福島第一原発7・8号増設に関し数百件リツイートされている「反対派のせいで建替え出来なかった」というデマ
最近になってこんな書き込みを見た。
@tatukoma1987
そういや皆もう忘れてるかもしれないけどさ、福一原発が原子炉築30年になって建て替えを検討してた時、説明会で大反対したのが地元の反原発派だからね。そこで最新式にしてたらあの事故はあり得なかったからね。そもそも、震災時に新型建設中だった可能性もあったしね。https://twitter.com/tatukoma1987/status/401696542219718657
http://www.peeep.us/350fbfc0
またか、という感じである(この例のように私だけがそう感じているのではない)。問題は、ツイートから数日でRTが486件、お気入りが192件に達していることである。ちなみに@tatukoma1987氏はこんなこともツイートしている。
@tatukoma1987もしもの話をするのはナンセンスだけど、福一原発の建て替えが実現してたら、おそらく津波被害と電源喪失以外はあんまり問題が無かった可能性が高い。それこそ、5・6号機みたいに止まるだけで済んだ可能性は考えられる。ただ、再建計画が分からんことには何とも言えんけどね。https://twitter.com/tatukoma1987/status/401714176181026816
http://www.peeep.us/7d9afd61
彼が何時から上記のようなことを言い出したのか調べてみた。
@tatukoma1987
対案を出さない建替え反対派と上層部の危機意識の欠如から生まれた悲劇。
https://twitter.com/tatukoma1987/status/50175609342660608
http://www.peeep.us/1b36dd3c
事故直後からである。限られた情報しか無い時に勝手に言葉を補っている。
@tatukoma1987福島第一原発事故の責任は全て東電にあると思ってる人がほとんどだろうが、実際は反原発派のせいで建て替えしたくても出来なかったって事が余りに知られなさすぎてもう。反原発派が「建て替えなんて許さん」と言ったから仕方なくそのまま使ったらしい。そのまま使うのも問題だが。
https://twitter.com/tatukoma1987/status/151974907717230592
http://www.peeep.us/65e896bc
上記書き込みでは最後が推測になっている。繰り返し書き込まれる内に話が独り歩きしてしまったようだ。
@tatukoma1987
そもそも福一の場合は30年経過時点で建て替え計画を提示してたんだが・・・
https://twitter.com/tatukoma1987/status/341207776556621824
間違いである。実際には1991年に双葉町が増設誘致決議をしたことに端を発する。東電が福島第一と具体的な場所を明示したのは1994年のことだ。増設と建替えをごっちゃにしている点は下記詳述するが、30年経過時点(2001年)という彼の脳内ソースも不思議である。どうやって生み出されたのだろうか。
この手の主張に関しては震災の直後から見られたが、反論としては既に下記のようなものがある。
原発事故って古い原発を建て替えさせるのを妨害した反対派の責任ですよね?
「福島原発事故は反対派が新規建設の邪魔をしたから論」について
私は震災以前の史料を元に色々と当時の事情を調べたが、その経験から言うと大体において上記の内容(知恵袋はベストアンサーのもの)で間違いは無いと判断している。しかし、反論側も史料と突き合わせてなされたかというと必ずしもそうではないので、この記事では事実に即した形で上記の誤りを論証してみたい思う。
【1】リプレースは東電自身が否定している。
上記で述べたように、90年代には増設の意向は示されていた。しかし、原子力業界や東電自らが招いた種々の不祥事を原因として県知事の同意を得ることが出来ず(地元協定で増設は知事の同意が必要)東電の供給計画(発電所の新規建設計画)では運転開始時期が毎年ずれていく結果となった。そのような中、2008年末中部電力が浜岡原発において1、2号機を廃止し、6号機をリプレースで新設すると発表した。正に建替えであると言える。この時、東電社長の清水正孝は次のように答えた。
