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2014年6月23日 (月)

津波記録が容易に入手出来ても敷地高に反映する気の無かった東電原子力開発本部副本部長小林健三郎

私のブログは1本の記事に内容を詰め過ぎる傾向がある。今回は以前の記事で追記した部分を独立させ、大幅に加筆したものである。簡単な理屈で、建設時の「やる気」を検証したものだ。重要なポイントを含んでいるので是非拡散していただきたい。

【要旨】
福島第一敷地高を決定した小林健三郎は、簡単に入手出来る津波の記録を無視して原発適地を選んでいる。「後知恵で過去を批判するのは簡単なことだ」という批判は当らない。同様に「黎明期の技術者は天災に真摯だった」も東電には当らない。

【本文】
原発事故以降に着手した原子力技術史の研究を進める中で根本的な疑問が沸いた。例えば、敷地高選定で東北電と東電には確かに相違があった。同じような相違は500Galの仕様も検討したのに実際は値切られた福島第一原発1号機でも述べたように、原子炉建屋の耐震設計などにも言える。一方、原発論議に当って賛否両派が陥りがちな問題の一つに、会社間の相違点の無視がある。「同じ国家内で同じ制度(疲労)の下にあるから電力会社に個性は無い」-そんな視点を無意識の内に前提としてしまう。「業界」「原子力村」といった言葉は便利なので私も含めてしばしば使うけれども、あくまで東電と言う会社に絞ってその意思決定を眺めてみることも必要なのではないか。特に、文献資料を豊富に収集してそのような分析が可能となってから、そう考えるようになった。そのように思考を進める中、眼前に現れたのが、小林健三郎氏の行なった適地研究であった。

小林健三郎が選んだ「原子力適地」-中部電力浜岡原発などは除外-で「ご当地の適地」と書いたが小林氏が全国を調査対象としたことで、福島地点のエピソードに囚われることなく、同氏や東電の能力も容易に測し計ることが出来るようになった。その過程で私の価値観も変わった。

小林論文は資料調査にかなり気を配り、小林氏当人も現地を踏査して歩いている。その結果して、以前の記事で紹介したように

高い津波の発生する熊野および土佐沖に面する沿岸では地点選定にあたって湾奥部をさけ、比較的直線海岸を選定するので、太平洋岸沿いの最大津波高は6m程度

「第4章 原子力発電所の適地性の評価に関する研究」『わが国における原子力発電所の立地に関する土木工学的研究』1971年

としている。これにさく望潮位と余裕を加え、太平洋岸一帯の敷地高として想定したのが、10mである。

しかし、土佐沖-高知県沿岸の津波記録と比較してみると、この想定は如何にも甘いのである。小林健三郎が選んだ「原子力適地」-中部電力浜岡原発などは除外-で小林論文で選定した全国の「適地」を列挙したが、高知県に限って再掲してみると次のようになる。

Kobayasi_kenzaburo1971_fig4_6_2

20高知県東洋町河内
21高知県室戸市鹿岡鼻
22高知県須崎市大崎
23高知県須崎市小島
24高知県窪川町興津郷
25高知県大方町坂本
26高知県土佐清水市狩津
27高知県土佐清水市千尋岬
28高知県大月町朴崎
29高知県大月町浅倉崎

上記の内、22番や23番は津波被害を何度も受けてきた須崎市内であり、同市は1707年の宝永津波で10m以上の記録が残っている。小林論文からは大分時代は下るが、著名な津波学者、都司嘉宣氏は次のように書いている。

宝永津波が巨大であってことを示す例として、高知県須崎 市の神田諏訪神社の流失記事を挙げておこう。明治の初期に、高知県の神社の調査が行われ、「高知県神社明細帳」というかなり分厚い報告書が作られた。その 中の各神社の記録を見てみると、しばしば「宝永の亥年の大潮に流失」というような記載が見られる。その神社が宝永地震の津波によって流されたという記録で ある。須崎市の神田(こうだ)、すなわち江戸時代の神田村赤ハケの諏訪神社が流されたという記載も、そのうちのひとつであった。数年前、須崎を訪れる機会 を得て、神田の諏訪神社があったという赤ハケの現地を訪ねてみた。(中略)その標高は海抜17メートル。ここで神社が流されたというのであるから宝永の津 波はこの付近で標高18メートル以上の所にまで達していたことになる。宝永地震の津波の巨大さの一端を示すものであった。

3.津波災害の歴史から現代を見る-南海地震の津波災害-」『消防科学と情報』No.74(2003.秋号)

