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2013年8月 6日 (火)

東電事故調への疑問(第3回)

【2-2】一般配置に見る実機との相違点

さて、『土木建設』の原案で興味深いのは第3図「GENERAL ARRAGEMENT」と題された一般配置図である。ここからは、原案に加え、1966年7月の設置許可申請(添付書類)、1968年11月の設置変更許可申請も交えて見て行こう。

最初に、時系列だけ押さえておくと、下記のようになる。

1966年5月20日:原案を公表
1966年7月:(1号機)設置許可申請。原案に近い「平面図」と「しゃへい設計上の区域区分  」がある。
1966年11月:(1号機)設置許可申請認可
1967年9月:2号機設置許可申請(平面図
1968年3月:2号機設置許可申請認可
1968年11月:1号機設置変更許可申請。1号機関連建屋、共用D/Gのレイアウト変更(平面図)。
1971年3月:1号機運転開始

まず、下に原案を示す。

Dobokukensetsu196608p34_fig3_propos

出典:「-講演-当面する原子力開発」『土木建設』1966年8月号 土木工業協会 34頁

これも第1図同様全て英語表記だが、整地面を示す線は10mに引かれ、原子炉建屋は1Fの床面がほぼこの高さとなっている。一方で、廃棄物処理建屋やコントロール建屋のように床面が7.1mの部分もある。どのSECTIONも具体的にどこでの断面を示しているかは明確ではない。この記事の他の掲載図にも記載はない。

ただ、SECTION A-AとB-Bは完成した1号機の断面と良く似ている切り方をしているので、恐らく切断面はそれらと同じ個所だろう(C-Cは後述)。

第3図で実際竣工した1号機と相違する点は下記である。

  1. 原子炉建屋の底面が-3.3m。1966年7月の設置許可申請時には岩着を考慮して-4.0mとなった(ネット上で確認可能な資料として原子力委員会月報を挙げておく。)実際の1号機底面もO.P.-4.0mである。T.P.との換算差かとも考えたが、O.P.はT.P.の約0.7m下方にあり、仮にT.P.-3.3mだった場合、O.P.表記では-2.6mとなるので基礎の高さが相違していると考えた方が自然。なお、原子炉建屋高さは本案が54.0mに対して実機54.6~54.9mであり若干延長されている。
  2. DIESEL GENERATORが1F(F.L.10.2m)に据付されている。1966年7月の設置許可申請時はこの配置を一応継承しているが、1968年11月の設置変更許可申請でB1F、T/B南側の現在地に移動。同時にB系が追加され2台となる。実機はB1FでA系O.P.4.2m、B系O.P.2m。
  3. CONTROL ROOMがF.L.12.1mのM2Fのような高さにある。1966年7月の設置許可申請時は2F。実機も同様。

1.の点については各階の床面高さも揃ってずれているのではなく個別にずれたりそのまま決定に至っている部分がある。圧力容器のように各フロアをぶち抜かないと高さを確保出来ない機器もあるが、非常用復水器のように据付したフロアに収めている機器も多い。このため、(1)補機の容量見直しによって天井高さが見直しされた、(2)耐震設計の強化により高剛性とするため、或いは補強材を入れるスペースを見込んで見直した、(3)下側に防振材の余裕を増した、といった経緯が考えられる。

2.の点は実際の1号機と最も異なる部分である。原案では6900V SWGR、すなわち高圧配電盤の隣に据付されている。これに関連して極めて興味深いのは、1966年7月の設置許可申請である。同申請の第2.1で始まる一連の図面において1F、B1Fの平面図があるが、T/Bの給水加熱器付近で建屋を南北方向に断面を取ると、所内ボイラ、D/G、SWGR等が原案のSECTION C-Cに見事に符合する。第2.1-3のB1Fの平面図にはC-Cの指示線があるので、間違いないだろう。

一方で、第92-2図 「しゃへい設計上の区域区分」を見ると、T/B北側を中心に1FとB1Fの機器配置に大きな変化が生じている。D/Gが1Fなのはそのままだが、壁面が追加され周囲から隔離される形となり、D/Gの北側に隣接していた所内ボイラがD/Gの東側に移動、更に機械工作室の位置も変更されているのである。後年の申請添付図、雑誌掲載図等から推察すると、1966年7月の設置許可申請時点では、第92-2図に従ったものと考えられる。平成時代なら後日補正の申請で図の差し替えを行うところだが、当時は閲覧機会も少なく、この平面図不一致のミスに気付かなかった可能性が高い。恐らく、第2.1で始まる一連の図面は原案の面影を強く残しているのだ(ただし制御室の高さはM2Fから完全な2Fに変わっている)。