-中部電力は浜岡原発を建て替える方針だ。
「福島第一原発1号機が東電で最も古いが、安全性と耐震性を徹底的に評価して必要な対策を打つ。廃炉の考えはない」
「東京電力社長清水正孝氏-景気悪化、電力需要への影響は?(そこが知りたい)」『日本経済新聞』2009年1月11日朝刊
これだけで反証としては十分である。つまりこういうことだ。
〇東電はリプレースするのかを問われ、否定した
〇電力会社がリプレースを計画することは政治的にも可能だった
なお、浜岡は地質問題で福島より不利であり、政治的なハードルも高い。菅直人が政治マターとして停止要請する以前から訴訟の対象であった。それに比べれば、震災前の福島など、ちょろいものである。元知事の佐藤栄佐久氏は増設に難色を示していたが、2006年に失脚していたことを挙げても良い。ついでに2005年6月から福島第一所長を勤めた大出厚氏の回顧からも引用しておく。
福島第一原子力発電所は高経年化プラントが多いだけに地元の方からは廃炉についての話題がよく持ち出されます。また廃炉の後はどうなるのか、と。私は基本的に「廃炉はまだ先の話です。技術的に60年は大丈夫ですから1号機でもあと20年以上は使えます。廃炉にするのは技術要因よりも経済性その他の要因の方が大きいでしょうね。」と答えております。一番古いプラントである1号機は既に炉内構造物(シュラウド、ジェットポンプ等)は交換され、タービン、給水加熱器、原子炉再循環配管も交換されておりますから、物理的寿命はまだまだあります。更に交換工事を続けていけば本当に交換出来ないものについての寿命がプラントの物理的寿命だろうと考えております。廃炉後についても燃料は全て取り出されてしまう訳ですし、それ以外で一番放射線量が高くなっている原子炉内構造物まで交換しているのですから、「きれいに撤去して更地にすることが出来ます」と説明しております。
「福島第一原子力発電所の思い出」『保全学』7巻1号 2008年
上記の根拠となる更に具体的な技術レポートもあるのだが、ともかく、こういう優等生的な文章こそ、ネットに跋扈する業界人に叩きつけるべきものである。「きれいに撤去」、是非貫徹して貰いたいものだ。業界人はこの手の記録について完全黙秘の傾向が強い。正に「プライドも高いので反論したいがバカなので黙る以外に思いつかない」のであろう。PAの力を借りなければ、決してネットへの書き込みなど出来はしない。
従って、東電が福島第一で建て替え(リプレース)計画を検討していたというのは、完全なデマである。公表したのは1994年の7・8号機の増設計画であり、それが毎年繰り延べられただけである。勿論増設反対論はあったが、それで1-6号機に影響するものではない。共産党に至っては「増設のみ阻止」というニュアンスさえ示していた。県議を勤めた伊東達也氏の著書『原発問題に迫る』(2002年)を例にすると下記のようになる(赤枠は当方による)。
技術的に見ても、東電は1980年代に出力変動試験を済ませており、夜間のベースロードが7・8号機増設で増加したとしても対処可能であった(原子力学会誌1986年10月号に報告記事がある)。なお、東電はプルサーマル受入問題がこじれた2001年に広野火力5・6号機の建設計画も一旦凍結した。その影響で2011年に至っても広野火力には6号機が無かった。早期に着工していたら老朽火力の代替となっていただろうが、即席原発推進派はこの点も言及出来ない。
そもそも、説明会とやらの話をきちんと聞いていればあれが建て替え計画ではなく只の増設だったことなどすぐに分かる話である。彼は居眠りでもしていたのではないだろうか。
発端が地元町からの誘致であったため、当時の地元マスメディアおよび電力業界紙はしばしばこの件を取り上げた(例:『エネルギーフォーラム』2009年4月号)。公式発表を含め、それらの中にリプレースの文字は一切無い。原発比率を高めたい東電としては、償却の終わった資産である旧型原子炉群は稼ぎ頭であったため、経営面では止める理由に乏しかった。日経産業新聞(2000年1月4日)では7・8号機の設計を柏崎刈羽の基本設計を採用と報じられたが、当時常務だった榎本聡明にもコメントを取り
