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2014年6月の4件の記事

2014年6月23日 (月)

津波記録が容易に入手出来ても敷地高に反映する気の無かった東電原子力開発本部副本部長小林健三郎

私のブログは1本の記事に内容を詰め過ぎる傾向がある。今回は以前の記事で追記した部分を独立させ、大幅に加筆したものである。簡単な理屈で、建設時の「やる気」を検証したものだ。重要なポイントを含んでいるので是非拡散していただきたい。

【要旨】
福島第一敷地高を決定した小林健三郎は、簡単に入手出来る津波の記録を無視して原発適地を選んでいる。「後知恵で過去を批判するのは簡単なことだ」という批判は当らない。同様に「黎明期の技術者は天災に真摯だった」も東電には当らない。

【本文】
原発事故以降に着手した原子力技術史の研究を進める中で根本的な疑問が沸いた。例えば、敷地高選定で東北電と東電には確かに相違があった。同じような相違は500Galの仕様も検討したのに実際は値切られた福島第一原発1号機でも述べたように、原子炉建屋の耐震設計などにも言える。一方、原発論議に当って賛否両派が陥りがちな問題の一つに、会社間の相違点の無視がある。「同じ国家内で同じ制度(疲労)の下にあるから電力会社に個性は無い」-そんな視点を無意識の内に前提としてしまう。「業界」「原子力村」といった言葉は便利なので私も含めてしばしば使うけれども、あくまで東電と言う会社に絞ってその意思決定を眺めてみることも必要なのではないか。特に、文献資料を豊富に収集してそのような分析が可能となってから、そう考えるようになった。そのように思考を進める中、眼前に現れたのが、小林健三郎氏の行なった適地研究であった。

小林健三郎が選んだ「原子力適地」-中部電力浜岡原発などは除外-で「ご当地の適地」と書いたが小林氏が全国を調査対象としたことで、福島地点のエピソードに囚われることなく、同氏や東電の能力も容易に測し計ることが出来るようになった。その過程で私の価値観も変わった。

小林論文は資料調査にかなり気を配り、小林氏当人も現地を踏査して歩いている。その結果して、以前の記事で紹介したように

高い津波の発生する熊野および土佐沖に面する沿岸では地点選定にあたって湾奥部をさけ、比較的直線海岸を選定するので、太平洋岸沿いの最大津波高は6m程度

「第4章 原子力発電所の適地性の評価に関する研究」『わが国における原子力発電所の立地に関する土木工学的研究』1971年

としている。これにさく望潮位と余裕を加え、太平洋岸一帯の敷地高として想定したのが、10mである。

しかし、土佐沖-高知県沿岸の津波記録と比較してみると、この想定は如何にも甘いのである。小林健三郎が選んだ「原子力適地」-中部電力浜岡原発などは除外-で小林論文で選定した全国の「適地」を列挙したが、高知県に限って再掲してみると次のようになる。

Kobayasi_kenzaburo1971_fig4_6_2

20高知県東洋町河内
21高知県室戸市鹿岡鼻
22高知県須崎市大崎
23高知県須崎市小島
24高知県窪川町興津郷
25高知県大方町坂本
26高知県土佐清水市狩津
27高知県土佐清水市千尋岬
28高知県大月町朴崎
29高知県大月町浅倉崎

上記の内、22番や23番は津波被害を何度も受けてきた須崎市内であり、同市は1707年の宝永津波で10m以上の記録が残っている。小林論文からは大分時代は下るが、著名な津波学者、都司嘉宣氏は次のように書いている。

宝永津波が巨大であってことを示す例として、高知県須崎 市の神田諏訪神社の流失記事を挙げておこう。明治の初期に、高知県の神社の調査が行われ、「高知県神社明細帳」というかなり分厚い報告書が作られた。その 中の各神社の記録を見てみると、しばしば「宝永の亥年の大潮に流失」というような記載が見られる。その神社が宝永地震の津波によって流されたという記録で ある。須崎市の神田(こうだ)、すなわち江戸時代の神田村赤ハケの諏訪神社が流されたという記載も、そのうちのひとつであった。数年前、須崎を訪れる機会 を得て、神田の諏訪神社があったという赤ハケの現地を訪ねてみた。(中略)その標高は海抜17メートル。ここで神社が流されたというのであるから宝永の津 波はこの付近で標高18メートル以上の所にまで達していたことになる。宝永地震の津波の巨大さの一端を示すものであった。

3.津波災害の歴史から現代を見る-南海地震の津波災害-」『消防科学と情報』No.74(2003.秋号)

同市周辺の海岸地形は入り組んだ場所が連たんしているので、例え「湾奥部をさけ、比較的直線海岸を選定する」としても非現実的であると思う。

「でも、その古文書も最近になって発見されたんでしょ」、読者の中にはその様に思う人もいるかも知れない。福島地点周辺での古津波伝承が『大熊町史』に採録され、比較的読み出しやすくなったのは1985年のことで、既に福島第一原発は完成していた。こうした事例が高知にも当て嵌まるなら、伝承を集め切れない可能性を云々する余地はあるかも知れない。

コラム
1960年代は明治百周年を節目として自治体でも年史の作成が相次ぎ、福島県史も大規模なものが編纂された。だから、小林論文は『福島県史』を参考文献に挙げることは出来た。しかし、県下で最下位争いをしていた貧乏自治体時代の影を引きずっていた双葉・大熊両町にそのような町史編纂を行なう余裕はまだ無かったようで、両町の町史が刊行されるのは後のことである。なお、伝承収集の限界を認めてしまうと、地震学者や地元住民との緊密な連携が機能していたかも検証が必要になる。

しかし、事実は異なる。実は、高知は三陸沿岸ほどではないものの、浜通りに比べれば津波常襲地帯と言えたからである。南海地震津波に関する古文書の活用はこれ以前からなされており、著名な専門誌『地震』には1960年代、既に次のような津波の表(津波カタログ)が掲載されていた。

37.1707X2812h30m(宝永4 X 4). 紀伊半島沖. λ=135.9E, g=33.2N, H=8.4
1)宝永大地震. (遠州灘および紀伊半島沖の2つの地震という説がある)被害地域は駿河の中央部, 甲斐の西部, 信濃の南部, 東海道, 畿内諸国, 四国の全部および九州東部の広い範囲である.中でも東海道, 伊勢湾および紀伊半島ではもつともひどかつた. 室戸半島, 紀伊半島南部, 遠江南東部は南上りの傾動を示し, 室戸岬で1.5m, 串本で1.2m, 御前崎で1~2m隆起した. 高知の東部約20km2最大2m沈下した. II)九州南東部より伊豆に至る沿岸を襲い, 更に紀淡海峡, 大阪湾および瀬戸内海西部沿岸に達した. 高さは土佐種崎で23m, 久礼26m, 室戸岬6.5m. 被害は土佐が最も大きく, 流失家屋11170, 溺死者1844, 尾鷲で溺死者1000余, 大阪で流失家屋603, 溺死者700余. III)壊家29000余, 死者4900.

