「女川原発を救った平井弥之助」神話とは何だったのか

前回記事(リンク)では福島第一原発建設期の問題点を改めて見直した。

今後は1970年代中盤以降から事故直前に至る国の不作為を中心に検証を行っていくが、それは次回とし、今回は東北電力女川原発の計画・建設について改めて論じておく。そのことにより、福島第一国賠訴訟における問題を解くカギが見えてくるためである。勿論、各訴訟によって論争の経緯が異なるので、全部を取り込む必要は当然ない。必要な部分をチョイスすれば良い。

Youtube

出典:「概要と歴史(女川)」Youtube東北電力チャンネル(リンク

いま、Googleで女川原発について検索すると「女川原発 なぜ無事?」と検索数の多い質問が提示され、「女川発電所が助かった理由」(リンク)というOCEANGREENこと、小川雅生元東工大原子炉工学研究所所長のウェブサイトに誘導される。このサイトに限らないが、『「決められた基準」を超えて「企業の社会的責任」「企業倫理」を追求しつづけた平井氏の姿勢』が称揚されている。同様の解説は学者、技術者、経済評論家等が採用し無名のブロガーまで含めてネットに多数ある。学術論文や学会誌の巻頭文に組み込まれたものも多い。勿論新聞で記事にもなり、雑誌記事にもなり、本も出た。

更に、東北電力賞賛論の裏には「女川は例外的な事例であり、福島は出来てなくても仕方なかった」という主張が見え隠れしているものもあり、そのことをTwitter上の業界関係者が延々と論じたこともあった。

しかし、これらの話は前提から誤っているのである。

結論を述べると、次のようになる。

  • 東北電力は指針・民間規格通りの仕事をした。平井氏の貢献も通産省から依頼された民間規格の制定。基準や指針を超える点は全く無い。
  • 東北電力は社内で高い敷地高を決めてから、平井氏を招聘した(=発案者ではなかった)。
  • その敷地高も東電の手法を参考にサイト周辺の津波高から、15m以上必要であることは簡単に導けた。単純に女川地点の過去の津波高3mに対し、5倍の安全率を確保したものではない。
  • 1号機の時、古文書は「数量的に不明確」とされ、明治以降の記録が精度が高いとした(古文書偏重史観の誤り)
  • 当初案だと東日本大震災で浸水を招くものであり、高くするように住民からも助言されていたが、東北電力等はその事実に触れず、結果だけを宣伝した。
  • 平井氏は岩沼千貫神社の言い伝えを子供の頃から知っていた可能性もあるが、検証すると津波の脅威を勉強で再認識した可能性が高い。
  • 更にドライサイト(敷地高を確保すること)に固執するあまり、想定外への対策(建屋の水密化)について、後輩達に警告しようとしなかった。中部電力と比べてこの差は顕著である。
  • その上、平井氏より高い敷地高を提言した人もいた。
  • 平井氏の言行と生前の評判はどうだったのか・・・当ブログで解明

特に、指針や規格通りだったとなると、女川での国と東北電力の態度が一種の最低ラインとなり、福島での国と東電を見ていく上でとても重要になってくるので、これは前半に説明し、後半で平井伝説を検証していこう。

私も、かつて「東北電力の企業文化」という法令や指針に基づかない要素は否定したが、平井弥之助のリーダーシップは評価し、前回記事まではその影響力を一定程度見ていたが、今回の検証作業の結果、平井氏がいなくても東北電力は女川を15mの敷地に建設しただろうと考えを修正した。

本来なら数本の記事に分割すべきところを今回は1本にしている。安易に言われる「メディアは報じない」と違って、こうした観点での再検証は当ブログ位しかやっていない。通しで一気読みする必要も無いが、関心があればゆっくりしていって欲しい。

【1】指針と電気協会規格

本節は指針、規格、設置許可申請の仕組みを述べているので、面倒な方は飛ばして構わない。

前回記事はもっぱら民間規格のJEAG等を論じたが、ここで指針も含めて俯瞰しておく。

(1)安全設計審査指針とは

国の「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」(リンク)は1970年4月に制定された。これは簡単に述べると設置許可申請された原発の設計に問題が無いか、原子力委員会が審査する際の物差しである。

安全設計審査指針の本文は基本的に原則論しか述べておらず仕様規定的な要素は殆ど無い。その構成は2.1で準拠規格・基準、2.2で自然条件に対する設計上の考慮、2.3で耐震設計について述べており、いずれも「過去の記録を参照」することを要求していた。

当指針には実運用の便のため「解説」という文書が付随する(Level7,リンク)。全項目に説明が加えられている。

P9

2.2の解説を引用するが、過去何年、サイトから半径何キロといった仕様規定は無く、「過去の記録の信頼性を考慮のうえ、少くともこれを下まわらない過酷なものを選定して設計基礎とすることをいう」などと述べられているのみである。女川の設計担当者が課せられた第一の条件が、これであった。

設置許可申請との関連についてもここで簡単に説明しておく。設置許可申請の基本的な仕組みは「ごぞんじですか?原子炉設置(変更)許可申請書」(『専門図書館』2011年11月号、リンク)に基本的な構成が説明されているが、申請を受けた後の審査過程については意外に説明が少ない。なお、設置許可申請は当初より公開され、新規のものはこの時代だと300ページ程度。

原子力委員会が審査をしていた頃は、申請ごとに「〇〇原子力発電所〇号炉設置(変更)許可申請第〇〇部会」を設け、その審査の為に設置許可申請を補足する説明資料を電力会社に提出させるなどしていた。この部会資料は審査の透明化を目的に1975年に公開され、それまでの分が国会図書館に収められている。この中で、電力会社側は「安全審査指針に対する対応」という資料を準備し、指針の各条項に対してこういう基本設計をしていますよ、という説明を行うようになっていた。従って、指針に対する当時の公式の理解を知るためはこの資料を読めば良い。新規の場合分量は100項目程度で、計1000ページ前後。

私が女川1号機の設置許可申請、およびその参考資料を読んだ限りでは、安全審査指針と津波との関係を詳しく述べた部分は存在しないようだ。当時の詳細な説明資料が付くテーマと言えば、専らプラント解析、自然現象では地震である。

とは言え、女川神話でよく言われる「エピソード」、津波伝承を集め、中でも1611年慶長津波の際、宮城県南部の岩沼市、千貫神社に来襲した津波のことを平井氏が知っていたとの伝聞が決め手となった、みたいな話があるが、たった400年前の津波伝承なら当時でもその存在程度は認識していたことが設置許可申請と部会参考資料から分かる。東電福島でさえ、建設初期には過去400年の地震を調べているから、後続する女川がそうなるのは当たり前である。

その後、指針類にも仕様規定的性格のものとして耐震設計審査指針(旧耐震指針)が定められたが、それは1977年のことで、しかも津波に関する指針とはならかった。つまり指針類は曖昧で貧弱な内容のまま数年間を過ぎたが、その理由は制定を担当する原子力委員会の動力炉安全基準専門部会に余力が無く、活動がにぶりがちだったからであり、当時から意識はされていた(『原子力産業新聞』1975年2月27日3面)。また、この時期は別の記事で解説していくが、設置許可申請されたプラントの安全審査も能力的な制約が大きかった。

(2)日本電気協会規格JEAG4601-1970とは

前回記事でも取り上げたが、JEAG4601-1970は耐震設計の考え方を参照するためのものである。

通産省の依頼で作成され、1970年5月に電気協会内部の原子力専門委員会、7月に上位の電気技術基準調査委員会で承認され、10月に発行した。これら委員会には東北電力も含めて各社が委員を出しており、電気技術基準調査委員会の旧委員に平井氏も入っていた。

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1970年版は、付録としてIAEA勧告なる文章がついており、「特定地域の津波による最大海面上昇の高さは十分な歴史的記録がなければ予想できないであろう」と言及していた(前回記事で解説した通り)。平井氏はこの勧告を付録することを認めた一人、ということだ。

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再掲するが上記のようにJEAG4601-1970は安全設計審査指針より記述のレベルがやや詳細化している。

なお、前回記事で書き忘れていたが、本規格2.1「敷地選定とその評価」の文章をよく読むと「海岸線の形状に支配されることが大きく、過去の津波の被害からおおむね判明している」との一文が入っている。本規格付録のIAEA専門家会議勧告と一見反するようにも思えるが、2.2「地震活動度」には「この種の学術研究は今後も進歩すると思われるので常に漸進的な態度で検討することが望ましい」と記載されており、同勧告と軌を一にしていた。

(3)IAEA勧告とは

JEAG4601-1970の付録2に収録されたIAEA勧告は、どんな背景を持つ文書なのだろうか。

JEAGには、発行年次等の情報が書かれていなかった。しかし英称”IAEA PANEL ON ASEISMIC DESIGN AND TASTING OF NUCLEAR FACILITIES PANEL RECOMMENDATION”で検索したところ、IAEAサイトに保存されていた。TECHNICAL REPORT SERIES No.88のタイトルであった(リンク)。1967年6月12日から16日にかけて日本で開催され、翌1968年6月に出版したものである。

パネル参加者は、見る人が見れば、当時のそうそうたるメンバーであった。国内外の学者は言うに及ばず、海外勢はGE,エバスコ,WH,ベクテル等も人を出していた。人数の上では(地震国と言う特徴故か)国内メンバーが半数以上を占めていた。つまり、勧告の内容はこれら参加者の総意に基づくと解することが出来る。なお、平井弥之助、東電の小林健三郎等は入っていない。小林は福島原子力建設事務所に駐在だから、担当業務でもなく、物理的な距離感も現在よりあった。

私が注目したいのは、日本原電の秋野金次氏。耐震設計の専門家である。2014年のブログ記事(リンク)でも紹介したが『コンストラクション』1969年3月号(重化学工業通信社)にて、太平洋側ではM=8級の地震を想定しなければならないと述べるなど、現実的な観点を持っていた(当時はモーメントマグニチュードの概念が無いのでM8級とは最大クラスを意味する)。

【2】東北電力の行動は指針、規格の遵守に過ぎない

さて、女川1号機の計画過程を重ねて時系列に並べてみよう。

  • 1968年6月:IAEA勧告発行
  • 1968年7月:東北電力社内に海岸施設研究会を設置
  • 1970年4月:安全設計審査指針制定
  • 1970年6月:女川1号機設置許可申請
  • 1970年10月:JEAG4601‐1970制定
  • 1970年11月:女川1号機審査結果が報告される

このように、女川の計画と、IAEA勧告、指針、JEAGは同時期である。参照しない訳がなく、実際の仕事の結果もこれらに記載した通りの行為となっている。

【3】「女川の奇跡」で平井弥之助を称揚し始めた元通産官僚と東北電力OB

ここからは平井伝説に焦点を当てて行こう。

それにしても震災後突然始まった女川絡みの平井弥之助称揚には不思議な点がある。事故以前の記録や当人の手になる文章がまるで見当たらない。町田徹氏は電中研時代の所内報挨拶文を発掘しているが、設計や原子力について論じたものではない。

実際には平井氏の著述物は他にもあり、2011年時点でもCinii等を用いればすぐに分かった筈である。だが、そうしたものについては後回しとし、まずは神話を検証していこう。

経歴は「電力土木の歴史-第2編電力土木人物史 (その6)」(『土木史研究』18巻、1998年、リンク)に詳細なものが載っている。

大まかに述べると、1902年宮城県柴田町生まれ。柴田町は県南に位置し、内陸だが岩沼市に接し、千貫神社は近い。水難という観点では阿武隈川に接している点も見逃せない。新卒から一貫して電力業界で土木技術者として働き、日本発送電を経て電力9分割の際に東北電力に入社した。

1960年5月から1962年11月まで取締役副社長、1963年からは子会社の東北電気工事で取締役会長をこなしつつ、電力中央研究所(電中研)理事を振り出しに技術研究所所長などを務めた。東北電気工事は1971年に顧問に退き、電中研理事は1974年に退任、理事となった。1986年2月に死去した。

神話の下地として最も流通している説明は、東北電力で立地関連業務を担当経験のあったOBの大島達治氏によるもので、次の通りである。新聞雑誌の記事や書籍も沢山出たが、これより後で記述のレベルも浅い。

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2011年3月28日に「通産省出身の元水力課長」が平井氏の功績について発信(INとはインターネットだろうか?)。これに触発され、2011年6月には大島氏の手で「技術放談 結果責任を負う事業経営のあり方」という一文が書かれ、それが出回った。画像引用はしないが次の4ページには「法令に定める基準や指針を超えて」という一言について、大島氏が記者などに説明する際に特に強調するように要望した旨、記されている。

発言者の立場を踏まえると、この言葉は指針を定め、規格を制定した国、および東電の責任を巧みに回避させようと意図した、訴訟対策と受け取れるのだが、無理がある。

まず、安全設計審査指針(リンク)は先に見たように「過去の記録を参照」するように求めていた。神社の地域伝承は勿論過去の記録の一種である。それを参考にしたところで、指針など超える訳がない。また、大島氏は自分自身が立地業務に関わった経験があり、且つ技術士でもあるのだが、文章には「基準や指針」の具体例が全く無い。

一方、平井氏はJEAG4601-1970という「基準を決めた側の一人」でもある。「規格に自分の思想を反映させたのが偉い」ということなら分かるが、そのような褒め方をすると、「女川は基準を超えていた訳ではないので」東電の立場は益々無くなってしまう。

また、IAEA勧告発行の翌月に、社内に海岸施設研究会を設置しているのだが、勧告文と平井伝説を比較すると、歴史津波への独創的な思考は特に見当たらない。2011年以降に語られた(震災バイアスが入り込みやすい)伝承の方が誤っていると言える。

後になって、「IAEA勧告にも裏から助言していたんだよ」などとOBが言い出したところで裏が取れなければそれまでであり、取れたところで、自分で制定したルールを守ったという、平凡な話にすぎない。

なお上記に赤書きした通り、東電の原子力導入に関する時系列に明らかな誤りがある。

【4】規程・基準は「馬鹿でも出来る最大公約数」と述べた平井弥之助

ただ、大島氏が震災後に著した文章を読み返すと、興味深い点に気づく。

 

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例えば、大島氏自身は人脈を利用して入社し、11年世話になり、仲人までして貰ったそうである。遠くから見ていた後輩が人物評をしている訳ではないということ。率直に言ってバイアスはかかると思う。

また、上記の一文には「規程・基準は馬鹿でもやれる最大公約数」と訓育したとある。平井氏が制定に関与したJEAG4601-1970は「馬鹿でもやれる最大公約数」だったのである。

【5】平井氏が招聘される前から敷地高を高く検討

2011年9月13日に東北電力が原子力安全・保安院への説明資料として準備したスライドを見てみよう。

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よく見れば「社内での比較検討の結果(中略)15m程度が最適と考えた」後に社内委員会(海岸施設研究委員会)を設置したとある。

平井氏が発案したかのように述べる人もいるようだが、最初から社内の最適案は15mなのである。

ネットで読める『原子力委員会月報』1970年12月号に付録された審査結果(リンク)では敷地高は14mとなっており、最終的な敷地高15m(14.8m)より1m低いように見える。

しかし、私は設置許可申請本体も読んだのだが、これは造成した時の高さを示すものらしく、原子炉建屋は14.8m、タービン建屋は15mの敷地高を確保していた。

なお、女川1号機はそのまま進めば福島第一の4・5号機と同時期に運開を計画したが、漁業関係者を中心とした反対運動のため着工は10年程遅れた。この間、数回設置変更許可が提出されているが、敷地高に関しては最初から変わっていない。1978年7月の設置変更許可申請にて、放水の設計がトンネル排水路から水深の深い水中放流管に変わっているが、津波や高潮の関連では変更がない。従って海岸施設研究会の成果は、設置許可レベルでは放水方法以外に影響しなかったものと考えられる。詳細設計に相当する、工事認可申請(非公開資料)には載っているのだろう。

ただしこの間、外部電源の開閉所は耐震性の高いGISの時代に取って代わり、事故を回避出来た副次的要因となったことは、数年前のブログ記事で述べたとおりである。

【6】正確な記録と生きた証言に溢れていた明治三陸津波と昭和三陸津波

震災後に行われた平井伝説、社外からの女川PRの盲点は、貞観、慶長といった古い津波の記録にフォーカスをし過ぎていることにもある。

三陸の場合は近代以降も、貞観や慶長にも比肩する高さの津波を経験していた。常識に立ち返れば、こちらの方が記録が正確で出版もされており、加えて体験者から新証言が収集可能であり、記念碑も新しく残存率が高い。後述する、羽鳥徳太郎氏の近代以前の歴史津波を対象とした論文に比べても遥かに情報の密度・正確度が高い。

だから最初から東北電力も近代の津波記録を把握したし、証言も収集した。私は実際の設置許可申請とも比較したが、下記のスライドは要点がよくまとまっている。

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スライドでは女川付近は精々3mの旨黄色で枠囲いしてあり、設置許可申請を読んでも津波の検討部分は東北電力自らが上記の(軽んじるかのような)結語で締めている。

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だが、毎回完全に同じ波源となることは無いため、重要なのは(1)の文献調査である。

また、ここで着目すべきは先行する東電福島。津波想定を決めた時に、55km離れた小名浜の記録を参考にした。従って東電流の考え方をするならば、55km以内に高い津波の記録を探し、それを当てはめれば良い。

ここで東北電力は『験震時報第7巻第2号』を挙げた(気象庁、リンク)。国会図書館は『三陸沖強震及津浪報告. 昭和8年3月3日』のタイトルでデジタルコレクション(リンク)でインターネット公開しているが、内容は同じものである。

中を見ると1km前後の間隔で実に詳細に津波の高さを示しており、下記のような一覧表にまとまっている。また引用はしないが一覧表と対応した地図が口絵に掲載されている。

一覧表を見るとコマ番号95、P9の歌津村(現南三陸町)石浜の外洋で明治三陸の時14.3mと記載されており、確かに設置許可申請の通りである。女川原発からは北に35km程。なお、歌津村は全般的に高い値が多く、海岸の向きも女川原発と似ている。

他、桃生郡十五浜村の荒屋敷で10.0mとの記載がある。荒屋敷はコマ番号14の口絵地図に載っており雄勝湾と追波湾の間、現在の荒浜海水浴場である。女川原発からは北に15km程しか離れていない。

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明治三陸では38mを記録した岩手県南部の綾里湾が有名だが、湾の形状が完全なV字であることの他、女川原発からの距離が約78kmある。そこまで遠い地点を参照するかは議論が分かれるかも知れないが、35kmや15kmなら近い。

なお、中央気象台はコマ番号93-94、P5から6で「波の高さ」を定義しており、これらは痕跡高(遡上高)である。

こうした記録は、歴史津波など前提が不明瞭な場合は、津波高の定義、位置、情報を記録した時期などについて議論の対象になる。だが、原発に要求される敷地高はJEAGによれば(後年の言葉でいう)ドライサイト、場合によっては敷地高の足りない分は防潮堤を設けて守るドライサイトコンセプト、である。

ドライサイトは水が絶対に来ない高さを示すもので、女川は明らかにそれを目指した。その観点からは痕跡高は有力な情報源である。同じ地域で異なる高さの証言・記録があった場合でも、2~3m程度の小さな差であれば保守的に高い方を採用すればよいことは、簡単に導ける。明治三陸以降は干満についての情報も残っているだろう。

なお、設置許可申請には出てこないが『宮城県昭和震嘯誌』(宮城県、1935年)も見てみた。この本は県がまとめた災害記念誌である(参考、「第1章 津波の記録―明治三陸地震津波と昭和三陸沖地震―」『本の万華鏡 第8回 津波 ―記録と文学―』国立国会図書館、リンク)。県庁か図書館を回れば参照出来るものだ。

やはり、現南三陸町田ノ浦から歌津付近の外洋に面した海岸(女川原発から概ね35~37km)で11~12mの津波が記録されていた(北原糸子他「津波碑は生き続けているか-宮城県津波碑調査報告-」『災害復興研究』第4号、関西学院大学、2012年P27図2、PDFリンク)。

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モノクロスキャンで読み取り難いが他の記録の傾向と照らすと、表の左側が昭和三陸津波か。明治三陸と思しき右側は藏内、田ノ浦で12m、石濱、中由馬場で11mといった記載が確認出来る(括弧で括られた部分は浸水面積)。なお、幾つかの地点で『験震時報第7巻第2号』と値に相違がある。

なお、平井氏を称揚する解説の中には当初敷地高12mの案もあったという話も出ているが、時期が不明であり、上記から考えれば設置許可申請の前、更に言えば海岸施設研究委員会の設置前ではないかと思う。だが、これまで見たように、平井氏でなくても却下するのは当たり前と分かる。

【7】当時の一般向け三陸津波紹介

なお、最初の設置許可申請前後にあった一般向けの啓蒙についても触れておく。

(1)吉村昭『海の壁 : 三陸沿岸大津波』(中公新書、1970年7月、リンク

吉村昭氏は戦記ノンフィクション作家として1960~70年代に活躍した方である(下記画像はAmazonより。後年、文春文庫で再版)。

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元が新書だったことから分かる通り、吉村氏の著作は小説ではなくノンフィクションの色彩が濃い。

第二章「波高」という一節は測定法に関する考え方を示したもので、明治三陸の事例を記載。大量の記録から、宮城県では2ヵ所を引用し、内1ヵ所は歌津石浜の14.3mだった。参考文献欄には『三陸沖強震及津浪報告. 昭和8年3月3日』が載っていた。「まえがき」からすると脱稿は6月のようだが、出版の2ヵ月前に出た東北電力の設置許可申請は(勿論)載っていない。偶然だが、同じように情報収集すれば、吉村氏が作中で自認するように、専門家ではない一般人でも同じ文献に目をつける、という見事な実例を示している。

この本が直接社内の議論、および審査に影響したとすれば本章の「この数字がそのまま津波の高さを正確に伝えるものとは限らない」というくだりだろう。吉村氏は1ヵ月に渡って現地での証言収集を続けたため、場所によっては、中央気象台などの公式記録より証言から推定される津波が大幅に高いことに気づいた。それで15mの設定が動いたわけではないが、数値の正当化には益したと考える。敷地高を下げようとは思わないだろう。

結果責任に関する意識付けも同様。被害の惨状は端的に言って地獄絵図と、誰にでも分かるように書かれている。

勿論欠点もある。明治三陸について、吉村氏は殆ど存命者の証言を収集出来ていないが、先の東北電力の調査ではより多くの生存者から証言を得ていた。また、個人で調査した場所の海抜を容易に求めるのが難しい時代であったため(詳細な地形図と照らし合わせが必要)、証言者の居住地と実名を沿えてトレーサビリティの維持には気を配ってるが、高さは判然としない記述も多い。

(2)NHK番組『新日本紀行』

近年も再放送され、アーカイブ化を優先して行っている。NHKのサイトで調べてみたところ、1968年11月25日「宮古 久慈 ~北部陸中海岸~」(リンク)が放送され、田老の堤防について取り上げていた。少し後になるが1973年6月4日には「唐桑の七福神 ~宮城・気仙沼~」(リンク)も放送した。

新書や教養番組は、話の種として企業活動の中で持ち出すのに向いている。三陸を知らぬ者も多い電中研や電事連と言った場所で何か訓示する際にも、立派な素材となるものである。加えて、東北出身者に接さずとも、日本海側や内陸出身で三陸に疎くても、意識付けの機会になる。それにこの時代のテレビは世帯普及率がモノクロ・カラー合わせ100%程度。独占的な発信力を既に獲得しており、しかも1世帯で複数台設置・多チャンネル化時代の前であるので、実質的な視聴率は高かったと思われる。

書籍とテレビ番組から一つずつ例示したが、勿論調べれば雑誌や科学番組など他にも出てくるだろう。

こうした観点から見ても、平井氏や少数の土木技術者だけの手柄ということはまずありえず、誰がやってもそうなる、という状況だった。

そのためか、設置許可申請や部会参考資料を見ても、海岸施設研究委員会の名は出てこない。

【8】1970年代に歴史津波の知見を拡張したのは羽鳥徳太郎氏であり、東北電力ではない

当時の歴史津波への姿勢についても述べておく。

1号機の時点では、東北電力は独自の古文書、石碑調査を行った形跡が無い。海岸施設研究会で取り上げたことは伝えられているが、こんな大事なことにも関わらず記録が残っていないため、その水準が全く分からないのである。だから結局は、設置許可と参考資料と同程度と見なさざるを得ないだろう。

なお、古文書とはどれくらい前の文書を指すかだが、東北大名誉教授の平川新氏によれば、和紙に書かれた明治以前の文書のことをいう。洋紙に書かれた明治以降の書類で、歴史分析の対象となるものは近代文書などと呼ばれることが多い、とのこと。私の調べたところ、明治維新期の資料なども古文書扱いされているものがあるようだが、新政府が近代的な地方自治の体制を構築するには時間を要し、1888年群制の施行でその完成を見るようである(「文化財としての古文書, アーカイブズとしての歴史資料」『学術の動向』2019年9月号、リンク)。

明治三陸津波の記録は中央気象台がまとめていることから、古文書とは言わない。一般的なイメージとしても近世以前だと思う。

よく言及される『日本三大実録』に記された貞観津波の言い伝えだが、これは今でいう公式記念誌のようなもので、知名度は高く引用されて当たり前のものである。近年、歴史研究で新規性を認められるには、寺の過去帳を読み解くなどの調査を要するし、そこまで行かなくても先行の研究成果位は参照するものだ。「古文書を当たって」というのはそうした行為を指すが、ネット上では記念誌を読み返す程度の意味に化けてしまった。