2009年から2010年にかけて榎本聡明が『エネルギーフォーラム』に連載した「私の原子力史」によるとこの申請・審査時の雰囲気は勉強会的なものであり、桜井淳が指摘するように、当時としても最短の4ヶ月で認可に至っている。上記の不整合はそのために生じた可能性が高く、それだけを指摘するなら確かにリスク要素を包含するものだ。しかし、観察という視点から見直すと、40年後の我々が設計の変更履歴を知る手がかりも残していると言える。

なお、上述のように1968年11月の設置変更許可申請により、T/BとS/Bには第92-2図の図面から更に大規模な変更が加えられた。実際の1号機ではA系はT/B南側のサービス建屋B1F、B系はタービン建屋東側の海に面した場所に専用の建屋を設けて設置された。

また、ここで注意すべきはB系が2号機の冷却容量を考慮して決定されたことである。このような隣接機との関係を考えなければならないという条件は、モデルとされたサンタ・マリア・デ・ガローニャが単独のプラントであったのとは異なる。そこでB系の詳細が知りたいところである。

設置許可申請、設置変更許可申請ではD/Gはどれも主要スペックが記載されている。しかしメーカー形式名、背景となる設計思想については記載が無い。1968年11月の設置変更許可申請では、A系は位置の他、1号機の増出力(もっとも、当初からGEの提示に従った織り込み済みものではあった)に伴い、工学的安全施設の容量も増となり、1500kWから1100kW x2(発電機を挟み櫛形配置)に変更されている。しかし、A系は電気品の下請をした東芝や日立の社史、技報類には記載が無い。恐らく、GE担当機器だったのだろう。

※14/2/13追記:見落としていたが、『電力新報』1979年12月号P120によれば1号機専用D/G(1号A系)は川崎重工製とのことだ。

一方、B系は2号機の契約に影響を受けてか、かなりの情報が残っている。1号機B系の形式は新潟鉄工製の大容量中速ディーゼル機関、18V40X型という(恐らく東芝経由での納入)。なお、18V40Xはその後も6号機まで継続的に採用されている。

18V40Xに関わる部分に絞り、背景をおさらいする。1号機の選定を行った1966年当時、東電は2-4号機を60万kWと想定して設置計画を考えていた。なお、1号機は初物だからという理由もあり東電は当初35万kW程度の条件をGE,WH両社に提示していた。当時GEで選定可能なのは1965年型(BWR-3)以前の型である。米本国の1965年型を全て確認した訳ではないが、上記60万kWとは恐らくラインナップした容量の上限だったのだろう。

しかし、1967年1月、GEは1967年型を新たにラインナップ、これに伴い通産省の後押しもあり当時全国で計画中だった原発の容量は軒並み上方に修正され、2号機も早々それに倣い、初夏頃までには78万kWで内定をみた。なお、東電が2号機の増設申請をしたのは1967年9月である。

※13/8/13追記。2号機増設申請ではD/G2台設置、1台を1号機と共用する旨明記されたが、共用するD/Gは1号機関連建屋に描かれている訳では無い。スペックも5000kWと18V40Xよりやや小ぶり、回転数は300,600,750rpmと3択の状態になっている。このことから1967年9月の段階でも仕様は不確定、3択と間口を広げていることから入札待ちであった可能性も考えられる。

1967年型は炉心スプレイ系の電動機出力が大幅にアップし、残留熱除去系の出力も大だった。18V40Xの出力仕様は1967年型が出現するまで確定できなかったと考えるのが妥当である(1968年11月の設置変更許可申請では目玉としてHCPIが追加されているが、これは電動ではない)。

上記の結果、A系の電気出力は前世代の敦賀1号機と余り変わりが無いのに対し、B系では2号機に倣ったため4倍になっている。B系が設置の制約が無い独立の建屋に収容されたのは、機関が巨大化し、原設計で準備されたスペースへの収容が不可能となったためだろう。一方、申請本文では設置位置の変更、B系追加による2重系化について経緯や根拠を詳述した記述を見つけることは出来なかった。申請書と言う文書の性格と言うよりは、申請側あるいは審査側にとってそれほど関心のある話では無かったのだろう。