渡辺偉夫「日本およびその周辺(沖縄および南千島を含む)の津波の表」『地震』第21巻 1968年

高知県内の津波被害は高知市から須崎市周辺で顕著な傾向があり、種崎は高知市内、久礼は須崎市の西に位置する中土佐町にある。しかし、室戸岬でも6.5mを越えている。ちなみに、福島第一の建設時は過去400年の地震歴に特に注目していた。この区切りを高知に当て嵌めても宝永津波は包含される筈だ。一体、小林健三郎氏の「6mで十分」とは何を根拠に述べたものなのだろうか。

しかも、この表の作成に当って渡辺偉夫氏(当時気象庁地震課)は次のように述べているのである。

地震などと一緒にした表は数多くあり, ごく最近に限ると, 宇佐美竜夫(1966)のものや理科年表(1968)がよく知られている. その他, 大津波度毎に過去の津波表としてまとめられている.これらの津波表をみると, あるものは正確さを欠き, あるものは簡単すぎて索引としての価値は認められるが, 詳しい調査にはむかなかったり, 逆に信ぴよう性はともかくとして資料の羅列が多すぎて,かえって不便な面もある. 津波の場合, しばしば高潮や異常潮と混同視されるため, 特に古い時代の現象の記述について, これら類似の現象との区別を慎重に判断したものでなければならない. 筆者はこのような事情の下で, かねてより繁簡よろしきを得た手頃でより正確な表の必要を痛感し, 昨年より資料収集を始めた. その結果作製したのが次の表である.

(中略)この表をより完全なものにするため, いましばらく時間的余裕がほしかったのであるが, 昨今の社会的事情もあり, 関係者の早期公表の強い要望があつたので, ここに発表することにした. したがつて,できるだけ正確を期したつもりではあるが, 誤りがないとはいいきれない. 関係者の御叱正を受け, 機をみて訂正あるいは追加し, より完全なものにしてゆきたい.

(中略)理科年表(1968)を主とし, 括弧内に勝又護(1952)によるものを併せ示した.

渡辺偉夫「日本およびその周辺(沖縄および南千島を含む)の津波の表」『地震』第21巻 1968年

要請を行なったのがどの筋かは分からないが、当時は高度成長期の真っ只中。埋立地造成などにより無人の海岸地帯も次々開発され、防波堤などの現代的な防災インフラも戦前とは比較にならないレベルで整備が始まった時代である(戦前の土木史を紐解けば分かるが、機械化が進展していないこと、植民地への投資や軍事費に圧迫されていることから、限られた大プロジェクトを除くと防災インフラへの投資は総じて低調に推移している。)。渡邊氏は、恐らく健全な理由から危険地域の抽出に供するため、この表の完成を急いだのだろう。

しかし、小林論文では高知沿岸の津波リスクは軽視され、多数の適地が選ばれる結果となっている。1968年に掲載された津波カタログを1971年に提出された論文に利用出来ない筈が無いのに、小林氏(や東電・京大)は無視しているのである。小林氏は自分の関わった原発建設を糧に、論文博士を取っている。そこらの高校生や大学生が郷土史のレポートを纏めるのとは訳が違うし、利用可能な学術的リソースも比較にならない。 これは、その他の参考文献の集め方と比較しても、言えることである。

津波に関して言えば、当時マイナーだった津波工学の専門家、羽鳥徳太郎氏の研究実績を博士論文で参照していることで、「歴史津波の知見を把握出来なかった」という可能性は否定される。当時は原子力黎明期であり、各分野の科学者が機会あるごとに多面的に協力を求められた時代なのだ。小林氏は適地選定という極めてセンシティブな作業に当たって、無知からではなく自らの意志に従って無視したのだ。これがどれだけ致命的か、理解出来るだろう。

なお、第4章の参考文献には理科年表が含まれている。論文作成時期からすると、小林氏と渡邊氏は共に1968年版理科年表を使用していても不思議はない。私は1968年版を未参照だが、渡邊氏の説明を参考とするならば、宝永津波の記述もほぼ同様のものが掲載されていたと思われる(なお2014年版には歴史地震の津波高は載っていない)。

どうしても高知県沿岸を適地として繰り入れするなら、敷地高想定を10m以上にして立地費用を算出しなければならない筈だ(今回の記事では載せなかったが小林論文では各適地の費用比較を試みている)。小林氏本人はもとより、協力した東電の技術者、土木コンサルタント、査読した京都大学関係者も含めて、津波に対する意識が甘いとしか言いようが無い。容易に入手出来た筈の津波カタログも軽んじているのだから。1990年代後半以降、社内外から呈された数々の津波想定の疑問を東電首脳部が軽視し続けたことは良く知られているが、小林論文を読む限り、その体質は建設当時からあったということだ。

ここでは高知県沿岸の例を示したが、女川サイトでも同様の評価ミスをしていることを付け加えておく。小林論文では10mだが、東北電は15mとする道を選び、東日本大震災で襲った津波は13m余であった。

国会事故調で津波対策の経緯を検証した添田孝史氏はその作業の前後で次のように考え方を変化させていった。

前半のような認識は小出五郎氏も抱いておられたようで「「安全な原子力技術を提供」の疑問」において『電気情報』1969年10月号「座談会_福島原子力の建設工事」(ブログにある71年6月号は別の座談会)を引き合いに次のように述べている。

津波についてはまったく言及がないことから、津波が考慮の対象になっていなかったこともはっきりとわかります。

このように書くと、現在から過去を批判するのは簡単なことだという反応が聞こえてきそうです。私もそう思います。

また、40年後の事故を比較し

現場技術者の初心はしだいに軽視、無視されるようになって来たようすが目に浮かびます。

と述べている。

こうした感想には「未曾有の津波など予見できない」「過去にも記録は無い」「記録が容易に手に入るならばきちんと反映しただろう」という前提がある。これまでの事故論議では「建設時はチリ津波を反映して想定3m」という言葉が独り歩きし、多くの人が共有していた前提でもある。だから、そのような感想を持つことが悪いということではない。

しかし、文献踏査を進めてみると、例え建設時に必要な情報を与えられていても楽観視する人物が福島地点を計画していた事が明らかとなった。それが東電で原子力開発本部副本部長に上り詰めた小林健三郎なのだ。具体的な例から紐付けし、計画者達の心理を判定することが出来るのも重要である。事故後の「だから言ったじゃないか」論や事故前の一般論としての原発危険論とはそこが異なる。

