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2013年12月 4日 (水)

「反対派のせいで建替え出来なかった」「対策出来なかった」というデマ 第2回

「反対派のせいで建替え出来なかった」というデマ

本記事は上記の続きである。そう。あれだけ長かった前回記事に、まだ続きがある。すみません。それでも御笑覧いただければ。特に【5】【7】が重要。例によって後で多少文章の修正は入れると思う。

【5】浜通りは数ある原発サイトの中でも取分け電力が強い影響力を行使出来た

浜通りは原発立地点として見ても他地域に無い特異性があり、極めて政府に従順である意味「優秀」なことで知られていた。この現象は佐藤栄佐久が知事になり、国策に疑問を突き付けた1990年代後半以降も県との対立と言う形で継続した。事故後に隆盛した批評家達のフィルターを通したくなければ、当時の『福島民報』、『福島民友』といった新聞や、県内経済誌である『政経東北』、『財界ふくしま』などを猟歩すれば良いと考える。

そのような中、今回取り上げたいのは業界専門誌の一つ『アトム』が休刊直前の1981年8月号に掲載した「原子力発電立地の効果と問題点-福島県の場合-」である。浜通りには東電の原子炉10基の他、勿来、広野、原ノ町、相馬、新地と言った多数の火力発電プラントも計画・建設されてきた。このため、東電は建設スケジュールを調整して雇用の平準化を計り、1980年代半ばまで20年に渡って一定の雇用水準が維持されるように配慮したという。

このことで、通常建設が終了したら他地域に移動する特殊技能を持った建設労働者達の多くは、精々浜通り内での移動に留まることになった。運転開始後の定期検査要員は常時雇用というより臨時工であるが、配管や復水器など、技術的に共通する要素のある火力・原子力プラントが多数立地したことは、建設期ほどでなくても、一定量の雇用が残ることを意味し、定期検査時期を相互にずらすことで常に雇用を生み出すがことが可能であったことを意味している(ハッピー氏が著書で指摘するように後年このメリットは薄れたが)。このような特徴は少数の原子炉が孤立して立地している多くのサイトには当て嵌まらないものであり、同記事でも最後に注記している程だ。加えて浜通りにはこれといった産業が育たなかったので、人口希少の田舎で電力の存在感は文字通り「圧倒的」であった。若狭沿岸と浜通りは「原発銀座」の異名を取るが浜通りはこれに加えて「火力銀座」でもあり、往時、電力は恐らく若狭をも上回る存在感であっただろう。

そのような地域において、過酷事故も無い内から反対運動が育つという前提を当て嵌めるのは間違っているだろう。昔産経新聞が好んで取り上げたこととして、学校における自衛官の子息イジメがあった。あれは、地域における自衛隊の存在感が定量的に希薄なら教師も強い立場に立てたと思われる。例えば都内の基地の場合などである。しかし、生徒の大半が電力と係わりのある親の子である教室で、例え日教組先生でも原発批判を種にそんな類の行為が続けられるのだろうか、という疑問がある。私は人よりは調べた方だと思うが浜通りで自衛官イジメに類する教組の地元校支配の話を読んだことが無い。そんな教師がいたら産経と同じく、真っ先に晒し者にして袋叩きにしそうなものだが、推進派の息がかかったメディアにも出てこない。逆に『ふるさと再発見』(1975年)には地域の老人までが原発勉強会を組織するほどの啓蒙振りに触れている。町の広報誌は毎年定期的に技術者を募集している記載が載ってるし、まぁ典型的な美味しい就職先だったのが実態だろう。

※反対派としては自分達が少数派であると声高に主張することは都合が悪い。『原発の現場』にて岩本忠夫が多少ふれたように、場合によっては強そうに見せかける必要もあっただろう。だが、推進派がそれを真に受けるのは只のバカである。岩本忠夫は、反対派時代に『月刊社会党』で、自分達が劣勢であることを正直に吐露している。岩本程露骨ではないが、浜通りの反対運動関連書籍に登場する、TCIAといった地域の監視網を揶揄する言葉は、反対派が地元で数的劣勢であることを言い換えたものとして理解した方が良い。