「運転開始から三十年が寿命とされる原発の運転期間を炉心部の更新により六十年に変更することも検討している」
と述べている。通産省が高経年化と言っていた、老朽化した原発の長期使用策のことを指している。
大体が、30年で設計寿命に達するとして、何もせず手をこまねいて政治マターである建替えに依存するというのは愚策だろう。実際に東電は、長持ちさせるための手立ても早期に打っている。『電気現場技術』1989年1月号の「経年対策、保守技術の高度化による安全性、信頼性の向上」と題する記事が好例である。これによると、東電は1989年時点で、1990年代の重点課題として「プラントの長寿命化」を挙げ、必要な技術開発に着手する必要性を説いていた。良く指摘されるようにシュラウドの交換工事などは建設当初考慮しておらず、後になって考案されたものである。ま、知ってたら、あんなデマを広めたりはしないだろうが。
【2】東電は不十分ではあるが安全対策を追加していた。
「建替えに反対したから事故が発生した」の他「安全対策に反対したから工事が出来なかった」と言った主張も良くある非難のパターンである。しかし、東電が福島第一にて安全対策を随時追加してきた以上、このような主張は妄想の域を出るものではない。勿論その安全対策は今回の事故に照らして十分な物では無かったから批判されているが、達成出来た水準が実災害に対して低ければ当たり前である。推進派の一部に「批判するな」と言う類の理屈を見るが、無理筋の要求でしかない。
具体的に確認することは簡単である。例えば設置許可申請は建設時だけ提出すれば良い物ではなく、大きな設備の追加・変更がある場合は必ず提出している。それを見ると、福島原発の1号機の場合、1966年7月の設置許可申請に続いて1968年11月に変更許可申請が提出、認可されている。今回の事故で有効に動作はしなかったが、米国での事故研究進展により、高圧注水系(HPCI)が追加された。同時にディーゼル発電機も1号B系を追加し、2重系化された。
1971年の運転開始後も、運転上の事故につながるような問題が起こる度に改造を繰り返し、日常的なトラブルの種を潰そうと一定の努力が払われた。電力会社の努力を称賛する流れではそういった話がツイートされることも多々ある一方、「ネットde真実」を信条にしている無能な推進派が反対派批判を繰り広げる際には、何故かそういった事実が抜け落ちており、実に滑稽なものである。
※設置変更許可申請は電力会社によってはウェブサイトに最新版をアップしている(例:伊方発電所)。ただし、過去の変更の積み重ねであることが分かりにくいのは、過去の版をアップしていないことが挙げられるだろう。過去の版はサイトの所在する県立レベルの図書館で読むことが出来る。また、申請書冒頭にて変更箇所を明示し、記載箇所に何年追加と明示していないことも敬遠される理由と思われる。内容の工学的な理解も勿論だが、書式に慣れないと申請書を読みこなすのは難しい。まぁ、書式について教えないというのも、「知らしむべからず」的な思考からは当然なのかもしれないが、各社公式資料にある「発電所の概略」等の欄に申請年月が羅列されてるのに、漫然と読んで見逃しているのだろう。反対派もそうだが、論戦に新規参入したネット右翼にも良く見かける残念な例である。
中でも、止めの一撃とも言える「事故対策の例」は1993年に変更許可申請された、運用補助共用建屋の建設とシビアアクシデント対策工事だろう。この建屋は1998年頃完成した使用済み核燃料保管のプールだが、空冷式のディーゼル発電機を内蔵し、電源喪失対策の飛躍的強化を図る目的もあった。翌年東電はシビアアクシデント対策をまとめ、福島県が原子力施設のチェックを名目に発行していた『アトムふくしま』でも報じられた。ネットが普及していない時代だが、地元は知らされていた。内容はフィルター無しのベント機構や消化系配管からの注水が可能とする工事で、2002年に既設全原発で完了した。不十分とは言え、効果も挙げている。5、6号機を冷温停止に導いたディーゼル発電機はこの時増設されたものであるし、ベントも消化系配管も事故初期に使用してある程度の結果は出した。「反対派が安全対策に反対したせいで着手が出来なかった」は嘘であり、デマに過ぎない。もし私が彼の立場なら宣伝の種にすらしただろうが、デマを放置した末にやっても今更である。「事故は防げなかっただろうが!」という世間の反感を買って終わるだけだろう。