東北電力の海岸施設研究会は1980年8月まで活動したが、この間、地域史料まで当たって歴史津波の記録を検証したのは、津波研究者の羽鳥徳太郎氏で、「三陸沖歴史津波の規模と推定波源域」(リンク)を『東京大學地震研究所彙報』50巻4号(1976年3月刊行)に投稿した。

よく言及される、1611年慶長津波の際に記録された、岩沼千貫神社の件も挙げられており、この頃の羽鳥氏は神社の手前まで達した津波高は6~8mと見込んでいた。

東北電力は福島事故後にまとめた資料で、2号機からこの記録を参照としているが、1号機建設に際しても着工前の論文なので参照は出来ただろう(下記は東北電力の説明資料に赤書きしたもの)。

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8mの伝承だけなら小林論文のように10mでも良さそうに見えるが、実際に検討された案はどれも高い。より重視された明治以降の津波が決め手だったのだろうが、敢えて比べるなら、慶長津波の岩沼千貫神社は直線状の海岸に対して、牡鹿半島以北はリアス式海岸という地形上の違いがある。また、千貫神社は海岸から7km奥にあって俎上による減衰が見込まれるのに対し、原発サイトは海際である。

ただし、牡鹿半島の石巻湾ではなく太平洋に向いてる点は岩沼と共通しており、直線距離は約67kmだが南北方向のみだと32km程度になる。

この事例が敷地高の判断に影響を及ぼしたとすれば、明治三陸や昭和三陸では起こらなかった高さの津波が、宮城県南部の岩沼に押し寄せていたことだろう。この事実から、主たる波源域が必ずしも三陸以北とは限らない分かりやすい例、として数えることが出来、例えば「明治三陸地震がもう50km南にずれて発生していたら」といった、小規模な波源移動を現実的なリスクとして受け取れたのではないか。そうなれば、今までは3m前後の波しか記録の無い女川でも、今後は15km、35km北で起こったような10m以上の津波が来る、という予見を補強出来るのである。

まぁ100kmも200kmも波源を南に想定するならともかく、50km以下の波源のずれ程度は慶長津波を細かに調べなくても想定の範疇だったとは思うが。

なお、小林健三郎の場合、前回記事で引用した博士論文3章の記述を見直してもらえばわかる通り、「V字型およびU字型海岸は適地から除外」していたが、女川は候補地の一つとして海抜10mで設定した。比較的開けている方とは言え、ゆるやかなU字なのだが。東北電力の検討結果と比べると、日本第二の津波常襲地帯である高知出身の割には、やり方は稚拙そのものと言える。

以上は、私の推認であり、実際の検討過程は東北電力が最初に実施した比較検討の資料や、海岸施設研究会の議事録を公開しないと分からない。だが、1970年代の知見で合理的に15mの敷地高を導くことは常識レベルで可能であることは分かるだろう。

むしろ、女川では3mの記録しかないことを強調する東北電力と原子力委員会に疑問がある。16mや18mといった案が葬られた可能性についても、考えておくことは出来るだろう。

例えばスライドで引用した歌津町石浜の14.3mを東電方式でそのまま採用すると、潮位差を加味したら15mを上回る可能性は高そうだし、この時代のやり方だと5m以下の想定でも0.5~1m程度の余裕は加味していたので、16m程度は必要に見える。想定の10%掛けで余裕高を加算すると14.3+潮位差(0.5~1m前後はあるか?)+1.4程度でやはり16m台後半となる。「神話で語られる平井像」的に余裕を大きく取ると、20m前後が妥当ではないか。

【9】地元の声を拾った『積算資料』

証言についての検討をしてみよう。昭和三陸津波は1933年だから、最初に設置許可を提出した1970年だと37年しか経過していない。40代以上の中年なら昭和三陸の実体験があった計算。調査で役場に挨拶しに行くだけでも文書に載ってない「証言」を得られる可能性がある。明治三陸津波の場合は1896年なので経過年数は74年。当時の平均寿命は今より概ね10年程短いが、80代以上の古老なら経験している。

そのため東北電力は1969年12月「現地付近の地震被害調査」という聞き込みを行った。調査報告書は設置許可申請第68部会参考資料103として、原子力委員会にも提出された。担当したのは同社女川原子力調査所の社員であり、主目的は地震だったが、明治三陸津波についても聞き取りを行った。残念であるのは聞き込みの範囲が調査目的の関係で女川町周辺に限られたことだ。

なお、東北電力の説明に反し、敷地を高くするように求めたのは、住民だったという証言がある。

地元に住むお年寄りから、次のような話を伺った。

建設計画の説明会が開かれた際に、最初に住民に提示された計画案で女川原発は、今回大きな事故になった「東京電力福島第一発電所」と同じような海岸線の低い標高に計画されていたそうである。
これを聞いていたお年寄りの方から、
「あんた達は若いんだね。そんな場所は物を建てるところじゃないよ。」
という声がかかったそうである。
そしてそのお年寄りは
「あそこにしなさい。あそこの高台にしなきゃだめだよ!そんな低い場所は昔から波をかぶって来たところだよ!」
「昔から津波から逃げるときはあそこへいけ!あの高台ならば大丈夫といわれてきたんだよ。」
と高台を指差したそうである。

(中略)その後、東北電力はこの地域に伝わる言い伝えを検証、文献調査、現地調査、ボーリング調査などを行い、その結果お年寄りの言っていた通り、地域に伝わる「言い伝えは正しい」とし、女川原子力発電所の計画案を変更し、硬い岩盤が確認出来たその高台に原子力発電所の計画を変更したそうである。

2013-07-01
土屋 信行「教訓そして再生へ(1) 東日本大震災から学び伝えたいこと」
『積算資料』(けんせつPlaza、リンク
※公益財団法人 えどがわ環境財団 理事長

吉村昭氏のくだりでも言及したように、証言はしばしば公式記録を上回ることがあるので、齟齬が生じることに対し説明はつく。

問題は敷地高の決定と「説明会」の時期に矛盾があること。

女川町HPでは詳細な「原子力年表」(リンク)を掲載しているが、1972年7月11日「県、知事出席のもと、原発建設説明会を女川町で開催」とある。この時点では国が主催する公開ヒアリング制度は無かったので、独自に実施したのだろう。お年寄りの助言がなされたとすればこの説明会となる。ただ、1972年の説明会なら15mと説明している筈。

別の仮説を考えるとすれば、「説明会」の意味するものが違い、聞き取り過程で双方の理解に齟齬があった可能性である。町のHPに加えて三浦康「急がれる原子力発電所建設」(『政経東北』1978年2月号)も参照しつつ述べると1967年1月、東北電力は女川を立地候補に挙げ、1968年1月建設計画を発表した。翌月には予定地の地権者全員が立ち入り調査に同意し、同年末には漁協の同意を得て海象調査を開始した。漁協が一転して反対に回ったのは1969年6月以降のことで、以後約10年膠着状態となった。

この経緯でお年寄りが助言できたのは何時かを考えると、1968年頃に地震ではなく、用地買収や海象調査の担当者へ語ったのではないか。普通の公共事業などでも、地権者限定の立入調査・用地買収説明会は実施する。またそのような説明会の場以外にも、立入当日は地権者と打ち合わせする。「高台を指さす」のは地図ではなく屋外でそうした際のことであるようにも読める。そうであるなら12m案か、小林論文にあるような10m案などでも時系列上の矛盾点は無い。

なお『政経東北』は記事単位での両論併記が特徴で、1980年1月号の編集部になる記事では、漁協の反対運動に対して東北電力が「電力が不足してもいいのか」と「反対運動をしていると電気がつかなくなるぞ」とも取れる姿勢で火に油を注ぎ、漁協以外へも反対が拡大したと伝えている。供給義務からはあり得ないことだが、私の個人経験から言えば、そのような型通りの説明を繰り返す者は、住民に対して他に語るべき材料を持たないからそうする、と感じている。SNSの原発推進派達が全く同じ恫喝を日常的に繰り返しているのを見れば、「先輩」達が同じことをしたというのは信憑性の高そうな話である。

東北電力の担当者が居丈高になってしまったのは、「こんな感じです」と福島のパンフレットでも参考に配った結果「敷地高が低い」と反論され、代替案を持ってなかったからではないか?

平井称揚はこうした不都合な話を打ち消すには最適なのだろう。

【10】10年以上神話の連呼を続けた井上リサという人生

こういった事情を見るだけでも、時代背景も考えず古い津波の伝承ばかりを重視し、手柄を東北電力関係者、更には平井個人で独占するのは不誠実ではないだろうか。

例えば郷土の昔話を交えながら、何万回も平井氏の話をしたという井上リサという人がいる。何万回も言った割に、私が東北電力の広報担当者から勧められた町田徹『電力と震災』の平井氏を取材するくだりには井上リサ氏の名前は全く出てこず、ネットでは芸達者でも、東北電力を称賛する人にさえその声が轟いていないらしい。

細かな情報を知らずとも、東北電力が公表した2011年9月の資料を読めば神話のおかしさは分かること。実に、不憫に思ったものである。

ある時、次のような話を呟いた。

2021年、これを見かけて平井氏が浜岡にも絡んでいたことは文献にも残っていると別の方に教えたところ、程なくしてブロックされた。

 

井上さんは人生の一時期を賭けてPRに勤しんだのだろうが、碌に比較衡量もせずそういう行為にふけったのは失敗だったと思う。

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中部電力も東北電力と似た様な、海洋施設研究会を設けたが、建設記録に活動内容をまとめていた。

研究経過概要は後で引用した意味を説明するので、とりあえず無視して良い。委員として平井氏の他は、運輸省の港湾研究所所長や速水頌一郎元京大防災研究所所長の名が目を引く。特に前者を通じて知見を人的に入手するルートがある。そんなもの無くても火力発電所の頃から港湾との関りが深い電力会社ではあるが、「縦割り行政で通産省の顔ばかり見ていたので港湾の防災知見は存じ上げておりませんでした」はどうやったって通じないということである。鶴岡鶴吉氏は造船ドックの専門家で、土木工事と水門(ドックゲート)には明るかったかも知れない。

『電力と震災』に記された町田徹氏の取材からすると、東北電力の海岸施設研究委員会議事録は破棄されて残っていないようである。もしそうなら、大事な話をいとも簡単に捨ててしまうということであり、これまた信用の無い行為をしていたのだなとなる。

もっとも、私自身は破棄したとは思わない。実際は社内で閲覧許可のレベル分けをするのが常であり、「お客様の側に立つように」指導されている広報担当が見れる文書の中に、海岸施設研究会の議事録は無い、という意味であると思う。また仮に破棄なり最高機密なりであっても、中部電力のように、社内で作った記録に議事概要を載せている例もある。

なお、一般論として述べるが「地元の歴史に明るくなる」のを深い教養に基づくかのように言っていた方もおられたが、今は簡単だろう。インターネット上の自治体HPや史上の有名人を記念した公式サイトなどは幾らでもあるし、現地を訪問すれば県庁所在地他、拠点駅にはパンフレットが何十種類も置いてあり、観光案内所も設置されている。テレビのチャンネルに観光案内を載せているホテルも多い。各地の原発サイト周辺で観光旅行を企画している井上さんがどのような勉強法を取っているかは知らないけども、上記のものを活用すれば、短期間で一通りのことは言えるようになる。

【11】原子力に進出する前から建屋を水密化していた中部電力との「分かれ目」

なお私が聞いたところでは、中部電力は浜岡1号機建設の時から防水扉を設置し、想定外の津波にも備えていたのだが、これもまた、平井氏の助言よりも同社の直接的な体験が影響していると思う。何故なら、1959年の伊勢湾台風では同社の設備等にも大打撃を受け、以降、火力発電所では水密扉の設置を行ったからである。

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伊勢湾台風の犠牲者は約5000人。だから1995年に阪神大震災が起こるまでは戦後大災害の例として社会科の教科書にかなり強調して載っていた記憶がある。同時代人を含め、戦後から前世紀に教育受けた世代は概略同じじゃないかと思う。そこから着想すればある程度調べた時点で、予想出来るようにもなる。先のツイート時点では、私は上記文献は見ていなかった。

ここで注意べきは、平井氏も敷地高を高く取ることには注意を払ったようだが、建設後に想定が上昇した場合や、想定外の津波が押し寄せた場合の対策までは考えが及ばず、浜岡の対策を見てもそれを取り入れようとはしなかったことである。

敷地高確保への執着が筋金入りなのであろう。何故なら、伊勢湾台風の翌年、1960年5月にはチリ津波により東北電力八戸火力発電所が浸水したためである。同社初の火力であり、平井氏が軟弱地盤対策で大型ケーソンによる基礎の方針を決め、部下の大島氏に設計を任せた案件だった(「先輩に学ぶ(その3)彌翁眞徹居士 平井弥之助先生」『過去に生きるおとこ』2003年P26)。

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上記空撮の他、防災科学研究所でも海上保安庁が保管してた写真(リンク)を公開している(「災害写真館2/2 チリ地震津波50周年」防災科学研究所、リンク)。

被災時、平井氏は副社長の初仕事として、その他の一般社員はそれぞれの持ち場で被害状況の報告を眺めつつ、復旧計画の策定等に係わっていた筈。また、電事連での各種会議や日本発送電時代の人脈等による繋がりから、伊勢湾台風対策についての情報も合わせて共有することはしていただろう。自分の作品である火力発電所が津波で浸水したら、印象には残る。

チリ地震以前の被害記録と発電所敷地の海抜、チリ地震の被害についてはネット上にも信頼出来る記録がある。先に取り上げた『験震時報第7巻第2号』(気象庁、リンク)を見ると、1929年に周辺町村が合併して発足した八戸市は登場せず、合併前の鮫村で明治三陸の際3.0m、昭和三陸で2.1mとなっており、やや北方の市川村(1955年八戸市に編入され消滅)で3.0mと記録されていた。これに対し、埋立造成したと思しき土地に作られた八戸火力発電所は、高さ6.5mH.P(八戸港平均海面水位、T.Pこと東京湾平均海面水位で5.7m)の砂堤に囲まれた灰捨場があり、この土手を辛うじて浪がこしたという(八戸市総務部庶務課長佐々木正雄「チリ地震津波 八戸市」『津波デジタルライブラリィ』)。著名な津波工学者首藤信夫は世界初の発電所被災と述べ、浸水深は50cm程度と書いている(「1960年5月24日 チリ地震津波 その2」(過去の防災に学ぶ29)『ぼうさい』2010年7月号、内閣府)。なお、八戸港内の検潮儀記録は5.8mであった(チリ地震津浪 八戸市HP)。

まとめると、発電所着工前に3m程度の津波記録は参照出来た。それをしってのことか発電所の建設では5.7mの砂堤で囲ったが、チリ津波は八戸では5.8mと大きく、50cm程度の浸水深となった。

その結果、東北電力ではドライサイト思想の堅持となり、当記事で推定もしたが、何らかの考え方により建設地点の過去記録に余裕を見込むものとなった。東北電力と中部電力が原発建設に際して見せた差は、水密化に関する知見の有無ではなく、技術思想として各社が選んだことだったのである。

上記工事誌と東北電力の公開資料を突き合わせると、浜岡の海洋施設研究会と女川の海岸施設研究会を兼任していたのは平井氏の他、本間仁東洋大教授が確認出来るが、そうそう人材がいる訳でもないので他にも兼任者はいたものと考えられる。また、先行する浜岡を見学したり、ゼネコン、土木コンサルタントとして両方に係わる方も多くいただろう。しかし、以前も書いたが、東北電力が建屋の水密化を実施したのは福島事故後である。

なお、『中部電力火力発電史』P112には「伊勢湾台風級超大型台風の襲来による名古屋市内および近郊の浸水防止対策として、昭和39年に名古屋港高潮防波堤が築堤された」とある。

東レ名古屋工場も被災したが、実施した設備対策は「名古屋港に伊勢湾台風時の高潮を考慮した防潮堤が完備するまでの間」の対応として重要箇所の周囲に防水堤、その出入口には防水扉を設置する、建物を水密化する等の対策を取っていた(「伊勢湾台風による被審と事後の対策について」『安全工学』1992年4月、リンク)。

翻って『港湾』1960年8月号を読むと、チリ津波による東北の被害状況を報じた記事の隣に名古屋港周辺の臨海工業地帯港湾計画について述べた記事があり、これから拡張・造成を進めていく、という段階での伊勢湾台風による被災だった。そのため、計画では伊勢湾台風を教訓にした高潮対策として外防波堤の築造が挙げられていた。既にある火力発電所の水密化は、東レと同じく、そうした中長期の計画に先行して実施したのだろう。

福島事故後の全国の原発でも水密化が防潮堤に先行したが、それと同じことが半世紀前に起きていたのである。東電事故訴訟における発想可能性論議の観点からは、抑えておかなければならない。

【12】自ら海抜20mの原発計画図を作成していた大島達治氏

平井氏に戻るとダメ押しとなる出来事もある。私は2018年に東北電力が津波神話をつくるためについた嘘をブログ記事で暴いたが(リンク)、その時15m以上の敷地高を主張した人もいるのではないかという疑問を示した。

場所は異なるが、同じ三陸地方の候補地点にそれはあった。先の大島達治氏当人である。

実は、大島氏は2003年に『過去に生きるおとこ』という自伝を出版し、新潟火力の建設について平井弥之助を称賛していたが、女川敷地高設定の話は出していない。一方で1977年、自身が岩手県の三陸海岸沿いに原発立地を検討した際は、敷地高を20mに設定したことが記されていた。

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「三陸沿岸に適地はないと思いますよ」との返答が面白い。三陸の定義は幾つかあるが、狭いものでも南端は金華山。女川は外れないのだが。

上記文中からK地点は釜石を暗示しているように見えるが、歴代の釜石市長に菊池という人物はいない。一方、平林祐子氏は「「原発お断り」地点と反原発運動」(『大原社会問題研究所雑誌』2013年11月号、リンク)という、過去の立地計画を一覧した論文を投稿している。それによると岩手県には3ヶ所の候補地があったがKで始まる地点は無く、時期も1975年以前とのこと。よって正確な場所は分からなかったが、海抜20m程度は誰でも考えるということである。

大島氏の他にも似た対応を迫られたことはあったらしい。岩手支店の記念誌によると、東北電力は岩手県内の将来需要を賄うため北部火力地点計画として種市町に候補を選定し、1975年から立地業務を開始したが、地元の反対運動もあって1979年に計画を中止した。

しかし、将来需要と県の要望から1979年10月より岩手県沿岸全域を候補地とし、火力電源立地可能性調査を行った。大島氏に県職員が原発立地の話を打診した2年後のことだ。調査では電源の特性から石炭火力を選定し16地点を調査したが、発電所と灰捨用地が津波の影響を受けないことを前提とせざるを得ず、海面を埋め立てる場合は津波防潮堤により遮蔽されていることが条件であった。

調査の結果、候補地はいずれも灰捨用地の確保が困難等の理由から立地は困難と結論、1980年5月に報告し了承された。その際、知事から「将来的に原子力発電所の建設が課題になれば前向きに検討したい」との言葉があったという(『東北電力30年のあゆみ 岩手支店史』1982年3月P133-136)。

火力・原子力にまたがって電源立地の模索が行われ、地形的には津波を理由に火力が中止となったことは注目に値するだろう。その条件は、典型的なドライサイトコンセプトだったのである。

それに、岩手某所の20mは女川の15mより高く、どちらも三陸のリアス式海岸地帯にある。このエピソードもまた、平井氏の価値が言われているほどではないことを示す。

震災前から伝わっている新潟火力の基礎を深くした件についても、『過去に生きる男』の「電源一生・先輩に学ぶ」という一文では建設局長の平井氏が根入を12mにせよと言ったのに対して、決定案は3m足した15mとなり、新潟地震で流動化したのは10m付近だったという。よく読めばわかる通り、平井氏は最も余裕を与えた回答ではなかった。

こうした数々の点からも、大島氏の震災後の証言には注意を要するだろう。

【13】文献から浮かび上がる平井氏の姿

震災バイアスのかかったOB達の証言以外に、平井氏の人となりを知る手段は無いのかと言えば、実はある程度浮き彫りには出来る。最後にこのことを論じよう。

本節は、訴訟関係者から見れば必要性が低いが、人物史研究の点からは基礎となるものである。まぁボーナストラックだと思って読んで欲しい。

(1)「夢の仙台湾を語る」(『港湾』1960年10月号)

東北電力の副社長だった頃にこの座談会に出席した。掲載号自体が宮城県の工業開発を特集している。この年の5月にはチリ津波が来襲し、過去の大津波ほどではないが被害を出していた。座談会で平井は塩竃港の開発提案について説明し、社内でも研究したと述べているが、津波に関しては何も語っていない。他の出席者も同様である。

前年の伊勢湾台風と合わせ、海岸保全事業が急速に進められる契機となった時期であり、チリ津波以降は、津波対策事業に関する特別措置法も成立したため「そんなことは当たり前」であり、更に屋上屋をかけるような発言は控えられたのかも知れないが、そうした事情を汲んでも、人物像を考える材料にはなるだろう。

同じ号には日本港湾コンサルタント協会理事長の鮫島茂氏が「宮城県の港湾についての所感」という記事を寄せており、塩竃について「島や岬に囲まれて中が静謐で防波堤の設備も要らない。即ち天与の条件は上々」と述べ、気仙沼湾について「口元がくびれているから津波の被害も激しくはない。即ち天与の良地形」と評価していた。これは明治三陸、昭和三陸、チリ津波等に対しては正しい評価であったが、いずれも東日本大震災では港湾と市街地に浸水を生じている。

興味深いのは、同じ号に掲載された地震学者加藤愛雄氏による「津波の跡をたづねて」という記事である。加藤氏の記事は女川町を中心にめぐり、女川港の検潮所のデータや駅まで冠水した写真を掲載したものである。験潮データからは干潮時に5.4mの津波が押し寄せたことを示しており、干満差が0.6m程度のため、これが満潮時の場合だと6m程度の想定が必要であることを示していた。

原発は女川湾の外、南側に所在し、女川港からは6.5km程の距離。「地形的にはそのまま当てはめられない」というのが専門家の見立てだろうが、『港湾』を受け取った平井氏はこの記事からも、津波に関して再認識したのではないか。まぁ、発災時の報道や浸水した八戸火力の方が印象強いだろうけども。

(2)「電力中央研究所における発電土木関係研究の動向」(『発電水力』1967年11月号)

当時電中研で行っていた研究の紹介。読んで分かることは原子力土木関係が多く、福島第一専用港湾に関するものもあった。翌年にJEAG4601の作成に関与したり、東北電力の海岸施設研究委員会に呼ばれることになったのは、こうした研究を直接担当することはなくても理事として予習していたからだろう。だが、これらの研究に津波を強く意識したものはない。だから、津波に関して問われても、一般的な東北出身技術者以上のことは言えなかったように思う。

(3)「電力界の怪物紳士録」(『政経人』1969年8月号)

『政経人』とはかつて発行されていたエネルギー業界誌である。上記は取締役クラスの人物を多数論評したもので、経歴・業績に関する記述の正確さ、および社員から聞き取らないと書けないであろう差配ぶりから、一定の批判者が内部にいたことが分かる。『エネルギーフォーラム』は『電力新報』と名乗っていた頃から社内事情に関する記事が載るが、この雑誌も同じで実質的な文責は編集部と考えて良い(昭和時代の電気新聞では広告も見かけた)。SNSで電力関係者が「匿名で」生々しい悪口や政治主張を重ねるのは、こうした文化に影響されたものだ。

その中で「前人代的な平井弥之助」として1ページ程の論評をしており、ピークは日本発送電時代から1950年代の只見川開発に「子分」を連れて乗り込んだ頃だという。大島達治氏の文章で最初に引用した「結果責任を負う事業経営のあり方」を再読すると「一番弟子を任ずる私が」とあり、確かに子分を作るタイプではありそうだ。

特に、次の人物評が興味深い。

しかし、一方では押しつけがましい判断で処理してきたのを、いかにも判断力があるように見られていたにすぎない、というきびしい見方もある。言い方は悪いが、土木や出身だから無理ないにしても、親分、子分の関係が身辺に強く、お山の大将的な性格をもっている。電力界で、いまなお、このように前近代的な在り方を好む性格に、手厳しい批難の声があがっているが(中略)土方相手の仕事では、他人の真似られない特技を持っているというわけだ。

(中略)日発出身の平井は、副社長までやったが、東北電力の連中からみれば異邦人的な存在だった。(中略)しかし、元東北電力社長の内ヶ崎贇五郎が日発出だったことをからみれば(中略)やはり、平井自身のやり方が社内の肌に合わなかった、とけ込めなかったとみる方が正しいだろう。

(中略)鼻につくほど東北なまりが強く、言葉のやりとりが不充分で、それが東北人の特色である素朴さとつながらず、むしろマイナスになった。

日発時代の仲間は新生東北電力にあまり来ず、既存の社員達とは肌に合わなかったので、新入社員を薫陶したと考えると合点がいく。

電中研理事については閉職とも書いており、その辺は文系だなとも感じるが、「現場の親方向きで近代的センスが求められる経営者のウツワではなかった」などは当たってるのだろう。「近代的センスの経営者」が福島第一をどうしたか考えてみれば、平井氏を凡庸と見るようになった私でも「適材適所はあるだろう」とは思うが、事故の半世紀前だと、先を見通せる人はそういないだろう。