かつて、私は佐藤大輔と言うやや空想的な作家の本で「何故ベストを尽くさないのか」という小品を読んだことがある。そこにはある米海軍中佐が観察者として登場する。その名をジミー・カーターと言う。あのタイトルを思い出し、何とも言えない感慨を抱く。何故、東京電力は建設時からベストを尽くせない体質が染み付いていたのだろうか。

2014/6/28:細部加筆見直し。

門田隆将氏が描く東電撤退問題での歴史修正主義的態度

当記事は吉田調書をスクープした朝日新聞を叩く門田隆将氏の問題点の続きである。

私はあのマスコミが騒ぎ立てた東電撤退騒動の「ドラマ」にはほとんど関心を払ってこなかったが、門田隆将『死の淵を見た男』での描写については疑問があるので指摘しておく。

3月15日の朝、菅直人首相が業を煮やして東電本店に乗り込み檄を飛ばした際のことだ。門田氏はテレビ会議で菅の演説を聞いた第一原発首脳部の心情をこう表現している。

(何言ってんだこいつ)
これまで生と死をかけてプラントと格闘してきた人間は、言うまでもなく吉田と共に最後まで現場に残ることを心に決めている。その面々に「逃げてみたって逃げ切れないぞ!」と一国の総理が言い放ったのである。
(『死の淵を見た男』P263)

ナレーションが既に東電側に肩入れしているのも不可解なのだが、菅が乗り込んだ原因は、東電首脳部が最小限の人員を残して撤退を検討し始めた、という情報を聞きつけたからだ。『死の淵を見た男』の内容を真とすると、その遠因は14日夜の

吉田は、格納容器爆発という最悪の事態に備えて、協力企業の人たちに、帰ってもらおうと思った。

(『死の淵を見た男』P249)

に端を発しているように読み取れる。ところで、言葉を返すようで悪いが、なぜ吉田氏の証言を「直接引用」をしないのだろうか

ここで、桜井淳の分析を紹介しよう。

菅さんは「撤退したら終わりだ」と怒鳴り散らしました。「終わり」とは東京電力の終わりではなく、日本の終わりを意味していました。(中略)菅さんには、1Fからの全面撤退を阻止したために所員が死亡した場合、菅さん自身にも業務上過失致死の刑事責任が発生するとは考えにも及ばなかったのでしょう。結局、菅さんひとりが所員の人命について背負い込むことになり、東京電力首脳陣は、免責となったことで、東電は、撤退を撤回します。もちろん、菅さんは、自分が東京電力首脳陣を免責にしてしまったことなど気づいていません。東京電力は自己責任を認識して留まったのではありませんでした。

(『日本原子力ムラ行状記』P118)

このように、本来議論するべき問題は東電の当事者能力である。門田氏は「生と死をかけてプラントと格闘してきた」とか「吉田と共に最後まで現場に残る」などと努力を称揚しているものの、上記のような、東電としての能力と責任については言葉を濁す傾向が見られる。

最後まで現場に残る者がいるのは分かる。しかし、前回記事で協力企業のくだりでも述べたことだが、ありきたりな言い方だが、事故の収束は組織で当たらなければ実現できない。再び桜井淳の言葉を引こう。

福島第一原発では勤務日の昼間であれば、少なくとも、社員数百名と関連会社社員数百名が働いています。ところが夜になれば、原子炉運転員と放射能測定関係の計約六〇名、言い換えれば、ひとつの原子炉につき約一〇名しかいません。(中略)津波ですべてが破壊しつくされた施設の緊急事故対応では、猫の手も借りたいほどの忙しさであり、わずか、七〇名では、全く対応できません。その人数は通常時の夜の人数に過ぎません。

 

官邸は、そのような東京電力の撤退について、「完全撤退」と受け止めました。(中略)私は、わずか七〇名では、緊急事故対応が全く出来ないため、「完全撤退」と解釈しました。真実は「完全撤退」でしょう。東京電力は福島第一原発を見捨てました。そのことは、福島県民だけではなく、国民を見捨てたことになります。

(『日本原子力ムラ行状記』P139-140)

私もそう思う。フクシマ50だとか讃えたところで、それが完全撤退では無かったという証拠にはならない。「最小限の人員」では事故の収束は出来ず、好意的に解釈しても、米国に「やる気」を見せるために強行された無意味なヘリ作戦程度の価値しかない。厳しく解釈すれば、吉田氏が示したのは、勝敗自体にはさほどの意味も無い「艦と運命を共にする艦長」と大同小異の精神論である。残念ながら、『死の淵を見た男』に描かれている吉田氏は、本質的に本店の「完全撤退」論者と差異が無い。

勿論、『死の淵を見た男』に描かれていない側面から吉田氏を見直せば、別の計算が浮き彫りになるのかも知れない。吉田調書はそのような読み方が出来る可能性も持っていると思う。

また、門田氏は菅をはじめとする官邸の面々には辛辣な筆致を随所にしているが、撤退問題の元凶となった東電本店に対してはそれ程でもない。それどころか、海水注入問題のくだりでは本店の武黒一郎フェローの言を借り「イラ菅」振りについての不平は丁寧に引用している。一体これは、どういうことだろうか。

菅演説の最後には次のような一文が加えられている。

(何言ってやがる、このバカ野郎)
吉田はそう言いたかったのかも知れない。

(『死の淵を見た男』P264)

上でも書いたように60名では作業は回せない。当の吉田氏が一番理解していただろう。その言葉を言いたいのは貴方ですよ、門田さん。「なぜ吉田氏の証言を「直接引用」をしないのだろうか」なんてレベル超えてますよね、これ。ナレーション風の表現で煽ったりしないで、「私はこう考える」と主語を明確にされたら如何か(追記あり)。


【吉田調書関連でアクセス頂いた皆様へ】
アクセス頂きありがとうございます。しかし、本件は当ブログにとっては副次的なテーマです。メインは各事故調で漏らした重要資料を使っての技術史的な考察です。これら資料の価値は吉田調書に勝るとも劣らないものと考えます。特に下記は是非御笑覧ください。

小林健三郎が選んだ「原子力適地」-中部電力浜岡原発などは除外-

東電事故調が伝えない事実-津波に対する考え方を整理出来なかった小林健三郎-

あり得た第三の選択肢-500Galの仕様も検討したのに実際は値切られた福島第一原発1号機

東京電力は非常用ガス処理をどのように考えてから福島第一原発を建設したか

福島第一原発の審査で外された「仮想事故」-予見可能性からの検討-

茨城県の「要請」は明記せず日本原電の対応を「自主」「独自」と喧伝する危うさ

2014/9/13追記
最後の部分「バカ野郎」は吉田調書の公開により吉田氏当人がそのように考えていたのが事実と確定した。私は意外に感じたが、門田氏は話を聞く中でそういった雰囲気を感じ取っていたのだろう。ただ、雰囲気だけでそのように醸し、明瞭に「バカ」と言わなかったのであれば、政府事故調と比較して門田氏との信頼関係には差がみられるということ。いずれにせよ、想像するしか手が無かったのなら、この記事を変更する必要性は全く感じない。門田氏当人も産経や正論で順調に右派としての立場を固めているし、彼自身の意見を投影したと解するのも間違いではない。

