に浸水、ガス漏れが起こり、機械は動かず、火を使うものはいっさい使用できないという状態になってしまいます。

昭和39年に起こった新潟地震では、このあたり特有の地盤形状が引き起こした「流砂現象」によって地下水が吹き上げられ、地下に設置されていた非常用発電設備のほとんどが浸水してしまったという悲惨な実例もありました。

新潟地震時点では福島第一どころか原電敦賀すら着工していない。当時の各産業界・学会専門誌は新潟地震と自分野との係わりをテーマに特集をしていたので、この情報が原発の技術者達に届かなかったとは思えない。原発の場合は岩盤に設置することを原則としているため、液状化シナリオは当たらないと考えたのだろうか。だとすれば、他のシナリオ-今年の夏にも古里原発で問題になった洪水や汚染水対策で問題になった地下水脈の問題-が頭から抜けているとしか思えない。歴史地震を意図的に無視した津波による浸水も同様である。

電力技術者達は、日本で商業原発が建設される前に、地下室に配置した非常用発電機の問題点を知っていたのだ。事故調は関係者から提供された情報を基本に議論を組み立てているが、事故の数年前から漸く分かったかのような書かれ方をしているのは、意図的にそういう資料の出し方をしているからだ。やはり、建設時の設計会議・デザインレビュー記録の検証が必要だろう。

「何時知ったのか」については解明出来たが、80年代初頭頃における非発としての能力はどうか。ここで少し知識のある推進派のオタクや業界人になると「出力が足りなければ役には立たない」と突っ込みが入るかも知れない。しかし、相手は大型の艦船すら軽々と走らせるジェットエンジンの近縁種でもある。陸舶も大型は当然のようにラインナップされていた。

これを見ると、一般産業用の機種でも最大で2400KWに達している。福島第一で最も多く採用されていたディーゼル発電機は新潟鉄工製の18V40Xで出力6500KWである。ガスタービンに置換した場合1台はきついが3台あれば賄うことが出来る。

なお、18V40Xは40Xシリーズの一つだが、実質的には原子力用に開発されたエンジンで、出力を最大限稼げるようにV型18気筒化している。仮定の話だが、浸水対策用にガスタービンを据え付ける話が早期に出ていたら、冷却対象の原子炉に応じてより大型のタイプが特注されただろう。

Kawasaki_pu_series_hikaku

ノリノリの比較表。非常用発電機の容量が2200KW(2750KVA)に過ぎない福島第一1号機や更に低出力の敦賀になるともっと楽で、PU3000ではオーバースペック、PU2500でほぼ賄える。特性もディーゼルより良い。ちなみにこのPUシリーズ、川崎重工のHPで確認すると今でもラインナップされている。

ちなみに、「GE社とターンキー契約」が福島の特徴として喧伝され続けたため、さも全て外国製品が使われているかのような錯覚を抱くが、非常用ディーゼル発電機は国産である (ディーゼル機関にもパテントの問題があるので海外大手の技術がそこらかしこに入ってはいる)。そして、1号機A系は川崎重工が納入している。 当然、社内で徹底した検討を行ったと謳う位なのだから、川重で陸舶をやっている技術者なら新潟地震の被害を知らない筈が無かったろう。陸舶に手を出したメーカーは何社もあるが、ガスタービンを手掛けていないところもある。川崎重工の場合、新しい商材を手にしたことで、過去の経験談を交えてディーゼルの欠点を表に出すことが出来た。発電のための設備が被災した訳だから、知っていたのは電力会社も同様である(【追記2】も参照)。

なお、この冊子が作られた時点で、電力設備や一部原子力施設用に、川崎重工のガスタービンは納入済であった。

Kawasaki_pu_series_nonyu19830630
この納入実績表を読んでいくと電力各社の設備(火力・水力発電所、変電所、制御所)などに並んで、次の施設に納入されている。

・日本原子力研究所トリチウムプロセス研究棟 1984.3 600KW
・日本原子力研究所 1980.12 1000KW
・日本原子力研究所東海村FCA 1980.11 150KW 

川重のガスタービンは原研のお気に入りだったようだ。

上記パンフレットには建設時の知見問題以外に、もう一つ歴史を掘り起こすためのヒントがある。それはガスタービン発電機が商用化された時期で、昭和52年(1977年)である。福島第一原発6号機が運転を開始し、完成式典を祝ったのが1979年12月だが、1979年4月にはスリーマイル島原子力発電所事故が起きていた。東電は他社と同様炉型の違いを材料に安全宣伝に努めたが、彼らなりに教訓を得ようと再点検や調査研究を行っていた。あまり知られていないが、その中には非常用電源設備も含まれる。次に東電技術者として原子力担当副社長を務めた堀一郎の発言を見てみよう。

-東電の原発の安全性についてはどうか-

(中略)今回の事故を契機に原発の安全性に社会的な不安が広まっているので、通産省などとも協議して安全確保に万全を期すことにした。社内に原子力管理体制の再検討委員会(委員長豊田正敏取締役原子力開発副本部長)を設け、福島第一原発について緊急炉心冷却系(ECCS)安全逃し弁、非常電源など安全設備の点検を行い、保守・運転管理基準などについても再確認している。

-原発の定期点検中に故障個所がよく発見されるが-

(中略)この問題については、これまで原子力の専門家が安全点検をやっていたが、今回の事故の経験を生かし、今後は原子力以外の工務・火力の専門家にも原発を見てもらい、より安全な操作、管理方法を追求していくつもりだ。社内におけるこうした原発の見直し作業は可及的速やかに結論を出し、改善すべきところは改善していく。

堀一郎『電力技術者五十年』1988年11月 P176(「安全確保に万全を期す」『日刊工業新聞』1979年4月16日より転載)

福島原発事故後もこの時の再検討が知られていないのは、各事故調がスリーマイルを過酷事故対策の契機と認識しつつも、東電が当時何をしていたのか関心が薄く、事故後相次いでインタビューに答えた豊田正敏氏が、この件は何も語っていないからに他ならない。