こうしてみてくると「結果責任を負う事業経営のあり方」に書かれていた大島氏ではない人による逸話「平井さんは女川に金を掛ける提案ばかり強調するので退任させられた」という話もまんざら嘘ではないように見える。予め最適とした15mを、海岸施設研究会は変更出来ていないし、その顔ぶれに平井派は居なかったのだろう。ひょっとしたら、議事録を残したがらない癖を良いことに「15mでは足りないかも知れない。もっと高く」という平井氏の提案を「金がかかる」ので没にするための委員会だったのではないか。

平井氏が一体どんな「金のかかる提案」をしていたのか、是非見てみたいものだ。

(4)「所感 情報管理技術に期待するもの」(『情報管理』1969年12月号、リンク

J-stageで読める著述物。技術情報の収集に苦労しており、電算化への期待が伝わってくる。実プラントに係わる委員まで務める中、情報の入手で苦労し、「金がかかる」予防的知見に基づいた設計の根拠づけに、日々苦労していたのかも知れない。21世紀の今は、SNSに匿名の愚痴用アカウントを作り、眉を顰めるような暴言を吐く関係者の装飾品として使われるようになったが、隔世の感がある。

(4)補足 新仙台火力への「指導」

情報収集関連で当時の話を一つ検証しておこう。大島氏の「結果責任を負う事業経営のあり方」によれば、「昭和45年新仙台火力の建設にあたり、仙台新港の入口にある火力を、貞観津波に備えて標高+10mの防波堤で護れ」と平井氏が指導し、電力だけそのような護岸に出来ないので発電所本館の壁面強化でお茶を濁したそうである。

この話も他の資料で検証する。かつて仙台湾塩釜港の開発について語った平井氏であるが、その後、現在の姿の原形となる仙台新港の計画が発表されたのは1962年10月のことであり、1964年8月原案通り決定。この際に防波堤の計画も模型実験を経て定められた(『貞山・北上・東名運河事典』管理人殿による。元は『みなとを拓いた四百年-仙台湾沿岸域の歴史-』1987年8月、運輸省第二港湾建設局塩釜港工事事務所からの引用、リンク)。

新仙台火力が埋立地の一角に用地を確保したのは1960年代後半のようで、1号機は1969年に着工、1971年運開。当時の発電所は、電源開発調整審議会をパスする必要があったのだが、その予定表を見ても1969年6月の着工となっていた。発電原価(送電端円/KWH)は2円70銭。同時期の東電鹿島3・4号2円29銭、中部電力渥美2号2円25銭、福島3号2円58銭など、他の太平洋岸火力・原子力と比べても高価だった(「記録的な電源開発の背後にある問題点」『エネルギーと公害』1969年6月5日)。1号機は共通で使用する付帯施設込みであるのかも知れないが、実験の裏付けも無く、発電原価を更に押し上げる提案は受け入れられなかったのだろう。

そもそも「指導」するには遅すぎる。本当に岩沼千貫神社の件が頭から離れなかったのであれば、模型実験をしていた6~7年前に話しておくべきこと。態度が変わったのは、女川の件で勉強し、且つ1970年に刊行された吉村氏の『海の壁:三陸海岸大津波』を読んだからではないかと考える(特に、公式記録と証言の食い違いのあたり)。

1970年だと本館は着工後で敷地高の変更は不可能。そのため、防波堤の強化を提言したのだろう。それ以前に積極的な対応を取った形跡は認められない。なお、補足的に述べるなら仙台港の調査を開始した1961年度より潮位は項目に入っていたが、国が港の奥に験潮所を設置し継続的に観測を開始したのは1970年の10月である(海岸昇降検知センター、リンク)。指導も片手落ちで、発想的には建物の水密化が入っても良さそうだがその記述は無く、東日本大震災では津波で内部まで浸水した。

(5)「土木技術者と電力界について」(『発電水力』1970年9月号)

各社の土木系出身の重鎮と開いた座談会であり、今のところ平井氏の技術観を最もよく伝えている。1970年は時期的にも注目すべきだ。

まず、関西電力の吉田氏が水力から原子力に転じた技術者達が配置設計で苦労していると水を向けると、平井氏は自己の職歴として若い頃に送変電系統の勉強をしてから他に転じたこと、水力に限らずオールマイティな能力が必要であること(大意)を語り、次のように述べた。

ダムだけの熟練技術者であるなどということは、私は非常におかしな話だと思い、腹の底では軽べつしたくなります。それでは、あなた、鉄塔を設計してごらんなさいといっても、送電線路の特性が解らないので狼狽するだけです。(中略)この点は水力土木屋さんによくよく考えてもらわなくてはならないことでしょう。そこで、水力発電土木を発電土木という表現にかりにしたとしますと、原子力だって、火力だって、鉄塔でも、基礎でも、水力発電土木より拡大されることになります。もともと熟練した水力発電土木屋は火力・原子力の土木部門、送変電線路でも何でも電気事業に関連する土木技術はすべて消化できるものなのです。ただ、例えば火力発電所の運転、送変電線の特性式は起りうる現象の経験がないため、水力発電土木技術の能力をうまく適用できないに過ぎないと思います。

ですから、それで有能な発電土木技術者に火力・原子力発電に関する土木的な施設の特性とその効用を充分説明をすれば先ほど吉田さんがおっしゃったとおりに、火力・原子力発電所と附属設備のレイアウトなど、よい計画設計ができるのです。

(中略)また、現在は技術の研究陣容ならびに請負者の陣容も整備されております。このような現状において、電力側の土木技術者は両者をうまく利用して、電力側の望む土木工事を完成せしめることが、これからの水力技術者のあるべき姿だと思っているのです(後略)

※引用者注。改行を追加。

やはり原典に当たるのはよい。良くも悪くも、どういう思考で女川に接したかが分かる。要はゼネラリスト的な人物であり、それ故に津波の問題にも妥当な気配りができ、蛸壺化した専門知識が「邪魔」をしなかったということ。下手に狭い部分だけ見識があると、あれこれ理由を思いついて経済性の面から敷地高を値切る恐れはあっただろう。女川1号機の設置許可申請の「せいぜい3m」を強調する文章には、審査側に危機感を持たせぬように配慮したものであり、その残滓がある。

これに関連して引用するが、例の大島氏は、あるエッセイでエリート主義を背景とした高木仁三郎への反感を記している。

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大島氏にとり、高木氏が著した「核施設と非常事態」のような警告論文は非常に鬱陶しく、見たくないものではあっただろう。

だが、この点は平井氏の教えから逸脱したものだった。平井氏は「調査研究のためには堂々とわからぬ点は遠近を問わず、学歴などを問題とせず、当時工夫または工手と呼んでいた熟練工にも頭を下げて教えを乞うた」(『発電水力』1970年9月号P72)と述べていたからである。「エリートだから問題を起こすはずがない、悪いのはバッシングするマスコミと原子力情報資料室だ」という辺りで、馬脚を現してしまった。色々述べてるが、このエッセイを見ていると前半の部分は何でバッシングを対置するのか意味が分からないし、結局エリート主義の縛りから自由にはなれなかったのではないか。これでは平井氏といえども、草葉の陰で怒り心頭だろう。

生前、言葉が少なかった理由もこの座談会で分かった。当人による意図的なものだ。先の説明に続けてこう述べている。

私はあまり経験談は言わないことにしているのです。経験を言うと、武功談になりがちですから、発達に邪魔となります。工事が完成したときは既に次の時代に入っているのですから、やったことは成るべく忘れて新しいことを考えなければなりません。

この点も、リタイア後に自伝や著書を刊行する大島氏とは異なっている。『政経人』に「言葉のやりとりが不充分」と書かれたことを気にしての弁解だったのだろう。確かに、若手の発想を頭ごなしに削ぐような経験談の押し付けは問題だろうが、自分の仕事に関する詳細を引き継ぐ点からは、それが業務工程に組み込まれて行った原子力には全く不向きであった。もし平井氏が記録主義者であれば、海岸施設研究会の資料も確実に残っただろう。

当時、ポランニーが暗黙知の概念を提唱して3年程過ぎていたが、それが野中郁次郎によって企業経営に取り込まれるのは後年のことだ。当時、こういう人物が上層部にいることは仕方なかった面もあるだろう。

この対談はかなりボリュームがあり、色々な話をしてるが、「水力出身なので水の怖さを知っていた」というような真偽不明のそれらしい説明を、次の発言と比較すると怪しいものだと分かる。何でも津波に結び付けるべきではないだろう。

土木屋の先輩にも罪があるんですよ。ということは、火力部門に行けば出世はもうとまったと判定していたわけです。

(中略)土質を扱うのは水力電気屋の分野じゃないんだ、こう言った人がおりますよ。会議のときに。そういうのを、あなた土質学知ってますかというと何にも知らない。私は岩盤しか扱わないんです。こう言います。そういうプライドを売ることもいいけれど、しかし、少なくともダムをやる人は、あらゆる分野のことを知らないでダムに手をつけたら、これは非常におかしなものですよ。

水主火従の時代、火力に従事する土木技術者はダム技術者より軽く見られていたようだ。しかし、ダムをやってても「岩盤しか知らない」などと蛸壺化した人の場合は、水の怖さについても中々津波という形に行きつかないだろう。また、福島第一のような初期プラントでは海水を原子炉建屋に導入したことで、漏水による腐食の問題や、地下水の漏れ出しが多く井戸を掘って水を排水しなければならなくなったなどの弊害が起きているが、岩盤の上に建屋を載せさえすれば良い、と考えて土質に無頓着であったのなら、そうなることは得心できる。

中には良いことも言っており、平井氏が発電土木という言葉を提案したのが切っ掛けで対談の終盤では電力土木という単語の創造に繋がり、ダム以外の電力土木設備についても取り上げる趣旨で、『発電水力』誌は『電力土木』誌に改名され、行元の協会名も1977年に電力土木技術協会に改まった。平井氏の本当の貢献は女川ではなく、後進に対し、視野を広げるための場を提供したことにあったと考える。

2022/11/1:古文書の定義を追記。

2022/11/2:八戸火力の設計経緯について追記。

2022/11/8:伊勢湾台風について東レの対策例を追記。

2024/3/13:八戸港周辺の過去津波被害、および八戸火力発電所のチリ津波被害について追記。

2025年7月22日 (火)

日本で接種することが出来ないワクチンについての一考察

当記事は「ワクチン接種に明け暮れた1年」の続きである。

欧米とのワクチンギャップ(任意・定期接種化されたワクチンの少なさ)をほぼ解消したとされる日本だが、潜在的なワクチンギャップは、まだ存在するのではないだろうか。

今後、日本で接種可能な(外国製)ワクチンは増やしておくべきだと考える。

理由は、南北に長い国土と多彩な四季が、様々な感染症の元になっている風土に加え、温暖化影響が加わっていること。国際化の進展により、人流が飛躍的に増え、コロナ禍で伝播性の高さを実証したこと。各国の食習慣が持ち込まれたりジビエ食振興で複雑多様化したこと。予防接種の発展によって医療費の抑制を図る段階にきていること、などからである。ジビエを食してE型肝炎となり、1~6週間入院するといった事態は、今後許容されなくなっていくだろう。また、安全保障上の問題もある。

国は、厚生労働省に審議会を設け予防接種施策について随時を検討を進めているほか(一例として2025年3月のスライド)、重点感染症をピックアップし、三菱総研など民間シンクタンクに依頼し「国内外の感染症治療薬開発動向等調査」をまとめるなどして開発中のワクチンについては把握に努めているが、既に上市されて年数の経ったワクチンについては、あまり関心を持っていないように見える。また、この調査を見ると当時P3治験に進んでいたワクチンは、承認済みの他社製品が存在するものばかりで、当該の感染症で新規に開発中のものはP1,P2治験が大半であった。2020年12月、m3に「ウイルス感染症ワクチンの開発成功率は10%」というニュースが流れており、P1に多数の治験が並んでいても、上手くいかなければ製薬メーカーの開発パイプラインから消えていくことが、統計的にも示されている。

なお、この調査後2025年、長崎大はmRNA技術を用いてSFTSワクチン開発着手を表明するなど(リンク)、新たな開発計画も出てきている他、国立医薬品食品衛生研究所では「臨床開発中もしくは既承認のmRNA医薬」の一覧を随時更新している。それぞれがピックアップしたワクチンは重複もあるが、被っていないものもあることに注意。

一方で、医療従事者用の感染症に関する専門書籍は多々あるのだが、高額なものを除くと網羅性はやや欠けており、渡航時の接種についても、あくまで日本の医療体制が及ぶ渡航前接種がアナウンスの中心となっているように感じる。

ネットを見ると、外務省は「世界の医療事情 地域別 ワクチン接種施設」にて、各国の医療情報を提供しているが、渡航先の各国で直近数年に認可されたワクチンは十分情報更新できていない様に思われる。典型例が認可の増えている手足口病エンテロウイルスA71用とデング熱であろう(これについては、各国の法制度を熟知した上で掲載していない可能性もあるが)。また、遺伝子組み換え技術を用いたワクチンについては、カルタヘナ法によりトラベルクリニックが常用する個人輸入も規制されている。

上記のような背景を示した上で、以下に、厚労省検疫所が案内している「海外渡航のためのワクチン(予防接種)」を列挙してみた。

  • 黄熱
  • A型肝炎
  • B型肝炎
  • ポリオ
  • 狂犬病
  • 日本脳炎
  • 髄膜炎菌
  • 麻しん
  • 風しん
  • 破傷風
  • インフルエンザ
  • ダニ媒介脳炎
  • 腸チフス

種類は限られており、日本国内で定期・任意接種となっているものが大半である。また、地域別と言っても、第三世界であれば腸チフスを追加する、或いは、南米とアフリカ中部であれば黄熱を追加する、という程度の変化に限られているし、多様な感染症への対応が出来ているとは言い難い。

更に酷いのは網羅性の不足で、日本および世界各国で接種可能なワクチンとして10種類が抜け落ちている。代表的な民間クリニックであるトラベルクリニック東京の一覧と比較すれば、その差は一目瞭然である。

  • ジフテリア
  • おたふくかぜ
  • コレラ
  • Hib:2008年日本で承認
  • 肺炎球菌:2010年代以降普及
  • ロタ(幼児用):2010年日本で承認
  • 帯状疱疹:2018年日本で承認
  • HPV:2010年代以降普及(接種控え時期あり)
  • コロナ:2021年以降
  • RS:2023年以降

しかし、これで全てではなく、世界を見る、他にも一般に接種されているワクチンが複数ある。

そこで以下に、上市済みのものから、ハイリスク者への勧奨や渡航前接種を可能にすべきと思われるワクチンを示す。これらはトラベルクリニックでも接種は不可能であり、特定国でのみ接種されている、或いは過去に接種されていたものである。なお、モダリティ(不活等、ワクチンの種類)については特に考慮していない。

  • デング熱:4血清型に対応する遺伝子組み換え弱毒生ワクチン、Qdengaを武田薬品が開発。20か国以上で認可。2014年に代々木公園でアウトブレイクして以降、温暖化で定着が危険視されている。第4類感染症。
  • 手足口病(AV71orEV71):2016年に中国で認可。任意接種(リンク)。その後タイでも認可。2023年には台湾でも認可(リンク)。エンテロウイルスは他にD68などの亜種もあり、全タイプに対応している訳ではない。日本でも流行はあるが、中国・東南アジアでは度々流行し、重症化傾向のあるEV71については幼児向けとしてワクチン開発に至った。第5類感染症。
  • プール熱(アデノウイルス):血清型は多数あるが、4型と7型についてはワクチン開発され米軍で接種している(リンク)。第5類感染症
  • E型肝炎:動物由来。2010年に中国でヘリコン認可。有効性8.5年とされる(リンク)。中国以外ではパキスタンで認可したのみ。他、2022年の南スーダンを皮切りに、国境なき医師団により紛争地域での接種例あり(リンクリンク)。ジビエ等でも警戒される。第4類感染症。2014~2021年の報告例によると、近年日本でも増加傾向(リンクリンク)。
  • Q熱:動物由来。オーストラリアでは畜産業従事者をハイリスク層として接種(リンク)。第4類感染症。
  • 野兎病:動物由来。病原体はBSL2施設を要す。1950年頃、ソ連にて年間1000万人に弱毒生ワクチンを接種し現在はその改良株がある。現在も米露で一部ハイリスク者に接種(リンク)。第4類感染症。本邦での発生はほぼ無くなっているが(リンク)海外の北緯30度圏ではある。
  • レプトスピラ症(ワイル病):動物由来。ヒト用は、かつて農業従事者に接種(リンク)。2009年の厚労省資料のPDF15枚目には、まだ掲載していた。第4類感染症。
  • 腎候性出血熱(ハンタウイルス,HFRS):4類感染症。東アジアを中心にユーラシア・北米・南米でも発生。ネズミを通じて媒介(リンク)。日本では長らく発生していないが、港湾のドブネズミからはウイルスを検出(リンク)。中国・韓国ではワクチン開発済。近隣国との人流の太さを考慮すると、黄熱の様に、渡航用として三大都市圏の一部医療機関で扱う程度はあってもよいのではないか。1990年代に米軍がワクチン開発したこともあり、その着想の方向性に倣うのであれば、自衛隊関連での扱いも検討すべきだろう(リンク)。日本では、北海道大で2001年から2003年に遺伝子組み換えワクチンが研究された。(リンク
  • 天然痘/mpox:1976年までは日本でも天然痘ワクチンを定期接種していたが、世界的撲滅により以降はなくなった。天然痘は第1類感染症であり、それゆえバイオテロのリスクを指摘されている。現状承認されているワクチンはいずれもmpoxと交差免疫あり。三菱総研の調査に記載されている品目の他、2022年にロシアも天然痘/mpox用ワクチンを開発・承認している(リンク)。mpoxは第4類感染症だが、流行国は多いので渡航前接種可能にする意味はあり、性感染症として国内でのアウトブレイクが発生した場合も、トラベルクリニックで接種可能なら対応力は高まる。

    現在はmpox用ワクチンが米加で接種。米国の場合、第二次トランプ政権前の話だが、CDCが17歳以降の接種スケジュールに、性感染症対策として記載していた(リンク)。KMバイオロジクスはLC16をmpox対応用として2022年厚労省より効能追加の承認を受け(リンク)、2024年、コンゴに提供したことがある(リンク)。一時期、一部トラベルクリニックで接種受付の旨記載されていたが、現時点では特定の医療機関で研究の一環で接種をしているという、予防的には残念な状況にある(国立成育医療センター、リンク)。研究とは、MSMへの接種を通じて安全性を確認することと、参加しているクリニックの説明にある(リンク)。生ワクチンのLC16は有効性が高く見込まれるが、海外製の輸入と並行しない姿勢には、疑問の声もある(リンク)。
  • エボラ出血熱:ザイール株に対応したワクチンのみ上市。他にスーダン株などあるがワクチンは未開発である。第1類感染症である以上、アフリカ中部への渡航前に、接種出来る体制が適切と考える。後述の様に、アフリカへの経済進出等を強化している中国は、エボラワクチンを自国開発済み。駐在員・移民・現地民への提供用と思われる。

比較的著名なものはワクチン上市の根拠リンクを貼っていないので、各自調査のこと。

なお、上記のリストからも除外したワクチンがある。

  • マラリア:GSKにより2021年にワクチンが上市されているが、有効性が低いので除外。短期滞在であればこれまで通り、マラロン等の予防服薬になるだろう。今後の後発品による成果が待たれる。
  • チクングニア熱:2025年に米欧でVLPワクチンが承認(リンク)。米国立衛生研究所に勤務していた赤畑渉氏の技術を元に、デンマークのババリアン・ノルディック社が製品化(リンク)。リアルワールドでの実績はこれからであり、まだデング熱・マラリアほどは蔓延していないため今のところは除外。良好であれば2020年代後半には本邦でも輸入について検討すべきだろう、と思っていたが、2025年6月末より、トラベルクリニック東京では早くも取り扱いを開始した(リンク)。よって、課題は今後の輸入ではなく、日本の厚労省による承認にシフトした。
  • 南米出血熱:1979年、アルゼンチン政府と米陸軍により弱毒生ワクチンが開発済み。アルゼンチン国内で26万人に接種実績あり。2012年、厚生科学審議会感染症分科会にて病原体管理規制から本ワクチン株を除外する旨の審議が為された(リンク)。1類感染症でもあり、国立病院機構等、黄熱以下の限られた場所にて、渡航者向けに接種可能なように準備はしてよいかも知れない。
  • 東部、西部、ベネズエラウマ脳炎:ワクチン開発済みだが、北米・南米でも研究者向け以外の接種はなく、除外(リンク)。
  • リフトバレー熱:アラビア半島からマダガスカル、サハラ以南のアフリカにて流行。4類感染症。不活ワクチンが開発されているが、承認も市販もされていない。ハイリスクな獣医師等に試験的に接種(リンク)。日本はアフリカとの関りが他地域に比べ希薄でもあり、除外。
  • ペスト:生物兵器対処用であり、防衛の観点からの備蓄・法整備に係るもので、日常接種としては除外。1994年に米国で導入されたことがあるが(リンクPDF17枚目)、有効性に疑問符を持たれたことも理由(リンク)。厚生労働省のバイオテロ研究班によると、既存の感染研製ホルマリン不活化全菌体ワクチンは腺ペストには有効であるが、肺ペストにはほとんど効果が認められないとのこと(リンク)。新規ワクチン開発後、バイオテロ用に備蓄する方向性が良いと考える。
  • 炭疽菌:生物兵器対処用であり、防衛の観点からの備蓄・法整備に係るもので、日常接種としては除外。

また、安全保障の観点からは今後も自衛隊は農村・田園・山林地帯での作戦行動は重要なため、動物由来感染症対策として必要なものを再度選定し、接種できる体制の構築が望ましいと考える。PKOの派遣実績が出来、また地下鉄サリン事件があった直後の1995年5月、「陸上自衛隊予防接種等実施規則」が定められ、以来数年おきに改訂されているが、第3条の予防接種等を行う疾病は、1990年代の水準のままである。第4条では定期予防接種として全隊員に破傷風、医療従事者にB型肝炎が定められている。

現状認可されているワクチンだけを取っても、打っておくべきものは色々ある。普通科隊員などは、道具類の一部を自弁する習慣があるようだが、衛生面においても、プライマリケア学会のキャッチアップスケジュールなどを参考に、(出来れば入隊前に)自主的に追加することが、当人の将来にはプラスだろう。もっとも、近年の若年層隊員は多数の接種を幼児期に行っているので、入隊後の負担は少ないかも知れない。なお、自衛隊員は体力のある男性の集まりでもあり、実態として風俗利用に関する証言(悪評)も聞くが、性感染症ワクチンにおいても同様である)。

このような意識は意外にも、血液製剤による薬害エイズ事件の被害者にして著名な反ワクチン論者である、川田龍平氏の方が、議員としては先んじていたようである。川田氏は災害時の備えとして、一般隊員へのB型肝炎ワクチン、防衛大でアウトブレイクを起こした髄膜炎菌のワクチン接種について質問したことがあるが改正には至らなかったようだ。2025年参院選は落選し、反ワクチンの弊害が目立っていたので同情もしないが、触れておく。

現状、日本で打てないワクチンについては尚更である。防衛省は2002年「生物兵器対処に係る基本的考え方について」を明らかにし、その中で「予防」という節でバイオテロまで見据えてワクチンの確保の重要性を認識している。天然痘ワクチンについては、この時点で所要量を確保したが、mpox蔓延時に短期間でハイリスク層に集団接種可能か、正規軍の都市攻撃に対して十分な量かなどの見直しは必要だろう。なお、防衛省の資料を読むと炭疽菌、ペスト用ワクチンなど当時、日本では認可されていなかったことも分かる。2009年に厚労省は「国内でのテロ事件発生に備えた対応について」という資料をまとめており、先の天然痘の一類感染症指定、医療機関への各種研修、都道府県の行動計画作成、医薬品の備蓄などを措置してきた。このように一定の進展はあるものの、ペスト、炭疽については20年以上経過した現在でもワクチンは未認可のままなど、課題もある(JIHS感染症情報提供サイト、ペスト炭疽は共に2025年5月更新)。

生物兵器対処能力の獲得だけでなく、野戦環境への適応も同様である。私は昔ミリタリーマニアだったものの、軍事の実務知識は持っていない。だが、環境省が狩猟者向けに作成した「動物由来感染症について」という注意書きには、8種類の感染症が列挙されている。山林で活動する陸上自衛隊員にも感染リスクはそのまま当てはまる。一方で現在日本で使用可能なワクチンでは、8種類の感染症を一つもカバーすることが出来ない。

しかし、上記に列挙したワクチンが使用可能であるならば、E型肝炎、野兎病、レプトスピラ症、Q熱の4種類は防ぐことが出来る。実戦は演習よりも作戦期間が長期化し、疲労による免疫力全般の低下と不衛生から感染リスクは上がり、予防接種の重要性は増すだろう。近年は海外での共同演習も増加しており、米・豪など、先進国レベルの医療水準を持つ国に渡航した部隊には、日本国内での未認可ワクチンを接種することも、弥縫策として検討に値するだろう。