意外に感じたのは吉田氏の物の考え方が、典型的な東電社員のそれを髣髴させるものだったからである。後に、本店時代の行為について語るのを躊躇するような姿勢もあったことを知り、得心はしたが、私としては門田氏が描くほど単純な人物ではないと期待しているところはあった。「現場のプライド」を高ぶらせるのは仕方がないかも知れないが、本店・官邸との意思疎通が上手く行っていないから首相が出てくる事態となっていることは、指揮官として頭に入れておくべきことだろう。

2014年6月 9日 (月)

吉田調書をスクープした朝日新聞を叩く門田隆将氏の問題点

今回は吉田調書をスクープした朝日新聞を叩いてるオタク共は『海上護衛戦』に墨でも引いて読んでろの続きである。

【ウェブサイトで取材記録を公開しない門田隆将氏の批判に欠ける「説得力」】

実は、バランスを欠いて党派的な言動を重ねているのは前回批判したネット右翼系のオタクだけではない。政府事故調とは別ルートで吉田氏に接触したと思われる門田隆将氏もそうである。彼のブロゴス記事を見てみよう。

私は吉田さんの生前、ジャーナリストとして唯一、直接、長時間にわたってインタビューをさせてもらっている。私がインタビューしたのは、吉田所長だけではない。

当時の菅直人首相や池田元久・原子力災害現地対策本部長(経産副大臣)をはじめとする政府サイドの人々、また研究者として事故対策にかかわった班目 春樹・原子力安全委員会委員長、あるいは吉田さんの部下だった現場のプラントエンジニア、また協力企業の面々、さらには、地元記者や元町長に至るまで、 100名近い人々にすべて「実名」で証言していただいた。

私がこだわったのは、吉田さんを含め、全員に「実名証言」してもらうことだった。そして、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』が誕生した。

「お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事」(2014年06月01日 06:28)

私は『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』は読んだし、門田氏のウェブサイトも見てみたが、彼がインタビューした100名の関係者との問答集一覧は掲載されていなかった。飯の種とは言え、結局は、門田氏や出版社と言うフィルターを経て世に出ている訳だ。このことは、後述する菅直人叩きへの腐心や、事故前に吉田氏自身が津波対策を怠った件のバイアスとなって表れている。

なぜ調書の吉田証言を「直接引用」をしないのだろうか。ひょっとして、そうは吉田所長が語っていないのを、朝日新聞の記者が“想像で”吉田氏の発言を書いたのだろうか。

「お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事」(2014年06月01日 06:28)

御自身が範を示せば、この言葉には説得力が伴うだろう。

15/5/14追記
この記事を書いて1年が経過した。その間津波問題に関しては添田孝史著『原発と大津波 警告を葬った人々』が上梓され、添田氏はネット上に「補足と資料」のサイトを開設、独自性の強く貴重な取材成果をアップしている。嘘だと思うなら貴方の目で確認されることをお勧めする。同じ話を使いまわすだけの門田氏とは雲泥の差であることが分かる。

更に、添田氏は精力的な追加取材を敢行し、Twitterでリアルタイムに第一報を報じ続けた。福島原発告訴団は2015年春、同書出版後に発掘された新たな福島沖の津波想定の成果を盛り込み、検察審査会に強制起訴を求める上申書を提出した(ココココを参照。新資料発掘は私も行った。当ブログ2015年2月2015年3月の記事を参照して欲しい)。元政府事故調関係者もこうした動きを見て失敗学会を通じて緊急フォーラム研究会を実施し、これまでの姿勢を修正しつつある。英雄吉田という虚像は既に崩壊している。

【俗的な「ドラマ」の取材にプライオリティをつけて失敗した門田隆将氏】

門田氏は長時間以上インタビューをしながら分秒の対応策に時間を割き過ぎたために、本店時代の津波対策の件を先送りした。

この話は、私は3回目の取材で吉田さんに伺うことにしていたが、その直前に、吉田さんは倒れ、永遠にできなくなった。

故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」2013年07月14日 16:31

前2回の取材で大まかなことは聞いていたとも語っているが、この手の話は「真理は細部に宿る」ということもある。細部を聞けなかったのは、門田氏のマネジメントの失敗である。事故時の対応振りもそれなりに重要だが、周辺の補機類や資材まで流出させた津波の規模を思い起こせば、直近数年の経緯で勝負はほぼ決まってしまっていた。門田氏は同書冒頭に、吉田氏の健康状態は既に優れなかったと記している。ならば、事故前の経緯を優先して聞くべきだった。

しかし、門田氏の取材方針からか、同書は事故時の官邸との対立など、マスメディアが「ドラマ」として面白おかしく書きたててきた部分をクライマックスに持ってきている。この点は朝日新聞のしてきたことも大同小異だが、門田氏も同じ穴の狢ということだ。門田氏に、朝日新聞を批判する資格など無い。

政府事故調の聴取方法は良くも悪くもオーソドックスで検察の取調べを参考としたと言う。吉田調書は門田氏の取材では浮かび上がらなかった本店時代の詳細を白日に晒す可能性を秘めていると言える。

ただ、私はこうも考える。ひょっとしたら、門田氏は自らもフィルターを通して吉田氏を描いたことを客観化されてしまうのを恐れているのかも知れない、ということだ。

【吉田氏を都合よくアイコンとして使っているのは門田隆将氏】

なお、前回のブログでも触れたように吉田所長についてこんな的外れの評価をしている者がいる。

しかし、実際に『死の淵を見た男』を読めば、吉田所長を使いでのあるアイコンとして物語化し、英雄視していたのは門田氏なのは明らかだ。四式戦闘機弁務官氏は『死の淵を見た男』を読んでいないのだろう。

門田氏は恐らく東電との意見やプロモーションに関する摺合せを経て、吉田氏にコンタクトした。吉田氏にコンタクトを取ることが出来たジャーナリストとして、特異なポジションにある。論壇での立ち位置はともかく、その成果は誇っても良いことだただし読み手が注意しなければならないのは、その立場を保持する限り、門田氏はいかようにも書くことが出来るということだ。同等以上の情報を入手した朝日新聞の出現は、寡占市場を崩すようなもの。正に想定外だったのではないだろうか。

私は、『死の淵を見た男』を「東電が欲した物語」と見なしている。東電事故調は自己弁護という役割は100%果たしたものの、東電の視点で見た場合、カバーしきれなかった点がある。それは社員のメンタル面への気配り-正当化のための物語の提供-であり、この役割を果たすのが、『死の淵を見た男』である。太平洋戦争敗戦後、軍や軍人の正当化を(部分的にでも)図る役割を担った代表例として、「ジャーナリスト」伊藤正徳の著書がある。これと同質のポジションだろう。