事故関連で訴訟を起こしている原告団や検察は、事故調が見逃したこの調査報告を東電に開示するように要求した方が良いだろう。その報告書は発電所内で放射化して眠っているかもしれないが、探し出す価値はあると思う。現代でいう所のバックフィットを検討した可能性はあり得るし、それを行っていれば冷却水の不要なガスタービンの高所設置が選択肢に入るのは自然ではなかろうか。

パンフレットの最後には次のような一文がわざわざ枠線で囲って強調されている。

防災用・非常用発電設備こそ、「転ばぬ先の杖」でなくてはなりません。ご計画にあたっては、その設置場所と、設備の特性を十分にご検討ください。

ただし、実際には、「原子力発電所では浸水は起きない」(詭弁を弄して「非常に確率の低い~」とやってるのも同義)こととなり、事故が起きてからあわてて導入、ピカピカの筐体を撮ってウェブサイトで宣伝するようになった。ああいう写真はどれも見栄えが良いからつい騙されがちになるが、本質を見誤ってはならない。建設する前から知っていたことがばれると責任問題になるから口をつぐんで報告書や証言でも誤魔化しているだけ。

ベテランのエンジニアはしばしば「一般産業以下」と軽蔑しているようだが、その理由はこういう体質にある。

【追記】2014/8/30/21:30

朝日新聞は2011年6月11日「地下に非常電源」米設計裏目に ハリケーン対策だった」と報じているが上記のように米国では地上に配置していた例もあるのでこの説はそれ程の絶対性は持っていない。第一、原発の建屋は(安全に停止できるかどうかは別として)その辺のビルに比べれば遥かに頑丈に造られている。川重のパンフレットでは剥き出しで設置されているが、竜巻が心配なら建屋で覆ってしまえばよい。高所と言っても福島の場合は元からある30mの崖の上にコンクリートの小屋を建てるだけのことだ。

それに、海外で厳重に防備している原発では、1基の原子炉のため非常用発電機を数台配備している例が昔からある。ディーゼルにガスタービンには無い優位性があるのならば、各々2台ずつ配置する等の手もあった。

今日NHKスペシャルでやっていた巨大竜巻やらスーパー台風に脆弱なのは震災後に増備された電源車の類だろう。『科学』2013年5月号でも既に指摘はされている。

【追記2】2014/8/30/23:00

今回紹介したカタログは複数のパンフレットが一つにバインドされているが、総ページは納入実績を除いても50ページに近い。専門誌でも一つの記事が10ページあれば詳しい方だと考えると、このカタログの価値が分かる。

しかし、原発をやっている電力会社が川重のガスタービンについて、このカタログ以上の知見を有していたことは間違いない。こういった産業製品のカタログは、かつてBtoBの場以外での入手機会は無かった。パンフレットに市役所の例が出てくるのも、他の公官庁への売り込みのためである。そんなカタログが平常どのように使われるかを考えると、次のようになるだろう。

通常、メーカーの技術営業は取引関係のある公官庁・インフラ系企業を定期的に回り、挨拶代わりに新製品紹介の時間を取り、帰り際にカタログ一式を渡す。入札が実施される案件では受注のため詳細な見積書を提出し、オーダーメイドの相談に乗り、プレゼンも行なう。たとえ失注したとしても、挽回の活路を求め、追加資料としてあれもこれもと使用可能な場面を想定し何度も日参しただろう。電力側の技術者も、採否を決めなければならない段階では、真剣に資料を読み多様な問い合わせを行なっている筈だ。実際にどこかの施設に採用した場合は言うまでも無い。そのような情報の流れがあり、電力会社や一次メーカーが異常なまでの書類好きでもある以上、電力会社の技術系社員達が非常用発電機の水没リスクを近年まで知らず、何の文書も作った実績が無いということは、特に東電のような最大手のマンモス企業では、絶対にあり得ないのである。

【追記3】2014/9/1/23:00
本文を書いた時点で新潟鉄工がガスタービン発電機に進出していたのかは不明だった。しかし、下記によると、川重が商品化した時期に新潟鉄工も小型のタイプは市場投入していることが確認出来る。70年代末時点で、川重は例外的な存在では無かった。

「陸舶用内燃機関の動向」『燃料協会誌』Vol. 56 (1977) No. 8(PDF

更に興味深いことは、同記事によれば、2000KW程度までのディーゼル機関をトレーラーに積んで移動式の発電ユニットとしてパッケージ化する動きがあったことだ。これは、現在の大容量電源車に繋がる発想と言える。

【追記4】2014/10/3

実は、上記で触れるのを忘れた問題が一つある。それはガスタービンがディーゼルに劣る数少ないデメリット、起動時間の長さである。ディーゼルの場合は10秒以内に収めることが出来るがガスタービンでは40秒前後かかることが一般的だ。品質保証に五月蠅い原子力屋からケチが付くかも知れないので下記にコメントする。

  1. 電源車の到着を待っている間により炉心溶融に近づく位なら、余分に30秒待つことを許容した方が良い。ディーゼルとの組み合わせ(既設サイトならガスタービン増設)で互いのデメリットを補い、共通要因のトラブルを回避する手もある。
  2. 工場向けのUPSではガスタービンと組み合せに応じるとする例もある(「UPSシステムと併せてのご提案も承ります。」と記載)。メーカーカタログを確認すると10000KVA前後の容量を持つ物もある(富士電機の場合、各タイプの仕様書を落とすと分かる)。シーケンスを組む際、UPSが故障しても一定時間後にガスタービンが自動起動するように注意してあれば良い。なお、産業用UPSも70年代より実績のある技術であり、主な重電メーカーが手掛けてきたという意味では、検討機会はガスタービンと同様長期間あったことを付記しておく。
  3. 高所設置可能ならガスタービンに拘らず防振装置付ディーゼルとコスト比較しても良い。

なお、米国向けの輸出を前提とした例だが、2009年、三菱重工は技報で下記のように述べた。

従来プラントでは,外部電源喪失下における事故への対処として,非常用電源設備に対し,十数秒以内の起動時間要求があることから,非常用電源設備には,急速起動タイプのディーゼル発電機が適用されていた.しかしながらUS-APWRでは,高性能蓄圧タンクの採用により,非常用電源設備に対する起動時間要求を100秒以内まで緩和することが可能となったため,ガスタービン発電機を非常用電源設備として採用することとした.

