【映画評】『風立ちぬ』
【映画】宮崎駿(監督)『風立ちぬ』スタジオジブリ 2013年【ネタバレあり】
先週、話題の『風立ちぬ』を見に行った。
筋は、良く出来ていると思う。一部には傑作だと言う人もいるが、そういう人が出てくるのはある意味で当然だろう。
劇中の堀越は飛行機一途の設計家に憧れ、現実との矛盾に悩みつつも、その夢を実現する様が描かれる。
【良かった点】
上手いなと感じたのが、堀越の描かれ方である。ネットを見ていると、一部に酷薄な性格であるかのような評もあるが、作中の堀越は疑いようも無く平凡な善人である。『中国嫁』の作者が以前シータの善性について考察していたが、宮崎駿はキャラクターの個性を調整しながら、基本的には嫌味の無い善人を生み出すのに手馴れている。一つの才能だと思うね。出来ない人にはどうやっても出来ない。恐らく、ああいう人物を創造するベースには人間観察力があり、今日のジブリを作り上げた秘密の一つでもあるだろう。
今回の堀越もその応用。いじめを行うガキ大将を投げ飛ばす、満員の汽車で席をゆずる、脱線した汽車から怪我人を担いで送ってやる、等々。女性に対して封建的ではなく、妹が医者へ進む道をサポートする辺りも同様。それでいて無駄な権力欲などは持ち合わせていない。ただ、社会に出てからは素朴な善意が仇となる場面が増え始める。シベリアのシーンはその典型、その後で作品のテーマである飛行機について本庄の口を通して関連付け、且つ、観る者に昭和初期の時代背景を理解させる当たりは流石だなと思う。菜穂子との出会い以降も、平凡な善人という描写は維持されるため、観る者に不快感を与えない。そんな彼が我を通すのが、観た人は知っての通り結婚を決める場面である。
実際の堀越氏には無かった軽井沢での逢瀬からの一連のロマンスについては色々議論もあるが、作品のテーマを壊す程の影響はない。人生の伴侶の命と飛行機のどちらを取るかという一つの山として、きちんと機能している。夢を追う設計者の罪深さを(設計者/監督側の視点から)ロマンティック描くには「死」と言うイベントを利用するのが手堅いので、丁度同時代に生きた堀辰雄から拝借したのだろう。このような改変であれば故人に対する諒解も取り易いだろう(設計者としての執着心以外は徹底的に平凡な善人として描かれているのは、そういう配慮もあるだろう)。
また、結婚を決める前に吐血の話が置かれていることから、山に戻っても余命はそれ程伸びなかったであろうとも解釈できる。そうであるならば、元気な間一緒に生活するのは黒川が言うとおりエゴイズムである反面、ある意味合理的な判断とも言える。
カプローニの使い方もうまいと思った。この映画は設計者の半生記として初めて意味を成すように作られているため、大学を出るまでも描かれるのだが、その間、堀越は実際の飛行機を設計しないし、触れるシーンも無い。従って、普通の伝記のように作ってしまうと「動」が売り物の宮崎駿(引いてはジブリアニメという表現方法そのもの)が死んでしまう。そこで、夢を導入しその中でやりたい放題飛行機を飛ばす。しかも、カプローニを登場させることで、冒頭で映画のテーマである設計者の価値観、生き方を提示し、観る者にも質問する形をとっている。とても良く出来ている。
意外ではなかったが「良い」と感じたのが、宮崎自身も多感な幼少期に体験した太平洋戦争絡みの描写を全く切ったことである。これはかつての小林源文同様、自国の戦災について描くことに忌避感があったのだろう。また、零戦は栄光と転落の二面性があるので、やり始めると尺も足りなくなる。代わりと言っては何だが、関東大震災の場面で堀越は空襲をイメージし、復興中の東京を見て「道が少し広くなった」と述べている。後藤新平の始めた復興計画に携わったスタッフはその後東京の防空都市化の構想をしたためているので、それを念頭に置いた描写なのかも知れない。勿論、映画の中では、設計者としてのセンスを髣髴させるものと解することが出来る。また、零戦についてある程度知識のある者からすれば、あのラスト程素晴らしいものはない。描かなかったのは正解と言える。
【問題点】