余談だが岩本はこの後反対運動から離脱し1986年、双葉町長として当選を果たした。町長となった岩本は推進派に転じて7・8号機の増設誘致を主導した。当選後の開口一番、「増設の話があれば町議会でじっくり検討、町民の合意を得る努力の後にそれを認める方向を打ち出してもいいと考えているところです」と業界誌『エネルギーフォーラム』1986年9月号において饒舌に答えているのが実に印象的である。同誌編集部の気分まで読み取れる点で良記事と言える。

【コラム】浜通りの風土は原発運営に影響したか
若干の違和感もあるが、『政経東北』において二上英朗氏が採り上げていた風土の影響-お上へ平伏し会津のような反骨心が無い-も無視は出来ないかも知れない。二上は『政経東北』1987年4月号にて「相双地方はいわきのつけ足しか!?」という挑発的な記事を書き、1987年11月号「”政治オンチ”が生んだ『火葬場』建設騒動」では「政治的なセンスを持たない」と書いた。1989年1月号では「双相地方は南東北のエアポケットか」という記事を寄稿し、原発の夢に依存した浪江小高地区を批判的に扱っている。

第二における再循環ポンプ事故、第一7・8号機増設問題、プルサーマルと話題に事欠かなくなった1990年代以降は風土に言及した記事の頻度は目立たなくなったが、地域に根を張るメディアの指摘として無視は出来ないと考える。

【6】そもそもこの手の作り話、震災前からあったもの

7・8号機の件は敢えて東電周辺のソースから検証した。それが最も推進派、いや誰に対しても説得力があるからだ。「安全対策が反対派のせいで出来なかった」論は実際に工事出来た例があると、即座に崩壊してしまう。工事の内容が安普請かどうかは別問題である。このことから分かるように、「反対派のせい」という言説が例え原発事故前に言及されていても、それは何の説得力も持ちえない。彼等がこの種の話を持ち出すのは「やりたくない理由づけ」として都合良く利用するためである。この辺りの事情は「【書評】松野 元『原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために』」でも示したのでそちらも参照して欲しい。

【7】朝日新聞と反対派が事前警告していたベントのフィルター化

別の例として、下記の朝日新聞記事は推進派デマの悪質性を如実に示していると思う。

スウェーデンではスリーマイル島事故の翌年の八〇年、過酷事故対策の検討を始め、八九年までに、「フィルトラ」と呼ばれる設備が沸騰水型炉(BWR)九基、加圧水型炉(PWR)三基のすべてに設置された。放射性物質をガス抜きパイプのフィルターを通して「第二格納容器」ともいえる大型容器におさめ、できるだけ大気中には出さない方式だ。フランスの原発はすべてPWR。砂フィルターを通してガスを大気中に放出するパイプを八九年までに設置済み。

ドイツでも、七〇年代から過酷事故対策の研究に着手。八六年にPWR、翌年にはBWRにガス抜きパイプを設置するよう勧告が出て、既に大半の原発の格納容器に取り付けられた。米国でも八七年から過酷事故時の格納容器の性能を改善する作業が進められ、八九年、BWRにガス抜きパイプを設置するよう勧告が出されている。欧米の動きについて日本の電力関係者は「チェルノブイリ事故で盛り上がった反原発運動を鎮める狙いもあった」と話している。

ある電力関係者は「日本では手続きに時間がかかる。外国の動きに影響された面もある」と打ち明ける。「対策の遅れは、積極的にやりたくないという業界の意向を反映したもの」と原子力情報資料室の高木仁三郎代表。「スリーマイル島事故の反省から、原子力安全委員会が八一年に出した五十二項目の『安全対策に反映させるべき事項』もあまり実施されていない。こうした姿勢こそが問題」という。

BWR、PWRともにガス抜きパイプを設置した国がある中で、日本の場合はBWRとPWRで違った対策をとるのはなぜか。スウェーデンのように、放射性物質を極力外部に出さない方式をとる必要は無いのか。「原子力発電に反対する福井県民会議」の小木曽美和子事務局長は「過酷事故は絶対起こらないという説明から、発生の可能性を認めたことは評価できる」としながらも、「この対策で万全なのか」と不安がる。対策をとる前に、方針が決まるまでの議論をガラス張りにすべきだろう。とくに、BWRの地元ではパイプを開いて放射性物質を放出しても大丈夫なのか、住民が納得できるようにきちんと説明する必要がある。