US-APWRにおける電気計装設備の新技術」『三菱重工技報』Vol.46 No.4 (2009)

舞台裏では蓄圧タンク案とUPS案その他との比較検討も実施したと推測する。海外では非常用にガスタービンの設置例は幾つかあり、このような準備があってこそ、福島事故後、各電力会社は急速な設置を行なえたものと思われる。

2014年8月25日 (月)

「日本で原発が動き出したのはオイルショック後」と放言するPolaris_sky氏

「日本の原発は高度経済成長を支えた」という誇大宣伝が1000件以上RTされる

上記のように誇大宣伝する者がいる一方で、推進派の「有名人」(原発憲兵)にはこんなことを布教している者もいる。

>オイルショック後、日本の電力の30%を担ってきた原子力発電所魚拓
>オイルショックからはじまったエネルギー危機を解決するための策
魚拓
>レベル低っw日本で原発が動き出したのはオイルショック後魚拓

ポラリス先生のご見解です。凄いなぁ、日本産業界の先見性と突貫工事(棒)。

こういう人ってつくづく年表とか見ないよね。周囲のお仲間も誰も彼の放言をフォローしてないし。lm700j君とかひまわりアイコンとか。彼等は高橋一博氏と違って無闇に攻撃的なのが特徴だが、水に落ちた犬を叩くために徒党を組んだだけなので、相互の信頼関係みたいなものはないんだろうね。

さて、前回記事でも示したが、1973年冬のオイルショックまでに運開していた原発は5機あり、ショック直後の1974年にも3機が稼動している(前回記事はオイルショックで救援併入された福島2号機までだったが今回は1974年分も全てを列挙)。

・東海発電所:1966年
・敦賀1号機:1970年
・美浜1号機:1970年
・福島1号機:1971年
・美浜2号機:1972年
・島根1号機:1974年3月
・福島2号機:1974年7月
・高浜1号機:1974年11月

ところで、オイルショックがあって翌年に稼動できる程原発って簡単に造れただろうか?違うよね。何年も前から工事始めて完工しただけだ。で、チマチマと増設・小改良を続けて30%を担うようになったのは昭和から平成への境目だということも電源別発電電力量の実績などを調べてみると大体つかめる。結果として、推進派がバカにする高橋裕行氏のコメントに出てくる「20年」の方が3割が維持された期間としては近い。ポラリス氏は40年間と思っているらしいが誇大宣伝である。

コラム
世界に目を向けると、オイルショックを機に一気に同型の原子炉を「量産」した例もあって、フランスが該当する。フランスの原発コストが安価で知られてきたのは同タイプの炉を短期間で建設するという周到な計画に基づいた結果であって、只原発だから安いと宣伝していた訳ではない。日本でも標準化の努力はされたが、フランスほどの結果は出せておらず、原子炉は大きくPWR・BWRの2系列に分かれ、更に各サイトで少しずつ仕様が異なっている。

これだけで終わっては面白くないので、オイルショック直前にどのような原発建設を構想していたか、電力業界で作る中央電力協議会の公表資料を下記に引用しよう。

Karyoku197305_tab1 出典:『火力原子力発電』1973年5月

アルファベットで表しているものは「場所を特定しない」条件で計画に組み込まれたものである。同時期に2箇所で立地活動をしている場合や、立地点の方を後から探す場合などには、このようなカウントの仕方が便利だろう。また、運開時期は計画上のもので実際とは異なる。以前紹介した東電で福島の敷地高を決めた小林健三郎氏が行った適地研究と見比べるのも良いだろう。

携帯で読んでいる方のために各社の計画数だけ箇条書きしてみよう。

・北海道電力:2機
・東北電力:5機
・東京電力:25機
・中部電力:9機
・北陸電力:3機
・関西電力:22機
・中国電力:4機
・四国電力:4機
・九州電力:5機
・日本原電:3機

壮観の一語に尽きる。オイルショック前の計画数だけで福島事故前の建設実績55機を超え、80機以上。実績数の方が多いのは原電と九電位か。私は事故後、脱原発寄りに考え方を変えたが、こうした大風呂敷に一種の魅力がある(あった)ことは否定しない。未成鉄道や高速道路計画とかと同種の趣があるし、当時どのような未来を思い描いていたか、技術観の一端を知る事も出来るからだ。本来、原発推進派の一部は「新幹線は何km出る」と同じ無邪気な感覚でこの種の計画を掘り起こしては弄んでいたものだが、最近は劣化が激しく、技術史的にも何の益も無い。軍クラのようなオタク集団は広報資料に罵倒加えてばら撒くだけだし、業界人は明日のお飯のためか、ひたすら聞き飽きたホラを吹くのに必死である。

例えば泊原発に見える国策としての原発建設(2014.8.9)というまとめで次の指摘がある。

上記の表を見ると北海道電力は2機だけのラインナップで、泊3号機の芽は無かったことが分かる。本州の過剰なまでの計画数と比較すると、この事実はコロラド氏の指摘を裏書きする。例えば「他社での立地が行き詰ったため障害の少ない地方電力を狙って増設」といった道筋が考えられる。このように、過去の計画表から汲み取れる内容は多いだろう。

本題に戻すと、ポラリス氏の説明はこの表からも誤りと分かる。更に言えば、1960年代、中央電力協議会はこれと同種の計画を毎年提出していた。

私は、電力会社が少しかわいそうになってきた。推進派の都合でオイルショック前の努力を無視されたり。外交官もそうだ。オイルショック後の解決策で一番役に立ったのはアラブ各国の機嫌を損ねない友好政策だと思うが。幾ら日本政府と業界が間抜けとは言え、ポラリス氏よりは周到である。原発も「少しは動き出していたが、沢山ある訳ではなかった」というだけのことなのだが、何でもゼロイチに還元するから珍論が跋扈するんじゃないのかな。今回の与太も↓正にこんな感じのコメントが相応しい案件。