仮想敵たる人民解放軍の場合、人命を濫費する姿勢は過去のものとなりつつあるが、軍とワクチンについても例外ではなく、中国のアフリカへの経済進出に際し、エボラワクチンの開発に関わり、2017年に承認されたという(出典は人民網Bloomberg)。有効性や質の問題はあるかも知れないが。このほか、森林・山岳戦の特殊部隊などには、世界的に普及しているB型肝炎などの他、ハンタ、E型肝炎や旧ソ連圏の技術である野兎病、労働党政権時代に友好関係にあったオーストラリアからQ熱ワクチン程度は入手の上、接種しているのではないかと推定する。創薬技術の関わりについては2021年の「中国のCROも注目するオーストラリアの臨床開発環境」という記事が示唆している。

なお、松田健輔事務所は、2025年6月に公布された中国人民解放軍実施「中華人民共和国薬品管理法」弁法の翻訳を載せているが(リンク)、そこには戦備医薬品備蓄制度についての記載があり、定期接種対象は不明だが、ワクチンの調達に関しても、相応の準備をしていることが分かる。主要政党に少数とは言え反ワクチン論者を抱え、党がまるごと反ワクチンの参政党が跋扈する日本とは、対照的にさえ思える。

と、ここまで色々紹介したが、私の独断によるリストアップなので、今後追加・修正はあるが、参考までに。

定番の反論として考えられるのは「流行していない(清浄国)なので不要」というものだが、先にも述べたように今後清浄国であり続ける保証はどこにもない上、狂犬病ワクチンのように清浄国でも接種されている例はある。また、手足口病、E型肝炎、プール熱、Q熱、レプトスピラ症などは(少数のものもあるとはいえ)毎年発生している。そして繰り返すが、ハイリスク層の存在を意識しているから、このような提言を行っている。

当然だが、「知らないワクチンだから開発中の品だ」と勝手に決めつけるのは論外。他、よく議論の的になるのは、ワクチンを接種しない自由だが、反対にワクチンを接種する自由については、標準医療を支持する人達も、無条件に種々の大して意義もない限定をしてしまっているのではないかと思う。

2025.7.23:全般的に追記

2025.8.5:チクングニア熱ワクチンの輸入開始を追記

2025年6月30日 (月)

ワクチン接種に明け暮れた1年

昨年7月に手足口病にかかって会社を1週間休んだ。

大人向けの治療をしてくれるクリニックは少なく、苦労した。また、仕事に1週間の穴が開いたのを埋めるのはかなり苦労した。

手足口病は症状が消えてもウイルスの排出は2~3週間続くので、実質1ヵ月ほどは遊び目的の各種催し、イベントも取りやめた。

こうして、成人の感染症の面倒くささを実感したので、手足口病は日本でワクチンが打てる病気では無いが、以来、衛生対策を見直すきっかけとなった。

まず、簡単に出来ることは手指衛生で、コロナ禍以来アルコール消毒に頼ることが多かったが、手足口病やノロウイルスの様に、アルコールが効かないものもある。そのため、酸性アルコールを常備したほか、仕事や外出の際も、石鹸での手洗いが可能な時はそうするようにした。

次に切り替えたのはワクチンの積極的な接種である。

それまでもコロナワクチンの公費接種は7回の機会のうち6回は打っていたが、ご存じの通り2024年4月以降は自費。

年1回の接種程度は継続することにした。その後調べを進めたところ、株の選定はほぼ毎年1回の割で更新しており、2024年、2025年はいずれも10月からの新製品発売となっていた。最初はこれを知らず、2024年9月に打ってしまったが、多少支出になってしまったものの、1年有効性が持続するコスタイベを2025年1月に接種し、以降は新株切り替えに合わせることにした。

大きく変えたのは、他のワクチンも順次接種することにしたこと。

ワクチンなんて子供の頃に打ったから大丈夫だろうと思っていたが、ポリオ生ワクチン以外、ほぼすべての有効性は切れていたことを知り、プライマリケア学会のウェブサイトを頼りに、成人が打つべきものを順次選定し、打っていった。

母子手帳も確認した。BCG、ポリオ、ジフテリア、日本脳炎、麻疹など最低限必要なものは打っていたが、1980年代に打てたものの内、風疹とおたふくかぜについては義務ではなかったので、親がパスしていたことも確認した。

政治も考慮することになった。2024年10月上旬、アメリカ大統領選ではトランプが勝利し、反ワクチンが隆盛することが確定。2025年以降、徐々にアメリカが感染症輸出国になると想定された。実際に年が明けてからアメリカは麻疹が流行し、そのようになりつつある。

2024年秋から冬にかけては、冬コミと初詣に参加したかったので、その頃に免疫誘導出来ているようにするため、割とハイペースに次の通り。

  • 9月中旬:コロナワクチン(ファイザー)
  • 10月上旬:インフルエンザワクチン1回目
  • 11月初頭:MRワクチン(武田)
  • 12月初頭:5種混合ワクチン
    ※幼児向けをクリニックと交渉の末、接種。主としてHibの成人接種1回をクリアするため
  • 12月10日頃:肺炎球菌ワクチン(ニューモバックス)
  • 12月20日頃:おたふくかぜワクチン
  • 12月30日:インフルエンザワクチン2回目(ブースト用)

この間、ウェブサイトの一般向け解説(まともな標準医療のもの)を確認し、少しずつ知恵を付けて行った。接種間隔は不活なら狭められることも知ったが、12月に多数打って肌荒れしたことから、以降は月1回、多くても2回に制限した。

今している仕事は海外出張の機会はあるが、日頃から接種しておけば、急場で多数打つ必要もない。

2025年以降は、コスタイベの接種場所が限られていたことから、かかりつけ医以外も利用することにした。また、接種すべきワクチンも、成人が打てるものは全てに切り替えた。医療費の削減傾向は政策論議から見えてきており、例え一時的に撤回や譲歩を勝ち取ったとしても、後半生のQOL維持にはワクチンが必要と判断したためである。

これは、各地のクリニックを知るいい機会ともなった。

その内、MRワクチンやおたふくかぜワクチンの出荷が一時停止し、一方で、2025年の年明けから(ある意味予想通り)麻疹や百日咳が流行してきた。先回りして接種したのは、既に感染防止上メリットを生み出してる可能性がある。

  • 1月中旬:コロナワクチン(コスタイベ)
  • 2月下旬:帯状疱疹ワクチン(シングリックス1回目)
    ※50歳以上対象だが、水疱瘡経験者であり近年の低年齢化+痴呆、可能性としての抗ガン治療対策を先回りするため接種
  • 3月下旬:MMRワクチン(MSD社M-M-R-II)
  • 4月下旬:帯状疱疹ワクチン(シングリックス2回目)
  • 5月中旬:B型肝炎ワクチン(ヘプタバックス1回目)
  • 5月末:RSウイルスワクチン(アレックスビー)
    ※アレックスビーは50歳以上の基礎疾患リスク持ちに適用だが、医師に相談して接種。
     高齢の両親に感染させない、肥満気味(BMI25前後)、が理由だが、風邪でスケジュール狂わされたくないのもある。
  • 6月中旬:A型肝炎ワクチン(エイムゲン1回目)
  • 6月末:B型肝炎ワクチン(ヘプタバックス2回目)

こうして、2025年前半は8回の接種を行った。この間、専門医の執筆した家庭医学書、ブルーバックスなどで病原体、感染症、予防接種知識の吸収に努め、一部は医療従事者向けのものにも手を出した。ワクチンと異なり直接的な効果は無いが、知識は身を助ける。

色々学習し、クリニックの様子を見て感じたのは、人から貰っても重症化させない(or発症防止)の他、自分からうつさないことへの再認識だった。職場には子育て世代が多数いる。彼等から感染させられるリスクの他、こちらからうつしてしまい、場合によっては一生の恨みを買うことになるのは避けたかったのだ。

7月以降は次のように検討している。

  • 7月中旬:A型肝炎ワクチン(エイムゲン2回目)
  • 7月下旬:髄膜炎菌ワクチン
  • 8月:狂犬病ワクチン(ラピピュール)
  • 9月:HPVワクチン(9価1回目)、日本脳炎ワクチン
  • 10月:コロナワクチン(ヌバキゾビッド)、インフルエンザワクチン1回目
  • 11月:B型肝炎ワクチン3回目、HPVワクチン2回目
  • 12月:A型肝炎ワクチン3回目、肺炎球菌ワクチン(PCV20)、インフルエンザワクチン2回目

2026年以降へ持ち越すのは下記だが、渡航は、当該国に行く機会が出来たら実施...という程度で、絶対ではない。

  • HPVワクチン3回目
  • ダニ媒介脳炎ワクチン
  • 腸チフスワクチン
  • コレラワクチン
  • チクングニア熱ワクチン(VLP。2025年6月末より日本でも一部トラベルクリニックで扱いが始まり、一般接種可能となった)
  • 黄熱ワクチン(渡航可能性証明できれば)
  • mpox/天然痘ワクチン(一般接種可能となっていれば)
  • デング熱ワクチン(Qdenga。一般接種可能かタイで接種出来れば)
  • 手足口病ワクチン(一般接種可能かタイ・台湾で接種出来れば)
  • ハンタワクチン(韓国で接種出来れば)
  • Q熱ワクチン(オーストラリアで接種出来れば)
  • ノロワクチン(モデルナにて3相治験中。成功し承認されれば)

以上、暫くブログを更新していなかったが、ワクチン接種について個人記録と展望をまとめた。反ワクチンの活動が活発となっているが、実際に接種した姿を公表することで、そのような愚かな考えから縁を切る人が増えればと思っている。

【7月20日追記】

長くなったので「日本で接種することが出来ないワクチンについての一考察」に分割した。

2024年8月27日 (火)

家の片づけとブログの見直し

ここ2年近くブログを更新できていないのだが、その理由は、現実生活が忙しいからであった。

そのハイライトとして、家の片づけがある。

だが、それも山を越えた。その間、新たな知見や資料も手に入った。

ブログというメディアは廃れつつあるが、Xの長文投稿に比べるとまだ使いでもあり、収益化を目指していない場合は、結構いけるのではないかと思っている。

なお、見直しに関してはブログも同様である。

例えば故安倍晋三氏だが、自分としてはコロナ禍での振る舞いについてはかなり評価している。安全保障政策も、ロシアとの対話傾向はともかく、防衛への力点はそこまで異常だったわけでもないと、特にウクライナ戦争開戦後は思うようになった(元々、自衛隊廃止論者などとは一線を画している立場だが)。それに比べるとコロナ禍初動で書いた記事等にはあまり適切ではない表現があり、今回見直しした。

また、個人情報を過度に出していると思われる記事、原発問題に関わりの薄い案件についても、その後の推移から私自身の不明さ・甘さを痛感する点もあり、幾つかは削除した。

2023年9月25日 (月)

何も書いていないが

そろそろ何かアップする予定。

※1年放置すると書けなくなるそうなので、その防止のための記事。

2022年9月 7日 (水)

あらかじめ失われていたドライサイト~福島第一建設期の盲点~

福島事故訴訟も提訴から10年が経ち、同種の訴訟が30もある状況となると、幾つかの傾向が見えてくる。

今回はその中で、いわゆるドライサイト論争についての見解を取りまとめる。これは、回避可能性に関する議論の入り口にあり、予見に比べて勝ち越しの頻度を下げる一因になっていると思われるからだ。

具体的には、福島第一原発の敷地の高さ、非常用電源の配置、水密化などの回避可能策が後知恵では無かったことについて2回に渡り、時系列順に追っていく。

数年前、このブログの「プロフィール」欄に過去記事一覧ページを設けた。

真剣に考える方は1つ1つの記事ばかりでなく全体の流れも追うだろうと思って設けたが、単行本とは異なり、分かりにくかったようだ。求められれば個別に解説などもしているが、いわば「頻出問題」については標準的な回答を作っておいた方が良いだろうと考えを改めた。また、論争の詳細化で、マスコミ好みのキャッチーな常套句や、思い付きでネットに放流された噂話的な情報は完全に価値を失った一方で、これまで発表する機会のなかった資料についても使いどころが到来したと感じている。

またこの記事では建設初期に敷地高と津波の関係について詳しく論じた、小林健三郎という東電の技術者を軸に述べる。勿論、他の重要人物についても随時紹介する(なお小林については数年前から取り上げている)。彼等の横顔を調べるのは、それが東電の意思決定に直結するからである。特に小林は、1号機の運転開始前に取締役になった。だが、一般的な原発事故本や訴訟では殆ど触れられていない。当ブログではそのような埋もれた事実を色々示していくので、今後の参考にしてもらいたい。

まず、ドライサイトと言う概念のおさらいをする。

検索すると上位に関西電力の説明がヒットするが、次のように説明している。

発電所敷地に津波を侵入させないこと。*新規制基準審査ガイドでは、重要な安全機能を有する設備またはそれを内包する建屋の設置位置高さに基準津波による遡上波が到達しないこと、または到達しないよう津波防護施設を設置していることと整理されている。

原子力ライブラリ(関西電力、リンク

ただし、事故後に規制庁などが使いだした「ドライサイトコンセプト」は本来の「ドライサイト」に比べ違いもあるようだ。東電原発事故群馬訴訟で国側は「敷地の高さ」に加えて「その他の方法」を挙げており、上記の関西電力の解説もそのようになっている。その事情を説明した部分を引用する。

「ドライサイト(Dry Site)」という言葉は,米国原子力規制委員会(NRC)が定める規制基準1.102「FLOOD PROTECTION FOR NUCLEAR POWER PLANTS」に出てくる専門用語です。この規制基準は,本件事故の約35年前(1976年)に策定されています。

そこでは,ドライサイトについて,以下のように定義されています。すなわち,「プラントは,設計基準水位より高い位置(above the DBFL1 )に建設されているため,安全関連の構造物,システム,及びコンポーネントは外部溢水の影響を受けない。」というものです。
つまり,「ドライサイト」とは,設計基準水位よりも高い位置に原発を設置することを意味します。

(中略)

ところで,国が創り出した「ドライサイトコンセプト」なる言葉は,本件事故の検証結果をまとめたIAEA事務局長報告書の附属書類である技術文書第2巻がヒントにされたものと思われます。

その文書では,正に「The dry site concept」という言葉が用いられています。ただし,その意味は,国の説明とは異なり,本来の「ドライサイト」と同じ意味,すなわち,原発の安全上重要な機器を全て「設計基準浸水の水位よりも高くに建設する」という意味で用いられています。

国は,この「ドライサイトコンセプト」という,いかにも高尚な響きのある言葉に目を付けて,本来の「高い位置に設置する」という意味から,「水を被らせない」という意味に歪曲したものと考えられます。

意見陳述書(ドライサイトコンセプトについて)2018(平成30)年6月19日 原子力損害賠償群馬弁護団(リンク

※一部記述を省略・誤記訂正

設計基準水位というのは、設置許可申請に記載した津波想定や、その後の見直しで国に提出した津波想定を指す。日本国内の原発は建設当時の設置許可申請によれば、すべてドライサイトであった。なお、この反対概念としてウェットサイトとは、災害想定が最初から高かったり、後で高く見直された結果、災害時には敷地が水浸しになる状態を指す。規制庁の考え方に合わせるなら、災害時の防潮堤などの高さが十分でなく、水浸しになる状態ということだろう。

この記事は添田孝史氏の著作を読むなど一定の前提知識のある方向けに書いているが、参考に、東電が福島事故を模式図にしたものを示す。

P105

非常用海水ポンプなどがあるのが海抜4mのエリア(通称4m盤)、原子炉建屋が建っているのが10m盤である。

【1】1966年・・・建設時3mのチリ津波を想定。敷地高を7mから10mに変更する。

死後出版された追悼集によると小林は、1965年12月に原子力部長代理となり、1966年5月には改組された原子力開発本部副本部長に就任した。追悼集に転載された『京大土木百年人物誌』の小林料氏(東電の後輩)による紹介では「公害・原子力問題等を提起する反対勢力に対し、終始、真摯に対応し、地方自治体の理解を得つつ、数多くの地点で立地を成功させた」そうである。

全てが破綻した今となっては、この経験は建前と本音の使い分けを徹底する、忖度の化け物であることを示唆する。端的に言えば自社に有利な事実は示すだろうが、不都合な話は簡単には出さないだろう。後述する博論と専門誌にもその一端が見える。

さて、東電は設置許可申請の直前に、土木業界向けにプレゼンを行っていた。講演者は小林より6年程年上で既に常務取締役だった田中直治郎(追悼記事はこちら)。以前も紹介したがその内容が実際の申請と相違している。

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原子炉建屋のあるエリアが10m盤ではなく7m程度しかない。

この講演で不思議なのは、第3図として提示された建物断面図では10mとなっている点だ。

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なお、田中は波(津波ではなく突発的な大波)が東海村より高く、最大10mだと述べている。

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防波堤を設けて減衰させるにしても、7mよりは大波と同じ高さの10mの方が何かと都合が良さそうに思える。

この相違は、講演の次の部分と照らし合わせると整合が取れる。

19668-3335

敷地の造成は東電からゼネコンに直接発注し、当初計画は7mだった。以前詳しく論じたが、ターンキーの対象範囲ではない。それに対して、GEは10mを要求し、敷地図面の差し替えが間に合っていなかったので、「レベルについては多少の変更」と述べたのだろう。

小林健三郎が博士論文を書くのは数年後のこと。だから一旦その情報は無いものとして推測すると、防波堤があるとはいえ10mの大波に7mの敷地高は、台風時の高潮に弱いと考えられたのではないだろうか。

なお、図中にも赤字で示したが、この図だと配電盤(電源盤)やDG(非常用ディーゼル発電機)は1階に配置されている。後述するが、許可を取り、着工して2年程はこの配置が前提だった。後で地下室に移したのだ。

事故の翌月の朝日新聞記事で「米国のハリケーン対策のため地下室にした」という説が流され、それを今でも信じている人達が多い。この配置変更の経緯をきちんと書いた事故調査報告書が一つも無かったことがハリケーン対策説に拍車をかけた。大きな設計変更をしたら設置許可申請は出し直すので、それを追えばすぐに分かった話である。また、米国でも1階に配置しているプラントは複数あり、福島1号機より1年先行したGE製の敦賀1号機もDGは1階に配置している。従って、ハリケーン対策説は信憑性がまるでない。

ここで確認しておくべきことは、海抜7mから10mへ変更要求し、DGを1階に配置したのはGEの可能性が高い、ということだ。事故までの40数年中で、津波に対しては安全側の変更だったと言えるだろう。

私が2013年8月に書いたブログ記事では、この設計でも助からないと評したが、311時の津波は敷地の全域に渡って15mを超えていた訳でもなく、水密化されていない扉であっても、ある程度は水の侵入を阻んだため、建屋内部は1m程度の浸水で済んだ号機もあったことなどが、株代訴訟などで詳しく引用されている。だからDGと電源盤は1階という設計が維持されていただけでも、助かった可能性は大幅に上昇すると考えを改めた。

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情報の開示についても抜かりは無かった。ネットの無い時代に官庁や国会図書館に出向いて設置許可申請書を読むというのは、部外者には敷居が高く、設置許可申請書と言うものの存在自体も認知されていなかったと思われる。だが、上記1階の平面図は『電気雑誌OHM』1966年12月号に載った1号機の計画記事(リンク)に掲載された。同誌は地域のちょっと大きな書店なら売られていたから、時代性を加味すればこの点の公開性は十分であろう。著者は東電の管理職だった豊田正敏氏で、後に副社長に上りつめ、退職後は原子力懐疑派に転じてリベラルの受けは良かった。小林に比べると下位職に当たる。

【2】豊田正敏の嘘

なお豊田氏は事故後、ジャーナリストの斎藤貴男氏に次のようにコメントしている。

全部を見るわけではないし、第一、それぞれの担当者が見ているじゃないですか。あの時は工事が遅れ気味だったので、とにかく工期を守れ、急げ急げとばかり私は言っていた。

いや、本当は見てなきゃいけなかったのかもしれないが、私の、副社長の仕事はもっと大局的な、高速増殖炉とか、そういう問題なのであって、非常電源の配置なんてのは課長クラスの仕事ですよ。どこだってそうです。他の電力会社にも聞いてみるといい。

斎藤貴男『「東京電力」研究 排除の系譜』角川文庫(2015年11月)P57-58

まず一部は斎藤氏も言及しているのだが、このコメントには事実と嘘がある。職務分掌は組織の基本でそれ自体は正しい。しかし、豊田氏が副社長になったのはずっと後年のことであり、東電がTAPの名で事前研究をしていた1960年代前半は、技術課長の肩書で『電気計算』や『電気雑誌OHM』に投稿していた。

豊田氏の手になる福島第一の建設記事はCiniiでは4本あり、媒体の専門性は高い。その中で最初に出した上記『電気雑誌OHM』1966年12月号記事では東京電力原子力部とあり、『機械学会誌』1968年4月号(リンク)では職位は未記載だが、ほぼ同時である『電気学会雑誌』1968年4月号(リンク)、および後述の『電気雑誌OHM』1969年11月号(リンク)では原子力部部長代理であった。その他、1969年には社内の他の社員とつるまずに『原子力発電技術読本』(リンク)を刊行するなど、「急げ急げ」と言う割に対外発表には熱心だった(つるまずと書いたのは、他の社員達は分担で別媒体に執筆していたからである)。

増殖炉の担当ではなく、明らかに福島第一の担当であり、完全な部長としての権限さえ有していない。豊田氏の投稿実績はCiniiを使うだけでも大要が把握できるが、私が新聞や岩波科学に批判的なのは、彼を取材するにあたってそのような検証や事前の準備を行った形跡がなく、言い分のみを流したことである(一例のリンク)。安易なキャンセルカルチャー的発想で意見を言う場を与えないのは問題だろうが、あれだけ事故について書いてる割には何だかなぁ・・・と思うのである。

次に、豊田氏の言が正しいとすれば、東電の中では課長職が非常電源の配置を決める権限を持っていた時期もあったということ。もしそうなら約40年後、本店原子力設備管理部の土木調査グループが15.7m想定への対策を進言した時、止められてしまった行為(名前を取って株代訴訟地裁判決では武藤決定と呼ばれている)が、過剰介入やマイクロマネジメントの類であることを傍証する。しかも、同グループの課長職にあった高尾誠は津波対策を取りたいと考えていたが、3万数千名の社員の上に立つ東電首脳が開催していた、通称御前会議に出られる地位ではなかった(参考:海渡雄一『東電刑事裁判 福島原発事故の責任を誰がとるのか』彩流社P109)。

もっとも、豊田氏の主張とは異なり、取締役まであと一歩の地位で駐在していた小林健三郎の敷地高への拘りは、「課長の仕事」とはかけ離れていた。また「他社」である日本原電や東北電力は意思決定プロセスがある程度明らかになっているが、2000年代の原電はともかく、東北電力は取締役を経てOBとなっていた平井弥之助の存在が影響しているので(ただし検証の結果、世間で言われているほどではないことを確認。ブログ記事リンク)、これもまた、豊田氏の主張とは様相が違う。勿論、安全側への変更決定であれば、上位者によるその種の行為は必ずしも非難される性質のものではないだろう。

『OHM』記事を執筆した時点では1階に配置されていたので、実際に建設されて以降に係わった実務家と比べると、認識に齟齬が生じた可能性も考えられる。だが、上記の熱意から当時、配置は頭に入っていたと考える方が自然であり、言い分を率直に受け取るには難がある。余談だが、豊田氏は1号機の運転開始後に改良標準化に関する記事も投稿している。後続プラントで「改良」されたのは内部配置も含めてのことであり、関わっていたならその動機を含めて知らぬ筈がない。

豊田氏の評価はここまでとして、1966年以前の記録は十分発掘出来ていないので、津波にどの程度意識的だったかは分からないが、安全に配慮する設計変更が繰り返されれば、更に確実性の高い防護となっただろう。だが、続きを見ていくとそうはならなかった。

【3】1967年・・・2号機設置許可申請

2号機は1967年9月に設置許可申請を提出した。電気室は1階だが、非常用DGと蓄電池は地下1階に配置されている。この時点からこれら機器の地下配置が始まった。

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DGは1台だけという設計思想は変わっていないようだ。この2ヵ月前に米原子力委員会(AEC)で一般設計基準(GDC)の制定があった。詳細は後述するが、内容を吟味するため日本側は調査団を派遣したり調査報告をまとめるなどの対応を取っていたので、2号機の初回申請には含めなかったのだろう。なお、北側は1号機建屋の敷地なので仮に何かを追設しようとしても、増築は難しいことも分かる。

【4】1968年十勝沖地震・・・10m盤を信じていなかった現場

1967年1月、小林は原子力開発本部副本部長福島原子力建設所(駐在)の任を受けた。

翌1968年5月16日、十勝沖地震が発生し、日本各地に津波が到来した。この時、現場にいた日立の社員が2009年に回顧した文章が残っている。

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別の社員の記録も見てみよう。

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以上、東電は現場は4m盤はおろか、格納容器を設置した10m盤など全く信用せず避難命令を出した。震度4とは言え地上は揺れており、津波が起きるとすれば(実際に小さな津波は起きた)日本の近海。チリ津波の経験など、全く当てになるものでは無いことは、素人が考えても分かる。