ストーリーの中で、唯一座りが悪いと感じたのが、関東大震災のシーンである。この映画は堀越二郎の飛行機への情熱と彼が置かれた現実との対比が繰り返し描かれているが、関東大震災だけは、その関連が希薄である。モデル達にとって同時代の出来事だとしても、あれほどの尺を使って描くべきことであったとは思えない。あるのは、菜穂子との出会いだが、彼の人間性や命を賭けるような要素は無いし、そもそも不要である。極端な話、下宿している町の一角が火事になった程度のエピソードでも十分である。震災では大学の建物にも延焼しているが、ただそれだけ。これは恐らく、2013年の視聴者に対し、東日本大震災をモチーフにしたという宣伝用の記号なのだろう。
本来なら震災のシーンは尺を短くするか、どうしても挿入するのであれば、災害のために研究活動が阻害されるが、その困難を乗り越えるような流れにするべきだったと思う。例えば、丸焼けになった市街を前に、航空工学の指導教授が登場、「戦争が終わって需要が減ったところに、東京がこうでは当分飛行機に予算はつかない。君、それでも設計者を目指す気かね。」と一言問いかけるだけでも良いだろう。
【演出】
総じて下記の点は奇をてらうべきでは無かったと思う。
庵野秀明の演技は言われるほどには悪くない。庵野自身が軍オタのため、第二次大戦期の航空機に造詣が深いであろうことは容易に推察できるし、人生体験として設計主務に相当する仕事をアニメ業界でこなしている。従って創造者としての理解も持ち合わせているだろう。既婚者でもあるのでラブシーンも半分位はまずまずの演技が出来る。しかし、それらは、素人演技という欠点を完全にカバー出来るものではない。あの平板な物言いで、明らかに浮いてしまって興を殺ぐ場面は私にもある。カストルプも素人を起用しているそうだが、彼は日本語がたどたどしくても不自然ではないし、脇役なので台詞の数もそれ相応である。「ああいうキャラだと思えば良い」という弁護もあるが、それならオーソドクスに、役の性格を指示したうえで、オーディションを行えばよいだけのことだ。声優でなければならない、とは言わないが。
声に対する無頓着はここしばらくの宮崎映画の特徴だが、今回はそれに加えて効果音も声で合成した物が混じっている。やはり違和感がある。これまた擁護意見として「リアリティを追求しても、マニア層からケチがつく」という書き込みを何処かで見た。では聞きたい。例えば『耳をすませば』で月島雫が乗る電車がモーターマンだったらどう思いますかね。明らかに今日ほどの名作とは認められなかったと思うよ。あのシーンでは確か吊り掛け駆動が当てられてその点から一部のマニアが苦言を呈していたようだが、少なくとも「電車のシーン」を壊す程の影響はない。今回は口で再現したことでマニア以外からもケチがついてしまっている。登場する航空機のエンジン音など物によっては入手が至難の業であること位、マニアなら理解してるのだから、多くの映画で行われているように、似た航空機の音を持って来れば良かっただけである。例え米国辺りで新録採取となっても、ジブリなら出来ない投資では無いだろう。
【おわりに】
本作が反戦映画かどうかを巡って議論があるようだ。ヤフーのコメント欄にあるような反日映画という指摘が論外なのは自明だが、私は反戦映画にもなっていないと思う。ラストシーンは既述のように設計者としての道を追い求めた結果残酷な結末を迎える。しかし、ただそれだけである。まぁ宮崎の味方である左の旦那方の中で「特に表層的な連中」には受けるように作られているのは確かである。
また、堀越は一国の指導者どころか、閣僚ですら無い。彼が会社を辞めて山に行ったところで、歴史の歯車は何ら変わらない。残酷さについて少し噛み砕くと、カストルプや本庄が言うように国力差から戦前に結末は概略見えていたものの、その中で設計者として最善を尽くしつつ、自分の夢を追っただけのことである。史実の堀越の瑕疵(とされるもの)を挙げて「たられば」を述べたところでそれは変わらない。仮に金星エンジンが大量生産されようが、初期から防弾板が普及しようが、烈風が昭和18年に実戦配備されようが歴史の大勢は微塵も動かないだろう。宮崎は軍事オタクを半世紀以上も続けており、そうしたことは全て知った上で映画を作っている筈だ。従って、この映画はクリエイターが内在するエゴイズムに自分自身としてどのような回答を与えるかという、どこまでも普遍的で個人的な問題を問いかけているのだろう。