まぁその場その場で適当なPA(宣伝)を打って来た結果がこういったずさんだから自業自得でもあるが。レベル低っw

【追記】2014/8/25:運開の細部、中央電力協議会の表説明を改める。

2014年8月19日 (火)

津波対策を切り捨てた吉田所長が菅直人に「発言する権利があるんですか」-産経報道で判明、佐藤賢了を髣髴-

産経新聞が吉田調書を入手し朝日新聞をターゲットにした反論を開始した。

【上申書を盾に非公開を指示していた推進派、産経に撃たれる】

私は信条的には元々保守系だったのだが、産経新聞の報道姿勢は偏りが酷すぎ違和感を感じることが少なくなかった。だが、吉田調書のような重要文書が複数のメディアの手に渡ることは相互検証の上では良いことだと思う。産経の吉田調書特集は10回を予定しているそうだが是非貫徹して欲しい。

このような朝日が絡んだから公開すべきだが本来は公開すべきでないなどとのたまうバカ者は幾らでもいるだろう。産経によって完全に退路を塞がれたようで何よりだ。

【相も変わらぬ無意味なドラマ報道-事故前の方が大事-】

初回は例によって撤退騒動のドラマに焦点を当てた報道だった。吉田調書をスクープした朝日新聞を叩く門田隆将氏の問題点でも触れたように、このような枝葉末節での報道過熱は望ましくない。プラント技術者の会や原子力市民委員会で活動されている筒井哲郎氏は吉田調書が最初に出た時に次のように述べた。

福島第一原発事故以降、学者たちの間で「こうすれば過酷事故が起こらなかった」という論文や著書が繰り返し出版されてきた。

(中略)折しも5月21日の大飯原発訴訟において福井地方裁判所がいみじくも判示したように、「対応策をとるには、いかなる事象が起きているかを把握できていることが前提となるが、この把握自体が困難だ。仮に把握できたとしても、対処すべき事柄が極めて多いと想定できるのに、全交流電源喪失から炉心損傷開始までの時間は5時間余で、炉心損傷開始からメルトダウン開始までの時間も2時間もないなど、残された時間は限られている」というのが実態である。結果を見て、後知恵で分かった特定の原因事象だけについて「それはこうすれば破局にいたらなかった」という指摘は、現場で働いている人たちの状況の全貌を理解していない机上の空論である。

例えて言えば、吉田所長の仕事は、ほんの数日の間に不眠不休で100個の問題に答えを出さなければならない立場にあり、原子力学者たちが論評していることは、1年間かけて詳細に記録を調べて、2~3個の失敗を取り出して、「その失敗をしなければ原発の安全を保てたはずだ。だから、今後そのようなマニュアルを作って再稼働すれば原発事故は防ぐことができる」と主張しているに等しい。

レバタラ安全論と確率論的安全評価

実際には事故前にどのような準備をしてきたかで殆どすべてが決まる。また、吉田氏は撤退ではないと思っていたようだが、フクシマ50とも言われた少人数での事故対応では仕事は回らない。従ってそのような体制は1日しか持たず、第二に退避した作業員は短期間で続々と戻ることになった。これは、門田隆将『死の淵を見た男』すら共有している前提である。

その一方で、時間的な余裕とチャンスが無限に近い程あった事故前の事情への関心は相対的には低い。調書を巡る報道でも焦点から外れているが、政府事故調はそのことについても何か聞いている筈である。

【津波対策を切り捨てた原発所長が「黙れ」と思っていた-そんな資格があるのか-】

ところで、今回の報道で気になったのは吉田氏の菅直人に対する本音である。

例えば、政府事故調査・検証委員会の平成23年11月6日の聴取では、「菅さんが自分が東電が逃げるのを止めたんだみたいな(ことを言っていたが)」と聞かれてこう答えている。

 「(首相を)辞めた途端に。あのおっさんがそんなのを発言する権利があるんですか

 「あのおっさんだって事故調の調査対象でしょう。辞めて、自分だけの考えをテレビで言うというのはアンフェアも限りない」

「あのおっさんに発言する権利があるんですか」 吉田所長、菅元首相に強い憤り 2014.8.18 05:00

吉田氏の問いかけ「あのおっさんがそんなのを発言する権利があるんですか」だが、言うまでもなく「ある」。産経は「菅氏は同年8月の首相辞任後、産経新聞を除く新聞各紙やテレビ番組のインタビューに次々と応じ、自身の事故対応を正当化する発言を繰り返していた。」と述べている。だが、菅直人は門田隆将氏のインタビューにも応諾し内容は『死の淵を見た男』に反映されている。産経がこの点に触れないのはアンフェアである。また、東電内部でも本店と現場で軋轢があり、本店筋から官邸に撤退と取れる打診があったのが多く指摘されるところである。しかし、その件について産経はまだ何も書いていない。

また、東電に対して有形無形の支援を決めた責任者は当時総理大臣だった菅直人である。事故処理・賠償資金の捻出、外国からの協力取付け、いずれも国がやったことだ。東電自身の力で出来ないからやっているのであり、東電本店に乗り込んだ時点でその未来は確定していた。当時、意思疎通の上で行き違いがあったことは事実だろうが、東電は国を滅ぼしかけたのだから、撤退阻止という国の意思は少々過剰でも示す必要があったのだ。その代り、政治家は自らの決断について説明を求められる。総理を辞めてから自分の認識を言って何がおかしいのか、吉田氏の理屈は分からない。

もう一点言えることは、吉田氏は本店時代に津波対策を直接切り捨てる立場にあったが、菅直人はそのような立場に無かったということである。国会議員で原発の津波脆弱性を理解し行動に移していたのは只一人、共産党の吉井英勝氏だけ。吉井氏の先見性は大いに評価されなければならないが、組織論的に言えば、技術的な詳細は政治家に期待する資質ではなく、技術者に期待すべき資質である(逆に、技術者は政治的ふるまいをすべきではない。それをやったのが土木学会などであろう)。