【3】反対派の実力行使などたかが知れていた
そもそも、本当に安全対策に反対していたとして、彼等が運転を開始した原発に対して一体何を出来るのか良く考えてみるべきだ。大抵の場合は精々プラカードを持って列をなし、守衛か付帯の展示施設の館長に抗議文書を渡し解散。それでもネットの推進派は「それ位言わせてあげたら。ガス抜きになるし良いことも言ってるのに」と思う余裕は無いらしい。特に事故後、その種の発言は溢れているが、典型例として「バカは黙ってろ」で知られる軍事ブロガーJSFによる下記の例がある。
@obiekt_JP@daitojimari
それは理由にならないでしょう。主催者が見当たらないならその場に居た適当なのを見繕って捕まえて、
残りは強制解散させればいいだけの事ですし。
https://twitter.com/obiekt_JP/status/100159155599458304
http://www.peeep.us/b4db368f
これは「【法を軽侮する精神】 」というテンプレを付与され、一部で物笑いの種となった。その後デモ隊は野田首相と会見に至り、原発は自民党政権になっても1年以上まともに動いてない。ネットの推進派に合意形成能力も政治的センスも無いことがよく分かる一文だ。
勿論事故前において、大規模デモを長期に行うことなど浜通りである筈もない。反対派は敷地内で工事を邪魔する実力は無かった。東電は、必要な工事があれば所定の書類を提出して認可を取りさえすれば、自社で予算を支出し、フェンスの内側の自分の敷地で重機と人夫を使って好きな工事を好きな時に実施できた。勿論認可する官庁は原発推進でおおざっぱな区分で言えば味方であった。福島第一は日本の電力会社初の商用BWRだったので工事記録記事が多数残されているが、反対派などより天候、労組、景気の方が余程工期に影響している。
フランスではスーパーフェニックスの工事現場に対戦車ロケットを打ち込むという事案もあり、スイスでは原発建設予定地を数千名の反対派が占拠し、長期間居座るという成田のような出来事も起きていたと記憶している(スイスの件についてはソースを失念。確か『海外電力』にあった話)。一方1970年代、普通の公共事業でも反対運動が起きれば都市部では数千名のデモはままあった。東北新幹線の大宮以南では埼京線という飴を差し出したにも関わらず高架反対運動が起き、国鉄本社を取り巻くこともあったそうである。それでも工事が完成したのを見れば、デモによる阻止効果が限定的なのは自明である。
では浜通りはどうなのか。当時朝日新聞いわき支局が長期取材した『原発の現場』によれば、当地の反対運動として良く挙げられる双葉原発反対同盟は30名程度のメンバーしか居なかったとされている。首都圏なら高層マンションやゴミ焼却炉の反対運動ですら1桁か2桁多くの人数を集めることが出来る。また、東電不動産管理は原発敷地の管理(巡視)も手掛けており、社史を何回か発行しているが、浜通りで巡視中に反対運動の襲撃を受けたとは一言も書かれていない。同社二十五年史に、昭和50年山火事が敷地内に迫ったので阻止した旨が書かれている位である(12/11追記。山火事は柏崎刈羽地点の方だった)。
都会からの増援部隊などは勿論あったが所詮一過性のものである。日本科学者会議が1973年に集会を開き、数千名を集めたが、彼等自身が出した研究は別として、大した記録には残らなかった。チェルノブイリ事故の前と言う事情はあるが、1980年代初頭に行われた出力変動試験でも、伊方のような大規模デモには全く見舞われていない。東電が福島第一で経験した反対運動なるものは、左翼が元気だった70年代であっても不破哲三とサービスホールで口論になるとか、その程度のものが大半で、神奈川支店の渉外担当と位置付けは変わるものでは無かったのだ(この話は『東電自分史 第1集』で神部次郎氏が書いている)。石井孝明氏は業界人から「自分の仕事を罵られる悔しさが分かるか」と不満を聞いたと言う。私も社会人としてその心情は理解できなくもないが、ただの口論に留まる限り物理的な影響は無い。