当時の小林は現地駐在。出張でもしていない限り、様子は間近で見ていた筈だし、相応の高い立場だから、報告などで情報も入ってくる筈である。当時温めていた研究のテーマからも、関心を持っただろう。

【5】1968年11月・・・1号機の設計を大幅に変更

だが、後続の号機を含め、4m盤の設計はもう直せない所まで来ていたのだろう。この半年後の1968年11月、1号機は内部配置と設計を大幅に改め、DGと蓄電池をタービン建屋地下室に移転させたほか、HPCI系を追加しその部屋も新たに増設することにしたからである。この時、タービン建屋の海側にも地下室が設けられ、予備ディーゼル発電機室とされた。1号機専用のもの(A系)と比べると大型で、2号機と共用(B系)とされている。1990年代に2号機のB系専用化のため、空冷DGを増設するまではこの体制であった。

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変更の理由は、1967年7月、米原子力委員会が「一般設計基準」(GDC)を制定し、単一故障対策として多重化を取り決め、それを日本側でも適用したからである。

米国の動きに対応し、業界団体の一つ、原子力安全研究協会が『軽水型原子力発電所の安全性に関する現状調査報告書』を発行したのは1967年10月のことであった。2号機の設置許可申請の翌月である。

同報告書ではGDCの紹介に加え非常用電源のあり方についても検討した。その114ページによれば、当時の米国プラントでも多くはDGを1台設置の体制であった中、福島より先行するドレスデン2・3号機のBWRツインプラントでDGを計3台設置する方式を取っていた。

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国内ではPWRの関電美浜は当初からDGを2台設置していた。DGの台数決定要因として同112ページで外部電源系統の信頼度が挙げられている。私はPWR陣営の歴史には疎いが1965年6月、電源開発御母衣(みぼろ)幹線での事故から、大停電が発生したことがあった。この経験から、同じ60Hz地域で営業地域も隣接する関電が、事態を重視して取った措置ではないかと考える。

変更の内容は後年『敦賀発電所の建設』第III編第1章や『日本原子力発電三十年史』第2章第1節3(P86以降)に明記された。

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GE製BWRをターンキーで契約するという点で、敦賀1号機と福島第一1号機は共通しており、福島にも適用された。

ただし、原電は敦賀に設置する原子炉が1基であり、次の展望も描けていない状況だった。そのためDGは2台設置に改めた。一方で東電は福島で後続プラントの建設を計画中であり、ドレスデンのやり方で台数を節約した。

変更内容はDG以外にも多岐に渡る。当事者としては当たり前の前提だったかも知れないが、変更前後の比較や、審査内容の説明がなかったことは、問題だろう。なお、国による「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」の制定は1970年4月のことであり、日本電気協会規格JEAC 4603「原子力発電所保安電源設備の設計指針」が制定されたのは1971年のことである。いずれも福島第一1号機を設計していた時期には存在していない。

そんな大規模なレイアウト変更を検討中の時期に、十勝沖地震で現場事務所が高台避難の命令を出し、チリ津波対応の4mに疑問が生じた。もしこれを真面目に対応して4m盤の設計を改め、敷地高を上げたりポンプを収容する建屋などを追加したら、設計変更の範囲は更に広がってしまう。

高度成長期は、電力需要が年毎に激増する時代。電気新聞を読み返すと予備率に神経を尖らせてる様子が伝わってくる。そのような中で工期が守れないのは致命的であった。また、建屋建設を赤字で受注した鹿島なども更に赤字が膨らんでしまう(鹿島は先を見越してGEから建屋建設を赤字受注しサブコンとなった。その経緯は、当時の日刊工業新聞や社史に当たれば分かる)。津波に関して何も改めなかった理由はまぁ、その辺りだろう。豊田正敏氏も上述の通り「急げ」とせかすばかりであったと吐露している。

この時小さな津波しか来なかったから、却ってたかをくくったという可能性もあるか?、と一瞬思ったが、震源は北海道に限りなく近い東北の沖合であり、当初発表した震源は50km北にずれていたことで十勝沖の名が付いた。この経緯から日本近海とは言え福島からは距離があり、そうは考えないだろう。その傍証に東日本大震災の時は、震源が東北沖であることをニュース速報等で把握し、6mの警報だったにもかかわらず、10m盤からの人員退避を行った。だから、津波に吞み込まれた犠牲者はタービン建屋の点検に入った東電社員2名だけである(建物の中まで浸水するとは思わなかったのだろうか)。

原子炉周辺にいた東電社員達の証言を読むと、10m盤に想定外の波が来たかのように述べているものが目に付く。これこそ「後知恵」のバイアスを意識的、無意識的に使っている可能性を疑わねばならない。実際の行動を観察すれば、10m盤は避難先に指定される高台のような扱いではなく、津波想定に対する現場の不信は、一貫して残っていたと考えられる。東電本店の土木調査グループや原子力安全・保安院のような限られた場だけではなく、発電所で仕事をする人達の認識はドライサイト、ドライサイトコンセプトのいずれでもなく、ウェットサイト化への恐れだった。

【6】設計変更の対外説明はうやむや。

この設計変更だが、国・東電・業界のどれも、満足に説明していない。

『火力発電』1968年12月号掲載の東電井上和雄氏執筆の紹介記事では工程を確認出来る。それによれば、6月下旬に当初予定より2ヵ月早く格納容器が完成、タービン建屋はタービン台のコンクリート打設中で、10月に復水器の搬入を予定していた。原稿受付は10月2日。『火力発電』は実質電力会社のための専門誌なのだが、設計変更には全く触れていない。時期が時期だけあり、建屋内の配置図も付いて無い。

翌1969年7月1日には3号機の設置許可申請が提出された(『原子力委員会月報』1970年1月)。敷地に関する設計は踏襲。福島第一は2基ごとにツインプラントとなっているため、この時点で4号機の敷地高を変えることは困難となった。

国による説明のあり方も見直しておく。当時、原子力委員会は月報を出しており、今でもネット上で閲覧できる。1号機の設置許可を与えた時は、1966年12月号に資料として、原子炉安全専門審査会報告を添付(リンク)し、定期刊行物の付録としてはボリュームのある内容だった。だが、1969年2月号で設計変更について触れた時は簡素な内容であり(リンク)、予備ディーゼル発電機には触れなかった。遡って、より詳細に記述された設置変更許可申請本文を確認しても台数は空欄のまま「変更なし」とされており、先の平面図を見ないと2台設置することが分からないのである。

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設計の改められた1号機の平面図が掲載されたのは、東電の野村顕雄氏が原子力学会誌1969年5月号に投稿した1・2号機の紹介記事(リンク)だったが、設計変更については全く触れられなかった。

続いて『電気雑誌OHM』1969年11月号には先の豊田氏が3号機の計画記事を投稿。ディーゼル発電機が2台設置され、内1台は4号機との共用である旨を説明した。1・2号機においても同じ考え方で設置されていると明記されたのはやはり東電の技術者が投稿した『電気計算』1970年4月号でのこと。この投稿は2名で1月号から6回に渡って連載されたものなので、紙数に余裕があった。

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複数の媒体に投稿された論文を見ないと全貌を把握するのも一苦労では、同業他社の技術者でも見抜くことは難しいだろう。建設記録のような単行本が本来は必要であり、後ほど紹介する博士論文も、その役割を部分的に果たし得る道はあった筈だ。

代表的な業界紙、原子力産業新聞も同様であり、この変更が許可された時に、ベタ記事を出しただけ(1969年3月6日1面、リンク)。9つの変更点と紹介しただけでは、何もわからない。

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発行元の日本原子力産業会議は創立時に東電社屋に事務所を構え、自治体の他に国立の研究機関も会員となっていた。その背景を踏まえれば、意図はどうあれ説明責任を間接的に負うものと考える(現在の会員はリンク。福島県は事故後退会)。

このように碌な対外説明が無かったのは意図的なものなのだろうが、その「成果」が何処の事故調も、主だったジャーナリズムも、崖を削って造成したこと、「最終的に」非常用電源が地下に配置されたことに目を奪われるばかりだったことだ。もっとも大半はインタビュー、プレス向け資料、それにやっつけのネット検索で済ませる傾向があるので、気付かなかったという方が正解だろう。

【7】1970年10月・・・JEAG4601原子力発電所耐震設計指針(民間規格)発行

1970年も秋になると、主要建物は完成し、核燃料を搬入して各種の試験を開始する段階であった。この年の動きとして注目すべきは日本電気協会による民間規格「JEAG4601原子力発電所耐震設計指針」の制定である。この指針は1987年に全文改訂されるまで参照され続けたが、耐震設計が主題でありながらも、津波へも一定の言及をしていることが特徴である。

国の責任と言う観点から見て重要なのは冒頭部「まえがき」「電気技術指針について」の説明および「作成に参加した委員氏名」である。

まえがきによると、元々、この指針は通産省が日本電気協会に制定に際し、耐震設計の審議を依頼したことが発端であった。少し長いが、内容検討のために引用する。

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「義務、勧告、推奨などの事項を明確に表現する意図のもとに作成されたものではない」と言う逃げもあるが、それが通用するのは、この指針以上に有用且つ具体的で広く承認された指針や規定が存在する場合だけなのではないか。

なお「電気技術指針について」では「大綱的には遵守すべき事項」「将来実績をふまえて基準化または規定化し得る性格を持っている」「電気技術指針は原則的には電気技術規程に準じて遵守されるべきもの」とも説明している。官側が多数委員に参加し「遵守すべき」と述べ、実績を将来まで待ってから基準・規定化しなければならない事情で、事故が起きた際のリスクが大きいものを実社会に投入するのは誤っている。津波工学の実績が溜まるまで待つか、すぐに実用するのであれば自明であること(例えば後述するように、遠地津波の想定だけではNGとする)、明らかな矛盾を含んだ設計成果物は直ちに規制する必要が国にはあった。小林の設計思想や東電の姿勢は1970年代であっても十分その対象となる。

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規程化出来ないのは未解決で一律に決められないから、という意図だが、新技術や保安上必要な事項を取り入れることを前提に規程化していないと述べたものである。最初に決めたチリ津波の想定を墨守して後続の原子炉を設置許可申請せよという意図ではない。

また、まえがきの経緯と指針の遵守義務的な性格から、通産省、科学技術庁(当時は原子力分野も所管)など国の組織や国の主導で設立した動燃事業団からも多数の委員が入っていた。このことも、国側は行政指導と同じく事実上の義務、勧告、推奨であったことの証左となる。

指針第2章「敷地および地盤」では「津波の被害を避けるため、敷地地盤面を高くしたり、防潮堤を設けることも考えられるが、非常用冷却取水を海水に依存するため発電所の安全性を損うおそれのある敷地は適当ではない」と記載されていた。

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ドライサイトコンセプトそのものの定義であり、これを守って設計していれば少なくとも以降の号機は4m盤に海水ポンプを置くことはあり得えないし、国側には内容を審査する義務があった。6基の原子炉を設置許可・設置変更許可する過程で何度もその機会も与えられていた。東電刑事裁判での被告側の言い分が「防潮堤は発想出来たが水密化は発想出来なかった」であるのは、こうした初期の事情も加味してのことではないだろうか(海渡雄一『東電刑事裁判 福島原発事故の責任を誰がとるのか』彩流社P156~157)。もっとも、水密化も浜岡のような例はあるのだが。

また、2015年に書いた記事でも紹介したが(リンク)、IAEA勧告を付録に加え、津波想定の継続的見直しを求めていた。254ページの「特定地域の津波による最大海面上昇の高さは十分な歴史的記録がなければ予想できないだろう」などの文言は、直近400年の歴史地震に対象を限定し、実際の観測は直近10年程度の小名浜の記録に基づいた設計思想を完全に否定するものである。

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他、255ページを読むと「計測が不足」(小名浜での観測10年のみ)「理論が不適切」(世界中の津波に言及しているため、リアス式海岸のみ高い津波が起こるという間違いを示唆していると推測)「予想が不確実」(余裕掛けが必要)「さらに検討を加えるべき」(1号機の設置許可を踏襲するだけではNG)といった文言が目に付く。模型実験の不足は1980年代以降、津波シミュレーションの普及で解決したが、それ以外は当時から提言されていることが分かる。

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各訴訟の準備書面で被告側は、IAEAの文書は絶対的なものでなく、参考にすぎないと主張する。しかし、後年の改訂版で削除したとは言え、自ら制定した規格にIAEA勧告を付録したのだから、そのような言い分は通じないのではないか。

JEAG,JAEC制定全般についても、元々は通産省からの依頼だったのではないかと思われる。

このように、折角ドライサイトコンセプトと言う逃げを用意し、福島第一では津波に際して結局10m盤を信じず高台に避難した経験があったにも関わらず、小規模な設計変更で設置が可能な防水扉も設けられなかった。後述の博士論文から見てより必要性の高い4m盤の構築物についても同様であった。このことは、1976年、本所5号機と同じ年に運開した浜岡1号機に腰部までの高さの防水扉が設置されていた事実と対照的である。浜岡原発は311以前、津波を敷地前面の砂丘で止めるとしており、建設時の敷地高はやはりドライサイトであった。

つまり、東電はJEAGに沿う必要を認めなかったし、審査する側の国も指針策定に関与しながら見逃していた、ということである。

【8】1971年・・・博士論文で心変わりし、意味不明に

さて、小林は1970年5月、取締役に就任、環境総合本部副本部長となり、仕事の上では原子力専任ではなくなっていた。翌1971年2月23日、博論の学位授与申請を提出しているので、執筆は70年頃に行ったのだろう。なお、博論は1971年7月23日出版に至った(出版日はIRDBによる)。その間、申請時に予告した通り、小テーマに分割した抄録的な論文を土木関連の専門・学会誌に数回に分けて投稿していった。従って、参考文献は設置許可申請以降に出版されたものが多く含まれている。

博論の内容を一言でいうと、原発の敷地選定についての経済性を検討したものである。津波に対する考慮を言及したのは第3章、第4章、第5章。

第3章では、次のように述べた。

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福島第一のチリ津波は遠地津波だが、津波高は低いと認識していたのである。近地津波ではなく、低い遠地津波を想定に使って朔望潮位を加えれば十分である旨を、博士論文に記述した。設置許可とそれを元にした解説記事では分からない。極めて筋の悪い、悪質な判断である。

工事は進んでいたとは言え、1号機さえ運転開始していない時点である。これも、私が5・6号機以降で敷地高が変わった真の理由=近地津波の中には異常に大きくなるものがあるので予防的に高くした、ではないかと考える傍証である。小林の本音か、その態度を見た周囲が警戒しての処置だと考えるのが自然。

なお、リアス式海岸の南端に位置する女川はさも先見の明があるように書かれるが、上述の「当時の認識からも」誰もが15mにしたかはともかく、ある程度は高くなって当たり前の土地だったことも分かる。

第4章「原子力発電の適地性の評価に関する研究」は学位申請時『土木学会誌』1972年1月号への投稿を予告し、実際には同年2月号に「わが国における原子力発電所適地の展望」という題名で掲載された。

第5章「福島発電所への適用」は『土木施工』1971年5・6月号への分割投稿を予告し、実際には同年7月号に「福島原子力発電所の計画に関する一考察」として掲載された。

1号機の運転開始が1971年3月26日であるから、それを見届ける形での発表を計画したのである。

以前も紹介したことだが、4章と5章では敷地高に整合が取れていない。5章では4mと書いたのに4章では10m。だから、4m盤の扱いはどうなんだ、という話である。しかも4mの根拠は3章で低いと評価した遠地津波を採用したためである。

4章は、土木学会誌では設計波高5~6m、設計潮位1~2mから太平洋岸で10mと簡略に説明されているが、4mの場所は無い。博論の方は詳述しており、最大津波高とさく望平均満潮位を足すと、太平洋岸の直線海岸部分に選定した各地点では7.4~8.9mになるので、余裕を加えて一律に10mで経済性を計算するものとした。その直後に5章で検討するような個別地点の地形や炉形による影響を考慮する旨書いてあるが、ポンプ室を4mに置く安全性の問題は説明どころか言及さえ出来ていない。

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5章は、設置許可申請以来一般的に説明される内容をなぞっており、チリ津波に対応して4m以上が必要であることから、陸上部の敷地高を10m、埋立部のポンプ室付近を4mとした件を説明している。

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小林は恐らく十勝沖地震の経験から、設置許可時のチリ津波など全く当てにならない所感を得たため、4m盤の安全性は捨て、10m盤が守れれば良いという体で論文を書いたものと思われる。しかし、現実の福島第一は海水ポンプを4m盤に剥き出しで配置するなど、小林の説明通りには設計されていないので、意味不明となった。

私が、あらかじめ失われていたドライサイトと考えるのは、この時系列の関係も理由にある。

しかも、10m盤の安全性は東電の現場も信用していなかったし、東電の設置許可申請も、小林の考えも、JEAGに沿ったものではなかった。

2000年代に津波評価技術等により津波想定が6m前後に引き上がっていった際、海水ポンプモーターを僅かに嵩上げして余裕の殆ど無い状態で対策を完了したが、僅かな嵩上げで良いと考えたのは、建設当時に本音に近い値として、5~6m程度の津波高まで対応させていたから、殆ど手直しせずに済んだということではないだろうか。

【9】5・6号機の敷地高は13mに

その後に起きた出来事を時系列で並べると、また興味深い傾向が見えてくる。

1971年3月4日、北側の敷地に5号機の設置許可申請が提出された(『原子力委員会月報』1971年6月)。5・6号機は敷地高が13mと高いが、私が1960年代に入社した元東電の技術者(名は秘す)に聞いたところでは、住宅の造成などでも多用される土量バランスのためで、津波への配慮ではないそうである。

土量バランスと言う聞き慣れない言葉だが、例えば斜面だった場所を段々にして住宅地にする際、ある部分は斜面を削り、その前面は逆に土を盛って平らな土地にするが、その掘削量や防災・交通の便などから見た標高を最適とするための計算のことである。専門誌の原発建設記事でも敷地の整備について述べた部分はこれに類する議論を行っている。

だが、この変更の本音は津波対策ではないか?後年の勝俣御前会議における資料回収と同じく、表に出したくない事情なら、当時20代の若手社員に教えるとは思えない。その根拠は勿論、十勝沖地震の体験である。設計を大幅に変更することなく可能なレベルで高さを稼いだように見える。

翌月となる1971年8月5日には、10m盤最後のプラントとなる4号機の設置許可申請が提出された(『原子力委員会月報』1971年12月)。なお、5号機が先行して申請されたのは双葉町への雇用・寄付金等の配慮のためである。3号機の時に書いたように、これは既定路線だろう。

なお、原子力委員会は2号機以降も数か月程度の短期間審査で設置許可を出し続けた。設計が同じであることを盾に、変化を嫌ったのだろうし、黎明期は過去の経緯(しがらみ)も蓄積が無いので、そうした確認に手間もとられなかったのだろう。後年、新しい号機になる度に津波想定が変わっていった女川とは様相が異なるが、先のJEAG4601-1970の観点からは、女川の方が正しかった。

【10】非常用海水ポンプの位置付け

1971年3月26日、1号機は各種試験を合格し、運転開始の日を迎えた。この頃になると、民間規格も更に整備が進んできた。先ほどのJEAG 4601,JEAC4603もこの時期である。

続いてJEAC4605 「原子力発電所工学的安全施設及びその関連施設の範囲を定める規程」が1973年1月23日に制定された。私は2004年版しか持っていないが、非常用海水ポンプのモーターやその電源(俗にいう非常用電源)が関連施設として定義されており、この点は初版からと考えられる。

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「工学的安全施設の関連施設」に定義されるということは、安全上の重要性にお墨付きが与えられたことを意味する。規格制定に関する資料は余り持っていないが、以下、国の責任とは何かを視野に考察する。

国の定めた『発電用原子力設備に関する技術基準を定める省令』(昭和40年通商産業省令第62号)の解釈には民間規格であるJEACやJEAGも引用される。法令に不慣れな向きに解説すると、この省令には解釈という名の具体的な説明文が付随している。「読み手が意味を読み解く」という一般的な意味の解釈とは少し違う。以前は解釈ではなく解説と呼んでいた。

省令62号で津波に触れているのは第4条で、原子炉施設には防護措置を取るように書いてある。原子炉施設と言う単語は第2条で定義され、その解釈を読むと原子炉冷却系統設備や非常用予備発電装置が含まれる。だが、解釈を読んでもJEAC4605は呼ばれていない。

ちなみに第4条の2は火災による損傷の防止を扱っており、1975年に追加された条文である。その解釈には当初JEAC4605が呼ばれていた。当時、火災に特化した電気協会の規格は無かった。現在の4条の2ではJEAC4626「原子力発電所の火災防護規程」を呼ぶようになっている。

従って、海水ポンプは津波の防護対象として省令はもとより、引用元文献からも名指しはされていない状態だった。なお、福島事故後は第4条から津波は分離され第5条の2が新設となった。対象設備は4条にあった時と同じである。勿論各社は実態として水密化工事などで海水ポンプを防護するようになった。JEACを呼ばなくても原子炉施設に含まれると見なしているのだろう。

ただそれは、福島事故と言う巨大な衝撃を経て万人にとり前提となったから現状の文言で通用するのであって、仮に1970年代、当記事で述べてきたような実態に照らし、予防的な津波防護の規程を強化するのであれば、火災防護の時同様、最低でもJEAC4605を呼ぶなどして海水ポンプを名指すべきだったと考える。それが、ルールを定める国の責任であろう。

一方で、1970年代後半から着工されて行った福島第二で海水ポンプが建屋に収納されたのは、こうした定義づけも影響しているだろう。福島第二においても津波想定は相変わらずチリ津波の3mを引き継いでいたが、最早低い場所に裸で置くことは出来なくなったのだ。また、原子炉建屋の海抜も12mとなり、DGは相変わらず地下室だったが、直流電源はその高さ(1階相当)となった。

【小括】

小林健三郎は経歴からも、研究内容からも土木分野の人物であり、原子力発電の仕組みは明るくなかったのかも知れない。また「工学的安全施設の関連施設」が何か、誰にでも分かるように定まっていない頃に福島第一を担当した。だから、土量バランス論の範疇から外れた埋立部のポンプ室は「遠地津波対応のみするが捨ててもよい」と思ってしまった可能性はあるだろう。

ならば、繰り返しになるが東電の他のスタッフ達はJEAGやJEACが制定された時点で福島第一の津波防護を見直すべきだったが、何も為されなかった。黎明期にして既に前動続行の悪い意味での官僚化が進行していたとも言えるだろう。

国(原子力委員会)が小林の博士論文を提供されたかは分からない。性質上頒布は極少数とは言え、公開文献だから存在を知れば参照は可能だったし、事実上の抄録である専門誌記事を繋ぎ合わせれば矛盾には気づけるようになっていた。だが、国もまたこの点を見逃し、ローテーション人事と専門委員の交代で埋もれたのだろう。最初のプラントであったのに、文献収集を怠ったとすれば、40年以上前の話であっても、一定の責任は生じると考える。

訴訟で被告側が言い分に使う「切迫性に欠けていた」という言い分も、もっぱら2000年代にあった出来事にばかり焦点を当てるからそう言ってくるのである。原告は反論として「原子力安全では一般防災より低頻度のリスクにも目を向ける」ことを材料にすることが多いが、40年以上に渡って問題行為が散見される状況についても通り一遍の説明はした方が良い。10年、20年、40年も切迫性に欠け続けるということはあり得ないからである。

次の記事では運転開始後に後知恵無しで結果回避が出来たのかについて、新たに発掘した知見を交えて論じる。

2022/9/7 公開。細部は後日修正・追補の可能性あり。

2022/11/5 平井弥之助について検証記事へのリンクを貼り、文言修正。

2022年8月15日 (月)

東電原発事故4訴訟、最高裁統一判断に見る草野裁判官の奇妙な議論

2022年6月18日、生業訴訟、千葉訴訟、群馬訴訟、愛媛訴訟の通称4訴訟について、最高裁で原告敗訴の統一判断が下された。

色々な問題点を含むものなので既に批判記事も何本か発表されている。主たる論点はそれらに任せるとして、私が気になったのは草野裁判官による賛成側の付帯意見である。

私のブログに酷似した内容が記載されているので、そのことについて(厳密に)検討しておきたい。後半では最高裁判決の影響力を無効化するため、どのような事実を主張すべきかも指摘した。

草野裁判官の意見は判決文の17頁以降。要約すると東電が2008年に社内で想定した地震津波(推本地震津波)が、何の対策もしていない福島第一原発を襲ったと仮定しても、大したことないので事故は避けられた、だから国に責任は無い、という主張である。

【1】問題の部分

酷似しているのは以下の2ヵ所である。

(1)けだし、本件長期評価が想定している地震は明治三陸地震と同規模の地震であるところ、明治三陸地震によって生じた東日本各地の震度は最大でも震度4であるとされており、震度4の地震によって上記の送電に支障を生ぜしめるほどの損壊が外部電源の設備に発生するとは考え難いからである(19頁)