吉田氏は自民党の代議士に良く居る「奥の院」的な対応を所望のようだが、それは間違いである。更に言えば、国民一般に自分の言葉で語る義務があったのは吉田氏も同じで、上申書を提出してまで自分の意見を隠し、或いは東電の庇護の元、右翼作家にだけ心情を語ったのは卑怯だと思う。複数のライターの取材を受けて公開していれば、何の問題も無かったのではないか。

【政治家は細かい知識を持っていないが、決断は下す必要がある】


私は何も相手が民主党だからこのようなことを述べているのではない。現物は持っていないが、次の記事タイトルを見て欲しい。

シリ-ズ これが原子力発電-1-安全率は100%--中部電力浜岡原発の地震対策
月刊自由民主 (319), p115-122, 1982-08

見よ、この寸分の隙も無く正しいところが無い記事タイトル。長らく政権にあった自民党の平均的なリテラシーである。この類の無知無能が首相の座に就くことは良くある話。でもそのような細かい知識を知らぬ者であっても様々な政治決断は下していかなければならない。ならば菅直人と同じように積極的に説明することがベストだろう。それとも、現経産大臣でテレビ東京相手に「日本なんかどうなってもいいんだ」なる発言を巡ってスラップ訴訟を起こしている甘利のような者が偉いとでも言うのだろうか。

【産経特集に期待するもの】

産経は「私にとって吉田(昌郎)さんは『戦友』でした。」との三百代言を否定して見せることが、何かとても大事なことであるかのように報じている。まぁ、菅直人の軽口は今日に始まったことではないが、そういうところがバカバカしい。

そんな産経もまた信頼性に疑問を呈されているメディアであり、吉田調書特集の前日にはオッペンハイマーに関するデタラメな記事を書いて批判されている。

「【産経新聞】「日本人に深くお詫びしたい」原爆開発者オッペンハイマーは自死した… 」について

だから、上記のような報道もまた、朝日を叩きたいというある種の幼児性すら垣間見える産経の忖度による調書の切り取りが為したものかもしれない。撤退論に関しては産経の方が調書に忠実だったとしても、調書に記された他のイシューから目を逸らしている可能性もある。続報、朝日の再反論、調書全文公開に期待する所である。

※2014/8/22追記:冒頭の表現やや補足。はてなで「権利はないと考えているらしい」とコメントされたが私は文中に「ある」と明記しているのであしからず。

2014年8月11日 (月)

「日本の原発は高度経済成長を支えた」という誇大宣伝が1000件以上RTされる

「日本の原発は高度経済成長を支えた」←また酷いデタラメである(魚拓)。偶には記事にする。

まず、時系列が変である。通常、高度経済成長とは第一次オイルショック(1973年冬)までを指す。より正確には1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までの19年間だそうだ。オイルショックが高度成長に止めを刺している以上、「高度成長期を支えた」一例であるかのように「オイルショックの落ち込みを補った」が続くのは、真偽以前に表現として不自然なのである。更に不自然なのは不況で落ち込むのは需要であり、供給がそれを補うのはあり得ないということ。「電気は溜められない」が特徴の電力事業では尚更である。

73年と言う年は同時代人にとっても、TVの映像でしか知らない人にとっても高度成長終焉というイベントのお陰で印象深いので結構覚えているかと思うのだが。

次に、「高度成長期」に運転を開始した原発を数えてみよう。なお、これ以前のものは研究炉や実証炉ばかりで電力生産にまともに寄与するものはない。

・東海発電所:1966年
・敦賀1号機:1970年
・美浜1号機:1970年
・福島1号機:1971年
・美浜2号機:1972年
・福島2号機:1974年7月

まず押さえておきたいこと。高度成長の前半期に稼動していた原発はゼロである。高度成長期全期間を通じても、正式に運開していたのはたったの5機に過ぎない。片手で数えられる。自ずと当時の発電量や設備容量に占める割合も想像がつくというものだ。リンク先のグラフを読めば分かるとおり、日本の原発は高度成長を支えていない発電電力量の推移)。勿論、19年続いた高度成長期の最後の数年間で少しばかり発電したと言う見方は出来ようが、その貢献度は当時落ち目だった石炭火力や、高度成長前半期には主役の座を火力に譲っていた水力にも劣るのである。

なお、福島原子力発電所は福島第二の計画が具体化したことに伴い、1974年に福島第一原子力発電所に改称したので注意が必要である。福島2号機はオイルショック前にパワーアップテストの工程まで進んでいたため、出力制限して救援のため併入された。

また、長年約3割の発電量を担っているという宣伝が繰り返されたため麻痺している人も多いが、3割弱に達したのは昭和も終わりに差し掛かった頃である(電源別発電電力量の実績)。3割とは平成時代最初の20年ほどの話。バブルは遠くなりにけり、という時間感覚の問題なのだ。

余談だが、高度成長期に運開した原発はいずれも出力が小さく発電単価は大きくなりがちで、導入炉としての性格が強かった。だから、当時の火力発電に比較しても、何処まで競争力を持っていたかは疑問である。言い換えれば原子力発電の技術が成熟するまで大量導入を控え、火力一筋を継続する道も十分な現実性を持っていたと考えられる。フランスやスペインは実際にそのような道を辿っており、荒唐無稽と言う訳でもない。そして、オイルショック時に稼動していた原発は、OPECに対して何のブラフにもなっていない。

また、意外と知られていないのは、オイルショックのため原発の建設ペースは落ち込みを経験したと言うことだ。

しかし、これも小中学校で習った社会の勉強を思い出せば、自然と理解出来る。高度成長期に考えられていた日本の未来像は実際の姿とかなり異なっているからだ。簡単に言えば、それは重厚長大産業への極端な依存であった。苫東、むつ小川原といった失敗の見本のような工業開発は本来そのために準備されたものだ。しかし、現実にはオイルショックによる原料費高騰や人件費の漸増などによりそのような路線は修正を余儀なくされ、軽薄短小な精密機械工業やサービス業の拡大が進展する。それで電力が高度成長期に考えられていたように伸びる訳もない。