※なお、田舎より都会の方が大規模な反対運動を組織し易いということも、都市に原発が立地出来ない政治的要因である。まぁ立地審査規準に「人口希薄」「炉心から一定距離は無人」の旨明記されているのを無視して地質の話だけを持ち出すのが詐欺師と化した一部推進派の使う手で簡便に見分けることが出来るが、一方で反対運動の定量化の話は余り議論にならない。どこの土地でも一定の比率で反対に回る人が居ると仮定(例えば10%)して、1000万人の都市なら100万人となるが、1万人の田舎町なら1000人にしかならないことを考えれば、法規類に明示されなくても政治的理由の重みは容易に理解出来る。飴を出すべき人数の比や雇用に占める割合の話にも一脈通じるものである。
【4】旧式炉でも津波対策は出来たし、新型炉でも津波想定が低ければ問題
この点は事故後の検証にて良く指摘されることである。例えば政府事故調委員により2012年末に出版された『福島原発で何が起こったか』では129頁から135頁まで可能だった対策を種々列挙している。「建屋の水密化」や「非常電源の高所設置」などローコストで海外の実例も交えて説明されている。こうした対策に関しては炉物理に関して知識が無く、原子炉を「熱と放射線の出るブラックボックス」として眺めても理解可能であり、「防潮堤嵩上げ」なども含め、炉型の新旧に左右される性質のものではない。逆に言えば、5.7mの津波しか来ない前提で7・8号機を建設した場合、今回の事故の規模を大きくするだけの結果を招いただろう。東電が7・8号機のモデルに考えていたのは柏崎6・7号機のようだが、これらは重心を低くとるため半地下式になっており、福島事故後に他原発同様福島第一規模の津波に耐えるための工事が必要と認められ、実施されている。知らないなら単なる勉強不足に過ぎないが、「最新式にしてたらあの事故はあり得なかった」という主張がなされる際には都合良く無視されている。
増して「福一原発の建て替えが実現してたら、おそらく津波被害と電源喪失以外はあんまり問題が無かった可能性が高い。それこそ、5・6号機みたいに止まるだけで済んだ可能性は考えられる。」は意味不明。電源喪失は津波対策の不備で起きたことであり、津波想定が不適当なら同じリスクを抱えた末「最新式」であるABWRの商品価値も地の底まで下落、海外への販売は早期に破綻しただろう。安普請の増設に手をつけなかったことが「旧式だったから」という雰囲気を作り、原発商戦にはプラスに働いている面はあると思う。推進派はこの点に感謝するべきだが、根本は値切りを繰り返す体質問題にある。
【コラム】7・8号機が本当に建替だったら双葉、大熊両町の利害関係はシビアになる
7・8号機が建設予定だったのは5、6号機の北側、双葉町の敷地内である。そもそも5、6号機自体、当初の東電計画に無かったものを、1960年代末に大熊に続けとばかりに誘致し、増設されたものだ。そのパターンから行けば、7・8号機の増設誘致は前例踏襲だったとも言える。
さて、1-4号機の建設に合わせ、原発南側には工事用のメインゲートが設けられた。7・8号機増設の暁には同種のゲートが北側にも設けられる筈で、双葉町は4車線のアクセス道路に30億円の金を投じたと言われる。しかし、一向に増設が進まないため、無駄な公共事業の見本と化し、道は雑草で覆われた。これがデマの言うようにリプレースだった場合、メインゲートは北側が主になったと考えられる。長年メインゲートにより人の流れを引き寄せてきた大熊町には1号機他の廃炉の上に動線が変わるのは死活問題である。浜岡の例からすると、出力でABWR2機分を廃炉とすれば、大体1-4号機の合計が相当する。その場合7・8号機を誘致したい双葉町にとって、潜在的なライバルは大熊町となったかも知れない。平成の大合併により各原発の立地町の中にも合併する所が相次いだが、福島県は大合併を推進しなかったため、双葉郡の自治体は従来のまま残された。もし双葉町と大熊町が合併していたら、誘致活動がどのように推移したかを考えるのは興味深い。
(第2回に続く)
※12/3:数ヶ所出典を明記。文章修正。
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