「原発過酷事故対策は安全か」『朝日新聞』1994年2月17日朝刊4面より抜粋

デマとは完全に反対であり、推進派の完敗と断言出来る。

詳説はしないが、反原発運動は本質において日本と外国で変わるものではない。むしろ震災前においては、ドイツのようにより強烈な形で発露するケースも見られた。この点からも、「反対派が強硬だから~」という理由が全くナンセンスだと分かる。日本が置いてきぼりになる理由の説明がつけられるだろうか。しかも、既述のように日本でも安普請とは言え実施されたのだ。

そして、事情を良く知らない新規参入組はともかく、震災前から運動を続けていた古参の反対派が態度を硬化させて「即廃炉」などを主張していたとしても、それは当然のことではなかろうか。「ガバナンス不在」「体質問題」こういった言葉も繰り返し聞いてきたが、背景を知ると重いもの。何も高木仁三郎が物理学会に投稿した論文が的を得ていたから、といった突発的な理由だけではないのだろう。

内容についても良く取り上げられる事前警告とされる類のソースの中でも、取分け的確だ。特に最後の段落は、津波や電源喪失に関する警鐘に匹敵する価値がある。この記事が何故事故検証において取り上げられなかったのか、不思議なほどである。当時は情報公開も法制化されておらず、ネットも無い中での運動だったが、意訳してしまえば、とっとと集めた外国の事例に関するレポートも含めて情報を公開し、一番良さそうな策を選ばせろという主張だろう。逆に言えば、この時、政府が朝日新聞の言うような方針を取らなかったことでフィルター付きベント、或いは既存方式の欠陥を埋める方向性のベントシステム開発へ計画変更する機会は失われた。

※公平を期すために補足すると、事故後にフィルトラも一長一短だという指摘が原子力委員会でなされている。しかし、そういう話を含めて事故前に広く選択肢を示すような情報の出し方はしていない。1991年にはこのレベルの文書が纏められていたのだから、その時点で立地県に配布し、必要なら市民団体にも渡すべきだった。広報、業界紙報道をチェックすると、大半は「ウェットベント採用」という結論が主で優劣比較に関する記述は無いか、あっても僅かである。

12/9補足。メディア的な役割は薄まるが、原子力学会誌だけは例外的に詳細な記事を載せていた。1989年8月号「シビアアクシデントに対する各国の対応」1993年9月号「軽水炉のシビアアクシデント研究の現状」がそれである。これらは特徴やスペックまで踏み込んだ記述がある。

避難地域の大きさを考えれば、議論をさぼった代償は悔やみきれないほど高くついた。政治的な手続きを軽んじることの意味を示すとすればこういうものだろう。そしてこの記事により、原発推進ネット右翼は二度と朝日新聞に足を向けて寝ることが出来なくなった。例えKYサンゴ級の不祥事を100回繰り返したとしても、その程度で「おあいこ」に出来るほど甘い物ではあるまい。

【コラム】過酷事故対策に関心の薄かった業界新聞
日本で過酷事故対策が本格的に報じられるようになったのは、NRCがBWRについて勧告を出した1989年夏以降と言える。現在では有料の過去記事データベースを検索すれば大体の事情は分かってしまう。私もこの件に関する数十件の報道-当然、事故前のもの-を調べてみたことがある。

終始、最も強い関心を示していたのは一般紙の『朝日新聞』であった。上記以外にもかなり字数を割いた記事を複数報じている。最も無関心であった一般紙は『産経新聞』。ここまではほぼ予想通りと言えるだろう。『読売新聞』は1992年3月21日夕刊において比較的詳しく取り上げ、反対派を懸念する日本の研究者達にEDFの担当者が叱咤する良質な構成であった。『毎日新聞』『日経新聞』も朝日ほどではないがそれ相応の報道ぶりであった。

意外だったのは業界新聞が消極的だったことだ。『電気新聞』は業界に不都合な発表がなされた時は中味を報じず(NRC勧告への対応が典型)、電力が言い分を用意した時に積極的に報じるという姿勢を採った。広告欄を電力賛歌で埋め尽くしてきた弊害が顕著である。『原子力産業新聞』も日本側に具体的な策が出来る1992年頃までは積極的に報じようとはしなかった。ちなみに検索した際に、業界紙は技術者が求めるような設備仕様に関する記事も引っかからず、朝日とさして差はなかった(これについてはやや自信が無い。スペック関連ではキーワードはかなり多様に想定出来る)。このような疑問に同紙が答えることが出来なかったのは当然なのである。4万人の東電社員に発行してきた月刊社内報『とうでん』も事情は似たようなものであった。