しかも、福島第一について言えば、工事が遅れたことは幸運だった。福島原子力建設所所長であった中村良市氏は次のように述べている。

②工期の延長
需給の落ち込みにより、電源建設工事は軒並み工期を繰り延べる事になりました。忘れもしませんが正月15日(昭和50年1月15日)突然電源計画課長から呼び出しがあり5、4および6号を1年ないし1.5年工期を延長してもらいたいという事を通告され、その理由をるる説明されました。工程表を明日までに提出せよということになりその晩は徹夜で工程表を作る羽目になりました。その時決めた運開日がその後実際に運開した日であります。

3号機はすでに試運転に入っておりそのままいくことになりました。さて、これからが大変でして5、4号機は据付がだいぶ進んでおりましたので、長期の保管体制に入らなければなりませんでした。まず保管体制の検討、建設工事人員の再配置などの検討が必要になりました。

6号機はPCVの据付が完了した段階ですが、大部分の機器は現場に到着しており、また、タービンなどGEよりの輸入機器も多く1年以上どうやって完璧な状態にして保管するか大問題になりました。

6号機建屋の近くに大々的な保管倉庫を作りGEの指導のもとに綿密な保管体制にはいりました。

工期延長はいろいろな事態を起こしましたが、一方、この頃から発生したSCCに対する対策、改造を実施することができた事など、良い面も多々ありました。また6号機は設計の遅れを取り戻すことができ、給水系のFCVをMG controlに変更することが出来たことなど、その後の安定運転に寄与することが出来たとおもっております。

中村良市「原子力発電開発の道程(2)」

面倒なので専門用語の説明はしないが、何となく時間的な余裕が取れたことは分かるだろう。『原子力の社会史』などの通史を読むと、1970年代は日常的な運転においてもトラブル続きで、その対策に追われた苦しい時期だったことが記されている。高橋氏の言うように強引な稼動を行なっていたら、上記の改良を反映する暇は無くなり、現実の福島第一以上にずさんな設計・施工の原発となっていたことは疑いない

高橋一博氏を見て分かる事は、62歳だからと言って自分が生きた時代を正確に覚えてるとは限らないと言う、至極当然の話である。高橋氏は仕方ないにしても、それにも増して問題なのはこんな与太が現時点で976件もRTされてることだが。殆どが賛意のRTじゃないのこれ。こんなデタラメをあり難がって放射脳叩きに勤しんでる原発推進派は知恵無しのバカだね(笑)。

2014/8/16:タイトルが分かりにくかったので変更

2014/8/24:追記、一部表現見直し
続き→「日本で原発が動き出したのはオイルショックの後」と放言するPolaris_sky氏

沢山の方に御覧いただいたようで感謝いたします。

今回のような誇張・デマへの疑問を提起しながら日頃は原発の歴史研究記事もやってます。例えば下記など。御笑覧頂ければ幸いです。

-東北電力の企業文化は特別か-日本海中部地震津波では能代火力造成地で多数の犠牲者

小林健三郎が選んだ「原子力適地」-中部電力浜岡原発などは除外-

茨城県の「要請」は明記せず日本原電の対応を「自主」「独自」と喧伝する危うさ(追記あり)

-東北電力の企業文化は特別か-日本海中部地震津波では能代火力造成地で多数の犠牲者

【はじめに】
以前から気になっていたことだが、女川原子力発電所の津波対策が東電よりまともだったのは、東北電力に他社より優れた企業文化があるからなのだろうか。

事故を起こした福島第一原発。無事だった女川原発。この差は何だったのか。8月10日から2週間に亘り、IAEA(国際原子力機関)、NRC(米原子力規制委員会)、IRSN(仏放射線防護原子力安全研究所)、民間の一線級の外国人専門家19人が女川原発を視察した。外国人専門家の一人は、技術的な要素に加え、「電力会社の企業文化」をあげた。

(中略)

東北電力は女川原発の建設時に、津波の高さの想定が3mと言われていた時期に、津波対策として、約5倍の高さの敷地に原発を設置した。東北電力は、副社長だった平井氏が言った言葉、「法律は尊重する。だが、技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われる。」に基づき決定・実践し、女川原発を東日本大震災から救ったのである。女川原発を視察した、IAEA、米NRC、仏IRSN、民間の一線級の外国人専門家は、この文化が脈々と東北電力内に伝わっているのを感じとり、「企業文化」の違いを挙げたのであろう。

女川原発を救った企業文化 - NTTファシリティーズ総合研究所

昭和30年代に副社長で勇退した平井弥之助氏が昭和40年代の電中研時代に東北電力に助言したことは事実らしい。この件は震災後に多く報じられるようになったが、震災前は専門誌でも何ら省みることの無かったエピソードである。実際、私は日本語で書かれた業界誌専門誌は粗方検索するかバックナンバーを漁ってきたが、この話は出てこなかった。震災前に、平井氏が尊敬されていたのは、関係者の個人的な師事関係から発した面もあるが、液状化を見越して建設した火力発電所が新潟地震に耐えたエピソードが主な根拠であった。

なお、女川原子力発電所1号機は1984年に運転開始しているが、同地では温排水を懸念した反対運動が存在し、計画から着工までに10年余を要している。したがって事実上福島第一と同世代に属し、最初の設置許可申請を行なった1970年時点で敷地高を14mとする記述が確認出来る。

(3)海象
(中略)
 東北地方、ことにリアス式海岸地形をなす三陸沿岸は昔から津波による被害が多いところである。記録や聞き込み調査によると、明治29年、昭和8年の三陸沖の近地地震による津波、昭和35年のチリ地震による津浪は大きなものであったが、敷地付近では3m程度であった。また、低気圧等による高潮についてはそれより下廻る。

なお、原子炉建物は標高約14mの整地面に設置される。

東北電力(株)女川原子力発電所の原子炉の設置に係る安全性について 昭和45年11月16日 原子炉安全専門審査会

さて、平井氏は個人であり、東北電力は組織である。そして問題のエピソードは1970年前後頃にまで遡る。安易に現代の東北電力に当て嵌めて良いものだろうか。今回の記事ではこの疑問について書いてみたい。