(2)(例を挙げるならば、本件仮定の下においては電気設備類の一部が浸水した状態で外部電源から本件各原子炉施設内に電力が供給され続けた可能性があるところ、その過程において、浸水した電気設備類の内部配線等がショートして火災が発生した可能性がないとはいえない。)。しかしながら、このような新たな事実の発生可能性について推論を行うためには、その推論を基礎付ける具体的事実の摘示が不可欠であるところ、原審の認定した事実の中にそのような具体的事実を見出すことはできない。(25頁)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/242/091242_hanrei.pdf

要するに、地震の規模を小さくしたら、外部電源は壊れないので受電したまま浸水し、火事になってそれはそれで危険だったかも知れないけど、そんな話は原告・被告の書面や証言には無かったよね(=だからやっぱり国に責任は無い)、という意見である。

私のブログの該当記事は次の通り。中盤の次の部分である。

【外部電源が生きていたまま津波で浸水した場合、福島第一でも火災が発生した可能性がある】

以上、只の昔話ではないことが分かったと思うが、今日的な問題提起としては2つある。

一つ目は福島原発事故分析の盲点。2016年頃までホットな話題だったのは、大津波の想定は確実だったのか、という予見可能性の問題だった。民事・刑事裁判が進んでから言及されるようになってきたのは、「想定できたとして、対策は間に合ったのか」という回避可能性の問題である。訴訟では、回避可能性も後知恵抜きで証明する必要がある(個人的には、原告側にそこまで完全な証明を求めることは酷だと感じているが)。

さて、有名な2008年の15.7m試算だが、その前提条件は福島沖で明治三陸地震と同規模の津波地震が発生することである。津波地震とは、陸上での揺れはそれほど大きくないが、津波の規模が大きな地震を指し、明治三陸の場合、沿岸での震度は最大でも4に過ぎなかったとされている。したがって、この試算では揺れは問題となっていない。

実際の福島事故ではまず震度6強の地震動で外部電源がすべて破壊されたが、もし外部電源が生きていたまま津波が襲っていたら、奈井江と全く同じ環境条件が成立し、電気室、中央制御室等で電気火災の危険が大きかった。これは、後述のように他の被災原発と条件が異なるからである。

2019年1月19日 (土) 北電火発が経験した浸水火災

http://iwamin12.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/heaf-ba67.html

そんなの誰でも知ることが出来る一般論だ、と片付ける向きもあるかもしれないので、以下、しつこいが周辺事情について述べておく。

【2】一般論で済ませられるほど普及した教訓だったか

(1)については、海渡雄一『東電刑事裁判 福島原発事故の責任を誰がとるのか』にて明治三陸地震の解説を行記述した箇所に震度3程度であった旨の記述があるが、(2)について議論していない。それにこの本を使うのであれば、原告もしくは被告が証拠として採用する必要がある。

また、予見可能性の論争で福島沖の津波地震は多く論じられたが、(1)に類する表現は管見の限り見当らない。何故なら地震学的には雑駁な表現であり、訴訟で引用された学者等はそのような表現をせず、関心も日本海溝の付加体等に集中していたからである。

なお、(1)に関しては「明治三陸 震度4」でTwitter検索すると、地震速報の際にニュースで呼び掛けた例が幾つか上がってくる。だが「揺れが小さくても大きな津波かも知れないので海岸には近づかないように」といった注意喚起の文脈であり、揺れを過小評価するような使われ方ではない。

また、(1)について、判決文自体が大きな揺れを発生させるにはMw9が必要条件であるかように記載しているので2019年のブログ記事に加えて一点補足しておくと、Mw8クラス以下の地震で外部電源を損傷させる揺れを伴った津波地震は発生し得る。

例えば1994年三陸はるか沖地震では最大で震度6を記録、岩手県では発電所の275kV設備が震度5で損害を出している(日本電気協会規格『JEAG5003 変電所等電気設備の耐震設計指針』による)。この規格は、後半に過去の電気設備の震害について掲載した資料がついている。岩手県では沿岸に500kVや275kVの送電線が連担しておらず、目立たなかっただけなのである。

三陸はるか沖地震の規模はMw7.7のため、例えばMw8.2に規格化された東電の明治三陸モデルと三陸はるか沖の重畳・連結モデルを仮定しても、マグニチュードはMw8.3前後程度にしかならない。

なお、1978年宮城県沖地震は、震源が陸側に近かったため、揺れが大きく、一般建築物の耐震設計が刷新される契機になった。1981年の新耐震基準や先のJEAG5003というのはこの地震を教訓に定められたものである。

そして、東日本大震災前の推本による長期評価では、宮城県沖地震と日本海溝沖の津波地震が連動して発生するケースも想定したので、宮城県も2004年3月に結果を公表した第三次地震被害想定調査でこの想定を取り入れていた(「第2章 東日本大震災以前の事前対策」『東日本大震災 : 宮城県の発災後1年間の災害対応の記録とその検証』P56-58)。

(2)については、そもそも、奈井江火力発電所の知名度は高くはなかったと思われる。

火災と浸水の件は私が取り上げるまで、ネット上では僅かな情報しかなかった。そんな事情だから原発問題、東電原発事故に結び付けて論じたものは見当らない。

また『北海道火力原子力発電ニュース』というのは火力原子力発電技術協会の、北海道支部で発行されていた定期刊行物である。同協会は会員制で、入会するとHPで過去記事閲覧が可能だが、専ら電力関係の技術者による業界団体である。だから、東電原発の関係者や原子力安全・保安院の技術職が奈井江の件を知り、津波対策に生かすことは一般人に比べれば容易だった。

だが、協会の本誌は幾つかの大学図書館でも読むことが出来るが、各支部のニュースは国会図書館を含め納本されていない。私自身は古書市場で入手し存在を知った。部外者にはそういうハードルがあった。原発事故時に「私は文系です」と述べた国側関係者がいたが、彼の場合は技術職に尋ねるなどの道が本来はあったろう。だが、仕事で原発訴訟に関わる裁判官の場合、一般論としては工学系大学を出ている私以上の(環境的)ハードルがあるのではないか。

ブログを書いた20191月時点で4訴訟は第一審の審理が終わり、判決待ちか、一部の訴訟は第二審に進んでいた。その事情もあり、この事実を取り込むには証拠を補充する必要があったが、草野氏は(2)で「原審の認定した事実の中にそのような具体的事実を見出すことはできない。」としている。石狩川流域の出身者なら、電力関係者でなくても火災のことを覚えていたかもしれないが、もし草野氏が私のブログを経由しないで奈井江に関する情報を得ていたとしても、問題の本質は大差がない。

なお愛媛訴訟以外は準備書面等、何らかの文書をHPにアップしているので確認したが、私がブログで提示した事実を証拠を採用している箇所は幾つかあるものの、今回取り上げた箇所はなかった。いくつかの訴訟の担当弁護士とはこの件で確認・連絡も取ったが、やはりそのような事実は提示していなかった。

(2)に関しても、草野氏の主張は独自の考察としては、奇妙さがある。東日本大震災後は津波火災が注目されたが、それはもっぱら「水が引いた後に復電すると電化製品から火が出る」とか、「車が発火する」と言った現象を指す。洪水の後に通電を控える公的な注意喚起も多数あるが、発電所の数千ボルトの高圧回路を前提としたものではない。

発電所は火力を含めて簡単に止められない設備があるので、奈井江では通電中の浸水火災となったのである。また、数千ボルトの短絡によるアーク(火花)は一般家庭の100V200Vに比べて、遥かに大きく、配電盤での短絡事故は大抵爆発に近い。

実務家向けの定期刊行物『電気技術者』を読み返しても、2011年以降の数年は、震災復旧を含め、電気設備への浸水が好んで取り上げられる傾向にあったが、その中で火災に至ったのは2013年9月号「自家用電気設備の水害と対策」P11の、あるテナントの分電盤に浸水から盤を焼損した例程度である。勿論、すべての日本語文献をチェックできたわけではないが、電気分野に関係する他誌においても同傾向ではないだろうか。

上記の事情から、草野氏はネット検索で私のブログに辿り着き、その内容を参考に付帯意見を書いたが、奈井江火災という具体的名称やそれを福島事故と絡めて論じた私のブログは挙げなかったのではないか、と疑問を持っている。どのように「着想」されたのか、後述の事情からコメントし辛いかもしれないが、是非語っていただきたいものである。

【3】私が問題個所の下に書いたこと

なお、ブログ記事の酷似箇所の直下には、【15.7m想定を公式に採用していたら、福島第一は消防法令不適合となった】という節を設けていた。

詳細は当該部分に譲るとして、2007年中越沖地震の直後、柏崎刈羽原発は消防法違反で柏崎市から停止命令を受けた。大熊町・双葉町が推本想定を知れば、消防法を利用して是正を迫る決断の選択肢が出てきたことは容易に想像がつく。国や東電も、自治体がそのような動きを取る可能性を見越せただろう。

各地の訴訟で過去に提示された点を含め整理すると、推本想定を適用した結果、福島第一を停止し得たとされる法制的な根拠は、以下の13だが、4番目として消防法もある、ということだ。

  1. 20069月に改訂された耐震設計審査指針によるバックチェックに抵触すること
  2. 発電用原子力設備に関する技術基準を定める命令(省令62号)に抵触すること
  3. 自治体が安全協定をもとに運転への不同意を表明すること
  4. 消防法に基づく施行規則、火災予防条例に抵触すること(後述のように、これは私の誤解だったが、消防同意と消防計画には国の不作為は影響している)

非常用電源は建築基準法、消防法など複数の法令で別々に規制されており、それぞれの所管も違う。事情は原発でも同様である。それらに全て適合せねばならないため、このようなことが起きる。とはいえ、既に規制する法令(それに基づく規則、条例)はあったのだし、先の省令62号なども解釈にて消防法など他の法令を参照した構成となっている以上、水災害関連についてもそのような構成をとり、他官庁などと整合を図る必要は問われるべきだろう。

なお、地元の消防は査察を行う事ができるが、この制度は311の何十年も前から存在しており、解説書なども売られていた。

23/11/13追記:本件についてブログ執筆後、消防査察は日常的な火災予防に対するもので、自然災害は対象外とのご指摘を頂いた。しかしその一方で、建物の新築・改修の際には消防同意を要する。消防実務者向けの解説として、例えば『近代消防』1988年4月号に「原子力施設等の消防対策(20)」という実務者向け連載が載っており、P145~148の記述によれば、津波など出水の恐れがあるかを調べ、そこから導かれる想定より1m以上の土盛りをするように記載されていた。記事で示されているのは既往災害履歴であるが、政府や東電の推本に従った想定はこれまでの議論から同様のものと見なせるのは明らかである。よってバックフィット改修や新たな建屋の増築の際には、15.7m想定に基づき消防同意を得なければならなかったと考える。

また、中央防災会議の想定を元にしたとはいえ、日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法(2005年9月施行)の関係から、消防計画の作成などが求められていた。中央防災会議想定や本法が推本想定を元にしていれば、消防計画の面から見ても事故は回避できたということになり、国の責任はあると私は考える。

【4】奈井江火災の教訓は浸水防止対策の充実だった

また、私のブログ記事を最後まで読むとハード的には水密化の重要性を説くものとなっており「推本の想定が緩いので対策も緩くて良い」という草野氏の主張とは真逆のものである。

当時示したのは東電が編纂した『変電技術史』(1995年)第11章に記載された1977年制定「水害対策設計基準」だった。なお、株主代表訴訟の2019年渡辺意見書では2006年より中央防災会議に設けられた「大規模水害対策に関する専門調査会」の聞き取り調査が示されているが、東電は回答でこの基準を挙げている。

北海道電力の関係者が奈井江火災を振り返ったのも、目的は教訓の伝承であった。2019年のブログ記事で紹介した「台風の直撃を受けた奈井江発電所」(『火力原子力発電北海道ニュース』Vol.43,2000年)に記されていたのは組織の動きが主だが、1000名を動員し500年に1度の水害に耐えるようにされた旨の記述がある。その後に発掘した『北海道電力火力発電四十年史』(1993年)では、水密化など、更に具体的な復旧内容が記載されていた。

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全景空撮。大物搬入口と思しき扉の脇に見えるオレンジ色の物体は自走式水密ゲートと推測。

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草野氏の疑問を横に置くとしても、この内容は福島事故訴訟でのいわゆるドライサイト/ウェットサイト論や回避可能性を論じる際に重要な事実として提示する価値がある。

当時は泊原発をはじめとした大型電源もなく、北本連系線も1979年に運用を開始したばかりで本州から融通出来るのは15万kWという時代。17.5万kWのボイラが2基でも、当時は北海道電力の主力電源だった。そのためか、半年で実施している期間の短さも注目すべき点だろう。

【5】職権証拠調べについての考察

私は法曹素人だが、もしこの付帯意見が奈井江火災を下地にして書かれたとすると「弁論主義の第3テーゼないし職権証拠調べの禁止」に抵触するのではないか。職権証拠調べの禁止は人事裁判や公共性の高い案件では例外(職権探知主義)とのことだが、その場合においても、当事者に開示し意見を聞く必要があり、判決文でいきなり提示はおかしいからである。

一般的に裁判の判決を論じるとき、「〇〇の事実を無視して云々」といった批判がなされるが、証拠として採用していなければ、裁判官は論じようがない。だから法曹関係者、特に訴訟当事者の書く批判はそれを踏まえているだろうが、評論家の場合は必ずしもそうではないだろう。こうした点は頭に入れておく必要がある。

草野意見はあたかも自由心証に従って記載した体になっており、意見で奈井江の名も出てこないものの、周辺事情から疑問がある。

【6】後続訴訟で指摘すべき点

今後、類似訴訟では統一判断について様々な批判や新たな証拠の提示がなされるだろうが、草野意見についてはそれ以上の問題点があるように思われる。各訴訟団は最低限次のような主張を補充し、今回取り上げた点をより明確に否定しておくべきであろう。

  1. Mw8台前半以下の日本海溝沖地震でも275kV回線が損傷した例はあること
  2. 陸地の揺れが大したことないが津波高が大きくなる津波地震は、揺れの小ささを保証するものではないこと。言い換えると日本海溝沿いで発生する地震の中には揺れが大きいものもあること。
  3. 草野裁判官が述べる「推論を基礎付ける具体的事実」としては奈井江火災があり、ブログで引用した業界誌も伝承を目的にしていたこと。
  4. 通電火災のリスクが存在するなら、水密化の必要性は益々高まり、奈井江も復旧時に対策したこと
  5. 当時主力電源だった奈井江の浸水防止対策は半年で実施したこと
  6. 浸水リスクを放置したまま推本想定を公表しても、消防同意、消防計画を経て自治体の消防法違反を受ける可能性を念頭に(予期・忖度して)事態が推移したと思われること。

関係者の中には「面倒」であるとか、偏見(電力会社は全社一糸乱れず足並みを揃えるという誤った見方)に影響され、私の記事を不採用にした方もおられるかもしれない(そういう反応も側聞している)。だが、採用していれば草野裁判官があのような主張をすることは不可能となっていた。対外的なアピールも大切だろうが、後続の訴訟が同じ轍を踏まぬために、今一度吟味・検討を頂ければ幸いである。

23/11/13:消防法について追記。一部文言追加。

2021年11月 3日 (水)

原子力発電所で転倒防止・天井落下対策を取らないのは訴訟リスク

【はじめに】

原発再稼働に反対する層は今やどの世論調査でも6~7割に達し、私もその一人だが、実際には諸処の事情で再稼働してしまう原発は存在する。

政治的な働きかけ、訴訟、運動など色々行われているが、願望と現実は一致しないことの方が多い。

これまで、そのような状況下で提言されてきたことは専ら「原子炉の事故想定」や「核燃料サイクル」といった、身近でもなければ個人の手に余る話題ばかりであった。一方で所内の日常を観察すればするほど、再稼働が継続している状況で行政任せにせず、更にリスクを減らしていくための方策が必要であるように思われる。だが、インパクトに欠けるためその辺は推進派も反対派もあまり触れることは無い(取り組んでいる方もいる)。

私は、原発が再稼働した中で、実用的な提言とは何かを考え、まとめ記事を準備中である。だが、東電裁判を参考資料の一つにした事項については、読者の便を考えて単独のブログ記事にした。

この記事での主張を一言で言うと「電力会社各社は新規制基準対策で箱物を増改築してPRしているが、棚の転倒防止や事務所の天井落下防止措置は、全館に展開しておくこと、それを行わないと安全配慮義務違反などの訴訟リスクを生じる」である。

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出典:「オフィス家具類転倒防止対策」東京都防災HP 

地震に備えた安全なオフィスづくり Vol.5(JOIFA,日本オフィス家具協会)

職場の地震対策-事業所防災計画があなたを守る-(東京消防庁)

他にも多数図解あり。

その傍証として東電の例を示す。なお性質上、オフィスと呼ばれる全ての職場に通じる話である。

訴訟リスクは、下記のような記事を一瞥すれば一般的な災害でもあると分かる。高度な安全を要求され、躓きの連鎖によっては被害も巨大となる原発の場合は言わずもがな。

責任追及厳しくなる震災裁判、「天災」の免責はないと思え」『日経クロステック』2018.10.31

地震により自宅のブロック塀が倒れ、通行人に怪我を負わせた場合の責任(らい麦法律事務所)

【箱物は整備されていた福島第一の事務本館】

オフィスにおける地震対策が大々的に意識され出したのは阪神大震災の頃からである、と考える。業務用什器メーカーのイトーキは1978年宮城県沖地震の頃から取り組んでいたそうだが『セーフティオフィス―ソフト&ハード震災対策』(1995年11月)という本を出した。他、小川正明『工場の地震対策は大丈夫か』(1998年5月)なども出版された。学術面でも多くの調査がなされ、結果としてホームセンターで様々なタイプの固定器具が容易に手に入るようになった。

東電も阪神大震災から学んではいた。一例が福島第一の事務本館である。

だが、後になって検証してみると、箱物優先と言わざるを得ない。

事務本館に絞って解説した文書は見当たらないので、私が調査した範囲で歴史を概観しよう。

初代の事務本館は他の建屋と同様鹿島建設が担当したもので、1969年に竣工した。場所は、高台から10m盤に向かう、法面が特徴的な大熊通りを下り切った辺りである。

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出典:『鹿島建設月報』1969年10月P18

この初代事務本館は、後に左側に引き延ばされる形で増築した。

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出典:『東電設計30年のあゆみ』1991年7月P88よりトリミング

中央の、一部が原子炉建屋に隠れた低層の建物が初代事務本館。まだ鉄塔もあり、法面に黒い影が落ちている。東電のFacebook投稿に70mの送電用鉄塔重量が77tとあるので、送電線を支える必要のない通信用途の60mでもかなりの重量だろう(【超高圧送電線工事②】2014年10月29日)。

屋上から白い連絡橋が背面(北側)に伸びているが、これは10m盤よりは少し高い場所に建設された厚生棟(右の白い、真ん中に塔屋がある建物。1980年6月竣工、当初は1Fに大食堂があった)への渡り廊下である。その後、高台には研修棟も建設され、1995年3月に竣工。

初代事務本館をよく見ると鹿島建設月報の写真より左に横長となり、更にその左側に建物が新築されている。これらの増築は1980年代と推定。

なお、白赤に塗装されているのは1・2号機排気筒、事務本館に最も近いのが1号機原子炉建屋である。

政府事故調中間報告資料編の「福島第一原子力発電所1号機から4号機 配置図」では左に新築された建物を総合情報棟と記載。東電は1980年代に総合機械化と銘打ち全業務に計算機を導入したが、所内メインフレーム等を置いたものと推定。

もう一枚写真を引用する。原子炉建屋の爆発時、爆風で窓ガラスが飛散した(福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成 24 年 6 月版)資料一覧 東京電力P49-50)。距離の近さも相俟って、屋外と変わらぬ汚染に晒されたため放棄され、所内を訪問する際は、遺構として案内を受けるようになり、比較的近くから撮影される機会が増えたのである。

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出典「放射線量は依然高く_津波や水素爆発の爪痕」『毎日新聞』2016年2月12日旧事務本館

佐藤栄佐久『福島原発の真実』(平凡社新書、2011年6月)P230によると、1~4号機の原子炉建屋は海を象徴したモザイク塗装に改められたが、初代事務本館ものそれに合わせたのか、水色系塗装に変わっている。

「がんばろう福島」のトラックがいる辺りから左側が建て増しされた部分。また、左端と中央部には近年ビルやマンションでよく追設される、耐震補強の鉄骨ブレース(筋交い状の肌色の部材)が入れられていたことが分かる。屋上にあった高さ60mのマイクロ波通信鉄塔は撤去されている(重量物の除去も耐震余裕を増す常套手段)。

写真を引用はしないが2011年3月24日に日本エアフォトサービスが撮影した高解像度の空撮、2011年12月に東電が公開した734枚の空撮写真(いずれも多くの報道で引用された)、2008年10月に撮影された構内写真(『Gigazine』記事等)などから、耐震補強は事故前に実施したものであると分かる。

なお、政府事故調中間報告資料編の「福島第一原子力発電所1号機から4号機 配置図」では旧事務本館のことを事務本館別館と記載。

だが、初代事務本館に代わる新事務本館が2001年7月に竣工した。

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出典:「写真⑤.事務本館の外観」『中間報告 資料編』政府事故調

位置関係は次のようになり、海抜はより高い。

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出典:「1)事故はどのようにして起きたのか」『1.福島第一原子力発電所の事故の概要』東京電力HP

2代目に改築した理由を明記した文書は見たことが無いが、阪神大震災の教訓の一つが「1981年新耐震基準以前のビルでは倒壊率が高い」ことだった。初代事務本館は10m盤に建っているので岩盤に近く、全体的な揺れは高台に比べれば小さくなる傾向だが、当時問題となっていたことは阪神大震災と同じ揺れが原発を襲ったら、ということだった。そうした命題だと掘り下げた場所での減衰は考慮しないことになるので、耐震補強するか、新築するかを迫られ、両方を選択したものと考える。

場所が初代事務本館に近い高台エリアなのは、業務上の利便性(初代事務本館に加え厚生棟や研修棟に近い)とP.P.(警備)上同じ防護エリアに配置する都合だろう。防護対象のエリアは柵で外周を囲うからだ(参考、『エネルギーレビュー』1996年5月P20)。

1980年代の訓練では緊急時対策所は適当な会議室に立て看板を持ってくる程度だったが、以前の記事で詳説したように、阪神大震災での関電の経験を踏まえ、本格的なテレビ会議施設を備えることが要求されるなど、オフィスとしても手狭になっていたのだろう。

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出典:『ふくいちメール』No.62 2001年8月

新事務本館の緊急時対策設備は会議室に据えられたので、式典などの行事にも使われたようだ。『共生と共進 福島第一原子力発電所45年のあゆみ』P32にはそうした写真が掲載されている。

その後、2007年7月の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発の事務本館に設置した緊急時対策所の扉が歪んで開かなくなるトラブルがあった。その教訓から、2代目事務本館の隣接地に免震重要棟の建設が決定し、2010年に完成した。下記の写真のように緊急時対策所も改めて設置された。

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出典:『福島原子力事故調査報告書』東京電力 2012年6月20日P58(いわゆる東電事故調最終報告)

左奥に見えているのは2代目事務本館と思われる。

なお、廃炉が始まってから2016年に新築されたものは少なくとも3代目。以降はそれが新事務本館と呼ばれている(「第1原発の新事務本館公開 東電、廃炉作業の拠点に」『産経新聞』2016年9月30日 隣接の建物を事務棟にしていたとあるのでそれを数えれば4代目。事故対応については変遷が輻輳しているので、他にもあるかもしれない)。

場所は、かつてサービスホールと呼ばれた見学施設の辺りにあり、海岸からずっと内陸側である。

【転倒防止、天井落下対策は置き去りか】

このような設備投資を行う一方で、棚の固定は等閑だったようだ。事務エリアの写真はあまり多くないが、以下のピアレビューを自賛する社報記事に写真がある。時期から初代事務本館と思われるが、棚を観察すると固定金具らしきものを見ることはできない(勿論見えない位置で固定する可能性はあるが、通常は最上部且つ両端ではないか)。

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出典:『とうでん』2000年12月号

さて、ここまで設備を概観したが、福島事故後、東電は次のように揺れを描写した。

・ 11 日 14:46,地震発生。揺れは段々と大きくなっていった。事務本館では,各部署のマネージャーなどがメンバーに対して机の下に隠れるよう指示。各自,現場作業用のヘルメットをかぶるなどして,身の安全を確保した。
(中略)

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・ 揺れは長く続いた。天井のパネルは落下,棚は倒れて物が散乱,机は大きく動き,机の下に閉じこめられる人もいた。揺れが収まってから,閉じこめられた人を救出し,避難場所の免震重要棟脇の駐車場に移動した。1 週間程前に避難訓練を行ったばかりで,各自が避難通路,避難場所を把握していた。

福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成 24 年 6 月版)資料一覧 東京電力 P1

・ サービス建屋屋上で運転員が津波の状況を監視する中,11 日 16:55,DDFPの設置されているタービン建屋地下階の消火系(以下,FP)ポンプ室へ運転員が確認に向かった。現場へ向かう途中,タービン建屋 1 階の廊下には地震や津波の影響で工具棚が倒れ,所々に海水が溜まっており,通行出来ない状況であった。それらを避けながらなんとか原子炉建屋の二重扉付近まで行ったところで,サービス建屋屋上で津波監視を行っていた運転員から,繋いだままにしていた PHS にて,津波が来るとの情報が入り,一旦引き返した。