今回の震災で被災したもう一つの電力会社、東北電力もこの手法を使い、町田徹『電力と震災』を上梓した。私が東北電力に原発の件で何度か問い合わせした時、同社の広報担当者は自社社員の書いた記事と並べて、『電力と震災』を参考文献に挙げてきた。そのことから『電力と震災』の位置付けが分かるし、私はこの経験から、『死の淵を見た男』も東電にとって同様のツールであるとの感を益々強めた。だからこそ、『死の淵を見た男』は様々な視点で読み解く価値がある。しかし、そういった分析視点は、東電の宣伝対象であるネット右翼や科学オタク、金儲けのことで頭が一杯の一部再稼動支持者には無い。

なお、吉田氏は発売された本書を目にしているがその時の反応は次のようなものだったという。

脳内出血で倒れて4か月後に出た拙著を吉田さんは大層喜んでくれた。そして、不自由になった口で「この本は、本店の連中に読んで欲しいんだ」と語られた。

「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」2013年07月14日 16:31

私から見れば彼は「本店の吉田」でもあり「現場代表の吉田」でもあり「東電の吉田」でもある。同書に描かれたのが「本店の吉田」でないことは確かであろう。

【本店管理部時代の津波対応をオミットした『死の淵を見た男』】

「物語」という視点を導入したからには、限定的ではあるが、その解体作業にも手を付けておかねばなるまい。つまり、『死の淵を見た男』が抱える問題点である。

最も重要な点は、吉田氏の本店時代の津波に対する姿勢が本書でオミットされていることだ。何度か読み直したが、やはり見つからない。門田氏はこの件をブログで補足している。

『死の淵を見た男』は2012年末の出版だが、本店時代の件は2011年時点でメディア報道で触れられていた。同書は政府、国会、民間、東電の主要4事故調報告書を参考文献としているため、門田氏も当然この件は執筆時に知り得た筈である。明らかに重要なエピソード。にもかかわらず、書籍外で補足するという選択をしたのは、例え弁護のためのロジックを用意していたとしても、美談として製作した同書に水を差す内容だったからではないのだろうか。

【自分の本に書いた話すら都合が悪いと無視する門田隆将氏】

そのブログ記事「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」は奇妙な記述が垣間見られる。

いま、吉田さんが「津波対策に消極的だった人物」という説が流布されている。一部の新聞による報道をもとに、事情を知らない人物が、それがあたかも本当のようにあれこれ流しているのである。

私は、吉田さんは津波対策をきちんととるための「根拠」を求めていた人物であると思っている。新聞や政府事故調が記述しているように、「最大15.7メートル」の波高の津波について、東電は独自に試算していた。これは、2002年7月に地震調査研究推進本部が出した「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という見解に対応したものだ。

そもそも、これはなぜ「試算」されたのだろうか。これは2008年の1月から4月にかけて、吉田さんが本店の原子力設備管理部長だった時におこなわれたものだ。

「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」2013年07月14日 16:31

この程度のことは事故調と一部新聞の報道を取り纏めたらすぐに分かる事である。門田氏は「事情を知らない人物」でもあるまいに、今更何を言っているのだろう。そして、残念ながら、「津波対策に消極的だった人物という説を流布」しているのは門田氏自身でもある。次の記述と比べてみよう。

なぜそんな事態になったのか。吉田にもわからなかったのである。

「この時点で、テレビで津波情報は流れていましたが、そんなに大きいものが来るとは、気象庁からも出ていないわけです。僕は、もしかしたら、津波が来て、(四円盤の)非常用の海水ポンプのモーターに水がかかることがあるかもしれないと、考えていました。また、引き潮になった時に水がなくなりますから、どうすればいいのか、そのへんの手順を考えないといけないと、思ってたんですよ。それで、津波対応として、いろんなポンプの起動手順だとか停止手順だとか、そういうものをもういっぺん確認しておくように指示を出していました。それでも、大きくても五、六メーターのものを考えてのことです。まさか、あんな十何メーターの大津波が来るとは思ってませんでした

(『死の淵を見た男』P57)

確かに、気象庁の津波警報が津波を過小評価し、大被害に繋がったのは巷間指摘される。この点は吉田氏の証言は当時の状況と一致する。しかし、十何メーターの津波が来ると本気で思っていなかった(頭の中で想定内に入れていなかった)ことも、この証言からは読み取れる。それが、「津波対策に積極的だった」と言えるだろうか。

門田氏は月刊誌に詳しくレポート記事を書いたとのことだが、各事故調報告の後追い程度の内容で「吉田氏は仕事をした」と強調する程度の物なら、価値は無い。吉田氏は「十何メーターの津波が来る」と思えなかったから学会の権威を借りることにし、具体策は延期したと受け取る方が余程自然である。また、学会のオーソライズ自体も表面的な理由かも知れない。90年代末から、東電は原子力部門を含めたコスト削減策に血道を削っていたからである。

巷間伝えられるところによれば本格的な対策費用は400億、致命的な部分に限って数億から数十億といったところと目されるが、例え後者の金額であっても、原子力部門としては避けたい出費だったのかも知れない。そのような小規模対策は単年度予算に収まるだろうが、「吉田氏の在籍した年度の予算に与える影響は大きい」と解することも出来る。

そもそも、東北電や日本原電がオーソライズを待たずに対策(日本原電は吉田氏と同時期、ただし問題もある)した以上、門田氏の弁護は根本的に無理がある。日本原電の例は民間事故調報告書にも書かれている筈だが、同書を参考文献に挙げてる門田氏は何処に目をつけているのか。

【協力企業に関する恣意的な取扱い】

次のような記述も見られる。全面撤退か否かで揉めていた15日前後の様子に関しての批判だ。

一連の朝日の記事の中には、実質的な作業をおこなったのは「協力企業の人たち」という印象を植えつける部分がいくつも登場する。しかし、これも事実とは違う。放射能汚染がつづく中、協力企業の人たちは吉田所長の方針によって「退避」しており、作業はあくまで直接、福島第一(1F)の人間によっておこなわれているのである。

お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事 2014年06月01日 06:28

確かに、運転員は元々東電社員から養成されているし、ベントのための建屋への進入はプロパーの所員から選抜したそうだ。消防車からの放水も15日頃に限っては東電社員だけで実施したらしい。しかし、そんな状態で長く続けられる筈も無い。門田氏は次のように書いている。

この日の朝、死に装束をまとって座っているように見えた吉田ら幹部たち「六十九人」を除いて、福島第一原発の免震重要棟から退避してきた東電社員と協力企業の人々は、六百人近かった。

福島第二原発の体育館に、彼らは収容されている。しかし、「六十九人」の懸命の闘いにも、限界があった。特に原子炉への注水活動の人員不足が時間を経るにつれ、露呈し始めたのだ。