【1】強硬に主張しているのは平井氏だけ

まず、女川原発の敷地高が決められる経緯としてよく挙げられている説明を見てみよう。

平井は地元宮城県の出身で、「慶長津波(1611年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたと言います。

ここ、東北太平洋岸はそこかしこにそんな津波の来歴があり、伝承が残っているわけです。

途中他にもいくつもの津波伝承の残る神社を訪ね・・・・る予定だったのですが時間の都合によりカット(^^ゞ

平井弥之助は一人で強硬に「津波を想定して敷地を海水面+15メートルにせよ」と主張し続けたそうですが、最終的にそれを東北電力も認めたことが40年後の東日本大震災において女川原発を救ったことになります。

原子力論考(110)女川原発を見学してきました

矛盾を感じる。三陸沿岸は浜通りと異なり、震災前から日本一の津波常襲地帯として知られてきた。「そこかしこにそんな津波の来歴があり、伝承が残っている」「いくつもの津波伝承の残る神社」のは当然である。そして町田徹『電力と震災』によれば、東北電力社員の大半は管内出身者。三陸沿岸の者も多い筈。それなのに平井氏は当初社内で一人、津波の脅威を強調していた。言うなれば孤立しており、他の社員達は地元の歴史を前にしても実に鈍い。このエピソードはそのような面も表しているように思う。

【2】都合の悪い証言を無視する推進派

津波に対する企業文化が維持され続けたかどうかは、平井氏の後輩達の「実績」を観察しなければなるまい。例えばネット上では推進派や反反原発派は無視しているが下記のような証言も存在している。

東北電力の企業文化については、私個人としての体験・思い出があります。

私が不動産鑑定士の試験に合格し、(財)日本不動産研究所仙台支所に勤務していた頃ですから、約40年前のことです。

齋藤芳雄氏という不動産鑑定士の大先輩が、副支所長として、東北電力本店用地部長を退職され、仙台支所に招聘されて着任しました。旧海軍士官で文字通りの紳士でした。

(中略)ある時、塩釜方面に現地調査に出かけた時だったと記憶しています。「東北電力に永く勤めて感じたことは、『こと原子力発電』に関することは、社内では禁句でありタブー視されていることです」、「タブーがあることは、大きな目で見た時は、決してよいことではないはずです」と、静かに話されたことです。

なぜか、齋藤氏の言葉が今でも強く印象に残っています。

第7回 東京電力の本音と建前(1)
不動産鑑定士 高橋 雄三 のコラム

他社より抜きん出た企業文化があるなら、こんなコメントは出てこない。

【3】日本海中部地震津波で被災した能代火力発電所造成地

上記のように書いていくと、1990年に貞観地震の堆積物調査を行なって専門誌『地震』に発表した件を挙げる向きもいるかも知れない。だが、平井氏が強行な主張を行なってから20年の時を経た調査を始めるまでに、東北電力はある出来事を経験していた。それは、1983年の日本海中部地震である。この地震は同社管内で発生し、大きな津波を伴っていた。遠足の小学生が犠牲となったことは繰り返し報じられたので、覚えておられる方もいると思う。

だが、小学生以上の犠牲者を出した人々がいることは、忘れられかけているようだ。

日本海中部地震は当時としては注目すべき地震だったため多数の記録が残されているが、ネット上のデータベース検索で簡単に確認出来ないものも多い。そういうものを灰色文献に含めてよいのであれば、貴重な経験が灰色化したとも言えるだろう。

そのような中、次の文献はネット上でも読めるものである。引用してみよう。

e)能代港ケーソン流失と災害
能代港では当時東北電力能代石炭火力発電所の用地造成,北防波堤築造工事が行なわれていた。
(中略)火力用地護岸工は図一5に示すような870m x1,900mの長方形区割の締切りで施工途上であった。(中略)当時の作業人員306名中34名(船1二9名,護岸上25名)の死者を出し,稼働船67隻中40隻,陸上機械6台中6台全部が被災した。

津波防災実験所研究報告第1号 昭和58年5月26日 日本海中部地震津波に関する論文及び調査報告

ネットでは読めない文献からも一つ引用しておこう。工事を請負っていた五洋建設秋田出張所所長、森光利氏は津波が迫る様子を次のように綴っている。

あとで救助された人々の話によると、沖に白い波が見えたと思ったとたん、7~8mもあろうかと思われる衝立のような波が目の前に襲って来て、気が付いたら海の中であり、水柱では、1個300kgもある基礎石が乱舞しており、その石に何回かたたかれ、そのつどもうだめだと観念したそうである。

護岸の外側で作業していた499t級のガット船は津波に乗って、高さ5mもある護岸を乗り越えて内側へ入ってしまったとの事で、かなりの速度、高さの強烈な津波であったことは間違いない。

(中略)
◎災害時の能代港における稼動状況及び被害状況
 船   舶 113隻中被災 56隻
 重 機 類  19台中被災  9台
 作業従事者 631名中被災 373名
 被 災 者 373名中死亡 34名
              重傷 58名  
森光利「忘れてしまいたい体験 しかし 忘れてはならぬ教訓」『みなとの防災』99号(1988年)

ちなみに当該地は県が実施した埋立造成地を購入したものだ。完成後の能代火力発電所の敷地高は4.2~4.3mであり、被災当時から変わっていない(ただし、防波堤に関しては分からなかった)。

この件から分かる事は、東北電力は平井氏の教えを継承して敷地高に余裕を持たせるようなことはしておらず、失敗したということである。ちなみに、能代港が歴史の舞台に登場したのは『日本書記』であり、女川港に比較して1000年(女川の事実上の築港は明治時代であることを考慮すると実質1300年)以上の歴史差がある。過去の記録面では有利な立場にあったと言える。

なお、工事を請負った建設業者が 総計30名以上の死亡者を出しているにも拘らず、東北電力は敷地嵩上げも特に行わなかった。上記の文中にもあるように発電所本館の工事着手前であったから嵩上げは 既設発電所に比較すれば遥かに容易であった筈だ。電力お得意の「記録に残る既往最大」論に当て嵌めてもたかだか4m程度の嵩上げである。それが出来ない。倫理上も疑問を感じる。