『福島民友』『福島民報』は初期段階で詳細記事を出し東電からもコメントを取っている(それが、東電が安全神話を信仰している決定的な証明ともなった)。公平のために述べておくならば『原子力資料情報室通信』も過酷事故の件では初動が鈍く、数年の間はまともに取り上げなかった。

結局、普通の人と同質の疑問を抱いていた一般紙、原発を本当に身近に感じていた県内紙が最も初動の反応が良いという結果を残している。原発広告の批判も大事だが、この点はマスメディア研究の題材としてもっと深く調査されるべきだろう。特に、県内紙の姿勢は大衆紙に求められる両論併記的なルーチンワークの重要性を如実に示している。

12/9補足。電気新聞など業界紙は本当に売り出ししたい技術については十回以上に渡って連載したり、数面を費やして紹介することも過去見られ、字数制限のある新聞の中でも例外的に専門雑誌記事に匹敵する字数を確保出来る媒体であった。これを鑑みると、踏み込んだ解説が発見できなかったのは実に残念なことだ。

【試論】事故後に開陳される秘話は事故前の史料の価値を上回るか

勿論、私も今後の資料発掘により、社内検討会などにてtatukoma1987氏等が掲げるような発言が裏付けされる可能性は否定しない。私の集めた資料は、ネットの目につきにくかっただけで、所詮一般公開資料の域を出るものではない。OSINTでは「必要な情報の8割は公開資料で得ることが出来る」との格言があり、私もその意義を認める者だが、それでは埋めきれない情報は確かにある。しかし、【2】【6】で述べたように反対運動を言い分とした文書があったとしても、発言者の自己矛盾、論理破綻を裏付けするだけである。物笑いの種以上の価値は無い。アゴラなどに特徴的だが、それを薄々分かっていると思われる推進派や現状維持派は、そうした歴史に興味を持たせないような宣伝手法を取る。

ただ、上記とは別種の問題として、事故後「実はこうだった」と事故前の事情を「証言」した資料の扱いがある。こうした資料は各事故調が聞き取り調査を主たる情報収集手段として用いたことや、マスコミ、ライター、研究者も同様の手法を多用したことで豊富に得られてはいる。何も得られない状態は只の暗黒社会であり問題外だが、証言者は事故を見ている訳だから「事故バイアス」というべきものは避けられないだろう。

ネットの一部では開沼博『フクシマ論』が開沼という人物のフィルターを経た形で浜通りの歴史を描いているとの不信感が表明されている位である。逆に言えば、どのような立場で書かれたものであれ、事故を知る前に書かれた文書は(【6】で述べたような論理的矛盾を除けば)、記録として絶対的な価値がある。

【総評】デマを信じた推進派は現代に復活した「勝ち組
原子力に大きな価値を見出して積極的に継続、或いは推進を主張することは自由である。私も原発はすぐに無くならないと考えている。しかし、その気になれば検証できる論理破綻したデマを拡散する姿勢は、「奇形児誕生」といったデマを振りまく「放射脳」と何ら変わるところは無い。反対派やマスコミの言う通りにしていたら、ベントシステムに更なる改善を施し事故の規模を小さく出来る可能性があった。反対にもし東電がデマ通りの行動を取っていたとしたら、福島第一の原子炉全てが電源を喪失してメルトダウンし、まともに注水もベントも出来ず、放射性物質の放出量も遥かに大きくなっていただろう。それが実証的に導いた最も妥当な推測だ。

また、業界人などtatukoma1987氏より知識がある者もいるのだろうが、このようなデマを推進派が放置していることは実に興味深いことである。tatukoma1987氏に関しては古参軍オタを称し主張内容が「バカは黙ってろ」で知られるJSFを中心とした軍事クラスタのコピーであり、ネット右翼と完全に被る内容であることも面白い。やはり、マニア上がりはこのような風説に弱いのだろうか。

(まだ1回だけ付録が続く)

※12/4深夜、若干補足。
※※12/9、足りない表現を若干修正する。

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