「どうしても、数少ない残った人たちだけでは活動が難しかったと思います。それで一度は第二の体育館に退避した人たちも、徐々に第一に帰り始めるんです。線量の高いところに戻るわけですから、葛藤があったと思います。

(『死の淵を見た男』P280)

事故発生当初から、対処は協力企業無しでは成立しなかった。それどころか同業他社の力も借りている。例えば、町田徹『震災と電力』には3月11日当日、福島第一に向けて急行する東北電力の電源車の記述がある。東北電力ばかりでなく、事故調での記述を読めば分かるようにあの日、福島第一に向っていた電源車は自衛隊のものなどを含め数十台に上っていた。

14日の3号機爆発の時もそうだ。happy氏は『福島第一原発収束作業日記』に「その日(14日)は朝方の暗い内から作業してたんだけど、「免震棟に戻れ」って指示があって全員戻ったんだ」と書いている。この後吉田所長の訓示があり、一時退所している。要するに、縁の下の準備などは下請け依存だったということだろう。ちなみに、3号機爆発の際は門田氏の大好きな軍人(自衛隊員)も負傷している。放水(つまり、作業)のために展開していたからだ。その過程は彼自身も書いている。

朝日新聞の「逃げた」という表現はまたぞろドラマをやろうという意図を感じなくも無いし、その過程は吉田氏に限らず様々な記録も残っている。だからその批判は分かる。しかし、門田氏が主張していることは「華々しく前線で戦う兵士は志願兵だった」「正規兵だった」「海戦の肝は東郷提督の回頭命令だった」などと言うのと同じで、日常のプラント維持に欠かせない支援部隊や兵站部門を無視した難詰である。

止めとして『死の淵を見た男』から一行引用しておく。

福島第二原発に退避した人たちが、続々と第一に帰ってきたのは、三月十六日である。

(『死の淵を見た男』P287)

一日で戻ってくる程度の期間でしかないのなら、その前後の期間がそうであったように、作業の「量的な主力」は「協力企業の人たち」だろう。この間には協力会社の一つ、原子力防護システムに勤務するベテラン消防士が、同社の本社と掛け合って放水作業に参加するまでのやり取りも描写されている。かように門田氏の健忘症は、党派的である。

【『死の淵を見た男』にもあった吉田所長の「オーバーな表現」】

朝日には厳しく、推進派や反反原発には甘い傾向は門田氏の著書を読んだ筈の読者たちにも見受けられる。例えば、吉田調書から引用した朝日新聞に対して「チャイナシンドロームなんて言葉を使う訳がない」という批判がある(【吉田調書】当時、吉田所長は細野豪志首相補佐官に電話で「炉心が溶けてチャイナシンドロームになる」と言ったのか?-Togetter)。しかし、これは俗語としての使用であるのは一目瞭然だ。しかも、『死の淵を見た男』が発売された時にこうした言葉の揚げ足取りは問題にもならなかったのである。

非常用ディーゼル発電機が津波で停止した際の様子を門田氏は次のように描写している。

いつの間にか吉田には、何かが起こった時に、”最悪の事態”を想定する習性が身についていた。吉田の頭の中は、この時点ですでに「チェルノブイリ事故」の事態に発展する可能性まで突きぬけていた。すなわち、「東日本はえらいことになる」という思いである。

(『死の淵を見た男』P58)

なぜ吉田氏の証言を「直接引用」をしないのだろうか(笑)。

それはともかく、推進派は事故前、チェルノブイリ事故について比較すること自体を否定していた(松野 元『原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために』参照)。事故後も福島との相違点をネットの内外で強調して回った。民間事故調が近藤駿一氏の被害想定を公開した時にも、推進派は「菅直人による政治的な誇張」と嘲笑していた。門田氏の表現は、それらを全て覆すものだ。

ちなみに、『死の淵を見た男』には海水注入問題について班目氏の次のような証言がある。

海水注入を優先して行わないと、本当にチャイナシンドロームになりますので、私は何が優先かというと、とにかく冷やすことですから、海水注入を優先するように言ったんです。

(『死の淵を見た男』P223)

上記より、「プロがチャイナシンドロームなんて言う訳がない」と主張した反反原発全員の主張が崩壊する。揃いも揃ってバカで無能な癖に、下らないまとめでグダグダと意味の無いツイートを重ねているのが良く分かる。

吉田氏の活躍を最初に報じたのは2011年5~6月頃の『週刊現代』だったと記憶する(後で調べたら5月7日号で「日本の運命を握るヨシダという男」とい う記事が掲載されている)。その頃から率直な物言いをするという評が伝えられていた。そのような人物なら「禁句」を設定するとは思えず、政府事故調に対し て「チャイナシンドローム」、門田氏に対して「チェルノブイリ級」と語ったのであろう。むしろこれは、事故の重大性を分かりやすく表現するための、吉田氏 なりの気配りと解することが出来る。周囲が、どこの媒体が報じたかで党派的にデタラメな毀誉褒貶を加えているに過ぎない。

同じような話は「メルトダウン」という単語に対してもあった。メルトダウンと炉心溶融-Togetterに詳しいが、NRCのウェブサイトでは普通にFAQにも載っている。反反原発は事故発生時、メルトダウン自体を否定し、溶融不回避と悟ると今度はメルトダウンという言葉を福島事故が当て嵌まらないように歪曲して解釈しようとした。結局、原子力安全委員会委員長という、これ以上無い権威的職位にあった班目氏が、『証言 班目春樹』P64にて「メルトダウン」という単語を使用したことで止めを刺された。

【まとめ・補論】

上記のように、門田氏や推進派の言行を点検してみると、恣意性によりその場その場でいい加減な表現が垣間見られる。また一連の記述と弁明を読んで思ったのは、先ほども述べたが門田氏が後方兵站の重要性を意図的に軽んじて必要以上の英雄視を行う傾向があることだ。菅直人 の「悪役振り」を強調し、わざわざ従軍慰安婦騒動に例えるところにも、本質的に右派であることが伺える。ちなみに、慰安婦問題では今年になって軍の新資料 なども発掘されているのだが、何故わざわざそのような墓穴を掘る言動を取るのか。

ただし、比較して改めてわかったのは吉田氏は門田氏にも政府事故調にも率直な意見を述べていると思われることだ。2つの証言を相互に比較しても矛盾は少ない。そうしたことは、朝日新聞の取材班を含めた、調書を精読した者達には良く分かっていたのだろう。

もう一つ、門田氏の本を最近の寸劇混じりのNHKスペシャルじみていると揶揄する向きがある。私もそう思う。海抜4mのエリア をわざわざ「四円盤」と呼ぶのは、圧力抑制室を「サプチャン」と意味が失われた略語を使って粋がるのと似ている。こうした言動は竜田一人のマンガ「イチエフ」で「ふくいちなんて呼ぶ奴はいない」と自作を宣伝する行為にも見出せる。「事情通を気取る心理」というべきものだろうか。非常に興味深い。