【4】経験にも先輩にも学ばず同じ失敗を繰り返す東北電力

このように、発電施設に抜本的な改善を施さなかったため、28年後の東日本大震災では再び火力発電所に大損害を受け、再建に長期間を要したのは周知の事実である。この話に救いが無いと思うのは、次の発言である。平井氏は原発の津波対策だけを心配していたのではなかった。

毎度お馴染み国会事故調の添田氏のツイートから。企業文化が優れているなら「日本海ですらあのような想定外があったのだから、プレート境界に面した太平洋岸は大丈夫か」と全社レベルで考えても良さそうなものだ。東北電力にとって主力の発電設備は火力だったし、「尊敬する大先輩」が言っていたことなのだ。しかし、平井氏の後輩達は、抜本的な設備改善に反映することはなかった。

施設の性格は異なるが、東日本大震災で航空自衛隊松島基地は、津波により駐機していた全機体が水没する被害を受けたが、基地の再建に当って敷地の嵩上げを行なっている。重要な施設なら、当然の判断である。

【5】電力の言い分を鵜呑みにする浅はかなPA屋達

ところが今回の震災後に至っても、東北電力は女川再稼動の布石なのか、喜々として平井氏の伝説を称揚するのに勤しんだようだ。外国人専門家やNTTファシリティーズはよく調べもせずに放言してしまい、「企業文化」は権威付けされた。私も能代火力の件を知ったのは、過去の津波歴を資料で洗ってからのことだ。日本海中部地震での失敗に加え、震災後のこの一連の宣伝行為も、東北電力の企業文化に重大な疑問を抱かせるものである。

電力会社の周囲にたかる口舌の徒は輪をかけて酷い。私は東北電力の事実上の広告塔となっている町田徹氏、井上リサ氏等が能代火力発電所の件の詳細な説明をしているのを読んだことが無い。町田氏は元々それ程の知識も土地勘も無いので悪意の無い方だと思うが、広告塔はそれ以上の役割では無いし、電力側も致命的に不都合と判断した情報はレクチャーはしないだろう。電力ツアーを仕事の糧にしており、宮城周辺の土地勘がある井上氏の場合は全てにおいて論外である。

【6】調査研究は日本海中部地震を契機に進展

このように、被災当事者ですらハード面の津波対策は疎かなまま無為な時間を過ごしたのが現実だったが、発電所の工事で多数の犠牲者を出したことは、電力業界にとってはちょっとした衝撃だったのも事実である。

津波は、通常海岸で見られる風波とは異なって頻度の小さい現象であり、しかも、日本海中部地震津波のように昼間発生するとは限らないため、実際の現象を目のあたりにすることは滅多に無い。また、周期と波長が極めて長い波であるため、模型実験で津波現象を正しく再現するには、現存のほとんどの実験水槽は短すぎる。こうしたことから、津波は実感としては捉え難い。事実、1983年と1993年日本海で発生した2つの大津波によって改めて認識させられるまでは、津波はリアス式海岸のような屈曲の激しいV字状の海岸において大きく増幅されるというのが常識であり、”条件によっては平坦な海岸線のところでも大きな増幅をしたり、分裂波を伴って来襲することや島によって津波エネルギーが捕捉されること”等はほとんど注意を引かなかった。

海岸部に建設される原子力発電所や火力発電所は、発電所施設の建設にあたって、耐震性の評価のみならず、津波に対する安全性の評価を行なっておくことが必要である。日本海中部地震津波によって施工中の発電所埋立護岸用ケーソンが移動・転倒・水没した例はあるものの、建設後の発電所が津波によって被災を受けた例はないが、発電所特有の項目、すなわち、施工中も含めた外郭施設の安定性・機能保持、海面低下等の条件下での取水機能の保持、敷地内浸水・濁水冠水の程度と建屋・機器への影響等について、適正に評価しておかなければならない。

『火力・原子力発電所土木構造物の設計』(増補改訂版、1995年)P154-155

同書初版にも津波の記述はあるのだが、ここまで突っ込んだ内容ではない。電力業界の技術者が集まって書かれた書であることを勘案すると、非常に味わい深い文章である一方、認識に地震学の専門雑誌類との落差を感じる。地震学の方面では、当時から古文書に記録が残されている(巨大な)歴史津波への関心が強かったからである。

この地震以降、津波予測の研究が徐々に増えていくが、それはシミュレーションやデータ取り纏めに欠かせない計算機の性能アップばかりが原因ではなく、動機付けがあったのである。問題は、電力業界の対策が専ら調査研究レベルに留まったことだ。東北電力が1990年に発表した貞観津波の研究は上記のような流れを踏まえて眺めるべきである。

【まとめ】
私も平井氏は尊敬しているが、氏のなしたことをNTTファシリティーズや町田徹氏、井上リサ氏が主張するように、東北電力全般に当て嵌めるのは間違いだと考える。言わば、女川は平井氏の個人的なファインプレー。平井氏の理念が後輩達に受け継がれていないことは、能代火力や新仙台で被災を重ねたことからも容易に証明出来る。東北電力は地方電力会社の一典型に過ぎない。

記事の最後は森氏の次の言葉を引用しよう。

我々は自ら、これからの天災から身を守らねばならない。しかし実際に体験していない事態に対しては、案外無防備である。例えば秋田地方では近年津波による被害がなかったせいか、山崩れを警戒して「地震があれば海岸へ逃げろ」との言い伝えもあると聞いているが、三陸側では地震即津波となっている。

各地で起きたいろいろな災害について、実際に体験した人達の、「こんな状況の時、こんな災害が起きた」、「災害が起きる前は、この辺がこんなになっていた」、「こうしたら助かった」とかその体験を広く交換し合い、常に心にとめておく必要がある。

(中略)

しかし、恐いのは、「災害は忘れた頃にやってくる」である。我々はこの尊い教訓を肝に銘じておかねばならない。

森光利「忘れてしまいたい体験 しかし 忘れてはならぬ教訓」『みなとの防災』99号(1988年)

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