同市周辺の海岸地形は入り組んだ場所が連たんしているので、例え「湾奥部をさけ、比較的直線海岸を選定する」としても非現実的であると思う。

「でも、その古文書も最近になって発見されたんでしょ」、読者の中にはその様に思う人もいるかも知れない。福島地点周辺での古津波伝承が『大熊町史』に採録され、比較的読み出しやすくなったのは1985年のことで、既に福島第一原発は完成していた。こうした事例が高知にも当て嵌まるなら、伝承を集め切れない可能性を云々する余地はあるかも知れない。

コラム
1960年代は明治百周年を節目として自治体でも年史の作成が相次ぎ、福島県史も大規模なものが編纂された。だから、小林論文は『福島県史』を参考文献に挙げることは出来た。しかし、県下で最下位争いをしていた貧乏自治体時代の影を引きずっていた双葉・大熊両町にそのような町史編纂を行なう余裕はまだ無かったようで、両町の町史が刊行されるのは後のことである。なお、伝承収集の限界を認めてしまうと、地震学者や地元住民との緊密な連携が機能していたかも検証が必要になる。

しかし、事実は異なる。実は、高知は三陸沿岸ほどではないものの、浜通りに比べれば津波常襲地帯と言えたからである。南海地震津波に関する古文書の活用はこれ以前からなされており、著名な専門誌『地震』には1960年代、既に次のような津波の表(津波カタログ)が掲載されていた。

37.1707X2812h30m(宝永4 X 4). 紀伊半島沖. λ=135.9E, g=33.2N, H=8.4
1)宝永大地震. (遠州灘および紀伊半島沖の2つの地震という説がある)被害地域は駿河の中央部, 甲斐の西部, 信濃の南部, 東海道, 畿内諸国, 四国の全部および九州東部の広い範囲である.中でも東海道, 伊勢湾および紀伊半島ではもつともひどかつた. 室戸半島, 紀伊半島南部, 遠江南東部は南上りの傾動を示し, 室戸岬で1.5m, 串本で1.2m, 御前崎で1~2m隆起した. 高知の東部約20km2最大2m沈下した. II)九州南東部より伊豆に至る沿岸を襲い, 更に紀淡海峡, 大阪湾および瀬戸内海西部沿岸に達した. 高さは土佐種崎で23m, 久礼26m, 室戸岬6.5m. 被害は土佐が最も大きく, 流失家屋11170, 溺死者1844, 尾鷲で溺死者1000余, 大阪で流失家屋603, 溺死者700余. III)壊家29000余, 死者4900.

渡辺偉夫「日本およびその周辺(沖縄および南千島を含む)の津波の表」『地震』第21巻 1968年

高知県内の津波被害は高知市から須崎市周辺で顕著な傾向があり、種崎は高知市内、久礼は須崎市の西に位置する中土佐町にある。しかし、室戸岬でも6.5mを越えている。ちなみに、福島第一の建設時は過去400年の地震歴に特に注目していた。この区切りを高知に当て嵌めても宝永津波は包含される筈だ。一体、小林健三郎氏の「6mで十分」とは何を根拠に述べたものなのだろうか。

しかも、この表の作成に当って渡辺偉夫氏(当時気象庁地震課)は次のように述べているのである。

地震などと一緒にした表は数多くあり, ごく最近に限ると, 宇佐美竜夫(1966)のものや理科年表(1968)がよく知られている. その他, 大津波度毎に過去の津波表としてまとめられている.これらの津波表をみると, あるものは正確さを欠き, あるものは簡単すぎて索引としての価値は認められるが, 詳しい調査にはむかなかったり, 逆に信ぴよう性はともかくとして資料の羅列が多すぎて,かえって不便な面もある. 津波の場合, しばしば高潮や異常潮と混同視されるため, 特に古い時代の現象の記述について, これら類似の現象との区別を慎重に判断したものでなければならない. 筆者はこのような事情の下で, かねてより繁簡よろしきを得た手頃でより正確な表の必要を痛感し, 昨年より資料収集を始めた. その結果作製したのが次の表である.

(中略)この表をより完全なものにするため, いましばらく時間的余裕がほしかったのであるが, 昨今の社会的事情もあり, 関係者の早期公表の強い要望があつたので, ここに発表することにした. したがつて,できるだけ正確を期したつもりではあるが, 誤りがないとはいいきれない. 関係者の御叱正を受け, 機をみて訂正あるいは追加し, より完全なものにしてゆきたい.

(中略)理科年表(1968)を主とし, 括弧内に勝又護(1952)によるものを併せ示した.