2014/6/10:内容はほぼ同一だが全面改訂、加筆を実施。

2015/5/14:冒頭にその後の顛末を加筆。
結局、朝日の要求に応じて政府が開示した聴取録からは津波想定に関して驚くべき新事実が発見された。予想通り、脇役に過ぎなかった吉田調書ではなく、保安院の小林調書にある「津波に関わったらクビ」をはじめとする一連の証言である。また、添田孝史氏の『原発と大津波』により新証拠が多数提示され、当ブログでもダメ押し的に多くの新資料を提示した。最早、検察官がどれほど政府の顔色を伺って恥を晒すかだけが、問題点だと言える。

片や、門田氏はWILL、産経をはじめとする右派メディアに露出を重ね、完全に御用評論家のポジションで安定、底の浅さを晒す結果に終わった。当記事のコメント欄を読んでも「政局」「右左」にしか興味の無いネット右翼が反感を持っていたことが分かる。

2014年6月 2日 (月)

吉田調書をスクープした朝日新聞を叩いてるオタク共は『海上護衛戦』に墨でも引いて読んでろ

原発事故から3年経過した2014年5月になって故吉田昌郎所長が政府事故調に語った証言記録、通称「吉田調書」が朝日新聞に流出し、原発論議を沸かせている。

興味深いのは、日頃「情報は公開されている。反対派が調べないだけ」といった主張を声高に強調してきた反反原発(原発推進派)の間で反発が激しいことだ。

今回も、軍事オタク・反反原発界隈を中心として眺めてみよう。

軍事オタクとは言いかねるがこんな科学オタクもいる。

加藤アズキ氏の発言は【事実と真実】 吉田所長の「調書非公開」を望む上申書の趣旨について 【遺志と恣意】というまとめにまとまっている。上の解釈だと「吉田氏は神という肥大した自意識の持ち主」となるのだが、いいのか。

なお、サニー氏もこのようなことを述べている。正直失望。

一応、科学者代表としてこの人も挙げておく。

こうやって脊髄反射するから春雨と馬鹿にされるのでは。他にも何時もの連中がツイートしたりRTしたりしてるだろうがきり無いからこの辺で。

結論から言うと、彼等の主張は著しくバランスを欠いている。

【1】中味と入手経路の問題は別

まず、軍事オタク共が類似例として引く西山事件だが、情報の入手経路と公表された内容の問題を摩り替えるという、ネット右翼に典型的な反応に過ぎない。西山氏がどうであれ、密約として締結したことは日本政府が責を負う。相手が米国だから心情的に世間の支持を得たに過ぎない。もし中国相手のODA供与に関する「密約」などだったら、今の世なら袋叩きだろう。しかも、今回の件は外交問題ですらない。元々は政府が公開していれば済んだ話である(上申書の件は後述する)。

朝日新聞にしても同様で、調書の丸写しはメディアとしてハードルが高いが、工夫は出来るだろう。実際に例もある。東電テレビ会議の一件がそれだ。朝日新聞はこの問題のためだけに『プロメテウスの罠』とは別に本を一冊出版しており、公平性の高い仕事も出来ることを改めて証明した。何せ「文化大革命の軽い奴」を所望された石井孝明氏も賞賛する一冊だ。

後は吉田調書で同じことをすれば良い。まぁ多分、するだろう。それまで待っても遅くは無い。闇雲に騒ぐネット右翼はその程度の予想も出来てないし、文献も読まない。

【2】朝日新聞は原発報道では大手五大紙で最も優れている

そもそも、例示に西山事件を引くこと自体も疑問を感じる。他新聞の案件であり、外交問題だから、共通点が少ない。四式戦闘機弁務官やMIBkaiのようなネット右翼系軍事オタクは「朝日と毎日は一緒」「左翼=反原発」と主張したいのかも知れないが、『東電帝国―その失敗の本質』他で示された通り、朝日毎日両社共、社の方針として原発を容認してきた過去を持つし、その件に対する検証も進められている。要は、そう単純では無い。原発報道に対する朝日の底力を測るには、「「反対派のせいで建替え出来なかった」「対策出来なかった」というデマ 第2回」で取上げた下記の記事を示す方が適切である。

ドイツでも、七〇年代から過酷事故対策の研究に着手。八六年にPWR、翌年にはBWRにガス抜きパイプを設置するよう勧告が出て、既に大半の原発の 格納容器に取り付けられた。米国でも八七年から過酷事故時の格納容器の性能を改善する作業が進められ、八九年、BWRにガス抜きパイプを設置するよう勧告 が出されている。欧米の動きについて日本の電力関係者は「チェルノブイリ事故で盛り上がった反原発運動を鎮める狙いもあった」と話している。

ある電力関係者は「日本では手続きに時間がかかる。外国の動きに影響された面もある」と打ち明ける。「対策の遅れは、積極的にやりたくないという業 界の意向を反映したもの」と原子力情報資料室の高木仁三郎代表。「スリーマイル島事故の反省から、原子力安全委員会が八一年に出した五十二項目の『安全対 策に反映させるべき事項』もあまり実施されていない。こうした姿勢こそが問題」という。

BWR、PWRともにガス抜きパイプを設置した国がある中で、日本の場合はBWRとPWRで違った対策をとるのはなぜか。スウェーデンのように、放射性物質を極力外部に出さない方式をとる必要は無いのか。「原子力発電に反対する福井県民会議」の小木曽美和子事務局長は「過酷事故は絶対起こらないという説明から、発生の可能性を認めたことは評価できる」としながらも、「この対策で万全なのか」と不安がる。対策をとる前に、方針が決まるまでの議論をガラス張りにすべきだろう。とくに、BWRの地元ではパイプを開いて放射性物質を放出しても大丈夫なのか、住民が納得できるようにきちんと説明する必要がある。

「原発過酷事故対策は安全か」『朝日新聞』1994年2月17日朝刊4面より抜粋

福島事故前、一般紙の原発記事でここまで踏み込んで過酷事故対策の課題を示したのは朝日新聞だけである。確か、現物は7・8段抜きの、平時の新聞としては結構スペースを割いた内容だった。抜群のセンスであり、歴史に残る価値ある報道である。吉田調書の件で朝日の的確性を難詰する者達が絶対に知りたがらない事実でもある。偶に調査報道や私のブログに対して「後からなら何とでも言える」と反駁されたことがあるが、上記は事故の17年も前の記事である。