福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成 24 年 6 月版)資料一覧  東京電力 P37-38

同じ様な記述は他にもあるが省略する。政府事故調中間報告資料によれば、写真は2階総務部執務室とのこと。

少し拘るが、共同通信社原発事故取材班『全電源喪失の記憶』(新潮文庫、2018年3月)P26には吉田昌郎所長の視点から「ロッカーやキャビネットには転倒防止措置が講じられていたが、中の書類は散乱」と記載されてる。確かに所長室から外に出ると総務部のエリアだが、門田隆将『死の淵を見た男』(PHP研究所、2012年11月)P25では「ロッカーは倒れ」とあり、上記東電の記述でも倒れている。門田氏の政治的バイアスは私も以前指摘したが、この記述にその動機があるようには思われない。

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出典:「写真④.2階技術総括部執務室内」『中間報告 資料編』政府事故調

また、政府事故調の技術総括部の写真を見ると、棚が倒れた跡が明瞭に分かる。

福島第一は落下や転倒の影響で、怪我人も出した。

外に出てみると、思いのほか寒い。防寒着を羽織ってきて良かった。1週間前の訓練通り、所員たちは免震棟前の駐車場に集まっていた。
(中略)
寒空の下、言葉を交わす所員の数はあっという間に400人、500人と膨れ上がっていった。駐車場のアスファルトは地震の影響で波打ち、陥没しているところもあった。集合した所員の中には、落下物に当たったのか頭から血を流している者、ショックで震えている者、恐怖で泣いている女性もいた。

「第一章 3・11」『全電源喪失の記憶』共同通信社原発事故取材班 新潮文庫 2018年3月1日P29

その後、東電株主訴訟にて、(事務本館ではないが)棚が倒れたことでタービン建屋などへのアクセスが困難となった点が争いとなり、被告側は第28準備書面のP10にて東電の記述を引用し、事前の対策が不可能だった証拠として引用した。

それに対して、元原子力プラント設計者の渡辺敦雄氏は意見書を提出し、次のように反論した。

(2)棚の締結・固定すらしてなかった可能性がある
(中略)東京電力は転倒防止処置を知らなかったわけではなく、全館で展開しておけばよかった。棚の締結・固定などは一般のオフィス・事業所でも耐震対策としてよくおこなわれていることであり、金具類も容易に入手できる。東京電力は公式発表で地震時の棚の管理状況を明らかにしていないが、一般的な地震対策についても通常期待される管理(原子力施設に要求される高度なものでは無く、一般防災のレベル)すら放擲していたのである。

渡辺敦雄『東京電力株主代表訴訟における結果回避可能性に関する意見書』2019年3月14日

インフラ関係では復旧の記録を公開することがある。企業の姿勢を示すうえで大切なのは言うまでもないが、最初から固定しておけば訴訟で指摘されるようなことは起きない。冒頭で啓蒙書をダメ押しに引用したが、2000年代の感覚から言えば常識だろう。

【柏崎刈羽の被災時には明記され、福島第二は水平展開】

不思議で仕方ないのは2009年、電気協会から『その時、仲間たちは 中越沖地震・柏崎刈羽原発被災の真実』という本を出版しており、同書には前の節で述べた所員の自宅被害の他、キャビネット転倒から天井化粧板落下まで一通りの言及があり、啓発は特に重点的に行われていたことである。

P4849

引用箇所の記述と写真から、転倒防止対策を行っていたら変圧器の火災にも早く駆けつけることが出来たことが分かる。

福島第一は僅か4年前の自社教訓を生かさなかった。上記意見書では中越沖の例まで言及はしていないものの、原子力発電所とは思えない瑕疵を指摘することで、反論に加え、管理者としての防災意識も問うている。

比較して違和感を感じるのは、福島第二の事務本館ではこのような事態は起きていないことだ。

増田尚弘は(中略)震災当時は第二原発の所長として勤務していた。(中略)その日、所長室から離れた技術総括部で打ち合わせを行っていた。

(中略)増田は思わず身をかがめた。(中略)次の瞬間、建物全体が大きく揺れ始めた。
「地震が来たら机の下に隠れなさい」
子供の頃から言われてきた言葉が頭に浮かんだが、実際に入ったことなど一度もない。しかし、今回はまずいぞと思い、辺りを見回した。揺れは驚くほど大きく、長時間続いた。近くの部屋からは女性社員の悲鳴も聞こえてくる。すぐ前にあった机の下にもぐり込んだ。

(中略)中越沖地震の教訓からキャビネットなどはしっかり固定されていた。扉が開いて中のものが飛び出すということはあったが、ほとんど倒れていない。また、天井が崩れることもなかった。

「第一章 緊迫の四日間」『福島第二原発の奇跡』高嶋哲夫 PHP 2016年3月18日P26-27,P37-38

同書冒頭に言明されているが、著者の高嶋氏は原発推進派である。そのことを以って本書を価値がないかのように論評する人がいるが、こうした聞き書きがスタンスに影響されるとは到底考えられない。福島第二では棚の固定は行われていたので、一部しか倒れなかったのである。

余談だが、増田所長の描写からは学べることが色々ある。以前の振る舞いは褒められるようなものでは無かったが、学校の防災教育は言うことを聞かない生徒にも影響を与えていることである。こうした人はよくいるだろうから、気を付けた方が良い。

福島第二の場合、天井落下の報告も見当たらなかった。耐震天井をPRしていた桐井製作所の導入事例を見ると、2008年に福島第二原子力発電所で実施した旨の記述がある(後で一括して掲載)。柏崎刈羽の事務本館は1985年前後の築で、福島第二より数年新しく、1981年の新耐震基準を満たしいていたにもかかわらず大被害を被った。復旧に当たり、東電は柏崎刈羽で耐震天井を導入しており、その水平展開が福島第二の事務本館まで及んだのではないかと考える。

やや込み入った専門的な話となるが、 現状入手した情報から福島第二事務本館の耐震性についても考察する。

福島第二原発が組織として発足したのは1982年4月で1号機の営業運転開始と機を一にしている。同年6月24日には竣工式(『福島第二原子力発電所のあゆみ』2008年10月P84)。『原子力ふくしま』1982年7月号は当時の第二原発を内覧した記事があり、事務本館は竣工していた。

新耐震基準とは1981年6月1日以降に建築確認の通知書を受けている建物となる(昭和56年(1981年)以降の新耐震基準とは?旧耐震基準との違いについても解説

1年で設計を改めるのはかなりスケジュールタイトなので、第二の事務本館は旧耐震で建築された可能性もゼロではない。一般建築と見なした場合はそのように考える。

しかし、当時の原子力施設は実際にはワンランク上の耐震分類を「検討用」として掲げ、設計側も原子力関連施設の範疇に、事務建屋なども含めていた(『原子力発電所の耐震設計の考え方』武藤研究室 1983年3月P20,22-23)。武藤研究室は鹿島建設を通じてBWR陣営との関りが深い。福島第二の事務本館もこの考え方に倣っていたとすれば、建築基準法相当のCクラスではなく、Bクラス相当の耐震性を持たせて建設されたとも考えられ、その安全余裕が結果として1981年新耐震基準の建築物以上の耐震性能を持たせた可能性はある。

事務本館そのものの耐震性は電力会社も詳しく解説する機会が少ない。だが、常時多数の所員が勤務しているため、人命上からはその扱いについて丁寧な情報開示が必要となるだろう。

なお、他社の状況だが、女川原発の舞台裏を取材した町田徹『電力と震災』(日経BP 2014年2月)P29によると、東北電力の火力発電所の事務室でも棚が倒れていたそうで、やはりインフラ企業としてその点は甘かった。

一方で北陸電力志賀原発の中央制御室や中部電力浜岡原発の5号機では2008年には耐震天井を導入した。志賀原発は2007年能登半島地震で自動停止を経験し、浜岡は以前から原発訴訟でも大問題となり耐震強化で他のプラントより先取りしていたという背景があった。

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出典:天井の耐震対策>導入事例(桐井製作所HP)より2007-2008年頃を抜粋

福島第一の2代目事務本館が措置されていなかったのは、建築が中途半端に新しかったことによると思われる。天井の落下とその対策に関する研究記事は、2001年より前から投稿されているが、電力会社への納入が多い桐井製作所の導入事例は2006年以降であり、実用化が遅れたことが窺える。なお、初代事務本館の内部写真は見つからなかったので、内部をどこまで改装したのたかは不明。

当時の社内マニュアル(防災業務計画)では、緊急時対策本部の要員は免震重要棟に入るが、その他の所員は一旦屋外の避難場所に集合することになっていた(『福島第二原発の奇跡』P48)。そういう人の動きを見る限り、やはり固定は全館に展開すべき施策だろう。なお、2013年以降は国交省の動向もあり、桐井製作所以外にも多数のゼネコン等が天井耐震化を売り込んでいるのは、以前取り上げた記事に書いた通り。

東日本大震災以降も大きな地震が全国で続発しているが、対策をサボるなどして事務室で同じ様な被害を繰り返し、社員が死傷したら、安全配慮義務を問われ訴訟リスクとなる。また、その人が欠けることで原子炉の事故復旧も遅れるなどの悪影響にもつながりかねない。死亡者が出なかったとしても、ただ揺れが来ただけで通常の執務は不可能となってしまうし(危ないから当面入室不可なんて話になる)、所員への心理的打撃も大きい。しかし、転倒防止、天井落下対策を実施しておけば、これらの影響緩和にも益するところ大である。建築物の耐震改修に比較すれば遥かに容易であり、自宅の次に過ごす時間が長い場所でもある。だから、抜かってはならないのである。

2021年5月12日 (水)

「原発の耐震性は住宅に比べると低い」という主張は何が誤っているのか

原発再稼働の問題では有名な話だが、2014年に大飯原発訴訟というのがあり、福井地裁で原告が勝訴した。

この時の判決を下した樋口英明裁判官が退官後に講演したり著書を出している。それを報じた新聞記事などが発信源となり、「原発の耐震性は住宅以下」という主張が出回るようになった。

樋口氏の著書は1回読み、判決文も読んだ。その上で言うが、上記の主張は科学的には不勉強のそしりを免れないし、それを「衝撃のデータ」などと鵜呑みにしたメディア関係者達にも問題がある。

まず新聞記事を読んでみよう。

大飯原発の裁判で原発の耐震性を争点にしました。私の自宅でも3千ガル(揺れの勢いを示す加速度の単位)以上で設計されているにもかかわらず、当時の大飯原発はそれをはるかに下回る700ガルでした。全く見当外れの耐震性です。2000年以降、700ガル以上の地震動をもたらした地震は全国で30回ありました。原発は平凡な地震にも耐えられないのです。

「私が原発を止めた理由」は? 三重出身の元裁判官出版 聞き手・大滝哲彰『朝日新聞』2021年3月5日

※下線は筆者

他にもある。

これは一般住宅と比べてどうなのか。樋口さんは「三井ホームの住宅の耐震設計は5115ガル、住友林業は3406ガル。実際に鉄板の上で住宅を揺さぶる実験をして、ここまで大丈夫でした。これに対して原発の基準は上げたところで、この程度。ハウスメーカーの耐震性よりもはるかに低い。

元裁判長が示した「原発の耐震性」衝撃のデータとは 川口雅浩・毎日新聞経済プレミア編集長 2021年4月28日

樋口氏はそう考えた経緯も明らかにしているようである。

1日で決めたそうだ。だから高裁でひっくり返されたのだろう。

私は、反原発論者の山本義隆氏を思い出した。駿台のパンフレットに物理講師で紹介された時は「分からなければうんうん唸って考えるしかないのよ」と釘を刺していたからである。

なお樋口氏は他に、東京新聞、週刊金曜日、プレイボーイ等、他のメディアからも取材を受けている。

この主張の間違いは、「比較する際は物差しを揃えられるか検討する」のを怠ったことである。また、地震を振幅のみで捉え、周期と継続時間を無視している。私の専門は建築ではないが本記事で解説を試みた。構成は【1】~【4】で主たる論点を示し、【5】【6】で結論を与え、【7】に想定問答を付けた。【2】は長くて理系向けの話なので、飛ばして貰っても構わない。

【1】波には周期がある。

まず、地震は波である以上、加速度振幅の他に周期で評価するものである。

私が高校生だった90年代、理系を選択すれば波を学んだ。その程度の基礎教養だ。グラフに記録された地震波を見たことのある人は多いだろう。以下に、東日本大震災と阪神大震災の加速度波形を示す(境有紀「地震動の強さとは」(地震工学会HP リンク)。縦軸に加速度、横軸が時間だ。

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波形は一見無秩序に見えるが、短い周期の波もあれば長い周期の波もある。個々の周期で振幅も異なる。それらを足し合わせると地震波になる。地震波には色々なパターンがあると言われるのは、その振幅と周期の組み合わせが違っているから。

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出典:木下繁夫・大竹政和監修『強震動の基礎』(Webテキスト版)図3.2-2

一方で、物には固有の周期がある。建築物もそう。固有周期の波を受けると共振と言ってその大きさがどんどん増幅する。つまり、建物の固有周期は地震に弱い周期(卓越周期とも呼ぶ)と言い換えることが出来る。

原発の固有周期は0.1秒前後、住宅の固有周期は(実質的には)1秒前後であり、かなりずれている。一方が壊れた地震波なら他方も壊れるだろうと言えないのはそのためでもある。

それどころか、ハウスメーカー自らが単純なガル比較は意味が無いと説明している例がある(一条工務店 リンク)。

ハウスメーカーは自社のPRのため、なるべく大きな値を使いたい。大きな地震がある度その傾向は強まった。そうした著名メーカーをたしなめる「親切な」メーカーが登場するのは、当然と言えるだろう。

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阪神大震災と東日本大震災を比較すると、前者の方が周期1秒付近での揺れは大きくなる。このことが阪神で住宅が大量に倒壊した理由である。

樋口氏はハウスメーカーが阪神大震災以降に行った努力に繰り返し言及している。しかし、東日本大震災では古い住宅も大量に被災したが、加速度の激しかった地域でも倒壊率は低い。それが上記一条工務店が掲げたグラフの意味するところである。1978年宮城県沖地震の経験から仙台市のように耐震化が熱心だったとの指摘もあるが、全国平均と極端な差は生じていない(震度6強で全壊「少」の理由に迫る、リンク)。

つまり、東日本大震災で古く、且つ耐震補強もしていないような住宅が倒壊しなかったのは、住宅メーカーの努力ではない。固有周期の違いのためであり、樋口氏の主張は片手落ちなのである。

なお阪神大震災だが、1981年に新耐震基準が施行され、それ以後に建てられたビルは被害が少なかった。マンションで例示すると、9割が軽微以下の被害で大破は0.3%に過ぎない(耐震基準(旧耐震VS新耐震)建物を考える・・・、リンク)。被害の大部分は旧耐震基準以前に建てられた木造家屋である(阪神・淡路から20年。耐震基準が明暗をわけた、リンク)。当時から一般のビル以上に設計地震力が高く、全サイトではないにせよ、近年は更なる耐震補強を施されるケースも目に付く原発建屋が、阪神大震災の揺れで半壊・倒壊するとは私にも思えない。

理論は、以下も参考にしてみると良い。

構造コラム第5回「固有周期と共振現象」2016/10/21 株式会社U’plan

冒頭に示した波形は加速度と時間しかないので周期ごとの大きさは分からない。しかし、上記コラムに登場する応答スペクトルに変換すると、周期ごとの加速度を求めて比較することが可能となる。それを【2】で説明する。

【2】地震波はスペクトルと継続時間で理解するもの。

地震波は複数の波のから構成されているので、スペクトルを理解する必要がある。また、継続時間も考慮の必要はある。原発訴訟にはよく出てくるが、氏の発信したものにその情報は無い。

このことを一段深く知ると、ガルだけが絶対的指標にならないことが理解出来るが、躓く人は多いのではないだろうか。そのためか、原子力規制庁なども住宅メーカーの件で質問を受けた際、説明は回避しているようだ。本節ではこれらの基本的な解説をする。長いので飛ばして【3】を読んでも構わない。

まずはスペクトルから。大学生が耐震設計を学ぶ際、こうした問題を理解するため耐震工学、振動工学と呼ばれる分野を学習する。そのテキストはネットにも多数アップされている。26年前の阪神大震災で記録された地震波(神戸海洋気象台)が頻繁に使われているので、数式は余り使わず、これで例えよう。同じ地震波から様々な表現がなされることが実感できるだろう。

よく「〇〇地震では□□の地点で▽▽ガルを記録した」とある。【1】で述べた横軸に時間、縦軸に加速度値をとったものである。時刻歴波形、加速度波、強震記録などとも呼ばれ、時間軸に着目した場合は時刻歴データ、地表で測ったものは地動加速度などとも呼ばれるが、物差し(軸)は全て同じ(構造物の動的弾性応答と応答スペクトル、リンク)。

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神戸海洋気象台の場合は818ガルだが、最大の振幅を読み取っている。体感的には最も分かりやすい地震波のグラフと言えるだろう。

なお、この加速度からは、周期の情報を読み取ることは不可能だ。様々な周期を持つ波の合成値だからである。よって「最大〇ガルを取る加速度波の固有周期は?」と問われたら、「単調な正弦波ではなく、様々な固有周期の波が沢山混じっている」と答える。

※地震観測のデータはEW(東西)、NS(南北)、UD(上下)の3軸それぞれ加速度波のグラフがあるが、簡単のため一つの軸だけ考える。

だが、固有周期との関係を考えると、「周期◎◎秒で▽▽ガル」と分かる方が便利である。

つまり、地震波を加速度と周期で表したグラフがあると良い。

【1】で述べたように地震波は様々な周期の波を重ね合わせたものなので、これを周期ごとに分解することが出来る。その数学的操作をフーリエ変換と呼び、作成されたグラフをフーリエスペクトルと言う。横軸には周期、縦軸は加速度の振幅が表記される。

神戸海洋気象台の818ガルを記録した加速度波のフーリエスペクトルを示す(兵庫県南部地震の地震動と応答スペクトル、リンク)。

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これを見ると、周期0.7秒で600ガル程の最大値を取っている。各周期を足し合わせれば、最大値818ガルの地震波となることは直感的にも理解し易いだろう。

だが、耐震設計者は地震波が構造物に及ぼす影響を知りたい。それも、簡単なグラフがあれば非常に便利。そこで、次のように考えた。

理系で大学に進学すると、基礎教育で振り子に強制振動を与えた際の振る舞いを微分方程式で表現することを習う。強制振動を地震波とすれば、その振り子の振る舞いを描くことが出来る。なお当然、振り子には固有周期がある。

次に、様々な周期の振り子を用意して地震波(加速度波形)に対する最大の応答(振れ)具合を並べる。これを加速度応答スペクトルと呼ぶ。言い換えると「その地震に対して建物がどのような応答をするか」を表したものである。

※フーリエスペクトルは多くの理系学部で学ぶが、応答スペクトルは専ら耐震関連分野で使われているようだ。

地震を怪獣のように例えるなら、怪獣の咆哮で色々な固有周期を持つ街の建物がどのように揺さぶられるかを示したもの、と言ってもよい。ある団地は激しく振られてしまうかも知れないし、別の商業ビルはそれほど影響は受けないかも知れない。怪獣映画と違うのは、ビルが壊れるシーンまでは映らないこと、即ち塑性崩壊や非線形領域の応答は計算できないことである。

全体の関係は以下のようになる(構造物の動的弾性応答と応答スペクトル、リンク)。

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グラフを見ると最大加速度を取る周期からは少し離れてるにも拘らず、周期0.5秒で2068ガルもの大きな値を示している。

元の818ガルの地震波からは直感的にはイメージ出来ないのではないだろうか。

しかし、ここが肝心なところだ。フーリエスペクトルは地震波そのものを別の物差し(軸)を使って表してるだけである。応答スペクトルは、物差しの変更に加えて、指し示してる物が違う。しつこいが「応答」とは「地震波に対する振り子の応答」である。

逆に言うと、フーリエスペクトルでは振り子(構造物)の応答は分からない。強制振動の話ではないから、振り子が計算式に表れない。だから建築耐震分野ではあまり使われないのだ。

少しだけ具体的な計算をしてこの点が分かるように説明する。加速度応答スペクトルの各周期の値を加速度波の最大値で割ったものの絶対値を応答倍率と呼ぶ。神戸海洋気象台の場合は周期0.5秒で2.5、周期1.5秒で1.0となる。

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即ち、神戸海洋気象台で観測された地震波では、周期0.5秒の建物の方が揺れるということだ。

こうして作成した加速度応答スペクトルはその使い方を知っておくのが有用だろう。例えば、グラフを見て応答値の大きな周期からは固有周期が離れるように建物を設計することが考えられる。

また、グラフを読み取るだけで各固有周期での揺れの最大値が分かり、地震波の時刻歴を気にする必要が無いので、静的な加速度のように扱え、部材に必要な強度を計算する上で便利である。神戸海洋気象台の例で田守伸一郎信州大教授が計算例を載せているので、参考にしてほしい(応答スペクトルを用いた構造物の応答解析、リンク)。

原発の場合は、建物を一つの塊(質点)とみなした場合の応答スペクトルではなく、多数の質点により構成されたモデルを考え、建屋の基礎に地震波を入力した際は、各階ごとに床の応答スペクトルを算出する。ここまでがゼネコンの仕事であり、重電メーカーは各階に据え付けられる機器・配管などへどの位の力がかかるのかを床応答スペクトルを参照して計算する。各機器・配管はそれぞれ固有周期が違うので、応答値によってかかる力も変わる。それを元に算出された力に耐えられるような取付金具や基礎ボルトを選定するようだ(参考、後藤政志「格納容器から見た原発の技術史」『福島事故に至る原子力開発史』P144-145)。

ここで漸く本題。基準地震動はこの加速度応答スペクトルのグラフで描画されるものなのである。電力会社がネットにアップしている資料を見てみると、必ず載っていた。中国電力島根原発の例を示す(リンク)。

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まず、同じグラフに沢山の地震記録や地震予測の加速度応答スペクトルを何本も描く。次に、その線の束の最も大きな値を包み込むように直線や曲線で結ぶ。これで基準地震動の加速度応答スペクトルは完成。なお、大きな値はコントロールポイント(基準地震動の線が絶対に通らなければならない点)、直線や曲線で結ぶことを包絡とも呼ぶ。

黒の直線と曲線で結んだものが基準地震動、不定形の波形が様々な地震予測の加速度応答スペクトルである。

では、基準地震動を加速度波のように横軸に時間、縦軸に加速度で表現することは可能だろうか。勿論可能である。数学的処理は割愛するが、「模擬地震波作成」と言うのがそれに当たる。

一般的な例としては、模擬地震波を作成したらその加速度応答スペクトルを求め、設計用に決めた加速度応答スペクトルに近い形状となっているかを算定、ずれている場合はフーリエ係数などを補正して新たな模擬地震波を作成し、その加速度応答スペクトルを求める、というサイクルを繰り返すようである(模擬地震波作成処理の考え方 WANtaro氏、リンク)。

加速度応答スペクトルは振り子の先に記録ペンを付け、軌跡を描くようなものだ。本当にペンが付いていれば最大応答値より下側は塗りつぶされる。そういうものだから時刻に関する情報は消える。例えれば写真で動物や乗り物を露光で撮るのに似てる。動物や乗り物が地震波に当たる。

逆に言えば、ある加速度応答スペクトルがあった時、それを描く模擬地震波の時刻歴波形(加速度波)は、無数に存在する(下記鉄道総研資料、リンク)。

※L2地震動は、一般建築の基準地震動に相当。

L2

極端な話、同じ加速度波を2回繰り返してもその地震波の加速度応答スペクトルは変わらない。

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だから、構造物の設計に適した波形を作成する。

原発の場合は日本電気協会規格であるJEAG4601で規定。1987年版では2章に掲載されている。

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出典:原子力規制庁(リンク

JEAG4601と上記文書「時刻歴波形の作成方法」などにより、包絡線の形状を決定、その中に模擬地震波が収まってることが分かるだろう。突出して大きな加速度は取っていないが、最大値と比べそん色ない振幅を取る時間が長めである。

また原発の場合、模擬地震波の最大加速度は、報道される基準地震動の値(加速度応答スペクトルの周期0.02秒)に合わせてあるようだ。先の島根原発の例を示す。一方で、そういうことをしない分野もある。

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これまでの説明から明らかなように、加速度応答スペクトルと加速度波は、物差し(グラフの軸)も、見ている物も異なるので無理である。比較するなら、どちらかの表示形式に揃えるしかない。

であるから、上記のような模擬地震波(加速度)波であれば、住宅メーカーが振動台に入力する地震波と最大加速度を同じ図で比較することは出来る。

これで物差しも揃って、基準地震動の作り方も理解して、良かったと思うだろう。

私も最初はそう思ったのだが、本当にそれでいいの?と考えるようになった。このことを本節の最後に述べよう。

第一に、住宅メーカーが振動台で使っているのは自然の地震である。

高層ビルには建築基準法告示1461号で定義された加速度応答スペクトル(告示波)があり、他に道路やダムにもそれぞれ定められたものがあるが、住宅には無い。だから、分かり易いPRにもなる過去の地震波を使う。加速度最大値が特定の固有周期の加速度応答スペクトルに一致するように調整されてはいない。