電事連は2011年8月、「 国内BWRプラントの非常用電源設備の配置について」という文書を公開、その中で次のように説明している。

東京電力のプラントの例では、BWRプラント導入初期の配置設計は、米国プラント配置を踏襲した設計がなされていた。ただし、地震に対する設計が米国と比較して厳しい条件となるため、多くは工学的安全施設の電源となる非常用DG等の配置においても岩着した基礎上に設置する方針とした。

また、電事連によれば、米本国の設計思想は次のようになっていた。

非常用DGや電気品はタービン建屋等に配置されているが、非常用DGは地下階に配置されている事例はなく、電気品の一部が地下階に配置されている事例があった。これは、米国では原子炉建屋を除き、設計条件として建屋基礎を深くして地下階を設ける構造とする必要がないためと考えられる。当時の米国プラントは、原子炉建屋は二次格納施設のみの単独建屋となっている。また、非常用DG、中央制御室等は個別の建屋、もしくはタービン建屋と一体とする配置としており、原子炉建屋以外に非常用DG、電気品を設置するのは、当時としては標準的な配置であった。また、非常用DGはタービン建屋の一部に配置されている設計事例もある。

東電事故調は2011年11月の中間報告で8月の電事連資料の記載を踏襲した。これまで見てきた設計変更の経緯と照らすと嘘はついていない。しかし、電事連、東電共に、原案で米国の設計思想がそのまま日本に提示されていたこと、「導入初期の配置設計」について具体的なサイト/ユニット名、年月を指定しないなど、言葉を濁し抽象化した記述である。それが一度認可を受けていることは言及すらしていない。彼等の報告書だけを読み比べても、読み手は閉じた思考から抜け出すのは困難である。本来は、私がやったような他の既存公開資料との比較だけではなく、更に踏み込んだ経緯説明が必要の筈である。

恐らく、1966年5月時点の案は米国の思想を引きずったままであるから、GEは日本でも自国と同レベルで十分と考えて提示した(余談だがこの点も今後原発輸出を再考する上で歴史に学べるヒントが隠れていると考えるべきだろう)。

1966年7月の設置許可申請では既に建築基準法に定める地震力の3倍等といった耐震設計方針が示されている。重要なのは、当時のD/Gは米国ではなく大熊の地で、1Fに設置しても良いと公的に認可を受けていたということである。ただし、位置を変更した理由は設置変更許可申請自体には記載されてないようだ。電事連は耐震性を理由に挙げているが、設置許可と変更許可で耐震条件が変化した訳ではなく、同じ設計条件で何故変更したのかという説明としては十分ではないだろう。事故調はこの件について記述を濁すべきではなく、時系列や決定者、会議等を明確にするべきである。そういうことを調査するために存在しているのではなかったか。

D/G(M/Cもだが)については後日また開発経緯を検討してみたい。

3.SECTION C-Cについては上述の通りだが、A-A、B-Bと異なり同じ個所で断面を切り出した図面は各申請にも、事故関連の資料にも殆ど無い(13/8/11追記。1966年7月の設置許可申請 添付書類 第2.1-3図にはあった)。制御室の平面レイアウトその他は公開されているので、核防護ではなく、事故後も東電には注意力が不足していると考える。

なお、下記に政府事故調中間報告資料Ⅱを元にしたSECTION C-CおよびD/G配置変更経緯の推定図を載せる。資料Ⅱは59頁でA-A、B-Bについても示しており、B1F以外の平面図も掲載されている(13/8/11追記。SECTION C-Cは推定通りの位置にあった。)。

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また、興味深いのは、原案ではコントロール建屋2FがO.P.12mとなっておりそこに制御室があることだ。設置許可申請の添付図では後続機と異なり制御室の高さは記載が無い。『原子力学会誌』1969年5月号P53の平面図によれば、実機の制御室はO.P.18.3mにある(ちなみに5、6号機では申請に記載があり16.6m)。一方で第一原発を襲った津波は最大15mとされるが、制御室内への浸水は報告されていない。

なお、制御室はSBO後も随時計器類にバッテリー電源を挿入して読み取ることが出来た。後日後付した非常電源から室内照明を回復に持ち込んでいる。

全般的に小型の補機類、空調系、電気品や制御室、機械工作室等は高さやレイアウトの大きな変更が目立つが、一次系の蒸気管やタービン周りはそれほど変更が無い。27万5000Vといった超高圧は別として、電気配線の方が取り回しの変更に対応し易いのだろう。化学プラントメーカー、千代田化工建設出身の方による『電設技術者になろう!』でもそんな記述があったと思う。

※13/8/10 設置許可申請、設置変更許可申請と比較し全面改稿。

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