更に遡ると、朝日新聞は1980年に『原発の現場 東電福島第一原発とその周辺』を出版している。当時から推進反対を両論併記した入門書兼調査報道の一類型として、高い評価を受けてきた本である。このような鳥瞰的な視点を加えた福島第一原発の本を、推進側は遂に書き得なかった。『共進と共生』?『電力県ふくしま』?無価値とは言わないがあんなの所詮記念誌でしょ。

【3】政府事故調や吉田氏自身にバイアスがある

また、吉田調書を非公開にした政府事故調の問題点、更に言えば吉田氏自身のそうした姿勢に偏りがあることを無視している。政府はこの特集に対抗して吉田氏の上申書を公表、内容を抜粋すると次のようなことが書かれている。

これらの聴取結果書合計7通の中には、私が貴委員会(※編注:政府事故調)から聴取を受けた際に他人に対する私の評価、感情、感想を率直に述べた部分があ ります。これらは、私の事故当時の判断、認識を述べたものではなく、貴委員会からの聴取を受けた際の私の感情や感想を率直に表現したものであり、聴取時の 私の心理状態や聴取の雰囲気、聴取に当たった担当官との関係、前後の文脈等をきちんとふまえていただかなくては誤解を生んでしまうと危惧しております。

さらに私が貴委員会からの聴取を受けた際、自分の記憶に基づいて率直に事実関係を申し上げましたが、時間の経過に伴う記憶の薄れ、様々な事象に立て続けに 対処せざるを得なかったことによる記憶の混同等によって、事実を誤認してお話ししている部分もあるのではないかと思います。そのため、私が貴委員会に対し て申し上げたお話の内容すべてが、あたかも事実であったかのようにして一人歩きしないだろうか、他の資料やお話ときちんと照らし合わせた上で取り扱ってい ただけるのであろうかといった危惧も抱いております。

ハフィントンポスト記事の抜粋を参考)

吉田氏には申し訳ないが、言い分としては稚拙である。何故か。一つ挙げるとうした証言は「事実を誤認してお話ししている部分」があるのが当然と承知した上で、読み取るべきものだからである(オーラルヒストリーと見なせば既に一般化している)。現場にいた当事者が神様ではない、そんなことは当たり前である。また、感情で動く面があることを否定してはいけない。調書を入手した政府や朝日新聞がすべきことは、先ほども述べたようにそれをなるべく原形に近い形で提示することに尽きる。

ちなみに最悪なのは「墓までもって行く」であり、それを公然と肯定したのが「関係者に配慮」と言い換えて口ごもった原子力学会事故調である。文献踏査もろくったましないし、糞レポート以外の何物でもない。

上申書には国会事故調への懸念についても言及されているが、それは吉田氏が類型的東電社員だったことの証明である。東電社内報『とうでん』は 「原子力、”自分の言葉”で語ろうよ」といったPA記事を社員向けに流してきた。吉田氏もまた、こうしたバイアスを植え付けられた一人である。例え調書の公開先を限定するにしても、国会事故調は立法府の事故調であり、党派的な判断基準で資料を制約すべきではない。国会事故調で津波問題に取り組んだ添田孝史氏は私のブログを紹介して頂いた際、小林論文を「新たな資料」とツイートしている。このことは、東電が小林論文を国会事故調に提出しなかったことを暗示する。吉田氏や政府事故調の態度にも同質の恣意性があるように思われる。

政府事故調以外に調書を示すのが問題なら、客観性を維持するために例えば民間事故調や学会事故調にも示すとか、やりようは幾らでもあった筈だし、相互に批判すれば良いだけの話。実際、政府事故調の主要委員は『福島原発で何が起こったか-政府事故調技術解説』で国会事故調を批判している。

多くの人間の生死に関わる決断を行なった事例が多数記録されている例としては第二次世界大戦の政軍関係者のものが代表的だ。米国は戦後、旧敵国関係者にも詳細な質疑を行ない、自国公式戦史に反映、調書自体も公開している。これは情報公開の本質である「判断を読み手に任せ、一方向の歴史観押し付けをしない」という観点から満点の対応と言えよう。

勿論、戦史研究の世界では、当人や遺族に許可を貰うハードルがあるのも知っているが、今回は政府事故調の作成した調書であるから、ライターの取材活動と同一レベルでは比べられないだろう。

【4】吉田特集の真価は更なる情報開示を促したこと

朝日新聞の吉田特集は、事故調査の進展に明らかにプラスの効果をもたらした。自民党が政権に復帰してから国会事故調の収集資料を非公開のままに留め置くなど後ろ向きの対応が目立ったが、スクープを受けて政府は合意の取れた関係者については調書を公開する方針を示したのである。全面開示で無い点は宿題だが、ただ盲目的に政府の言うことだけを支持し、或いは脊髄反射的に「左翼」を叩いて回る上っ面だけの右派軍事オタクや科学オタクやそれに同調するライター等には、このような成果は期待出来ない。

しかも政府事故調が調書を取った関係者は数百名に及ぶ。朝日新聞が撤退問題に一石を投じた件は耳目を集める手段としては有効かもしれないが、吉田特集の本当の価値はそんなものではない。吉田氏の後に続く、膨大な調書の開示へのトリガーになったことが重要。そこを意識しないで場当たり的に引用された僅かな分量の記述に良し悪しを述べても無駄である(しかも朝日新聞の記述を良く見ると別の内部資料も手に入れている)。

【結論】朝日新聞を叩いてるオタク共は『海上護衛戦』に墨でも引いて読んでろ

ここで挙げたような一部軍事オタクや科学オタク等は歴史に対する姿勢が朝日新聞以上に不誠実である。何せ「墓までもって行く」を直接間接に支持してるのだから。こんなあっけなく、ネット右翼の分派に過ぎないことを暴露したのは想定外だった。戦史研究では昔から問題になっていることなのに、「原発問題」に置き換えただけで全く応用出来ていない。そんなに吉田調書をはじめ、原発再稼動やら推進運動に不都合な記述が世に出るのが嫌なら、今後は歴史研究など一切止め、ナチスの手口に学んで焚書活動に邁進されたら如何か(傍迷惑極まりないが)。

最近、奇しくも『海上護衛戦』が角川文庫から復刊された。私の父はあの本の初期の版を持っていたが、当時は一部関係者の名前を伏字にしてあった。出版から約20年、戦後30年余りを経た再版時にこの伏字は公開された。朝日新聞が原発推進だったことも頭から抜けている間抜けな軍事オタク達は、角川版を手に入れてもう一度墨でも塗ったら良い。そうすれば、理想的な『海上護衛戦』が完成する。

まぁ、墨塗り教科書、墓までお持ち帰りで満足する程度の頭でしかないのだし、『アーロン収容所』に出てくる絵本のシェイクスピアで「学位」を貰った植民地人(彼の場合は自分のせいではないが)と同等の扱いが分相応だろう。

※ここで挙げた例が軍事オタクやライターの全てではないことは当然である。例えば山崎雅弘氏は常識的な感想をツイートしている。

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