そのような地震波と、基準地震動から包絡線で整形した模擬地震波とを最大加速度のみで比べることに、どの程度の意味があるかは疑問だ。原子力規制庁も福井県の主催した説明会で「比較は出来ないと」回答している(原子力発電所の審査に関する説明会(2月9日)開催後の追加質問に対する 原子力規制庁の回答 リンク 質問No.1と7が該当)。

第二に共振の事を考えると、建物や機器の固有周期付近の値が最も重要となる。固有周期から離れた周波数帯域では、既往の地震波が基準地震動を上回っていても、共振しないのでダメージを受けない、というのが一般的な理解である。1秒以上での加速度が大きく、原発の固有周期と離れている例は【1】の阪神大震災である。

一方、近年極短周期が卓越する地震が相次いで観測され、原発機器の固有周期に近い。これらは本記事最後の【想定質問11】で詳細説明したが、見かけ上大きな数値を示していても、ダメージへの寄与が高くなるとは限らない、と私は考える。

第三に、最大振幅の継続時間の問題がある。加速度応答スペクトルは時間情報が無いので、最大応答値が分かっても最大値付近を取る加速度の継続時間は分からない。これが、極短時間であれば、大加速度が作用しても殆どの構造物は破壊には至らないという考え方に繋がる。下記に模式図を示したが、K-NET築館波を使った住宅実大耐震実験の動画を見ると更に良く分かる。

K-NET築館波の下に仮想的な強震動(60-90秒の振幅を大きくしたもの)を示す。このような波が実在すれば、破壊力は大きくなる。

なお、近年強震動パルス(SPGA)という、加速度が大きな地震動が問題視されている。SPGAは振幅が大きくなることで周期特性の寄与は小さくなる(想定される継続時間は阪神大震災並みに短いようだが)。この地震波は分かり易く誇張したものだからSPGAより更に破壊力は大きいが、振幅の寄与が大であることは理解できるだろう。

初期の原発で採用された鋼製の格納容器、特にPWRのものについては安物の空き缶のように、その体積に比べて板厚が薄く、しかも上部に重量物があるので、SPGAなどには弱いとの指摘もある。

しかし、退官後の樋口氏はそのような主張を展開しているわけではなく、単に過去の地表観測をベースとしている。また、大飯3,4号機は鋼製格納容器ではなくプレストレストコンクリート製原子炉格納容器である。

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なお、基準地震動も読み上げ方によっては人に異なった印象を与える。

加速度応答スペクトルのグラフに描かれた原発の基準地震動は0.02秒では最大値を取らず、0.1秒前後で最大値を取っていることが多い。主要な構造物の固有周期も最大値付近に集中している。

高知県の説明資料では伊方原発を例にしているが、650ガルとされる基準地震動は0.1秒では1600ガルとなる(リンク PDF6枚目)。

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※上図は横軸は周期だが、右上に向かう斜め線を加速度(応答スペクトル)、縦軸を速度(応答スペクトル)、左上に向かう斜め線を変位(応答スペクトル)として二次元のグラフで3つのパラメータを表現するために使われる3軸図(トリパタイト、Tripartite)と呼ばれるものである。本記事では加速度のみを議論するため、それ以外は無視している。詳しい解説は「pythonでトリパタイト(3軸図)を描く」(構造計画研究所、リンク)等を参照のこと。

大飯原発の場合、数年前まで採用されていた0.02秒で700ガルの基準地震動は、0.1秒付近で最大値2000ガルとなる。

樋口氏が犯した間違いの一つは住宅メーカーの誇張を真に受けたことでそれは次の【3】で説明する。だが、上記のような読み取り方も一つの誇張であるという点は似ている。

【3】計測位置(高さ)を揃えるためには明記が必要

地震加速度は、計測条件が揃っていなければ比較に意味が無い。

樋口氏が引用した三井ホームのWebサイトを確認すると5115ガルについて「※入力地振動の数値ではありません。実験時に振動台で計測された実測値です」(ママ)と書かれている。「地+振動」というタイプには苦笑いだが、これだけではよく分からない。最初、屋根で測ったのかと思った位だ。

住友林業の場合は現在PRしているBF工法について、下記の2通りの記述があるが、動画に加速度波が描画されていることから加振値と推定。技術文章の表現としてはNGである。

東日本大震災と同等の最大加速度2,699galの揺れはもちろん、その数値を大幅に上回る3,406galの揺れを記録しましたが(リンク

東日本大震災の最大加速度2,699galおよび、最大3,406galの揺れを加えてもなお(リンク

3406ガルの根拠は分からない住友林業にも問い合わせメールを出したが脱稿前に回答は無かった。

地震計(加速度強震計)のセンサ自体はそんなには大きくは無い。地震計メーカーのミツトヨが出してるカタログを読むと、20cm角位のサイズで、地下から最上階の何処にでも取付可能である(リンク)。当然屋根にも付けられるだろう。

三井ホームは「2016年7月11日・12日・13日 /国立研究開発法人 土木研究所」と試験場所を書いてあった。そこで土木研究所の振動台について調べたところ、水平方向について「最大加速度2Gで任意波形の加振」となっていた(リンク)。

 ※地震動は通常水平方向が垂直方向より大きい。振動台もそれに対応したものが殆どである。

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更に念の入ったことに「実際にはテーブル面で上記の数値を超える加速度等が計測されることもありますが、上記の数値を超える波形を入力することはできません。」とまで明記している(リンク)。

2G≒2000ガルである。それでは、5115ガルを計測した入力値はどうなっているのだろうか。

三井ホームに問い合わせたところ、2Gは100t搭載時に正弦波で加振した場合の1軸の能力であり、実験では(単調な正弦波ではなく)地震波を入力したので定格以上の加速度が計測されている。5115ガルは振動台表面での計測値との回答を頂いた。三井ホームはこの実験に関する論文投稿もしておらず、入力地震波は非公開とのことだった。

これでは、調べようがない。それに、3軸それぞれの最大加速度を示した時刻が同一だとしても、合成すればかなり大きな計測値を示す可能性はある。分かり易く2軸で例示すると、NS方向:3000ガル、EW方向:4000ガルの合成加速度はピタゴラスの定理から5000ガルとなる。

Ns4000ew30005000

この件について調査中、ある脱原発系のライターから「住宅メーカーは丁寧な説明をしている」と反論を受けた。だが、その説明はお粗末そのもの。白抜き部分もあるとはいえ、原子力規制庁に説明するため分厚い審査資料を用意する電力会社とは比べ物にならない。

なお、ハウスメーカーが耐震化に熱心となったのは、先に述べたように阪神大震災で旧耐震基準を中心に大被害が出たためである。そのため、木造住宅については2000年に建築基準法を改正し新・新耐震基準が施行されたが、2016年熊本地震で一部に倒壊するケースがあったので、熊本で得た地震波で実験をしているのである。つまり元々が脆弱過ぎたから改善に努力したのである。一方、鉄筋コンクリート建築についても設計改善などはされているが、耐震基準自体は1981年以来あまり大きな変更はない。

参考に、計測位置を示している数少ない例がミサワホームである。阪神大震災を参考に1000ガルを入力したところ、「屋根の部分では2,500~3,000ガルに達する加速度が加わっていた」とある(リンク)。入力に対する増幅率は3倍。上の階の方が大きく揺れるのは常識だが、それを裏付ける。だから計測位置の確認は重要なのである。

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本来はミサワホームのような記載が最低ラインであり、それを満たさないメーカーは、広告上問題がある。

更に、ベテランの住宅コンサルタントによると、実大実験には基礎がついてないことが多く、実際の建築では基礎との堅結状態が問題になるとのこと(本当に地震に強いハウスメーカー・工務店を選ぶ秘訣(U-hm株式会社)リンク)。そこが弱ければ揺れは大きくなるだろう。

また、振動台実験を行っている住宅は理想的な標準設計に基づく。実際の住宅は顧客のオーダーで壁の量と配置バランスが崩れることがあるし、店舗付き住宅や車庫付き住宅の場合は1階に巨大な開口部があり、脆弱となるが、そのような形状の実験はPRの対象外である。

他にも、建築技術者が住宅メーカーの耐震試験の問題点を指摘したブログなどもある。

※2018-11-22 ハウスメーカーの実大振動実験から各社の耐震性はわかるのか? (バッコ博士の構造塾)

【4】岩盤(第3紀層)と地表の地震動には差がある。

樋口氏は著書でこの点は紹介しているが、インタビュー記事などでは省略されているので当記事でも説明する。

一般の建物、特に住宅はどこにでも建てられているが、原発は岩盤(第3紀層)の上に建てられる。地表まで岩盤が露出していなければ敷地を掘り下げたり、岩盤まで建屋を埋め込む。文献によっては岩着とも呼ぶが同じ事である。

理由は、表層の柔らかい地盤より強固な岩盤に建設する方が揺れが小さくなるから(北海道電力の説明より下図引用 リンク)。

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これは「福島第一原発が30mの崖を10mに削って建てた」理由でもあった。地震の脅威が希薄な国々では岩盤まで掘り込まず建てているサイトもあり、岩着は日本に特徴的な考え方のようだ。福島事故後、知ってる人は増えたと思っていたが、Twitterでの反応を見ている限りは、そうではなかったのだろう。なお福島第一の場合、その差は2.5倍程度と建設時に言われていた。

実は、岩着思想の観点から樋口氏を批判したPowerpc970plus というアカウントの説明がTogetterにまとめられている(togetter.com/li/1678458)。ただし、【5】で示すように岩着だけでは反論になり得ないし、周期の話は私が次のようにヒントがてらガルのみ問題にすることに疑問を呈した後、急遽付け加えている。それも自らの言葉ではない。

なお「地表の3000」とは東日本大震災で築館にて観測された地表での強震観測記録(K-NET築館の2933ガル)を指す。

地震観測網として最もポピュラーなのはK-NET(Kyoshin Network:全国強震観測網)国立研究開発法人防災科学技術研究所(防災科研)が運用し全国に1000ヶ所設置されているが、計測高さは地表である(リンク)。なお地震波は0.02秒ごとに記録する(リンク)。

一方、基準地震動は地下の固い岩盤面(解放基盤表面)で地震の揺れを設定するものである。

解放基盤表面の深さはサイトによってまちまちである(具体的にはリンクの通り)。柏崎刈羽のように原子力発電所の地下階と100m以上かけ離れている場合もあり、そのようなサイトでは深さの違いを明記している(リンク)。

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東電作成の図(リンク)を見れば分かるように、岩盤には建っているが、岩盤と解放基盤表面は厳密には定義が異なることには注意が必要である。岩盤なら全て解放基盤表面として扱われる訳ではない。

なお、北海道の泊と西日本のサイトでは建屋の地下=解放基盤表面となっているケースが多い。この場合は上図の岩盤=解放基盤表面と見なして差支えは無い。

さて、樋口氏の本を買うべきでは無いとPowerPC970plusは主張する。しかし著書では「推進派の弁明」を批判する形で頁を割いていた。無知だとも書いているが、失当である。樋口氏が言及していない【1】~【3】の点を指摘するのが適切だったと考える。

何故Powerpc970plusは推進派から批判されないのか。それは以前から次から次へと論点をずらして粘着することが特徴のネット弁慶として知られているためだろう。実務家と思しき数名は【1】【2】を理解していたようだが、Powerpc970plusと揉めたくないのと、上記まとめが拡散されたのでノータッチにしたのだろう。【3】について言及していた関係者は見当たらない。

【5】福井地裁判決文はセーフだが、退官後の主張はアウト

裁判とは原告と被告が言い分(準備書面等)を出し合って裁判所に判断を仰ぐ仕組みである。よって、基本的に裁判官自身が何か独自に証拠を調べ出すことは無い(職権証拠調べの禁止)。精々提出を促すのが限界である。樋口氏もこの点を著書で言及している。

そこで判決文を読むと、【1】~【3】の点は元々俎上に上っていない。【4】についてのみ議論している。

「岩手内陸地震の際に地表で観測された4022ガルと同じ地震波が原発に来る」ことが趣旨の文章と解釈すれば、確かにNGである。

だが私には、岩手内陸は参考例に過ぎず、岩着効果だけでは「基準地震動以上の地震波が来ないことの証明は不可能」という論旨に読める(リンク 特にPDF45枚目および54~55枚目等)。 その証拠に、各地の原発で基準地震動以上の地震が来た例も挙げられている。

退官後、話を拡張して住宅との比較を行い、【1】~【3】の問題を抱え込んだのが、樋口氏と一連の報道の失敗なのである。

【6】原発と住宅を報道された数値だけで比較するのは無理

【2】で説明した通り、単位がガルでも、加速度波なら加速度波、加速度応答スペクトルなら加速度応答スペクトルで比較すべきである。

それが出来たとしても、【1】で述べたように住宅が破壊する固有周期は1秒前後だが、原発の固有周期は0.1秒前後ということもある。

ハウスメーカーは過去の有名な地震で記録された加速度波形を振動台テーブルから入力しているが、計測した加速度波形をK-NETやKiK-NET(防災科学研究所が日本全国に設置した地震観測網)のように公表してないので、その意味でも基準地震動との比較は不可能である。

また、高さ、地盤、基礎の有無等の条件も確認する必要はあるだろう。

そして、表現されている物の意味を理解し、誇張の型を学んでおくことだ。

例えば【2】で述べたように、加速度応答スペクトルから最大加速値のみ抜き出して比較すれば、基準地震動は2.5倍程度大きな値を取るし、模擬地震波の最大加速度は0.02秒での加速度応答スペクトル値と合うように調整されている。

住宅の地震動については【3】で述べたように屋根や2階での記録値は入力加振値の3倍程度まで増幅する。

私は第三者の個人だから持っている情報は限定される。現時点ではこれ以上のことは言えない。

ただし、樋口氏が問題提起していること、一部の訴訟で原告から疎明(説明)するように問いただされた以上、電力会社は彼等なりにきちんとした回答は出すべきである。

【7】想定質問

【想定質問1】

色々書いているが、基準地震動より大きな地震が来て原発に被害が出たらお前の説得力はゼロだ。

→今日取り上げたのはグラフや条件を読み誤ってる話が主。例えば活断層や地下構造の評価で基準地震動は大きく変わることが知られているが、その話はしていない。私も基準地震動より大きな地震や未経験の特性を持つ地震で原発に被害が出る可能性はあると考える。

なお、過去に原発の地震想定や耐震設計に疑問を呈するブログ記事は書いたが、それらは電気設備やケーブルラック等の脆弱さを論じたもの。建屋が倒壊するとは主張していない。これらは、更新や補強を行うことで現状の想定に追従することは可能である。

更に、私がよく参照する東海第二訴訟では圧力容器や格納容器に損傷を生じる旨の主張をしているが、それら構造物の耐震問題は準備書面が充実しているので当ブログで扱ってない。後藤政志氏が阪神大震災など過去の地震で鋼製の橋脚やタンクに座屈を生じたケースを挙げているが、例えば橋脚の場合は1971年以前の古い耐震基準で建設されたものが大きな損傷を受けた(神戸線三宮駅付近高架橋など、リンク)。同時代PWRの鋼製格納容器ならば技術水準が近いこともあり、同じ様な事は想定し得るのだろう。

【想定質問2】

普段原発を推進しているゼネコン技術者も何も言ってこないが。

→本当にそうなら、自社に住宅部門があり、会社や業界の悪口に繋がるので黙っているだけと考えられる。就業規則で自社の悪口を禁じている企業は多い。公共の利益を意識して問題提起すれば別だが、SNSで憂さ晴らしを目的に行っているケースでは、正体が明らかになると過去の書き込みからその種の悪口も露見してしまうのだ。

その他には、コミュニケーションスキルの不足で相手の立場に立った説明が出来ないとか、自分が苦労して勉強したので人に教えたくないと言った理由なのだろう。

勿論、応答スペクトルなどは説明が煩雑となり、比較の物差しを揃えることが難しいこともあるだろう。

【想定質問3】

・原発建屋はある程度地下に埋め込まれ、深さによっては揺れが半減する研究もある。実験した住宅に地下室は無い。お前は知ってるのか。

・原発建屋に大地震が来るとコンクリートに無数のヒビが入り、建設時の強度を維持できない。お前は知ってるのか。

→確かにそういう話はありますが(リンク)、今回の件から外れるので説明を省略した。

※他、関係無い話への話題逸らしも同じ回答とする。

【想定質問4】

Twitterでの説明と変わってるところがあるようだが。

→今回調べ直し、応答スペクトル関係など訂正したところはある。特に4月以前は少し違うことを言っていたかも知れないが、その場合は本記事を最終回答として欲しい。

【想定質問5】

住宅との比較を準備書面に出してしまった。黙っていてくれないか。

→貴方の訴訟団で検討すること。他所の訴訟を巻き添えにされる方が困る。

社会通念の一例として示したところもあるが、正確には「住宅業界が生み出した」社会通念と言うべきだろう。社会通念を言うなら【1】【3】程度は高校までに学習する内容で理解出来、浸透度合いは比べ物にならない。【2】に関してもそれを解説した大学生向け教科書では「分かるように書く」ことを目標にしており、「~が分かる本」といった参考書も含め無視は出来ないだろう。「社会通念上」と言う言葉を使い過ぎた反動から、今後訴訟の場でも「社会通念とは何か」についての議論が深まっていくのだろうが、よく考えて準備書面を出すべきである。

なお、原子力情報資料室をはじめ、以前から学習を重ねてきた脱原発運動家や団体は「固有周期」「応答スペクトル」が何か?は理解した上で、耐震問題の批判を行っている。それに学ばなかったことを猛省して貰いたいね。

【想定質問6】

もうこの主張にメディアで相乗りしてしまった。黙っていてくれないか。

→貴方の問題。何故複数の原発ウォッチャーが黙っていたのか、よく考えること。

【想定質問7】

もっともらしく応答スペクトルの話をしているが、お前は頭が悪いだろ。文系なのか?どこの大学を出たんだ?耐震設計の実務経験は?取得資格は?投稿論文は?

→資格・経歴自慢が目的ではない。なお、理系大卒で専門は非建築系だが、本記事の調査で苦労したことは良い経験になった。フーリエスペクトルを経由したのも建築畑以外への配慮から(気象庁などに類する説明法 リンク)。

【想定質問8】

加速度の話ばかりで速度や変位の解説が無い。地震が来れば振られたものはスピードがつくし、元の位置からもずれる。速度や変位の応答スペクトルもある。加えて減衰定数の話も無い。式が殆ど無いので時刻歴応答解析も無ければニューマークのβ法による模擬地震波作成への話題展開も無い。不十分では。

→目的に沿わない事項は省略している。一般的な構造物は無論、鋼製の橋脚や格納容器の座屈にも大きな速度や変位が関係してくるが、その話はしなかった。樋口氏が加速度にのみ関心を持っていたことへの反論として速度や変位も大切だと説明しても良かったが、他の解説を優先した。

不足と思った知識は幾らでもネットに解説がある。好きなだけ勉強してください。

【想定質問9】

長文の癖に小難しい!!!お前は本当は頭が悪いんだろ。

→御免なさい。今後も精進します。テクニカルターム?それは覚えてくださいとしか。

【想定質問10】

ハウスメーカーに学ぶことは無いのか。

大地震が繰り返し襲来することを前提に実物モデルで何度も加振したことは見習うべきと考える。

ただし、本文に書いた通り、ハウスメーカー各社の情報開示は不十分で比較は困難である。私の知る限り、基本的な情報を論文等で開示しているのはミサワホームだけ。技報などで明らかにしているなら、広告ページに論文名位は明記はするべきだろう。

なお、ミサワホームも東日本大震災前の少し古い情報が主で、中越沖地震や熊本地震で観測された倒壊率の高い地震波で加振実績がないため、U-hm株式会社のような住宅コンサルタントからの評価は一段階低い(2021年5月現在)。

【想定質問11】

ハウスメーカーが引き合いに出す東日本大震災でのK-NET築館加速度波(最大2933ガル)の加速度応答スペクトルを確認したところ、短周期側で6000ガルを超え、グラフから上端がはみ出している。多くの原発の基準地震動よりも上の値であり、危険なのでは。

→グラフを正しく読めているようで何より。エイト日本技術開発がこの波について解説しているが周期0.24秒で13000ガルとのこと。

ただし、以下の2点からこの数値をそのまま評価には使えない。

(1)極端な増幅効果

これが記録されたK-NET築館の観測点をエイト日本技術開発が機材を持ち込んで確認した所、近くの文化会館駐車場と比べると1.5m程高い位置にあり、短周期の地震波が増幅されていることが分かっている。掲載されてるグラフはHz表記。周期0.25秒=4Hzなので、4Hz付近の比を見ると、概ね2倍程度、更に短周期側(高周波数側)では3倍以上増幅されている(東北地方太平洋沖地震の概要(地震と地震動)、リンク)。

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なお、周囲の建物に被害は少なかった。同社による2008年の現地写真を見ると、かなり脆弱そうな住宅も目につく(K-NET築館(MYG004)、リンク)。

(2)一般に建築物は極短周期の波では壊れないこと

簡単な説明は気象庁にもある(リンク)。原発の場合共振周波数は0.1秒前後と比較的短周期だが、これはよく言われるように、分厚いコンクリート建築、機器は太いボルトで強固に取り付けているから(剛構造)。加えて、短周期成分且つ最大加速度の継続時間が短いと、一般建築でさえ影響は軽微になるのだろう。

直感的には(特に建築物には)正しいと考える。仮に築館波で原発を加振しても、多くのサイトでは停止操作を妨げるような損傷が発生するとは思えない。

鉄道総研によると杭基礎を有する構造物の場合、地盤の動きが拘束され、入射される地震動が低減される効果があり、築館波の場合でも極短周期で最大50%程度減少するとしている(「耐震設計の静的解析における入力損失効果の評価法の開発」で検索すると成果物PDFをダウンロード出来る、ここではサマリーのURLをリンク)。

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原子力安全推進協会は米国の基準を援用し、0.1秒以下の固有周期が影響することは実質的にないとしている(10Hzを超える地震動成分と機械設備の健全性に関する考察、リンク)。

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鉄道構造物では現状、短周期成分が卓越することを前提に耐震設計することとされており、その点は原子力安全推進協会の主張とは異なるが、【2】の後半で例示したように、最大加速度に近い状態で長い時間揺れないと、脅威にはならないと考える。

【余談】

SNS上の情報拡散で気づいた問題点だが、一見情報を広く収集しながら不都合な情報には拒絶反応を示す内田川崎なるアカウントを確認したところ、twilogに樋口氏の主張をたっぷりRTした跡が残っていた。彼と親しい著名な運動家達も碌に言及をしていない。彼等にこの件でチェック能力を期待することは出来ないことを付記しておく。

※21/6/8:【2】中心に説明を修文。

2020年11月25日 (水)

コロラドこと牧田寛氏による私への根拠なき呟きについて

牧田寛氏とは20年6月に完全に袂を分かった。数日前Twitterでブロックをしてきたので、こちらもブロックで応じている。

私も時間を無駄にしたくないので、今後、特に牧田氏には関わらないようにしたいと思っているが、以下のような発言については要点を絞って記録し、訂正を加える。

私はTwilogを取っているが、そのような呟きは記録されていない。また、記憶になるがPCR原理主義に関した呟きも削除していない。


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また、PCRに肯定的な感想のみを持っていた頃はオノデキタ(小野俊一)氏のブログ、2020年夏にツイッターアカウント開設後は世界黒幕氏のTogetter(最新版のリンク)に書き込んだ。牧田氏を名指しで「PCR原理主義」と書いた記憶はなく、また、全てではないが再確認したが、そのような投稿記録も無かった。

なお、牧田氏を含む数名の知己とやり取りに使用していたメールアカウントにて「PCR原理主義」で検索したが、一言も記録されていない。

勿論こちらの記憶違いの可能性もあるが(これ重要)、「ばらまいている」となると、複数回の書き込みは必要ではないだろうか。

実は、Twitterでエゴサーチをすると「PCR原理主義」という言葉を使っている人達がたくさん見つかる。殆どは所謂検査抑制論者が、拡大論者を批判する文脈だった。岩田健太郎氏は「僕が「PCR」原理主義に反対する理由 幻想と欲望のコロナウイルス」という本を出している。

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通りで私が書く筈がない訳である。コロナ禍でPCR検査の効能を知ってから、抑制論者だったことはないからだ。世界150位というのは蔓延度合いが欧米ほどではないことを考慮しても少ないのでは?と素人なりに感じている。

200名以上が牧田氏の呟きに「いいね」をしたようだが、よく確認もしないリベラル派なのだろう(リベラルであっても私と親交のある人達を筆頭にいいねをしていない人も沢山いる)。

なお、牧田氏は世界黒幕氏に対して「Fukushima50と自称した」と以前から主張しているが、同氏は否定している。あなた本当に大丈夫?

【追記】ただし、「原子力・核に関する話題を提供するメルマガ」でありながら、コロナ特集が既配信号の半分近くを占めて発行を続けるなど、コロナに関して執着し、その中でPCR検査を猛烈にアピールし続ければ、批判は免れないだろう。そのことで「PCR原理主義」と呟く人も出てくるかもしれない。

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画像はゲゼルシャフトのサイトより。

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