渡辺偉夫「日本およびその周辺(沖縄および南千島を含む)の津波の表」『地震』第21巻 1968年

要請を行なったのがどの筋かは分からないが、当時は高度成長期の真っ只中。埋立地造成などにより無人の海岸地帯も次々開発され、防波堤などの現代的な防災インフラも戦前とは比較にならないレベルで整備が始まった時代である(戦前の土木史を紐解けば分かるが、機械化が進展していないこと、植民地への投資や軍事費に圧迫されていることから、限られた大プロジェクトを除くと防災インフラへの投資は総じて低調に推移している。)。渡邊氏は、恐らく健全な理由から危険地域の抽出に供するため、この表の完成を急いだのだろう。

しかし、小林論文では高知沿岸の津波リスクは軽視され、多数の適地が選ばれる結果となっている。1968年に掲載された津波カタログを1971年に提出された論文に利用出来ない筈が無いのに、小林氏(や東電・京大)は無視しているのである。小林氏は自分の関わった原発建設を糧に、論文博士を取っている。そこらの高校生や大学生が郷土史のレポートを纏めるのとは訳が違うし、利用可能な学術的リソースも比較にならない。 これは、その他の参考文献の集め方と比較しても、言えることである。

津波に関して言えば、当時マイナーだった津波工学の専門家、羽鳥徳太郎氏の研究実績を博士論文で参照していることで、「歴史津波の知見を把握出来なかった」という可能性は否定される。当時は原子力黎明期であり、各分野の科学者が機会あるごとに多面的に協力を求められた時代なのだ。小林氏は適地選定という極めてセンシティブな作業に当たって、無知からではなく自らの意志に従って無視したのだ。これがどれだけ致命的か、理解出来るだろう。

なお、第4章の参考文献には理科年表が含まれている。論文作成時期からすると、小林氏と渡邊氏は共に1968年版理科年表を使用していても不思議はない。私は1968年版を未参照だが、渡邊氏の説明を参考とするならば、宝永津波の記述もほぼ同様のものが掲載されていたと思われる(なお2014年版には歴史地震の津波高は載っていない)。

どうしても高知県沿岸を適地として繰り入れするなら、敷地高想定を10m以上にして立地費用を算出しなければならない筈だ(今回の記事では載せなかったが小林論文では各適地の費用比較を試みている)。小林氏本人はもとより、協力した東電の技術者、土木コンサルタント、査読した京都大学関係者も含めて、津波に対する意識が甘いとしか言いようが無い。容易に入手出来た筈の津波カタログも軽んじているのだから。1990年代後半以降、社内外から呈された数々の津波想定の疑問を東電首脳部が軽視し続けたことは良く知られているが、小林論文を読む限り、その体質は建設当時からあったということだ。

ここでは高知県沿岸の例を示したが、女川サイトでも同様の評価ミスをしていることを付け加えておく。小林論文では10mだが、東北電は15mとする道を選び、東日本大震災で襲った津波は13m余であった。

国会事故調で津波対策の経緯を検証した添田孝史氏はその作業の前後で次のように考え方を変化させていった。

前半のような認識は小出五郎氏も抱いておられたようで「「安全な原子力技術を提供」の疑問」において『電気情報』1969年10月号「座談会_福島原子力の建設工事」(ブログにある71年6月号は別の座談会)を引き合いに次のように述べている。

津波についてはまったく言及がないことから、津波が考慮の対象になっていなかったこともはっきりとわかります。

このように書くと、現在から過去を批判するのは簡単なことだという反応が聞こえてきそうです。私もそう思います。

また、40年後の事故を比較し

現場技術者の初心はしだいに軽視、無視されるようになって来たようすが目に浮かびます。

と述べている。

こうした感想には「未曾有の津波など予見できない」「過去にも記録は無い」「記録が容易に手に入るならばきちんと反映しただろう」という前提がある。これまでの事故論議では「建設時はチリ津波を反映して想定3m」という言葉が独り歩きし、多くの人が共有していた前提でもある。だから、そのような感想を持つことが悪いということではない。

しかし、文献踏査を進めてみると、例え建設時に必要な情報を与えられていても楽観視する人物が福島地点を計画していた事が明らかとなった。それが東電で原子力開発本部副本部長に上り詰めた小林健三郎なのだ。具体的な例から紐付けし、計画者達の心理を判定することが出来るのも重要である。事故後の「だから言ったじゃないか」論や事故前の一般論としての原発危険論とはそこが異なる。

かつて、私は佐藤大輔と言うやや空想的な作家の本で「何故ベストを尽くさないのか」という小品を読んだことがある。そこにはある米海軍中佐が観察者として登場する。その名をジミー・カーターと言う。あのタイトルを思い出し、何とも言えない感慨を抱く。何故、東京電力は建設時からベストを尽くせない体質が染み付いていたのだろうか。

2014/6/28:細部加筆見直し。

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